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Leafヴェルディ 「アイーダ」 (2000年8月10日〜2000年9月7日の日記より)


ナイルの畔の「愛の死」

 ワーグナーのドイツに「愛の死」があるのなら、当然、本家本元の愛の国イタリアにだって「愛の死」があります。ヴェルディの「アイーダ」です。

  1869年、地中海から紅海を経てインド洋に至るスエズ運河が完成、とっても喜んだエジプトの太守様はおめでたついでにカイロにオペラ座を建設、こけら落としに自前のオペラが欲しくなりました。選ばれたのはイタリア・オペラの大御所、ジュゼッペ・ヴェルディ。フランスのエジプト学者マリエットの原作を元にギスランツォーニが仕上げた台本を読んだヴェルディ、ノリノリで仕事を始めたものの、何しろ舞台が遠くのエジプトで分からないことだらけです。ヴェルディは必死に資料を読み漁り、試行錯誤を繰り返し、おかげでこけら落としには間に合わなくなって(代わりに「リゴレット」が上演されました)しまいましたが、生まれたのは彼の作品中最高のスペクタクル大作「アイーダ」、絢爛豪華なイタリア版「愛の死」です。

 古代エジプトが舞台というエキゾチックなこの作品、何度聴いても思うのは「これ、どこがエジプトなんだ?」ということ。どこから見ても、どう聴いても、隅から隅まで「イタリア」しているんです。物語の主題はエジプトの若き将軍ラダメスと奴隷(実は敵国エチオピアの王女様)アイーダの恋、愛し合っているこの二人にやはりラダメスを愛しているエジプト王女アムネリスが絡んでの壮絶な三角関係とその結果の恋人達の死です。古代エジプトの王は人間ではなくて神でした。神様は人間なんかと結婚できないので近親婚が当たり前。第一、女性にだって立派に王位継承権がありました。ラダメスが王女アムネリスのところに婿入りして王位を継承するなんて、そんな話があるわけない。せいぜいがとこ王女様の愛人にしてもらって可愛がって貰う、高い地位につけて貰うくらいが関の山です(何しろイシス女神の国、女性は強かったのです)。ですからアムネリスがアイーダに嫉妬するなんてこともあり得ない。相手は奴隷(ってことになっている)ですよ、気に入らなかったら首ちょん切ってそれでお終いです。物語の設定自体、古代エジプトというには無理があります。

 外国が舞台のオペラとなると、その地の音楽を使って雰囲気を盛り上げるのが常です。プッチーニは、「蝶々夫人」では日本の、「トゥーランドット」では中国の旋律を巧みに織り込んでいます。しかし、真っ向勝負の男ヴェルディはそんなことはしません。自分で作っちゃった、というか、作ろうとしたのです。半音階を多用し、それぞれに振られたテーマを繰り返し様々なバリエーションで登場させ、お得意のパワフルな合唱の和音に知恵を絞り、ラッパまで工夫し(アイーダ・トランペット)・・・ているのですが、これがどこから聴いてもイタリア音楽以外の何物でもありません。これなら古代ローマが舞台でもいいんでない?と思うのですが、ま、スポンサーがスポンサーですから仕方ないですね。
 
 物語の舞台はどこだっていいのです。テーベだってローマだって、どこか遠くの未知の国だって構いません。たいていド派手な演出となるこのオペラ(上演にかかる費用は最高ランクだと思います)、豪華な舞台装置を楽しむのもいいですし、凱旋シーンのスペクタクルを楽しむのもいいですし、キンキラ衣装を身にまとったお気に入りの歌手に見とれるものいいでしょう。でも小さい頃に教わりましたよね?何でも外見で判断してはいけませんと。派手な演出に奪われた目を取り返して聴いてみれば、その豊穣な音はヴェルディが苦闘の末に編み出したイタリア・オペラの「これぞ決定版!」というべき端正な文法で書かれているのが分かります。民族の対立、宗教の対立という、今でも人間が解決することのできない大きな問題が正面から見据えられています。国家権力を前にして一歩も後に退かない男の愛があります。死ぬことで自分の意志を貫こうとする女の愛があります。何でも手に入るのにただ一人の男の愛が得られないゆえの女の苦悩があります。そのスケールの壮大さ、ヴェルディはとうとう頂上に立ったのだ・・・そう思える作品です。

