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Leafヴェルディ 「ファルスタッフ」 (2006年4月24日〜2006年6月23日の日記より)


生を謳歌する逆説の塊

 そりゃ大変な時代だったさ。だが、大変じゃない時代なんて天地創造以来あったためしなんざないだろ?俺は俺のやり方で生きてきた、だから、みんな、それぞれのやり方で生きりゃいい、苦労があろうが、楽しかろうが、全部生きている間だけの話さ。

 ずっと戦ばっかりだったさ。俺が生まれる前に始まって、俺が死んだ後も続くこの戦、百年戦争と呼ばれる代物さ。そもそもの発端は海の向こうのフランスでカペー家の御世がシャルル4世の代で終わっちまったことらしい。1328年にヴァロア伯爵フィリップがフィリップ6世を名乗ったが、俺っちのイングランドのエドワード3世が、俺のお袋さんはシャルル4世の姉さんだってんで、王冠よこせってフランスに乗り込んだのさ。1340年のエクリューズの海戦でイングランド海軍はフランス海軍をボコボコに叩いて、ドーヴァー海峡を好き勝手に行き来するようになった。1350年には敵の総大将フィリップが死んじまって、お下がりの王冠を被ったジャン2世は、ポワチエの戦いでエドワード黒太子にふん捕まって捕虜になる始末。哀れなジャン2世はフランスの西南部をイングランドに差し上げますって条件で何とか国に帰ろうとしたんだが、お里の方が帰って来んなって冷たい返事、結局、捕虜のままあの世行き。

 ところがあちらさんもしぶといのさ。後を継いだシャルル5世、これが王様やらせておくのが勿体無いほどの切れ者で、後の世で「税金の父」と呼ばれることになる通り、取りっぱぐれのない恒久課税をおっ始めて懐を肥やし、ブルターニュから更に前進を狙っていたイギリス軍の進路を塞ぎ、そりゃ大した働きぶりだった。1380年にこの王が逝った時、大陸のイングランド領はほとんど残っていなかった。
 そのイングランドでは、エドワード3世からエドワード黒太子の子リチャード2世の御世になったんだが、何しろ王冠を被った時は10歳、おじさんたちの言いなりさ。シャルル5世を真似たんだか税金に手をつけてみたんだが、これがケチのつき始め。一人4ペンスの人頭税は金持ちに軽くて貧乏人に重い。ワット・タイラーが率いる貧乏たれの群がロンドン市内で大暴れ、ロンドン塔に逃げ込んだリチャード2世、結局暴動を止めたのはロンドン市長ウィリアム・ウォールワースの剣だった。
 オジ貴連中に任せた挙句がこのザマだってんで、リチャード2世は自分でマツリゴトを始めたんだが、惜しいことにちと遅すぎた。ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを締め出してマーチ伯ロジャー・モーティマーを自分の後見人に指名したのは良いが、その決断はあっちにふらふら、こっちにふらふら、昨日はグロスター公を頼ったかと思えば今日は逮捕してみたり、もう誰も王のことを信じなくなった。

 ジョン・オブ・ゴーントが1399年に死んだ時、リチャード2世は恨みがましいというか欲の皮の突っ張りすぎというか、その子ボリンブログが継ぐはずのランカスターの所領を巻き上げちまった。これで黙っているようなボリンブログじゃない、彼が兵を挙げると気まぐれな王にうんざりしていた貴族共がワンサカ合流した。こうしてリチャード2世はロンドン塔へお引越し、廃位されて王冠を失った。ヘンリー4世になってその王冠を頂戴したボリンブログが何を隠そう、俺のマブダチ、ハルの親父さんさ。何でもこの親父さん、リチャードに飯食わせないで飢え死にさせたって噂さ。飯が食えない・・・ブルブル、おっかないねぇ。

 こうして始まったランカスターの御代だが、ヘンリー4世には「正しい王か?」って噂がいつまでもしつこく影のように付きまとった。王は議会を牛耳ることで「正しい王」であろうとした。要するに気に入らない貴族の首をちょん切って回ったってことさ。反対派をようやく始末したところで、この王の運も尽きちまった。遠征先で貰ってきた病気のせいですっかり面変わりしちまった。おまけに癲癇まで出てきて、ほとんど引き篭もり。人間、こうなりゃ弱いもんで、急にしおらしくなった王は、『われらは瘧に身をふるわせ、心痛に病み蒼ざめている、しばらくは内乱におびえる平和に息つく間を与え』だの、『王冠をいただく頭には安らぎが訪れることはない』だの、何を今更。

 急に抹香臭くなった親父さんをよそに、跡継ぎのハルはってーと、俺と組んで追い剥ぎ稼業に精出していたってわけさ。ハルは最高の相棒さ、ずいぶん楽しく暴れまわったもんさ。追い剥ぎの上前を撥ねたこともある。何を隠そうハルをいっぱしの悪党に鍛えたのはこの俺さ。『王子ハリーだって勇敢なのは酒のおかげだ、だいたい生まれつきはおやじの冷たい血を受け継いでいたんで、荒れはてた不毛のやせ地といったざまだったが、そこに飛びきり上等の肥料であるシェリー酒をたっぷりとくれてやって開墾に奮励努力したからこそ、いまじゃあ勇気ある熱血漢になれたんだ。おれに倅が一千人いようと、人間の守るべき道として第一に教えたいことはこれ一つ、アルコール抜きの飲み物には断じて口をつけるな、強い酒にはわが身をうちこめ、ってことだ。』、酒の腕前と一緒に悪党ぶりもぐんぐん上がった。

 実際、ハルの無茶な暴れっぷりは親父さんを困らせた。だがその親父さんだって、「王殺し」と陰口を叩かれる自分に比べて人気があるハルを内心では嫌っていたような節もあった。ハルはどんな裏路地でだって堂々と悪事を働いたが、戦場ではもっと様になる男だった。14歳でウェールズ遠征に出たってんだからすごいだろ?生まれつき、喧嘩の名人だったのさ。親父さんに最後まで反抗したパーシー一族をシュールズベリーで破った時だってまだ16歳だったんだぜ。暴力で王冠を奪った人間は誰よりも暴力を恐れるものさ。親父さんにとってハルは自慢の息子というより手強い政敵だったんじゃないのか。

 でも、ハルの喧嘩の才能は親父さんをずいぶんと助けもした。ハル自身も宮廷よりも戦場が似合う男だった。俺だってこう見えても一緒に戦に行ったんだぜ。そん時の俺の武勇伝は・・・聞くなって。これだけは言っておこう、『戦争にはいちばんあとから、宴会には真先かけてだ、これが腰抜け武士と食いしん坊の守るべき掟だ。』。
 『だいたい死ぬってことは偽物になるってことだ、人間のいのちをもたないやつなんて人間の偽物にすぎんからな。ところが、死んだふりをして生きるってことは偽物になるってことじゃない、それこそいのちをもっている人間の本物の姿だ。勇気の最上の部分は分別にある、その最上の部分を働かせておれはいのちを守ったんだ。』

