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LeafR・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」 (2002年9月6日〜2002年9月27日の日記より)


合わせ鏡に映るもの

 最近余り見かけなくなりましたが、三面鏡というものがあります。これを初めて覗き込んだ時のことをはっきりと覚えています。正面には毎朝の洗顔・歯磨きでお馴染みの見慣れた自分の顔、ところが、左右の鏡を覗いて見れば、全然見慣れない自分が映っているのです。自分の横顔は日常では見ることができません。へぇー、私って横から見るとこんな風なんだ・・・、自分では見られないけれど、他人はこっちの方を見慣れていて、これを私だと思っているんだ。そして、鏡の角度を調整すれば、その見慣れない自分が無限大に増殖して行きます。それはとても新鮮な驚きでした。

 右から見ている人と左から見ている人は同じモノを見ているわけだけど、彼らの網膜に結ばれる像は実は正反対、見る位置を変えるだけで世界は、物事は、ぐるりと反転してしまいます。

 例えば音楽、モーツァルトも氷川きよしも、オタマジャクシが並ぶことで情念が記号化され、その情報が人間の声帯あるいは楽器によって振動に変換され、それが空気を伝わってこちらの耳に響くという形態としては全く同じものです。モーツァルトが芸術で氷川きよしが娯楽かも知れませんし、モーツァルトが娯楽で氷川きよしが芸術かも知れません。モーツァルトの方がオタマジャクシの数が多いですが、数が多いから偉いってもんでもありません。

 例えば愛、愛は永遠なのか、それともつかの間なのか。たとえ相手が不在となっても永遠に愛すると言えることは、誠実さと変化に対応できない硬直性、両方の側面を持っています。ある人からある人へ心を移すことは、軽薄さと多様性に対する寛容さ、両方の側面を持っています。

 例えば生、死がなければ生は存在しませんし、生がなければ死も存在しません。生は輝かしいもの、死は恐ろしいものと定義されておりますが、この二つを分けることはできません。「死ぬ」までは生きているわけだし、「生きている」からいつか死ぬことになるのです。

 芸術と娯楽、永遠の愛とつかの間の愛、そして、生と死・・・、実は同じものの見方が違うだけなのではないか・・・。ところが、人間は一つの角度から見ている時、反対の角度から見ることは出来ません。右側と左側を両方いっぺんに見ることは不可能です。

 この不可能にチャレンジした作品、それが「ナクソス島のアリアドネ」です。原作はモリエールの喜劇「町人貴族」、成金オヤジの必死の「上昇志向」とそれを逆手にとってめでたく結ばれる若い恋人達の物語。台本を書いたホフマンスタールは、悪趣味な成金オヤジが格調高いオペラとお笑い劇を一緒くたに上演するというエピソードを盛り込むことで、右と左を同じ舞台に乗せてしまいます。

 さらに、この作品ではギリシャ神話のアリアドネの物語が劇中劇として登場します。舞台の上でさらに舞台が繰り広げられるこの形式は、演じるという行為そのものを改めて違う角度から見る視点を観客に与えます。演じるという行為はそもそもが嘘です。それをさらにもう一回ひねることで、「嘘を演じるという嘘を演じる役者を見ている自分」という何ともややこしい自分が登場します。「劇中劇を見ている観客」が舞台の俳優によって演じられます。それをさらに客席から見ている観客は、そこに別の角度から見た自分の姿を見ることになります。自分が見ているものが虚構に過ぎないことを強く意識することで、自分もまた、自分の知らないところで、自分の知らない角度から他者に見られている、という三面鏡の世界を覗き込むことになるのです。

