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ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 (2001年9月4日〜2001年9月26日の日記より)
呪いと彷徨
古来、人間は神様に呪われると彷徨うことになっているようです。まずはホメロスの「オデュセウス」の物語、トロイアとの戦争に勝ったオデュセウスは、海の神様ポセイドンの怒りに触れて10年間あちこちを彷徨うはめになりました。10年くらいならまぁ良いのですが(良くないか)、もっと気の毒なのは「さまよえるユダヤ人」です。まずはアハスヴェール。十字架を背負ってゴルゴダの丘へ引き立てられる道で疲れ果てたイエスが腰を下ろそうとしたときに、「俺んちの前で休むなっつーの」って一言いってしまったおかげで、イエスから「汝、我が来たるを待て」との御言葉を頂いてしまい、最後の審判の日まで彷徨うことになりました。1542年にはハンブルクの司教さんが彼を目撃したと書いておりますから、この時まで延々1500年彷徨っていたことになります。最後の審判の日はまだ到来しておりませんので、きっと今でもどこかを彷徨っているのでしょう。もう一人かれこれ2000年間も彷徨っているのはピラトの門番だったカルタフィルス。彼は処刑前のイエスを鞭打ったおかげで彷徨うはめになりました。100年毎に眠りに落ちて目覚める時には30歳になっているのだそうです。彼が最後に目撃されたのは1774年のブリュッセル、今頃どこで何をしているんでしょうね。
海の上を彷徨っている人もいます。それが「さまよえるオランダ人(Flying
Dutchman)」。この伝説にはいくつかのバージョンがあります。一つはヴァン・デル・ヴェッケンというオランダ人の船長が嵐の海で神様に毒づいたところ罰を受け、彼の船は喜望峰あたりを永遠に彷徨っているというもの。もう一つはオランダ貴族の兄弟が女の取り合いで喧嘩になり、兄が弟と彼女を殺してしまった、そして兄は永遠に走る無人の船の甲板で、二人の精霊と魂を掛けて終わりのないサイコロ博打をしているというもの、最後は、宝の奪い合いで乗組員全員が殺し合い、ただ一人生き残った船長が幽霊船員と一緒に海上を彷徨っているというものです。
のどかなオデュセウスと違ってユダヤ人とオランダ人の伝説は怖いですね。ユダヤ人伝説には紀元前6世紀のバビロンの捕囚以来世界中に散らばった離散ユダヤ人の体験(ディアスポラ)が強く反映されていると思います。それに加えて西欧の反ユダヤ主義(イエスを処刑したユダヤ人は呪われているという説ですが、その当のイエスもユダヤ人なんですけどね)の伝説化とも言えると思います。そしてオランダ人、16世紀頃から世界の海をまたにかけた彼らですが、当然にあちこちでもう一つの海洋国家イギリスと衝突を繰り返しました。よって今でも英語には「Dutch」がたくさん出てきます。「Dutchman's
anchor=大切な忘れ物」「Dutch comfort=有り難迷惑」「Dutch
concert=バカ騒ぎ」「Dutch treat=割り勘」「to
be in Dutch=メチャ困る」、どうも余り良い意味では使われないようですが、英語ですから当然ですか。
さて、「さまよえるオランダ人(Flying Dutchman)」です。Flying
Dutchmanは本来「幽霊船」という意味です。このDutchmanはオランダ人ではなくてオランダ船のことで、飛ぶように早く走るオランダ船=幽霊船というわけです。この船は風上に向かって進むところを、時には文字通り空を飛んでいるところを目撃されたと言います。この船を見ると災いが起こるとされていますが、伝説の元はイギリスですから、海上でオランダ船に遭遇したイギリスの船乗りの恐怖心がこんな伝説につながったのだと思います。どうしたって「空飛ぶオランダ人」と訳したくなりますが、こう訳すとかつてのオランダのサッカー界の大スター、名フォワード「空飛ぶオランダ人」ことヨハン・クライフのことになってしまいます。
しかし単なる「幽霊船」ではなく「さまよえるオランダ人」と訳したセンスは素晴らしいと思います。「さまよう」、これがなくてはこの作品の真の意味が伝わらないのです。
呪われた人間は不老不死となります。オランダ人船長の場合には、いくら海が荒れても彼の船は決して沈まない、海に飛び込んでも彼は死なない、7年に一度陸に上がって彼に永遠の愛を誓う女性を探すために後腐れなしでナンパができる、結構じゃないですか、何が不満なんでしょう?