 象徴とメタファーを駆使し、聴く者を深い泉の底に引きずり込むようなワグナーの「愛の死」は、聴く人間を自然と内省に誘います。それに対してヴェルディの描く「愛の死」は、あくまでも色彩豊かなイタリア流です。


第一幕 「忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」
 
 たおやかなアイーダの愛のテーマ、その優しく寂しい旋律を荘重なオーケストラが押し潰します。ヴェルディらしい骨太な展開の前奏曲、アイーダの愛は運命にかき消されまいと懸命に抵抗します。

 神官の長ランフィスと若き将軍ラダメスの会話、エチオピア軍が再び侵攻してきた、イシス神(イシスは女神、オシリスの妻でありホルスの母です。エジプトではファラオは「生けるホルス」とされていますので、イシスは王の母でもある国家の守護神です)のお告げによって討伐の指揮官が選ばれた・・・。ラダメスの夢は指揮官に選ばれ、勝利し、奴隷であるアイーダとの結婚を許してもらうこと。名アリア「清らかなアイーダ」、幕が開いた途端にこれを歌うことになるわけで、テノールにとってはつらいところです。もしも私が選ばれたなら、きっと勝利しよう、アイーダ、君のために勝ったのだと!君の額に王冠を載せ(ラダメスはアイーダが本当はエチオピアの王女様であることを知りません)、君の玉座を高く昇らせて、清らかなアイーダ、君は私の心の女王・・・。とても美しいアリアですが、ラダメスの幼さも見えています。愛する男から女王様扱いされて、玉座に座らされて高く昇らせてもらって、それで女はうれしいものなのか?ラダメスのこのアリアには、オトナの男としての愛よりも、美しい女性を崇拝し一途に憧れる少年のような感情が伺えます。それにエチオピアはアイーダの祖国なのです。王女様とは知らなくてもその祖国を倒して彼女は喜ぶか?恋する若者の一途な情熱は時に身勝手なもの、勇壮に始まり、若々しく清潔な旋律に続く、青春の匂いのしそうなアリアです。ラダメスに恋する王女アムネリス登場、なにやら興奮しているラダメスにカマをかけます、ひょっとして他の女を愛しているのか?ラダメスは必死のポーカーフェイスですが、こと恋にかけてはいつだって女が上手、バレバレです。アイーダが登場し、祖国の運命を嘆きますが、アムネリスはそれがラダメスへの愛ゆえだと見抜きます。奴隷の分際で!三者三様の心の乱れ、複雑に絡み合った三重唱(「おいでなさい、もっとこちらへ」)が火花を散らします。

 エジプト王が登場、斥候の報告によればエチオピア軍を率いるのはアモナスロ王自身、そしてイシス神によって選ばれた討伐の指揮官はラダメス!父と恋人が戦火を交える、アイーダの心は引き裂かれそう。これで願いが叶う、待っててくれ、アイーダ!と勇み立つラダメス。ヴェルディの作品中でも力強さで際立つ合唱が響きわたります、「勝ちて帰れ」!。自分の愛を呪うアイーダ、皆殺しだ!(おいおい、ちっとはアイーダのことも考えろ)とラダメス、彼に軍旗を授けるアムネリス、主演3人が声を全開にして織りなすのは、絶望、野心、そして愛。アイーダのアリア「勝ちて帰れ」・・・私は何てことを・・・、ラダメスが勝てば父が死ぬ、囚われの奴隷(しかし、何で王女様が捕虜になる?エチオピアは王女様も従軍するのか?)のこの私を愛してくれるラダメスを失うなんて、では父を、祖国を裏切るのか?私は何を祈ればいいの?エジプトでのアイーダは全て「虚」です。身分も名前も(私はアイーダというのは偽名ではないかと疑っています。アイーダとはギリシャの名前で、エチオピアの王女様に相応しい名前ではないんです)全部ウソ、故郷を離れひとりぼっち、よりどころはラダメスの愛だけです。本来の王女様であれば「棺桶に入って帰れ!」と歌うところを「勝ちて帰れ!」と叫んでしまった・・・、このアリアは、ラダメスの「清らかなアイーダ」に対する返歌でしょう。勝って帰って、そして私をその手に抱いて・・・無意識に出た叫び、アイーダはこの時点で王女様を降りています。ただ、彼女はそれを認めることができないのです。引き裂かれる自己を孤独なアイーダはたった一人で受け止めなければなりません。アイーダの叫びはラダメスに届くのか・・・。

