日高川
1965年1〜10月「週刊文春」

和歌山県を流れる日高川。その源流に涌く龍神温泉を舞台として物語が始まる。
ヒロイン知世子の姿を通して、女の情念というものが、道成寺に伝わる安珍清姫の伝承と絡めて描かれた名作。

感想
 有吉作品としては、最も官能的なものではないだろうか。知世子を突然に抱き、去ってしまった三郎。「何故抱いたのか、何故戻ってこないのか」を知りたいという気持ち、自分の手に取り戻したいという欲求は、歳月と共に凝り固まり、知世子はその執着に正直に行動する。その行為は誉められたものではないが、思い通りに生きてみたからこそ納得し、過去に決別し、現在の幸福を実感することができている。
 三郎に纏わりつくような、知世子の情念の凄まじさは胸が悪くなる程であるが、彼女のあまりにも前向きにひたむきに生きる姿は、読後にかえって爽快感を与えてくれる。心理描写も見事な作品である。
あらすじ
 幼い頃両親を亡くした知世子は、古くからある温泉旅館で女主人:深雪に育てられる。
 第二次大戦末期、深雪の危篤をきっかけに再会した、幼馴染の知世子と三郎は、日高川の辺で結ばれてしまう。以来、将来を約する言葉を待ち続ける知世子に対し、出征して行った三郎からは何の音沙汰もない。
 月日が流れ、深雪に請われるまま、知世子は多聞と結婚し、二人の子の母となるが、三郎への思慕を断ち切ることはできずにいる。(多聞は深雪の兄の孫で、温泉旅館の主)穏やかで優しい夫を得て、子育てに家業にと精を出す知世子であったが、時代の変遷もあって、山奥の旅館業には飽き足らなくなり、町へ出て、模造アクセサリーを作るプラスチック工場の経営に乗り出す。
 そして、その仕事で初めてひとり上京した知世子は、銀座で、偶然にも三郎と再会を果たすことになる。二人は、彼女が上京するたびに情事を繰り返すように。
 やがて破綻は思いがけない形でやって来るが、知世子には後悔の気持ちはない。むしろ、三郎とのことがあったからこそ、遣り甲斐のある仕事をつかみ、また多聞との穏やかな幸せに気付くことができたと思うのであった。
本文より抜粋

深雪の言葉より

「安珍清姫の物語を知ってますの」・・・「あの清姫が安珍を追うて蛇になったというのは、日高の女が情熱的やという話の引合いに必ず出ますが、あの考え方は違うてます」・・・「私は、安珍と清姫の仲は、男女の間柄としては不充分なものやったのやないかと思うんですわ。男は女が居て自然、女は男が居て自然。それが自然やないところに、清姫は悶えたんやろと思うんです。・・・女は男に執念巻きつけて生きるのが本然のあり方で、そやけど私はそれを分散して生きてきました。大黒屋の守りと・・・知世さんやの、吾が子でないものを育てることで執念を分散させてましたんやの。
・・・もし安珍が大黒屋の客になって、私とねんごろになっていたら、私はきっと逃げた男なら追うたと思います。執念を巻きつけ足りなんだら、清姫でのうても女はそうなりますのや。男と違うて女にはトコトンまで突き詰めてみようという強いものがありますさか。清姫もそうやったのですやろ。執念を巻きつけ足らんというのは、別の言葉で云えば諦めるところまで行かなんで、未練が残っているということですさか。諦めるというのは、仏教では明らかにするという意味で、何もかも分かってしまうことを云うんですよ。私はとうど男というものを明らかにせずじまいで死ぬのですさか、今はともかく、未練たっぷりの時代には傍迷惑なことであったろうと思いますわ。・・・」

*知世子とあい駒(芸者)との会話*

「誰でも追いかけてみたいという気はあるけれど、なかなか実行困難でしょう、いざとなると。そやから清姫の話は人気があるんかしらね、あい駒さん」
「さあ、誰でも蛇になって追いかけているのに、当人が気がついてェへんというだけのことやないかいな。女は誰かて鱗を持ってますがな」
「そうかしらねえ」
「奥さんの齢ではまだ分かりまへんやろ。私らこの齢になってようやく、あの時は蛇になってたと気がつくのですさかい」
「・・・」
「若いうちは追われたことばかり勲章やと思うてますけれども、齢とってから思い出すのは、追われたことより追うたことですわ。それはもう細々したことまで忘れてェへんもんですわ」
「積極的に恋をしたのなら、空しいことはないんですね」
「いいええな」
・・・・・・・・
「色事は追うているうちが花ですわ。清姫も日高川を渡るときが頂上ですやろな。追いついてしもうたら、詰まらん、詰まらん」
「どうして詰まらなくなるのかしら」
「目的がありませんよってにの、色事には」

*知世子の心理描写*

どうしたことか知世子は、道成寺の境内で独りで酔っていた老妓を、深雪と結びつけて思い出していた。あい駒の言葉もまた示唆に盈ちていたからだろうか。処女のまま老い朽ちた深雪と、女の限りを尽くして老いた芸者と、その二人の女の生き方の中に知世子は自分がいるのを見ないわけにはいかない。
お婆さん、執念は巻ききっても味気ないものですわ。ただ巻きつけようと努力している間がやはり値打ちなのでしょうねえ。
三郎に出遭うことがなかったら、山を降りて町で工場を経営したり、東京へ東京へと目標をかかげて遮二無二働く気持ちも持たずに、大黒屋の中で自分の勝気な性格を多聞への不満に固めて黝ませ、ひどく詰まらなく年をとったのではなかったかという気がする。東京で三郎に再会したのは、いわば駄足だったとさえ思うのだ。
しかし、もはや過ぎてしまったことに後悔はなかった。女の執念がどんなにどす黒いものであったとしても、子供がいればいつかそれを洗い上げられてしまう。清姫に子供がいたら、彼女は蛇にはならなかっただろう。そして知世子が蛇にならなかったのは、三郎に再会するという機会を避けなかったからだという気もした。再会しなかったなら、今でも知世子の心の中では三郎への思慕が瘤のように固くなって、今の幸福には気がつかなかったかもしれない。
収録書籍*〜*〜*
『日高川』文藝春秋新社
参考情報*〜*〜*

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