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Leafブリテン  「ビリー・バッド」 (2000年11月15日〜2000年11月29日の日記より)


男だけの閉ざされた世界
 
 20世紀のオペラが私は苦手です。まず旋律に親しみが持てません。どれもこれもホラー映画のBGM(!)みたいで、もっと楽しい現代音楽があってもいいだろうに、と思います。そんなわけで滅多に聴かないのですが、唯一の例外がブリテンの「ビリー・バッド」。原作があの「白鯨」のメルヴィルというのに惹かれたのがきっかけです。何しろ変わった作品です。最初から最後まで全部男声のみ、女性の声が一声も聴けないというシロモノ。舞台がフランス革命直後の英仏戦争の真っ最中、1797年(有名なトラファルガーの海戦で提督ネルソンがフランス海軍を破ったのは1805年のこと)の英国海軍の軍艦「無敵号」なのです。よって女っ気なし!
 
 プロローグ、年老いた元海軍将校のエドワード・フェアファックス・ヴィアが思い出に浸っています。「善も悪も沢山見たが完全な善はなかった。この世には悪魔が付け入る隙が必ずある・・・」、彼の心はかつて艦長を務めた「無敵号」へ飛びます。
 
 第一幕、無理が通って道理が引っ込む、暴力に支配された軍艦、近くを航行中の商船「人権号」から3人の水夫が徴用されます(この当時、正規軍や志願兵では到底人手が足りず、下級水夫調達のために軍隊は人さらいをやっておりました)。不平(さらわれてきたんですから当然)ばかりの新兵の中で一際目を引く存在がビリー・バッド。若く、美しく、逞しく、そして純真。捨て子であり自分の年も分からない放浪者の彼ですが、その姿は乗組員に感動を与えます。ただ彼には一つ問題があります。興奮するとどもってしまって話せなくなるのです。
 海軍に拾われたことを喜ぶビリーは人権号に別れを歌いますが、血みどろのフランス革命ですっかり「人権アレルギー」になっている士官達は、ビリーは不穏分子ではないかと疑います。船にサヨナラを言っただけなのに・・・。副長は嫌われ者の衛兵長クラッガートにビリーを見張れと命じます。クラッガートは下士官のスクィークにビリーの持ち物を探れと命じ、彼自身「派手なスカーフをとれ!」と早くもビリーに嫌がらせを始めます。ヴィア艦長が敵の水域に入ったと乗員を叱咤激励します。素直なビリーは「艦長、俺はあんたのために死ぬよ、輝く星のヴィア!」と大感激。
 
 第二幕、士官達は最近ノア号で起こった反乱を話題にし、ヴィアに誰からも愛されるビリーの悪影響を吹き込みますが、ヴィアは相手にしません。非番の水夫達がくつろいでいる時、スクィークがビリーの荷物を引っ掻き回すのを見つかり、ビリーに取り押さえられます。クラッガートは表向きビリーを褒めそやしますが、内心では彼を抹殺することを決意します。海に沈んでいく夢を見ていたビリーをクラッガートに買収された新兵が起こし、反乱をそそのかします。衛兵長に気を付けろという忠告を受けても、人を疑うことを知らないビリーは平気、逆に昇進を夢見ます。
 
 第三幕、クラッガートがヴィアに面会を求めますが、さっぱり要領を得ないうちに霧が晴れてフランスの軍艦と接近、戦闘態勢に入りますが、風が止まってしまい、無敵号は追跡を断念。話の続きでクラッガートはビリーが反乱を企んでいるとヴィアに告発しますが、ヴィアは信じません。「偽証罪が何か知っているんだろうな?」、ヴィアはビリーを呼び出し善悪を決定しようとします。
 昇進の話だと思い込んで艦長室に現れたビリー。身に覚えのない反乱の告発にすっかり逆上したビリーはどもって言葉が出ません。そしてとうとうクラッガートを殴り殺してしまいます。目の前の殺人にヴィアは士官を招集して軍事法廷を開きます。ビリーは潔白を訴え、どもって反論できなかったのだと説明します。「艦長、俺、あんたに命捧げているんです!助けて下さい!」、ヴィアは沈黙を守ります。そして評決、ビリーは有罪、帆桁での絞首刑と決定。
 
