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ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 (2003年1月8日〜2003年2月17日の日記より)
都市の遺伝子
鬱蒼と茂る暗い森、ちらちらと輝く木漏れ日が男の粗末な衣服の上で踊っています。聞こえる音といえば鳥の声と川のせせらぎ、男の足の下の枯れ枝が立てる乾いた音、そして、彼の荒い息遣いだけ。横暴な主人に耐えかねて農園を逃げ出してからどれほど歩いたでしょうか。せめて一時でいいから眠りたい、疲れ果てた傷だらけの足を休めたい、そんな体の上げる悲鳴を押し殺し男の足を前に進めているもの、それは99%の恐怖と1%の希望です。若い彼を奴隷商人から買い取るのに大枚の銀貨を費やしたあの強欲な主人が、大事な財産である奴隷の逃亡を黙って見過ごすはずはない、もし捕まって連れ戻されたらどんな惨い目に会うことか。かつて農園を訪れた遍歴の修道僧から聞いた夢のような話・・・、ペグニッツ川に沿って南に下ればそこには都市がある、城壁に守られた都市にはどんな強欲な主人すら手を出せない掟がある、城壁の中に逃げ込んで1年と1日を過ごせば全ての奴隷は自由人として都市の一員に迎え入れられる・・・、本当なのか嘘なのか、しかし、既に逃亡してしまった彼には他に選択肢はありません。日が落ちれば暗い森を支配するのは狼たち、主人に捕まるのはイヤだ、狼の夕食になるのもイヤだ、俺は生きたいんだ!誰の物でもなく俺として生きたいんだ!歩け、止まるな、この足を止めればそこで俺はお終いだ。
太陽が西に傾いた頃、男の目の前が不意に大きく開けました。川から立ち上る霧の向こうに浮かび上がったものは、金色の夕日を浴びて輝く教会の尖塔、夕焼けに染まった高く廻らされた城壁、夕餉の仕度なのでしょう、ゆらゆらと空に上るたくさんの煙、都市だ・・・、あの話は本当だったんだ!あの城壁の中に入れば俺は自由だ!城門に向かって最後の力を振り絞って走り出した男、彼はその都市の名がニュルンベルクであるとは知りません・・・。
さて、こんな統計があります。かつて広大な海外植民地を抱えていたフランスにおける外国人労働者の数は40万人、これに対して植民地を持たなかったドイツの外国人労働者の数は430万人、何で?答えは「アジール法」です。ドイツ基本法第16条「政治的に迫害された者は、庇護権を有する」、現代の「逃亡奴隷」は庇護して「貰う」んじゃない、庇護を受ける「権利」があるというのです。このアジール法のルーツがニュルンベルクを目指した彼が生きた時代、12世紀の自治都市が持っていた外部の力の介入を拒否する治外法権なのです。
当時の農村と都市は全く違った経済によって動いていました。農村の基盤は流動性を持たない土地です。そしてその経済の基本は自給自足です。限られた土地で養うことの出来る人間の数は当然限られます。人口の増加は両刃の剣です。都市の基盤は貨幣経済です。都市の生産能力には土地のような限界はありません。養う口が増えたとしても、彼らが労働力として金を稼いでくれる限りは問題なし、彼らの稼いだ金で彼らの食料を買い、少々のお釣りが出ればそれで黒字です。
しかし、都市は無差別に人を受け入れていたわけではありません。「1年と1日を過ごす」、つまり、1年と1日の間に逃亡奴隷の彼が問題を起こして追放されればお終いですし、1年と1日の間に彼が都市に嫌気が差して出て行ってしまってもお終いです。この1年と1日という日数は、彼という異物が都市に同化するための試験期間なのです。
同化するという意思さえあればどんな人間でも貪欲に飲み込み自分の一部としていく都市の姿は、まるで生き物のよう。そして、この生き物には当然ながら遺伝子があるのです。
都市を支えるもの、それは手工業です。高い生産性を実現するには高い技術が必要です。高い技術を身につけるには長期間の訓練が必要です。そして何よりもより良いものを求める意欲が必要です。俺はこんなもんしか作れない、でも兄貴はあんな細工が出来る、そして親方ときたら、いったいどうやったらあんな見事なものが作れるんだろう?俺もいつかあんなものを、いや、あれよりも良いものを作ってやる。この上昇志向を維持するためにも、都市は常に新しい血を必要としました。
技術とは積み重ねです。昨日発明された技術の上に今日の技術があり、今日の技術の上に明日の技術が花開く、この鎖が途中で途切れてしまっては技術の進化を支える螺旋構造は崩れてしまいます。長い修行期間、徒弟たちはまだ幼い少年です。読み書きを教えてやらなければ新しい情報を理解することができません。算数を教えてやらなければ原価計算も損益分岐点の設定もできません。芸術を鑑賞する術を教えてやらなければより美しい製品を作ることはできません。この総合学習を可能にしたのがマイスター制度です。
徒弟として基礎的な技能を身につけた職人たちは道具箱を抱えて放浪の旅に出ます。あちこちで仕事をすることで、技術は普遍的に広まり、地域が異なっても同じ水準を維持することが可能となります。彼らの彷徨を支えるために各地の組合が職場を紹介し、宿と路銀を保証する制度までありました。こうして遠い異国で新しい文化と新しい技術を学んだ職人たちは、それぞれの都市に帰って親方となり、自らの技術を次の世代に伝えて行きます。技術の鎖はこうして途切れることなく受け継がれていくのです。
職人たちの夢はマイスター、親方と呼ばれること。そして、この親方は徒弟たちにとっては親代わりであり、先生でもあります。いい加減な親方の元ではいい加減な職人しか育ちません。親方のレベルを維持するために生まれたドイツ独自の風習、それが「歌う親方」、マイスタージンガーです。
彼ら職人の組合は別名を「歌学校」と言いました。このピラミッド構造の組織は、弟子、門弟、歌手、詩人という段階を経て、厳しい試験をクリアした者だけがマイスターの称号を得ることができるというものでした。複雑な規則を踏まえた美しい詩をそれに相応しい旋律で歌う、この「歌う親方」には、文学、音楽、修辞学、哲学、神学を網羅した総合的な教養が要求され、それがない人間には徒弟を仕込む資格などないというわけ。どこかの放送局のオヤジの苦労自慢話「プロジェクトX」なんか目じゃないってくらいの高いハードルです。
自分たちで決めたルールによって運営される都市は、いざという時には自らを頼む以外にありません。そんな彼らの自治を支え、伝える遺伝子、それは新しい情報を速やかに吸収し、異なる文化をすばやく取り込み、それを自分たち流に使いこなす職人たちによって途切れることなく繋がれていく強固な「鎖」にあったのです。
さて、現代にも生きるアジール(「聖域」)の伝統ですが、実はドイツにおいては外国人の二重国籍は認められておりません。そう、ドイツで生きるにはドイツ国民になる必要があるのです。自らのルーツを捨てて「鎖」の中の一つの輪として生きることが要求されるのです。城壁に守られた都市は、その城門を開いてはおりますが、その遺伝子の鎖の中に異物を異物のままとして取り込むことは拒むのです。
さて、16世紀半ばのニュルンベルク、また一人、異国の男がその城門をくぐりました。その名を騎士ヴァルター、彼は都市の遺伝子に受け入れられるのでしょうか?
