ビゼー 「カルメン」 (2000年4月13日〜2000年5月17日の日記より)
第一幕 出会ったのが運の尽き
地球上で犬の吠えない日はあっても「カルメン」の聞こえない日はありません。どこかで必ず歌われています。ポップなノリの音楽のせいで何か軽めと思われがちなこのオペラ、人気には当然理由があります。何しろどうにでも解釈できるという「スライム型オペラ」です。時代によって、聴く人間によって姿を変えつつ今日まで人気No.1を誇っているのは伊達じゃない・・・ってことでビゼーの「カルメン」です。まず、第一幕から。
序曲、これを聴いたことがないという人を捜すのはホネですよ。幕が開くとセビリアの街、煙草工場の前の軍隊駐屯地(煙草工場って重要施設なのか?)、兵隊達がヒマしてます。そこに田舎娘のミカエラが幼なじみのドン・ホセ伍長を訪ねて登場、ヒマな兵隊達がちょっかいを出しますが、ミカエラは出直してくると逃げ出します。入れ替わりにホセ登場、早速ミカエラのことでからかわれます(こいつらホントにヒマだ)。スニガ隊長は煙草工場の女工達に興味津々(隊長からしてヒマだ)。工場の昼休み、市場をうろつき回る女工達のお尻を追っかける男達、ただ一人ホセだけは下を向いて一生懸命に工作に励んでいます。男達のお目当ては奔放なジプシー女カルメン、婉然と登場したカルメンはひらりひらりと男に色目を使いつつ「恋は野の鳥(ハバネラ)」。恋は野の鳥、言うことなんて聞きゃしない。そっちが嫌いでも私は惚れた、私が惚れたらあんた覚悟しな・・・。このアリアでカルメンは自分の気持ちを直接的に表現しているわけではありません。お気に入りの流行歌を歌っているような感じです。旋律もスペイン風、「これ、オペラ?」って感じの親しみやすい短いモチーフの繰り返しです。「ラ・ムール(恋)」が繰り返されますが、この恋、普通の恋じゃない。何しろ手に負えない、誰にも捕まえられない恋なのです。ここで大切なことは、カルメンは「私は自由な女」であり、こと恋に関しては「ルールなんて知らない」と最初から宣言していることです。ところがこれを一人だけ聞いていないのが周囲に無関心なホセ。このアリアをちゃんと聞いていれば、この後の悲劇は起きなかったはずなのです。
突然音楽が変わります。序曲でも使われたカルメンの誘惑のテーマ。この旋律、全然甘くありません。すごく厳しくてドン、ドンと低音が響く不吉な旋律です。これは誘惑というよりもカルメンによる「ホセ虐殺」のテーマと言った方がいいようです。無関心なホセに気を惹かれたカルメン、花(たいていの舞台では赤い薔薇が使われますが本当は黄色いカシの花です)を投げつけてフェロモンを振りまきつつ退場。田舎モンのホセは花を握りしめて呆然。あれは魔女か・・・?
ミカエラがホセの母親からの手紙を持って再登場。マザコン・ホセはママからの手紙を喜び、ミカエラとの美しい二重唱「お袋はどう、元気か?」で故郷への思いを歌います。カルメンのスペイン流行歌風アリアと違って端正な二重唱、所詮カルメンとホセは生きている世界が全然違うのだと分かります。この時いっそ国に帰っていれば・・・この後ホセは百万回はこう思ったはずです。ホセがママの手紙を読もうとするとミカエラはまた来るからと退場。出たり入ったり落ち着きのない女、ちゃんと理由があります。手紙の中身です。ミカエラを嫁に貰っておくれ・・・分かったよママ、あんなジプシー女!
花を捨てようとしたところで工場で大喧嘩が始まります。主犯はカルメン、隊長に言われてカルメンをしょっぴいたホセはもうドキドキ状態です。逮捕状だか告訴状だかを隊長が書いている間、カルメンとホセは二人きり(兵隊達はヒマなくせして誰も一緒にいてくれない)。この時点で勝負はついてしまっています。いくら両手を縛ったって無駄です。一対一ではホセがカルメンに勝てるわけがない。素敵な伍長さん、逃がしてよ、バカ言え!あんた私が好きなんでしょ?だって花をまだ持っているもの・・・続いて「セギディーリャ」、あの馴染みの店で一杯やって踊りたい、でも彼氏がいないんじゃつまんない、誰か一緒に遊んでくれないかしら・・・。このアリアで大切なのは、カルメンは言い寄る男は大歓迎よと言いつつも、昨日恋人を叩き出してやったと歌っている点です(多くのカルメン歌いは、ここで「ふっ」と笑います。男なんて・・・って感じです)。私は男を捨てる女なのと明言しているのです。選ぶのはカルメンなのです。好いてくれたら好いて上げてもいいよ(決定権はあくまでもカルメンにある)、心が欲しけりゃくれてやる(私はそんなもん、どうだっていいんだ)、大胆な誘惑のアリアです。こんな理屈はウブなホセに理解できるはずもありません。
ホセはここで完全に勘違いをしてしまいます。俺が愛したら、お前も俺を愛してくれるか?カルメンにはバーター取引なんて通用しません。彼女は愛は自由にならないと最初から言っているのです。自由にならないものは取引には使えません。「ハバネラ」を全然聞いていなかった報いですね。ホセの「愛」とカルメンの「愛」は全く別物なのです。カルメンも、いくら男前だからってこんな純情男に柄にもなく手を出してしまいました。この二人、全く違っているからこそ激しく惹かれ合ったのです。未知の異性に惹かれることはよくあることでしょう。問題は未知だって時間が経てば既知になるということです。その時に平凡な日常になってしまった相手をまだ愛することができるかどうか、これが燃え上がった恋が穏やかな愛に変化するかどうかの分岐点です。恋は野の鳥・・・カルメンにそんなことができるはずはありませんし、その気もありません。彼女は刺激のなくなったガムをいつまでも噛んでいるような女じゃないのです。そして、ホセは男前でもそれほど刺激的には見えません。この恋は最初からパッと燃え上がって瞬く間に終わると決まっていたのです。この二人、出会ったのがそもそもの間違いだったのです。カルメンを逃がしてしまうホセ、この逃亡作戦も完全にカルメン主導、ホセはすっ転んだだけです。軍隊丸ごと手玉にとって意気揚々と走り去るカルメン、ホセ、おまえの手に負える女じゃないって、ここでわかんなかったかな〜。日本の警察と違ってスペイン軍は厳しい、ホセは即、格下げ、営巣行きです。
第一幕のポイント
1. カルメンは最初から「私は自由な女」と宣言しているが、ホセはそれを全く聞いていなかった。
2. カルメンは自分から男を捨てる女である。しかし、ホセは自分が愛せば相手に愛されると思い込んでいる。
3. ホセは完全にカルメンに主導権を握られてしまった。
第二幕 カッとなったのが命取り
第二幕の舞台は場末の居酒屋リーリャス・パスティーア。怪しげな連中がたむろする危ない酒場です。カルメンは友達のフラスキータ、メルセデスとご機嫌に歌っています(「ジプシーの歌」)。スペイン観光局が泣いて喜ぶCM場面です(メリメの原作が出た時、ヨーロッパではスペイン旅行が大流行しました。カルメンはスペインに多額の外貨をもたらしているんでしょうね)。スニガ隊長がカルメンに色目を使います。逃亡犯なのにいいのかな?ま、微罪だし、代わりにホセが臭い飯喰って今朝やっと出所したところですからね。
派手な音楽と共に花形闘牛士エスカミリオ登場。闘牛士といえばスペインではJリーガーとジャニーズ事務所を一緒にしたくらいのスーパースター(なんでこんな場末に来たんだ?)。エスカミリオの「闘牛士の歌」、カルメンの歌が粋な端唄風ならこっちはド演歌『闘牛士一代』って感じです。カルメンとエスカミリオが似た者同士であることが音楽から伝わります。俺と付き合わないか?今はダメ、じゃ待つとしようか・・・。愛したら愛してくれるか?とすがったホセに比べて格段の余裕です。彼は闘牛士、勝負の駆け引きについてはプロなのです。彼にとって恋は勇気の報酬、待つのも楽しいと知っています。この二人似ている分だけ、ホセの場合のような衝撃的な出会いではありませんが、勝負師同士、既に火花が散っている雰囲気です。
