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モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」 (2000年9月21日〜2000年10月8日の日記より)
悲しい喜劇、あるいはおかしな悲劇
「恋とはどんなものかしら?」とは「フィガロの結婚」のケルビーノのセリフですが、本当に恋って何なんでしょうね?理想の相手と巡り会いたいとは誰もが願っていることです。問題は、本当に理想の相手かどうかは決して分からないということです。人間には先のことなんて分かりません。明日と言わず1時間後に出会う人の方が素敵な人かも知れません。そしてさらに明日、また明日・・・結局終わりなんてないんです(この路線を突き詰めて行くと「ドン・ジョヴァンニ」になります)。この恋の永遠のパラドックスを描いた傑作がモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ(女とはこうしたもの)」、タイトルは女ですが、男だって同じこと、恋とは人類永遠の謎です。
この作品、筋書は無理難題テンコ盛り、ストーリーだけ読めば殆ど吉本新喜劇(松竹新喜劇の筋書はもっとまともです)、台本作家(ロレンツォ・ダ・ポンテ)は酔っぱらっていたに違いない、という作品です。他愛のない恋人の取り換えゲームから起こる24時間のドタバタ劇、「アホくさ」と放り投げたくなるようなお話です。それがなぜ今日では人気作品の一つとして上げられるようになったのか?実はこの作品には数々のトラップが隠されています。これに引っかからないようにして最後まで聴いた時、そう、「アホくさ」とつぶやきつつも涙が出てきます。そんな不思議な傑作なんです。
第一幕、舞台は18世紀末のナポリ、若き士官のフェランドとグリエルモは大の親友、そして二人は美しい姉妹と婚約中。フェランドは妹のドラベッラ、グリエルモは姉のフィオルディリージがお相手です。二人で恋人自慢をしているところに登場したのは老哲学者のドン・アルフォンソ。女が貞淑だって?何ておめでたい連中だ!侮辱だといきり立つ二人にアルフォンソが賭けを提案します。一芝居打って女性陣がまんまと落ちれば私の勝ち、陥落しなければ君らの勝ち、というわけです。賭けようか?と言われて断れないのは世の男の常のようで、二人とも24時間はアルフォンソの台本通りに行動すると約束して賭けの開始。まずアルフォンソが二人の出征を知らせます。軍服で登場したフェランドとグリエルモは大真面目で別れを告げます。涙に暮れるフィオルディリージとドラベッラ。そこに小間使いのデスピーナ登場。彼女はアルフォンソにとっては厄介な存在、何しろ世間ずれしていて、目端は利くし頭もよろしい。アルフォンソはデスピーナを金貨で抱き込みます。
得体の知れないアルバニアの騎士が二人登場、変装したフェランドとグリエルモです(え〜、オペラでは変装しちゃったら絶対にみんな騙されるというお約束がございまして、ですからこの二人も衣装を替えて付け髭をしただけで誰にも分からないということになっております)。お互いに相手を取り換えて(フェランドがフィオルディリージ、グリエルモがドラベッラ)愛を告白します。何て厚かましい男たち!と姉妹はカンカン。恋が叶わないと絶望(本当はホクホクなんだけど)したアルバニア・フェランドとアルバニア・グリエルモは毒薬を呷って自殺の真似事。パニックの姉妹の元に訳の分からない名医(デスピーナの変装)が登場、ラテン語をまくし立て毒抜きの「ER」処置、息を吹き返した男二人を恐る恐る気遣う姉妹・・・同情というのは愛に変わることがままあります。早くもやばい雰囲気。
第二幕、デスピーナがお嬢様方を焚き付けます。女だって15歳にもなれば男を手玉に取るくらいのことできなきゃ。何かその気になってきた姉妹は「ねぇ、あのアルバニア人、どちらがよろしい?」と品定めを始めます。そこにアルバニアの騎士登場、美しい二重唱で姉妹を誘います。アルバニア・グリエルモの甘い口説きとプレゼントに、まずドラベッラ陥落。そしてアルバニア・フェランドはフィオルディリージに熱く恋心を訴えますが、姉の方が少々手強い。私はあの方に貞節を捧げているの。賭けに勝ったというフェランドの喜びもつかの間、ドラベッラ陥落の知らせに彼はガ〜ン。気を取り直して再度チャレンジ、恋を叶えてくれないのなら僕の胸を剣で刺して下さい・・・さしもの姉上も遂に陥落。要するに賭けに負けてしまった訳ですが、このままなぜか結婚式に突入、組合せはアルバニア・フェランドとフィオルディリージ、アルバニア・グリエルモとドラベッラというあべこべカップル。デスピーナ扮する公証人が登場して結婚証書に署名したところに、二人が帰還したとの知らせ(出撃した艦隊が24時間で帰還するか?)、大混乱の中慌てて着替えて登場したフェランドとグリエルモは結婚証書を見て姉妹を非難します。そこに割って入ったアルフォンソ、「女なんてみんなこうしたものさ」、反省する姉妹、人を試すなんてバカだったと後悔する士官二人、そして大満足のアルフォンソ、何で私まで騙されるわけ?とバイト代貰っても釈然としないデスピーナ・・・で幕です。
さて、ここで問題。この後二組のカップル、どうなると思います?
