HOME
作品別インデックスへ
ヴェルディ 「ドン・カルロ」 (1999年10月19日〜1999年10月29日の日記より)
16世紀スペインの「アダムス・ファミリー」
ヴェルディの大作「ドン・カルロ」の魅力は、何層にも複雑に絡み合った権力構造と人間関係の織りなすヒリヒリするような緊張感です。舞台は16世紀、頂点まで登り詰めた(ということは後は下るしかないわけですが)スペイン王室です。このオペラの原作はシラーの「ドン・カルロ」ですが、これはあくまで歴史上の人物をモデルにしたフィクションですし、オペラの方も版がたくさんあり(イタリア語とフランス語の版があり、4幕物と5幕物の版があり、かなりややこしい)、なかなかの難物オペラです。まず、ハプスブルク・スペインの歴史から見てみましょう。
ハプスブルク朝スペインのルーツは、オーストリア・ハプスブルク家です。タイトル・ロールであるカルロの父フェリペ2世のそのまた父であるカルロス5世(神聖ローマ帝国皇帝としてはカルロス5世ですが、スペイン国王としてはカルロス1世になります。ややこしいったらない。)から始まります。このカルロス5世、広大な帝国のあちこちの問題を解決するのに忙しく殆どスペインにいませんでした。おかげで息子フェリペはわずか12歳でスペイン統治を押しつけられるわけですが、彼は、幼いうちに母を亡くしたこともあり、本来は内省的で孤独な性格の持ち主だったようです。フェリペの最初の妻はポルトガル王女マリア・マヌエル、この夫婦は(当時の王室では珍しくもありませんが)血縁関係にあり、ほぼ半世紀を狂ったまま王位を離さなかった女王フアナの血を引いています。
二人の間に生まれたのが主人公ドン・カルロです。このカルロ、実際には、動物を虐待して喜んでいたと伝えられており、話す言葉も支離滅裂、完全にビョーキだったようです。当時のボヘミア太子の手紙にこうあります。「(カルロは)片方の肩はもう片方より高い位置にある、右足は左足より短いので引きずって歩く。頭が大きすぎる。胸は窪み、背中には瘤がある」「まるで七歳の子供のように、愚かしい質問ばかりする。高尚な事柄に興味を示したことはなく、食べることにしか関心がない。際限なく食べ続けているのでよく色々な病気にかかり、顔色がひどく悪く、長生きはできないだろう」。明らかにカルロは曾祖母にあたる狂女王(ラ・ロカ)フアナの遺伝子を継いでいたようです(このフアナの遺伝子はこれから先のハプスブルクにくら〜い影を落とし続けます)。ですから、シラーの原作にあるドン・カルロは全くの虚構です。
マリア・マヌエル亡き後(フェリペは何の因果か、ことごとく妻に先立たれます)、フェリペはイングランドのメアリ・チューダー(プロテスタントを殺しまくった「ブラディ・メアリ」)と結婚、彼女との間には子はなく、彼女の死後メアリの異母妹エリザベス1世に求婚しますが、エリザベスは筋金入りのプロテスタント、カトリック教会の「盾」スペイン王なんかと結婚するわけはなく、それどころか、終始敵対します。海賊のキャプテン・ドレイクやホーキンズたちを煽ってはスペイン船を襲わせ、フェリペの抗議もどこ吹く風、ドレイクにナイトの称号を授け、フェリペがスコットランドのカトリック勢力盛り返しの希望を託していたメアリ・スチュアートの首を刎ね、スペインの誇りである無敵艦隊を沈め、フェリペは生涯、この「処女女王」との喧嘩に明け暮れました。フェリペの3人目の妻となったのはフランスのエリザベート・ド・ヴァロア(オペラではエリザベッタ)。彼女は幼くして王子カルロと婚約していたのですが、メアリの死によって急遽、舅となるはずだったフェリペと結婚したのです。