なぜ「永遠」が呪いとなるのか?答えは簡単、永遠とは観念でしかなく、実在しないからです。この世のありとあらゆるものが絶対に永遠ではないからです。あなたが永遠に存在し続けると仮定しましょう。あなた以外の全ての人は年老いてやがて死んでいきます。彼らはつかの間の生を楽しみ、ある時は苦しみ、ある時は悲しみ、成熟し、衰え、そして消えていきます。あなたを取り囲む全ての物は、色褪せ、ガタが来て、壊れて、無用なものとなり、そして消えていきます。あなたは彼らが、それらが、次々と現れてはやがて消えていくのをただ見つめるだけです。あなたに残されるもの、それは存在したものが不在になったという認識だけです。消え去るものはその後に空洞を残します。その空洞を次に現れたものが埋めてくれます。そしてそれもいずれ失われ、そこに再び空洞が残る・・・、これが永遠の姿です。果てしない喪失、果てしない不在、そしてあなたが存在する限り、あなたの喪失感は決して失われません。あなたが永遠に存在するとしたら、あなたの喪失感も永遠に続きます。
「さまよう」ということは安息の地がないということです。依って立つべき秩序がないということです。どこにいても同じだということです。彼にとって場所など意味を持たない。荒れ狂う大海原に船を走らせても、噴火している火山の天辺に立っても、戦場のど真ん中に突っ立ったとしても、彼は死なないのですから。どこにいても同じということは、行くべき場所も帰るべき場所もないということです。
一瞬も止まることなく時を刻む時計の針が、地上のありとあらゆる場所を指し示す羅針盤の針が、どこを指していようが彼には関係がない。彼にとって、現在は過去であり、同時に未来であり、ここはここであり、あそこでもある、人をこの世に繋ぎ止める時と所から切り離されて彷徨うオランダ人・・・、だから、彼には名前がない、彼は「無意味」なのです。
永遠に存在するオランダ人は、実は存在しないオランダ人と同じです。彼を見た人も、彼の声を聞いた人も、彼の残した航跡も、彼の刻んだ足跡も、全てがやがて消えてしまいます。彼はただそれを見つめるだけ、果てしなく繰り返し、果てしなく失い続ける、彼に許されるものはそれだけです。そして、何一つ残りはしないという真実を確認するだけ。
このオランダ人船長にはたった一つだけ救われる道があります。7年に一度陸に上がったときに、彼に永遠の愛を捧げる女性と出会えれば、彼は救われるのです。
「永遠に彷徨うオランダ人に永遠の愛を捧げる女性」、これは言ってみれば空想上のバケツで空想上の海の水を全部汲み上げて空っぽにしようという試みと同じです。あってはならない永遠の命を終わらせるために、あってはならない永遠の愛を探し求める、こんな迷宮に迷い込んでしまったとしたら、どれほど恐ろしいことか。
神様は人間にとって一番つらいものは「永遠」であるということをよくご存知のようです。
空が暗くなってきました。鉛色の海が不機嫌そうに渦巻いています。塩気を含んだ空気が急にぼってりと重たく感じられます。陸地が近い証拠にマストにまつわりついて喧しく鳴き交わしていた海鳥たちの姿が、いつの間にか消えてしまいました。嵐が来るようです。
第一幕 嵐
一気にワーグナー・ワールドに引き込まれる序曲で幕が開きます。不協和音がなぜかゾクゾクするほど色っぽく響き、ホルンの奏でるオランダ人の動機の男臭さ、舞い上がってはクルクルと落下する弦、荒ぶる海が見事に描かれます。
ノルウェーの海岸、切り立った岸壁が冷たく人間を拒絶するかのような荒涼たる風景、嵐が荒れ狂っています。あと一息で港に帰れるところだったのに嵐に吹き流されてしまったダーラントの船が入り江に錨を降ろします。水夫たちが懸命に働く中、安全を確認したダーラントは舵手に見張りを命じます。テノールの舵手の歌う「遠い海から嵐と共に」、こじんまりとした望郷の歌です。船はユラユラと揺れ、さすがに疲れたのか、舵手はいつの間にか眠り込んでしまいます。