 神官たち、そして巫女たちの勝利の祈願が行われます(ここでヴェルディは何とかオリエント調を出そうと悪戦苦闘しています)。ラダメスはランフィスから聖なる剣を授けられ、エジプトの大地を守りたまえと祈ります。厳かにして悲壮感を漂わせる合唱、全能のフターよ、この聖なる大地の守護神よ!・・・出陣前のラダメスに水を差すようで申し訳ないのですが、祈る相手間違えてない?フター(またはプター)は職人の神様です。国の守護神イシスに選ばれたラダメスが何で職人の神様に戦勝祈願をする?彼がこれからやるのは戦争であって大工仕事じゃない、祈るならセクメト(雌ライオンの頭を持った戦いの女神です)だろうが。これでラダメス、勝てるのか?


第二幕 「逢ふ事の絶えてしなくばなかなかに人をも身をも恨みざらまし」
 
 祈る相手を間違えちゃったにしては、ラダメス率いるエジプト軍は大勝利。祝勝会を控えてアムネリスはおめかしをしています。女声コーラスの優しい響きにアムネリスのテーマが絡み、なかなか美しい場面です。祖国の敗戦を知って悲しむアイーダ。それを見つめるアムネリスの心に渦巻く疑惑、この女、ラダメスを愛しているのでは・・・。王女様だって恋すればただの女、疑惑と嫉妬は美容の大敵、恋する女を醜くします。「お前と一緒に悲しみましょう」、優しい言葉の影には毒蛇が隠れています。「お前の苦しみも恋が癒してくれるわ」、恋!アイーダの憂いはその恋ゆえです。ラダメスが父を撃ち破った、私はラダメスを愛する奴隷なのか、祖国を愛する王女なのか・・・、アイーダの動揺をアムネリスが見逃すはずがありません。恋する女の観察力を侮ってはいけない。「何を隠している?」、アムネリスはアイーダに罠を仕掛けます。「我が将軍ラダメスはお前の国の人間に殺されたのよ」、なんてこと!「一生泣き続けます!」、アムネリスが輪を引き絞ります。「嘘よ、ラダメスは生きている」、思わず神に感謝するアイーダ、アムネリスの疑惑は的中しました。「ラダメスを愛しているのね!奴隷の分際で、私は王女よ!」、それをいうなら私だって!と女の火花が一瞬飛ぶのですが、アイーダは我に返ります。身元がばれたらただでは済まない。私に逆らう気?、お許しを。この二重唱はまさに女の戦いです。

 さて、有名な凱旋の場です。演出家の夢(ド派手にかましたる!)、即ち制作者の悪夢(お金が・・・)の場面です。舞台の床が抜けるんじゃないかと心配になる巨大セット、延々と続く兵士の行進、パワフルな合唱、そしてバレエ。イタリア・オペラの満漢全席といったところ、たらふく召し上がって下さい。意気揚々と登場するラダメスに続いて力無くうなだれてエチオピア軍の捕虜たち、その中にアモナスロ王の姿が・・・「パパ!」走り寄るアイーダ、驚くラダメス。アモナスロは身分を明かすなと娘に命じます。しかし、王女様の次は王様が捕虜になって、しかも捕まえたエジプト軍がそれに気づかない、こいつらいったいどんな戦争やってんでしょうね?それに続く捕虜たちの慈悲を求める合唱がとてもきれいです。皆殺しを叫ぶランフィスと神官たち、それに負けじと捕虜の釈放を求めるアイーダ、そのアイーダを見つめるラダメスは必死の女の美しさに心を打たれます。それを見逃すアムネリスじゃない、「二人して私をコケにする気?許さないから!」。ラダメスは王に捕虜釈放を求めます。だって、勝ったら何でも願いを聞いてくれるって言ったじゃないですかぁ。エジプト王は安全保障のためにアモナスロを残し、あとの捕虜を釈放します。たった一人の命で安全保障を確立するにはよほどの重要人物でなければなりません。古来、国家間での人質というのはそういうものです。この連中は何も分かっていないくせして偶然にも最適の人物を選びました。イシス女神は偉大です。皆殺し神官と英雄ラダメスの間を何とか丸めて一安心のエジプト王は、「アムネリスをお前の嫁に遣わそう、お前はこの国を治めるのだ(どうだ、うれしいだろ?)」、私の勝ちよ!とアイーダを見下ろすアムネリス、ラダメスは私を忘れるわ、とアイーダ。しかし一番ショックなのは当のラダメスでしょう。そんな、話が違うじゃないか〜。彼は一回こっきりのお願いのチャンス、アイーダとの結婚を許してもらうためのチャンスを、父にすがるアイーダの姿を見て捕虜のために使ってしまったのです。勇敢な将軍ラダメスは同時に恋する若者なのです。愛する人の涙が何よりもつらかったのです。しかし、状況判断を誤る、シミュレーションができない、切り札投入のタイミングを間違える指揮官、これでよく勝てたものです。ま、相手は王様が捕虜になるような軍隊ですから、ちょうど釣り合っていたのでしょう。