一同が河岸を変えに出かけた後で、カルメン達は密輸の相談、五重唱「いい話があるぞ」、コロコロと早いテンポ、密輸ってそんなに楽しいかぁ?カルメン達の役割は税関職員を色気でたらし込むこと。でもカルメンは今は兵隊さんに恋しているから行けないと頑なです。ならいっそそいつを密輸団で採用しようという話になったところで、遠くからホセの歌声が・・・龍騎兵の歌「止まれ!誰か」、ホセ唯一のカジュアルな俗謡ですが、舞台の外から聞こえるところが面白い。お気に入りのマーチ『ボクら龍騎兵』を一人で気持ちよさそうに歌っているホセ、性格が出ています。しかし、今朝出所して今はもう深夜、この男何やってたんだ?考えられるのは、1. カルメンのところに行こうか行くまいか迷っていた(会うのが怖かった)、2. 出所を待ち受けていたミカエラに捕まって(「何で営巣なんかに?」「格下げってお給料どうなるの?」「ママに何て言えばいいの?」)それをまくのに苦労した、3. ヒラになったので山ほどの雑用を押し付けられていた、ってとこでしょうか。
やっと現れたホセをカルメンは歓待しますが、すぐに帰営ラッパが響きます(思い切り遅刻しているのですから当然です)。ホセはそそくさと帰り支度、カルメンには規則だの時間割だのは理解できませんから、ホセの態度にカンカン。「とっとと帰んな、坊や!」。ホセが真摯に歌う「花の歌」。出だしに「ホセ虐殺のテーマ」が被りますから、あの誘惑に対する彼の返事に当たります。お前の投げた花、俺ずっと持ってたんだ、何であんな女に、って思いもしたけど、真っ暗闇で考えるのはお前に会いたいってことだけ、俺は最初からお前のものだったんだ・・・。私としては、この時点でホセはフラれると決まったと言ってしまいます。ホセの告白はカルメンが望んでいるものではないからです。萎れた花をいつまでも持っていたからって喜ぶようなカルメンじゃありません。ホセの言葉は美しいです、真実です、でも未来がありません。愛してるはいいとして、これからこうしようという前を向いた言葉がないのです。俺はお前のものなんて言葉は、野の鳥カルメンには通じません。カルメンは男女の所有関係を否定する女なのです。ホセはここでカルメンに何の未来も提示することができませんでした。カルメンはホセの口から聞きたかった言葉を自分で言います。私をあんたの馬の背に乗せて、そして遠くに連れてって。ホセはナヴァラの出身です。貧しい田舎に生まれた男にとって当時の軍隊は唯一まともな就職先です。そこを脱走するなんてホセには絶対にできません。
ここで二人は決裂、ホセは出ていこうとしますが、スケベのスニガ隊長が戻ってきてしまいます。「こら、ヒラ、お前は出て行け」、ホセはここで全く別の性格を見せます。嫉妬深いこと、そしてキレると何をするか分からないという面です。「イヤだ!」カッとなったホセはスニガに剣を抜きます。こんなところで警察沙汰を起こされたらとっても困る密輸団の面々がスニガを取り押さえます。ヒラに格下げになった上に上官に反抗したホセは、もう軍隊ではお先真っ暗。カルメンの熱い声が彼に絡みつきます。「自由、自由に生きようよ!」、カルメンはなぜか執拗にホセを求めます、さっきは「帰んな」だったのに。ホセの嫉妬と怒りがカルメンをそうさせたのです。カッとなったホセ、上官に飛びかかったホセがカルメンにはたまらなく魅力的に見えたのです。我を忘れたあなたって素敵って言われたらどうします?困りますよね。ずっと我を忘れていることなんてできません。カルメンはホセに対して錯覚を起こしてしまったのです。ホセの誤解とカルメンの錯覚が二人を結びつけてしまいます。ホセは伍長から一兵卒、脱走兵、そして犯罪グループの一員へと転落を続けます。
第二幕のポイント
1. カルメンとエスカミリオは似た者同士である。
2. ホセはカルメンに対して彼女の聞きたい言葉を言えなかった。
3. ホセはカッとなると何をするか分からない、カルメンはそこに興奮した。
第三幕 自由という名の牢獄、恋という名の地獄
美しい間奏曲で始まります。冷たく澄んだ、そして哀しい旋律です。これは情景的には第三幕の舞台である山の風景を表現したものでしょう。私にはもう一つの絵が感じられます。それは熾きです。燃えさかった炎が静かに消えようとしています。熱を失い、それでもまだ炎に対して未練を抱いてちらちらと光る暗くて赤い熾き・・・カルメンとホセの恋は終わろうとしています。
密輸団の連中が「仕事はきついが儲けはでかい」と歌っています。仕事にも儲けにも関心がなく、カルメン恋しさでイヤイヤやっているホセは完全に浮いています。そんなホセにカルメンは苛立っています。「ママは俺のことまだ真っ当な男だと思ってる」「だったら国に帰んな、あんたこの仕事向いてないよ」「もう一度言ってみろ!」こんなやり取りがずっと続いているようです。男を「叩き出す」カルメンなのに、ホセとはもつれ合ったままの状態です。どうも今までの男とは勝手が違ってしまったようです。真面目でウブな男ほど叩き出すのは難しいものです。何しろ浮気をしてくれるわけもないし、向こうは必死で愛しているわけですから「お遊びは終わりよ」と言ったところで通じません。ホセも苦しめられながらカルメンから離れられません。恋に免疫のなかった彼はもはやカルメン以外何も見えません。第一、彼にはもう帰るところがありません。何もかも捨てて恋に走って、気がつけば前にも進めず、後にも退けない、完全に袋小路の消耗戦です。
ジプシー女達がトランプ占いを始めます(「カルタの歌」)。大金持ちよ!こっちは色男!景気のいい話の中でカルメンの引くカードは何度やっても「死」。私が最初、次が彼、二人とも死ぬ・・・。女声三重唱の底の底でカルメンの暗い声が淀みます。重たい低音で「死」が繰り返されますが、カルメンは嘆きません。カードは嘘をつかない、私も嘘をつかない。死ぬなら死ぬでいいさ、嘘の人生を生きるくらいなら、という決意なのか。
ミカエラが登場します。「ホセを見つける、そしてきっと連れて帰る、あんな魔女なんかに好きにさせないわ。でも、本当は怖い・・・」、ミカエラはホセの幼なじみです。真面目で正直で優しいホセを愛しています。そのホセが脱走して犯罪者になった、あの魔女のせいよ。ミカエラは知りません、ミカエラの愛、穏やかで慎ましい愛は、官能的で激しく、時には嫉妬に身を焦がし苦痛の叫びを上げる、そんな暴力的な愛の前では色褪せるということを、ホセはそんな愛を知ってしまったのだということを。ホセを自由落下状態に追いやったのはホセ自身なのです。カルメンのアリアが魅力的な悪戯書きなら、こちらは楷書の美しさです。
エスカミリオが登場します。田舎娘に闘牛士、こんなにいろんな人間がやってくるなんて、この密輸ルート、やばいんじゃないっすか?ダンカイロの旦那。「カルメンが脱走兵と一緒だと聞いた。でもカルメンの恋は長くは続かない、そろそろ俺のチャンスってわけさ」、当のホセは「お前、あの女に手を出すと高くつくってこと知ってるのか?」「結構、いくらだって払うよ」「じゃ払ってもらおうか、ナイフで」、男声二重唱「私はエスカミリオ」。ここでのホセ、私は哀れでたまりません。アツアツの頃ならば、ホセは、カルメンには俺がいる、お前なんか相手にしないと笑い飛ばせたはずです。ホセがスニガに飛びかかったのは誇りを傷つけられたからです。そう、あの頃のホセにはまだ誇りがあったのです。今、彼がエスカミリオにナイフを向けるのは、追い詰められたやり場のない怒りからです。エスカミリオは勝手にやって来たわけで、カルメンが彼を呼んだわけではありません。ホセの過剰反応は不安の結果です。カルメンとの恋だけをよりどころに闇雲に突っ走ってきた彼は、今、その恋に不安を感じているのです。見るもの全てが不安の種なのです。彼はここまで落ちぶれました。これは地獄と言っていいでしょう。