台本の罠
この作品を聴いて一番不自然に感じるのは、全ての出来事が一日のうちに起こったとされている点です。これは忙しいったらない。特に士官の二人は、アルフォンソと賭けをして、姉妹と別れて、アルバニアの騎士として求愛して、自殺未遂(の真似)をして、デートに誘って、必死で口説いて、結婚式挙げて、再び士官として登場して、姉妹を詰って、元の鞘に収まる・・・と。この設定のおかげで姉妹もアッという間に心変わりしなければなりません。非常に不自然です。なぜダ・ポンテはこんな設定にしたのか?これは私なりの推理なのですが、演劇発祥の古代ギリシャでは、お芝居というのは一日の出来事でなければならないというルールがあったんですね。当時の演劇は太陽の下での野外劇、緞帳も幕も照明もありませんから、時間の経過を表現する手段がなかったのだと思います。ダ・ポンテはわざとこの手法を用いたのではないでしょうか?ギリシャ古典劇の形式を踏まえることで、「コジ」は明け方に見たヘンテコな夢、といった現実離れした雰囲気を持っています。お話自体は恋人交換という生臭いもの(スワッピングだもんな〜)ですが、こんなことが一日で起こるわけはないのは誰にも明らかですから、その生々しさが消え、これは所詮お伽話なんですよ、という非現実性が一種の救いとなっているのです。
士官の二人の熱烈な姉妹への賛辞の言葉からいきなり賭けに進みます。この前に二組のカップルのアツアツシーンを入れる方が自然なのですが、これを省略したものですから、聴いている側には士官二人の愛の「裏付け」が取れません。男が勝手に熱くなっているだけともとれます。この後の別れの場面では姉妹は涙をこぼしますが、士官二人は戦争に行く(ことになっている)わけで、下手をすればこれっきり、こんな状況ではどんな女だって涙くらい流します。愛の場面がなくていきなり別れの場面、ダ・ポンテは姉妹の本音の本音を巧みにぼかしています。
デスピーナの愚痴(半時間もココアをかき回して味わうのは他人様ときた)は重要です。彼女のリアリストぶりがフワフワとした恋人達の愛の言葉に非現実性を与えます。アルフォンソはデスピーナを「甘い言葉」ではなく「金貨」で丸め込みます。この二人の現実主義者の存在によって恋人達は彼らに操られるピエロという性格を持ち、彼らがピエロだからこそドタバタ劇を夢物語として距離を置いて見ることができるのです。
アルバニア人たちの求愛の場面、挨拶抜きでいきなり「好きです」「愛しています」と来ます。恋というものの理不尽さです。ガツンと衝撃が走る、顔が好きとか性格がいいとかそんな理屈は後からついてくる、恋なんて出会い頭の事故みたいなもの、という主張です。事故なんですから、いつ、どこで巻き込まれるか分からない、巻き込まれた時には事態は既に手遅れです。恋にトチ狂って滑稽な求愛に必死な二人のアルバニア人にはもう一つの意味が込められています。相手こそ違え、本来のフェランドとグリエルモの姿が重なっているのです(何しろ、見る側は元々のカップルの真摯な愛の場面は一度も見ていないのです)。これはアルフォンソの演出によるお芝居でしょう。でも、元々のカップルだってこれと大差ないんじゃないか?出会い頭の事故でのぼせ上がっているだけなんじゃないか?・・・
