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ワーグナー 「ヴァルキューレ」 (2004年11月16日〜2004年12月18日の日記より)
第一幕 兄と妹が、夫と妻が、狼と犬が、剣と英雄が出会う夜
ラインの黄金が愛を断念した者によって指環に変貌してから、どれほどの時が流れたでしょう・・・。
巨大なトネリコの木の根本に建つフンディングの家、傷ついた若者が飛び込んできて竈の近くに倒れ込みます。フンディングの妻ジークリンデがそっと近寄ります、まだ息がある、やつれてはいても何と凛々しいこと。水、水を!ジークリンデの差し出す水をむさぼり飲んだ若者、僕に水をくれた美しい人は誰ですか?私はフンディングの妻、あなたを客人として迎えましょう。二人はお互いに相手から目を逸らすことができません。楯も槍も砕かれて嵐に叩かれて逃げまどう長い夜は終わったのか、今は太陽が笑っています。おかげで元気になりました、僕は先を急ぎましょう、不幸が僕を追ってくる、あなたに迷惑をかけられないから。行かないで、既に不幸な女は不幸を恐れませんから・・・。
馬の蹄が音を立てフンディングが帰宅、見知らぬ若者を訝しげに眺めます。疲れた旅人を客人としてもてなしました、妻の言葉に静かに頷いて食事を求めるフンディングは、若者と妻を交互に見つめて呟きます、似ている、そっくりだ・・・。
お客人、馬もなしにこんなところまで、一体何があったのだ?どこをどう歩いたのかも覚えていない、ここはどこですか?ここは私、フンディング(犬)が守る家、そう言う君は誰だ?フリートムント(平安)ともフローヴァルト(歓喜)とも名乗ることはできない、ヴェーヴァルト(悲しみ)とでも名乗りましょう。僕の父はヴォルフェ(狼)、母と双子の妹は顔も覚えていません。ある日、狩から帰ってみれば家は焼け落ち、母は殺され、そして妹は消えていた。ナイディング(嫉妬)の一党の仕打ち、父と僕は森に隠れ棲みました。そう、僕はヴェルフィング(狼)一族の者です。若者の身の上話にジークリンデは一心に聞き入っています。
ナイディングたちに追われるうちに父とはぐれました。あちこちを彷徨って、友を、女性を求めて、いつも追い払われました、僕には何か不吉なものがあるらしい。
なるほど、運命の女神は君を嫌っているらしい、そして、この私も・・・、フンディングが呟きます。
一人の娘を救おうとしました、望まぬ結婚を強いられていたから。僕は彼女のために闘った。でも、兄たちの亡骸を見ると娘は僕を責めました。彼らの一族は僕を追い回し、最期には僕の楯と槍は粉々に砕けてしまった、そして彼女も死んだ・・・。
客人、このフンディングはその一族の仇討の助っ人を務める男だ、君は敵の家に逃げ込んでしまった。今夜だけは客として扱おう、しかし、明日にはこの手で君を斬る!
黙ってフンディングの寝酒を用意するジークリンデの横顔にはある決意が見えます。男は武器を手放さぬもの、自らを護れなくて何が男か、明日は君は私の客ではなく宿敵だ、そう言い残して寝室に去るフンディング。
父は僕に剣を約束して下さった、追い詰められた時、僕はその剣を手にすると。今、僕は追い詰められています、気高く美しい女性に心を奪われ、剣も持たない僕を嘲る男に命を求められています。ヴェルゼ、約束の剣はどこですか!不意に燃え上がった竈の火がトネリコの根本に突き刺さった一振りの剣を照らし出します。
あの煌めきは何だ?あの美しい女性の瞳の残像か?夜の闇の底で出会った暖かい光があの巨木をも輝かせたのか?今、光は僕の目から消えた、でも僕の胸の奥には・・・。
寝ているのですか?ジークリンデがそっと歩み寄ります。フンディングは寝ています、私が寝酒に薬を入れたから。今のうちに逃げて下さい。武器ならあります、真の勇者にだけ与えられる武器が・・・。フンディングとの婚礼の宴、私は悲しみで一杯でした。そこに頭巾を目深に被って片目を隠した老人が現れて、その手にした剣をあのトネリコの幹に突き刺したのです。そして言いました、これを抜いた者にこの剣は与えられると。でも誰も抜けなかった、今でもほら、あそこにあります。やっと分かりました、あれはあなたの剣なのだと!私の失ったものも私の流した涙も報われる、真の勇者をこの腕に抱けるなら!
ジークリンデを抱きしめる若者、あなたを抱いているのは、その剣を手にしてあなたを妻と呼ぶべき男です!月の光が二人を照らします。春だ・・・、冬の嵐は去って春が輝いている。森も野も息を吹き返す、命が芽生える、春の一撃が冬を打ち倒すんだ、だから、僕たちだって・・・。
冬の最中に私が焦がれた春は、あなただったのですね、ジークリンデも若者を抱きしめます。一目見て分かりました、あなたは私のもの、私の光!
僕はあなたをずっと前から知っていた!私は水に映る私の姿にあなたを見ていたの!その声、その瞳・・・、僕は今最高の喜びを手にしている!あなたの父上は確かにヴォルフェと?まさに「狼」だったけど、あなたにそっくりの目をした僕の父の名はヴェルゼです。では、私はあなたをジークムント(勝利)と呼びましょう。
ジークムント、僕はジークムント!ヴェルゼは剣を約束して下さった、そして今、僕はその剣を手にする。ノートゥング(苦難)、この剣にノートゥングと名付けよう、さぁ、その鋭い刃を僕に見せよ、我が手に来たれ!