参考文献:阿部謹也「物語 ドイツの歴史」(中公新書)
第一幕 恋は規則通りにはいきません
あまりに有名な前奏曲で物語は始まります。ワーグナー自身の解説にこうあります。「マイスタージンガーたちがきらびやかな祝祭の衣装に身を包んで民衆の前を行進してくる」力強く響くマイスタージンガーの動機。「高々と掲げられた幟には竪琴をひくダビデの肖像」シンプルな和音が響いてマイスタージンガーの行進の動機。「ただ一人、真に民衆的な姿をしたハンス・ザックスが歩く。彼の歌を民衆が声を合わせて歌い」芸術の動機が登場します。「あるマイスターの美しい娘がついたため息・・・その眼差しは不安げに、そして憧れをこめて恋人に向けられる」甘いため息のような愛の動機、そしてマイスタージンガーの動機が軽く滑稽に姿を変えて再び登場、「とうに廃れてしまった」四角四面の歌の規則、その隅っこをほじくるのが生きがいのような人間もいるわけでして。そして、愛の動機はマイスタージンガーの動機と緩やかに溶け合い、歓喜が立ち上ります。
「主は汝のもとに来たり」、賛美歌が響いて舞台は聖カテリナ教会、オルガンに載せて荘重な合唱が響きます。全てのオペラの中でも、これほど美しい幕開けは他にありません。
騎士ヴァルターが金細工のマイスターであるポーグナーの娘エーファにそっと近寄ります。昨日ニュルンベルクに到着した彼ですが、既にエーファと相思相愛、ワーグナーの恋人たちはいつだって「一目惚れ」です。
あの、お嬢さん、もう誰かと婚約してますか?まったく、よそ者ってのはこれだから、と乳母のマクダレーネ、エーファはね、歌合戦で優勝したマイスターと結婚するんですよ。歌合戦?何それ?あなた、マイスタージンガーでしょ?僕が?彼ってまるでダビデの絵姿みたい、彼じゃないなら誰とも結婚したくない!エーファの心は既に決まっています。
マクダレーネの年下の恋人で靴屋のザックスの徒弟ダーヴィト登場、騎士さん、彼から歌合戦の規則をちゃんと教わってちょうだい。
徒弟たちが歌の試験会場の設営を開始。んじゃ行くよ、騎士のおにーさん、「始めよ!」・・・は?だから判定役がこう言ったら歌を始めるの!・・・判定役?にーさん、あんた詩人だよね?・・・知らない、せめて歌手だよね?・・・知らない。あぁ、愛しのレーネ、何で俺にこんな奴押し付けんだよぉ!ダーヴィトが歌の規則の説明を始めますが、ヴァルターにはチンプンカンプン。だからさ、にーさん、いきなりマイスターなんて無理だって。マイスターって何?うっ・・・、ともかくね、判定役が聞き耳立てているからね、7つ以上間違えたらアウトだよ!
金細工師のポーグナーと役場の書記官ベックメッサー登場、エーファとの結婚を狙っているベックメッサーは騎士殿が最初から気に入りませんが、ポーグナーは吟遊詩人が恋の歌を奏でていた昔が帰ってきたようだとご機嫌。それに続いてマイスターたちが勢ぞろい、最後に登場したのは靴屋のザックス。パン屋のコートナーが総勢12人のマイスターの出席を確認し、歌試験の開始です。ポーグナーは、明日の聖ヨハネの祝日に開かれる歌合戦で優勝した者は娘のエーファと結婚する、だからこそエーファも決定権を持つべきと発言。そんな話聞いたことないとベックメッサー。ここでザックスが立ち上がり、エーファの心は民衆の心だ、だから彼女の声も成績に加算すべきだと提案。長年守られてきた規則は大切、でも、規則が惰性に陥った時にはそれを見直すことで歌は命を取り戻す、ザックスの提案に親方衆はブーイング。
さて、本日、マイスターの試験を受けたいと希望する騎士殿をご紹介しましょう。一夜漬けどころか10分漬けの受験生、ヴァルターが登場します。実技試験の前に面接、あなたの生まれは?由緒正しい貴族です。どこの親方に習ったの?古い本で勉強しました。どの学校の出身?美しい自然の中で学びました。やれやれ、騎士殿、来るところ間違えておいでだ。ところで、ほんとに歌えるの?もちろん!
じゃ、始めましょうか、あなたのお題は?恋です!世俗の歌ということは判定役は一人ですね、ベックメッサー殿、どうぞ。判定役が恋敵、ヴァルター君、ツイていません。
「春が森の中に呼びかけた」、ヴァルターが情熱的に歌います。ルール無視の奔放な歌に親方衆は唖然。ベックメッサーが減点を記録する黒板のやかましいこと。カーン!いきなり響く鐘一つ、ご苦労さん!えっ、僕、まだ歌い終わっていないんですけど。もう黒板にバッテン書くスペースがないんだよ。続きはどこかよそでどうぞ。あー、こんなひどい歌初めて聞いた、意味わかんないよね、これじゃ。
ちょっと待った!ザックスが前に出ます。確かに騎士殿の歌は規則通りではなかったけれど立派なものだ、最後まで聞くべきでは?規則違反ばっかりの歌を認めたらマイスターの伝統はどうなるんです?ベックメッサーたちが応酬します。判定役がそもそも最初から敵意剥き出しなのは問題では?あっと、それって個人攻撃ですかぁ?最後まで聞こう!もうたくさん!やれやれ、これじゃあの気の強い娘は納得しない・・・、ポーグナーの父親らしい心配をよそに試験会場は大混乱です。
アッタマに来たヴァルターが大声で歌います、フクロウ(ベックメッサー)が聞き耳を立ててカラス(親方衆)が喚く、金色の鳥(ザックス)は私に飛べと呼びかける、私は歌おう、最愛の女性のために!ジョートーじゃねぇか、あばよ、親方衆!