 頭を抱え込むラダメス、打ちひしがれるアイーダ、勝ち誇るアムネリス、復讐を誓うアモナスロ、そして大合唱、ここぞとばかりにヴェルディの壮大なアンサンブルが響き渡ります。


第三幕 「巡りあひて見しや夫ともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな」
 
 イシスの神殿を砂漠の月が青白く照らしています。アムネリスとランフィスが登場、ラダメスとの結婚式を明日に控えて神殿で祈りの一夜を過ごそうというのです。「私がラダメスに心を捧げるように、ラダメスも私に心を与えてくれるよう」、アイーダからラダメスを勝ち取ったアムネリスも彼の心だけはどうしようもありません。祈るしかないのです。

 アイーダが現れます。ここでラダメスと逢うことになっているのです。しかし、なんだって選りに選ってアムネリスの籠もっているイシス神殿の前なんかでデートする?他にいくらでも場所はあるだろうに。アイーダのアリア「我が故郷」、もしもラダメスが別れを告げるなら、このナイルを私の墓にしよう、もう二度と故郷の青空を見ることがないなんて・・・アイーダはラダメスを失ったら死んでしまおうと決意しています。あれほど焦がれていた故郷さえラダメスの愛の前には色褪せる、彼女は既に王女ではなくただの恋する女なのです。ラダメスを失って王女として生きるよりも、このまま奴隷として死のう、このアイーダの切ない思いは父によって打ち砕かれます。隠れていたアモナスロ登場(大事な人質が勝手に歩き回っている、というよりこの時点で脱走してしまっているようです。私としてはエジプト軍は無能揃いと判断せざるを得ません)、「ここでラダメスと逢うつもりだな」。故郷も王座も、そしてラダメスもお前次第だ、そう、お前がエジプト軍の針路さえ聞き出してくれれば。アモナスロは娘にスパイをやらせようというのです。王女ではなく恋する女であるアイーダに対し、アモナスロは父ではなく国王として迫ります。そんなことできないと必死で抵抗するアイーダに、無情な父の言葉、いえ国王の命令が降り注ぎます(「薫る森、爽やかな谷間」)。「死者が立ち上がり、お前を指さして叫ぶだろう、お前のために祖国は死んだと」あまりにも酷い脅し文句です。実の父親とは思えません。権力とは、ここまで冷酷なものなのでしょうか。アイーダは押し切られてしまいます。