猛者連中の誰にも抜くことが出来なかった剣が、ジークムントによってあっさりと引き抜かれます。
ジークムントは至上の女を妻に求める!宿敵の元から我が妻を救い出す、さぁ、遠くへ旅立とう、ノートゥングがあなたを護る、たとえジークムントが愛のために死ぬとしても。
あなたがジークムントなら私はジークリンデ、あなたの妹です。
僕にとってあなたは妹、そして花嫁!
「ラインの黄金」からここまで、いろいろなことがありました。アルベリヒから騙し取った指環をヴァルハラ城の建築代金として巨人兄弟に渡したヴォータンですが、指環の約束する無限の力への欲望が兄弟殺しをも引き起こす場面に出くわし、神々の長は、何が何でも指環を取り返してラインの水の底で再び眠りにつかせなければなりません。ところが、契約に従って報酬として指環を渡した以上、ヴォータン自らが指環を取り返すことは契約違反、この選択肢が彼にはないのです。ヴォータンは自分の代わりに指環を取り返す英雄を得るべく、人間の世界に下りて人間の女との間に双子の兄妹を拵えました。
その上、万が一指環奪回に失敗した場合、神々に挑戦してくるであろう何者かに対抗すべく、大地の女神エルダとの間に生まれた娘たちをヴァルキューレ(戦乙女)として戦場に派遣し、名誉の戦死を遂げた選りすぐりの戦士たちを、来るべき戦いの戦闘要員としてスカウトしています。
しかし、いくら「世界の危機」とは言え、フリッカという妻がありながら、ごろごろ婚外子を拵えて・・・。
この幕は、生き別れとなっていた双子の兄妹、ジークムントとジークリンデの出会いの物語。しかも出会うだけではない、この兄妹、激しい恋に落ちてしまうのです。そりゃ、双子です。姿形も、その感性も性格もそっくりとなれば「理想の相手」と言えなくもないのですが、近親婚であることは事実。お互いに理想の相手を認知した運命の恋が、世間には認知されないタブー、ところが、このご両人、そんなこと全く意に介せずお互いの腕に飛び込んでしまいます。
同じ言葉をなぞりつつ二人が確かめる絆、初めて会ったのにあなたを知っているの、僕は君を思い描いていた、あなたに私の姿を見るなんて、君こそ僕の思い描く大切なもの、その声の響きを子供の頃から知っていた、君の声の何と素晴らしい響き!
妹がいかにも女らしく、秀でた額、血管の浮かんだこめかみ、蛇のような瞳の輝きという外見から愛する男を確認するのに対して、兄はいかにも男らしく、己の顔と身体を慈しむ女の指先と迸る言葉を受け入れます。
ヴォータンが周到に仕組んだ「指環奪回作戦」、彼がジークムントに施した教育はどうもメチャクチャなものだったようです。「荒々しき一族」「人々の尊ぶことも彼らは神聖とは思わぬ」「全ての人々が彼らを嫌う」、フンディングの言葉から浮かんでくるのは、暗い森の奥深くをうろついては誰彼かまわず喧嘩を吹っかけて回り、ルールを一切無視するゴロツキです。ヴォータンは、彼が守り、彼が縛られる契約を超えるアウトローを欲しているのです。さらに妹の方は兄から引き離し、意に添わぬ結婚によって彼女の心に「まだ見ぬ男」への憧れを燻らせ続け、「必殺剣」の守り手としての役割を与えています。
この二人を巡り合わせることによって、当然に生じる近親婚ですが、ヴォータンはそれを正しいと信じています。我が子同士の結合によって、ヴォータンの血筋は薄まることなく受け継がれる、己の血脈によってしか世界は英雄を持ち得ない、「ヴェルズング(ヴェルゼの子、すなわちヴォータンの子)の血よ、栄えよ!」、荒々しく育った息子が讃える父ヴォータンの強烈な自負心。
しかし、二人の前にフンディングが立ちはだかります。フンディングはジークムントとは初対面、直接には何の恨みもありませんし、自分の妻との大胆な逢瀬は眠っていて知りません。実はフンディングには恨みも嫉妬も必要ない、彼はジークムントその人ではなくタブーを許さない男なのです。犬(フンディング)と狼(ヴェルフィング)は元々は同じ、片方が人間の元で飼い慣らされることによって、「忠誠」によって生きることを選び、片方が森の奥深く、誰からも餌を貰わない「野生」によって生きることを選んだように、掟に忠実なフンディングとそもそも掟というものを知らないジークムントは、最初から相容れることのない存在、そしてこの二人の対立こそが、立法者でありながら法によっては神々の世界を守れないヴォータンの矛盾そのものなのです。
低い弦の唸り声が激しいリズムを刻む嵐の序奏、父の約束した剣を求めるアウトローの悲痛な叫び声「ヴェルセ!」、甘い言葉とは裏腹に決して重なり合うことのない二重唱(って言って良いんでしょうか?)「あなたこそ春です」、そして、運命の剣ノートゥングの青白く光る刃のような「剣の動機」、この後に訪れる悲劇を告げる不協和音の暗い響き。
朝日が昇れば、犬と狼は牙を剥いて闘うことになります、掟とタブーは激しく火花を散らすことになります。そして、ヴォータンは自分の矛盾を思い知ることになります、世界を統べる神々の長ではなく一人の父として、あまりにも哀しい形で・・・。
第二幕 父の手を食いちぎって狼は巣立つ
荒涼とした岩肌を晒す尾根、戦支度に身を固め槍を手にしたヴォータンが、彼の愛娘、ヴァルキューレ(戦乙女)の一人ブリュンヒルデに檄を飛ばします、手綱を引け、ヴェルズングに勝利を、フンディングに死を!