ここがオペラでは、無情にも継母と義理の息子になってしまった若い恋人たちの悲劇とされている部分です。このときフェリペ33歳、エリザベート15歳ですが、何しろ本物のカルロはビョーキですし、幼児のうちに政略結婚の約束をさせられていただけですから、二人の間に恋があったとは思えません。フェリペにしてみれば、宮廷の厄介者で出来損ないの息子に跡を継がせるより、若い妻を迎えて自分で新らに息子を作る方に希望を持つのも当然だったかと。やがて成人したカルロは父に謀反を企て(これも当然ビョーキ男のやることで、オペラみたいにかっこよく「フランドルを救おう!」なんて思ったわけではなく、単なる「発作」に過ぎません)、1年後に獄内で狂死、同じ年にエリザベートも亡くなったため、ますます悲劇の恋人たちに仕立てやすくなったみたいです。
エリザベートの死後、フェリペはアンナ・デ・アウストリアと4度目の結婚をしますが、彼の残した子孫たちは見事に出来損ないばっか。フェリペの後を継いだフェリペ3世は、ワーカホリックだった父を見て育ったせいか国政になど全く関心なし、全てを廷臣に丸投げし、彼らが私腹を肥やすのもほったらかしで狩猟に明け暮れ、「無能王」という渾名を頂戴した挙げ句に、スペイン・ハプスブルクの(タダでさえ腐りかけていた)屋台骨をガタガタにしてくれました。とどめは血族結婚の因果を一身に背負った格好のカルロス2世、大人になっても読み書きもできず、おねしょ癖も直らず、フランスのルイ14世の姪と結婚はさせられますが、当然子供も作れず、その39年の生涯を大勢の乳母と医者、祈祷師と占星術師に囲まれて過ごします。この「生まれた時から死に瀕していた」、と言われた割には長持ちしたカルロス2世の死によって、スペイン・ハプスブルクは断絶、列強が群がったスペイン継承戦争の結果、王位はブルボン朝に移ります。
フェリペ2世は確かに気難しい人間だったようですが(広大なエル・エスコリアル宮殿に残されたフェリペの書斎兼寝室はわずか9平方メートル、この狭い部屋にこもってあれこれ悩んでいれば、そりゃ人間、気難しくもなります)、そもそも彼のスタートからスペイン王室は矛盾だらけで、繁栄の頂点で既に腐り始めていたのです。
彼が引き継いだ時点で王室は借金だらけ、問題だらけでした。父王カルロス5世は全ての問題を未解決のまま放置していました。というか、放置せざるを得なかったのです。なぜなら、どれもこれも、当時の体制のままでは解決不可能だったからです。
1517年にルターが火をつけた宗教改革は勢いを増すばかり。ハプスブルク体制に執拗に逆らうフランス(もとはと言えば、神聖ローマ皇帝の選挙で負けた恨みなのですが)、地中海にはオスマントルコの脅威が迫るなかで、スペインは表向きはキンキラの大帝国ですが、もう崖っぷちまで追いつめられていたのです。でも、フェリペは根が真面目だったみたいで、この山積みの問題に真剣に取り組みます。真剣に取り組んではいけなかったのです。その結果、彼の人生は休む間もない戦いの連続となりました・・・。当時のカトリック・スペインは羊毛(メリノ羊)生産に頼る後進国、その羊毛を製品化して現金に換えていたのはプロテスタント・フランドルです。そのどちらもがフェリペの領地です。フランドルを弾圧しては、自分で自分の首を絞めるようなものですが、スペイン王(=カトリックの盾)フェリペはそうせざるを得ませんでした。でも、肝心のカトリック教会が(ルターのいう通り)中から腐っていました。カルヴァン流の功利主義(一生懸命働いた結果のお金はその人のものだ)は、力を得つつあった市民階級とローマ教会に反発する領主たちの間に急速に広まります。富を巡る争いは激しさを増すばかり。イエスは、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」と言いましたが、神はカエサルのものまで欲しがり、カエサルは神のものにまで手を伸ばすのが現実の世界です。
こんな状態の中、スペインは戦争に明け暮れます。これでは、新大陸からいくら大量の銀が流れ込んだところで、焼け石に水、フェリペはその生涯で3回支払不能(デフォルト)に陥っています。美人のエボリ侯爵夫人(ティツィアーノの「ビーナスとオルガン弾き」のビーナスのモデルは彼女と伝えられています)とつかの間の気晴らしをしたくなっても仕方ないでしょう。
さて、この四面楚歌の悩み多き父とビョーキの息子、そしてそれを取り巻く人たちを、ヴェルディはどう描いたのでしょうか?