ピシャリと振られた男達が愛してくれないなら死んでやる〜という非常に突飛な行動に出た時、ばったりと倒れた彼らの介抱を指示するアルフォンソとデスピーナはお見事です。これは「白衣の天使シンドローム」というヤツですね。病気の男を看病するというのは女性にとっては心ときめくもの、自分の優しさを実感できるんですね。この場合、「相手が好きだから優しくする」んじゃなくて「優しい自分が好きだから優しくする」わけなのですが、自分の優しさを認識させてくれたという意味で、その男にプラスの評価が与えられても不思議ではありません。アルフォンソは一流の心理学者です。 デスピーナの主張(女も15歳になれば男くらい取っ替え引っ替えできなくてどうするの?)は今日から見ても十分過激ですが、その言葉が過激だからこそ、姉妹は現実としてではなくゲームとして男の品定めを始めることができるのです。他愛のない冗談めかした会話・・・どんな大雨だって最初は一滴の雨粒から始まります。無意識に恋心は動き始めます。
お散歩でもいかが?と森をそぞろ歩くあべこべカップル。グリエルモは高価なプレゼントと引換にドラベッラのロケット(フェランドの肖像入り)を巻き上げます。ここでの彼の口説きは一級品です。おかしなことです。賭けをしている訳ですからマジで口説いちゃ負けてしまいます。どうもこの男、親友の彼女をモノにするのが結構気に入ってしまったようです。ですから、この後彼が歌う「ご婦人方、よくやってくれますよ」が何の説得力も持ちません。そういうお前は何なのよ?となってしまいます。女性の不実を嘆く歌声には男の不実がきちんと重なっているのです。
フェランドはというとフィオルディリージ相手に苦戦した挙げ句に退散、勝ったぞ!と喜ぶ彼はドラベッラ陥落を知って落ち込みます。彼の方が親友に対して真面目なようです。ですから、親友と恋人両方から裏切られた彼は、捨て身の求愛(剣で刺して下さい)に出ます。もう怖いモンなし!苦労して手に入れたものが大切に思えるのは当然、結婚式の場面で「毒でも飲ませたい」と姉妹を罵る役回りは苦労をしていないグリエルモのものです。フェランドはなんか本気になっているみたい。デスピーナのそそのかしに最初に乗ったのはドラベッラ、彼女の方が妹らしい軽薄さを持っており、その彼女に対してまんざらでもなさそうなグリエルモ。あくまでも貞節を守ると言い張って、挙げ句の果てに戦場に行くと言い出したフィオルディリージの生真面目さ、その彼女に対して今ひとつ口説きに力が入らなくて賭けという本来の目的の方に気が行っているフェランド。性格的にはこの組合せの方がお似合いに描かれているのです。
また、あべこべカップルの口説きの場面で名前が一切出てきません。あくまでも「あなた」であって偽の恋人達はなぜか相手の名前を呼びません。まさか名前も知らないままでここまで来ちゃったんじゃ・・・とも思われます。アルバニア人たちの名前ときたら結婚証書の場面で初めて出てくるという有様。
ダ・ポンテは、敢えて不自然な時間設定を採用することで物語から現実性を消し去り、固有名詞を極力排除することで抽象性を持たせた上で、あべこべカップルの方に性格の一致を与え、見る側が本当にこの組合せでいいの?という疑問を持つように仕組んでいるのです。
さて、ドタバタの挙げ句に恋人達は元の鞘・・・というのが一応の台本の結末です。しかし、オペラではそうは行きません。モーツァルトがさらに極め付きに美しい「音の罠」を張り巡らせているからです・・・。
音楽の罠
モーツァルトを聴く・・・そこには純粋な音楽の楽しみがあります。次々と繰り出される美しい旋律、その流れに耳をすっかり委ねてしまう快感、この「コジ」も序曲から楽しさに満ちています。軽やかで浮き浮きとした気分に引き込まれ、こんな序曲ではこれから先の物語が悲しかったり深刻であったりするはずがない、さて、せいぜい笑って一時を過ごそうか・・・、実はこれが最初の罠なのです。モーツァルトのオペラの特徴と言えば重唱です。この「コジ」も二重唱から始まって、三、四、六重唱まで、本当に多彩な音の重なりを楽しむことができます。ヴェネチアン・レースのように精緻に編み上げられた旋律の向こう側には何が隠れているのか?