 そんなハルの親父さんも、1413年に死んじまった。もう歩けもしないのにウェストミンスターにお参りに行ってそこでバッタリ倒れてそれっきりさ。死ぬまで俺は本当の王か?って問い続けた一生だった。

 ハルはヘンリー5世になった。イングランド国内ではロラードとかいう宗教改革に熱中する連中がうるさかった。それ以上にうるさかったのは海の向こうのフランスさ。アルマニャックとブルゴーニュたらいう連中が上を下への大喧嘩、どこかにアタマでもぶつけたのか、変なもんでも拾い食いしたのか、なんと両方してハルに助っ人を頼んできたんだから笑えるだろ?フランスの領地を取り返そうと狙っているハルがこれを放っておくと思うか?ハルは俺が鍛えた一流の悪党だぜ。ハルは、アルマニャックの担ぐオツムのいかれたシャルル6世の末っ子キャサリンを奥方に貰ってやるから、その昔持っていたフランスの領地を返せって迫った。完全に相手の足元見て吹っかけたのさ。交渉は決裂、ハルは中断していた百年戦争を再開させた。ハルの軍隊は神懸り的な速度でフランスを踏み付けて回った。1420年、トロワの講和でフランスは国土の北半分をハルに差し出した。おまけにシャルル6世がくたばった暁にはハルがフランスの王冠を被るって条件も飲んじまった。

 ハルの頭上にイングランドとフランス、二つの王冠が載る日は近かった。そんなハルは1422年、赤痢に罹ってあっという間に死んじまった・・・、35歳だった。そして、シャルル6世が死ぬ5週間前のことだった。

 俺?俺はすっかり落ちぶれて死んじまったさ。相棒だったハルは王冠を被った途端に俺を忘れちまった。ハルの戴冠式の日、俺も沿道からお祝いを言ったさ、『いよう、ハル陛下、万歳』ってね。新国王ハルは俺の方に目もくれずこう答えた、『おまえなど知らぬ。お祈りに日々をすごされるがいい、ご老人』。
 俺はそれを恨んじゃいないさ。そりゃ寂しかったし、ハルが王になった暁の捕らぬタヌキの何とやらも全部おじゃんになった。でも恨みはしない。俺が生きるためにあれこれやったように、ハルだって生きるためにあれこれやらにゃならんだろ?
 俺は、『堂々とした恰幅のいい男だ、顔立ちは明るく、目もとはやさしく、物腰は優雅で、年のころは、そう、五十あまり、いや六十に近いものと思われる』男だが、いつかハルはこう言った、『あの気まぐれのかたまり、淫乱多情の詰めあわせ、水ぶくれの包み、酒ぶくれの革袋、臓物でいっぱいの衣装カバン、腹に腸詰めをつめたマニントリー名物の牛の丸焼き、古い芝居の老いぼれ道化、白髪の悪役、やくざの老親分、もうろくした見え坊じじい』だと。これも間違っちゃいないさ。ハルだって、『薄ばかの青二才ってとこさ。まあコック見習いぐらいにはなれるだろうがな、パンの耳を切り落とすことならなんとかできそうだから』ってな若者でもあった。人ってのはあっちから見てこっちから見て、それが全然違っていたって何だっていうんだ?

 で、かく言う俺さ、すっかりと老いぼれて落ちぶれて場末でくたばった俺だけど、我らが良き女王、エリザベス一世はシェイクスピアの旦那にこう仰った、「今度は恋に落ちた老騎士が見たい」、で、死んでいた俺は生き返ったってわけさ。ウインザーのご婦人方の心の隙間をこの丸々とした腹でお慰めして、お返しに俺の痩せ細った財布を太らせて頂くために。

 シェイクスピアの「ヘンリー4世」に登場したフォールスタッフのモデルは、サー・ジョン・オールドカスルなる実在の人物です。ゴバムの女相続人と結婚してコバム卿となり、皇太子時代のハルの下で活躍した優れた武人でした。王位についたヘンリー5世、彼の最初の試練はジョン・ウィクリフの教義を信仰しローマ教会に反抗するロラードと呼ばれる異端者たちの蜂起でした。新国王の無二の親友であるコバム卿ジョン・オールドカスルはロラードである!告発を受けカンタベリー教会の審問会に召還されたオールドカスル、ヘンリーは必死になって改宗を求めました。親友ハルの熱意にほだされて一度は改宗に応じたオールドカスルですが、審問会が新国王ヘンリー5世のロラード弾圧のためのデモンストレーションであると知り、最後に改宗告白を撤回、これは即ち火刑を意味します。悪がきハルは親友を火炙りにするに忍びなく、国王ヘンリー5世は彼を殉教者にすることを良しとしませんでした。そしてオールドスカルはロンドン塔から脱走、反ヘンリー陣営に走ります。ヘンリーにもはや躊躇いはありませんでした。政府軍は速やかにロラードの暴動を鎮圧、1417年12月14日、オールドカスルは火刑に処されます。ヘンリーは王としての最初の試練を乗り越えました。

 そんなオールドスカルが、『知恵が働くのは小才だけ、小才がきくのは悪事だけ、悪いことならなんでもござれ、いいことならなんでもごめん』となって登場したのですから、七代目コバム卿は猛烈に抗議、シェイクスピアはその名をフォールスタッフと変更せざるを得ませんでした。

 ファルスタッフは15世紀初頭の騎士という設定ですが、紛れもなくシェイクスピアと同時代のルネサンスの人として描かれています。どこまでいっても矛盾ばかり、それが人間であるならばそれを嘆くよりも楽しめばいい、この世は長いかも知れないが人生は短い、その束の間の出番、望んだわけでもないのに泣きながらこの世に送り出されたものなら、楽しめるだけ楽しんで笑って退場しようではないか、絶望しても虚無に落ちない、不遇にあって神に頼まず、頂点にあって悪魔を退けない、そもそもルネサンス精神とは矛盾そのものです。

 歴史の波に翻弄される英雄や美女、命懸けの悲恋、最後の血の一滴まで求める復讐、そんな作品を世に贈り続けたイタリアオペラの巨人が自らの白鳥の歌に選んだテーマ、それが「『負』の記号をすべて背負った上で、『真と偽』、『美徳と悪徳』といった二項対立など知らぬげに生を謳歌する逆説の塊」(高橋康也「翻案 フォールスタフ変容」)、ファルスタッフ。

『 』の引用部分は全てシェイクスピア「ヘンリー4世」(小田島雄志 訳)によります。


第一幕 名誉じゃ腹は膨れない

 時は15世紀を迎えたばかりの頃、所は当時イングランド王室が鎮座ましましておられたウインザー、場末の路地裏、ガーター亭の一室。テーブルの上は食べ残しの料理と酒壜、インク壷に蝋燭、壁には箒、そしてテーブルの前には巨大な胴回りをやっとこさ椅子に収めて手紙に封蝋を押している騎士ジョン・ファルスタッフ。