王様は眠れない−スペイン宮廷の深くて冷たい闇
「ドン・カルロ」は破局のドラマです。重苦しい前奏曲を聴くだけでそれが分かります。
【第一幕】
幕が上がれば狩人と勢子たちの意外とあっさりとした合唱、フランス王家の冬の離宮フォンテンブロー、カルロは婚約者のエリザベッタを一目見たくてはるばるスペインからやって来ました。「フォンテンブロー、広大で寂しい森よ」、突飛な行動に似合わない内省的な旋律、カルロの性格が端的に表現されます。迷子になってしまったエリザベッタ、カルロはスペインの使者と名乗りカルロ王子の小さな肖像画を渡します。これって・・・あなたなのね!若い二人はたちまち一目惚れ、一緒に幸せになろうと見つめ合うところに遠くから響くのは、スペインとフランスの講和条約締結を伝える礼砲、人々が祝福に集まります。
姫、このたびはめでたくもスペイン王妃となられるお方・・・、王妃?いえ、私は皇太子妃になるのよ。そこに衝撃の発表、やもめの父王フィリッポがカルロの代わりにエリザベッタと結婚する!この結婚の目的はスペインとフランスの関係修復ですから、未来の国王よりも今の国王の方が話が早いってわけです。
平和を願う人々の前でエリザベッタには他に選択肢はありません。何という運命・・・、一人絶望に沈み込むカルロのモノローグ。
【第二幕】
サン・ジュスト修道院、カルロの祖父カルロ5世の霊廟、「至高の皇帝カルロ」とて神の前では一人の罪人、修道士たちの歌はソロと合唱が重なり合う聖歌の形式。悩める魂は天でのみ安らぐ・・・一人の修道士の声が祖父に似ていると怯えるカルロ。カルロの親友であるポーザ侯爵ロドリーゴが登場します。義母への愛を告白するカルロ、その痛ましい姿に動揺するロドリーゴですが、罪深い恋なんてお忘れ下さい、フランドルの民を弾圧から救わねば!「神よ、あなたが魂に」、二人は新しいスペインのために生も死も共にと歌います。テノールとバリトンの男声二重唱、力強い声の頂点で仰々しく登場する国王フィリッポと新王妃エリザベッタ、思わず取り乱すカルロをロドリーゴがしっかりと支えます。ぴったりと寄り添う最後の「自由を!」、匂い立つ若さと眩しい理想。
愛する男の継母になってしまい鬱々としているエリザベッタ、庭では美貌の誉れ高きエボリ公女が技巧を凝らした「ヴェールの歌」を歌います。ロドリーゴはエリザベッタにこっそりとカルロからの手紙を渡します。それを見たエボリはカルロは自分を愛して悩んでいると勘違いしてしまいます。一人になったエリザベッタの前にカルロ登場、「お願いがあって参りました」とフランドルを救いに行きたいと訴えますが、エリザベッタはつれない態度。こうなると(何しろカルロのフランドル熱は父への反抗とエリザベッタを忘れたいがためで、別に信念があるわけではないので)話は腰砕け。なぜ優しい言葉を下さらないのですか?思わずすがりつくカルロ、「ならば、父を殺して、その血に染まった手で母を祭壇に導くがいい!」、エリザベッタはカルロを突き放します。絶望して走り去るカルロ。
フィリッポが登場、なぜ王妃に一人の女官もついていないのだ!この王室の伝統を破る者は立ち去れ!フィリッポは、フランスからエリザベッタについてきた伯爵夫人に帰国を命じます。「泣かないで、友よ」、心はフランスまであなたと一緒よ・・・、広大な王宮で大勢の侍女たちにかしずかれていながら、エリザベッタは孤独な囚人なのです。
ロドリーゴがフィリッポに宗教弾圧に喘ぐフランドルの惨状を訴えますが、フィリッポは「血によって平和が得られる」、ロドリーゴは「そんなものは墓場の平和だ!」、おべっかを知らないロドリーゴを信頼したフィリッポは、宗教裁判長に気をつけろと忠告します。そう、この国の本当の支配者はフィリッポではないのです・・・。