父の声に応えて岩から岩へ馬を駆るブリュンヒルデですが、谷間を覗き込んで見たくないものを見てしまいます。お父様、身構えなさいませ、あなたの妻のフリッカがやって来る、牡羊の引く車にのってノロノロと。同じ戦とは言え夫婦喧嘩は私の好みではありません。叫び声を挙げつつブリュンヒルデが飛び去るとフリッカ登場。
妻から逃げようとしても無駄なこと、やれやれ、今度は何だ?あなたの妻は結婚を守る女神、当然にフンディングに約束しました、あの汚らわしい二人を罰すると。愛し合う二人のどこが汚らわしい?とぼけるつもり?神聖な夫婦の誓いが破られたのよ!愛のない結婚の誓いが神聖だというのか?あなたが不貞を讃えるのなら好きなだけ浮気するがいいわ、双子同士が・・・鳥肌が立つ、兄が妹を抱くなんて!愛し合っているんだ、だからお前も祝福して・・・。
神々の世も終わりね、あなたは契約を捨ててしまう、法をあざ笑う、結婚の誓いを破る、妻を苦しめる、妾腹の戦乙女たちとつるんで戦場を駆け回って好き勝手。ヴェルゼと名乗り狼のように森をうろつき、卑しい人間の女に子供を産ませて、好きにすればいい、この裏切り者!
妻よ、聞いてくれ、英雄が必要なのだ、神の掟から自由な英雄が、神々にはできないことをやってのける英雄が!英雄?誰が人間に命と知恵を授けたの?人間に何ができると?ともかくこれ以上の勝手は許せないわ!あの剣を取り上げてしまうのよ!苦難も剣も全部あなたが仕組んだこと、ジークムントごときにこの私が従うと?私たちは神なのよ!
どうして欲しいのだ・・・、ヴェルズングから手を引いて、そしてヴァルキューレたちも彼を守ってはなりません。ヴァルキューレたちは・・・、あなたの娘でしょう?あの剣から魔力を奪い、そして打ち砕くのよ。
そらそら、あなたの勇敢な娘が馬を駆ってやって来たわ、今日こそ妻の名誉を守って頂きます、ヴェルズングに敗北を!ヴォータンが苛立ちと失望もあらわに答えます、私は、誓おう・・・。
ブリュンヒルデが馬から飛び降ります、お父様、何を悩んでおられるの?何たる屈辱!神々の危機にあって一番悲惨なのはこの私だ!私に話して下さいますね?
私は愛も権力も欲する男としてこの世界を手にした。ところが闇のアルベリヒは愛を呪ってラインの黄金を指環に変えて無限の力を得た。私は指環を奪ったがラインの乙女には返さず、巨人たちに支払った。そのヴァルハラから世界を治めてきたが、聖なるエルダは終末を予言した。エルダは私にブリュンヒルデ、お前たち姉妹を与えてくれた、神々に終末をもたらす敵と戦うために戦士を集める戦乙女のお前たちを。もうたくさん集まりました、もっと集まります、何が心配なのですか?
アルベリヒは私を恨んでいる、指環がヤツの手に再び落ちれば神々の世界は終わりだ。愛を呪うヤツに指環は応えるだろう。指環は今、兄を殺したファーフナーの手にある。取り返さねばならぬ、しかし、私には彼との契約がある。契約によって世界を手にした私が今では契約の奴隷だ。英雄が必要なのだ、神の恩寵を知らず、神の命を受けず、神に逆らって、しかし、神のための戦を辞さない英雄が。そんな男がどこに?私は自ら彼を作り出した、彼を鍛えた、彼は大胆な男に成長した。しかし、フリッカは見逃しはせぬ、妻の意志を私は通さねばならない・・・。ジークムントから勝利を奪うと?
指環の呪いから逃れることはできたが、今度ばかりは逃れられぬ。私は愛する者を殺さなくてはならぬ、信じる者を裏切らなくてはならぬ。みんな消えろ!私が欲しいのは終末だ!アルベリヒが、愛を呪った小人が愛のないまま子を持った、しかし、私が愛した女の産んだ子は死なねばならぬ。ニーベルングの子よ、神の虚ろな栄光をくれてやる、食い尽くすがいい!
お父様、私はどうすれば?フリッカに従え!お前の父は自由にはなれない男だ。お父様はジークムントを愛しておいでです、だから私は彼を守ります!お前が守るのはフンディングだ、ジークムントを倒せ!
お父様は私に愛を教えて下さった、納得できません!私に逆らうのか?私の怒りを知らぬのか?私が怒れば世界も覆る、だから父を怒らせるな、ジークムントを倒せ、それがヴァルキューレたるお前の使命だ!