辺りが暗くなり、遠くに船影が見えます。真っ黒なマスト、風を孕んで膨らむ血のように赤い帆、「さまよえるオランダ人」の船がその姿を現します。ダーラントの船の反対側に投錨し帆を降ろしたその船、甲板で働く水夫たちはまるで幽霊のように静か。
上陸したオランダ人は、アリア「期限は切れた」で呪われた我が身を嘆きます。また7年が過ぎ去った・・・海に身を投げても、船を浅瀬に突っ込ませても、海賊を挑発しても、それでも死ぬことのできない我が身を嘆きます。天使よ、お前の示した救済は私を愚弄するためのものか?無駄な希望、甲斐のない妄想、この世に貞節などありはしない。いつになったら最後の審判の日は来るのか・・・。
ダーラントが見知らぬ船を発見し、眠っていた舵手を叱ります。オランダ人に事情を尋ねると返ってきた答えは何とも奇妙なものでした。荒海をさまよって何年経ったかも知らぬ、どこにも故郷はない。君の家に迎えて貰えないだろうか、私の宝と取引しないか。オランダ人が取り出したのは宝石を詰め込んだ木箱、驚くダーラントに対してオランダ人がさらに奇妙な話を持ち出します。もし君の家を私の故郷としてくれるなら、全財産を差し上げよう・・・娘はおられるか?いるとも、美しく誠実な娘が。オランダ人はいきなり結婚を申し込み、なんとダーラントはそれを承知してしまいます。
空が明るくなります。嵐は去ったようです。水夫たちが声を合わせて帆を上げます。ダーラントの船とオランダ人の船は、船影を重ね合わせるように入り江を後にします。海の向こうに待っているのはダーラントの故郷、そして彼の娘、それはオランダ人の希望となり得るのでしょうか。
初対面でいきなり「お嬢さんいますか?」「じゃ、結婚させて下さい」ってあんまりな展開です。それをまたホイホイ承知するダーラント、木箱一杯の真珠や宝石に目が眩んでのことですから、これは結婚じゃなくて人身売買ではなかろうか?オランダ人は彼に永遠の愛を捧げる女性が現れた時に救済されるとなっているわけですが、その女性を金で買おうっていうわけ?これで神様は許してくれるのかしら?それに彼の救済とは即ち死ぬことです。つまり、彼に永遠の愛を捧げた女性は、その瞬間に未亡人になってしまいます。これはあんまりだ。だいたい神様の課した条件というのが悪い。女性から永遠の愛を捧げてもらうってことは、オランダ人の救済は他力本願ということです。自力の救済方法、彼がどこかの女性に永遠の愛を捧げれば死ねる、こっちの方が自然だと思います。
神様のこの意地悪さを思えば、オランダ人の人身売買的求愛も納得できます。自分が女に惚れ込むのなら分かる、これなら自分で何とかできます。しかし、彼は女から愛されないといけないのです、それも永遠に。人の心の中なんて誰にも分かりません。「愛しているわ、永遠に」と囁いてくれる女性を見つけることはできるでしょう。しかし、それは言葉だけです。人間は嘘をつきます、それも恋している時にはよけいに嘘をつきます。なぜなら嘘をついている本人が嘘だとは思っていないからです。恋とは自分の嘘を、そして相手の嘘を信じることなのです。