【第三幕】
夜の庭園でカルロはエリザベッタを待っています。でもヴェールを被って登場したのはエボリ。それに気づかないカルロは「君こそ美しく愛しい人」と熱い思いを告白します。いくら夜でも、エボリがヴェールを被っていても、目の前にいるのに間違えるか?この時点で既にカルロの精神は破綻を来たし始めていると見るのが正しいでしょう。彼は継母への愛をずっと押し隠してきました。元々ひ弱な彼の精神はもう限界に達しています。誰でもいい、苦しい胸の内を吐き出さないでは済まないのです。要するに「王様の耳はロバの耳〜!」と一緒です。人違いに気づいてうろたえるカルロ。エボリは当然にカンカンです。ロドリーゴが口封じにエボリを殺そうと剣を抜き、それを止めるカルロ。三重唱「恐れよ、似非息子!」、叩きつけるような旋律に乗せて三者三様の想いが交錯します。夜の庭園は何とも賑やかなことになってしまいました。この落とし前、誰がどうつけるのか?
広場ではフランドルの新教徒たちが火炙りになろうとしています。そこへカルロがフランドルからの使者と一緒に登場、「陛下、私が立つ時が来ました」、フランドルを私にお譲り下さい!国土を分割するなんてとんでもない話で、当然にフィリッポは即、却下。カルロはとうとう剣を抜きます。息子が自分に剣を向ける・・・フィリッポは動揺します。その時、ロドリーゴがカルロの剣を取り上げます。直情型で考えなしに行動するカルロは、その結果、当然とはいえ反逆罪で逮捕され牢獄へ。その命は風前の灯火・・・。
【第四幕】
チェロのソロが憂いをいっぱいに湛えて、このオペラ最高の山場、フィリッポが歌う「一人寂しく眠ろう」。若い妻は自分を愛してはいない、そして息子は自分に反抗する、権力の頂点でフィリッポが感じるのはどうしようもない孤独です。しかし、この美しいアリアには、愛されない男の苦悩があっても、愛する男の苦悩がありません。愛されないことが地獄なのではない、愛せないことが地獄なのだ、地上において俗世の最高点に立つ男がそれを知らないのです。
盲目の宗教裁判長登場、王子カルロとロドリーゴは危険分子だとのご託宣・・・。二重唱「私は王の前にいるのか?/私がそなたと共に」、息子を殺せと?正しきカトリック王ならできるはず、結婚できない修道士に父の悩みが分かるはずもなく、しかし、フィリッポは父ではなく王であらねばならないのです。私は一人の息子(カルロ)の父か?それとも百万人の民(広大な領土)の父か?国王はローマ教会に屈します。白み始めた窓を前に一人立ちつくすフィリッポ、権力者が眠ることを許されるのは墓場だけなのか・・・。
そんな王にさらに追い打ち、エリザベッタが宝石箱が盗まれたと訴えます。宝石箱はフィリッポの手元にあります。開けてみればにっこり微笑む息子の肖像画が・・・。お前、まさか息子と?何てことを仰るの!フィリッポのあまりの言葉に気を失うエリザベッタ。実は宝石箱を盗んだのは嫉妬に狂ったエボリです。後悔するエボリはエリザベッタに全てを打ち明けます。カルロへの愛、そしてフィリッポとの不倫、エリザベッタはエボリにただ一言「出て行くがよい!」。
エボリのアリア「呪われし美貌」、エボリはメゾ・ソプラノの役ですが、このアリアは後半とてつもない高音が出てきます。普通のメゾでは絶対にこなせないアリアです。私はなんてことをしてしまったの?嫉妬に狂った挙げ句に罪のない王妃様を破滅へ追いやろうと・・・、この美貌のせいで高慢になった自分が許せない、カルロ、あなたは異端の罪で処刑されてしまうの?いいえ、そんなことさせない。私がきっとあなたを救います・・・エボリは悲嘆の淵から立ち上がります。どん底に落ちてなお希望を見出せる、その希望を我が手で手繰り寄せようと爪を立てる、これぞエボリの真骨頂です。