 ファルスタッフ!おお、これは医者のカイウス先生、何ごとでしょう?私の召使を殴って、私の馬を乗り潰して、私の家をメチャクチャにしたね!その通り、やったよ、やりたいからやった。訴えてやる!やれば。まだあるぞ、バルドルフォ!・・・俺?夕べ私を酔い潰したな!先生もそうですか?俺もひどい二日酔いでさぁ、死刑だ!お前とあそこに座っているヤツがグルになって私のポケットから金を抜いた!俺じゃない、騎士殿の従者は全面否定。じゃ、お前だ、私のポケットには大金があったのに、ポケットをひっくり返すカイウス。旦那、こいつを箒でボコってもいいっすか?とピストラ。無法者!アホ!貧乏人!人でなし!どちらもボキャブラリーが豊富なので延々と続きそうな悪口の応酬をファルスタッフが止めます。真実はかくの如し、先生、お引取りを。退場するカイウスの背中にバルドルフォとピストラがアーメン。

 まったく、お前らときたら、かっぱらいってのはもっと優雅にやるもんだ、って、これ、請求書か?えー、雛鳥6羽で6シリング、シェルー酒が30本、七面鳥が3羽、バルドルフォ、財布にいくらある?えっと、1マルクと1マルクと1ペニー。全部で?全部で。お前らのせいだ!毎晩俺の脛を齧っては飲んで喰って、お陰で俺は痩せちまいそうだ、痩せたら女にもてん。太鼓腹を撫でつつ、さて、この腹を養うには何をすべきか?お前ら、フォードって男知っているか?へい、金持ちで良い家柄で女房が別嬪、財布の紐も女房が握ってる。それだ!その美女の名はアリーチェ、俺のこの見事な腹にぞっこん参っているらしい、もう「私はジョン・ファルスタッフ様のもの」ってな。もう一人、マルゲリータ、あぁ、ページの女房のメグね。これも俺に夢中、で、やっぱり金持ちと来た。こっちの手紙はバルドルフォ、お前がメグに、こっちの手紙はピストラ、お前がアリーチェに。

 旦那、これでも俺ら「もののふ」ってヤツで、恋文の配達はごめんだ、そーだそーだ、名誉に関わる。ひょっこりドアから顔を出した小姓、おい、ロビン、お前、この2通の手紙を届けろ、すぐに、走れ!急げ!で、お前ら、名誉だと?盗人のくせして、不名誉のドブのくせして、名誉だと?名誉で腹が膨れるか?名誉で怪我が治るか?名誉はただの言葉だ、ただの言葉に何の価値がある?役立たずども!出て行け、失せろ!とっとと失せろ!箒を振り回すファルスタッフ、バルドルフォとピストラ退散。

 フォード邸の前庭、メグ、アリーチェ、クイックリー夫人、そしてアリーチェの娘ナンネッタ。あら、奥様に笑って頂こうと思って、あら、私もよ。どうぞ、いえ、貴女から、誰にも内緒よ、勿論。つまりね、私、騎士の奥方になるかも・・・、あの、私もよ、まさか!手紙・・・、が届いたのよね?お互いの手紙を交換して読むメグとアリーチェ。「光り輝くアリーチェ、我が愛を君に」、こっちはメグ、そっちはアリーチェ、「お返事を」「愛しております」、何これ?同じ文章、同じインク、同じ筆跡、同じ封印、「そなたは楽しき友」、ナンネッタが首を捻ります、あの男とおばさまとお母様とで三人一組ってわけ?「見目麗しきご婦人と」「立派な男が」「お慕いする者、騎士ジョン・ファルスタッフ」、ひどいわ!思い知らせてやるわ、晒し者よ!あの酒樽、何を色男ぶっているの?捕まえたら糸車よりも速くきりきり舞いさせてやるわ、とアリーチェ。貴女のウインクであの男はフニャフニャよ、とメグ。ねぇ、お母様、私も仲間に入れて、罠の餌は何がいいかしら?とナンネッタ。あの鯨、もう太ることはないわ、だって女三人で引き裂いてしまうんですもの、とクイックリー夫人。

 女たちと入れ替わりに、フォード、カイウス、フェントン、そしてリストラされたばかりのバルドルフォとピストラ登場。あいつはイカサマ師で盗人で私の家をむちゃくちゃにした、ぜーったいに訴えてやる!とカイウス。そりゃもうフォードの旦那、あいつは不埒なことを企んでおりますぜ、とバルドルフォ。そーそー、フォードさん、大ピンチですよ、ご用心、とピストラ。で、理屈でねじ伏せるの?それともボコるの?あの腹はボコり甲斐あるなー、とフェントン。あああ、もうアタマん中真っ白、何の話だっけ?とフォード。だから、旦那、あの大デブが旦那の奥方を寝取って金庫をこじ開けちまうんですよ。何たる災難!あの大デブは女と見れば見境なし、旦那が寝取られ男になっちまう。よーし、女房と金庫を見張ろう。

 あっ、ナンネッタだ!あら、フェントンじゃない!えっ、女房だ、イヤだ、亭主よ、こっち見てるの?フォードさんって焼き餅焼き?凄いの!じゃ、気をつけないと・・・。そろそろと距離をとる二派の間でフェントンとナンネッタ、こっちへおいでよ、何が欲しいの?キスを二つ、愛らしい唇、もぉ、いけない手ね、ナンエッタ、大好きさ!シーッ、人が来るわ!
 私たち、からかわれたのよ!報いは当然よ、手紙を書くのはどう?あいつをおびき出すの、デートを仕組むのよ。面白そう!それから・・・ひどい目に合わせてやるわ!遠慮は無用よ、川に放り込む?火炙りがいいわ!誰かそこにいるの?女たちと入れ替わりに再びフェントン、ねー、ナンエッタ、さっきの続きをやろうよ、やってご覧なさいな、それっ、うっふん、外れぇ、いちゃいちゃ、ねちゃねちゃ。また誰か来たわ、さよなら、フェントン、走り去るナンネッタ。

 そりゃもうタチの悪いほら吹きでして、その男はどこに?ガーター亭ですよ、私を紹介してくれないか?勿論フォードじゃなくて偽名で、絶対に秘密だぞ、やつに一泡吹かせてやる!つまり、俺らと旦那はチームってことで?用心に越したことはない、そこの二人はヤツの家来だったことをお忘れなく、とカイウス。ヤツは酒に意地汚いんで、まず一献、でも、旦那、ご用心を、名誉に関わることですぜ、とピストラ。必ずヤツを笑い者にしてやる、ヤツをとっちめて家庭を守るんだ!とフォード。旦那、ご夫婦の危機ですぜ、あの太鼓腹は罠にかかれば絶好の餌食、とバルドルフォ。こっちでは男たちが、あっちでは女たちが、もう、うるさいんだから、でも僕にはアリーチェがいるもん!とフェントン。

 いいこと、あの酒樽を捕まえて、糸車よりも速く、ウインクで骨抜きにして、平らに伸してしまうのよ!あぁ、意地悪を考えるくらい楽しいことってある?さぁ、作戦開始よ、では、明日、御機嫌よう。明日、あの太鼓腹が膨らんで破裂するのよ!