ホセがエスカミリオに斬りつけたその時、「止めて、ホセ!」、第一回目の刃傷沙汰の時は素敵だったホセのプッツンも二回目でお相手がエスカミリオとなると(スケベ爺のスニガとは大違い)カルメンも違います。余裕たっぷりに一同を闘牛に招き、ホセにまで挨拶をして去るエスカミリオ、見送るカルメン。隠れていたミカエラが見つかってしまいます。「ホセ、お願いだから一緒に帰って」「放っといてくれ、俺はもう落ちるとこまで落ちたんだ」(甘いな、君の落下はまだまだ続く・・・)、カルメンは「帰んな、その方がいいよ」、厄介払いのチャンスととれる言葉ですが、清純なミカエラにホセとはお似合いの様子を見て、嫉妬から不必要に偽悪的になっているようにも思えます。ホセは逆上します。俺とお前の絆は死ぬまで切れないんだ、この時点で彼は既にストーカー予備軍です。「ママは死にそうなのよ」、ミカエラの言葉がホセに突き刺さります。しかしミカエラ、何で最初にそう言わない?私はここにミカエラの女の意地を見ます。切り札を出さなくても、ホセは私を見たら一緒に帰ろうって言ってくれるかもしれない・・・、しかしホセは全く耳を貸しませんでした。それどころかミカエラの目の前でカルメンへの執着を隠そうともしませんでした。ミカエラはカルメンに負けたのです。そんな傷心のミカエラ(彼女が連れて帰るのはホセの抜け殻に過ぎません)と一緒に山を去るホセの不気味なセリフ「また会うことになる」・・・。仕事再開の密輸団御一行(誰もホセを引き留めません。ホセは完全に落ちこぼれだったようです)の耳に遠くから響く闘牛士の歌、カルメンは過去を捨てます。私には新しい恋が待っているんだ・・・。カルメンは真っ直ぐに顔を上げて歩き出します。
第三幕のポイント
1. ズバリ、「死」。この言葉が繰り返し歌われる。
2. 散々苦しんだホセは「カルメンに執着すること」に執着している。
3. トランプが、そしてホセの言葉がカルメンに死を予感させた。でも彼女は引き返さない。
第四幕 あらかじめ予定されていた殺人
エキゾチックなオーケストラに続いていよいよ第四幕です。出てくるわ、出てくるわ、物売りの群れ、観客、ガキんちょ、闘牛士達に馬まで、これらを雑然とかき混ぜてお祭り気分が盛り上がります。ここが賑やかなほど後半部分の惨劇が引き立ちます。
闘牛が始まろうとしています。物売り達が「安いよ!安いよ!」と威勢良く客を引きます(「たった2クワルト」)。次々と繰り出す闘牛士達、誰がどんな役目なのかを説明してくれる「闘牛士カタログ」のような合唱が最高潮に達した時、着飾ったカルメンをエスコートして金ぴか衣装のエスカミリオ登場、カルメンとの二重唱。面と向かって愛していると言葉を交わす二人、ホセとはこんな場面一回もありませんでした。男を選び、男を捨てる女カルメンと数知れない牛を葬ってきたエスカミリオ、肉食獣同士の御挨拶、お互いに相手が分かっていますから、素直に愛の言葉が口に出てくるのです。「俺が好きなら、カルメン、今日は俺を誇りに思うぞ」・・・エスカミリオは「俺が好きなら」と愛に関する選択権をカルメンに認めています。もちろん好きじゃないというわけないと確信しているからですが(エスカミリオはいつだって自信に満ちています)、「愛してくれるか?」と愛を乞うたホセとの違いは歴然としています。ですからカルメンも「こんなに愛した男はいない」と遠慮なく甘い言葉で答えます(ホセにこんなセリフを言ったらエラいことになります)。しかし、ストーカー・ホセが群衆に紛れています。ここにいちゃダメ、逃げてちょうだい、という友人二人を追い払い、カルメンは話をつけようとホセの登場をたった一人で待ちます。人気のなくなった広場、遠くから聞こえる歓声、がたがたと崩れるオーケストラの旋律、全てが破局を予想させます。
ヨレヨレのホセ登場、仕事も故郷も、母親も許嫁も失って、カルメンへの執着だけが彼を生かしていると言っていいでしょう。長大な二重唱「あんたね、俺だ」・・・ここから先は、二人きりのドラマが続きます。「どこか遠くへ行ってやり直そう」とすがるホセ、「あんたと私は終わったの、それが分からないの?」と突き放すカルメン、どこか遠くへ行こう・・・、この言葉をカルメンは第二幕の居酒屋でこそ聞きたかったのです。今更言われても手遅れです。「お前を救って俺も救われたい」、カルメンは救ってくれなんて一言も言っていません。勝手気ままなアウトロー暮らしは彼女が自分で選んだものなのですから。ホセが勝手にそう思いこんでいるだけです。自由な野の鳥はたとえ愛で出来ているとしても鳥籠は拒否します。いえ、愛で出来ている鳥籠の方がはるかにタチが悪いのだと知っています。この男、まだカルメンが理解できないようです。「もう俺のこと愛していないのか?」、こんな幼稚なセリフしか言えないホセ。カルメンはいくらだってホセから逃げられたのです。なぜ一人で彼を待っていたのか、それがカルメンのホセへの愛なのです。命を危険に晒しても、もう一度ホセと向き合おう、私は野の鳥なんだって、愛は所有できないんだって、終わったことは元には戻らないんだって言おう、そしてもう燃え尽きた恋にしがみついているホセ(何しろ萎れた花も捨てられなかった男です)を解放しよう、これが愛でなくてなんですか?しかしホセの「愛」は一緒に行こう、俺はお前のものでお前は俺のもの、という所有関係としての愛です。これではカルメンは「もう愛していない」と答える他ありません。「俺はお前のもの」ってホセがいくら思ったって、カルメンがそんなもんいらん!と言えばそれまでだということが理解できないホセ。
絶望的に噛み合わない二人の二重唱が続きます。カルメンはここまで流行歌風のアリアで何やら思わせぶりな言葉しか歌っていません。ここで初めてフランス風のきっちりとした旋律に乗せて、自分の本心をストレートに歌います。カルメンだってホセを忘れたわけじゃないんです。だって一度は真剣に愛し合ったのですから。ただホセがカルメンのものになるのは勝手ですが、カルメンは誰のものにもなれないのです。ホセは愛の代償を求めますが、カルメンの愛は何ものとも交換できない「自由な愛」なのです。
「何でもする、それが望みなら山賊だってやる、だから捨てないでくれ!」ホセはここでも交換取引を持ち出します。「セギディーリャ」の時からこの男全然進歩していません。苛立ったカルメンがホセを突き飛ばします。闘牛場からどっと歓声が上がります。「あの男を愛しているのか?」、愛、愛、愛!あんた、愛が何か分かっているの?「そうよ、愛してる!」ホセは進退窮まります。「もううんざりだ!」「殺すの?それとも行かせるの?」カルメンは選択を迫ります。そのどちらもできないからこそホセは苦しんでいるのですが、カルメンは容赦しません。自分で決めて!そうすれば自由になれる、あんたにも自由の意味が分かる、自由っていうのは自分で決めて自分で生きるってことなのよ。ホセは再び懇願します、「これが最後だ、俺と一緒に来るんだ!」、私を脅すの?それともまた膝をついて頼むの?あんたは愛で私を縛ろうとしている、私はいやよ。ホセ、私はもう決めたのよ、今度はあんたが決める番よ。カルメンはホセの買ってくれた指輪を投げつけます。「こんなもの!」、ホセは凍りつきます。俺は自分で選ばなければならないのか?そうまでして俺に決めさせたいのか?カルメン、お前はそれを望むのか?二人の視線が絡まったまま時間が止まります。ホセの手にはナイフが握られます、カルメンが真っ直ぐ前に踏み出します。自分で選ぶのよ、ホセ・・・、私は決してあんたから逃げない。
ホセはカルメンを殺します。遠くから勇ましい闘牛士の歌が微かに聞こえます。無人の広場に明と暗がスペイン流のくっきりとした鮮やかさで描き出されます。「俺の大事なカルメン」・・・動かなくなったカルメンの上にホセが崩れ落ちます。ホセ、君は他の選択肢が全てなくなった最後になって、やっと自分で選んだ、「死」を・・・。
このオペラ、何通りもの解釈が可能です。だからこそ、いつ聴いても心に何かしらを残してくれるのです。私流の聴き方をご紹介します。お楽しみはこれからですよ!