牢に入れられたカルロのもとにロドリーゴが現れます。彼は反逆者は自分と思わせる細工をした上で、殺されるためにここに現れたのです。案の定、国王の兵隊の発砲でロドリーゴは倒れます。「私は死にます」、この国にあなたという素晴らしい希望を残して・・・、フランドル救済をカルロに託して息絶えるロドリーゴ・・・。なんか不合理ですね。フランドルの、スペインの将来を考えれば、既に頭が破綻しているカルロなんかよりロドリーゴが生き残ってしかるべきです。聡明なロドリーゴのこと、カルロがダメ王子だってことは分かっているはずなのに、何で彼の身代わりで死んでいくのか・・・。ここにロドリーゴの真価があります。彼はあくまでも忠誠を貫きます。どんなことをしてでも国王と王子を守る男なのです。そして、彼の死をカルロは、「共に死のう」と誓った王子は、きっと受け止めてくれると信じているのです。誠実な、そして骨太な男です。しかし、残念ながら当のカルロはそうじゃない・・・。民衆とそれに紛れたエボリが王子を救えと大合唱しますが、おっかない(何しろ地獄行きを握っている)宗教裁判長がその声を圧殺します。そのどさくさに紛れてカルロは外へ。
【第五幕】
再び修道院、カルロを待つエリザベッタ、「世の虚しさを知る神」よ、カルロを諦めます、愛を捨てます、その代わりどうか彼を救って下さい、私の望みはもはや墓に横たわることだけ・・・。エリザベッタはロドリーゴから託された通り、カルロを守り、母として生きることを決意します。しかし、その心はあの懐かしいフォンテンブローに飛び、あまりに儚かった恋をそっと愛おしむことを止められません。長大なアリアは揺れ動く心が静かな諦観に到達するまでを余すところなく描き切ります。我が人生を葬って墓場で生きる、神よ・・・、エリザベッタの吐き出す最後の言葉には、全てを捨てた人間だけが得られる静かな安息の響きがあります。
ここでカルロが登場します。彼もやっとエリザベッタへの愛を諦める決心をします。もうこの世では決して結ばれない二人は、天国での再会を約束します。そこにフィリッポと宗教裁判長が登場し、二人の逮捕を命じます。その時あのカルロ5世の声を持つ不思議な修道士が現れます。どうもこの気の毒な修道士、先代国王の霊にとりつかれているみたいなんですね。祖父の声に導かれるまま、カルロは墓の中に吸い込まれていきます。ロドリーゴが、エリザベッタが守ろうとした「希望」は、死という永遠の安息の誘惑の前に呆気なく消えていきます。
フィリッポとロドリーゴという低音の役の占める比重が大きいせいか、このオペラには全体に暗い雰囲気が漂っています。その暗さが悲劇を一層際だたせています。この暗さはそのままこの時代のスペインの暗さです。広大な領土と絶大な権力を持つハプスブルク・スペイン、それが今まさに落日を迎えようとしています。スペインの、カトリックの時代はもうすぐ終わろうとしています。後にとって替わるのは、溌剌とした若さに満ちたイングランド、不義の子とののしられ、カトリックの教義ではその出生からして否定されている(何しろバチカンが認めない離婚を強行したヘンリー8世の再婚から生まれた子です)エリザベス1世率いるイングランドです。
ヴェルディの描き出すこの壮大な落日・・・。
敵の敵は味方なのか?