 序曲も前奏曲もなし、幕が開くといきなりファルスタッフの太鼓腹、躾の悪いチワワみたいにキャンキャンうるさいピストーラとバルドルフォ、そしてカイウスの血色の悪い顔、むさ苦しいことこの上なし。いきなりこれでも十分に楽しめるのは、陽気に上昇する長調の旋律が賑やかではあっても決して下品ではなく、一本筋が通っているからです。そう、ファルスタッフは歌います、「その通り、やったよ、やりたいからやった」、この男は決して自己弁護をしない、彼はそれなりに騎士なのです。「かっぱらいってのはもっと優雅にやるもんだ」、この男は決して偽善者ではない、彼は立派な悪党なのです。
 目の前に大盤振る舞いの挙げ句の請求書、財布は空となれば背に腹は代えられません。泥棒、詐欺、カツアゲ、何でもそれなりにこなすであろうファルスタッフが選んだのは「恋」、それも惚れたんじゃなくて、惚れられたらしいのです、彼的には・・・。
 「見ろ、俺だって捨てたもんじゃない」、締め括りは罪作りなイケメンの吐息にも似たピアニッシモの高音、つまり、騎士殿は恋をした結果として財布が膨らんじゃうのは仕方がないなぁと思っているのです。
 宛先だけ違うラブレターを届けよと言われて文句タラタラの従者共を怒鳴りつけるファルスタッフ、「名誉で腹が膨れるか?」、お前らを食わせるためにやってんだろーが!、つまり、この悪党は財布を膨らませるためには名誉なんざ邪魔なだけだと知っているのです。
 10分程の間にこれだけの矛盾・・・、縦横無尽の旋律が、これってあり?あり!と納得させてしまう、ボーイトの台本の切れの良さがよほどお気に召したのか、ヴェルディの筆は軽やかに、そして自由に疾走します。

 さて、差し込み印刷のコピペのラブレターを受け取ったアリーチェとメグ、同じ・・・よね?彼女たちが怒るのは、太鼓腹の貧乏老騎士が求愛したからではなく、それが同じ文面だったから。要するにまんざらでもなかったわけです。思われるのであれば誰に思われても心地良い、という女の身勝手さ、但し、それは思われるだけ、そこから一歩でも現実に踏み出したら容赦しない、という女の残酷さ、ファルスタッフの愛の言葉をいちいちあげつらっては笑う女たち、大仰な美文調のラブレターと転がり回る笑い声、しかし、その旋律がハッとするほど美しい。そう、ファルスタッフだって女房たちだって、まだまだお若いのです。
 その若さを強調するのが、同時進行するナンネッタとフェントンのアツアツ、イチャイチャぶり。それぞれ男性陣と女性陣、円陣に加わっている時はそれなりにチームワークもよろしいのですが、お互いの姿を見つけてしまうと、ナンちゃぁん、もう、フェンたんったらぁ、って感じ、隙あらばくっつこうとするその磁力が眩しい。そう、もうね、お財布とか地位とかどうでもよくて、くっついているだけで幸せって時期があるんですよ、人間には。

 女4人がそれぞれ、ぎゃふんと言わせてやるわ、私だってまだまだスカートの裾捌きで男くらい何とでも、取り敢えず面白そう、そうよ、女は陽気でなくっちゃ、と楽しげなのに対して、男5人はなぜか全員してフォード一人を焚きつけるのに一生懸命、そのフォードが全く空気読めてないわけでして。寝取られ男になってたまるか?だったら何をやるべきか、女房を見張る?あのね、それ、一番やっちゃいけないことなの、恋する女がつく嘘は神様だって騙せる、まして堅物のあんたに見抜けるとでも?フォードさん、あなたがやるべきことはただ一つ、家に帰って女房を可愛がって上げればいいんです。簡単でしょ?愛を失いたくなかったら愛さなくちゃ。

 男たちの五重唱に女たちの四重唱が重なり合う九重唱、旋律が違うのは当然として、リズムまで違うのです。そのリズムの違いがそのまま、恋の駆け引きを装って意地悪を楽しみたい女たちと、妙に分別臭いけど要するに小心者のくせして見栄っ張りな男たちの違いを引き立たせます。ヴェルディが楽しそうにオタマジャクシを五線譜に乗せていく様が目に見える、美味なるポリリズム。



第二幕 2時から3時の間

 再びガーター亭、ファルスタッフが一人シェリー酒を舐めています。あぁ、旦那、俺マジで反省してます、とバルドルフォ、だからもう一回雇って下さいよぉ、とピストラ。それにね、何か会いたいというご婦人が・・・。現れたのはクイックリー夫人。もう何て罪な色男さんでおられるのかしら!アリーチェはあなたに夢中、2時から3時の間に訪ねて来て欲しいと。おぉ、2時から3時、勿論伺いますとも。それからメグ、こちらもあなたに夢中、あなたときたら女という女を迷わせておしまいですわ。まー、何つーか、人徳の為せる技ですな。ところでお二人は・・・?とんでもない、お互いのことは何も知りませんわ。
 クイックリー夫人を見送ったファルスタッフ、アリーチェは俺のもんだ!今日まで丹精して育てたこの腹のお陰だな。旦那、今度はフォンターナって紳士がお見えですぜ。登場したのはこれ見よがしに膨らんだ財布を手にしたフォード。不躾ではありますが、私、この通りリッチでして、思い切って散財してみようかと。格言にもあります、金はあまたの扉を開き、魔よけになると。で、もしや騎士殿が私の願いを叶えて下さるかと。そりゃもう大いに喜んで、しかし、どうしてこの私に?実はフォードという男の妻アリーチェに私は恋しておりまして、これまでいくら注ぎ込んだか知れませんが、全く効果なし。まさに愛は休むことを知らないっつーことですか?その通り。で?あなたは男の中の男でおられる!で、私の全財産を使ってアリーチェをモノにして頂きたい。ずいぶん変わった提案ですな?もしあなたにあの貞淑な女性を落とせれば、私にもチャンスがあるということに、如何でしょう?えーと、まずその財布を頂戴してと、大丈夫、あなたはきっとフォードの女房をモノにされますぞ!ありがとうざいます!実はもう手筈が、アリーチェの亭主は2時から3時の間留守なんです。ヘレネをパリスに寝取られたメネラーオスのように、フォードの頭にも寝取られ男の印の角が生えるでしょう。おっと、支度しないと、ちょっと失礼。別室に入るファルスタッフ。
 夢か・・・?角?私よ、フォードよ、目を覚ませ!私の女房は名誉も家もベッドもメチャクチャにしてしまった!あぁ、世間は何ていうだろう、どれほど嘲笑うだろう。結婚なんて地獄だ!ドイツ人にはビールを、オランダ人には食い物を、トルコ人にはブランデーをくれてやる、だが女房は渡さないぞ!角だって?負けて堪るか!
 お待たせ、偉大なる腹回りに新しい胴着を纏い、帽子とステッキを手にファルスタッフ登場。さて、参りましょうか?さ、どーぞ、いえ、あなたからどーぞ、お先に、ご遠慮なく、んじゃ、ご一緒に!