 ラダメス登場、君一人を愛していると熱く迫りますが、アイーダは嘘をつかないで、と悲しく答えます(「やっと逢えた、愛しいアイーダ」)。「エチオピアが再び蜂起した。私は今一度勝利を手にして国王に君との仲を認めてもらう!」、あのね、ラダメス、結婚式明日でしょ?事態が分かってる?もう一回勝ってまたお願いを聞いてもらう?まったく何悠長なこと言ってんだか・・・。およそ非現実的なことを口走っているラダメスにアイーダがすがります。そんなことできるはずがない、それより一緒に逃げましょう!遠くの未知の国で世の中なんて忘れて・・・。このアイーダの言葉は本心です。父に言われたから誘っているのではありません。彼女は王女としてではなく、一人の女として必死なのです。ラダメスのおよそ現実味のない計画では二人は決して結ばれはしない、「私の国では愛は自由よ」、この私の国とはエチオピアではなく、アイーダの心の中にしかない未知の希望の国なのです。アイーダはこの時点で祖国も父も捨てました。しかし、ラダメスは国を、宗教を、栄光を捨てることができません。絡み合う声と声、誘う女と躊躇う男のせめぎ合いは、アイーダの決定的な一言で勝負がつきます、「ならば私と父を殺して!」。その言葉にラダメスは決意します、一緒に逃げよう・・・、でも、どこへ逃げるの?、ナパタの谷、あそこには誰もいない・・・聞いたぞとアモナスロ登場(何で登場するんでしょうね?黙って立ち去ればそれでいいのに)。アイーダの父、そしてエチオピア国王と名乗りを上げます。嘘だ、夢だ、妄想だ!と大混乱のラダメスをアイーダが必死に抱きしめます、「私を信じて!」、「私は名誉を失った、国を売ってしまった!」

 神殿の外のこの大騒ぎにアムネリスとランフィスが登場します。ラダメスの心が欲しい一心でイシスに祈っていたというのに、その目の前でラダメスはアイーダと密会し、軍の機密情報を漏らしてしまいました。「裏切り者!」ラダメスは、アモナスロとアイーダを逃がし、自分は囚われることを選びます。なぜ一緒に逃げない?たとえ愛のためとはいえ、祖国を裏切った自分が、ラダメスは許せないのです。アムネリスもランフィスもエジプト王も許してくれないでしょうが、それ以上に自分で自分が許せないのです。この辺りラダメスはいかにもヴェルディらしい硬骨漢です(プッチーニだったら絶対に一緒に逃げていると思う)。冷たい月の光の下、ラダメスは自分の命を黙って差し出します。「神官殿、私を捕らえて下さい」、力強く誇らしげですらある高音、ラダメスの心はもう決まっているのです。


第四幕 「あらざらむ此世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」
 
 アムネリスは致命的な過ちを犯しました。王女とはいえ一人の女、恋するラダメスを一途に求めたアムネリス、その心が手に入らないことに苛立った彼女は、ラダメスの裏切りを大声で詰り、冷酷なランフィスを土俵に上げてしまいました。ラダメスの心ばかりか命まで失おうとしている・・・いえ、心が手に入らないならラダメスなんて要らない、違う、たとえ私を愛してくれなくてもラダメスに生きて欲しい、いえ、アイーダに渡すくらいならいっそ、でもそのアイーダはもういない・・・混乱したアムネリスは最後の望みを当のラダメスに託します。衛兵に連れてこられたラダメスは不思議と落ち着き払っています。その落ち着きがさらにアムネリスを追い詰めます。

 二重唱「運命を決する司祭たちが」、私ならあなたの命を救えると迫るアムネリスに対するラダメスの態度は不可解という他ありません。「私は軍の秘密を漏らした、でも名誉は潔白です」「では弁明しなさい」「いやです」「死んでもいいの?」「生きているのがいやなのです」、ラダメスは名誉を失った!と進んで囚われの身となったのに、潔白だと言うのです。そして潔白であるにも関わらず死ぬと言うのです。彼は生命に対する執着を失っています。その醒めた態度がアムネリスに恐怖を感じさせます。「生きて!私のために、祖国も、王座も、命も、あなたに差し上げます!」、ラダメスにはアムネリスのくれるものなど何の値打ちもありません。彼には、不名誉を背負ってアイーダのいない世界で生きる方が死刑よりもつらいのです。「アイーダは生きています!」このアムネリスの言葉は彼女の捨て身の愛の告白です。エジプトの将軍とエチオピアの王女の恋、あるいは王女に愛された男と奴隷の恋・・・所詮この恋は最初から無理なものだったのです。アムネリスも、アイーダもそれを知っていました、ただラダメスだけがそれが分からなかった。二人の王女の憂いと苦悩をよそに一途に恋したこの若者は、彼の恋が許されないものであるとやっと理解したのでしょう。「アイーダを忘れて、そうすれば命だけは助かるわ」と迫るアムネリスに対して、ラダメスはいとも簡単に命を捨てると言い放ちます。恋かさもなくば死か・・・ラダメスの頑固さは彼の若さゆえでしょう。