「ドン・カルロ」は、対立のドラマです。誰も彼もが、誰か彼かと対立しています。
第一に、父と子の対立、フィリッポ(フェリペ2世)と息子のカルロです。大物オヤジ(大企業のオーナー社長)に対して、それを超えられないと焦る息子が反抗する(茶髪でピアス、高校中退して目下フリーター)、大物オヤジは出来の悪い息子にタメ息をついている(こんなのが跡取りで大丈夫か?)、という構図です。確かにオヤジのタメ息通り、カルロは(オペラではビョーキ男ではないにしろ)出来が良いとは言えません。どうも、フィリッポは「あぁ、ロドリーゴ(ポーザ侯爵ロドリーゴは創造上の人物で、実在しません)が息子だったら・・・」と思っている節が窺えるのですが・・・。
第二に、カトリックとプロテスタントの対立です。当時のカトリック教会の問題点は、本来、精神世界担当のはずのバチカンが、同時に領地と政治力・軍事力を持つ世俗の国家でもあったという点です。お祈りしながら同時に戦争もしなくてはなりません。「戦争」にかかるお金を「お祈り」で集めよう、というわけで(神様関係はバチカンの専売特許でしたから)、彼らは免罪符の売り出しという独占事業を始めました。これに対してプロテスタントの主張は、信仰は個人の心の問題だということです。彼らは(その当時は勿論まだ意識していなかったのですが)政教分離を求めていたのです。自由に金儲けに精を出したいわけで、これには、箸の上げ下げにもいちいち口出しするような坊主は邪魔です。これは、フィリッポ、宗教裁判長(スペイン側)の重戦車に対して、カルロ、ロドリーゴ(フランドル側)が立ち向かいますが、重量差をどう克服するのか・・・。
第三に、王権と教会の対立、フィリッポ(セコンドにはロドリーゴと役に立たないというかはっきり言って邪魔なカルロがついています)対宗教裁判長というヘビー級の対戦です。どっちが偉いのかという問題ですが、これは結論の出しようがありません。教会は精神世界ですし、王権は現実の政治です。「人はパンのみにて生きるにあらず」というイエスの言葉は名言ですね。つまり、「パンなし」ではないのです。人間には、心の糧(神)と身体の糧(パン)の両方が必要なのであって、これのどっちが偉いかと聞かれても(私は)困ります。本来別の世界のものが、この時代には同じ土俵に乗っていました。そして、誰にも反論できない(だって、誰も見たことないんですから)地獄をちらつかせる教会(破門というのは強力な武器でした)がまだ一枚上手のようです。
第四に、公と私の対立です。これはエリザベッタ(ひいてはフィリッポ)対カルロです。王妃として、義母としての立場からカルロに対して距離を置こうとするエリザベッタに対して、カルロは(許されないと知りながら)激しく恋をぶつけます。公の立場を守るために愛を諦めるエリザベッタと、そんなことお構いなしに熱くなるカルロ・・・。これは同時に、別の形でのオトナ(オトナは耐えることを知っていますし、その価値も理解できます)と子供(登場人物の中でカルロだけが「お子様」やってます)の対立でもあります。
第五に、エボリ対ロドリーゴ、これは言ってみれば「欲望」対「道徳」でしょうか。エボリは、権力を持つ男をその美しさで操ることで自分の欲求を満たすことに、何のためらいもない女です。フィリッポと不倫していながら、その息子であるカルロを激しく愛するというエボリは、ロドリーゴにとっては「何考えてんだ?」的不道徳女でしょう。自分の欲望に素直に生きるエボリからすれば、ロドリーゴなんて「もっともらしいことぬかす」ムカつく堅物男でしょう。そして、このエボリは、「不道徳」というフィリッポとの連盟関係によって、教会とも(水面下で)対立しています。
最後に、一人の男(カルロ)を巡って繰り広げられる、愛される女(エリザベッタ)と愛する女(エボリ)の対立です。「耐える女」対「我慢できない女」といってもいいでしょう。エリザベッタにとってエボリは、愛のためには手段を選ばない「テロリスト」です。エボリからすればエリザベッタは、カルロの愛を独り占めしている憎い敵でありながら、フィリッポとの関係を考えれば間抜けな犠牲者です。カルロを愛してはいても身動きのとれないエリザベッタと、恋については百戦錬磨の自由なエボリ・・・。しかし、カルロのどこがそんなに魅力なのかなぁ?