 さて、フォード邸。アリーチェとメグが待つところにクイックリー夫人帰還。それで?ばっちり!あの汚い宿屋へ行って騎士様にオメモジ致しますとね、もう話す前から酔っ払っていたわ。そしてお美しい二人から慕われていると信じ込んでしまったわ。やって来ますわよ、2時から3時の間に。あらっ、もう2時よ!急いで!これ、洗濯籠を持って来て!楽しいことになりそう!・・・。ナンネッタ、なぜ泣いているの?お父様が・・・、私とカイウス先生を結婚させようとしているの!あの知ったか屋、あの馬鹿、あのマヌケ、あの老いぼれと?ダメよ!ぜーったいにダメ!お母様、私、結婚しないでいいのね?当然よ。あー、来たわ、いいこと、私が呼んだらその籠の中身を掘割に空けるのよ、ドボンと!椅子はここ、リュートを置いて、衝立を広げて、いいわ!始まるわよ、ウインザーの陽気な女房たち、大笑いの時間が!クイックリー夫人はアリーチェのシークレットサービス、ナンエッタはドアの歩哨、それぞれ持ち場についたところにファルスタッフ登場。アリーチェはリュートを爪弾きつつ歌います。

 遂に私はそなたを得たり!輝く花のそなたを得たり!あぁ、お優しいジョン様!愛しいアリーチェ、フォード氏にはつつがなき余生を、なぜなら貴女は騎士の妻、レディーになられるのですから。まぁ、うれしいこと!二人きりですな?罪を犯そうとなさるの?恋は罪ではありません。でも、あなたはさぞかしおもてになるでしょうから・・・。ノーフォーク侯爵の小姓をしていたころは指輪を通り抜けるほどスマートでした。でも、メグは?メグなんて、こうして貴女を抱くのを千年も待ったような気がする・・・。
 アリーチェ!クイックリー夫人出動。メグ奥様がなにやら取り乱してこちらに!ちぇっ、何てこった!大変、その衝立の後ろにお隠れになって!アリーチェ、大変よ、すぐ逃げて!メグ登場。ご主人が間男を捕まえるって喚き散らして。ちょっとメグ、もっと大きな声で、んじゃ、間男をぶっ殺すってぇ!どんなことをしても貴女の恋人を捕まえるってぇ!アリーチェ、ご主人が帰ってきたわ!喚いて、がなって、いきり立って!ちょっとクイックリー夫人、それってお芝居?それとも・・・?本当よ、ほら、すぐそこよ。
 ならず者めがぁ!一個連隊率いてフォード登場。ドアを閉めろ!階段を押えろ!廊下を探せ!カイウス、フェントン、バルドルフォ、ピストラがガサ入れ開始。おい、その洗濯籠には誰が入っているんだ?洗濯籠には洗濯物ですわ。私に恥をかかせおって!カイウス、金庫の鍵だ、金庫を探してくれ!悪魔め!籠から出てくるのは汚れ物の山、シャツ、ペティコート、シーツ、ナイトキャップ、ヤツはどこだ?ベッドの下、竈の中、風呂場、井戸、屋根裏、全部探せ!怒鳴り散らしつつフォードが部屋を出て行きます。
 あの男をここから出さないと。その洗濯籠は?入るもんですか。イヤ、入るかも、ファルスタッフが必死にその巨体を籠に押し込みます。早く!急いで!入った?入った!洗濯物を被せて!ナンネッタとフェントンはというと、ここはうるさすぎるわ、こっちにいらして、と衝立の奥に。誰も見てないよね?シーッ、祝福してくれるね?祝福してくれるわ!
 畜生、どこにいる!捜索隊一行が帰ってきます。いたか?どこにもいない!出て来い、女たらし!洋服ダンスをこじ開け、道具箱を開き、あれ?衝立の奥から、あれはキスか?ここか?ここだ!叩きのめしてやる!ざまーみろ!さっ、今のうちよ、男たちが衝立を包囲している間に女たちは洗濯籠を囲みます。あのー、息が詰まりそうで・・・、籠から頭を出すファルスタッフ、ダメよ!殺されちゃうわ、でも蒸されちまう、黙って!
 包囲しろ、逃がすなよ!愛しいナンネッタ!愛の妖精!あのー、籠の中、暑すぎて・・・、じっとしてるの!せめて鼻だけでも外に・・・、黙るの!衝立の向こうはさらにアツクなり、それを聞くフォードはもう怒りで破裂しそう。いくぞ、合図を、いちっ、にー、さーんっ!衝立が倒れると同時に辛抱堪らんファルスタッフが助けてくれぇーと喚き出します。あれっ、ナンネッタとフェントン?何という娘だ!こら、フェントン、とっとと出て行け!やつはどこだ?ほらっ、あそこ!階段の上!しょぼーんとしたフェントンの後を追って男たちが走り出します。
 今よ、ほら、籠の中身を掘割に捨てるのよ!うわっ、重たい、しっかり、頑張って!底が抜けそう、それっ!

 ばんざーい、はっはっ、あの音聞いた?あの音!ドッボーン!

 クイックリー夫人の大嘘が楽しい。もったいぶった台詞にもったいぶった旋律、魅力的な人妻が二人とも自分に夢中、あまりに途方もない話だと人はかえってコロッと騙されます。アリーチェは俺のものだ、行け、老練なるジョン、行け、汝の道を行け!そもそもの発端はファルスタッフがお金目当てでデッチ上げた大袈裟なコピペ恋文、女は自分の言葉に騙されると信じている彼が、クイックリー夫人の言葉に騙される、カモが詐欺師を気取って得意になっている、そのはしゃぎっぷりを煽り立てるクイックリー夫人の冷徹な詐欺師ぶりが光ります。
 続いて恋する男フォンターナとして登場した焼き餅亭主フォード。彼の財布の奏でるチャリーンという妙なる調べに有頂天のファルスタッフ、彼の眼中にはそもそもお金しかないことがはっきりとしているのですが、フォードは「欺かれ、裏切られた!」と既に寝取られ亭主決定と嘆きます。寝取られないために何をしよう、ではなくて、寝取られてしまうに決まっているのだからどうしてくれよう、という発想、オテロだって偽装されたものとは言え、ハンカチーフという証拠を目にするまでは半信半疑だったというのに、フォードは最初から嫉妬心の奴隷。なのに、全然暗くならない。それもそのはず、イアーゴがいない。というか、オテロがイアーゴを兼任している、フォードを追い詰めたのはフォンターナの妙ちきりんなオファーなのですから、これはもう「いっこく堂」状態というか「ノリツッコミ」というか、角が生えようが、運命が穢れていようが、決して悲劇にはなりません。