 第四幕、ビリーは一人夜明けの処刑を待っています。友人のダンスカーが彼にとっては最後の食事となる酒とビスケットを持ってきます。「みんなお前が好きなんだ。助け出そうって計画がある」。「止めてくれよ、みんなも吊されちまう」・・・夜が明けてビリーは甲板に連れ出されます。戦時条項が読み上げられ処刑が告げられます。「輝く星のヴィア!神の祝福を!」、自分を見殺しにした艦長を讃えてビリーは処刑されます。士官達に無言で迫る下級水夫達の視線、しかし彼らは命令に従って解散します。
 
 エピローグ、年老いたヴィアが再び登場します。私はビリーを裏切った、でも彼は私を祝福してくれた・・・、彼はビリーと同じ幻を見ます、「嵐の中を進む船、遠くに光る帆・・・。その船には永遠に錨を下ろす港があった。私は年老いた、今では心安らかに過去を振り返ることができる」・・・
 
 運命に導かれ、男ばかりの暴力と荒廃の世界へ降り立った「天使のような」ビリー、彼はつかの間輝き、そして死んでいきます。その姿はヴィアの心に、そしてこの作品を聴く人間の心に、何を刻むのか・・・。


海の上のキリスト
 
 私はこの作品は現代の「受難と贖罪」の物語であると感じます。正統派の受難と贖罪は数多くある「受難曲」の方にお任せするとしても、暴力の支配する混沌の世界に降り立ったビリーの姿には、どうしてもイエスがだぶって見えるのです。
 
 プロローグのヴィアの独白「善なるものも完全ではなかった」にあるように、ニーチェが「神は死んだ」と叫んでしまった以上、もはや完全な善も完全な悪もこの世には存在しません。そんな曖昧模糊とした世界に、ビリー(イエス)は突然現れ、周囲を愛で満たし、しかしその愛を許せないクラッガート(ユダ)によって裏切られ、権力を持ったヴィア(総督ピラト)に見捨てられ、死んでいきます。その姿に士官達(ユダヤ教の祭司達)は安心します。水夫達(12使徒)はビリーを助けようとは思いますが実行することはできず、彼の死を見つめるだけです。ブリテン(そしてメルヴィル)が描いたこの「海の上のキリスト」の物語は、しかし、聖書のように単純にはいきません。何しろ「神は死んで」しまった世界に「受難と贖罪」の物語を再構築しようとすることは、簡単な作業ではありません。
 
 ビリーは無垢で美しく、そして優しい男です。そしてイエスが「この世には枕するところもない」私生児であったように、彼は捨て子です。彼は彼を見る者全ての心にさざ波を起こします。その美しい姿はある者には喜びを与え、ある者には嫉妬を感じさせます。その無邪気な言動はある者には信頼を呼び起こし、ある者には不安を与えます。しかし、彼はイエスのように完全無欠ではありません。彼は「語る」ことが不得手ですし、何よりもカッとなって人を殺してしまいます。
 ヴィアはビリーが潔白であることを知りながら沈黙を守って彼を見殺しにします。しかし彼にはピラトにあったような「自己保身のための沈黙」というやりきれない卑しさはありません。何しろ実際にビリーは過失致死犯なのです。
 クラッガートは最初はビリーを「千に一つの拾い物」と賞賛しますが、彼が「さよなら、人権号!」と叫んだ途端に彼の抹殺を決意します。なぜなら人権は彼の閉ざされた世界の崩壊を意味するからです。ユダがなぜイエスを裏切ったのか、そしてなぜその後それを後悔して自殺したのか、これは2000年の時が流れても解けない謎です。クラッガートはビリーを現実の脅威と見なしました。小さな閉ざされた空間を暴力と借り物の権威で我が物にしてきたクラッガート、恐怖で他人を支配する彼にとってビリーの屈託のない笑顔はまさに凶器です。
 士官達は現在あるビリーではなく、未来のビリーに脅威を感じます。イエスは死ぬまでユダヤ教徒でした。彼はキリスト教を作ったなんてこれっぽちも思っていませんでした。ただ従来のユダヤ教から少々はみ出してしまっただけです。ユダヤ人とその神だけの世界に浸っていた祭司達が、その少々のはみ出しが世界宗教への第一歩であり、自分達の権威の否定につながると感じ取ったように、彼らはビリーの存在が何事かを引き起こしてしまう前に彼を抹殺することを選びます。
 水夫達みんなに愛されたビリー、彼の美しい姿と純粋で無垢な優しさは、荒々しい彼らの日常に喜びをもたらします。しかしペテロが「夜の明ける前に三度イエスを知らないと言った」ように、水夫達は夜明けの処刑の前にビリーを救うことも、その後の緊張状態の中で蜂起することもできませんでした。
 