 裁判の様子を聞きながらアムネリスは苦悩します(「神の御霊よ」)。私が彼の命を神官どもに投げ与えてしまった、あの冷酷な連中は彼を殺してしまうわ。苦しむ彼女とは対照的にラダメスは一切口を開きません。もう死ぬと決めてしまっています。そして当然に死刑の判決、神殿の地下、重い石の下の墓所に生きながら閉じ込められる・・・アムネリスは、得意気に「裏切り者」と唱えているランフィスに対して「血に飢えた獣め、呪われよ!」と叫びます。彼女は権力の本質を理解しました。権力とは自己の保身と増殖のためには個人など平気で抹殺するものなのです。アムネリスの悲劇は彼女自身がその権力の一部であるということです(アイーダは既に利己的な権力から自由ですが)。

 地下の墓所に閉じ込められ、一人死を待つラダメスの考えることは愛しいアイーダのことだけ、そんな彼の目の前にアイーダが、幻か?・・・あなたをここで待っていたの、一緒に死にたいの・・・、何とかアイーダを助けようと力任せに石を押すラダメス、恋する男の必死の願いも相手が石では通じません。「さよなら大地、さよなら涙の谷」「天は私たちに扉を開いている」、一緒に死ぬことに恍惚とする二人の声にアムネリスの祈りが重なります、「安らかに眠られよ」・・・、権力によってラダメスを得て、権力によってラダメスを失ったアムネリス、彼女は運命を受け入れます。権力の前には愛など、命など、何の力も持たないのです。アイーダとラダメスは最初から死ぬほかなかったのです。彼らが死の運命を受け入れたように、アムネリスは権力そのものとして生きる自分を受け入れます。冷たい石を隔ててそれぞれの運命が交錯します。
 そして静かに息絶える恋人たち・・・美しい光景ですが、一つ大きな疑問が残ってしまいました。つまり、アイーダ、どこから入った?入ったところから出ていけばいいのではなかろうか?


権力と愛
 
 このオペラのテーマは何か?アイーダとラダメスの悲恋の陰には何が隠れているのか?・・・、「アイーダ」のテーマは実は「権力と愛の対立」です。このオペラを聴いてまず感じることは、登場人物に本来的に備わった顔がないということです。性格付けがところどころで分裂しています。

 アイーダは憂いに満ちて登場し、ラダメスへの許されない愛を嘆き、故郷を想います。アイーダの悲しみは、彼女の置かれた境遇から生まれたものです。アムネリスは王女である自分をことある毎に誇示します。自分の美しさ、あるいは聡明さではなく、自分の権力によって愛を得ようとします。彼女たち二人はポジとネガの関係にあります。どちらも王女、ただ置かれた境遇が違うだけ、立場が入れ替われば、アイーダが高慢にアムネリスを見下すという展開になります。彼女たちの性格は本来のものではなく境遇によって与えられたものなのです。このポジとネガの二人を繋ぐ接点となるラダメスは、登場するといきなり戦いの予感に高ぶり、勝利によって得られるであろうアイーダの愛と名誉を歌います。しかし、彼の愛と名誉は全く相反するものです。彼が名誉を手にすればするほど、奴隷であるアイーダとの愛は困難を増してしまうわけですが、彼はそれを自覚していません。自覚していて当然だと思うのですが・・・。

 アイーダとラダメスは「個」として存在するのではなく「愛」として存在しているのです。この愛と対立するもの、それが権力です。ランフィスはラダメスに指揮官としての名誉を与え、彼が裏切った途端にその名誉を剥ぎ取り死を命じます。第一幕で「ラダメス!」と神託を告げたその同じ声が、第四幕の裁判の場で「ラダメス!」と彼を責め立てます。アモナスロは第三幕での娘との二重唱で全く「父性」を感じさせません。残酷な言葉でアイーダを非難し、スパイ行為を強要します。捕虜の釈放を要求したあの慈悲を求める声で、娘の恋を踏みにじります。このランフィスとアモナスロは、それぞれ権力の冷酷さを体現しています。
 アイーダとアムネリスは同じ男を愛します。彼女たちは合わせ鏡に反対に映っただけの同じ存在ですから、同じ男を愛するのは当然の構図です。ラダメスは、困難な状況にもかかわらずアイーダを愛することに何のためらいもありません。彼はただの一度もアムネリス(=権力)に目を向けません。権力には目もくれない彼がなぜ戦いでの名誉を求めるのか?彼は権力から与えられる褒美としてアイーダを望んでいます。この時点でラダメスは既に二律背反に陥っています。国を離れ囚われの身であるアイーダは、権力の呪縛から逃れ、命懸けでラダメスを愛します。彼女はラダメスへの愛が同時に王女としての自分を否定することを自覚しています。このアイーダの自己否定が結局は彼女を墓の中に導くことになります。アムネリスは、権力によって一旦は手に入れたかに見えたラダメスを、その権力によって失います。アムネリスには「愛」があっても「愛し方」が分からないのです。

