不信のとき
1967年1〜12月「日経新聞」

妻にはバレていないと、高をくくって情事に励む夫たち。
コトが発覚してしまったとき、彼らはどう対処することができるのか。
甘く見ていた女たちから、反撃の狼煙があがる。女には痛快で、男には恐怖の名作。

感想
 色男ぶって、いい気になって女遊びをしていた男たちがギャフンと言わされる。解説者がこの作品を評して「社会的な視野に立った人道主義的な話」と言っているが、そんな大げさなものではないと思う。笑い話である。浅井と小柳老人の立場では悲劇だけど。いつも通り著者の人間観察眼の鋭さが随所に光り、リアリティを感じた。
 愛人と子供の存在が妻にバレてどうなるかと思いきや、浅井は“先天性無精子症”だったという、素晴らしいどんでん返しが用意されている。さらに、うまくやっていた小柳老人までが、妻に捨てられるという不幸な結末。
 やはり、戯れに恋をしてはいけないのである。そしてタダより高いものはないのである。マチ子は初めのうち浅井に何も求めなかったのに、浅井の方がそんな彼女に気を良くして、責任を持つなんて言ってしまったから、結局、追い詰められることになってしまったという話は、柳美里の『命』(こちらは実話)とそっくりである。人間誰しも、自分に都合の良い様に解釈しているものだ。
 それにしても、男って人が好いよね。女は馬鹿だけど、甘く見ない方が身のためだという著者の暖かいメッセージが伝わってくる。
あらすじ
 ある晩、小柳老人は浅井を新宿2丁目のヌードスタジオに案内する。二人は銀座で飲みなおすことにするが、小柳は、マユミという女の子が気になり、新宿へ戻る。残った浅井は、マチ子というホステスをタクシーで送って行くことにし、その晩、関係を持ってしまう。
 関係を持っても、マチ子は何も要求せず、前から好きだったのだと言われ、浅井は虜になって行く。マチ子が浅井の子供を産みたいと言うのに戸惑いながらも、後先考えず、子供を産ませてしまう。妻には子供ができなかったので、初めて父親になった浅井は嬉々とし、子供のためにできることはするからと約束してしまう。
 ところが、道子にも子供が出来てしまったのだ。複雑な心境の浅井は、郷里に帰っているマチ子に手紙も書けなくなってしまう。そんな浅井の様子を心配して、マチ子が予定より早く東京へ帰ってくると、二人の関係は再燃。
 浅井は会社でも部長に出世し、自宅には男の子が生まれ、妻の道子は書家として名をあげつつあって家計も豊か。マチ子という愛人と可愛い女の子もいて、彼の人生は順風満帆であった。しかし、彼が盲腸で入院した際、見舞いに来たマチ子と妻が会ってしまい、子供の存在もバレてしまう。
 退院の日が来ても、誰も迎えにも来ない。一人寂しく自宅へ帰り、妻に頭を下げ、マチ子に産ませた子供の責任は取らねばと言うと、妻はその子供は浅井の子供ではないと言う。浅井は“先天性無精子症”で、妻が産んだ子は人工授精だと言うのだ。
 茫然自失の浅井。マチ子からは、子供に対する責任を取って三百万円をくれと言われる。あまりのことに、自分は“先天性無精子症”だから子供の父親ではありえないのだと打ちあけると、マチ子は酷い逃げ口上だと逆上してしまう。ホステス業に復帰しているマチ子は、顧客である浅井の会社の役員に相談を持ちかけ、浅井は、退職金の前借をしてマチ子へ渡すようにと上役から諭される。しかし自分の子ではない、マチ子から裏切られていたのだ、と思っている浅井は、決断できずにいる。下手な言い訳をして、結果、信用まで失ってしまう。
 四面楚歌の浅井は、最後の頼みの綱と小柳老人へ連絡するが、小柳自身も困った立場に追い込まれていた。マユミに子供を産ませたまではいいが、若い彼女は子供と老人の相手をする生活に嫌気がさし、子供を小柳の老妻の許へ置いて家出してしまったのだ。小柳は老妻からも愛想をつかされ、マユミに産ませた子供と二人、家に取り残されてしまう。
本文より抜粋

*小柳老人と老妻の会話*

 絶句している小柳老人の前で、勝代は丁寧に両手をついて挨拶をした。
「長い間いろいろな苦労をさせて頂きましたが、おかげさまで私は子供にも嫁にも恵まれましたからここらで失礼させて頂きます」
「おい、お前それはどういう意味だ」
「この齢で離婚という華やかなことをしても似合いませんしねえ、食べるに困らないように一郎がしてくれてありますから、まあ別居ですね」
「ど、どこへ行くんだ」
「一郎と良子が一緒に暮らさないかと云ってくれました。私はあなたに従うより、良子さんと仲良くやる方が、ずっと幸せだということに気がついたんです。良子さんは一郎があなたのような真似をしないように、お母さまも一緒に監督して下さいって、そんな云い方をしてくれてるんですよ」
「女の浅智恵だ。嫁と姑が一つところに住んでうまくいくものか」
「うまくいかなくなっても、この家であの子を育てる世話をするよりは楽な我慢だと思いますよ。母親に捨てられたというのに、ママッ、ママッって親を慕ってまあ泣き喚いて、私は見ていられませんでしたよ。お菓子を食べさせたり、おうどんを食べさせたり、なだめたり、すかしたり、私は半日で疲れ果てました。孫の世話なら、ともかくも、いやですよ、そんなことはもう」
「勝代、ともかく今夜は出て行かないでくれ。頼む。どんなことでも謝るから」
「いいえ。あの子に情でも移ったら、私はそれこそ、おしまいですからねえ。あなたの後始末で一生を終るより、もっと明るく暮らしたいんですよ、私は」
 江美が目をさましたらしく、爆発するように泣き始めた。それをしおに勝代は立上がった。
「それじゃ、あなたもお身体お大事に」
「か、勝代、待ってくれ」
「あなたの子供さんが泣いてますよ。行っておあげなさいよ。可哀想に、あの声が聞えないんですか?」
収録書籍*〜*〜*
『不信のとき』新潮社・新潮文庫・新潮社有吉佐和子選集第1期第12巻
参考情報*〜*〜*
「不信のとき」鑑賞の記録

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