 聖書の受難物語では、イエスは神の子として人間の原罪を贖うために死にます。彼は完全無欠です。何しろ色々と生臭いことをしてくれた(というか、せざるを得なかった)歴代の法王にさえ無謬性を認めたキリスト教です。イエスは全人類を救う救世主ということになっています。
 神の去った後の世に現れたビリーには、当然に完全性は与えられません(完全なものはもう存在しないのです)。その不完全な善には全人類の救済など無理な話ですし、求められてもいません。何しろ舞台は一種の密室である軍艦の上なのです。十字架の上のイエスが全人類を救済したのに対し、帆桁の上のビリーはただ一人、ヴィアのみを救済します(「輝く星のヴィア!神の祝福を!」)。なぜならヴィアこそがビリーの迷える子羊だからです。この子羊は神の教えからはぐれてしまった哀れな異端者というキリスト教のものではありません。ヴィアは善と悪を思い、思索し、そして善も悪もどちらも完全には存在しないという混乱の世界にいる自分に気づきます。神のいない世界の子羊には最初から道などないのです。ヴィアは不完全な善であるビリーによって「不完全な世界」を発見し、救われます。なぜなら道がないと悟った人間は道を探すことから救済され、自分の道(神の示す道はもう存在しません)を歩き出すことができるからです。


風よ、風・・・
 
 無敵号は二重に閉ざされた空間に存在します。まず海の上であり、そして霧に行く手を阻まれているのです。乗員達も二つの派閥に閉じ込められています。暴力で支配する士官達と訳もなく殴られ不満を募らせつつも恐怖に抗えない水夫達の間には、何の接点もありません。ところが突然舞い降りた無邪気な「天使」ビリーにはその密室の閉塞感が分かりません。屈託なく「助け合い、分かち合い、働こう」と歌うビリー。彼が士官達に目をつけられてしまったのは「さよなら、人権号」という叫びではなく、実は彼のこの無邪気さなのではないかと思います。
 男達の断ち切られた人間関係をまとめるもの、この場合、それは戦闘でしかありません。ヴィアが乗員を叱咤激励する場面では、彼らは「全員で」歌います。お互いに反目し合う男達のエネルギーは全て共通の敵フランスに振り向けられます。戦闘、それはこの閉塞状態から彼らを救ってくれる希望なのです。
 
 ビリーを憎悪し陰謀を巡らすクラッガートがヴィアに面談を求める場面(第3幕第1場)はなぜか分断されています。要領を得ない彼の告発(ウソなのですから当然)に苛立ったヴィアが「で、何が言いたいんだ?」と質した途端に響く「右舷前方に敵艦!」の声。無敵号は対立も陰謀も忘れて戦闘態勢に突入します。船全体が沸き立つような興奮に包まれます。閉じ込められ、いがみ合う以外に行き場のなかった男達のエネルギーが敵艦という単純な目標を見出します。男声コーラスがぐんぐん盛り上がり、旋律は生き生きと輝き、力強く、聴いている方もなぜかホッとします。これから起こる戦闘で多分誰かが死ぬでしょう、傷つくでしょう。でも狭い空間で味方同士で傷つけ合う構図に比べれば、それは彼らにとっては救済なのではないか・・・。
 しかし、その開放感は長続きしません。敵艦は船足を早め、追う無敵号には風が味方してくれません。風、海の上であろうとどこであろうと自在に行き交う風は自由の象徴です。彼らは皆その風を待ち望んでいたのに、気まぐれな風は無敵号の帆を見捨ててしまいます。この時風さえ吹いていれば、この後の悲劇は起こらなかったような気がします。無敵号は帆一杯に風を孕んでフランス船を追い詰める、ビリーは突撃隊に志願していました。彼は勇敢に戦ったでしょう。その姿は乗員全員を魅了したことでしょう。そして、もしその先に勝利が待っていたとしたら、彼らの対立は一時的にせよ回避できたに違いないのです。しかし、風は吹きませんでした。無敵号は再び霧の中に閉ざされます。クラッガートが改めてヴィアに面談を求めます、「ビリーが反乱を企んでいます」。つかの間彼らの心を一つにした高揚感は風と一緒に去ってしまい、再び対立が頭をもたげます。
 なぜ、このシーンを分断したのか?ここにこのオペラの悲劇が全て封じ込められています。ビリーの運命は風次第だったということです。風さえ味方してくれれば、無敵号のキリストは死なずに済んだ。神が去った後の混沌の世界で、神に見捨てられた天使であるビリーは、男達の血を沸き立たせた一瞬の興奮の後、その対立と閉塞感の生け贄に供されます。
 