一つのオペラにこれだけの対立がテンコ盛りというのは、ちょっと他にないですよね?政治と宗教に正面から切り込んでいる点にも、ヴェルディの壮大な目論見が感じられます。まさに世紀のバトル・ロイヤル状態のこのオペラ、音楽もそれに相応しいスケールを持っています。
ドラマのすべては一点に収束する
このオペラは低音歌手のためのオペラと言っていいでしょう。作品中一番美しいアリアである「一人寂しく眠ろう」を歌うのはバスのフィリッポですし、キャラクターとして最も美しく描かれているのはバリトンのロドリーゴです。ソプラノのエリザベッタは耐える役柄ですので、音楽的には美しくても地味な印象ですが、メゾ・ソプラノのエボリは情熱の女、コロラチューラを駆使する「ヴェールの歌」とドラマチックな「呪われし美貌」という派手なアリアがありますから、彼女の方が目立ちます。
そして、キャラクターとして最も弱いのは、テノールのドン・カルロです。彼は、父王フィリッポのような大きな政治(それは時には鬼にもなる覚悟が要求されます)を理解できませんし、ロドリーゴのように強い信念と高い理想を持つこともできません。エリザベッタのように自分を抑え、その運命に殉ずることもできませんし、エボリのように自己実現のためには何でもするという強い自我も持っていません。彼は、許されないと分かっている恋にいつまでも悩み、深く考えることもせずに衝動的に行動し、その結果として、どんどん自分を追いつめていってしまいます。自分で自分をコントロールすることのできない幼稚な性格なのです。この一番弱い人物がタイトル・ロールになっているのはなぜでしょう?正しいタイトルは「フィリッポ二世」なのでは?
このドラマの鍵はベクトルです。登場人物すべてのベクトルがカルロに収束しているということです。フィリッポの憂鬱の原因は、出来が悪くて跡取りとしては心許ないカルロ、自分の妻を愛しているカルロ、それでも大切な息子のカルロです。ロドリーゴの友情と忠誠の対象もカルロです。彼が命を捨てて守ろうとしたのもカルロです。エリザベッタがその憂い顔の下に隠しているのは、カルロに対する愛です。彼女が死ぬ思いでカルロを突き放すのも彼を守るためです。エボリが愛したのもカルロです。夜の庭園で彼女を怒らせ(他の女と間違えるなんて、ひどい侮辱です)、その結果としてエボリは破滅してしまうわけですが、そのエボリが何としても救ってみせると誓ったのも、カルロです。それぞれ強い性格と意志を持っている4人の大人全員の視線の先にいるのは、大人になりきれない未熟なカルロなのです。
このベクトルの収束を理解するには、ハプスブルク・スペインの運命を重ねることが必要です。どんな王朝でも、どんな体制でも、登っている時はすべてがうまく噛み合います。優れた人物が続々と表舞台に登場し、幸運な偶然が重なり、何もかもがうまくいくものです。まるで運命の女神が後押しをしてくれるかのように。しかし、頂上を極めたものは必ず下降します。違いといえば少しは長く頂上にいられるかどうかだけで、すべてのものはいずれは頂上から降りなければなりません。そして、一旦下降を始めると今度はすべてがうまくいかなくなります。凡庸な人物ばかりが登場し、不幸な偶然が重なります。
フランドル地方のオランダは、イングランドを後ろ盾に迎え、1581年にスペインに対して独立宣言を突きつけます。ハプスブルク・スペインはドル箱の先進工業地帯を失います。元はといえばフランドルの繁栄は、1492年、100%のカトリック国を目指す頑固なイサベラ女王(フェリペの曾祖母さん)の命令でスペインを追い出されたユダヤ人たちが築き上げた繁栄です。ご先祖様の愚策のツケが回ってきた格好です。
ユグノー戦争に決着をつけ国をまとめたフランスは、表向きは「真のカトリック王」の名誉を取り戻そうと(実のところは因縁のライバルであるハプスブルクの息の根を止めるために)、プロテスタント陣営のイングランドとオランダは、表向きは「異端審問」の死者たちの弔い合戦のために(実のところは、新大陸での利権を奪うために)、昂然と反ハプスブルク戦線に参戦します。