 アリアドネの物語。クレタ島の王ミノスとお后パシファエ、王がポセイドンから生け贄用に頂戴した牡牛、あまりに見事な牛だったんで殺すのが惜しくなってぐずぐずしていたところ、俺の好意が気に入らんっちゅうんかいと神様に因縁を付けられて、呪いのせいでお后がこの牛に恋をしてしまいます。このとんでもない不倫の結果生まれたのは頭が牛で体は人間という怪物ミノタウロス。こんな「息子」が人目に触れては大変と、王はこの怪物を迷宮に閉じこめます。さすがに飢え死にさせるのも可哀想と思ったのか、食事は与えるのですが、この怪物の大好物は柔らかくて瑞々しい少年少女。彼の旺盛な食欲を満たすために、ミノスは毎年14人の少年少女を生け贄に差し出しておりました。そこに登場したのがアテナイの王アイゲウスとトロイゼンの姫アイトラの間に生まれた若き英雄テセウス。一度迷い込んだら二度とは出られない迷宮に乗り込む彼に、クレタの王女アリアドネは糸玉を与えます。見事に怪物を退治して糸をたぐって生還したテセウスはアリアドネを連れて故郷アテナイへ旅立ちますが、何がどうしたのか、途中のナクソス島にアリアドネを置き去りにしてトンズラ。独りぼっちのアリアドネの元に現れたのはディオニュソス(バッカス)。彼は神ゼウスとテーバイの王カドモスの娘セメレ、つまり神と人間の間に生まれた子、なかなか神様の仲間に入れて貰えず結構苦労した男ですが、葡萄からお酒を造ることを発見して、後に酒の神となります。二人はめでたく結婚し、多分毎晩差しつ差されつ晩酌を欠かさず、幸せに暮らしたんじゃないかと思います。夏の夜空を見上げれば半円形に並ぶ7個の星を見ることができます。「冠座」です。アリアドネを慰めるためにディオニュソスが彼女の頭上に載せた黄金の冠、彼女が世を去った時、それを悲しんだ彼が思い出の冠を天空に投げたのだと伝えられています。

 数あるギリシャ神話の中からこのアリアドネの物語を「劇中劇」に選んだ、これがこの作品の鍵です。ミノタウロスが閉じこめられていた迷宮に挑んだテセウス、クレタ型の迷宮パターンは実は一本道です。迷いようがない。ぐるぐると回る構造ではありますが、真っ直ぐ行けば必ず出口です。ところがなぜか人はこれに迷うのです。ぐるぐる回っているうちに道ではなく自分に疑問を持ってしまうからです。テセウスに置き去りにされたアリアドネは、愛する男を死から救った女から、愛する男によって死に突き落とされる女に反転します。そこに登場するディオニュソス、彼はアリアドネを死から生へ再び連れ戻します。
 人間にも牛にも見えるミノタウロスの存在が闇から愛を導き、男と女という対照的な存在を繋いでいた細い糸が切れた時、神にも人間にも見えるディオニュソスが登場し、死から生を奪い返します。この神話は、二面性の寓話なのです。

 昨日の自分と今日の自分が別人であると思う人はいないでしょう。右から見た自分と左から見た自分が別人であると思う人もいないでしょう。自分は間違いなく一人の人間としてここにいる、だって、ほら、鏡にちゃんと映っている、たった一人の自分が昨日と同じ顔で・・・。本当にそうですか?



プロローグ 鏡の国は大騒ぎ

 パタパタと慌ただしい前奏、わずか36人編成のオーケストラが聴く者を一気に物語に引きずり込みます。R・シュトラウスお得意の「ジョーズ型」オープニング。これから先の登場人物達に振られたテーマが小気味よく展開し、幕が上がれば華やかな18世紀のウィーン、さる大富豪のお屋敷です。

 音楽教師がウロウロと登場。本日は彼の弟子である若き作曲家のオペラが上演されるというのに、執事長が見あたらない。「あっと、執事長殿、探しましたよ。今夜の催し、私の弟子のオペラ・セリアの後にコメディーを上演するってまさか、ホントじゃないですよね?」と早口のレチタティーヴォ。「ご主人様が仰ったからにはホントですよ」「ドタバタの見せ物とオペラを一緒にするなんて」「あっ、その後きっかり9時には花火ですからね、それでは私、忙しいもので」
 生真面目な弟子に何て言おう・・・。そこに当の作曲家登場、今夜は彼の力作『アリアドネ』のお披露目、若い彼はすっかりハイテンション。「おい、ヴァイオリンを呼んでくれ!」「ヴァイオリンは呼んでも来ないと思いますがね」「だから、ヴァイオリン奏者を呼べっての!」「だったらそう言って下さいよ」

