針 女
1969年4月〜1970年12月「主婦の友」

戦中・戦後を縫い子として生きる清子の話。
同じ家で育った弘一と想いを寄せ合っていたが、それを知ったのは彼が出征して行った後のこと。
清子の姿を通して、戦争の傷跡の深さを描き出した作品である。

感想
 戦争というのは、人がたくさん死ぬだけではない。多くの人生に影響を及ぼすのだとしみじみ感じる。弘一は生還したが、どこかおかしくなってしまっている。母親のお幸もそんな息子を心配しておかしくなってしまう。しかし、死んだ戦友の手記(きけわだつみのこえ)が女子供に読まれることに怒りを爆発させたことにより、初めて彼に戦後が訪れるのである。弘一がノートに書き残したように、二人ともが「愛のミイラ」になってしまっていたのだ。暴力をふるい、ふるわれることによって、ようやく覚醒したのではないかと思った。
 それぞれが苦しい気持ちをかかえて、それでも前進を始めなければならなかったのが戦後だったのだ。戦争が遠い昔になってしまった今でも、この作品が教えてくれるものは少なくないと思う。
あらすじ
 両親を早くに亡くした清子は、東京の下町で仕立屋を営んでいる三五郎とお幸夫婦の許で成長した。18歳の今は、幼い頃から仕込まれた針仕事で三五郎の手伝いをしているが、戦時中で、新しい着物を仕立てる仕事はめっきり減り、もんぺを縫うくらいのものである。
 三五郎夫婦には帝大に通う一人息子:弘一がいるが、戦争も終盤に入り、学徒動員で戦地に赴くことに。入隊通知が届いた日、清子は誤って針を踏んでしまい、片足が不自由になってしまう。清子を家族同然に可愛がって来ただけに、三五郎夫婦は清子になんと声をかけたものか分らず、困惑する。
 弘一が出征して後、東京が空襲に遭うようになって、弘一の書物を防空壕へ避難させているとき、清子は1冊のノートを発見し、密かに自分の荷物にしまい込む。ノートには弘一の清子への想いが綴られていたのだ。しかし死にに行く男が愛を告げることはできないと、娼婦を買った体験が克明に記録された内容を読み、弘一に思慕を寄せていた清子は複雑な想いに囚われる。
 空襲で焼け出されたものの、三五郎夫婦と清子は無事に終戦を迎える。三五郎は闇屋の手伝いをして生活費を稼ぐようになり、清子は縫い子として働き始める。清子は雇い主から間借りの話を聞き、三五郎たちに相談すると、お幸は、清子がそうしたければ彼女だけ移ればよいと言う。自分たちは弘一を待つ必要があるが、清子には何の関係もないのだからと言われ、家族同然とも思って来た清子はショックを受ける。
 やがて弘一が無事に帰還した日、清子は黙って家を出て行く。清子は商才のある河野夫人に付いて、パンパンのドレスを縫う手伝いをするように。河野夫人は着々と事業を拡大し、洋裁学院を経営するまでになる。三五郎とお幸はしばしば清子の住まいを訪れたが、弘一が来ることはなかった。久しぶりに会ったのは、三五郎が亡くなった時であった。
 どういうわけか、両親から清子の住まいを知らさせることがなかった弘一は、ある日、自分で探してやって来る。清子は嬉しくもあるが、弘一の虚ろな話し振りに暗澹とした気持ちになってしまう。以来、弘一はしばしば立ち寄るようになった。
 一方、お幸も清子の許を訪れては、弘一の結婚の心配などを口走るが、彼が清子の家に来ることがあろうとは思ってもいない様子。清子もわざわざ告げることはしなかったのに、ひょんなことから知れてしまう。興奮したお幸は、河野夫人にあることないこと告げ口するが、河野夫人は清子を信じてくれ、弘一に執着がないのなら、学院の方へ住まいを移すよう助言してくれる。
 お幸が何を言ったのか知らない清子は、弘一のこともあって、心を決めかねている。その晩、弘一がやってきて二人は結ばれるが、直後、お幸が踏み込んできて大騒ぎとなる。すんでのところで逃げおおせた弘一は、翌日もやって来た。清子が先行きのことを相談すると、彼女の自由だといい、結婚など考えてもいないと言う。そんな時にまたお幸に踏み込まれ、ようやく引っ越す決意をする。
 河野夫人にそのことを言いに行った帰り道に購入した『きけわだつみのこえ』を読んでいると、また弘一が来る。何を読んでいたかを知って急に怒り出した弘一は、清子に暴力を振るい、飛び出して行ってしまう。その後、冷静になったお幸が謝りに来て、弘一はどうなってしまうのだろうと相談する。
 清子はお幸には答えなかったが、彼女を殴った時から、弘一は立ち直り始めるのではないかと思っている。そして清子自身も、その時から生き返ったのだと確信するのであった。
本文より抜粋
 青年は、死んだのだ。弘一も、そして清子も。
 あの戦争で死ななかった人たちというのは、たとえば目の前にいる河野夫人とか、これからこのドレスを着て颯爽と二世と結婚する世津子のような人たちで、この人たちは戦争で多くの生命が失われ、日本が戦争に負けたという事実を、もう忘れてしまっている。「きけわだつみのこえ」などという本を、この人たちは決して読むことはないだろう。
 弘一に対して、しかし・・・清子はすがすがしい思い出を持っていた。焼け跡へ帰ってきた弘一は、へらへらとした口調で果てしもなく南洋の空と星について語ったり、親が死んだというのに清子の身体を馴れ馴れしく抱き上げて階段を上がったり、三五郎の亡骸の前でも酒を呷ったり、そして窓から入ってきて清子を抱きしめたあと、母親が踏み込めば窓から外へ飛び出してしまうという、正体の崩れた男になっていて、お幸の不安を掻きたてるのはもっとももだと思われたが、それらの数々が思い出せてもなお、清子には弘一が許せるものがあった。それは戦没学生の手記を読んでいる清子を、やにわに撲りつけ、足蹴にしたことである。そのときは驚いたけれど、生きて帰ってきた学徒兵は、死んだ戦友の手記が女子供に読まれることにたまらない嫌悪を感じるのだろうと、清子には察しがついたし、あの時暴力をふるった弘一が、なぜだか頼もしい気がしていた。総てが再び美しくなるような予感がする。
 清子を撲った時点から、弘一はひょっとすると息を吹き返すのかもしれない。いや、必ず彼は生き返るに違いない。それが清子にはどうしてだか確信ができた。同時に清子自身も弘一に蹴られた時点から生き返っているのだという確信があった。
収録書籍*〜*〜*
『針女』新潮社・新潮文庫・新潮社有吉佐和子選集第2期第6巻
参考情報*〜*〜*

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