動かない?動く?、どっちもありのお楽しみ
メリメの原作では、カルメンは正真正銘の悪女(歴としたワルの亭主までいる)です。ホセも軍隊を脱走してからは積極的に悪に染まり(その亭主を殺す)ます。かなりどぎついお二人さんです。ビゼーのカルメンではこの毒気がかなり薄められ、カルメンもホセもぐっと身近な人物になり、どちらにも感情移入がしやすくなっています。またミカエラも、カルメンが恐ろしい悪女であったなら、単なるアンチ・テーゼ、どこから見ても非の打ち所のない聖女にしかなれませんが、普通っぽいカルメンを相手にした時、彼女は「別の生き方を選んだ女」として等身大の魅力を持ちます。ホセが優柔不断で不甲斐ない普通の男(「花の歌」のだらしなさを思い出して下さい)であるからこそ、エスカミリオも『闘牛士一代』だけで十分、極端に走らずとも(ホセが相手じゃ楽なもんです)、自分に自信を持っているというだけで十分引き立つことができます。この4人が「どこかその辺にいそうな人」に描かれていることによって、聴く人間が(性別を超えて)カルメンにもホセにもなることができる、これがビゼーのカルメンが今日まで人気を保ってきた理由だと思います。
カルメンは最初から全くその位置を変えません。最初から最後まで「野の鳥」です。これに対してホセは、伍長→一兵卒→脱走兵→出来の悪い犯罪者→ストーカー→殺人者・・・目まぐるしくその位置を変えます(一方的に下るだけですが)。カルメンから見たホセは、あれあれと転落していく早送りの映像ですし、ホセから見たカルメンは、全く動かない、自分のめちゃくちゃな回転運動の中心点のような存在です。そして、それぞれの別のお相手はというと、エスカミリオは最初から自己顕示の強い自信家であり(「闘牛士の歌」の桁外れのパワー!)、カルメンと一緒で、その位置を変えませんし、感情も乱れません。カルメンとエスカミリオは動かない人間同士、それぞれの生き方を確信しつつ向き合っています。転がり落ちるホセを愛したミカエラには激しい感情の起伏があります。「お袋はどう、元気か」での慎ましい愛情表現(ママをだしに使ったキスの何て可愛らしいこと)、そして、第三幕での美しいアリアでホセへの愛とカルメンへの恐れを歌い(カルメンの歌が思わせぶりな言葉で歌われるのに対し、こちらは音楽的にも言葉的にも本当に素直な表現です)、ホセに懇願し、敗北を噛み締めつつホセを連れ戻した彼女は、第四幕では全く登場しません。ホセの人生(残りがあと僅かですが)から彼女はもう外れてしまったのです。この後ミカエラどうしたんでしょう?。黒い服を着て教会に通うだけの人生?私としては、幸せになっていて欲しいのですが。
ある時はカルメン(と、エスカミリオ)と一体となって定点から眺める、ある時はホセ(と、ミカエラ)と一体になって転がり落ちる感覚を味わう、これが「カルメン」の魅力です。
カルメンは執拗に「自由」を歌います。彼女は女性でありジプシーです。二重の意味で束縛された存在です。そんな彼女が好きに生きる場所は、当時はアウトローの世界しかなかったと思います。底辺に生まれ底辺で死ぬしかないと決められた存在、この野の鳥はその言葉とは裏腹に、二重の鳥籠に閉じこめられていると言えるでしょう。その鳥が羽根を大きく伸ばそうとすれば、自分も周囲も傷つけることになるのは当然です。カルメンはそれでも確固たる意志を持って自由であろうとしたのです。そして、結果として命を失います。対するホセは全く自由に関心がありません。彼は(名前からして)歴としたキリスト教徒であり、男です。母親に愛され、努力と運次第では軍隊で出世することも可能です。彼は自由だからこそ自由が分からないのかも知れません。人間、生まれた時から持っているものに疑問を持つことは稀です。
カルメンの誘うままに「自由なアウトロー」になったホセは、皮肉にもその途端に「不自由」になってしまいます。愛に囚われたホセのジタバタぶり、彼は自分で自分を閉じこめてしまったことに気づきません。そしてその愚かさの代償をカルメンの、そして自分の命で払うはめになります。
自由に飢え、自由を求めたために死んだ女、自由でありながら、自由を理解できなかったために死んだ男、ラストシーンでこの二人は本当は差し違えているのです。
ラストに至る過程において、カルメンもホセもそれぞれ二種類に分けて聴くことができると思います。2×2で4通りの聴き方が楽しめるというお得なオペラなんです。
破局までのそれぞれの道のり
純情男が魔性の悪女にひっかかって破滅する、今日、そんな単純な見方ではこのオペラを本当に楽しむことは難しいと思います。初演当時はともかく、今ではカルメンは悪女とすら言えません。有名無名の多くのカルメンたちのおかげで、自分で決めて自分で生きるという当たり前の自由は、今日では(多少の摩擦はあるにせよ)一方的に否定されることはなくなりました。ホセだって変わりました。魔性の虜になった単純な被害者ホセはもうどこにもいません。彼は男達がその強い外見の下に隠してきた弱さを体現するという意味で、今日的な男として生まれ変わりました。時代が変わっても、オペラ・カルメンは形を変えて生き残ったのです。コスチュームプレイの時代劇なら「これはそういう時代のお話なの!」で済むでしょうが、ヴェリズモのカルメンはそうはいきません。何しろリアリティが売り物です。このリアリティの鮮度を保ち続けるには、時代を超えた普遍性が不可欠です。カルメンもホセも、いつの時代にも存在したし、これからだって存在する女と男の象徴であるからこそ、このオペラは多様な解釈をどん欲に飲み込んで、その人気を誇っているのだと思います。破局で終わる物語ですが、どちらかがどちらかを避けていれば(カルメンがホセから逃げれば、ホセがカルメンを諦めれば)殺人は起こらなかったわけですから、この破局は相互的なものです。なぜこの二人がお互いにこだわりを持ち続けてしまったのか、この問いに対する解答を突き詰めること、これが「カルメン」をおなか一杯味わうための鍵だと思います。
カルメンはなぜホセから逃げなかったのか?私は二通りの解釈があると思います。一つは自分で選んで自分で捨てたという自己決定の責任をとったカルメン(以下「知性派カルメン」)です。状況が全然理解できないホセをそのまま放置してトンズラすることは彼女のプライドが許しません。たとえどんなに惨めな結末になったとしても、捨てた男に対して一度は自分で愛したことの責任を果たす、それは全人格を賭けて自由な野の鳥であろうとした彼女が、彼女自身に対して責任をとることでもあります。自由という言葉は、言うのは簡単ですが実現することは難しいものです。他人のせいにしたり結末から逃げたりするのは自由に対する冒涜です。知性派カルメンは野の鳥であると宣言した自分のためにもホセと対峙する必要があったのです。