 あぁ、僕の珠玉の作品が今夜いよいよ・・・、そうだ、テノールに演技を付けなきゃ。そのテノールの楽屋からカツラ師が蹴り出されます。「俺にこんなカツラ被れっての?このごろつき!」「あっ、君、君の役ね」、作曲家の鼻先でドアがバタン。「あ、今美しい旋律が浮かんだ、誰か紙持ってない?」
 プリマドンナの楽屋のドアが開きます。僕、こっちにも言うことがあるんだと作曲家が近寄りますが、メイク中につき立ち入り禁止。そこへ登場したのはコメディー一座の花形ツェルビネッタ、追っかけの士官とイチャイチャ。「あの魅力的な娘は誰?」「あの娘は君のオペラの後にコメディーをやる予定の芸人さ」「ちょっと待った、先生!僕のオペラの後にコメディー?僕の『アリアドネ』は芸術ですよ!ひどい!僕の音楽を殺す気ですか?」、さっきもきれいな旋律が浮かんで・・・そうだ、書き付けなきゃ、誰か紙持ってない?

 ツェルビネッタと芸人たちがメイクを始めます。「本当なんだ・・・先生、あんまりです!」、プリマドンナが登場、「何なのよ、この連中!何で私がこんな連中と一緒なの?」「あら、ずいぶんな言いぐさね」とツェルビネッタ、「あんたたちの湿気たオペラの後じゃお客を笑わせるこっちは災難よ」。舞踏教師がツェルビネッタのご機嫌をとり、音楽教師がプリマドンナのご機嫌をとっているところに、執事長再登場。「本日のプログラムに若干の修正がございまして・・・『アリアドネ』と『浮気なツェルビネッタ』を同時に上演ということに。あっと、それから花火の開始は予定通りきっかり9時ですので、どうかよろしく」。何だって?ここの伯爵って正気なの?「何をどう見たがろうがご主人様のご自由ですよ、ギャラ払う以上はね。ご主人様は陰気な孤島というのがおイヤということで」
 「あのね、僕のアリアドネは孤独の象徴なんだ、他の人間が出ちゃ台無しなんですよ!」「いーんじゃないの、賑やかな方が」「もう僕は出ていきます!」「ギャラ貰わないで?」「・・・」。舞踏教師が調子よく語ります、「あちこち摘んで適当につなげて、何とでもなるっしょ?」、作曲家に五線譜が押しつけられます。「大丈夫、ツェルビネッタは芸達者、筋さえ飲み込めばアドリブでちゃんと合わせますって」。うぅ、僕のオペラが・・・。テノールは「作曲家の先生、ソプラノのパートを削った方が」、プリマドンナは「先生、テノールのパートを削ってね」

 舞踏教師がツェルビネッタに即席で『アリアドネ』のレクチャーを施します。「アリアドネは王女様でテセウスと駆け落ちしたんだ」「ふんふん」「でも、テセウスは彼女に飽きて置き去りにするんだ」「ま、よくいるワルってわけね」「で、彼女は死んじゃおうと思う」「それってつまり、新しい男が欲しくなったってことでしょ?」「そ、そーゆー話」
 「違うってば!」と作曲家、「彼女は生涯を賭けて一人の男を愛する女なんだ」「へぇー」「死だけを求めるんだ」「でも死にやしないわよ、新しい男が現れるに決まってるわ」「そう、バッカスが現れて」「でしょー?」「でも、彼女は彼を死に神だと思う、そして一緒に船に乗るんだ」「やっぱねー」「アリアドネは忘れることをしないんだ」
 あのね、あんたたち、とツェルビネッタが芸人たちに自己流でレクチャー。「姫様がさ、男に捨てられて孤島に一人でいるわけ、んで、次の男はまだ来ないわけ。私たち、そこで適当に陽気に登場すれば良いわけよ」