あの若い騎士、良い度胸だ、本当の詩人だ、一人物思いにふけるザックスをよそに判定結果の発表、騎士ヴァルターは歌い損ないにつき失格!
ヴァルター君じゃなくてもチンプンカンプンのマイスター歌曲の規則、ダーヴィトがまくし立てる「何とかの調べ」というのは、実際に存在した旋律定型の名前です。マイスター歌曲は一章が三節からなり、1節と2節は同じ旋律、3節は別の旋律で一番長いこと、この一章が三つで一つの歌、というものだったらしいです。
たった12人、おまけにみんな顔見知りだというのにコートナーが物々しく繰り広げるマイスターたちの点呼、細かい規則に則っての減点法の歌試験、ザックスが恐れる通り、マイスターたちの芸術は規則と惰性のせいで命を失いかけているのです。
芸術に形式は付き物です。しかし、形式があるから美があるのではなく、美があるからこそ形式が生まれるのです。人は本当に美しいものに遭遇した時、心が沸き立ちます。それを表す言葉は「うぉー」でも「ひえぇー」でも本人にとっては構わないはずです。美は形式がなくても美として存在します。ところが、形式は美がなければだたの空っぽの箱です。芸術とはまず「美ありき」なのです。
ところが、「うぉー」や「ひえぇー」を形式で捉えることを覚えた人間は、その根本にある感動は置いておいて形式の充実に走ります。感動は捉えがたいものですし、感動したいと頑張ったところで感動できるわけでもありませんが、形式はいつでも好きな時に、好きなようにいじくれるからです。感動なしでいじくり回された時、美は死んでしまいます。
ヴァルターはエーファに一目惚れ、彼の心は恋に波打っています。彼の歌はマイスター歌曲の規則には適っていませんが、彼の胸の熱いざわめきは紛れもない本物の感動なのです。ところが、長年に亘って形式ばかりをいじくってきた親方衆にはその感動が分かりません。ただ一人、ザックスを例外として。
コートナーの質問に答えるヴァルターの自己紹介、ベックメッサーのアラ探し、さらに重ねて質問するコートナー、ここでのやり取り、コートナーとベックメッサーの旋律はヴァルターの旋律の焼き直しです。ヴァルターはマイスタージンガーのルーツであるミンネジンガー(吟遊詩人)の流れを引く騎士、彼らが目の前の騎士殿を一生懸命バカにすることで、彼ら自身の無自覚の劣等感が伝わってくる音楽です。
ところがザックスはヴァルターの出自など問題にしません。彼は誰が歌おうが、どう歌おうが、そこに感動があればそれはマイスターの歌なのだと主張します。ザックスはマイスタージンガーたる自分を信じているのです。
マイスタージンガーの伝統を守ろうとするコートナーとベックメッサーが実はマイスタージンガーの精神を裏切り、一見伝統を破壊するかに見えるザックスが実はマイスタージンガーの精神を守っているのです。
さて、失格してしまったヴァルター、エーファとの仲はどうなるのでしょう?小さなヒントがあります。二人がお互いの愛を確信した舞台は聖カテリナ教会です。298年生まれのこの聖女が洗礼を受けた夜、イエスがその夢枕に立ち、花嫁として指輪を渡したと伝えられております。美しく成長した彼女は、その才知と学識によって次々とローマ帝国の高官をキリスト教に改宗させてしまいます。皇帝が誘惑します、キリスト教を捨てればお妃に迎えよう。これを拒んだカテリナはイエスの花嫁のままで処刑されます。この初志貫徹の頑固な花嫁聖カテリナは、知恵の象徴です。
大騒ぎのうちに打ち切りとなった歌試験、ラストで「マイスタージンガーの動機」が陽気に上昇する旋律をお聞き逃しなく。どうも、ザックス親方、聖カテリナのご利益のおかげか、何か楽しい悪戯を思いついたようですよ。
第二幕 祭りに喧嘩は付き物でして
明日はいよいよ聖ヨハネの祭り、徒弟たちが陽気に歌います。ダーヴィト、あの騎士さん、試験どうだった?愛しのレーネ、騎士さんは失格さ。なんてこと、エーファはどうなるの?
ポーグナーとエーファの親子は夕べの散歩から帰宅。明日は晴れそうだ、お前の花婿殿が決まる日に相応しい。私の花婿ってマイスターじゃないとダメなの?そう、でも『お前が選んだ』マイスターだ。そう、私が選ぶのよね。レーネがこっそりとエーファに耳打ち、騎士さん、失格ですって。そんな!どうしよう・・・、そうだ、ザックス親方に聞いてみましょう。
ザックスは一人で夜なべ仕事、しかし、なぜか身が入りません。「ニワトコの花が薫り」何かを言わずにはおられない。俺は貧しく単純な男だ、詩よりもトンカチがお似合いで・・・、感じるが理解できない、覚えられないのに忘れられない、間違いだらけなのに正しかったあの歌・・・、今日歌ったあの若鳥、俺は気に入ったぞ!
親方・・・、エーファじゃないか、明日の花嫁さん、こんなに遅くにどうした?私の花婿さんって誰かしら?さぁて、ベックメッサーが狙っているようだが。親方じゃダメなの?俺はもう年さ。私が好きなんだって思っていたわ、そりゃ素晴らしい。はぐらかさないで、歌試験はどうだった?騎士が一人歌い損ねて失格さ。彼はマイスターにはなれないの?あれじゃどこへ行っても無理だね。そうよね、意地悪な親方がいるところじゃ無理よね、あぁもう、ここ靴臭いわ!
