芽 鱗
1959年7月「文学界」

戦後の、日本がまだ貧しかった時代の若い夫婦の苦闘が描かれた作品。

感想
 予定外の妊娠で、中絶を決めたものの悶々としていたのが、産もうと決断した途端におこりが落ちたように気分がすっきり前向きになる様子を、寒い季節に芽を守っている芽鱗になぞらえて描かれた佳作。中絶が一般的であったようで、そのことに驚いてしまった。たいへんな時代だったんだなと思った。
あらすじ
 民子と正己は、結婚して3年目の夫婦。職場の同僚で、お互いが一家の生計を担っているという共通点から親しくなった。結婚しても、共働きでそれぞれの家族を養う生活には変りがなかった。しかし狭い正己の実家に同居し、姑との確執もあったことから、経済的には苦しくなるが、思い切って粗末なアパートを見つけて移ることにした。
 ようやく訪れた甘い新婚生活を楽しみ、お互いの弟妹が学校を卒業したら、自分たちも子供が持てそうだと計画を立てていた。ところが、民子が妊娠してしまったのだ。民子が仕事を辞めることはできないため、勤務先から借金をして中絶することにする。
 割り切って考えていたつもりなのに、民子も正己も、産みたいのに産めない状況に苛立ちを感じ始める。夫婦関係もギクシャクし、正己は退社後、実家へ足を向ける。そして民子が妊娠していることを、思わず母親に告げてしまう。喜ぶ母親に、正己は産むことはできないのだと話し、言い争いになって、実家へ来たことを後悔する羽目に。
 自宅へ帰り、お互いの苛立ちを反省し、和やかな雰囲気で床につくと間もなく、正己の母が突然やってくる。そして自分が家政婦として働くから、子供を産むようにと言うが、若い夫婦は聞き入れようとしない。がっかりして帰ろうとした母は、アパートの階段を落ちてしまう。母が、転んだのが民子でなくて良かったと言うのを聞いた民子と正己は、突然、子供を産むことを決意する。案外なんとかなるのではないかと楽観するようになった正己。5月の爽やかな風が、冬の間、芽を守っていた芽鱗を舞わせていた。
本文より抜粋
・・・妊娠中絶をすることについて、民子も母親もひどく拘泥すると思ったものだが、一番拘泥していたのは自分ではなかったかと反省したのだった。
 ともかく、気がすんだという思いが強い。子供を産めば、それに付随して家族にかかる経済的、肉体的な負担は嵩むのが見えるようだったが、それを覚悟してしまった今は、案外やればそれほど辛くない将来が来るのではないかと楽観している。
収録書籍*〜*〜*
『祈祷』講談社
参考情報*〜*〜*

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