一の糸
1964年6月〜1965年6月「文芸朝日」

文楽の三味線引きに惚れ込んだ茜の物語。
著者の、伝統芸能への造詣の深さが如実に現われた作品だ。
芸道一筋に打ち込む男と、その陰で健気に奮闘する女の姿が描かれている。

感想
 芸道一筋に生きる依怙地な男の陰になって生きる茜であるが、母と共に旅館業を営んでいることから、通常の陰の存在とは異なっている。お金持ちの我儘娘として育った茜が、継子の反抗にあって苦しむものの母の世喜の助力で乗り越えていく様は読ませる。本文より抜粋で取り上げた部分では、ちょっとホロリとさせられた。
 この作品は、分裂した文楽の「人形浄瑠璃」とは逆のグループが描かれているので、あわせて読むと味わい深いと思う。
あらすじ
 東京の富裕な商人の一人娘茜は眼病を患っていた時、父に連れて行かれた文楽で、清太郎(後に徳兵衛)の三味線の音色の虜になる。清太郎が男前であることを聞かされた所為かどうか、初めて芽生えた切ない思慕は、眼病を治す力にさえなる。父が清太郎たちを贔屓にしたので、家に来たり、時候の挨拶のような手紙のやり取りをするうち想いは募り、清太郎の巡業先へ一人で行ってしまう事件を起こす。傷物になって帰った娘を両親は歎くが、それほど好いた相手なら添わせてやろうと清太郎の師匠に連絡を取ると、なんと清太郎には妻がいた。
 困惑した両親は、家格は下がるものの良縁を探し、茜の嫁ぎ先を決めるが、父の急死で破談に。また雇い人の裏切りで店も畳むことになる。
 父の遺産で母娘は裕福な生活を送っていたが、目的のない日々に退屈し、母の発案で旅館を開業することに。忙しい生活を送っていたある日、常連客に連れられて、徳兵衛が旅館へやって来る。偶然の再会に驚く茜。徳兵衛は他日、一人で旅館を訪れ、妻を亡くしたことを告げ、茜を後添いに貰い受けたいと彼女の母に申し込む。四十を目前にして初恋の相手と結ばれた茜。生さぬ仲の子供9人の継母への反目は予想以上だが、母の助けでなんとか乗り越えて行く。
 一方、徳兵衛は芸道一筋。しかし時代の変遷に伴い、文楽は分裂。また彼が相三味線をずっと務めていた宇壺大夫が、新聞に連載中の芸談のなかで、徳兵衛の腕が先代に劣ると言ったことがきっかけで、徳兵衛は相方を辞めてしまい、文楽の舞台からも遠ざかってしまう。そんな徳兵衛の陰ではらはらと気を遣う茜。周囲のとりなしも功を奏することなく、徳兵衛が文楽に出演するのは、数年後の、彼が仕込んだ春大夫との共演になる。
 だが、公演の最終日、徳兵衛は三味線と撥を握ったまま、心臓麻痺で急死してしまう。最後まで意地を張り続けた徳兵衛と宇壺大夫であったが、徳兵衛の葬儀に宇壺大夫が姿を見せた。茜は夫の死後、初めて滂沱と涙を流すのであった。
本文より抜粋
 子供たちの部屋から、急に世喜の凛々とした声が聞えてきたので茜ははっとして水を流す手を止めた。そう云えば今日に限って世喜が後片付けを手伝いに来ていない。
 「弓次郎さん、お子さんたちの前であなたに伺いたいことがございます」
 茜は耳を澄ましたが自分の胸の動機の方が大きく聞えてくる。
 「和雄さんが亡くなられたのは茜の不始末なのでございましょうか。もしあなたがそうお考えなら、私どもに一言もございませんから、お詫びを致させました上で茜は去らして頂きます。私が東京へ連れて戻ります」
 茜も息を呑んでいたが、子供たちも世喜の迫力には圧倒されて呼吸もできないでいたことだろう。しばらく何も聞えなかった。
 「申し訳ございません」
 徳兵衛は畳に両手をついて、世喜に頭を下げていた。
 「茜に不足はございません。自分が産んだのでもない子供に、よう尽くしてくれたと感謝しております。子供がそれをええことにして勝手していたのは私も知っとります。そんな育ちでもないのに、茜はよう我慢してくれています。ただ・・・・・・私が取乱してましたんです。和雄が死んだのは寿命でおます。誰の所為でもあるわけはおまへん。強いて云うなら私が芸にかまけていたのと、子供が茜に内緒にしたのが原因かもしれません。茜の不始末やなんどとは夢にも思うてまへなんだ。しかし、茜もさぞ辛い思いをしてますやろう、言葉もかけてやれなんだのは私の不始末でおました。お母さまにまで御心配かけて、ええ齢して面目もおまへん。お許しください」
 無口で口下手とばかり思っていたのに、そして今まで茜に感謝らしい感謝の言葉も洩らしたことはなかったのに、徳兵衛が世喜に対する詫びと挨拶を盗み聞いて、茜はもう怺えきれなかった。全身の力が抜け、台所の湿った床板の上に崩折れると、茜は顔を掩い、声をあげて哭き出していた。
 気がつくと、いつの間にか子供たちが、茜のまわりで皿小鉢を洗ったり拭いたりし始めていた。
 (注:弓次郎は徳兵衛の本名)
収録書籍*〜*〜*
『一の糸』新潮社・新潮文庫・新潮社有吉佐和子選集第1期第10巻
参考情報*〜*〜*

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