何て忌まわしい戦かしら、哀れなヴェルズング・・・。
少し休むんだ、いえ、行かなければ!ジークリンデ、愛しい人、休まなければだめだ、さぁ、兄が花嫁を連れている、ジークムントが一緒だから安心して。逃げたいの、あの穢れた女から。あなたを知って、あなたを愛して、私は思い知ったの、愛のない男に抱かれた自分のおぞましさを。お前の恥辱は僕がすすぐ、このノートゥングの一撃でお前の復讐は成し遂げられる。角笛が・・・、来たわ、フンディングが、犬が吠えている!ジークムント、お兄様!どこにいるの?彼らが来る!あなたは倒れ、剣は砕け、そしてトネリコの木が裂けるのが見えるのよ!意識を失ったジークリンデをそっと横たえるジークムント。
ジークムント、私に従いなさい!あなたは誰です?私は死ぬ運命の男にだけ見える者、ヴァルキューレ、死ぬべき英雄を迎える者。死んでどこへ?ヴァルハラ、あなたを選んだ父の元へ。気高い英雄たちがあなたを迎え入れるわ。父のヴェルゼもそこにいますか?いるわ。一人の女性もそこにいますか?花嫁たる妹のジークリンデも?ジークリンデはそこへは行けない。
なら僕も行かない!あなたはヴァルキューレを見た、行かなければならないのよ。ジークリンデのいるところにジークムントもいる!あなたは今日死ぬのよ!誰が僕を倒すと?フンディングよ。僕は彼よりも強い、彼を連れていくがいいさ!よく聞きなさい、あなたが選ばれる運命なのです。僕にはこの剣がある!その剣の創造主があなたに死をもたらすのです。
眠っているんだ、起こさないで。美しい人、悲しい人、僕にお前を守れないなんて、父上の約束して下さった剣に裏切られるなんて、行かない、僕はヴァルハラには行かない!永遠の喜びが欲しくないの?この女があなたのすべてなの?消えろ、性悪女!ヴァルハラのことなど聞きたくない!分かったわ、ジークムント、ジークリンデは私が守ります。彼女に触れるのは僕だけだ!この剣は僕を裏切った、敵を倒せないなら僕たちを殺せばいい!ノートゥングよ、我らを殺せ!
ジークフリートが振り上げる剣をブリュンヒルデが押しとどめます。生きなさい、共に生きなさい!ジークムント、あなたは勝利する、私が勝利を与えます!角笛が・・・、英雄よ、剣を信じなさい、ヴァルキューレがあなたを守ります!
その眠りがお前を守ってくれる、激しい戦じゃなくて幸せな夢を見るんだよ、僕が平和を持ってお前を起こしに来るまで眠っておいで。さぁ、来るがいい、ノートゥングが運命を決める!剣を手に走り去るジークムント。
ヴァーヴァルト、さぁ、決着を付けよう!望むところだ、フンディング、出てこい、悪魔の求婚者!フリッカがお前を葬るぞ!女の名前で僕を脅すのか?この剣を知っているだろう?トネリコに刺さっていた剣、お前には抜けなかった剣の切れ味を知るがいい!
稲妻が二人の男を照らし出します。ジークムントを楯で庇いながらブリュンヒルデが叫びます、ジークムント、彼を打ちなさい、剣を信じなさい!
ジークムントが大きく振りかぶった刹那、槍を高く掲げてヴォータンが登場します。この槍を恐れよ、剣は砕けよ!
ノートゥングは無惨に砕け散り、フンディングの槍がジークムントの胸に深々と突き刺さります。兄である夫の断末魔の叫びに意識を失って倒れる妹である妻。
おいで、あなたを助けるわ!ブリュンヒルデはジークリンデを馬の背に乗せるとそのまま走り去ります。
ルーン文字の刻まれた契約の槍を手に我が子の骸を見下ろすヴォータン。行け、フンディング、奴隷よ!フリッカの前に土下座するがいい、ヴォータンの槍が復讐したと伝えろ!行け、消えろ!
ブリュンヒルデ、お前は父に背いた、神々の長に背いた、覚悟するがいい!
自らが手にすることのできない指環を葬るためにヴォータンが鍛え上げたジークムント、ヴォータンの約束した剣を守るために意に添わぬ男との生活に耐えたジークリンデ、二人はヴォータンの策略によって引き裂かれ、巡り会い、愛し合うのですが、それがフリッカによってあっさりと葬り去られてしまいます。フリッカの抗議には何やらエロティックな雰囲気があります。結婚を司る女神であるのにフリッカには子供がいない、神々の長の血筋が正妻の女神によって承継されない、で、夫の方はあちこちで子供を作って回るのですが、妻はそれをしっかりと尾行しています。「およそ何か凹んだものが、何か膨らんだものがあれば、あなたは淫らな視線を送るのよ」、この台詞にギクリとしない男性はいないでしょう。男ってのは凸凹が好きなんですよ、ともかく理屈の前に本能で好きなんですよ。
しかし、ヴォータンはフリッカの言葉に抗えません。ヴォータンは既に袋小路、彼が我が息子に与えた必殺剣がフンディングを倒せば、彼は結婚という「契約」を破ることになり、首尾良く勝利を手にした我が息子が指環を奪回すれば、彼は建築代金支払いという「契約」を破ることになる、どっちに転んでもヴォータンは自らを否定するしかなく、その状況を前に苛立ちを隠せません。
ヴォータンが兄妹の結びつきに固執する理由、それは、タブーを乗り越えても父である自分に忠実であれという身勝手な期待です。しかし、愛は既に愛として存在し、父なんぞ知ったこっちゃありません。父の約束した剣で我が身と妹を刺し貫いても愛を全うしようとするジークムント、兄妹は、父ではなくお互いのために存在しようと誓います。