プロテスタント地域から搾り取った富でプロテスタント弾圧を実行するという、土台無茶な綱渡りを演じてきたハプスブルク・スペインですが、それぞれの国家が、都市が、自分たちの立場と利害を鮮明に打ち出す時代の流れを前にして、ヴォルテールが「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と見抜いていたツギハギだらけの神聖ローマ帝国の王冠は光を失っていきます。
1648年、30年戦争の後始末であるウェストファリア条約によって、ハプスブルクはスイスを失います。チューリッヒに程近いハプスブルクという小さな町がこの一族の発祥の地です。彼らは故郷を失いました・・・。これから先を暗示する出来事でした。
落日を迎えんとするハプスブルク・スペインの象徴がカルロ、ひ弱で思慮に欠けた、甘ったれた幼稚な未来の国王であるカルロなのです。彼こそが運命を表しているのです。ですから、他の4人の視線がカルロに収束することになるのは当然です。これから待ち受けている運命が、たとえどれほど惨めなものであったとしても、そこから目を逸らすことは許されません。未来は過去の結果です。過去は未来に対して責任を負っています。現在という過去と未来の狭間で、フィリッポは、ロドリーゴは、エリザベッタは、そしてエボリは、カルロをじっと見つめています。そのカルロ、見つめられる対象であって、決して自分からは見ないカルロ(彼が夜の庭園で目の前にいるエボリを全く見ていなかったことは象徴的です)、彼らのベクトルの収束地点であるカルロは、彼らの目の前でカルロス五世の声に導かれ、墓の中、つまり過去に帰っていきます。ハプスブルク・スペインの未来は「死んだ」のです。
これがヴェルディが(そして原作を書いたシラーが)求めた結末です。複雑に絡み合った対立関係は、墓に吸い込まれるカルロによってすべて無に帰します。ハプスブルク・スペインの未来がカルロに象徴されるものだとしたら、ややこしい対立にいったい何の意味があるのでしょう?そんなものは、この結末のカルロの姿の前には全く無意味です。彼らの前にぽっかりと大きな口を開けて待っているのは、「未来のないハプスブルク・スペイン」という未来です。ヴェルディは、低音歌手主導の暗いイメージの中に、重たく厳しいオーケストラのタッチの中に、この結末を見事に描き出しました。彼の歴史感覚は(詩人シラーの力を得たとしても)第一級だったと思います。
お薦めの録音は1961年のサンティーニ盤、何といってもロドリーゴのバスティアニーニが最高です。理想的なヴェルディ・バリトン、型を崩さない端正な歌唱、匂い立つ気品。
フィリッポで聴くなら1978年のカラヤン盤、ギャウロフの歌声はいささか朴訥、それが一層愛に恵まれない男の孤独を引き立てます。
エボリで聴くならやっぱりサンティーニ盤のコッソット、切れ味最高です。エリザベッタが完全に喰われています(ホントは喰っちゃいけないのかも知れませんが)。
カルロで聴くなら1996年パッパーノ盤のアラーニャ、初々しくていかにもひ弱な王子様って感じです。1977年アバド盤のカレーラスは、「ビョーキ男」のイメージにぴったり、少々型が崩れておりますが、そこがかえって病的な凄みにつながっています。
あれこれと聴いてはみたのですが、未だにこれが「ドン・カルロ」だ!という録音に巡り会っていません。主演5人に高い力量を要求するオペラですから、それを実現させることはとても難しいと思います。だからこそ、楽しみにしています。いつかきっと理想の「ドン・カルロ」を聴こうと思っています。王の威厳に満ちた、しかし広大な領土でも絶大な権力でも癒されない孤独に苛まれる憂鬱なフィリッポを、気高い理想と誠実な人柄と、そして熱い情熱に溢れるロドリーゴを、恋する心を大切に持っていながら、それゆえに果てしなく憂える切ないエリザベッタを、奔放な女でありながら、誇り高く力強いエボリを、そして、すべての運命を象徴して、もがきながらも結局は墓の中に消えていく、幼いままに封じ込められた未来を持たないカルロを、いつかきっと聴いてみたいと思います。
HOME
作品別インデックスへ