 話がだいぶ(というか全然)違っています。「アリアドネは死に身を委ね、再生するんだ・・・(そんな目で僕を見ないで・・・)」「作曲家さん、あなた大丈夫?(この男、ちょっと可愛くない?)」「大丈夫じゃないかも知れない(ドキドキしてきた・・・)」「私って見た通りの女じゃないのよ、ホントは寂しいの(あなた、慰めてくれる?)」「君ってきれいかも・・・(イヤ、ホントにきれいだ)」「私に心を捧げてくれる男に憧れているの」「心・・・その憧れは僕も同じだ」「そう、心よ。でも、あなたはこの瞬間を忘れちゃう?(恋は瞬きする間に飛んでいってしまうのよ)」「忘れるもんか・・・(僕、もうダメ)」

 本番ですよ!ツェルビネッタの甘い誘惑にとろけてしまった作曲家、「先生、言葉に尽くせぬものがこの世にはあるのですね、僕は勇気が湧いてきました。音楽とは何か?音楽とは聖なる芸術!聖なる・・・」
 「あんたたち、始めるよぉ!」、威勢良く口笛を吹くツェルビネッタに率いられて道化役者たちがゾロゾロ登場。「何だ、あれ?あの連中はいったい何だ?僕のオペラにあの連中が?」、我に返る作曲家。「だから、君が出来るって言ったんじゃないか」「先生、どうして止めてくれなかったんですか!あぁ、僕は死んだ方がマシです!」

 しかし、幕は上がってしまうのです。

 お屋敷の使用人たちは、この厄介な連中を最初からバカにしています。実の世界に生きる彼らにとっては、オペラを歌おうがコメディーを演じようが関係ない、両方とも虚の世界に生きる「穀潰し」です。彼らの辛辣な対応に振り回されつつ、鏡だらけの楽屋で騒動が繰り広げられます。

 オペラ組とコメディー組は最初から対立しています。プリマドンナとツェルビネッタのヒロイン同士の嫌みの応酬、オペラを歌うプリマドンナは高慢に「見える」、コメディーを演じるツェルビネッタは軽薄に「見える」、お互いに自分の目に映った相手に対して反発しているのです。

 途中で何度も頭に浮かんだ旋律を書き留める新しい五線譜を求める作曲家ですが、彼に美しい旋律があった時には与えられなかった五線譜が、彼のオペラを台無しにする羽目に陥った途端に四方八方から表れます。彼には新しく生まれた旋律を書き留めることは許されず、要求されることは今ある自己を破壊することなのです。その自己破壊の過程で彼はつかの間の変身を遂げます。

 「鏡の国の戦争」のさなか、儚い恋が生まれます。オペラ組の総大将の作曲家とコメディー組のヒロインのツェルビネッタがお互いに惹かれてしまうのです。堅物に見える作曲家が実はそうではない(かも知れない)、尻軽のツェルビネッタが実はそうではない(かも知れない)、この二人は「見えるまま」の相手をそれぞれの鏡に映して反転させてしまうのです。

 ただ一人の男を愛し、その愛に殉じるために一度「死んで」しまい、そして「再生」するアリアドネの物語も、ツェルビネッタにかかるとただの男取っ替え話になってしまいます。ところが、そのツェルビネッタの魅力にとろけてしまう作曲家、彼は、つかの間、別の自分を見てしまいます。見慣れた自分(生真面目な作曲家)がツェルビネッタの目には違って映る。そして、浮気なツェルビネッタ(士官と楽屋で何をやっていたやら)も作曲家の目には違って映る。ツェルビネッタの誘惑のいったいどこから「音楽は神聖」なんて結論が出てくるのでしょう。作曲家は「彼が見たかったツェルビネッタ」を見、ツェルビネッタは「彼女が見たかった作曲家」を見たに過ぎないのです。
 ツェルビネッタは「私に心を捧げてくれる人」に憧れているのであって、自分の心を捧げるとは言っていません。彼女は愛を消費しますが、愛を育むことはしないのです。「心を捧げる愛」に憧れたのは作曲家であり、彼女はそれを忠実に反射させただけなのです。
 そして、ツェルビネッタがけたたましく口笛を吹いた時、彼らの鏡は呆気なく壊れてしまいます。