 「俺はあんたのために死ぬよ、輝く星のヴィア!」、ビリーの言葉は違う形で現実になろうとしています。クラッガートに脅かされた新兵が金貨をちらつかせて彼に反乱をそそのかした時、ビリーは海に沈んでいく夢を見ていました。「深く深く沈んでいく、誰だろう?顔が見えない・・・」、海の底でビリーを待っている顔の見えない誰かは、次の夜明けにビリーを迎え入れることになります。それは誰なのか?
 捨て子であったビリーは「あんたのために死ぬ」と慕った「父」であるヴィアの沈黙によって見捨てられます。父に捨てられた子は、「母なる海」に帰る以外にないのでしょうか?
 処刑を前にしたビリーは「見ろ、舷窓から月の光が迷い込んで」と美しい子守歌を自分に歌います。「海の底に沈められるんだ、深い深い海の底に。ぐっすり眠って夢を見よう・・・何だか眠くなってきた・・・」、最後の食事を持ってきたダンスカーにビリーは語ります、「運命だったのさ、でも俺の悩みはもうすぐ終わる。だから俺はもう艦長を助けられない。皆で艦長を助けて上げてくれ」、ビリーは無敵号から、そして死からも自由です。彼はとうとう見えない風を捕まえたのです。「嵐の中を進む船を見たんだ。その船には永遠に錨を下ろす港があった。俺は満足だ。俺は強い、俺には分かる、これからも強い。それで充分なんだ」。
 ビリーは死をもってヴィアを救うことになります。なぜなら、この作品の悲劇は、天使であるビリーではなく、人間であるヴィアのものだからです。


永遠の港
 
 絶対的な存在としての神様がいた頃の人間は、考えてみれば生きるのが簡単だったように思います。善悪は神様が決めてくれる、自分は神様のいう通りに生きていれば間違いない、悪いことをしたとしてもきちんと「免罪」という救済措置が用意されていますから、手続を守っていれば、よほどの大悪人でない限り(たいていの人間はそうです)「やれやれ、これで天国に行ける」と安心することができました。神様の去った世界では、人間は自分の頭で善悪を考え、自分の行動は自分で決定しなければなりません。そして、この厳しさと孤独こそが自我を持った近代人としてのプライドと言っていいと思います。考えることをずっと神様任せにしてきた人間は、自分の力で悩むことで初めて自立できる、これはある意味、とても苦しいことですね。でも、この「悩む自由」を手に入れるには、長い長い戦いがあったことも事実です。
 