 愛と権力が対峙した時、いったいどちらが強いのか?愛など権力の前にはあっけなく砕け散ります。それが愛の本質なのです。権力は魅力的です。権力が差し出すもの、名誉、地位、お金、全て人が皆望むものばかりです。では愛は何を差し出すのか?愛はそれ自身を供します。愛すること、愛されることの歓びに優るものはないと愛は主張します。それ自身を供する以上、権力と対峙した愛が行き着く先は死です。アイーダとラダメスは、権力が強いた運命に対して、死ぬ以外に対抗するすべを持ちません。死だけが愛を救うのです。アイーダは終始潜在的に死を求めています。ラダメスを愛したアイーダにはもうどこにも帰る場所がないのです。故郷に帰ればラダメスを失い、ラダメスを求めれば祖国と父を失う・・・、アイーダは最初からアイデンティティを持たない「孤児」なのです。ですからアモナスロが彼女に対して父の優しさを与えないのは当然ということになります。アイーダには死の国こそが唯一の希望の祖国なのです。そしてアムネリス、権力の座にありながら、愛が自由にならない彼女の悲劇はアイーダよりももっと酷い。嫉妬から愛する男を追い詰め、弁明して自分を救ってという願いを拒絶され、「彼女を忘れて、そうすれば命を助けます」(ここにいる私が、あなたを愛している私が見えないの?)という捨て身の愛も受け入れられないアムネリスは、自分の招いた恐ろしい結果に苛まれます。冷酷に「死刑だ」を繰り返すランフィスにアムネリスは権力の本当の姿を見ます。そして恐ろしいことにそれは彼女自身、彼女もまた権力なのです。自分の愛と自分の権力が矛盾した時、アムネリスはそのどちらを向くべきなのか?愛し方が分からない女は当然に権力に頼ります。権力の持つ支配力が愛にだけは通じないのだということが、アムネリスには理解できないのです。

 権力と愛が真っ向から対立する図式、ヴェルディはそれを音で表現しています。このオペラ、実を言うと、見る(何しろ派手な道具立てですから、どうしたって見る方に走ってしまうのですが)以上に聴くべき作品なのです。


イタリア・オペラのたどり着いた円熟の境地
 
  この作品、「トロヴァトーレ」や「ラ・トラヴィアータ」を聴いた後では少し奇異に感じられます。そして「ドン・カルロ」を聴いた後では、そうか、ヴェルディ、ここまで来たのかとしみじみと思えます。従来のヴェルディ作品とは少しばかり音の構成が違っています。
 まずモティーフを使いこなしている点です。ワグナーの影響なのかどうか、それぞれの人物と感情に振り当てられたテーマを聴くだけで、ドラマ全体が理解できる構成になっています。また「これが聴かせどころのアリアでっせ!」という部分がありません。アリアは単独には主張をせず、ドラマの流れに沿っていつの間にかアリアに入っているという展開です。そして派手なコロラチューラや装飾音は一切登場しません。シンプルな主張が声と対等の地位を与えられた管弦と一体となって響きわたります。やっぱりヴェルディと思わせるのは合唱の部分の力強さです。