物語は、男声三重唱「僕のドラベッラ」で始まります。いかにも若々しい士官二人の恋人自慢にアルフォンソの皮肉っぽい声(こいつら、アホかいな)、この対立はどんどんエスカレートしていって「素敵なセレナーデを」の賭け成立で締めくくられます。アルフォンソが姉妹に恋人の出征を告げます。ちらりと挟まる短調は何を暗示しているのか?そして恋人達のお別れの場面、五重唱「この足はあなたの前に」「愛くるしい君の瞳」と男達の愛の言葉に「軍隊生活は楽しいぞ」と軽いマーチを挟んで、姉妹の「手紙を書いてね」に続きます。甘く優しい旋律にはおふざけの気配など微塵もありません。これは表向きお芝居だけど、真実の別れなのでは?二組の恋人たちは実はここで「別れて」しまっているのでは?・・・モーツァルトの旋律がそっとほのめかします。デスピーナ登場、「男に、兵隊に誠実を期待するなんて」、出だしから過激です。別れの場面でしんみりとしてしまったところにこの賑やかさ、やっぱりこれは喜劇なんだ、よかった・・・これも罠ですよ。
エキゾチックな衣装に付け髭という漫画のような変装で、謎のアルバニア人が登場します。表向きのお芝居はますます喜劇じみていきます。彼らの愛の告白に対してフィオルディリージの断固たる拒否「風や嵐にも負けず」、大変に広い音域をこれまた大きな振幅で上下し、コロラトゥーラが加わります。フィオルディリージの「無意識」が顔を覗かせています。そう、彼女は実は動揺しているのです。グリエルモの「愛らしい瞳」は、彼女達の拒絶が内心はうれしくてたまらないものですから全然真剣じゃない、最後は笑い声。ところがフェランドの「愛しき人の愛のそよ風」は真剣な美しさに満ちています。軽快なグリエルモと真面目なフェランド、男二人の性格の違いがはっきりと表現され、おふざけの求愛場面にピリリと真実の愛が垣間見えるという凝った音楽、この辺りで見ている方は少し居心地が悪くなってきます。これって笑っていいのよね?・・・笑っていいんですよ〜、笑って下さい!と、ここで自殺未遂のバカ騒ぎ、デスピーナの名医の施すデタラメな治療、モーツァルトはお得意のドタバタ音楽を駆使して改めて喜劇を強調します。そっか、笑っていいんだ〜、安心した!(と騙される)
デスピーナの「女も一五にもなれば」に刺激された姉妹の「あの褐色の髪の方をとるわ」、何しろドレスにしろ料理にしろ、そして男にしろ、あれこれ選んでいるうちはとても楽しいもの。浮き立つような旋律は、姉妹の無意識の変心を巧みに告げています。フェランドとグリエルモのデートのお誘い「優しい風よ」、これがお芝居のはずがないと思える愛情いっぱいの優しい旋律、男声二重唱に甘く絡むクラリネットの暖かい音色、これを袖にするなんて女じゃありません。グリエルモとドラベッラの二重唱「このハートをあなたに」、ちょっぴりエロティックで楽しい恋の語らい。ドラベッラが陥落したのはプレゼントのせいではありません。そして「悪いな、フェランド」と言いつつも、グリエルモは満足そう。何しろこの場面、声と旋律が完全に調和して、この二人いかにもお似合い、こうなるのが当然といった雰囲気なのです。
ところがフェランドの「その美しい魂」は微妙です。彼はフィオルディリージに拒絶されてしまったわけですが、それを喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないのです。このややこしいフェランドに対するフィオルディリージの「お願い、許して、恋人よ」はさらにややこしい。彼女は新しい恋人に心が動いていることを認めますが、後半のロンドでそれを否定します、いえ、否定しようとします。非常に難しいアリアですが、彼女の心が実際に困難に晒されているわけで、難しいのは当然。この彼女の真摯な心情に対して、当のグリエルモは単なる独りよがりの「ご婦人方、よくやってくれますよ」ですから、その後のフェランドの「不実な心に裏切られ」の方がはるかに心に訴えます。続くドラベッラの「恋は盗人」の楽しそうなこと!彼女は新しい恋人と完全に調和してしまったわけで、その喜びを素直に歌います。イマ彼の方が理想の恋人なのですから、モト彼なんてもう全く眼中になし、ストレートな喜びは彼女の若さそのものです。
