木瓜の花
1972年6月〜1973年5月「読売新聞」

『芝桜』の主人公、正子と蔦代のその後を描いた作品。
旅館の女将として堅実な仕事に精を出し、幸せをつかもうと健気に生きる正子の姿が胸に迫る。
トラブルメーカー蔦代も健在である。

感想
 『芝桜』の続編であるが、これだけ読んでも話はわかるようになっている。正子も蔦代も歳をとったが、二人の性格の違いは相変わらず。この作品は会話が多いので、二人のやり取りが実に面白い。
 正子は60歳になるというのに、湧井という40代の男を好きになってしまう。60代になっても、恋愛感情なんて持てるものなんだろうか?いいなあ、若々しくて。昔の恋人三延が、自分を振った正子を見返してやろうと芸に精進したと語るくだりは、ちょっと感動的だった。
 一人で懸命に仕事に生きて来た正子だけど、最後のシーンはとっても切ない。蔦代の生き方を肯定することもできないが、では正子の生き方はどうなのかと考えさせられてしまった。
あらすじ
 正子が経営する割烹旅館:喜村には、マスコミ関係の客が増えている。ある日、昔の恋人:山田にそっくりな男をそういった客の中に見つけ、正子は胸をときめかす。ところが同じ日、蔦代の母が足袋はだしで、正子の店に飛び込んでくる。蔦代の母は惚けてしまい、自分の娘も思い出せないのに、正子のことを覚えているのであった。蔦代に強引に頼み込まれ、旅館の一室を蔦代の母と看護婦に貸すことになってしまい、10年以上も会うことのなかった蔦代とふたたび付き合うことに。そして蔦代は、ことあるごとに丹精をこめた木瓜などの盆栽を持ち込むようになり、蔦代に手を焼いた人は、また、正子に仲介を頼みに来るようになる。
 山田に似た男は湧井といい、すっかり常連になっていた。ある日、正子はボリショイ・バレエの公演に誘われる。正子は大喜びで着物を新調し、美容院にも出かけ、当日を迎える。バレエを鑑賞した後、お茶漬けでもと自分の店に誘う。正子と湧井の間に、何かが生まれそうな気配。そんな時に、蔦代の母が急死してしまったのだ。またしても蔦代に頼み込まれ、葬儀まで、正子の店で行うことに。
 そんなことがあって、しばらく姿を見せない湧井のことが正子は気になり、バレエのお礼にと、歌舞伎の公演に誘うことにする。湧井の都合で日程が二転三転した挙句、見ることになったものは、若い頃に恋仲だった仙七、今は三延の舞台であった。昔の恋人が立派な役者になって舞い踊る姿を正子は感動して観ていたが、湧井が海外へしばらく行くことになったと聞かされ、ショックを受ける。
 幕間になると三延からの使いの者が来て、お祝いのお礼がしたいから、楽屋へ寄って欲しいと言う。お礼とは盆栽で、蔦代が勝手にやったことと正子は察したが、喜んでいる相手にそうとは言えず、番頭まで出てきて頼むので、仕方なく湧井とともに楽屋へ顔を出す。楽屋では三延の点てたお茶を振舞われ、茶道具にことよせて、三延は正子への想いを断ち切った折の話をするのであった。それは感動的ではあったが、湧井と正子の間にも茶が入ってしまう。
 湧井が旅立つ日が来て、正子は羽田に見送りに行く。そこでバレエの時にも見かけた山田一子といっしょになる。彼女も湧井を見送りに来ていたのだ。正子は湧井と一子の間柄を訝るが、一子は湧井が正子のことを好きなんじゃないかと言う。
 しばらくすると、居を定めた湧井から手紙が届くようになり、正子は日本の味を集めて送ってあげたりする。彼と手紙のやり取りをするうち、すっかり気分の若返った正子は、蔦代に誘われて、昔日本髪を結っていたせいでできた禿を取る手術をすることにした。そこに届いた湧井からの手紙には、彼の正子への想いが綴られていたのだった。
 ところがある日、山田一子が喜村の玄関に飛び込んできて、湧井が事故死したと新聞に出ていると言って泣き喚く。なんと彼女は湧井の子を妊娠中で、それは彼女が湧井を強姦してつくったのだと言う。正子も少なからぬショックを受けていたのだが、いっしょに涙するどころではない。彼女が帰って、やっとしみじみと湧井を思っていると、三延からおくやみとのことで胡蝶蘭が届く。またしても蔦代の仕業と思い、正子はまた絶交を決意する。
 その晩、湧井と懇意であったマスコミ関係の客たちから、いっしょに飲みに行こうと誘われる。彼らは湧井は正子が好きだったのだと言い、飲み歩くバアでも、ママから同様の話をされる。飲みすぎて正体不明になった正子は、気がつくと、蔦代に介抱されていたのだった。
本文より抜粋

*舞台を見た後で、正子と湧井が三延から茶の接待を受けるシーン*

 茶を服み終って仕舞にかかって、茶器拝見の順がくると、後見が茶入と茶杓を持って湧井の前に置いた。
「これは、なんですか」
「茶入でございます。棗の代わりに使います」
 茶杓は尋常な竹製のものだったが、茶入の方はどう見ても普通の茶器ではなかった。
・・・・・
「その茶入には謂わくがございますんですよ。銘は不足と申しますんです」
「不足?」
・・・・・
「・・・実はお恥ずかしい話をするようですが、この茶入は私が茶器に直しましたもので、元は安待合に置いてあった湯呑なんでございますよ。若い頃のことでございますがねえ、ずっと昔の。私にも女がありまして命がけで惚れてましたが、こういう世界の男には結婚も千山萬水の苦労でして、なかなか思うようにいきません。その頃の私が意気地のない男だったせいもあって、その女に振り飛ばされてしまったんです」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 湧井はぽかんとして聞いているが、正子は耳に釘を打ちこまれるようだった。
「振られていながら未練が断てず、女を待ち続けてその湯飲みで番茶ばかりがぶがぶ飲んでました。私は御酒の方は若い頃からいけませんのです」
「ははあ」
「いよいよ女が来ないと分って、夜も白む頃ですよ、私も男だ、もう未練は自分で断とうと思いまして、でも断ち切れずに持って帰ったのが、その湯呑です。長い間、茶をやりますまではそれを湯呑に使っては、いつも煮え湯を呑みましてね、立派な役者になるより他に、その女を見返す法はないと思いましたよ、はい。私が今日までの山や谷で、その女と別れたのが一つの峰でございますね。湧井先生、今では恨みも何もございませんよ。時がたちますと何もかも有りがたいものに変わってしまいます」
「いいお話ですね」
「六代目さんが亡くなります前に、よく色紙を頼まれると、まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで、という句をお書きでした。そこで私も六代目さんにあやかりたくて、まだまだ足りぬという意味で、その湯呑に不足という銘をつけて頂きまして、象牙の蓋をつけまして茶入に致しましたんです」
・・・・・
 二人が話しあっている間、正子は茶入を手にとって黙って眺めていた。若い日、仙七だった三延はこの湯呑を握りしめて正子を待っていたのか−−−。
・・・・・
 正子は、言った。
「それにしても、なんて幸せなお湯呑でしょうねえ。私がこのお湯呑だったら、不足どころか今日は大満足をしていると思いますよ。河村屋さん、今日のお祝いに改名なさっては如何です」
収録書籍*〜*〜*
『木瓜の花』上・下巻 新潮社・新潮文庫・新潮社有吉佐和子選集第2期第9・10巻
参考情報*〜*〜*

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