レーネが登場、ベックメッサーが今夜窓辺で歌を聴かせるって言ってますよ。冗談でしょ?そうだ、レーネ、あなたが代わりに聴いてよ、私が?
落第生のヴァルター登場、騎士さん、いえ、あなた!やめてくれ、僕は負け犬だ。あなたは私の勝者よ。一生懸命歌ったのにバカにされて、思い出すだけでムカムカする。エーファ、結婚しよう!組合とか親方とかもうウンザリだ、二人で駆け落ちしよう!エーファ、一緒に来てくれるよね?行くわ、私のお馬鹿さん。
二人の前に現れたのは駆け落ちを阻止しようとするザックス。回れ右をすればいそいそと登場するベックメッサー、茂みに隠れた恋人たちは袋のねずみです。
エーファの部屋の窓の下、ベックメッサーがリュートを構えた途端に靴屋の大声、楽園を追い出された裸足のイブちゃん、足が痛いって泣くもんで、神様、天使にこう言った、靴を作ってやれってさ。うるさいぞ、この靴屋!おや、書記さん、あんたの靴、夜なべして作ってますぜぃ。おぉ、イブの若気の至りのお陰で靴屋は忙しい、「イェールム、イェールム!」
あれって僕たちへの当てつけ?とヴァルター、そう・・・みたいね、とエーファ。
止めんか、この靴屋!これからこのベックメッサーが恋の歌を歌うというのに・・・あっ、窓が開いた!窓辺に現れたのはレーネですが、ベックメッサーは気づきません。靴屋!いえ、靴屋さん、お願いだから私の歌を静かに聴いてくれ、聴きましょう。静かに?静かに。トンカチなしで?そりゃないでしょう、これが商売だ、そうだ、トンカチで点数をつけて上げますぜ、なるほど、ではマイスターの名誉にかけて、靴屋の名誉にかけて、始めよ!
ベックメッサーがセレナードを歌います。一節毎にザックスのトンカチがトンテンカンテンうるさいこと。新しい一日、我は若い娘に求婚しようとて、芸術が肝心であるからして、僭越ながら、栄冠は・・・。ひどい歌のお陰でザックスの仕事はどんどんはかどります。もう済んだ?なぜ?だって靴の方は出来ちまったから。
この大騒ぎに町の人々がぞろぞろ登場します。レーネ!あれはレーネだ、あの野郎、俺のレーネに恋の歌なんて歌いやがって、アッタマ来た!ダーヴィトがベックメッサーに殴りかかります。殴り合いだ!誰が?靴屋だろ?仕立て屋だよ、錠前屋が悪いんだ、家具屋がどうしたって?だから、肉屋だってば!訳分かんないけど、喧嘩だ!喧嘩だぁ!
ザックス親方は大活躍、エーファをポーグナーに引き渡し、血の気の多いヴァルターとダーヴィトを家に引きずり込み、しかし、ベックメッサーは全然構ってもらえずボコボコ状態。夜回りの警笛が響き、大乱闘はあっさりと鎮火。時刻は夜の11時、夜も更けてまいりました、皆さん、おうちへ帰りましょう。
「フィガロの結婚」などでお馴染みの人違いの喜劇、ワーグナーらしからぬ展開、ドタバタ喜劇の扱いがいささかぎこちない。しかし、細やかな部分に優しさが滲みます。
ポーグナーとエーファの会話、明日は嫁に行く娘、父は娘の恋を知っています。娘はマイスターである父の立場を知っています。その会話は控えめでありながら親子の情愛に満ちています。小津の映画なら、笠智衆と原節子の場面です。
ザックスのモノローグ、彼の心にはヴァルターの歌が焼き付いています。感じるが理解できない、覚えられないのに忘れられない・・・、ヴァルターの歌は身の内から突き上げるような情熱の歌、アタマではなくて心が歌う切なく甘い恋の歌。やもめとはいえ男盛りのザックス、彼の中には恋する若者がまだ生きています。ヴァルターの歌は親方ザックスではなく若者ザックスの心を捉えた、6月の宵を漂う甘いニワトコの花の香り、ザックスの中の若者がざわめき立ちます。
しかし、エーファが登場すると、彼は自分に対して淡い恋心にも似た親愛の情を持っているエーファをそっとはぐらかします。ザックスは若い二人のために自分の中の若者を静かに押しやります。若さを失うことは悲しいことです。しかし、それを受け入れることができず抗うことはもっと悲しいことです。だって、時間は決して止まってくれはしないからです。エーファ、俺はあんたにとっちゃ年を食いすぎた男だ、でもダテに年を食ったわけじゃない、情熱に身を任せるにはちょいと年寄りだが、情熱が引き起こす厄介ごとからあんたを守ってやれるくらいには賢いのさ。俺はあんたに求婚しない、あんたを抱かない、だけど、あんたを大切に思う・・・。恋に溺れるには年だけど、恋を忘れるにはちょいと若すぎる、この熟した男の思慮と思いやりがなければ、エーファはイブになるところでした。
そんな具合にうまく年齢を重ねられなかったのはベックメッサー、必死のセレナードですが、靴を拵えるには大変優れた歌のようですが、恋には全く役立たず。この場面は第一幕の歌試験のリプレイです。ヴァルターの立場に立たされたベックメッサーですが、彼はその逆転劇の滑稽さに気づきません。こんなに一生懸命歌っているのに(ヴァルターだってそうでした)、トンカチの音がうるさいんだよ(チョークの音はうるさくなかったのか?)。老いらくの恋だって結構です、そこに抑えがたい情熱と暖かい思いやりがあれば。ベックメッサーには両方がありません。彼は情熱を理解せずに恋を歌い、思いやりを持たずにエーファを求めます。こんな男がエーファの花婿となれば、ザックスの中の「若者」が黙っちゃいません。