そんな兄妹を父に逆らっても守るブリュンヒルデ、この大地の女神エルダが産んだ聡明な娘は、父の言葉と心の間のジレンマを知っています。お父様、私はあなたの言葉に逆らいます、でも、あなたの心には忠実であるはず・・・。戦場に倒れる勇者をヴァルハラに導く戦乙女、しかし、この娘は死んだ後のヴァルハラの栄光など、この世の愛の前には何の意味もないと知ってしまったのです。
ヴォータンは失いました、最愛の息子と最愛の娘を。それは彼が自らに課した契約の代価です。すったもんだの挙げ句に、城の代価として、永遠の若さの代価として指環を払ってしまったヴォータンですが、ここに来て初めて彼は「彼自身の大切な物」で代価を支払うハメに陥りました。それは彼の好色と強欲の正当な代価であり、ツケを払ったことでヴォータンはここで初めて神々の長たる自分を取り戻し、しかし、それが既に無力なのです。我が息子の剣を打ち砕き、フンディングを一撃で打ち倒すその槍には、ルーン文字の契約が刻まれています。結局、ヴォータンは契約の僕でしかなく、フリッカの夫でしかなく、せっかくのヴァルハラ城は死人の寄宿舎でしかなく、思うに任せない現実を前にして怒り狂う父。しかし、そんな父は、失うことで、支払うことで、無力となることで、指環からも自由な真っ新な未来を引き出すのです。
狼の子は、父を超えて巣立って行きました。ジークムントは父に再会できるはずのヴァルハラを否定して愛を選び、ブリュンヒルデは父への忠誠を否定してその愛を守りました。ジークムントもブリュンヒルデもヴォータンの正当な子供ではありません。既にヴォータンの神性は失われつつあります。
ヴォータンの権力は愛によって否定されました。神々の長真っ青の場面ではありますが、この反抗は「指環」を否定する力でもあります。指環を否定するには一度とはいえ指環に囚われたヴォータンの策略では足りなかった、ヴォータン自身が否定されることが必要だったのです。
神々の長の子供たちは見事に父を超えて行きました。もう父にできることは何もありません。狼は首輪を嫌います、たとえそれが父の与えたものであっても。
自己矛盾に苦しむ父を置いて、子供たちは巣立ちました。父の与えた剣を父の槍によって砕かれてなお、愛を守った息子に、死体運搬人だったはずが命を宿した命を運び去る娘に、自己矛盾などありません。そこにあるのは、愛だけが死を、権力を、指環を超えるのだと高らかに歌う新しい世界の熱い息吹。
第三幕 そして炎が全てを引き裂く
有名な「ヴァルキューレの騎行」、戦乙女たちの張り上げる奇矯なかけ声と、金ではなく鋼の鈍い煌めきを帯びた金管楽器が絡み合い、幕が上がればそこは人を拒絶する荒々しい岩山、ヴァルキューレたちが次々と天を駆けて集まります。ホヨトホ、ホヨトホ!ハイアハ、ハイアハ!あなたの鞍の上にいるのは誰?まずいわ、私の連れている男の仇敵じゃない、馬を休ませたいわ、我らの戦士たちの敵意が治まるまで馬を離しておくのよ。次々と集められる死者たち。
さぁ、早くヴォータンのところへ彼らを運びましょう、待って、8人しかいないわ、もう一人は?ヴェルズングの所へ行ったブリュンヒルデは?
ブリュンヒルデが帰ってきたわ、ホヨトホ、ホヨトホ!なんて速さ、まるで疾風よ。彼女の鞍の上には?あれは戦士じゃないわ、女よ!女ですって?ブリュンヒルデ、どうしたの?何があったの?
汗にまみれ、息を切らせて倒れこんだ愛馬の鞍からジークリンデを抱き起こすブリュンヒルデ、私を守って、助けて!追われているの、お父様が私を追っているの。お父様が?あなた、何をやったの?この女は誰なの?
ジークムントの妹、そして花嫁のジークリンデよ、ヴォータンがヴェルズングに死を命じた、でも私はジークムントを守ったの、でもお父様の槍が彼の命を奪った、だから彼の花嫁を連れて逃げてきたの。なんてことを・・・、お父様に背くなんて。
私のことは放っておいて!ジークリンデが激しく首を振ります。ジークムントと一緒に死ぬべきだったのよ、なのに彼と離れて私はまだ生きている、誰か私を殺して!ブリュンヒルデが震えるその肩をそっと抱きます、生きるのよ、あなたの体内にはヴェルズングが宿っているから・・・。子供が?ジークムントの子供が?助けて下さい、私の子を助けて下さい!
空をご覧、嵐が来るわ、その女を早く逃がすのよ、どこへ?東の森は?あの森にはファーフナーがいるわ、大蛇に姿を変えて指環にしがみついている、危険よ。いえ、ヴォータンはあの森を嫌っているわ。女よ、東へ走りなさい!勇気を持ちなさい!この世界で最も輝かしい英雄があなたの胎内にいることを忘れないで!ノートゥングの欠片をお持ちなさい、これは生まれてくる子の父の形見、いつかこれを鍛え直した剣を振り上げるであろう男を、私はジークフリートと呼びましょう。さようなら、いつか私の感謝をあなたは受け取ることになるわ、走り去るジークリンデ。
ブリュンヒルデはどこだ?嵐と共にヴォータン登場。お父様、お怒りを静めて・・・。なんと軟弱な娘たちよ!それでも戦乙女か?鎧、兜、そして剣を、歓喜と美を、名前と命をお前たちに与えたのはこの父だ、その父から逃げる気か?