 この作品、男声の使い分けに大切な意味が隠されているように思います。ビリーがバリトン(意外でしょ?この手の役はテノールが普通なのですが)、副長もバリトン、クラッガートがバス、航海長もバス(ビリー以外の低音が全員反ビリーなのも興味深い)。テノールは、ヴィア、赤ひげ(ビリーと一緒に徴用された男で、イヤだ、イヤだとごねつつも、ビリーと一緒に突撃隊に志願します)、新兵(クラッガートに脅されてビリーに反乱をそそのかす)、そしてスクィーク(これもクラッガートに強制されてビリーの荷物を引っかき回す)がテノールなのです。これから分かるように、低音の役は自己矛盾がないのに対し、高音の役は誰も彼も矛盾しているのです。中でも一番厳しい立場にあるのがヴィアでしょう。新兵やスクィークにはクラッガートという神様に対する歴とした「アリバイ」がありますが、無敵号の最高権力者であるヴィアにはそれがありません。彼のやることには言い訳は利かないのです。善であるビリーがこの人のために死のうと慕う「慈父」、そしてクラッガートと士官達が暴力で支配する軍艦を維持しなければならない「支配者」ヴィア、彼の自己はビリーの登場によって真っ二つに引き裂かれます。
 ヴィアはクラッガートの正体を知っています(「ヤツは本物のアルゴス(100の目を持つ怪物)だ」)。それは悲しい悪です。クラッガートの独白は悪としてしか生きられない絶望感に満ちています。「美しさ、凛々しさ、善良さ、お前と出会いたくなかった・・・俺の手の届かぬところで愛が生きるなら、俺の闇の世界に何の希望がある?」、このクラッガートの悪は「リチャード3世」的な悪です。彼は善が善であるというだけで、美が美であるというだけで憎いのです。でも、彼にはリチャードにあるような一種の爽快さはありません。なぜなら彼の悪は自己保身だからです。彼には借り物の権力しかなく(リチャードには本当の権力がありました)、狭い無敵号以外に生きる場所もない。だから彼の悪党ぶりはどこか矮小でもの悲しい。この悪を、ビリーはヴィアの目の前で殴り殺します。これは果たして「正義」なのか?これがヴィアの苦悩です。
 
 ビリーが「慈父」であるヴィアに助けを求めるのは当然でしょうが、そのヴィアは慈父ではいられません。彼は無敵号を軍律によって支配するという役目を負っているのです。ビリーの善と美を賛美しつつ、彼はビリーの命を奪う役も引き受けます。悪を滅ぼした善を滅ぼすこの私は、善なのか、悪なのか?ヴィアに突きつけられた矛盾・・・。「俺の悩みはもうすぐ終わる。だからもう艦長を助けられない。輝く星のヴィアに神の祝福を」・・・、ビリーはヴィアの孤独と苦悩を理解し、自分の死を黙って受け入れることでヴィアを許します。ビリーは美しい子守歌を自分に歌い、永遠の港に錨を下ろし静かに眠ることを喜んでいるようです。しかしヴィアがヴィアを許すには長い長い時間が必要でした。
 「嵐の中を進む船が見えた。遠くに光る帆、私にはその船がどこに向かうのかが分かった。その船には永遠に錨を下ろす港があった・・・」、すっかり年老いたヴィアはやっとのことでビリーの与えた許しを受け入れます。永遠に錨を下ろす港、それは引き裂かれた自己の融和であり、自分の中の善と悪を両方とも受け入れることでしょう。神に捨てられた、あるいは神を捨てた自己(船)は、嵐の中を必死に進むことでしか安息(港)にたどり着けない、その港でヴィアはビリーと再会できたのでしょうか?
 
 と、ここまでキリスト教の解釈で聴いてきたのですが、ふと気になることを見つけてしまいました。Billy Budd・・・この「Budd」は「Buddha(仏陀)」に通じているのか?となると、別の解釈も当然あるでしょう。現代オペラはともかく簡単には聴けないことになっているようです。  
 私はこの作品、ナマで見たことがありません。非常に演劇性の高い台本だと思いますので、是非とも一度は劇場で見たいと思っています。
 録音は数が少ないのですが、お薦めは1997年のケント・ナガノ盤です。ビリーをトーマス・ハンプソン、ヴィアをアントニー・ロルフ・ジョンソン(優しく澄んだ声の持ち主です)、クラッガートをエリック・ハーフヴァーソン(どこか湿った暗い声でキャラクターに合っています)。ナガノはこの抽象的な作品にきびきびとした緊張感を与えています。それからヒコックス盤(ビリーをサイモン・キーンリサイド、ヴィアをフィリップ・ラングリッジ)、こちらはヴィアの弱さに焦点を当てた音作り、ナガノ版の苦悩を乗り越える強さに対して、悲劇性を前面に押し出しています。



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