その「若者」が引き起こした大乱闘、悪口大辞典みたいなありとあらゆる暴言(私、ドイツ語を知りませんが、この場面を暗記しておけばドイツでも喧嘩ができるんじゃないかと思います)、いかにもいなせな職人らしい啖呵の応酬、激しい言葉のやり取りに対して音楽の方は妙に治まり返っています。フーガの形式をとった整然とした対位法、台本の方は、おら、おら、やったれぇ、いてこましたるぞ!という浪速ヤクザ的乱闘シーンなのですが、音楽の方は、皆さん怪我人が出ませんようにお約束を守って、という段取りのついた儀式めいた雰囲気なのです。この絶妙のバランス、ブチ切れたからボコボコにぶん殴る、これはヴァルター(そしてダーヴィト)の世界です。ブチ切れはしても我を失わない、これはザックスの世界です。この乱闘場面で、二つの世界が複雑に交差します。
で、どっちの世界でも中途半端なベックメッサー、彼だけが袋叩きのボコボコ、中途半端に年食っちゃったツケが回ってきたみたいです。恋と喧嘩の共通項は何か?どちらも「血が騒ぐ」です。その修羅場では権威も肩書きも通用しません、通用するのは情熱と腕っ節という至って原始的な力だけ。その最中、冷静にエーファとヴァルター(そしてダーヴィト)を守るザックス、修羅場で本領を発揮できるのが本当の男です。
11時を告げる夜回りの声、明日は6月24日の聖ヨハネ祭、美しい初夏、大乱闘の後の静けさを引き受けるのは虫の声と朧月・・・。
第三幕 神聖ローマ帝国が霞となって消え失せようとも
大騒ぎの一夜が明けて、静かな旋律に乗ってヨハネ祭の朝が訪れます。一人本を読んでいるザックスとダーヴィトの会話、昨夜の大立ち回りの件で叱られるのではないかと戦々恐々のダーヴィトと心ここにあらずのザックス、話は噛み合いません。「迷いだ、迷いだ」、欲望が争いを生む、昨夜の大騒ぎが良い例だ。しかし、人は迷いから自由になることはない、ならば、迷いを受け入れた上で、迷いを超えて気高い行いを成し遂げよう。
ヴァルターが起きてきます。「おはよう、騎士殿」、よく眠れたかな?もちろん、そして素晴らしい夢を見たのです。素晴らしい夢を記憶に留めること、それが詩人の仕事、人間の本質は夢にこそ表れる、歌ってごらん。ザックスの真摯な言葉に意地っ張りのヴァルターの態度も和らぎます。
ザックスの指導に従ってマイスターの規則をなぞっていくヴァルター、「友よ、美しい青春の日に」、ヴァルターの馥郁と匂い立つ恋の歌がザックスの励ましによって生まれ変わります。美は形式を得ることで一層輝き、形式は美を包み込むことで命を宿します。
騎士殿、君の見た夢はきっと正夢になるよ。
袋叩きの後遺症を抱えてベックメッサーが登場。ザックスの仕事場を勝手にガサ入れしているうちに見つけたのはヴァルターの求愛の歌を記した紙切れ、ベックメッサーはそれがザックスの歌だと勝手に思い込んでしまいます。まさか、やもめの靴屋がエーファに求愛するのでは・・・、しつこく絡むベックメッサー、ザックスはなんとも気前がよろしいことに、そんなに気になるならその歌、差し上げますよ、えっ、しかし、私が勝ったら?いーんじゃないですか。実は自分の歌だなんて爆弾発言は?そんなことしませんよ。ホントに?大丈夫、だからしっかりと覚えて、ご健闘を祈ります。おぉ、やった!靴屋さん、あんた良い人だねぇ、おっと、こんなことしてらんない、暗記だ、暗記。
眩いばかりの晴れ着姿のエーファが登場、親方、この靴きついわ、どこが?だから、ここがブカブカなの。きついのかブカブカなのかどっちなんだ?俺にはぴったりに見えるがね。ヴァルター登場、若い二人はお互いの美しさに息を呑んで見詰め合うばかり。ヴァルターが求愛の歌の続きを歌います。聞いたかい、エーファ?これがマイスターの歌さ。
感極まったエーファがザックスにすがって泣き出します。「靴屋の苦労など誰にも分からない」、きついとかブカブカとか、男やもめってだけで十分苦労しているのに、若い娘っこが求婚しろとほのめかしたかと思えば靴臭いと文句を言う、どうしろってんだ?。ごめんなさい、親方、親方のおかげで私、自由に考えることを覚えたの、なのに花婿が選べないなんて・・・。エーファ、俺は『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王よりも利口だ、だから悲劇はなしさ。レーネ、ダーヴィト、ちょっとおいで!たった今マイスターの歌が生まれた、このヴァルターの歌「聖なる朝の夢解きの調べ」がすくすくと育つようにみんなで祝おう。美しい五重唱、それぞれの思いが晴れた空に解き放たれます。祭のファンファーレが響き、いよいよ歌合戦の始まりです。
「目覚めよ、朝は近づいた」と人々がザックスに敬意を表し、それに応えて花嫁エーファのために飛び入り参加を認めるよう訴えるザックス、当然待ったをかけるであろうベックメッサーは、歌詞の暗記に必死でそれどころじゃない。
ベックメッサーが歌うヴァルター作の「朝私はバラ色に輝いて」、血なまぐさい風が吹き、卑しく上品で、えっと、私は木で、首を吊る・・・、はぁ?書記さん、アタマが壊れたみたい。違う!これは実はザックスの歌で、ザックス親方の歌だってぇ?では、正調版をお聞きいただきましょう、ヴァルター殿、歌って下さい!