彼がいつから彷徨っているのかよく分かりませんが、その間の苦悩は十分に理解できます。7年に一度のチャンス、陸に上がった彼はこれはと思う女にアタックしたことでしょう。何しろ宝石も金貨もたんまり持っているから女に不自由はしないでしょう。しかし、永遠の愛を手に入れることはできなかった。できるはずがありません、そんなもの地上にはないのです。有限の人間の命から永遠の愛が生まれるわけがない。そしてオランダ人はそれをいつの頃からか、知ってしまったのです。「私をお前の嘲弄の道具にしたに過ぎないのか?」、彼は既に希望を失っています。しかし、彼には絶望することができない。絶望とはそれが決して実現しないと悟ることであり、全てを投げ捨てることです。永遠に生きるオランダ人には、それが決して実現しないと言い切ることができないのです。何しろ時間だけは無限にある、アメーバが人間に進化する過程を全て見ることだってできる、それだけの時間があればどんなことだって起こり得るのです。そして全てを投げ捨てることもできないのです。彼の命には終わりがない、命を捨てることができないということは、全てを捨てることは不可能だということです。何を捨てたって命は残る、命が残れば心も残る、そして心というのは、それがある限り、「その次」を生み出してしまうのです。
神様を怒らせるとエラい目に遭います。程々のおつき合いにしておいた方が良いようです。
この幕の魅力は、まず、ドライブ感溢れる序曲、そしてテノールの舵手くんの歌う美しい望郷の歌です。「愛しい娘よ、俺は戻った、南風よ、吹いてくれ、愛しいあの子が俺を待っている」、帰る場所があり、待っている人がいる、この後登場するオランダ人のモノローグの孤独を思えば、なんでもない平凡な彼の望郷の念がまるで奇跡のように美しく響きます。そしてオランダ人とダーラントの二重唱「遠くから私は来た」のリズムの書き分けの巧みさ、長い音を重たく引き延ばしてダーラントに娘を求めるオランダ人の半ばやけっぱちの強引さ、小刻みに宝物への執着を歌うダーラントの卑小な滑稽さの対比が見事です。
そして、何よりも合唱の力強さ、「ハロホ!ハロヨ!ホホホ!ヨロホ!」、全く意味不明の掛け声には、単純な喜びが溢れています。嵐を乗り切ろう、そして家に帰ろう、そこでは誰かが待っていてくれて、ぐっすり眠れる暖かいベッドがある、だから、兄弟、みんなで力を合わせてあそこに帰ろう・・・、この当たり前の光景、平凡な水夫たちの平凡な人生、有限の命を生きる彼らの、有限だからこその生の喜びが伝わってきます。「あの娘が俺を待ちに待っている」、オランダ人の耳には、この水夫たちの掛け声がどれほど輝かしく響いたことでしょう。
「帰ろう」・・・、美しい言葉です。
第二幕 宿命
ダーラントの家では、男たちの帰りを待つ女たちが糸を紡いでいます。「廻れ、かわいい糸車」、手も口も忙しく動かしながら陽気な女たちの楽しげな合唱。しかし、ダーラントの娘ゼンタだけは一人物思いに耽っています。「海であの船に出会ったことがありますか」、ゼンタの心を覆っているのは「さまよえるオランダ人」への妄想です。壁に掛かったオランダ人の肖像画を見つめて一人呟くゼンタ、「この青白き男に救済が来るでしょう」「一人の女が彼に忠誠を捧げるように祈りましょう」「あなたを貞節で救うべき女はこの私」、ゼンタは壁の絵に取り憑かれています。
ゼンタに想いを寄せる猟師のエリックが登場します。「僕の心は死ぬまで君のもの」「君の父上は金に目がない、でも僕は君が欲しいんだ」、ストレートな求愛の言葉も絵の中のオランダ人に没入しているゼンタには届きません。ゼンタにエリックが語る不思議な夢の物語。「高い岩の上で夢見心地で僕は見た、あの黒い服、青白い顔、あの船乗りを」、それから私はどうしたの?「君は彼の足下に身を投げ出して」そして?「熱いキスをした」それから?「君たち二人は遠ざかっていった」・・・、エリックにとっては悪夢ですが、ゼンタは自分の妄想が実現する予感におののきます。そしてその姿に絶望して走り去るエリック。