 我が儘勝手なテノールはこの後バッカスという神に変貌します。これまた我が儘なプリマドンナはこの後死と再生を体現するアリアドネに変貌します。作曲家が五線譜に描いた神秘の物語は見事に結実します。しかし、当の作曲家は舞台を飛び出していったきり、帰っては来ません。彼は自分が見たかった虚像が壊れた時、そこに登場した現実から逃げてしまいます。

 そう見えたものが実はそうではないと分かった時、ウットリと見とれていた「見たいものを見せてくれる鏡」が壊れてしまった時、人は何によって自分を見ればいいのか・・・。鏡に映ったものが気に入りましたか?あなたの見ているもの、それ、左右反対なのですよ。


オペラ 鏡をそっと捨てる時

 悲しみに満ちた序曲にホルンの奏でるテセウスのテーマが絡みます。ナクソス島にただ一人置き去りにされたアリアドネ、水の精、木の精、そして山彦の三重唱が優しく気怠く彼女の嘆きに寄り添います。
 私は死んでいるの?生きているの?何を夢見ていたの?テセウスとアリアドネ、何て素敵だったことか、私はどうしてそれを覚えているの、忘れてしまいたい・・・。道化役者のハルレキンのセレナード、愛、憎悪、希望そして恐れ、大丈夫、人は耐えられる、もう一度生きさえすれば・・・。それぞれの歌を山彦が無表情に繰り返します。
 「すべてが清らかな国がある」、それは死の国。ここでは全てが汚れている、全てが終わっている。美しく静かな死の神よ、アリアドネは待っています、あなたがこの目を暗黒で覆い、その手でこの体に触れることを。あなたは私を自由にし、煩わしい生を取り去ってくれる、私は私でなくなり、あなたのもとでアリアドネとして永遠に留まる・・・。
 あちゃー、相当深刻でない、これって。道化役者たちの四重唱は短調で始まり、長調に転じ、陽気に繰り広げられます。もう、お前たちじゃダメなのよ、ただ騒いだって煩わしいだけよ、とツェルビネッタ登場。
 「偉大なる王女様」、お悲しみはごもっとも、でもね、女の心には思いもよらない秘密があるもの。物言わぬ岩や波を相手にしていてはダメよ。女なら誰だって絶望したことってあるわ、こんな小さな孤島が海には無数にあるように。男ってひどい生き物よ、気紛れで移り気、でも女って不死身だって思わない?いつだって新しい愛の予感を感じていない?私はいつも真実で嘘、貞節で悪女、だっていつも新しい愛がこっそりと心のうちに潜んでいるから。あの彼の時も、この彼の時も、いつも私は二人いたの。心って不思議、心には心が分からないんですもの。まるで神のように男は次々やって来て、私はそのたびに変わってしまうの。ねぇ、王女様、聞いている?
 ダメだ、全然聞いてねーよ、様子を見る間にさ、イイことしない?ハルレキンがツェルビネッタを口説きだします。まったく、もう、と呆れつつ彼女はまんざらでもない様子。神様、女に男を拒絶せよと仰るくせして何でこんなにいろんな男を作ったわけ?強情な女を慰めても無駄さ、でも、俺は強情じゃないよ、優しくしてくれればオッケーさとブリゲルラ。きれいな穴場知ってるんだ、一緒にどうだい?とスカラムッチョ。もう、さらってしまいたい・・・とトルファルディーノ。彼らの間をクルクルと思わせぶりに回転するツェルビネッタ、道化役者たちは陽気に踊り出します。