もう一つは、自分を所有しようとするホセに対する絶望と怒り、それを面と向かってぶつけずにはおられないカルメン(以下「野生派カルメン」)です。花を投げたからって私を投げたわけじゃない、私を所有できると思っているの?私はあんたをかつて愛した、でも愛することを強制されるのは真っ平よ!だって愛って自由なんだから。この野生派カルメンを貫くものは、脅し、懇願、暴力という理不尽な力によって自分を縛ろうとする男、ひいてはその男達が作り上げた社会に対する怒りです。私は女、私はジプシー、だから何?私はあんた達の作り上げた世界なんてごめんよ。私が自由に息ができるのは、アウトローの世界だけ、ここだけは実力がモノを言う世界。ホセ、それを承知でついてきたくせして、あんたは泣き言ばっかり。だから私はあんたを捨てた。私は自由に愛するし自由に捨てる、そのためには命だって賭ける、言う通りになんかならない。カルメンはホセに代表される男達が押しつける価値観に対して壮大な「ノン!」を叩きつけます。
ホセはなぜカルメンから逃れられなかったのか?これも二通りの解釈ができると思います。一つは保守本流とも言うべきホセ(以下「マッチョ・ホセ」)です。真面目な軍人、優しい息子である彼は全く正反対のカルメンと出会い、職を捨て母を嘆かせ、大きな代償を払いました。そうすることでカルメンが自分のものになると信じたからです。ところがどっこい、カルメンは彼のものにはなってくれません。彼は男としての誇りを傷つけられました。どうしてもその償いをさせずにはおられない、カルメンを自分のものにしないことには収まりがつかない、男の威信の問題なのです。このマッチョ・ホセは堅気の世界を離れた途端に自分が役立たずになってしまったことを理解しています。彼は自分の世界(組織、故郷の母、小市民的道徳)から自分を引き離し、無価値にしてしまったカルメンが許せません。二重唱の中での「まだ、間に合う。お前を救って俺も救われたい」、このホセはカルメンを「救う」のは自分でなければならないと主張します。なぜなら彼は男であり、堅気であるからです。このマッチョ・ホセは男は女より強い、堅気はアウトローより偉い、という価値観に囚われています。そんな彼に対してカルメンが「Tiens!」(ほらっ)と指輪を投げた時、彼は自分の価値観が完全に否定されたこと、自分の払った代償は、そもそもカルメンにとって全く無価値であったことを悟ります。
もう一人のホセは依存型(以下「お子様ホセ」)です。カルメンの虜になって以来思考が停止してしまいます。ママのエプロンの紐からカルメンのスカートの裾に、しがみつく対象を変えたと言ってもいいでしょう。優しい恋人ではあるのでしょうが、自分では何も決められない男です。だからこそ、俺はお前なしでは生きられないという一方的思い込みに走ります。そしてカルメンが言うことを聞いてくれないとなった時、彼はカルメンに捨てられる恐怖に凍りつきます。こんなに愛しているのにどうして俺を捨てるんだ?お子様ホセはカルメンしか見ていないようでいて、実はそのカルメンを全く見ていません。私が彼に感じることは、「自分が」愛している、「自分が」捨てられるという、「自分」だけです。二重唱の「何でもする、捨てないでくれ!」(カルメンが彼に何も求めない以上、このセリフは全く無駄です)、「思い出してくれ、あんなに愛し合ったじゃないか」(彼はここでもいつも前を見ているカルメンを理解していません)、この状態で「Tiens!」を投げつけられた時、彼はやっと悟ります。俺は求められていない、俺は何者でもないと。
このそれぞれ二人ずつのカルメンとホセの組合せは4通り、以下のようになります。勿論、これ以外にもたくさんのカルメンとホセがいて(聴く人、見る人の数だけ存在するでしょう)、それぞれが必死に自分を主張しています。
知性派カルメン 野生派カルメン マッチョ・ホセ 一番見応えのある組合せです。互いの価値観がぶつかり合い、最後にはホセの従来の価値観(男の意地)とカルメンの新しい価値観(女の自由)が壮絶に差し違えることになります。 別の惑星の生き物同士と言っていいでしょう。ホセは魔が差し、カルメンはその瞬間を逃すには野生に過ぎました。出会い頭の事故って感じが一番強い組合せです。ご愁傷様・・・。 お子様ホセ この組合せでは魔が差したのはカルメンの方ということになります。カルメンが強さをホセが弱さを体現するという構図で、ある意味、最も現代的な組合せかもしれません。 これはもう山猫と野兎の組合せ。ホセはきれいに食い尽くされて、骨までかみ砕かれて皮しか残らないという虐殺現場の様相を呈します。しかし、このホセが相手じゃカルメンの食欲は満たされない、そりゃエスカミリオに走るわなぁ・・・。
どの組合せを選んだところでエンディングは同じです(いくら何でもこれを変えるわけにはいかない)。全てがこの殺人に集約されます。カルメンは指輪と一緒に自分の生き方を、自分の価値観を、そしてどうにもやりきれない怒りを、ホセに投げつけます。そして、ホセ、男の面子が捨てられないにせよ、必死の懇願を無視されたにせよ、ホセはそれを受け止めます。彼はカルメンを愛した男としての責任をとらなければならないのです。この場面、彼らだけです。ホセは逃げられますが逃げません。「俺を捕まえてくれ、俺が殺した」、ホセはカルメンの投げつけたものを初めてしっかりと受け止めました。彼はここで初めてカルメンを理解します。それは野の鳥であることに命を懸けた籠の鳥です。「俺の大切なカルメン・・・」、この最後の言葉にはやっとカルメンを理解したホセの、遅すぎた共感があります。野の鳥になりたいと思わなかっただけで、ホセだって籠の鳥だったのです。
愛しのダンカイロ・・・脇役を分析する
カルメンを愛した男は誰か?ホセ?そしてエスカミリオ?あと二人忘れていませんか?スケベのスニガ隊長とダンカイロの旦那です。
スニガ隊長は逃亡犯カルメンを一生懸命口説くというかなり困った性格の持ち主です。おかげでプッツンしたホセに飛びかかられ、密輸団ご一行様に短時間とはいえ拉致され、エライ目にあったはずなのですが、第四幕でうれしそうに闘牛見物に現れます。演出によっては、フラスキータ、メルセデスの密輸団一味の女といちゃついて登場します。こうなるとホセを営巣に放り込んだのも計算尽くだったような感じです。あの二枚目のいない間にうまいこと口説いて、ちょこっといい目見ちゃおって感じ。このスニガは第一幕のハバネラのシーンで登場していますから、カルメンの「恋は野の鳥」をきちんと聞いています、というかきちんと聞いていないと言うべきか・・・。何しろカルメンが何を求めていようが、どんな女であろうが全く関心なし、とりあえずイイ女だから口説いちゃおというめちゃくちゃ分かりやすいスケベぶりです。
そしてダンカイロの旦那、これは絶対にカルメンに惚れていたと思います。私はこの旦那好きなんですね。第二幕、「今度の仕事には女が必要」と歌いますが、それなら別にカルメンでなくてもいいはずです。カルメンは工場で大喧嘩して傷害罪で目下逃走中。当然、もう工場には戻れないわけで、酒場でご機嫌に歌って踊ってはいますが、この先どうすんだ?という状態。ダンカイロの旦那はそれをちゃんと知っているのです。そして彼はカルメンが誇り高き女であることも知っています。だから「お前、今プーだろ?」とは言わない。今度の仕事にはお前がどうしても必要なんだってカルメンのプライドを立てているのです。その上「お前はいつだって恋と仕事両方やってのけた」って、カルメンのキャリアを認めています。そしてカルメンと一緒に仕事をするために到底役に立ちそうもないホセ(だって当のカルメンがバカ正直な男だって言っている)を大赤字覚悟でヘッドハンティングします。惚れたカルメンのためなら、目下愛しているという男を(どうせすぐに飽きるけど)手に入れてやるという太っ腹。第四幕の闘牛の場面、エスカミリオはダンカイロも招待したはずですが、彼は登場しません。現在夢中のエスカミリオとのアツアツシーンを邪魔する気なんてないんです。これはオトナの男です。惚れた女が欲しがるなら、たとえ他の男だってあてがってやる・・・かっこいいと思います。このダンカイロが第四幕に登場していたならば、決してカルメンを一人にはしなかったはずです(もっとも、これじゃオペラが成立しなくなりますが)。ホセはもし逮捕から逃れたとしても、絶対にダンカイロに追いかけられてぶっ殺されていたと思います。