妹のようにお気楽には行かない姉上は、何と戦場までグリエルモを追っかけると言い出します(「もうすぐ誠実な婚約者の胸に」)。健気というかはた迷惑というか(士官としては立場上とっても困ると思うのですが)。ところがフェランドの熱い歌声がそれを阻止します。フィオルディリージの心が真夏のアイスクリームのように甘く甘く溶けていきます。最初からばっちりシンクロしてしまったグリエルモとドラベッラと違って、こちらの二人はあれこれ悩み苦しんだ分、こってりと濃密な愛の旋律です。フィオルディリージの心の変化に、僕を殺してと迫るフェランドの甘い吐息が絡まって、この二人は愛に酔いつつもどこかで悲しんでいます。フェランドはこれがお芝居であることを、そして、フィオルディリージは自分の心が変わってしまったことを。そして見る側も悲しくなります。お芝居が終われば全ては元に戻ってしまうから、あるいは、お芝居が終わっても決して元には戻れないから・・・、私の心も変わってしまう、あるいは、あなたの心を変えることができるのなら・・・、何が楽しくて、何が悲しいのか?頭がグラグラしてきます。ドタバタ喜劇のつもりでここまで何とか笑ってきたわけですが、まんまとはめられた・・・。
アルフォンソが「人は女性を非難するが」、女とはこうしたものともっともらしいことを歌いますが、物語は既にそんな次元を超えてしまっています。明日の分からない人生、変わってしまう恋人の心、変えることのできる自分の心、それが愛おしく悲しいというところまで行ってしまっているのです。
こうなるとあべこべカップルの結婚式は、もう笑っては見られません。きっかけはどうであれ、これは真実の愛なのですから。その真実の愛がお芝居の幕が下りると同時に失われてしまう・・・のかしら?最後まで元気のいいデスピーナの公証人の化けの皮が剥がれ、士官二人が軍服で登場し、舞台の上ではそれぞれが締めくくりに相応しいセリフを歌っています。陽気な音楽が鳴り響いています。何だかみんな楽しそうです、見ていた観客以外は・・・。
問題の答え
さて、この後二組の恋人達はどうなったのでしょう?
そりゃもう、見ての通り、姉妹は、自分たちが軽率だった、これからは恋人を大切にしますって反省したんだし、士官たちも、人をペテンにかけて試した自分たちもいけなかった、浅はかだったって後悔したんだし、アルフォンソの言う通り、所詮人間なんて、恋なんて、あやふやで脆いものなんだって分かったわけで、それぞれに成長して元の鞘に収まったわけですよ、「雨降って地固まる」ってやつ、めでたし、めでたし・・・本来この作品はこう聴くべきなのだと思います。涙あり笑いありのドタバタ劇、それでいいはずなのです。モーツァルトとダ・ポンテの仕組んだ厄介な罠にまったく気づかずに済めば、美しい旋律と少々おふざけの過ぎる物語を楽しく味わって、幸せ一杯で劇場を後にすることができます。でも、彼らが意地悪く潜ませた問題に一度でも引っかかってしまったら、そうは行きません。この恋人達どうなるの?本当にこの結末でいいの?これが気になって仕方ない、答えが出るまで眠れない。
実は、答えはオペラの中にちゃんと出ているんです。