ブリュンヒルデが前に進み出ます。お父様、私はここにおります。お前は私に逆らった、私の希望であったお前は、その盾を私に向け、死すべき者を生に駆り立てた、お前はもうヴァルキューレではない!お前は神々の世界から出て行かねばならぬ、絆は断たれた・・・。
あの山の上で眠るがいい、いつかお前を見つけた人間の男がお前を我が物とするだろう。そんな、人間と同様に色褪せ、朽ち果てろと?口々に父に哀願する戦乙女たち。ブリュンヒルデの運命を恐れるなら心に刻んでおけ、父に逆らう者は同じ運命を辿る!8人の戦乙女の嘆きの声を激しい雷鳴が掻き消します。
山頂の岩の上に横たわる娘とそれを見下ろす父。私のしたことはこれほど卑しいことだったでしょうか?私はお父様の心に従いました。なのにお父様はフリッカの心に従って、ご自身の心を閉ざした・・・。お前は私を臆病で愚かと考えた、いえ、ただ知っていたのです、お父様がジークムントを愛していると、でも彼を見捨てなければならないと。それを知った上でお前は私に逆らった。
私はお父様の息子に死を告げました、あなたの息子は愛のために死に抗った、英雄らしく力いっぱい、私はそんな彼を守りたかった、勝利か、死か、そんなことはどうでもいい、愛を守りたかった。
お前は私の欲したことを知っていた・・・、だがお前に私の苦しみが分かるか?私の愛は私に逆らい、私を傷つける、この悲しみがお前に分かるか?お前は愛を飲み干した、父が苦汁を飲まねばならぬ時に。
お前は私から離れた、もう二度と会うことはない。ひとつだけお聞きください、私を神々の高みから追放するのなら、かつてあなたの一部であった娘を辱めることでお父様自身まで辱められませんように。お前に選ぶ権利などない、どうかヴェルズングの男を!あの一族は滅んだ、私が滅ぼした・・・。ジークリンデの胎内に英雄が宿っています、そんな子などどうなろうが知らぬ!あなたがジークムントに与えた剣の欠片と共に新しい命が存在するのです、その剣を折ったのは私だ!
眠るがいい、娘よ、お前を目覚めさせた男の妻になるのだ。せめて臆病者が私を起こさないように、真の勇気を持った自由な男だけが私を見つけるように、私を炎で囲んで下さい!
お別れだ、輝かしき娘、私の誇り、炎がお前のために燃えるだろう、いつか神である私よりも自由な者がお前を花嫁にするだろう!
愛娘を抱きしめるヴォータン、かつて私に微笑んだその瞳ともお別れだ、いつの日か、私よりも幸福な男に微笑むがいい・・・。眠ったブリュンヒルデを岩の上に横たえて、その体を甲冑で覆う父、契約の槍が激しく振り下ろされます。
ローゲよ、聞け!お前は燃え盛る炎として私の前に現れ、彷徨う炎として私の前から去った、再び、お前を呼び出す!この岩を覆え、ローゲ、ローゲ!
ブリュンヒルデの姿は激しく燃える炎によって覆い隠されます。
わが槍を恐れる者は、この炎を超えること許さん!
しかし、父ヴォータンの子育てはメチャクチャです。双子の息子は森に放り出して野人に育て、双子の娘には不幸な結婚を強いて必殺剣のお守りを押しつけ、別の娘は恋も知らずに年中無休でせっせと働く死体運搬人、これじゃ子供が「ぐれる」のも当然、で、ぐれて父に逆らった子に父は死を、追放を与える、自分の子育ては棚の上。
ヴォータンの哀しさ、それは既に「愛の否定」によって指環が誕生してしまった世界にあって、なお、「愛の否定」を上塗りする愚かしさです。アルベリヒが愛なき結婚によって子を得たと知りつつ、彼も愛なき結婚(フンディングとジークリンデ)を容認してしまったのです。指環が愛を断念した者に絶対的権力を与えるという「契約」の上に存在する世界にあって、なお、父としての愛を、フリッカの守る結婚という契約の祭壇に生け贄として捧げてしまったのです。
ヴォータンの苛立ち、それは神々の世界を守るための来るべき大戦に当たって、その神々を乗り越える英雄を待たねばならないというジレンマです。彼の精鋭部隊は死人であって神々ではない。「ラインの黄金」を思い出して下さい。雷の神ドンナーは俄雨で辺りを掃除することしか、豊穣の神フローは虹の橋を架けることしかできませんでした。
ヴォータンの醜さ、それはあちこちで子供を拵えつつ、そこに無償の喜び(子供たちがすくすく育ってくれれば、それだけで親はうれしいものでしょう)ではなく、打算(彼の子作りは無償ではなく投資です)しか見出せないエゴです。父は既に我が子を無償では愛せない、それは指環の勝利を意味するのに、子供たちはそれを知っているのに、肝心の父だけがその事実から目を逸らせています。
彼がエルダに産ませた9人の娘の中でも一番聡明なブリュンヒルデは、そんな矛盾する父を知っています。父の意志はジークムントの勝利、父の命令はジークムントの死、あなたの娘である私は言葉ではなく心を選びます。この孝行娘の反抗は、彼女が知らなかった「この上なく奔放な愛」によって、信念に変わります。愛は権力に勝る、お父様、あなたがその槍で打ち砕く愛は、あなたがしがみついている権力よりも強いの、あなたは剣を折ることはできる、我が子を殺すこともできる、でも愛を殺せますか?愛とは殺せるものですか?もしそうならば、あなたは指環に屈したアルベリヒと同じ、世界は指環のものになってしまう。だからこそ私は愛を守ります、あなたが守れない世界を私が守ります。