ドアが開きます。戸口に立ち尽くすのは正に絵の通りの船乗り、無言で見つめ合うオランダ人とゼンタ。どうしようもないお邪魔虫のダータント親父が長々と二人を紹介しますが、ご両人は全然聞いていません。ダーラントが立ち去ってオランダ人のモノローグとゼンタのモノローグが絡み合います。「遠く過ぎ去った過去の中から」永遠の夢が今目の前に、愛か?いや、これこそ救済への憧れ・・・、彼の悲しみが心を打つ、あなたの救済が私によって得られるならば・・・。
やがてそれぞれの物思いから解放された二人の語らい、「お父上の選択にご不満か?」「私がどうなろうと父の意思に従います」「神よ救済を」「神よ私によってこの救済を」「これからの運命とその犠牲をご承知か?」「女の神聖な義務は知っております」・・・、なんか話がメチャクチャな方向へどんどん進んでしまいますが、あっちの世界で愛を囁くご両人は、救済を得ること、与えることに陶酔しています。現実的なダーラント登場、歓喜の三重唱(オランダ人は救済を得ることへの期待で、ゼンタは救済を与えることへの期待で、そしてダーラントはお宝への期待で)で幕が下ります。
壁の絵に向かって熱く救済を語る異様なゼンタ、早くセラピストに見せた方がいいです。船乗りの町でなぜか猟師をやっているエリック、彼は海の男ではありませんから、少々浮いている雰囲気です。ワーグナーも彼にはどこか調子の狂った「いかにもオペラ」的旋律を与え、その余所者ぶりを強調しているように思われます。そしてお宝のために娘を売っちゃったダーラントの「娘よ、この見知らぬ方を歓迎しておくれ」の見当違いの流麗さ。「この娘をご覧下さい、お気に召しましたか?」、そして呆然と立ち尽くす娘に黄金を見せて「これもお前のものなのだ」って、このオヤジ、どうしようもありません。いくら旋律が美しくても、いくら美声のバスが歌っても、これじゃ女衒かポン引きのセリフでしょう。というわけで、私は退場してくれるとなぜかホッとします。
この幕のポイントは、死ぬに死ねない呪われたオランダ人と完全にビョーキのゼンタという異様な二人の出会いを、歌う側がどう伝えるか、聴く側がどう捉えるかにかかっています。
二人の出会い、これは恋ではありません。ゼンタは最初からオランダ人を自分が救済することを「知って」います。彼女が歌う神憑り的な呪われたオランダ人伝説のバラード、「昔々あったとさ」って感じで他の娘たちもよく知っている物語なのですが、ゼンタにとって、それは「物語」ではなくて来るべき約束された「現実」なのです。「あなたを貞節によって救うべき女は私なのです」「私によってあの方は救われるべきなのです」、ゼンタが確信しているのは愛ではなくて救済です。
そんなゼンタに対して愛を訴えるエリックの言葉は、当然、虚しく上滑りしていきます。「神よ、あなたを守り給え」、エリックは第一幕そのものを夢で見てしまっています。彼の愛はオランダ人の救済の前にあっては全く無力なのです。彼の夢物語はゼンタに救済が実現することを示唆し、彼女を一層「あっち側」に押し込んでしまいます。
オランダ人とゼンタの「遠く過ぎ去った過去の中から」は愛の二重唱というにはあまりに奇妙です。オランダ人は「不運な私の愛か?いや、これは救済への憧れ」と独り言、対するゼンタも「目覚めの日が今日訪れたのかしら?」と独り言、この二人、一目惚れなんかしておりません。お互いを見てもいません。勝手に自分のアタマの中で自分の願望をつぶやいています。