まずダ・ポンテの答え。第二幕でフィオルディリージが歌う「もうすぐ誠実な婚約者の胸に」の前のレチタティーヴォです。貞節を守るために戦場の恋人(グリエルモ)のところへ行くと言い出した彼女のセリフ、「フェランドの軍服はきっと私にぴったりだわ、ドラベッラはグリエルモのを着ればいいわ」。これはどうしたことなのか?軍服が違っていませんか?サイズの問題?男の服を着る、それも軍服、つまり仕事着を着る、これはキスよりも親密でエロティックな行為です。それについて彼女はフェランドの軍服を選んでいるのです。もちろんこの時点では彼女はアルバニア人がフェランドだとは知りません。知らないからこそ、この発言はすごい。フィオルディリージはグリエルモのところへ行くと変わらぬ愛を歌い、自分は妹みたいに心変わりしないって頑張ってはいますが、彼女の無意識は別の男、フェランドを既に選んでいるのです。
そしてモーツァルトの答え。第一に声質です。フェランドがテノール、グリエルモがバリトン、フィオルディリージがソプラノ、ドラベッラがメゾ・ソプラノ・・・答えは明らかです。テノールとソプラノ、バリトンとメゾの組合せが声質として自然なのです。第二に旋律です。第一幕の別れの場面、遠ざかる船を見送る姉妹とアルフォンソの三重唱「風よ穏やかに」の哀しい美しさ。バイオリンが波の調べを奏で短いアンダンテに込められた惜別の念。「不在とは少し死ぬこと」という諺があります。士官二人は帰ってくることでしょう。しかし、それはもう彼女たちが愛した二人ではありません。失われた「今」は形を変えて戻って来ることはあっても、すっかり元に戻ることはあり得ない、この旋律は永遠の別れを静かに告げています。
これではどうしたってあべこべカップルの方が収まりがよろしい。じゃ君たち、お相手を交換しなさい・・・とは行かないところがこのオペラの厄介なところです。そんな不道徳なことは許されない!というのが初演当時の事情でしょう。では、今日ではそれで話が収まるのか?
この恋人達はパンドラの箱を開けてしまったのです。
人は変わります、心も変わります。それは当然のことで、何もアルフォンソ大先生に教えて頂くまでもありません。問題は、恋人達はそれを受け入れてしまったということなのです。士官二人が簡単に陥落した姉妹を「この尻軽女!」と詰り、「もうお前らなんか知るもんか、アッタマ来た、アッディオ!」となって、姉妹の方が「下らない賭けにコロリと乗って私たちを騙しておいて、よくもそんなこと言えるわね!」「こんなにバカだとは思わなかった、愛想が尽きたのはこっちの方よ!」と男達を叩き出す・・・あるいは、やっぱり新しい恋人の方がいい、元々の組合せはなかったことにしてお互いに新たに恋をしましょう・・・どちらの展開でも、「コジ」はここまで「悲しい」お話にはなりませんでした。
私たちの聴く「コジ」は違います。彼らは自分の心が変わったことを知っていて、恋人の心も変わったことを知っていて、それでも元の鞘に収まります。なぜなら、新しい恋だっていつか変わってしまうことが今では分かっているからです。明日、素敵な人に出会ったら、明後日、もっと素敵な人に出会ったら、それで恋は終わり・・・そしてまた新しい恋が始まる、男と女の鬼ごっこは永遠に終わらない・・・。恋人達はそれを受け入れてしまったのです。「僕は(私は)あなたをずっとずっと永遠に愛する」・・・フェランドは、グリエルモは、フィオルディリージは、ドラベッラは、そんな言葉をもう決して信じないでしょう。これがパンドラの箱なのです。人は変わる、どんどん変わればいいさ、先のことは分からない、だからこそ人生は面白い、これがアルフォンソ大先生の主張であり、それは真実です。この真実を受け入れた時、何か別の大切なもの(それが若さなのか、純粋さなのか、私には分かりません)が音もなく壊れます。変わらないと言い張りつつ失われていった恋人達は、決して戻ってきません。
表向きは他愛のない「喜劇」と見せておきながら、モーツァルトもダ・ポンテも喪失をテーマにする「悲劇」を見事に描いています。バカバカしいけど結構笑えたね、と言いつつ、涙が出てきませんか?