カルメンとの付き合いから見れば彼が一番古い。スケベ・スニガはどこかに蹴飛ばしておくとしても、最初にダンカイロ、次がホセ、最後がエスカミリオです。なぜカルメンはダンカイロと恋に落ちなかったのか?密輸団の首領で包容力もあるのに。ダンカイロはカルメンに全てを認めていたんだと思います。そして、そんな彼に恋をしたら、大きなフカフカの枕と同じ、心地良くてもうどこにも行けなくなります。これも一種の鳥籠ではないでしょうか。カルメンはどんなに居心地が良くても籠と名の付くものは全て拒否する女だったのでしょう。でも、もしカルメンが長生きをしたとしたら、絶対に最後はダンカイロのところに帰っていったような気がしますね。
そして、フラスキータとメルセデス、第四幕でストーカー・ホセを発見してカルメンに逃げてと訴えます。カルメンは言うことを聞きません。あんな男怖くない、話をつける・・・。彼女たちはここであっさりと退散します。これって冷たくない?演出には二通りあって、とどまろうとする彼女たちをカルメンが追っ払うという演出と、もう怖いから(何しろ第二幕と第三幕でのプッツンしたホセの恐ろしさを彼女たちは目の前で見ています)さっさと行こうという演出です。彼女たち二人はカルメンとの長いつきあいの中で、自分で決めて自分で落とし前をつけるというカルメンの生き方を黙って受け入れるしかないと理解していたのか・・・。命の危険を冒そうとする友人の自由を尊重する、これはとても勇気のいる友情です。それともこの二人も実は親友なんかではなく、カルメンは孤独だったのか?孤独をキーワードにするとカルメンとホセの関係が少し違って見えてきます。ホセは田舎モンで、ママが恋しくて、第一幕で「国を出てきたことを後悔している」と歌っています。彼は軍隊で孤独だったのかも知れません。そしてカルメンも工場でも密輸団でも、その華やかさとは裏腹に孤独だったとしたら・・・。この二人を結びつけたものはお互いの孤独だったのか・・・。
このオペラ、脇役だって結構手強いんですよ。
彼は闘牛士でなければならなかった
野の鳥カルメンとその虜になったウブなホセ、破滅に向かって突っ走る二人、第四幕の情景の美しさは圧倒的です。想像して下さい。頭の真上にギラギラと輝いている太陽、真っ青な目の眩むような空、カラカラに乾いて埃っぽい空気を。追い詰められたホセの首筋から胸元を流れる冷たい汗、彼のじっとりと湿った掌、そこに握られたナイフの煌めくさまを。カルメンの高く結い上げられた髪を、その漆黒の髪を飾る大きな櫛、縁にちりばめられた宝石が、彼女が「ノン!」と頭を振る度にきらきらと光を放ちます。そしてその決してたじろぐことのない視線は太陽にも負けていません。
ラストを闘牛場に設定したこと、これは天才的なアイデアだと私は思います。闘牛場、これは日本の野球場やサッカー場とは分けが違います。闘牛とは単なるスポーツではありません。野球やサッカーでは誰も死にませんが、闘牛は死(たいていは牛でしょうが、たまには闘牛士ということもある)でフィナーレを迎える一種の野外劇です。この際、要するに牛を殺すわけでしょ?という単純な解釈はなし、牛がかわいそうという解釈もなし。闘牛は単に牛を殺せば勝ちというものでもありませんし(これならあっという間に終わってしまいます)、ましてやたらと凝ったステーキの作り方でもありません。スペイン人にとって闘牛とは生と死を描く一編の即興詩と言っていいでしょう。一頭の牛が放たれた時からそれが死ぬまで、そこでは厳密なルールに則った、しきたりを重んじた劇が繰り広げられます。テーマは、力、技、勇気、そして死・・・。ここでカルメンとホセは対峙することになるのです。舞台設定として最高ですね。
第四幕の最初から賑やかに繰り広げられる物売り達の声、観衆の喝采、その中をエスカミリオと彼にエスコートされたカルメンが登場するシーンの艶やかさ、その後の二重唱の甘さ。これらは全てこれから訪れる死に対する手向けの儀式と言っていいでしょう。カルメンの第四幕は二つのドラマが同時進行する形を取ります。一つは当然にカルメンとホセのドラマ、そして目に見えないドラマである闘牛の主演がエスカミリオ、カルメンを愛した男です。見えるドラマと見えないドラマが完全に歩調を合わせています。突き放すカルメン、すがるホセ、 そして歓声に包まれて、最高の勇気を惜しげもなく披露し、牛にとどめを刺す、自信に満ちた、しかしオペラの観客には見えないエスカミリオ。彼は登場した時から異彩を放っていました。カルメンへの言い寄り方も他の男とは全く違っていました。「じゃ、待つとしようか」・・・待ったって自分のモノになるとは限らないわけですが、彼はその過程を楽しむことができる男なのです。「男たるもの、恋に命を惜しむことはできない」と密輸団のアジトに登場した彼は、そこでホセと鉢合わせ。キレたホセを前にしても「女に会いに来てその色男と出会うとは」と危機的状況を楽しんでいます。彼はいかなる状況に置かれても楽しむことができる男なのです。どんな状況にあっても決して楽しめないホセとは正反対ですね。人生の一瞬、一瞬を楽しみ、あらゆる感情を、たとえそれが恐怖であっても味わい尽くすことを知っている男、エスカミリオはそういう男です。彼は、日々を命懸けで生きる闘牛士なのです。英雄であることを求められるというのは大変なプレッシャーですが、彼はそれをものともしない強靱な精神を持っているのです。彼は恋はいつか終わるものと知っています。闘牛が、牛か自分か、どちらかの死でいつか終わるように。いつか終わるからこそ一瞬が貴重なのだと知っています。ケープの一振り一振りに、剣の一撃一撃に、無限の勇気と美学が盛り込まれているように。「俺が好きなら、カルメン、今日は俺を誇りに思うぞ」、彼は「今日」としか言いません。「明日」のことは分からないと知っているからです。
カルメンとホセの上には終始エスカミリオの影が覆い被さっています。闘牛場からどっと上がる歓声はエスカミリオに対するものです。その歓声がホセをどんどん追い詰めます。見えないエスカミリオにホセは嫉妬と恐怖を感じているのです。エスカミリオは闘牛場で猛り狂う牛を相手に自分の命を懸けています。ホセの目の前のカルメンは「Tiens!」と命を投げつけます。ホセが進退窮まってナイフを握った時、あの闘牛士の歌が聞こえます。そして、エスカミリオは牛を倒し、時を同じくしてカルメンは死にます、同時にホセの人生も終わります。エスカミリオは勝った・・・では、カルメンは?ホセは?