 遠くで突然ファンファーレが響きます。妖精たちがざわめきます。「響け、響け、美しい声よ」、彼が来た!若い神!魅力的な男の子!その母は王女、その父は神!バッカスが上陸したのです。アリアドネ、眠っているの?聞こえる?美しい奇跡が起こる、彼がとうとうやって来た!
 アリアドネはバッカスを死の国の使いヘルメスであると確信します。バッカスはアリアドネをチルチェ(人間を豚に変えてしまう魔女)であると疑います。全然かみ合わない二人。「よくおいで下さいました、使者の中の使者よ」、さぁ、私を死の国へ誘って・・・。美しい女性、あなたも魔法を使うのですか、あなたも身を任せた男を変えてしまうのですか?20分に及ぶ長大な二重唱ですが、二人の声はもどかしいくらい行き違って重なり合うことがありません。
 私はあなたが連れていくところを知っているの、そこでは誰も泣きはしない、苦しみもしない、この世のものは全て無意味になるところ・・・、死のうと思う者よ、聞きなさい、あなたが私の腕の中で死ぬのなら、むしろ永遠の星たちが死ぬだろう・・・。少しずつ少しずつ二人が変貌して行きます。
 世界は私の胸の上にあったのに、あなたはそれを吹き飛ばして下さったの?あなたの苦痛の奥の奥に潜んでいる快楽が、私の心に昇ってくる!もう着いたの?死の国に・・・でも全てが輝いている・・・、あなたが私を変えたから、私の中に神が目覚めた・・・。

 アリアドネの心から死が消え去り、愛が、生が蘇ります。バッカスの心から人間としての迷いが消え、神としての力と自信が満ちてきます。3人の妖精が二人を祝福します。あなたが死んでしまうのなら、永遠の星たちだって死んでしまう・・・、手を取り合って天蓋の向こうに消える二人。

 やれやれ、神様が登場したとなったら、私たち、もう用無しよね、ツェルビネッタたちは静かに舞台を去ります。

 全てのテーマが繰り返され、最後の音がそっとそっと消えていった時、舞台の上には誰もいません。

 「僕のオペラとコメディーを一緒に上演するですって?」と作曲家を激怒させた舞台ですが、オペラとコメディーは決して交わりません。私は何を夢見ていたの?と自問するアリアドネ、彼女にとってテセウスとの恋もこの世も、既に現実性を失っています。彼女は誰の声も聞きはしません。ツェルビネッタの超絶技巧の「偉大なる王女様」は、アリアドネにとって何の意味も持たず、ツェルビネッタの主張がコロコロと上滑りしていきます。その証拠にツェルビネッタの歌声はハルレキンたちを挑発しただけ、嘆きの姫様そっちのけでエロティックなやりとりが繰り広げられます。プロローグでのプリマドンナとツェルビネッタはお互いに見たままの相手に反発しましたが、ここではそれすら起こらない。断絶は深く静かに進行しているのです。

 ファンファーレと共に登場したバッカス、彼が繰り返す「チルチェ」がポイントです。チルチェ(キルケ)とは、ギリシア神話の女神。太陽神ヘリオスの娘で魔法使いでした。 オデュッセウスとその家来たちが彼女の住む島を訪れた時、彼女は家来たちに魔法の酒を飲ませて豚に変えてしまいました。しかしオデュッセウスだけは、ヘルメス(アリアドネが焦がれる死の国の使いです)の薬草のおかげで魔法がきかず、家来たちも元の姿に戻ることができました。その後、彼女はオデュッセウス御一行様を1年間もてなしましたが、彼らが帰国を望んだので、帰り道を教えてやりました。チルチェは変身をもたらし、進むべき道を指し示す存在なのです。
 半分神で半分人間、中途半端なバッカスは、神の遺伝子のおかげでチルチェの魔法から逃れることができたのですが、残り半分の人間の遺伝子のおかげでずいぶん怖い思いをしたのだろうと思います。

 アリアドネはそんな彼を死の使いだと信じます。バッカスはそんな彼女を魔法使いだと恐れます。お互いに自分の心の鏡に映った虚像を見つめているのです。二人の二重唱が全然重ならないのも納得です。
 しかし、奇跡がそっと控えめにその姿を現します。アリアドネは全てをバッカスに委ねます。連れていって下さい、何が苦しめたかを忘れてしまうところへ・・・。忘れたいと思うことほど人間は考えてしまいます、考えていたら忘れられないのに。アリアドネは本当に忘れることとはどういうことかを悟ります。それは忘れたい記憶を捨てることではない、忘れられない自分を捨てることなのです。
 私は神、血の代わりに私の血管を流れるのは香油と霊気、聞け、あなたが死ぬのなら、永遠の星たちが死ぬだろう・・・、神と人間の間で宙ぶらりんだったバッカスは、星の命すら我が物とする神に目覚めます。彼は自分を発見します、それは与えられるものではない、獲得するものなのです。

