| 芝 桜 |
| 1969年1月〜1970年4月「週刊新潮」 |
芸者ではあるが、生真面目に生きる正子を、彼女とは正反対な性格の蔦代との対比の中に描く。
二人の芸者の生き様を、全盛期の花柳界を舞台に、興味深く読ませてくれる名作。連作に『木瓜の花』がある。
| 感想 |
| まったく蔦代という女は嫌な奴で、正子とともに、蔦代に始終腹を立てつつ読む本であった。でも蔦代は正子が好きなんだなあ、本当に。 しかし花柳界というのは不思議な世界。今はもうこんなことはないのだろうけど、金のある男から絞れるだけ搾り取るような仕組みができていたのだと感心するやら、呆れるやら。 アカ狩りのときに姿を消した山田という男のその後が気になるが、わからないままにしてあるのが、実話のようで効果的ではある。 “本文より抜粋”に紹介したようなちょっと笑えるシーンなども盛り込まれ、面白い。また著者の着物に対する深い造詣が感じられ、細部も行き届いた傑作である。 |
| あらすじ |
| 正子と蔦代は、東京のとある花柳界の同じ芸者屋の雛奴。蔦代は常に正子にくっついていて「友達だから」といつも言っているが、潔癖な正子の性格では、ずるがしこく要領のいい蔦代に我慢がならないことも少なくない。 正子は江藤という恵まれた旦那を持つようになるが、歌舞伎役者の仙七に夢中になり、二人は将来結婚することを夢見るようになる。それを江藤の前で隠しもしないが、江藤は若い正子を、源氏の君が葵上を見るような心境でいるので面白くてたまらない。しかし数年経っても収まらず、正子が芸者を辞め、いよいよ仙七と結婚する気配を見せると、さすがに蔑ろにされたと思い、苦りきってしまう。 そんな江藤に対し、蔦代が二人を別れさせる策があると言う。蔦代に任せた結果、正子は仙七とあっさり別れることになっただけでなく、江藤とは較べものにならない小物の株屋と電撃結婚してしまう。仙七に未練はなかったが、蔦代たちの策略と知り、正子は蔦代と絶交する。 しかし江藤の予想通り、この結婚は長くは続かなかった。小森のために財産を使い果たした正子であったが、保持していた津川家の看板が高額で売れることになり、四谷に小さな宿屋:喜村を開業する。 そこに昔の朋輩が訪ねて来る。あることで困りきった彼女は、蔦代が頭が上がらないと言っている正子にとりなしを頼むのだった。仕方なく、蔦代の許へ出向くと、蔦代は大喜びで迎え、昔のような付き合いが復活することになってしまう。 喜村は主の懸命の努力によって繁盛するように。ある時、始めたばかりの頃からの客である山田という男と、正子は深い仲になる。しかし彼は共産党員らしい。アカ狩りがますます盛んになってきて、彼は姿を消してしまう。無事であれば電話をするとの言葉も空しく、音信不通に。 戦争が本格的になると、家を焼かれてしまった蔦代が正子の許に身を寄せるようになる。それまで幾度か正子が絶交を宣言しては、蔦代がなし崩し的に出入りするようになるということが続いていたが、焼け出されたのでは追い出すわけにもいかない。喜村は運良く空襲も免れ、終戦を迎えることが出来た。 蔦代も新しい家と待合を建て直し、正子のところから女中と顧客の一部を引き抜いて、出て行ってしまう。ようやく元の静けさのもどった喜村で、これでやっと蔦代と断絶できるとホッとしながら、正子は庭先の芝桜を見るのであった。 |
| 本文より抜粋 |
| 「奥さん、木村正子というひとはいますかって、アメリカさんが玄関に」 「えッ?」 正子はびっくりして咄嗟にあの一件だと思った。立ち上がると急いで帯を解きながら女中に布団を敷かせた。蔦代は病気だということで、留置場から帰ってきたのだから、正子も病人らしくエンピーの前をつくろわなければならないと咄嗟に考えついたからである。 「丁寧に御案内するのよ」 枕に頭をつけて、さてこれから先はどうしたものかと思案していると、カーキ色の制服を着たアメリカ人が、蚊とんぼのような長い脚で入ってきて、敷居際で布製の帽子をとり、 「ハロー、マサコサン」 と言った。 正子は英語が分らないから、それだけでお前が木村正子かと訊かれたと思ってしまい、 「はい、私が木村正子です。イエス、イエス」 と急いで言った。アメリカ人を呼んで日本料理を食べさせる客もあったから、正子もカタコトは覚えている。 女中が急いで座布団をすすめ、アメリカの男は長い脚を折り曲げて横坐りになり、ぺらぺらと喋り出したが、正子にはさっぱり分らない。 「ちょっと、英語の分るひとはついてきてなかったの?通訳なしで来たの、このひとは?分るひとを探してきてよ」 女中たちは慌てふためいて英語の分る人間を探しに飛び出して行ってしまった。 部屋に二人きりになると、男は片手を出して正子の手を握り、いよいよ口早に喋り続け、握手がアメリカの挨拶と思っていた正子も、どうも様子が違っているようだと気がついたとき、アメリカの男は掛布団に手をかけて、中に入っていいかと訊いているらしい。そんなことは万国共通の素振りや眼つきで分るから、正子は、 「ノー、ノー、冗談じゃありませんよ」 飛び上がって相手を払いのけた。 そこへ女中が近所から学生をひっぱってきて、これが大変に緊張した顔で、私が通訳しましょうか(メイ・アイ・ヘルプ・ユー)と申し出てくれた。学生の英語は実用向きのものではなくて、最初は手間どったが、何度もききかえせば話はごく単純なことだったからすぐに通じた。 「あなたが好きだと言ってるんですがね」 「おかしなことを言うじゃないの。このひとエンピーじゃなかったの?」 「MPではありませんって。前に佐藤さんと一緒にこの家に来たことが二度あると言ってます」 「あらいやだ、お客様だったの。どうも変だと思ったわよ。白人はみんな同じ顔だから分りやしない。私はてっきりエンピーだと思ったから寝てるところに通したんだのに、それじゃ誤解されても仕様がないわね。分るように言って頂戴よ」 「MPだと思ったと言うんですか」 「いいえ、違うわよ。病気だから、また別の日に来て下さいって言って頂戴よ。それに私は、そんな相手をする女じゃないって、はっきり釘をさしといて」 女中も手伝ってアメリカ人を追い返してしまってから、しばらく家中で大笑いになった。 「あのアメリカさんは奥さんを好きでやってきたんでしょう?手土産持ってきたんですものね」 「寝ているところに通しては一番いけないお客だったのに、わざわざ布団にもぐって迎えたんだから、向こうも驚いたでしょうよ」 「言いよったんですか、奥さん」 「どうもそうらしかった。掛布団を持ってね、入っていいかみたいなこと訊くんだもの、私はびっくりしてね」 いつまでも笑いが止まらない。・・・それにしてもこの齢になってアメリカ兵に言いよられるとは、正子にとって思いがけなかった。 |
| 収録書籍*〜*〜* |
| 『芝桜』上・下巻 新潮社・新潮文庫・新潮社有吉佐和子選集第2期第4・5巻 |
| 参考情報*〜*〜* |
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