彼ら二人の死を看取るのにエスカミリオほど相応しい男はいないでしょう。彼は常に死を意識し、だからこそ一瞬を生きることを知っていたからです。一生よりも長い一瞬というものを彼は知っていたからです。
カルメンとホセは、人気のない闘牛場の前でその一生よりも長い一瞬を生きたのです。
選り取りみどり、さぁ、持ってけ!
手元にあるCD、LD、VHSを片っ端から鑑賞し直し、これがまた楽しい。
さて、最初は評価の高い(でも嫌いって人も結構いるみたい・・・)サー・ショルティ盤。カルメンはタチアナ・トロヤノス、ホセはプラシド・ドミンゴ。ミカエラがキリ・テ・カナワ(ホントにきれいな歌唱です)、エスカミリオはホセ・ファン・ダム(重厚です)。このカルメンはジプシーそのもの、ホセはマッチョ・ホセ、がっぷり四つの組合せ。トロヤノスは何か埃っぽくて暗い声なんですが、これが土の匂いがしそうで実に良いんです。第四幕のヒリヒリする緊張感は堪えられない美味しさです。続いて、ノリの良さでは随一のアバド盤。カルメンはテレサ・ベルガンザ、ホセはドミンゴ、ミカエラはイレーネ・コトルバス(可愛いんだ、これが)、エスカミリオはシェリル・ミルンズ(辺りを蹴散らす力強さ)。ベルガンザは抑制の利いた、とても知的なカルメン、色っぽいけど媚びないという誇り高きカルメンを自分のものにしています。アバドがしっかりと仕事しています!ドミンゴのマッチョ・ホセはどちらの録音も素晴らしいの一言、自分でもどうしようもない運命に引きずられつつも決してプライドを失わない、そしてそのプライド故に破滅に突っ走る、第四幕のラストでは、運命に弄ばれた男の魂の慟哭とも言うべき歌唱です。
続いて映像編、映画版カルメンの名作をお見逃しなく。監督はあのフランチェスコ・ロージー。カルメンはジュリア・ミゲネス。これが別に美人でもないし小柄だし・・・、なんですが、もう小麦色の爆弾と呼びたいセックス・アピール、一度これを見るとホセ(ドミンゴ)でなくても虜になるカルメンです。お次はちょこっと不思議な作品、メータ盤のロイヤルオペラ(1991年)、カルメンはマリア・ユーイング、ホセはルイス・リマ、ミカエラはレオンティーナ・ヴァドゥーヴァ、エスカミリオはジノ・キリコ(地味・・・)。ユーイングのカルメンは妖艶にして技巧的、声は細いし歌唱もエキセントリックですが、洗練された現代的なカルメンです。お子様ホセの伝統の一角を担うリマ、私はこの人、実を言うとホセしか知らない(だって来日するといっつもこれなんだもん)。高音部を力任せに持ち上げる感じがして、どこか不安定な印象を受けるのですが、この不安定さがお子様ホセにはハマっています。特に第四幕は泣くわ、喚くわの「ホセ狂乱の場」、早々にナイフを放り出してしまう(おかげでラストは手近で凶器を調達するハメになる)というかなりハイレベルのプッツン。ヌリア・エスペルトの演出が実に細かい。そしてレヴァイン盤のMETは1987年。カルメンはご存知アグネス・バルツァ、ホセはホセ・カレーラス、ミカエラがレオーナ・ミッチェル、エスカミリオはサミュエル・レイミー(丁寧でありながらパワフルな歌唱、これじゃ牛も逃げる)。バルツァは野生派カルメンの代表、裸足で舞台を跳ね回り、ドスの利いた声(この人、汚い声を平気で出すんだよね)、ハバネラはもうホセが首根っこ掴まれてドヤしつけられている(オラ、こっち向かんかい!)って感じ。そして問題はカレーラスのホセ、このホセ、マッチョでもお子様でもないという第三のホセを感じさせます。すごく静かに泣いている。「花の歌」のラストをファルセットで歌うという独特の解釈。「俺はお前のものだったんだ」と歌いつつ既に死を感じさせます。心のどっか奥の方で破滅を予感して、それを敢えて受け入れようとしているような、静かな諦観を感じさせるホセなんです。決して強くはない、しっかりと泣いているのですが、かといって声を出して泣くわけではない、カルメンに魅入られた時から全てを諦めている、虎に喉元に噛みつかれ、引き倒された鹿が遠く虚空を見つめる目、そんなものを連想させるホセです。
さて、マリア・カラスもカルメンを録音しています。これは女王様のカルメンです。堂々としていながら妖艶、凄みがあるのに気品を失わない、こんなカルメンじゃホセはもうどうしようもない、「仰せのままに」と転落する以外にないでしょう。但し、この録音(1964年プレートル盤)、良いのはカラスだけ。ホセのニコライ・ゲッタは何か勘違いしているみたい(スカルピア入ってないか?所々ですっごく意地悪な響き、ホセらしくない)ですし、エスカミリオのロベルト・マサールもどこか軽薄、ただの女好きって感じがします。
叶わない望みですが、カラスのカルメンとカレーラスのホセ、この組合せを聴きたかった・・・。圧倒的なカルメンの前に静かに横たわるホセ、この世の向こう側の危ない世界を垣間見せてくれたはずです。
これが見たい!