オランダ人は自分がかの有名な「さまよえるオランダ人」であるとは一言も言いません。ゼンタも彼の素性を尋ねません。この二人は出会った瞬間にお互いの全てを悟ってしまい、語る必要すらないのです。出会った瞬間に二人の関係は完結してしまいます。自己紹介もなければ、愛の語らいもなければ、手を握ることすらしないままで、いきなり最後の目的である救済へと突き進む二人、これは愛なんかではありません。これは宿命なのです。なぜなら救済が実現した途端にオランダ人は死ぬからです。ゼンタには彼を失うことしか許されず、オランダ人には死ぬ以外に未来がありません。彼らはそれを知っていて、なお救済を確信する、こんなもん愛とは呼べないでしょう。
愛には不確定な未来があり、それ故の不安があり、そしてそれを乗り越えるための努力と幸運が必要です。愛はいつだって先が知れず、だからこそ誰もが期待をもって、あるいは怖いモノ見たさでその先へ進みたがる、未来への推進力を持った感情です。宿命にはそれがありません。宿命には好きとか嫌いとかいう選択肢もなく、回り道も逃げ道もありません。宿命と出会ってしまった人間にはそれを受け入れる以外、何もできないのです。
オランダ人にとって、不確定要素を孕んだ愛は、だから最初からお呼びではないのです。彼に必要なもの、それは、まだ見ぬ彼を自分の宿命と捉え、彼を救済することが自分の使命であると確信することのできるゼンタの異常性であったのです。
では、このオペラには愛がないのか・・・?愛はあります、意外なところに。
第三幕 救い
入り江では、嵐を乗り切ったダーラントの船とオランダ人の船が錨を下ろしています。陽気なノルウェーの水夫たちの合唱、「おーい、舵手、こっちへ来いよ!今夜は楽しく一杯やろう。嵐は去った!」、荒れ狂う海を命懸けで乗り切った船乗りたちの純粋な生の喜びが弾けます。娘たちが酒や食べ物を持って登場し、合唱に加わります。少々のガラの悪さも、命の輝きです。対してオランダ人の船は明かりも灯さず、静まり返っています。ノルウェーの水夫たちの悪ふざけが始まります。「お前ら、何百年海にいる?陸への伝言はないのか?爺さんに渡してやるよ」、娘たちもそれに悪ノリ、「それとも干涸らびちゃったの?彼女ももう死んじゃったの?」・・・返ってくるのは沈黙だけ。あんな連中放っておきましょ、と娘たちはご馳走を置いて退散。こりゃ豪勢だと喜んで酒盛りを始める水夫たち。「おーい、お隣さん、起きろよ!今夜は愉快にやろうぜ、一緒に飲もうぜ!嵐は去った!」
突然、オランダ人の船から声が響きます、「ヨホホエ!ヨホホホエ!」、海が泡立ちます。「黒き船長よ、上陸だ!7年が去った、娘よ、貞節を誓え!」、オランダ船の水夫たちの声が周囲を圧倒します。「嵐よ、喚け!俺たちは不死身だ!永遠に死なぬ!」、ノルウェーの水夫たちは恐怖に凍りつきます。まさか・・・『さまよえるオランダ人』?でっ、出た〜!
ゼンタが入り江に向かって走ります。それを懸命に追うエリック、「あのオランダ人のところへ行くのか?」「聞かないで、行かなければならないのよ!」「君は僕に貞節を誓った!」「私があなたに?」「そうとも、忘れたのか?」、必死でゼンタをかき口説くエリックですが、ゼンタの耳には何も入りません。これを陰で聞いていたのはオランダ人、「終わりだ・・・救済は永遠に失われた」。海へ去ろうとするオランダ人、それを必死で止めるゼンタ、全く無駄な口説きをまだ止めないエリックの三重唱。「海を新たに彷徨うのだ。神よ、あなたは私を嘲ったに過ぎぬ」とヤケクソのオランダ人の悪魔的な響き、「何てこった!誰か!ゼンタを助けてくれ!」と震え上がる情けないエリック、そして「私こそがあなたを救うのです!」とオランダ人にすがる「思い込んだら命懸け」のゼンタ、緊張感溢れる場面です。
この大騒ぎにダーラントたちが駆けつけます。オランダ人は血のように赤い帆を掲げた船を指し示し、「この船を知らぬ者はおるまい、人は私を『さまよえるオランダ人』と呼ぶ」、船長の声にオランダ船の船員たちが答えます、「ヨホエ!ヨホエ!」、出航の時です。遠ざかるオランダ船・・・ゼンタが止めるエリックを振り切って海にその身を投げます、「私はあなたに死ぬまでの貞節を誓います!」