 ここの台本には小さな、しかし、とても興味深い細工が施されています。密会の時間が2時から3時なのです。原作の「ウインザーの陽気な女房たち」では10時から11時となっています。この時間なら普通は亭主は仕事に出掛けていますから、不在率が一番高い時間帯にちゃんと設定してあるのです。台本を手がけたボーイトはそれをわざわざ2時から3時に変更しているのです。そして、イタリアでは2時から3時は大抵の亭主は家に帰って昼食を取って、さて、食後のお昼寝、という時間帯。ここで不在のフォードは、イタリア人から見ればワーカホリック、銭の亡者に見えるわけで、フォードさんよ、昼飯はちゃんと家で女房と差し向かいで食べるもんだ、シエスタもとらないで金儲けしてるんじゃ女房の寝室に誰が入り込んでも文句言えないわな、って呟きをこっそりと仕込んでいるような。

 フォード邸でのドタバタ。リュートを爪弾くアリーチェ、その調べに乗って彼女を口説くファルスタッフ、「その昔、ノーフォーク卿の小姓だった頃、私は美しくて、軽くて、優しい蜃気楼のようだった」・・・、「手塩にかけたこの腹」のお陰でモテモテと歌っていた彼なのですが、いざアリーチェを前にすると過去の栄光を持ち出す辺り、ホントのところ、俺がモテるわけないとどこかで冷めている無意識をお財布の事情が封じ込めている、老いた騎士殿の哀しさがちらりと垣間見えます。
 しかし、フォードが軍団引き連れて登場してからは、物語はタガが外れて転がり出します。籠から出すんじゃないわよ!どこかに隠れてやがる!ここめちゃ暑いんですけどー、引っ込んでなさい!フェントン、だぁい好き!ナンネッタ、だぁい好き!皆して好き勝手なことを喚き、舞台の上はフライパンの中の野菜炒め状態、急降下する音階は召使の抱えた籠の重さ、ドッボーン!当時のウインザーには下水設備などありません。テムズ河がどんなさまなのか想像すれば・・・。

 さて、お話はここで終わって良いのです。飲んだくれのビヤ樽をペテンの糸に引っ掛けてクルクル回し、水の中に放り込んでやりましょう!はい、目的は全て達成されております。しかし、女たちの作戦は何の躊躇もなく続行されてしまうのです。ここから先、濡れ鼠の騎士殿は女たちの作戦進行のための口実に過ぎません。真の敵はフォードとカイウス、奪還すべきはナンネッタとフェントン、愛は金貨と同じ、鍵をかけて家に閉じ込めておけばよい、という男たちの手から、お互いに見詰め合って触れ合って、愛は育むことにこそ意味がある、という若い二人を救わなければなりません。

 というか、まぁ、ホントのところは女房殿たち、「戦闘」が楽しいので止められないってとこでしょうね。女というのは、理由があるから怒るんじゃなくて怒りたいから怒るんです。だから怒っている間はそれはそれで楽しいので、不用意に謝ったりする男は、その楽しみを奪うことになってしまう。経験あるでしょう?「あなたはいつも口先ばっかり」「悪かったって、何が悪かったって思ってるわけ?」「謝れば済むと思ってるでしょ」、女たちには最後まで怒らせて上げないと、そのツケは高いものにつくのです。
 8歳年上の姉さん女房アンに遺言で残したものは「二番目に良いベッド」だったというシェイクスピア(一番良いのは上げたくなかったらしい)、その辺の事情はよくご存知だったようです。


第三幕 深夜零時、そしてフーガへ

 日没、再びガーター亭、屋号の下に掲げられた看板には「人は全て、悩み、考える」、その下のベンチにはずぶ濡れの騎士殿。

 おやじ!熱いやつ一杯くれ!・・・これで真っ当な騎士だったものを洗濯籠に押し込まれて汚れ物と一緒に掘割に放り出された、この見事な腹がなかったら今頃はドザエモンだ。ひどい世の中じゃないか、何もかも地に堕ちた。行け、老いたるジョン、お前の道を行け!神よ、助けたまえ・・・、おっと、熱いのが来た、ふー、うまい!良い酒は臆病風を吹き飛ばし、口から頭へ、心が熱に浮かされて、陽気な気分が飛び跳ねて、つまるところ世界を狂わせるってか?

 御機嫌よう、クイックリー夫人登場。あの、美しいアリーチェが・・・、アリーチェもあんたも地獄へ行け!まだあの焼き餅男の吹く角笛が聞こえる、洗濯籠の中で固まっちまって、骨は痛むし、息は苦しいし、臭いし、暑いし、挙句にドボン、悪党め!アリーチェ、メグ、ナンネッタ、フォード、カイウス、フェントン、一人ずつ登場してそっと覗いています。
 アリーチェのせいではありませんわ、とクイックリー夫人。悪いのはあの下男たちです、アリーチェは泣いています、祈っています、貴方をお慕いしています、どうぞこの手紙を。
 読んでるわ、読んでる、また引っかかるわよ、相変わらずね、読み返してる?喰いついた!ギャラリーの期待を一身に集めるファルスタッフ、「真夜中に王立公園でお待ちしております、黒い狩装束でハーンの樫の木の下においで下さい」、伝説はご存知でしょう?ハーンの樫の下は妖精の集う場所、以前あの木で首をつった黒い狩人が現れたとか。真夜中の鐘が鳴ると妖精たちが集まって、黒の狩人がゆっくり歩き回って・・・、連れ立って店に入るファルスタッフとクイックリー夫人。

 怖い話ね、身の毛もよだつわ、あれは子供を寝かしつけるためのお伽話よ、黒の狩人が樫のところへ来ると邪悪な心は消えて妖精が現れるの、そして狩人の頭に二本の長い角を載せるのよ。角ってのはいいな、フォードが言えば、あなただって角が生えましてよ、アリーチェが言い返します。さて、役割を決めないと、ナンネッタ、あなたは白いドレスとヴェールで妖精の女王よ、メグは緑の妖精、クイックリー夫人は魔女ね、それから子供たちを妖精や小悪魔、小鬼に仕立てて。あの男をキリキリ舞いさせてやるわ、いいわね、真夜中にハーンの樫の木の下よ。
 酒場から出てきたクイックリー夫人が聞いているのを知らないフォードとカイウス、娘は白いドレスとヴェール、騒ぎが終わったら修道僧のマントの君と娘はそのまま結婚式を挙げれば?それはいい!ふん、そうは行くもんですか!

 さて、夜も更けて、舞台は王立公園。鬱蒼と茂る木々の間から青い月の光が差し込む中、それぞれのコスプレで仕掛け人一同が登場します。喜びの歌は愛しい人の唇から夜のしじまを縫って、はるか彼方に、そしてもう一人の唇を見つける、フェントンが歌う愛の歌。ちょっと、あなたこれを着てちょうだい、とアリーチェ。僕がこれを?いいから着て、仮面を被って、さぁ出来たわ。フェントンたら修道院から抜け出したみたい、とナンネッタ。さて、花嫁はどうしようかしら?あの悪党はいかが?カイウス先生が毛嫌いしているやつ、クイックリー夫人の入れ知恵。さぁ、みんな配置についた?おデブさんのお出ましよ!