 鏡に映った虚像を見つめたまま噛み合わなかった二人の旋律が融合します。無人の舞台の上に全てが存在します。何も見えません、何もありません、全てが今始まるのです。

 「眼差しと眼差しの間に・・・全てが私から遠ざかるのですか?太陽も、星も、私から私自身も?」、「あなたがしたこと!私はもう前とは別の私になった!」、バッカスの瞳の中にアリアドネは新しい自分を、アリアドネの瞳の中にバッカスは新しい自分を見ます。新しい自分が見たかったから見えたのではない、お互いに相手を見つめた結果がそうなのです。
 あなたの見ている「私」は本当の私でしょうか?私の見ている「あなた」は本当のあなたでしょうか?鏡を捨ててお互いの瞳を見つめましょう。そこに映っている「私」が本物です。「私」の瞳にも同時に「あなた」が映っています。私はあなたと私を一緒に見ます、あなたも私とあなたを一緒に見ます。
 そこにはひょっとして思いも寄らない別の私が、全く新しいあなたが、映っているかも知れません。


夢のあとさき

 オペラは劇中劇で終わってしまいます。聴く者、見る者は、誰もいない劇中劇の舞台、二重の虚構の舞台を前に置き去りにされてしまいます。まるで、アリアドネのように。

 物語は無理解から始まりました。伯爵様にはオペラもコメディーもどちらもどうでもよく、執事長たちは芸術家たちが理解できず、オペラ組はコメディー組が、コメディー組はオペラ組が理解できず、プリマドンナとテノールもお互いに理解できず・・・、一瞬は寄り添ったかに見えた作曲家とツェルビネッタも、結局お互いを理解するには至りませんでした。
 では、虚構の劇中劇の中でアリアドネとバッカスはお互いを理解できたのか?彼らにあったものは、理解ではなく変身です。二人はお互いを触媒として新しい自分、愛と命に満ちたアリアドネと神に目覚めたバッカスを獲得します。アリアドネが理解したのはバッカスではなくアリアドネであり、バッカスが理解したのはアリアドネではなくバッカスです。

 この作品で、R・シュトラウス自身も変身を遂げました。「サロメ」と「エレクトラ」で、一歩間違えば悪趣味となりかねないどぎつい素材を、その独特の美的感覚で洗練された舞台芸術に仕立て上げた彼、この「アリアドネ」では、その洗練度がさらに一段深まっています。芝居とオペラを合わせ鏡に映った一つの実体の二つの像として捉え、必要最低限で構成されたオーケストラに不協和音を排した透明な旋律を与え、ワーグナー的な動機を織り込みつつも、レチタティーボにはモーツァルト的なふくよかな香りを持たせ、R・シュトラウスは、芸術性と娯楽性の間で揺らめく自分自身に対する疑問を払拭したかのように、実に伸び伸びと神業的手腕を披露しています。

 ツェルビネッタは歌います、「次々と神のように男はやってくる」「私は神に捉えられ、全く変わってしまう」・・・。しかし、変身の奇跡は彼女ではなくアリアドネのものです。なぜなら、ツェルビネッタは、「心が自分自身を理解できない」からです。心が心を理解できない以上、その心に映るものはうたかたでしかありません。
 それに呼応するかのようにアリアドネは歌います、「世界は私の胸の上にあったのではなかったかしら?」「あなた(バッカス)がそれを吹き飛ばして下さったの?」・・・。アリアドネの愛はテセウスが去った後も留まりました。愛がその対象を失っても愛として存在すること、それは世界が胸の上に乗っているかのような苦悩です。それを突き抜けた時、愛は対象を求めて彷徨うことから解放され、新しい世界を生み出す・・・のかも知れません。
 しかし、その新しい世界は天幕の奥、そこを垣間見ることはツェルビネッタにも作曲家にも、そして観客にも許されません。アリアドネたちが去った今、ナクソス島に置き去りにされたのは私たちなのです。舞台と客席が逆転するエンディング、この作品の鏡のマジックには終わりがありません。