幕切れの父と娘の別れ、「ヴォータンの告別」、激しく対立し、束の間の和解を持った親子がひしと抱き合います。ワーグナーはここぞとばかりに飛びっきりの旋律で盛り上げます。目頭が熱くなる場面です、が・・・、この前にヴォータンはジークムントとジークリンデの間に子供ができたことを知っています。「我が槍」を恐れない勇者は、父に逆らってヴァルハラ行きを拒絶した野人の子供、彼の孫以外にあり得ない。となると、彼の娘ブリュンヒルデと彼の孫の何とかがどうにかなっちゃうわけで、また近親婚ですか?父に逆らっても守ろうとした愛の結晶と結ばれるであろう彼の娘が、父を昂然と批判することをやってのけた元戦乙女が、おいそれと父の思うままになると? 涙と共に眠りに就くブリュンヒルデが目覚めたとき、愛と一緒に憎悪と反抗心も目覚める・・・ような予感。
父と娘を引き裂く炎、それは神と人間、両方の血を引くローゲの炎です。思えば全てはローゲの言葉から始まりました。半分人間のおかげでリンゴの分け前が少なくて、損な役回りを黙々とこなし、フリッカからあからさまにバカにされていたローゲ、地下深くアルベリヒが抱え込んでいた指環をわざわざ神々の高みまで持ち込んだローゲ、その指環の魅力に右往左往する神々と巨人たちを一人離れて眺めていたローゲ、そのローゲの炎が父と娘、権力と愛、生まれては死んでいく、だからこそ懸命に上を目指す人間と、虚しい永遠の若さを誇る、既に目指すべきところを持たない神々の間を引き裂きます。
しかし、これだけならどうってことない、相反する価値観がそれぞれ収まるところに収まって睨み合いを続けていれば良い、ローゲが引き裂いたもう一つのもの、それが問題なのです。それはヴォータン自身、外なる自己としての神々の長、内なる自己としての一人の男・・・、この引き裂かれた自己はアイデンティティを失って、ゆっくりと、しかし確実に落下を始めます。
虚ろなる城、虚ろなる神
この第一夜、なぜか指環が登場しません。というか、登場させるまでもなかったのではないかと私は想像します。「それ(ラインの黄金)が丸い指環に鍛え上げられれば、持ち主に絶対の権力を与え、世界もその人のものになる」、ところが、その指環は持ち主を裏切り続けております。指環の作り手にして最初の持ち主であるアルベリヒは、指環と共に全ての財宝を奪われ、憤怒の塊と化して世界を彷徨っています。一時指環を手にしたヴォータンは、息子に死を与え、娘を追放しました。指環を求めたファーゾルトは弟に撲殺され、目下の持ち主であるファーフナーはどうやら黄金の山の上で昼寝を決め込んでいる様子、持ち主が怠け者のせいで、肝心の指環は何もできません、これでは指環は舞台に上げて貰えません。この構図のいったいどこに「絶対の権力」がある?
ワーグナーは、「ラインの黄金」のケチな暴君アルベリヒと彼の前にひれ伏すニーベルング族の場面で仕掛けた指環の与える「絶対の権力」の正体を、ここであっさりとばらしてしまいます。「絶対の権力」など存在しないと。権力とは「絶対」ではあり得ない、なぜなら権力とは相対的なもの、無人島にたった一人の人間を独裁者とは呼ばない、ひとりぼっちでは権力を振るえない、権力は相手があってこそ意味がある。古今東西の独裁者が孤独を異常に恐れ、常に取り巻きを必要とすることからも分かる通り、「絶対の権力」は存在しないのです。
ぶっちゃけ、ヴォータンは指環なんぞ忘れてしまえば良かったんです。新築のヴァルハラ城に美人の女神でも侍らせて、毎日合コンして、たまに浮気して、ボケーッとしていれば良かったんです。指環は指環で、勝手に自己増殖を繰り返しどんどん黄金を増やして、黄金の山こそが「絶対の権力」であると勘違いする(絶対の権力が存在しないように、絶対の金持ちも存在しません。だって、一人のところに全てのお金が集まったら、それは流通しないので、既にお金じゃありません)強欲な資本家を次々と食い潰して行けば良かったんです。じゃ、何で物語はこうならなかったのか?
全てはヴォータンにあります。
指環が登場する以前、ヴォータンの外的自己は、その杖に刻まれたルーン文字の契約によって世界を治める神でした。ヴォータンの内的自己は、自由気ままに世界を巡っては奔放に恋する狼でした。ヴォータンの外的自己は、彼の内的自己とは矛盾するものでした。この外的自己と内的自己の矛盾を、ヴォータンは知らんぷりを決め込んで無視してきました。彼は、彼自身が契約を持ち込んだ後の窮屈な世界(親は子を守るべし、子は親に従順であるべし、夫婦は互いに貞淑であるべし、借りた金は返すべし)と、彼が契約を持ち込む前の本能のままの荒々しい世界(良い女を見たら取り敢えず口説いてモノにしろ、女房は勿体ないけど騙すべし、気に入らない相手はぶん殴れ、喧嘩上等!)の間を自由に行き来し、それで世界が維持できた、なぜなら、彼の外的自己の「契約」が、世界に共通の幻想を与える力を持っていたからです。契約は「相互の合意」によって成立します。ヴォータンの世界を支えてきた基盤、それは「お互いに理解できる」という、実のところ何の根拠もない甘ったれた幻想でした。
しかし、指環が登場してしまいました。指環は自己増殖以外の目的を持たず、その目的のためには手段を選びません。指環は誰も理解せず、理解される必要もなく、ただ与えるフリをして奪うのみ、もちろん指環の約束する「絶対の権力」も幻想に過ぎません。しかし、その眩さは誰をも、ヴォータンをも虜にする力を持っています。相互の合意なんて面倒なことを放棄してしまえば何でも思い通りになるのであれば、契約など何の意味がある?ヴォータンの外的自己はその基盤であった幻想を無惨に打ち砕かれ、ヴォータンの内的自己は、砕かれた外的自己の呪縛から逃れられません。