沖合のオランダ船が突然海中に沈みます。沸き立つ海は大きな帆船を苦もなく飲み込み、そして静まり返ります。オランダ人とゼンタは一つになって天を目指します。
苦悩する男が女の自己犠牲の愛によって救われる、絵に描いたような男のエゴです。こんな勝手な話をよくもまぁ、しゃあしゃあと、いわゆる男女の愛に視点を置いてこの作品を聴くとこうなってしまいます。視点を少しずらしましょう。
ゼンタを死なせたもの、それは「共鳴」です。壁にかかった絵の中の男、これが映画スターやロック・ミュージシャンなら若い娘として当然の憧れです。しかし、ゼンタは違います。ゼンタは彼が「呪われたオランダ人」であるからこそ、心を奪われたのです。「幸せなオランダ人」だったら何事も起こらなかったはずです。彼女は単に恋い焦がれたのではなく、出会う前からオランダ人の苦悩を自分の苦悩として受け止めていたのです。ゼンタはオランダ人に共鳴したのです。なぜなら彼が不幸であり、孤独であり、苦しんでいたから、そしてゼンタにはそれを自分のこととして感じ取れるだけの感受性があったからです。ゼンタが壁の絵を見た瞬間からオランダ人はもう一人ではなかった、ゼンタはずっとオランダ人と共にあったのです。ゼンタが死んだのはオランダ人のためだけではない、彼と共に苦しむ自分、そして全ての苦しむ人たち、さらに、全てのその苦しみに共鳴する人たちのために彼女は死んだのです。
では愛はないのか?愛はオランダ人の側にあります。ゼンタとエリックのやりとり、一方的に愛を迫るのはエリックであって、ゼンタはそれに対して全く答えません。そもそもエリックの話をまともに聞いてもいません。これでゼンタの貞節を疑うには無理があります。オランダ人はゼンタを愛した、心から愛した、しかし、彼には愛を語ることは許されない、彼の愛はすなわち死なのです。オランダ人はゼンタの有限の命を愛おしく想い、それを守るために再び海へ乗り出します。彼は自分の救済よりもゼンタの命を選んだのです。「さらば、あなたを滅ぼしたくはない」、自己の救済のために愛を求め続けたオランダ人は、ゼンタを知ることによって愛されるのではなく愛することを知り、その選択の結果としての永遠の彷徨を、救済の放棄を、初めて積極的に受け入れます(「我が救済よ、永遠に失せよ!」)。
ゼンタがオランダ人の苦悩に共鳴し、オランダ人がゼンタへの愛ゆえに救済を捨てた時、二人は「自己犠牲」で一つに結合します。お互いのために死を、彷徨を受け入れた時、呪いはあっけなく解けてしまいます。いかに強固な呪いであっても、共に苦しみ、共に分け与えることさえできれば、恐れるには足りません。真に恐れるべきは、共鳴できないこと、愛せないことなのです。
日常と非日常の間
オペラの一番のお楽しみはアリアです。華やかに、悲壮に、あるいは重厚に、その人物の心の底が吐露されるシーン、旋律と歌唱が絡まり合い、ぐんぐん登っていく、これぞオペラのお楽しみです。ところがこの「オランダ人」のアリアは少々厄介です。アリア的な魅力が全くないのです。
第一幕でオランダ人が歌う「期限は切れた」は暗い宿命を語るモノローグ、アリア的華やかさはありません。座りの悪い旋律で永遠の彷徨を嘆き、重苦しく救済を願い、最後はヤケクソ気味の大声。全然きれいじゃない。そしてゼンタのバラード「ヨホホエ、ヨホホホエ」、絵の中のオランダ人への熱い想い、ゼンタが救済を確信していることは繰り返し登場する救済の動機から明らかなのですが、途中で女声合唱が加わります。つまり、日常の中で「オランダ人伝説」を物語として語る娘たちと、非日常の世界でその伝説を現実として捉えるゼンタが一瞬重なっているのです。しかし、第三節ではゼンタの声は消えて合唱のみ、「死ぬまで貞節を誓う娘はどこにいるのでしょう」と問う娘たちの日常の光景、その後のゼンタの「私によってあの方は救われなければならない!」という神憑りの叫び、そこには平行線を辿り決して交わることのない日常と非日常の乖離の厳しさが感じられ、アリアとしてはまとまりを欠いています。