「朝はバラ色に輝いて」、花の香りが大気に満ち、至福の愛を叶えると約束してくれたのは、エデンの園のエーファ・・・。ヴァルターの歌に一同はウットリ、騎士殿が優勝だ!エーファがヴァルターに勝者の冠を授け、娘の花婿にポーグナーがマイスターの資格を与えます。ところがヴァルターは、マイスターはイヤです!僕は騎士であって職人じゃない。
君が詩人となったのは家紋や剣のおかげじゃない、マイスターのおかげだ。芸術の純粋さを守り、苦難の時代もその精神を伝えてきたマイスターのおかげだ。マイスターを敬いなさい、たとえ神聖ローマ帝国が霞となって消え失せようとも、芸術は我らの手に残る・・・。
マイスターの証の金鎖をヴァルターの首にかけるザックス、歓喜の合唱が新しいマイスターとその花嫁を、そしてザックスを包みこみ、「喜劇らしからぬ喜劇」の幕は下ります。
前夜の大喧嘩から一転して静かな「諦念の動機」で始まるこの幕、ザックスがヴァルターの若々しく奔放な恋の歌を見事な職人技でマイスターの歌へ仕上げて行く過程が聴き所です。歌になんで規則が必要なんだ?と反抗的なヴァルターですが、やがて彼自身、自分の歌の変貌に息を呑みます。
古代ギリシャで発見された「黄金比」というものがあります。あるものの長さを二つに分ける時、もっとも美しい比率が「1.618対1」であるというもの。この黄金比の代表作ミロのヴィーナスを作った名前も分からない石工、彼は女性のふくよかな肉体の美しさに感動しました、その感動を大理石に永遠に刻みたいと願いました、そして、彼は黄金比を知っていました。彼の感動だけではヴィーナスは生まれません、彼にはその感動に永遠の命を与える技術があった、自然が最も美しく見える時の比率を知っていた。肉体という自然の造作物の美の根本に向かって、持てる技術と知識を全てつぎ込んで鑿を振るった結果として、冷たい大理石に暖かい肉体が宿ったのです。技術の到達する最高点、それは自然であることを、この名無しの石工は、そしてザックスは教えてくれます。
しかし、ベックメッサーの赤っ恥場面はいささか悪ノリの感があります。彼だってマイスタージンガーなのです。勿論、彼の歌は実はヴァルターの歌、彼にはヴァルターの感動がありません。つまり、技術もあって黄金比も知っている、しかし、肝心の感動がないわけで、これではヴィーナスは誕生しません。それだけで十分だと思うのですが、めちゃくちゃな語呂合わせの意味不明の歌詞、これはやりすぎです。むしろ、ベックメッサーがきちんと歌う、しかし、その歌には魂もないし、愛もない、この展開の方がザックスが熱く語るマイスタージンガーの精神が引き立つと思うのです。
ワーグナーの悪ノリのおかげで、この作品は非常に厄介な問題を抱え込んでしまいました。ベックメッサーのモデルは、ワーグナーに批判的だった評論家ハンスリックだと言われています。ハンスリックは音楽の真の美は形式にあり、観念や感情から生まれるものではないと主張しました。だとすれば、形式第一のマニュアル至上主義者ベックメッサーという設定は成り立つでしょう。しかし、支離滅裂の歌詞を大衆の前で歌う、歌っている本人にだって何じゃ、こりゃ?と分かっているはずなのに敢えて歌うマイスタージンガー、という設定は必然性がありません。
ベックメッサーはユダヤ人として描かれています。ワーグナーのユダヤ人嫌いは有名ですが、「借金大王」だった彼のこと、「おらー、金返さんかい!」とドアを叩く債権者が嫌いだったのは当然ですが、この場合、嫌いなのは「ユダヤ人」なのか「債権者」なのか、微妙なところです。バブルの頃ならば札びら切りつつ世界中の不動産を買い漁った日本人が、現在ならば買い叩いては細切れにして売っ払うハゲタカファンドのアメリカ人が、ベックメッサー役を仰せつかったかも知れません。
この部分だけが一人歩きを始めてしまった結果、この作品は、反ユダヤ主義、国家主義、ひいてはナチズムとの関係を云々される運命を背負ってしまいました。
しかし、ザックスのラストの言葉を聴けば、全ては明らかです。「たとえ神聖ローマ帝国が霞となって消え失せようとも、神聖なドイツの芸術は、変わらず我らの手に残る」、ザックスはいかなる体制にも与していません。国家がどうであろうが、芸術は残る、歌い手が去っても歌は残る、新しい歌い手が歌を繋いでいく限り・・・、ザックスが、そしてワーグナーが忠誠を誓っているのは、ドイツの国家ではなくドイツの芸術なのです。
神聖ローマ皇帝の支配下にはありましたが、高々と自治の旗を掲げ、強固な城壁の内側を「我らの都市」として守り抜いたニュルンベルク、働く者が、生産するものが堅い絆で結ばれた生活者の都市ニュルンベルク、ワーグナーが思い描いたのは、神聖ローマ帝国の一都市ではなく、ビスマルクの第二帝国の、ましてナチスの第三帝国の都でもなく、彼が終生追い求めた「我が心のニュルンベルク」であったはずなのです。
『まだ今日をもっていない』
「『マイスタージンガー』の音楽は、若くて同時に年老いており、熟しきっていてしかもなお過剰なほどの未来に富むドイツ魂の正真正銘の象徴である・・・、彼らは一昨日の、そして明後日の人間であって、まだ今日をもっていない。」(ニーチェ「善悪の彼岸」より)、「今日を持たない」とは?