甘いウィンナコーヒーにラム酒を添えて
「啓蒙=無知蒙昧な状態を啓発して教え導くこと」(広辞苑)・・・。この啓蒙というヤツが17世紀末から18世紀後半にかけてヨーロッパで大流行しました。元々は、宗教的権威に対して人間性・合理性を主張し、正しい教育を通じて人間を進歩させようという思想で、仰ることはごもっともです。遠くの国会とか大統領府なんかでやってくれる分には大変結構なのですが、これを身近でやられるとなるとちょっとばかり厄介かも知れません。そう、ドン・アルフォンソのように。
フェランドとグリエルモは恋人に夢中、「美しくて貞淑で理想の女性」だとぞっこん惚れ込んで幸せなんです。そう、よかったねと放っておけばいいものを、我らが啓蒙思想家のアルフォンソ先生が余計な口出しをしたばっかりに、恋人達は散々な目に遭い、そして何かを失います。世の中には知らない方が幸せってものがたくさんあります。哲学者のアルフォンソがそれを知らないはずがない。だいたい恋人達は今はお互いに夢中ですが、必ず倦怠期が訪れて浮気したり邪険になったりするはずです。「女とはこうしたもの」・・・男とはこうしたもの、これはアルフォンソが教えなくても時間が教えてくれる、この先の人生が教えてくれるものなのです。彼はなぜ士官二人に賭けを持ちかけたのか?
彼は士官二人の「愚かさ」に我慢がならなかったような気がします。アルフォンソが「女なんて当てにならない」という不変の真実(もちろん男だって、つまり「人間とは」と言う意味で)を語った時に、もし士官たちが「でも僕たちは今最高に幸せなんだ、だから先のことなんて考えたくないんだ」と答えたとしたら、あるいは「あんたの年じゃそれを言ってもいいだろうけど、僕らはまだ若いんだ、だから恋を美しいものとして崇めたいのさ」と答えたとしたら・・・、男三人は「人生、そうしたもんだよね」とワインを楽しみつつ笑ってお終いだったことでしょう。アルフォンソに賭けを決意させたのは最初の三重唱中の「そんなことはあり得ない」という士官たちの言葉だったと思います。あり得ないと100%否定している連中の頑迷さ、無知蒙昧は仕方ないとしても、これに頑迷さが加わるとその人間は時が経っても学べません。放っておいたらこの二人ずっと「おバカ」のまんま、アルフォンソは実践教育を決意します。彼が教えたかったのは「女とはこうしたもの」ではなくて、「絶対というものは存在しない」ということだったのでしょう。そして、「無知蒙昧な」二人を「啓蒙」するという大変立派な目的にラム酒のように危険な香りを添えているのは、今を盛りと輝いている若さへの嫉妬・・・でしょうか?
そして元気印のリアリスト、デスピーナ。彼女は「労働者」ですから色恋にかまけるなんてお嬢様方のような贅沢はしません。彼女にとっては、恋なんてよくできたデザートのようなもの、あればうれしいけどなくても構わないという贅沢品なのでしょう。それよりもバイト代貰ってお嬢様方とその恋人を散々に引っかき回す方がずっと面白いっていうもの。名医と公証人役でアカデミー賞もんの演技を披露し、過激な言葉で姉妹を煽り、最後にはアルバニア人たちが士官二人の扮装と知って「ちっ、私としたことがひっかかっちまったぃ」と悔しがるデスピーナですが、「次は見てなよ、お返しするからね」とあくまでも前向きの姿勢を崩しません。私は彼女、好きだな〜。
この作品の演奏には大きく二つのスタイルがあります。ロココを意識し美しい調和を求めるスタイルの代表格はカール・ベームでしょう。74年のザルツブルクのライブ盤は出演者も強力(ブリギット・ファンスベンダー、ヘルマン・プライにペーター・シュライアー)、ふくよかな響きにはこの作品が本来持っている贅を尽くした豊かさがあります。対して現代的な解釈を取り入れドラマティックに盛り上げるのは、82年のムーティ盤(キャサリン・バトル、フランシスコ・アライサ、そして何とアグネス・バルツァ、個性的な組合せ)。この中間と言えるのはアーノンクール盤。88年の映画版はピエール・ポネルの演出。凝った舞台装置と豪華な衣装をソフトフォーカスのレンズが甘く捉え、全体として柔らかい印象ですが、現代的なアクセントも感じられる作品に仕上がっています。
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