仮想キャストは、カルメン:マリア・カラス(力強く、そして美しい表現、圧倒的存在感)、ホセ:ホセ・カレーラス(切なくて哀しい、非力なホセ)、ミカエラ:レオンティーナ・ヴァドゥーヴァ(ちょっぴり田舎臭くて可愛い)、エスカミリオ:サミュエル・レイミー(落ち着き払った闘牛士、でも声でホセを圧倒できるはず)。
第一幕、序曲はあらゆる要素がごった煮になってるからメリハリつけて、弦と金管のバランスが鍵。ヒマな兵隊達はあくまでもガラ悪く。だいたい下っ端兵隊なんてそんなもん。ミカエラにちょっかい出すシーンもお尻くらい触ってくれ。ミカエラもマジで嫌がって逃げて貰いたい(ホセ、こんなガラの悪い連中と一緒なの?かわいそー)。鐘の後の合唱は後半の「姐ちゃんたち聞いとくれ」は少ししつこいからカット。カルメンには裸足で登場して貰う。「ハバネラ」のカルメンは途中の「ラ・ムール」でホセに気が付く。ホセは銃を止めるピンを作っていることになってるけど、ここは思い切ってナイフを研いで貰おう、そうこれから何度も登場するあのナイフ。「ホセ虐殺のテーマ」ではホセは思わず数歩後ずさる。机か何かに突き当たって行き止まりという具合にいきたい。花を投げたカルメンは一度だけホセを振り返る、何度も振り返ると物欲しげになる。ホセは花をズボンのポケットにしまう(胸にしまうのはちとやり過ぎだと思う)。ミカエラとの二重唱、お二人さんあんまりくっつかないように、何たって両方ウブなんだから。ホセは何度もポケットに手を突っ込んで花を確認すること。カルメンを逮捕したホセ、カルメンは何度も大胆に彼を見るけど、ホセは決してカルメンと目を合わせない。「セギディーリャ」でホセ陥落、ラストはカルメンがホセに縄を絡めるのが主流だけど、私としてはカルメンがホセの頬に片手で触れる、そして見つめ合うというのを見たい(カラスならこの方が似合うと思う)。連行されるカルメン、ホセをつっ転ばせて縄をスニガに投げつけて走れ!スニガ、ホセを2、3発こづくこと。
第二幕、「ジプシーの歌」は観光局のプロモじゃないんだからフラメンコは要らない。エスカミリオ、凱旋シーンなので闘牛士の衣装で登場(この方が分かりやすい)、「闘牛士の歌」はアクションよりも声、軽薄に見えて欲しくない。ホセ、こんな場末初めてなんだからオドオドと入ってくること。カルメンの歓待の踊りはテーブルの上、ホセ、喜びよりも戸惑いが欲しい(こんなの初めて・・・って感じ)。さぁ帰営ラッパ、ホセここで上着を着るように(但し、ボタンとめないように)。カルメン、ホセの持ち物をぶん投げる。「聞けったら」のところ、手荒いホセよりもともかく必死ってホセが好き。「花の歌」、ホセ、カルメンを見ないこと、面と向かってこんなセリフが言える君じゃないし、第一このアリアはホセの自己陶酔だと思いたい(カルメンにはうれしくも何ともないんだから)。ただ大人しくカルメンの足下に跪く。ラストは思い切ってファルセットでいこう(切なく決めてくれぃ)。いいえ、愛してないわ・・・カルメン、こっから押しまくる。舞台をグルグルとホセを追い詰める。じゃサヨナラだ、カルメン、狙った男が手に入らないなんてこれは屈辱、「アデュー」でグラスか酒瓶、投げてみよう。スニガ登場、チャンバラの後は、ホセ、どエライことしてしまったって感じでアタマ抱えて座り込んで貰う。だから「あんた、決めたわね」の後の「仕方ないさ」はカット!そんなに簡単に思い切れる男じゃない、ここは力無くうなだれていて欲しい。自由の大合唱の最中にカルメン、ホセの軍服を脱がせて放り投げること。ラスト、ホセは混乱しているはず(脱走しちゃった・・・)、ここはカルメンが積極的に(この男ゲット〜!)。
第三幕、密輸団大勢出すのはどうかと思う、難民じゃないんだから。「相棒、がんばれ」の合唱は少々声が不足していても問題ないと思う。ホセ、これを一緒に歌っちゃダメよ、君は落ちこぼれなんだから。三重唱「カルタの歌」、たいていホセは休憩みたいだけど、君も死ぬって話なんだから舞台の上にいること。端っこの方で暗〜く座っていなさい。そして三重唱の最後で座り込んでカードをめくっているカルメンの横に歩み寄って見下ろす、まるで墓標のように。エスカミリオとの男声二重唱ではエスカミリオはナイフを抜かない!闘牛士が元兵隊とは言え素人さんに刃物向けちゃ男が下がる。上着かなんかで軽くあしらって欲しい。エスカミリオがカルメンを口説く、ここは上品に。エスカミリオはあくまでも「待てる男」だからがっつかないのね(ここでキスする演出があるけど、これは好きじゃない)。ホセ、端っこの方でジタバタしてなさい。ミカエラ発見される。ホセにすがるけどホセはミカエラを全然見ない。ずっとカルメンを目で追っている。カルメンもガン飛ばし返すこと。お前と俺の絆は死ぬまで切れない、ここはホセはカルメンの腕をねじ上げて貰いたい。そしてダンカイロの旦那、ホセを突き飛ばして貰いたい。「ママは死にそうなのよ」、初めてホセはミカエラをまともに見る、そこにいることに今気づいたみたいに。ミカエラとホセの退場は、闘牛士の歌の前、ウットリとするカルメンは見せたくない。いくら何でも可哀想。
第四幕、合唱は猥雑で派手に。カルメンとエスカミリオの「愛している」の二重唱は他の闘牛士は退場していること(同じ様な衣装が他にいるとエスカミリオが引き立たない)。ホセ、ストーカーなんだからこの時点で舞台のどっかにいて二人を見ていること。「カルメン、ここにいちゃダメ」、ここはカルメンが傲慢に二人を追っ払う。ホセを待つカルメン、動かない方がいい、落ち着いている方が彼女らしいから。ホセ登場、「もう愛していないのか?」ここは泣きはなし(だってもう愛していないってことは分かっているはず)、分かりきったことをなお問わずにはいられない切なさが欲しい。この後の「何でもする、捨てないでくれ!」ここは泣いてみよう。カルメンがホセを突き飛ばす演出が多いけど、一応男なんで女に突き飛ばされて倒れるのは無理がある。必死ですがるホセからカルメンが身を捩って逃れた拍子にホセが前に引きずられて両手をつくのが自然。「あの男を愛しているのか」「そうよ、愛してる!」ここはホセ、腹痛を堪えるように体を丸めて貰う。決定的な言葉は痛みを伴うはず。「俺は魂の救いを失った!」のホセがカルメンをひっぱたく場面、カルメンは表情を変えないこと。少々ひっぱたかれたくらいで動揺するような女じゃない。激高するホセを冷たく見ている感じでいこう。「これが最後だ、一緒に来るんだ」はホセがカルメンを引っ張る演出が多いけど、これも好きじゃない。その気になれば抱えて連れていくことだって可能なわけで、これは無意味。両手で肩を掴んで「何でだよ?何でなんだよ!」って感じで揺さぶって貰う。その手を逃れたカルメンの「Tiens!」、指輪は真っ直ぐホセに命中させること。しかしホセは指輪を見ない、彼はもう何も見えていない、彼が今感じているのは痛みだけ、視線はカルメンから動かない。「思い知らせてやる!」、これは叫んじゃダメ、自分に言い聞かせるようにつぶやくのがよろしい。ナイフを握ったホセとカルメンはしっかり見つめ合って欲しい。カルメンはナイフなんか見ないでホセの目を見つめること。そしてその彼に向かって真っ直ぐ歩くこと(横をすり抜けようとすると意味が違ってしまう)。カルメンを刺したホセ、ナイフをすぐに捨てちゃダメ。ナイフの伝える感覚を彼が理解するには時間がかかるという感じが欲しい、ここは彼にとっては無限とも思える長い時間だから。「俺が殺した」、ここでナイフを捨てる。そしてゆっくりゆっくり膝をつき、カルメンの上に倒れ込む、まるで祈りを捧げるような感じで。この場面最後まで二人でいいと思う。人が出てくる演出もあるけれど、二人だけの方が私は好き、第一ホセはもうここで死んでいるから、そっとしておいて上げたい。