音楽的には、妙に古典的な旋律と斬新な旋律が混在しているのがこの作品の特徴でしょう。第二幕の乱闘のシーン、その旋律には鉄拳の飛び交う様も、もつれ合う男たちの体温も汗も感じられません。非常に激しい言葉の応酬がなければ何のシーンなのか分からないくらいです。場面がどうであれ、音楽は精緻で美しくあるべきだ、そんなバロックの雰囲気があります。これに対して、第三幕のベックメッサーのガサ入れのシーン、ここでのベックメッサーは無言ですが、誰も見ていないと思い込んで他人の領域に踏み込んだ人間にありがちな落ち着きのなさとキョトキョトした視線がリアルに感じられます。歌詞ではなく旋律が情景を描き出すという斬新な手法です。
人物はどうでしょうか。ヴァルターの向こう見ずとザックスの諦めが対照的に描かれています。エーファへの愛ゆえにマイスターの試験に挑んだヴァルターですが、たった一度の失格で全てを放り投げてしまいます。そして、その夜のうちにエーファに駆け落ちを迫ります。彼は、目の前に立ちはだかった障壁を乗り越える(何度でも合格するまで頑張る)でもなく、破壊する(マイスターの歌の規則の硬直性を訴える)でもなく、無視することを選びます。時間をたくさん持っている人間ほど待つことができない、若さゆえの性急さが眩しい。
ザックスはエーファを愛しています。その気になれば、ベックメッサーは問題外ですが、ヴァルターだって歌合戦で打ち破ることが出来ます。しかし、彼はことさらに自分の老いを強調します。自分に諦めることを強います。
ヴァルターはある意味、世に受け入れられない芸術家です。職人の町ニュルンベルクのアウトサイダーです。ところが彼には全く陰りがない。彼がマイスター試験に挑んだのは、自分の芸術を世に問うためではなく、エーファと結婚したかったから、その後アッタマにきて親方衆にがなり立てたのは、自分の芸術を否定されたからではなく、エーファと結婚できなくなったから。彼には苦悩する芸術家の顔も、孤独なアウトサイダーの顔もありません。あるのはひたすら生き急いでいる若者という顔だけです。エーファと駆け落ちするって、その後どうするつもりだったのかも不明、騎士というのは身分であって職業ではありません。いったいどうやってエーファと二人で食べていく気だったのでしょう。
対するザックスは人生の達人です。彼は何度もマイスターたちに苦言を呈しますが、それでもみんなから尊敬されています。大喧嘩の最中、エーファ、ダーヴィト、そしてヴァルターの面倒をちゃんと見ることができます。ベックメッサーをトンカチの音でからかう悪戯っぽさと衆人環視の中で笑い者にする意地の悪さも持ち合わせています。エーファじゃなくたって憧れるとびっきりの「イイ男」です。ところが彼は自分自身を、年寄りだの貧しく単純な男だのと過小評価します。彼は自分は既に半分過去の人間であり、自分がしゃしゃり出ては未来の足手まといになると感じているのです。
この二人の男から愛されるエーファ、彼女はダビデの絵姿のままの美しいヴァルターに一目惚れ、しかし、ザックスへの愛も捨てがたい。何で自分の夫を自分で選べないの?と苛立ってはいますが、父の立場もちゃんと知っている、彼女はマイスターの娘です。ザックスにどうして自分と再婚しないのと思わせぶりな台詞、その後のヴァルターの駆け落ち計画を瞬時に了解するのは、ザックスにやんわりと振られたことへの当てつけの雰囲気もあります。ここでザックスはアダムとイブを引き合いに出して彼女を諌めますが、ここでのエーファはザックスの言葉の真に意味するところ(浮世には煩わしい掟もあるし、思い通りってわけにもいかないさ。でも、そこが楽園なのさ、絵のようにきれいじゃないけど、俺たちの楽園なのさ)を、頭ではなく心で受け止めます(「なぜだか、あの歌を聴くと心が痛むの」)。
ヴァルターの歌がマイスターの歌となった時、靴屋の愚痴の体裁をとってザックスが吐露する心の痛み、エーファはやっと理解します、今、過去がそっと身を引き、自分を未来に引き渡すのだと。その未来は輝かしい過去に相応しいものになる・・・、いえ、なるべきなのだと。
せわしなく未来を求めるヴァルターと静かに過去を身にまとうザックス、その間で過去と未来の間で揺れ動き、結局、過去に背中を押されて未来へ踏み出すエーファ。未来はどうにでもなります、過去はもうどうにもなりません。では、過去の結果であり、未来の足場である今日は?
ワーグナーのスコアが完成したのは1867年のことです。この19世紀、ドイツは混沌の中にありました。ナポレオンの大暴れの後片付けのために1814年に開催されたウィーン会議ですが、「会議は踊る、されど進まず」というリーニュ公爵の言葉通り、各国の利害の調整に追われ収拾のつかない状態。1815年にドイツ連邦が成立しますが、オーストリア、プロイセンの二大勢力、4王国、1選挙侯国、7大公国、10侯国、10公国、1方伯国、4自由都市の寄せ集め、どこが中心なのかも不明です、というか、これ「国家」なんでしょうか?
農村には資本主義経営の「ユンカー制」が導入され、農民たちは大資本に土地を巻き上げられ未熟練労働者に転落、戦乱が一段落したおかげで急激に人口が増えますが、農村にはそれを養うだけの力はもはやありません。食い詰めた農民は都市に流れ込むのですが、その都市でも零細な手工業者たちは大資本に太刀打ちができず、結局、増えた人口の大部分は食うや食わずの貧民となるしかありませんでした。極東のどこかの国と同じで、中途半端な構造改革は経済を冷却するだけです。
ドイツ経済の冷え込みの原因は「連邦内国境」が多すぎるから、これに尽きます。生産物を売りさばく過程で何回も関税を取られてしまう、これじゃ商売は立ち行かない、というわけで、プロイセンを中心として関税同盟が結成されます。ところが、経済はプロイセン中心でも政治はオーストリアが仕切っている、そしてこの二大勢力が犬猿の仲、いつまでたっても話は進みません。永田町と経団連が喧嘩している状況、というわけ。
豊かな伝統を持ち、誇り高く、「我らの都市」の担い手であった職人たちですが、農村から流れ込む低技能=低賃金の労働者の急増、「1年と1日」どころじゃない、毎日わらわらと流れ込んでくる貧民たち、都市の遺伝子は既に機能停止状態です。高い技術も生かしようがなく、人口過密による環境の悪化と労働条件の低下、職人たちは都市を捨てていきます。彼らが目指したのは新大陸のアメリカでした。中世以来高々とそびえてきた都市の城壁を崩したもの、それは皇帝でもなく、外国の軍隊でもなく、明日に希望を持てなくなったマイスターたち、彼ら自身だったのです。