ところが、その後のエリックの口説きには何とも陳腐な「アリア的」響きがあります。非日常の世界の住人であるゼンタに対して生臭くて俗っぽい言葉(財産、猟師としての幸せ、弁護、等々)を華麗に並べ立てる日常人のエリック。そしてエリックよりもさらに生臭いダーラント(娘を売ったわけで、神様、なぜコイツを呪わないのですか?)の「娘よ、この見知らぬ方を歓迎しておくれ」には、まるでわざとのような「アリアっぽさ」があります。
では非日常の世界のお二人さんの二重唱「遠く過ぎ去った過去の中から」はどうか。ゴツゴツとした旋律は取っつき難く、まるでこの二人の世界には聴く人間だって立ち入れないような雰囲気があります。この疎外感がある種の強烈な印象を与えます。
この作品においては、美しい旋律といかにもオペラ的なアリアは、日常、俗世間、有限の世界を表現し、調和のとれない、聴く者を寄せ付けない旋律は、非日常、別世界、永遠の世界を表現しています。これでは、オペラとして収まりの悪いのも納得です。この厄介な状況をピタリとまとめ上げるもの、それが合唱とオーケストラです。
まず序曲、オランダ人の動機とゼンタの動機が繰り返し登場し、その背景を荒涼たる海の風景が埋めています。この作品の全てが凝縮され、交響曲的な分厚く格調高い響き。そして第一幕のラスト、水夫たちの合唱「遙かな海から嵐と共に」のリズムの男っぽさ。これを引き取って響くのは第二幕の冒頭、娘たちの合唱「廻れ、かわいい糸車」、陽気でなんとも愛らしい。圧巻は第三幕のノルウェー水夫たちと幽霊水夫たちの歌合戦。少々お酒が入ったノルウェー水夫たちの陽気な叫び、それに答える幽霊水夫たちの声、前半の掛け合いはゾクゾクするほどの迫力、やがて幽霊水夫たちの声が周囲を圧倒、その後の沈黙の間合いの怖さ、合唱の名手ワーグナーならではの世界です。
というわけで、この作品、オランダ人には悪魔的男っぽさが、ゼンタには神憑り的異様さが欲しいです。私の場合、オランダ人は第三幕、再び海へ出ていく場面での「もはや終わりだ」、ここにどうしても「愛」が欲しい。ヤケクソになる気持ちは分かるけど、その向こう側に愛が透けて見える歌唱が欲しい。そしてゼンタも第三幕、ラストの「命を捨ててもあなたに真心を捧げます」、ここの高音を喚かず、叫ばず、暖かな共感を感じさせる力強さで表現して欲しい。
そして、何よりも肝心なのはオケと合唱、これらのツボさえ押さえてあればかなり満足の行く仕上がりになると思います。ダーラントとエリックはそこそこ歌えていればいいんじゃなかろうか。
1971年のベーム盤、バイロイト祝祭劇場のライブ録音は、トマス・スチュアートのオランダ人、ギネス・ジョーンズのゼンタ。ベームの棒の最後まで緩むことのない厳しさが好きです。スチュアートも暗い雰囲気を良く出しています。1983年のカラヤン盤、ベルリン・フィル、ヨセ・ファン・ダムのオランダ人は少々「オペラ的」でこぎれいにまとまりすぎておりますが、カラヤン率いるベルリン・フィルのスケールの大きさな演奏はお見事です。
この作品に限っては、歌手はさておき、指揮者とオーケストラで選ぶのがよろしいかと思います。
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