 前奏曲では「アイーダの愛」のテーマが繊細にピアニッシモで奏でられ、それに対して規則正しい「権力」のテーマが強さを増しつつ迫ります。「愛」は「権力」に押し潰される・・・最初から悲劇を感じさせる緊張感溢れる導入部分は短いものですが、一気に聴く者をドラマに引き込みます。「清らかなアイーダ」に続いて登場する華麗な「ラダメスの愛」のテーマは途中でカタカタとテンポが崩れ、アムネリスの「嫉妬」のテーマが執拗に絡みます。この三重唱(「おいでなさい、もっとこちらへ」)はか弱いアイーダの愛、脳天気なラダメスの愛、そしてアムネリスの嫉妬という3つの感情がグルグルと渦巻くような劇的な展開です。そして「勝ちて帰れ」の合唱のパワフルな響きに対してアイーダの「勝ちて帰れ」の哀しい響きの対比は、そのままアイーダの苦悩です。

 第二幕の凱旋の場、有名な「凱旋行進曲」はもう聴いているだけで足が「オイチニ、オイチニ」してしまう壮麗なテンポの良さ、それに続く捕虜たちの釈放を求める合唱の悲しい旋律が、気まぐれな戦の女神に振り回される人間の明暗を描き分けています。哀願するアイーダ、それを見て愛を確認するラダメス、嫉妬に苛立ちつつ王女としての威厳を示すアムネリス、この場面は第一幕の三重唱と同じ、三人バラバラの思いが一体となって緊張したアンサンブルを構成します。

 第三幕の「アイーダの愛」は低音の半音階で不安に満ちて登場します。そして「私の故郷」に続くわけですが、最高で3点Cの要求されるこのアリアは従来の型の美しさではなく自由奔放な響きを持ち、「孤児」であるアイーダの野生と不安に満ち溢れています。アモナスロとの二重唱「爽やかな谷間を」では激しい和音がアイーダの苦悩を語り、この苦悩がその結果として二重唱「やっと逢えた」を導き出します。この国を捨てましょう、私の国では愛は自由よ・・・父も祖国も、そしてラダメスも裏切らないためには、アイーダは「死の世界」へ旅立つ以外にありません。甘い誘惑の旋律とは裏腹に恋する女の強さが感じられます。「愛」は「死」によってのみ「権力」に勝てるのです。そして祖国を売ったと知ったラダメスの奇妙に誇らしげな高音(「祭司よ、私はあなたのものです」)は、アイーダの必死の誘惑に対するラダメスの答えです(彼が私を捕らえてくれと言っている相手は、ランフィスではなくて実はアイーダなのです)。彼はこの時点で「死」を受け入れます。

 第四幕はアムネリスの独断場、「権力」のテーマが執拗に繰り返され、アムネリスを苦しめます。神に祈る彼女の声は死刑判決と同時に錯乱状態の「呪われよ!」に繋がります。祈りから呪いへ、アムネリス最高の聴かせどころです。そして死を待つ二人の二重唱「さよなら、大地、涙の谷」の美しさは、まだ生きている二人には何ですが、すでに天上の響きを感じさせます。暗い神殿の地下にありながら溢れかえる眩い光を浴びている二人、この「死=愛」の幸福に酔うアイーダとラダメスの至上の愛に輝きを与えるのは、「安らかに」と祈るアムネリスの声です。地下が天国で地上が地獄という逆転の構図、主演3人の絡み合う声によって劇的な幕切れを構成します。

 さて、この「アイーダ」、録音がたくさんあります。何と言っても魅力はアイーダ対アムネリスの女の決闘です。セラフィン盤のカラスは流しているところでさえ感情が溢れています。カラヤン盤のテバルディ対シミオナートはどちらも品格十分の横綱相撲、ムーティ盤のカバリエ対コッソットも聴き応えあり。特にカバリエはなんとも優雅な声を聴かせてくれます。
 問題はラダメスなんですね。コレッリ、デル・モナコといった輝かしい歌唱のテノールは聴いていてとても楽しいのですが、このラダメスという男、やることが非常に幼稚で直情的です。ある意味「ドン・カルロ」的とも言えます。その意味ではセラフィン盤でカラスの相手を務めたリチャード・タッカーの少々乱暴な歌唱の方が役には合っていると思います。ドミンゴ(レヴァイン盤)は押し出しが良すぎてラダメスのイメージとは少し違うと感じますし、カレーラス(カラヤン盤79年)は神経質で線が細くて英雄になりきれていない感じ、パヴァロッティ(マゼール盤)はそもそも明るい声が少し見当違い・・・、理想のラダメス(若々しくて、少々無鉄砲で、でも一途に愛する力強い若者)はどこにいる?



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