1862年にプロイセンの首相として登場したビスマルク、「現下の問題は言論や多数決では解決されない。それは鉄と血によってのみ解決される」という演説をぶったことで「鉄血宰相」なる仇名を頂戴した彼、当然、強気です。1866年の普墺戦争でオーストリアを破り政治の主導権を握ったビスマルクは、次いでフランスと対立。ナポレオン三世をボコボコに叩き、1871年元旦、ヴェルサイユ宮殿で新ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の成立を宣言します。因みに、この時の「鏡の間」、真冬の最中になぜか暖房が入っておらず、滅茶苦茶寒かったそうです。なんか先行きに不安なものがあります・・・。
「今日を持たない」・・・、一昨日は持っている、明後日も持っている、でも今日がない。我々は過去には何者かであった、未来にはきっと何者かになる、でも、今はなんだかよく分からない。輝かしい過去の放つ眩い光、でも、もうそこに戻ることは決してできない、未来に足を踏み出すしかない、何が待っているにせよ。ワーグナーは、ニーチェは、そんな時代の空気を誰よりも敏感に感じ取っていたのだと思います。
『歴史の過剰が生きている者を苦しめる』
靴屋の親方であるハンス・ザックスは実在した人物です。1494年にニュルンベルクで生まれた彼は、職人のお約束である道具箱抱えての放浪以外の残りの生涯を、この都市の城壁の中で過ごしました。彼は6000を超える膨大な作品を残しておりますが、一番有名なのは「ウィッテンベルクの小夜啼鳥」という作品、羊の群れを誘惑する獅子、その獅子の正体を暴いて羊たちを守る小鳥、絵本みたいな可愛らしい道具立てですが、羊はドイツ国民、獅子はローマ法王、そして小鳥はルター、実のところは宗教改革を熱く賛辞するアジテーションでした。
ペストの流行と相次ぐ戦乱、人々は神に救いを求めます。ところが、神様の方がうまく機能しなかった。この時代、教会は巨大な世俗の権力でした。戦争もしなければなりません、巨大な箱モノも建築しなくてはなりません、いくら金があっても足りゃしない。教会は地獄を最大限に利用します。人間のありとあらゆる罪に「定価」をつけて免罪符を売りつけるという「押し貸し」を始めます。ローマ教会は今や「暴力金融」、絞れるところからは徹底的に絞る、特にローマから遠く離れ、中央集権化が遅れていたドイツを徹底的に絞る。
この状況にブチ切れたのは頑固な法学士ルター、人は「恩寵のみによって、信仰のみによって、聖書のみによって」救われる、彼の説によれば教会も修道院も意味を持ちません。彼が書き散らかす過激なローマ批判、ドイツの田舎モノなんか字も読めないだろうとタカをくくっていたローマですが、彼らは「都市」のあり方を理解していませんでした。都市とは人口が密集し、横のつながりによって成り立っているところ、たった一人字の読める人間がいれば、ルターの言葉は広場や酒場での音読によってあっという間に広まってしまうのです。そして、実際そうなりました。ザックスの町ニュルンベルクは、聖職者に対する任命権と課税権を確立し、ルターの改革のお手本となります。
ローマ対ルターの対立が本来の宗教論争であれば、コトは簡単でした。坊主だけが口から泡を飛ばして難しいことをがなりあっていればいい。しかし、背景にあるのは経済対立だったのです。搾取する側と搾取される側の対立、「神が俗人身分を通じて、自ら教会を救おうとされている」、ルターのこの言葉に各国の王様が飛びつきます。ローマに毟られた富を取り返せる!こと金が絡めば神もカエサルも必死です。ヨーロッパ中が戦火に覆われた30年戦争、主戦場となったドイツは、細切れ状態にさらに拍車がかかり、「ドイツ帝国は政治の原則で分類しようとすれば不規則で怪物に似たものと呼ぶしかない」(サムエル・フォン・プーフェンドルフ)。
「たとえ神聖ローマ帝国が霞となって消え失せようとも、神聖なドイツの芸術は、変わらず我らの手に残る」、政治的に統一されていないからこそ、文化的統一に夢を託す、託すしかない、ザックスの「文化的」勝利宣言は、同時に「政治的」敗北宣言にも聞こえます。
君主を持たない都市は、封建的身分を超えた横のつながりで構成される共同体です。そこでは人々は束縛から逃れ「個人」として生きることができます。みんなが自由であり同じ権利を持つ、しかし、みんなが同じであるということから没個性の顔を持たない「大衆」が生まれます。自由を求める者であれば誰でも受け入れる「アジール」の伝統は、ドイツの高い理想の象徴です。しかし、この理想が外国人排斥の原因ともなっています。
マイスタージンガーは歌います、恋の歌を、神への信仰を、テーマは自由です。しかし、そこには厳格なルールがあります。都市は個人として生きたい人間は誰であれ受け入れます、しかし、共同体に属したからには共同体に縛られることになります。矛盾のリング・・・。
個人としてひたむきに自分の音楽を追い求めたワーグナーは、良い仕事をした結果、当然に大衆の熱狂に包まれます。彼はその力を利用して政治の世界に足を踏み入れます。彼は、芸術は政治に力を及ぼし得ると信じた点ではザックスの「愛弟子」でしょう。しかし、彼はザックスが信じていた大衆から離れてバイロイトという聖地を得、そこで「王」になります。第二幕の大喧嘩のシーンに、顔を持たない大衆に対する隠れた嫌悪を感じるのは私だけでしょうか?
30年戦争の結果、経済の要衝としての地位を失ったニュルンベルク、しかし、一度きらびやかな歴史をまとってしまった都市は、そのまま静かに消えることを許されませんでした。1835年にドイツで最初の鉄道が敷設されたことによって近代都市に変貌したニュルンベルクは、1933年にナチスの帝国党大会の場として再びスポットライトを浴び、そして、戦後1946年、この都市はドイツの戦争責任を追及する国際軍事裁判「ニュルンベルク裁判」の地として選ばれます。ドイツの歴史の転換期に必ずこのザックスの町は登場するのです、まるでそれが持って生まれた宿命であるかのように。
「歴史の過剰が生きている者を苦しめる」(ニーチェ「反時代的考察」)、ザックスの都市ニュルンベルク、それは、個人の自由を歌い上げる人間の尊厳の砦として、顔を持たない大衆のうごめく扇動と暴力のるつぼとして、未だに12世紀以来の長い長い道のりの途上にあります。過剰な過去とおぼつかない未来の狭間の「今日の都市」として。
お薦めの録音ですが、ザックスならヴァイクルが一押しです。1993年のサヴァリッシュ盤、エーファとお似合い(ごめんね、ヴァルター)の若々しい声、男盛りの硬質な色気。テオ・アダム(1970年カラヤン盤)は生真面目に思索する親方、ヴァルターのコロがロマンチックな色男ぶりでよく絡んでいます。ベックメッサーならローラント・ヘルマン(1976年ヨッフム盤)が好きです。すっげぇ根暗で全然笑えないのですが、「ベニスの商人」のシャイロックの雰囲気がある、私、この役を作りすぎる歌手は好きじゃないもんで。でも、1984年シュタイン盤のプライは好き、彼が歌うとあの第二幕の気持ちの悪い「恋の歌」が素敵に聞こえるから不思議です。
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