 ホフマンスタールが「神のごとき魂には奇跡であるものが、ツェルビネッタの世俗的な魂には日常の情事にすぎないのです」と書き記したことから分かる通り、ツェルビネッタは、台本ではヒロインではありません。ところが、R・シュトラウスはそんな彼女にヒロインに相応しい極め付きに美しいアリアを与えました。オペラ・アリア最高の難曲、レチタティーボから徐々に熱を帯びて、流麗なロンド、超高音、そして最高難度のコロラチューラに至る、純粋な声の芸術がここに凝縮されています。作曲家(R・シュトラウスかも知れません、「作曲家」かも知れません)はツェルビネッタに何とも優しく微笑みかけています。

 無理解が無理解のままで終わってしまうこの作品、そもそも無茶苦茶なことを言い出した伯爵様が登場しません(どんなオヤジなのか見たかったな)。この穀潰しども!と辛辣だった執事長他の面々には、今宵の宴のお客様には、この作品はどう映ったのでしょうか。仲の悪かったプリマドンナとテノールは、この後の楽屋でどんなやりとりをするのでしょうか。ひょっとして恋に落ちてしまったりして。何よりも、作曲家とツェルビネッタの恋はどうなったのでしょうか。
 たった一つ、分かっていることがあります。この「オペラ兼コメディ」の後、花火が打ち上げられたということです。暗い夜空をつかの間鮮やかに染めて、次の瞬間には美しい記憶以外に何も残さず失われてしまう光の花が暗闇に咲いたということです。

 このオペラを聴いた後、是非とも聴いて頂きたい作品があります。R・シュトラウス最後の作品である「4つの最後の歌」です。最後の曲には「夕映えの中で」という題が付けられています。人生の黄昏を、沈んでいく太陽を前にした老いたR・シュトラウスの心模様、そこでは生は死と仲良く寄り添い、一つとなって大きな宇宙を構成しています。死は生の結果でしかない、枯葉の舞う秋は豊穣な実りをもたらす、あと少し待てば静寂の冬、そこには静かな諦観があり、しかし、後悔はありません。死はたった一度だけ味わうことのできる未知の果実です。そっと口に含んでその甘さを味わおう、それは豊かな生がもたらした恵みの果実なのだから。

 ツェルビネッタ的世界とアリアドネ的世界がその境界線を超えてゆったりと絡み合う黄昏の風景、『いましばし待つがよい、おまえにも安らぎは訪れる』(ゲーテ「旅人の夜の歌」)、R・シュトラウスの夢見た「アリアドネ」の天幕の奥の光景が、この最後の作品に隠されているような気がしてならないのです。

 この「ナクソス島のアリアドネ」、指揮者に名人芸を要求します。たった36人のオーケストラを端から端まで無駄なく使い切るだけの力量が必要なのです。1977〜78年のベーム率いるウィーン・フィル、アリアドネはヤノヴィッツ、ツェルビネッタはグルベローヴァ。ヤノヴィッツはさらさらと素直な歌唱、これが物足りないかと言えば、アリアドネの浮き世離れした清潔な魅力を引き立てています。グルベローヴァはテクニックも声も完璧。ルネ・コロのバッカスが最初から「神様している」印象で少し違和感もありますが、一押しの出来だと思います。1988年のレヴァイン率いるMET、ノーマンのアリアドネが本当に優美で神々しい。こんな女性を捨てたら、テセウス、罰当たるぜって感じです。
 若き日のモーツァルトがモデルと言われる作曲家、この役が実は私は一番気になります。1977年のショルティ盤のトロヤノスが若々しくちょっと野性的で好きです。この盤はアリアドネがプライス、ツェルビネッタとバッカスはやはりグルベローヴァとコロ、こちらも捨てがたい録音です。




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