 黒いマントに巨体を包み、頭の上に角を2本載せてファルスタッフ登場。一つ、二つ、三つ・・・十二、真夜中だ。これが例の樫の木か?神様、どうかお助けを、優しい足音が?アリーチェ、愛がそなたを呼んでおりますぞ!愛しのジョンさまぁ、私の貴婦人!さぁ、おいで、その腕からさらりと身をかわすアリーチェ。私はそなたの言うなり、さぁ、愛を溢れさせようぞ。いけませんわ、向こうに茂みでメグが見ています。何と、あっちの女も来たと?ついにキューピットが俺を思い出したってわけか?
 向こうの茂みからメグの叫び声、悪魔よ、悪魔が出たわ!何てこと、神よ、お許しを!走り去るアリーチェ。悪魔ってまさか・・・、樫の根元に身を隠す騎士殿。森の奥から一斉に聞こえてくる声、森の精、空気の精、木の精、それから水の精、出ておいで!出ておいでって、妖精か?アレを見た人間は死んじまうんだぞ!
 妖精の女王ナンネッタが歌います。月明かりが眩い夜、踊りなさい、魔法が歌と踊りを一つにしてくれる・・・、花から花へ彷徨って内緒の名前を書きましょう、金や銀に輝く言葉は不思議な力を持っている、さぁ、一歩ずつ、あの黒い狩人の樫の木へ・・・。その歌に誘われるように、仮面を着けたアリーチェとメグ、魔女のクイックリー夫人、赤いマントのバルドルフォ、半人半獣に扮したピストラ、灰色のマントのカイウス、黒いマントのフェントン、そしてコスプレなしのフォード、そして妖精に扮した子供たち、みんなしてぞろぞろ登場。
 ちょっと待った!誰かいるぞ、わざとらしくファルスタッフにぶつかるバルドルフォ、お助けを!平伏しているファルスタッフを囲んで、男よ!男?牛みたいに角があって、林檎みたいに丸くて、船みたいに大きい、おい、起きろ!起きらんねぇ!重すぎる、腐ってる?魔法をかけてしまおうか?しーっ、ナンネッタ、隠れなさい、カイウス先生が探しているわ!
 小鬼たち、あの男をつねってやれ!バルドルフォの号令で子供たちが一斉にファルスタッフの巨体の上で飛び跳ねます。転がせ!刺しちゃえ!突っつけ!噛み付いちゃえ!痛い!止めろって!打ち鳴らそう、カスタネット、老いぼれの酒樽をこね回そう、大きな腹の上で踊り明かそう!痛いってば!絞め殺す?押し潰す?邪な心が消えるまで!
 ならず者!食いしん坊!太っちょ!飲んだくれ!女たらし!椅子泣かせ!だんだん悪口が現実的になっていき、とうとうファルスタッフは半泣き、後悔してます!行いを改めるか?何か妙に酒臭いんだけど、コイツ、痛っ!もう沢山だ、この通り、後悔してるだろうが!って、お前、バルドルフォ!赤い鼻しやがって、この盗人め!・・・ダメだ、疲れた、一息入れさせてくれ。

 ところで、ジョンさん、あなたのオツムの上の角は誰のアイデアで?あ、あんたフォンターナさんじゃ?いいえ、私の夫、フォードですわ、とアリーチェ。騎士様、貴方、お信じになりましたの?アリーチェとメグが貴方に身も心も捧げると?騎士殿を除いて全員大笑い。

 どうやら、俺は笑い者にされているらしい、いいえ、鹿、それとも牛にされているんですわ、俺を笑い者にする奴らのうち誰一人だって俺ほどの機知も持ち合わせちゃいない、そうだろ?あのな、本来なら笑い事じゃないんだぞ、空気の読めないフォードがもっともらしく語ります。で、皆さん、この仮面劇を妖精の女王の結婚式で締め括りたいと思います。新郎新婦に拍手!白いドレスを纏って白いヴェールで顔を隠したバルドルフォとカイウス先生が進み出ます。さぁ、花嫁に祝福を!
 もう一組、結婚を願っているカップルがおります、アリーチェに率いられて青いヴェールで顔を隠したナンネッタと仮面を着けたフェントンが登場。そりゃ素晴らしい、喜びも倍になる、さぁ明かりを、両方とも顔を見せなさい。

 はっ、はっ、はっ!なっ、何だ、これ?花嫁バルドルフォに唖然とするカイウス、フェントンが私の娘と・・・?茫然自失のフォード、うまく行ったわ、人間、自分の罠にはまることもありますのね、ねぇ、あなた?とアリーチェ。さてさて、今度はどなたの番ですかな?とファルスタッフ。彼さ、あなたでしょ?違う!あなた方?彼らでしょ?てんでんばらばらに自分以外を指差す男たち。ファルスタッフ、フォード、カイウスを前にして、いいえ、あなた方三人ですわ、ご覧なさいな、あの幸せそうな二人を・・・とアリーチェ。お父様、ごめんなさいね、・・・いいさ、多少ごたごたはあったが新しい家族ができた。

 では、そろそろお開きに?では、最後にこの騎士ファルスタッフが一節、全てこの世は冗談、人は生まれついての道化師、いつだって頭の中は理屈でいっぱい、でも誰もが道化さ!最後に笑う者こそが本当に笑っているのさ!

 ガーター亭のベンチにへたり込んでトンだ災難を嘆くファルスタッフ。盗賊の世の中、騙しあいの世の中、罪悪の世の中・・・、お前が言うな!の場面ですが、なぜか微笑ましい。長いモノローグ、汚れた洗濯物の中に押し込まれて、この立派な腹が浮いてくれたから良かったものの、もうちっとでドザエモン、この上水脹れじゃ見られたもんじゃない、ファルスタッフの言葉は恨み言一色なのですが、テムズの底に沈んでいくかのような下降音と寝取られ亭主の奇襲のテーマ、散々な目に会ったのも自業自得と旋律が言い返す、オケのトリルは冷え切った五臓六腑に染み渡る熱いワインの酔い心地、絶妙のバランス。

 熱燗でオツムが緩んでしまったか、ファルスタッフは、またもやクイックリー夫人の言葉に騙されます。夫人が語りアリーチェが引き継ぐ「黒の狩人」の伝説、魔物たちが集う首くくりの木、失った命を探し求めて彷徨う狩人、ぐずる子供たちをさっさとベッドに潜り込ませるためのお伽話が、欲の皮の突っ張った騎士殿をベッドから引っ張り出す道具に使われます。そんな怖い場所ならば、あの角を生やした寝取られ亭主だってやってこない、往々にして欲に駆られている時、人はリスクを過小評価し、成果を過大評価してしまうもの、ちょこっと立ち止まって深呼吸でもすればいいわけですが、そこは天才詐欺師のクイックリー夫人、相手に冷静になる間を与えません。このテクニックはオレオレ詐欺の連中も使っている、いわば詐欺のビジネスモデルですね。何しろ、女性たちはファルスタッフを騙すという行為を餌にしてフォードとカイウスを騙そうという、ハイレベルな二重詐欺を目論んでいるわけで、もうこの手馴れた様子からして、到底初心者とも思えず、自分の結婚がかかっているというのに、それはそれ、これはこれ、嬉々として作戦に参加するナンネッタから推察するに、このビジネスモデルは代々女房殿たちによって引き継がれているようです。

