有吉佐和子の中国レポート
1978年1月〜1979年2月「週刊新潮」

有吉さんが5度目に中国を訪れたときの体験記である。
中国要人に信用があるからこそ入り込むことができた、人民公社での生活がレポートされている貴重な作品。

感想
 この本を読むと、有吉さんが中国の要人と如何に親しく付き合って来たかが分る。彼女の新しい中国を応援する気持ちが強いから、それが中国側の人々にも伝わるのだろう。有吉さんが今回の旅に期待した人民公社での三同生活の実現は難しかったが、しかし彼女が入り込んだほどには誰も成し得なかったに違いない。
 私は中国にとても興味があったので、文化大革命関係の本を通して北京などに住む文化人たちがどんな悲惨な目に遭ったかはかなり読んだのだが、このレポートで初めて農村での生活が向上していることを知ったように思う。率直で大胆な有吉さんの態度はとてもユーモラスでもあり、20年前の作品とはいえ、興味深く面白い本である。 『複合汚染』を読んでからの方が理解しやすいと思った。
あらすじ
 1978年6月、5度目の訪中である。文化大革命で消息不明になっていた人々も、その多くが名誉を回復されており、空港にどれだけの人が出迎えてくれるのか楽しみであったが、孫平化氏や通訳を含む数名しか来てくれない。しかも事前に「外国人の入ったことのない人民公社で、三同生活(同じ屋根の下で寝て、同じ食事を取り、同じ労働をすること)をする」という打ち合わせを済ませて来たのに、孫氏は気のない様子で「今回は中国で何をしたいか」などと聞く。何かが起きているのだと不審に思っていると、著者が北京空港へ着陸した1時間後に郭沫若氏が亡くなったことを知らされる。出迎えに来てくれるはずだった人々は郭氏の枕頭に集まっていたのだと不審は解けたが、しかしまだ廖承志氏の話が出ないことが不思議でならない。
 翌日からは、次々と宿舎を訪れてくれる友人達と旧交を温め、ようやく人民公社へと旅立つ。
 西舗も沙石峪もとんでもなく貧しいところと聞いていたが、行ってみると各戸にラジオもミシンもあり、預金さえあり、食料も余るほどあると聞かされる。文化大革命で都会がたいへんなことになっている間も、農村は着々と発展してきたのだと知る。しかし沙石峪は「移山」がこの村のスローガンで、元は土のないところに人海戦術で土を運んで畑を作ったそうだ。現代にも愚公がいたのかと驚嘆。農業について説明を受けていて、ここがまだDDTなどの農薬を使用していることを知り、黙っていられなくなり、農薬や化学肥料の有毒性を口走ってしまったことから、後日、農業の専門家を集めて講演することになってしまう。『複合汚染』で扱った材料をDDTと化学肥料に絞って話すと、反応はすばらしく、口々に感謝された。
 北京へ戻ると今度は公害の講演を依頼され、農業の汚染問題に絞るということで引き受ける。そして心配していた廖承志氏がやはり病気であると知らされるが、ようやく危機を脱したようで胸をなでおろす。
 しばらく休養して、すっかり元気になった通訳とともに、東北部の人民公社を訪れる。その中の五三人民公社で話を聞くうち、ここが世界で最初にDDTの使用を止めていたことを知り、感動する。
 次は広州へ向かい、廖承志氏を見舞った後、ホテルを拠点に人民公社を幾つか見学する。38度もの暑さが連日続き悲鳴をあげる。そんな中、冷房完備と聞き、講演会の依頼をまた受けることに。ここで訪れた人民公社では、単にDDTなどの農薬は高すぎて採算が合わないから使っていないと言い、中国は広いとしみじみ感じる。
 上海では文革で散り散りになっていた作家達がようやく戻っていた。彼らに会った後は、またひとつでも多くの人民公社を見たいと、気温が61度もある周西人民公社等へも出かけた。
 最終日、上海空港で通訳の張光珮女史と別れの握手を交わすと、彼女はこれから自分の教え子達を集め、複合汚染の教育をすると言う。今回の旅はよき理解者に恵まれたと、感激を新たにしたことであった。
本文より抜粋

*元地主の家族(嫁)とのシーン*

「日本でも三十年ばかり前に農地解放がありました。私は大地主の孫娘なのです」
 通訳が、これを中国語にして郭夫人に伝えたとき、彼女の態度は一変した。
 彼女は私に両手を差しのべ、私の右手首と、左肘を力強く握りしめた。
 彼女は何も言わなかった。しかし、喰い入るように私を見詰めている彼女の両眼から涙があふれていた。この沈黙ほど、雄弁な言葉はなかった。私は感動し、彼女の視線を見詰め返した。
 ・・・・・
 通訳の必要はなかった。言葉の必要な場合ではなかった。日本の農地解放は占領軍の指令によって行われたが、日本の農村では地主が悪徳分子だという思想教育は行われなかった。

*后牧生産大隊にて*

 戦前の中国を知っている人たちに、
「とにかく乞食がいませんよ」
 と言うと、
「えッ、本当ですか。蝿がいなくなったってよく聞くけど、乞食がいなくなったなんて、ちょっと信じられないですねえ」
 と首を捻る日本人が多い。私は解放後の中国しか知らないものだから、こういう人と出会うと、その人の見た中国について一生懸命聞くことにしている。
「今はもう私たちでさえ昔のことが信じられません」
 と中国の人たちも、よく言う。
 韓さんも、
「今は、すっかり違っています。・・・・・」
 次々と昔と違う今の現状を言う。
 途中で通訳の張さんが、
「保育所もタダ、家賃もタダ、電気代もタダ、医療費もタダよ。私たち北京で働いていると、保育所に子供預けるのにお金払う。家賃払う、電気代も払うよ」
「野菜も買うでしょう」
「そうだ、みんな買う。ここは食物も大体タダ。農村が貧乏というの、昔のことよ。私たちより条件いいもの」
 と溜息をついた。

*上海空港で張光珮女史との別れ*

「あなたは今日北京に帰るの?」
「いいえ、私は明日、帰ります。今日は夕方から、私の教え子が集まって学習することになっています」
「ああそう、何の学習?」
「複合汚染」
「えッ?」
「講演会のメモは、みんな取ってあります。私は有吉さんと全く同じように話すことが出来ます」
「張さん、あなたは!」
「これ大事なこと、本当よ。中国人は早く知らなければならない。中国の農民は、どこでもみんな喜んでいた。私の教え子は数が多い。みんな中国のあっちこっちへ行ったり、農村にもよく行きます。知識は早くひろめなければならない。大事なこと、本当よ。そうでしょう?」
 張さんはもはや通訳としてではなく、北京大学の教師となって、泰然自若たるものであった。
「大丈夫よ。一つも間違えず話しますから、心配しないで下さい。私の教え子は、みんな優秀、本当よ。だから、必ず理解します。安心して下さい」
 飛行機が離陸しても長い間、私は茫然としていた。二時間後、大阪空港に着陸するというアナウンスが聞こえたとき、私は改めて張さんの言葉に感動した。いい人を通訳に選んでくれていたと、唐家セン氏に対する感謝がわき起こっていた。
収録書籍*〜*〜*
『有吉佐和子の中国レポート』新潮社・新潮文庫
参考情報*〜*〜*

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