外的自己を失ったヴォータンは、内的自己によって世界を守ろうとします。その試みはフリッカによってあっさりと葬られてしまいます。フリッカの守る結婚も契約です。結婚には愛は必要ありません。お金目当て、地位目当て、子孫繁栄目当て、どれが動機でも立派な結婚です。愛だけを結婚の動機としてしまえば、愛のなくなった夫婦は即刻離婚しなければなりません。複数の相手を愛した人間は重婚をしなければなりません。フリッカの執拗な契約厳守の主張に対して、既に契約の無力さを知っている夫が、新たな契約(ジークムントの死)を結んでしまいます。
外的自己を自ら否定し(契約違反)、そのツケを払おうと内的自己(愛)によって外的自己(契約)を守ろうとする矛盾を双子に押しつけ、しかし、その双子の存在を外的自己の残骸(フリッカ)によって否定され、ヴォータンにはもう行き場がありません。そんな惨めな己をブリュンヒルデだけが見抜いている、その強い眼差しがヴォータンを苛みます。
ジークリンデの語る片目の老人であるヴォータンの謎めいた美しさ、ジークムントの語る荒々しい父であるヴォータンの力強い勇姿、彼の子供たちが描くヴォータンの圧倒的魅力、それに反して、実際に登場するヴォータンときたら、愚痴ばかりの情けない男です。その口から溢れるのは自己嫌悪のみ。
自己嫌悪には二人の自分が必要です。嫌悪される自分と嫌悪する自分。嫌悪される自分とは、それなりのイヤらしいことをしてしまった自分、抗いがたい欲求を満たそうとして、してはならないことをしてしまった自分、この自分は間違いなく現実に存在した自分です。これに対して、嫌悪する自分はどこにも存在しない自分です。嫌悪する自分が存在すれば、嫌悪される自分はそもそも存在できません。自己嫌悪とは「かくありたかった自分」が「かくあった自分」を否定する行為、虚が実を否定する行為、自分に対する言い訳です。そして、言い訳の先にあるのは行き止まりだけです。
神々の山の頂で、ヴォータンは指環の否定する愛を欲し、愛を否定する指環も欲しました。彼はどちらも断念できず、どちらも失いました。暗い森の中で、ヴォータンは自分の意のままとなる戦士のジークムントを欲する暴君であり、その戦士の孤独と苦難を嘆く父でもありました。彼はどちらも断念できず、どちらも失いました。険しい岩山で、ヴォータンは彼に従順な戦乙女ブリュンヒルデを慈しみ、彼の矛盾を見抜く聡明で勇敢な愛娘を恐れました。彼はどちらも断念できず、どちらも失いました。
ヴォータンの世界を破壊したのはヴォータン自身でした。月の光が彼の双子の子供たちの愛を照らし出し、夜明けの太陽がその愛を打ち砕き、再び巡ってきた月明かりは、もう愛を蘇らせることはできず、彼とその愛娘の別れを冷たく照らすのみ。ローゲの炎はブリュンヒルデを閉じ込める以上にヴォータンを閉じ込めます。契約の世界を自ら破壊し、愛の道筋を自ら閉ざした愚かしくも哀しい父。
「ただ一人、この神よりも自由な男が花嫁に求婚する」、ヴォータンは自分の上位に現れるであろう者の姿を予見てしまいます。「我が槍の切っ先を恐れる者は、この炎を超えてはならぬ」、その恐れを知らぬ者はもうすぐそこまで来ています。世界は神々の手から離れようとしています。「さらば、こけおどしの神々よ、喜びのうちに終末を迎えるがいい!」、ジークムントの嘆きの声が予言となりつつあります。
神々の長は契約と愛、どちらをも守ろうとしてどちらをも失い、それに気付いてしまった今、彼の残された片目に映るのは、死者だけが集う虚ろな城、己を嫌悪する虚ろな神・・・、黄昏が迫っています。
この「第一夜」のポイントは「不機嫌の動機」です。何もかも思うに任せないヴォータンがイラっとするたびに登場する旋律、これがめったやたらと登場するもんで、聴いている方は、目眩を覚えてしまいます。しかし、注意深く聴いていると、どれ一つとして同じではありません。ある時は他の動機と融合し、ある時は重なり合い、個々に微妙なニュアンスを持ちつつ、作品全体に統一感を与えています。この手の音使いはワーグナーならではでしょう。
一番の目玉はかの有名な「ヴァルキューレの騎行」です。意味不明の叫び声が絡み合い、素材としての原始の荒々しさと製品としての計算され尽くした精緻さ、ワーグナーの「マイスター魂」の見事な結晶です。
この作品のスターはブリュンヒルデ、父を思いやる優しい娘、黙々と死体を運ぶ労働者、愛を知らない冷たい処女、義母を嘲笑う誇り高き妾腹の子、神々の長の血を引く盾持つ乙女、そんな女が愛を目の当たりにした驚きと戸惑い、そして感動、その感動が怒りに代わり、怒りが父の胸に抱かれて束の間宥められ、しかし、その身を取り巻く炎の熱を吸収して、次の第二夜の愛の喜びと、第三夜の凄まじい復讐を予告する・・・、究極のドラマティック・ソプラノ、鋼の声と劇的表現、そして気品を要求される超のつく難役です。ニルソン(1965年ショルティ盤、1967年ベーム盤)とマルトン(1988年ハイティンク盤)がお薦めです。
宿命の双子ジークムントとジークリンデ、双子なのですから声質が、それが無理ならせめて雰囲気が似ているのが理想でしょうが、これは無理な相談か。1967年ベーム盤のキングとリザネクの息苦しいような熱唱が、近親相姦のおぞましさとそれが何だってんだという荒々しさでお薦め。1980年のブーレーズ盤(映像)、ホフマンとアルトマイヤーのご両人、若くて美しくて元気溌剌で、視覚的に最高です。こんな二人を引き裂くなんて、ヴォータン、ひどい!と素直に思えるので、ここから先の展開に説得力があります。
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