祈 祷
1959年2月「文学界」

被爆者である道子とその家族の姿を描いた作品。
原爆の被害の大きさを実感させ、誰もが平和への祈りを捧げたくなる名作である。

感想
 原爆に対する怒りがテーマになっており、それがごく普通の日常生活を通して描かれているので、その悲惨さが身に迫ってくるようだ。最後、ホッとしたあまりか、被爆者としての自らの悲劇に耐え難いものを感じてか、号泣する道子のシーンではいっしょに泣きたくなる。泣くしかないのだもの。
あらすじ
 終戦以降、窮乏生活を余儀なくされている宮田家。長男の輝一が、初めて恋人を家に連れてくる。戦争で家族を亡くしたという道子は色白の可憐な娘で、母親のたかも気に入る。しかし、道子は被爆者なのであった。泣いて反対する母親を押し切り、結婚する二人。
 同居生活が始まり、ありふれた嫁と姑の確執も、たかには道子の体に対する遠慮があり直には小言のひとつも言えない。そういうたかの気配りが、逆に道子には負担になってしまう。陰にこもった争いが深刻さを増していたある日、道子が妊娠したことが告げられる。毎週輸血が必要な道子に、たかは密に自らの血液を提供してまで無事な出産を祈る。
 誠が生まれて数年、道子もすっかり馴染んだ宮田家。誠は、ハーモニカを土産にもらえば、喜んで終日吹き鳴らし、親に心配をかけるほど元気な子供に成長していた。
 そんな中で起きた急な発熱。高熱は続き、往診した医者も原因がはっきり判らないと言う。理由不明の病気に、大人たちは深刻さを増す一方。しかし数日後、急に熱は下がり始めた。
 知恵熱だったのだとたかは思い、こんなことでこれほど家中が深刻になってしまうのかと、初めて道子の底知れぬ悲しみに思い至る。
 数日振りに聞こえたハーモニカの音色に、道子が突然、声を上げて泣き出した。
本文より抜粋
 水道の水を音たてて出しながら、流しの前を離れない道子の後姿を見守って、たかは道子の心の奥底にある悲しみを始めて見透すことができた。戦争を憎むという月並の言葉は、そのときたかの念頭には浮ばなかった。が、たかは幼児をもおびやかす兇器を誰よりも激しく憎んでいた。この憎しみと怒りとは、孫の誠を生き続けさせるためにも消してはならないものであった。
 道子が水道の蛇口を止めた。静かになった家の中に、通りで正月の挨拶をしている人々の、のどかな声が幽かに聞こえてくる。と、二階から、もっと密かにハーモニカの音が流れ出した。
「まあ、政二ったら、あんなことさせて」
 たかが言葉に出して階段の方をのぞきみた。付添人の不注意を怒るより、ハーモニカを吹く気の出た誠の回復を喜んでいるのは口調で知れた。
 一緒に耳を澄まして聞いていた道子が、家中の箸を拭いている最中、急に床に崩れた。
 発作が起こったか、とたかは息を呑んだが、次の瞬間道子は泣き出したのである。看病の間は一度も一滴の涙も見せずに青白い顔で誠を凝視していた道子が、声をあげて泣いている。嗚咽している。
 ともに泣くことも、二階のハーモニカを止めることも、どちらも思いつかずに、たかは同じ台所の一隅で皿を掴んだまま茫然としていた。
収録書籍*〜*〜*
『祈祷』講談社 新潮社有吉佐和子選集第1期第9巻『ぷえるとりこ日記』
『美っつい庵主さん』新潮文庫 新鋭文学叢書9『有吉佐和子集』筑摩書房
参考情報*〜*〜*

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