 真夜中の森、今の0時を念頭に置いてはいけません。街灯も、車のヘッドライトも、コンビニの灯りもなく、当時の0時は本当に混じりっけなしの漆黒の闇、おっかなびっくりの弦と共にファルスタッフ登場。鐘の音を大仰に12まで数えたところで、アリーチェ登場。メグというもう一方のご馳走をひけらかしつつ、ドタバタ劇のキューを出します。
 妖精たちを見た者は死んでしまう!ここでのファルスタッフは、女子供も怖がっていない妖精を大きな図体で一人で怖がっています。ジュピター、エウロパ、異教の神の名を唱え、妖精を恐れる騎士、ファルスタッフに込められたアンチ・キリストの一面が窺えます。

 顔を伏せたまま逃げ惑うファルスタッフ、そんなことをすれば当然ですが、あちこちでいろんなものにぶつかって、勝手にダウン。寄ってたかって小突き回す妖精たち、声が声を呼び、声が声に応え、ミステリーサークルよろしく闇を踏みつけ、その真ん中の騎士殿は半べそで「この腹だけはお救い下さい!」、丹精込めた自慢の腹、しかし何かと物入りの腹、その腹を満足させるべく、その腹でもってナンパ、その腹のせいで女たちに笑われ、しかし、その腹が浮かんでくれたのでドザエモンにならずに済んだ、これまでのファルスタッフの人生の良いコトと悪いコトが全部詰まった腹・・・。ヴェルディはまるでそれを慈しむことで自分の作曲家人生を慈しむかのように、肩の力を抜いた自然体で、飾らない彼の「地声」で、旋律の糸を紡ぎ出しフーガを織っていきます。
 フーガ、それは遡ることバロックの頃から使われてきたロザリオの連祷を思わせる音の折り重なり、そのフーガに乗せて全員が歌い上げるのは、実はシェイクスピアは書いていない台詞です。

 「誰もが道化さ!お互いに相手を笑い者にしてさ、でも、最後に笑う者こそが本当に笑っているのさ!」


愉快な、そして永遠に本物のならず者よ、行け、進むのだ

 「(エリザベス)女王は『ヘンリー4世』二部作の中の、フォールスタッフという素晴らしい人物を非常に喜ばれて、同じ人物をもう一つ別の芝居にも出すように、その男が恋をしているところを見せるように、と命じられた。これが『ウインザーの陽気な女房たち』の執筆のきっかけだったと言われている」(1709年 ニコラス・ロウ)。
 シェイクスピアはエリザベス1世のために、この作品を2週間で書き上げたと言われています。そのためか、この作品、散文率約90%とシェイクスピア作品中最高スコア、時代設定も15世紀初頭のはずなのですが、「われらの女王はなによりもだらしないのがお嫌いだ」(5幕5場、オペラではファルスタッフが妖精たちにボコられる場面)というおべっかが登場し、さしものシェイクスピアも僅か2週間では、韻を踏むことも辻褄を合わせることもできなかったと思われます。
 シェイクスピア劇では唯一の「現代劇」、飾り立てた言葉は既に贅沢品、しっかり稼いでしっかり遣う連中には、手も拭けないようなレースのハンカチは不要、木綿の大判の方が便利ってもんです。これから先の大英帝国の屋台骨を支える中産階級ならではの生活感溢れる作品に仕上がっています。

 さて、「恋するフォールスタッフが見たい」と仰った女王陛下ですが、この通り、我らがビア樽の騎士殿、全然恋しておりません。これでよろしかったのでしょうか?と少々心配になるわけですが、エリザベス1世は「その上演を大変喜ばれたという」(1702年 ジョン・デニス)、ということで一安心。
 早書きの「トレンディ・ドラマ」、賢く現実的な女性たちが見栄っ張りで小心者の男たちをやり込める、実際、当時としてはタイトルに「女房」なんて単語が入っている作品は画期的なものでした。
 エリザベス1世は「男の心を持った女」、輝かしい女王様自身が、ルネサンス的矛盾そのものでした。ハチドリよろしく囀る女たちの知恵が力み返った男たちの腕力を軽々と組み敷く、由緒正しいんだけど、悲しいかな、由緒しかない騎士が市民の財布を狙う、狙われた市民の方も、邪険にされた従者たちも、既に騎士の身分に恐れ入ったりひるんだりはしない、そして、結婚は両性の愛情が家柄や資産に優先するという近代の結婚観が垣間見える。ともかく、とっちめられるファルスタッフよりも、その下地を織りなす伏線の方が生き生きとしている、早書きならではのジャーナリスティックな視線がこの作品の魅力です。

 74歳で「オテロ」を発表してから、この「ファルスタッフ」を書き上げる80歳までの間、ヴェルディは百姓に専念しておりました。灌漑設備を整え、馬を育て、広大な所有地を端から端まで自分で歩き、小作人たちと作柄についてあれこれ語り合い、彼なりの理想的な農園を経営する傍ら、故郷にはマラリアのための病院を、ミラノには引退した音楽家たちの終の棲家である「音楽家の憩いの家」を建設しつつありました。
 作曲家人生の第一作は喜劇「一日だけの王様」、もう考え得る限りで最低の大コケ、失意のどん底、食事にも事欠く貧困の中で妻と二人の子供を失った作曲家は、今や、優しい二度目の妻、経済的成功、社会的地位、そして名誉、およそ人が欲しがるもの全て、長く厳しい労働の果ての甘い果実を手にして満ち足りた晩年を楽しんでいます。

 そこへボーイトが持ち込んだ「ファルスタッフ」、まず、この台本、非常に出来がよろしいです。誤解を恐れず、天を恐れず申せば、原作より出来が良い、シェイクスピアがこれを読んだなら歯がみをして悔しがったと思います。キャラクターの性格描写は「ヘンリー4世」からそのまま拝借し、ラストのエンディングをただのイジメで終わらせないためにどうしても必要な恋の成就と打算の失敗、それに関係ないドタバタ場面は全てカット、英語の語呂合わせもイタリア語にしたところで大して受けそうもないんでカット。またシェイクスピアではカイウス先生のところの召使いだったクイックリー夫人を、他の女性たちと同じく中産階級の奥方に設定したおかげで、女性陣のチームワークは一糸乱れず。しかし、原題を使わず「ファルスタッフ」としたことから明らかな通り、物語の軸はあくまでもなぶり者にされる騎士殿に合わせることで、手ぶれを押さえ、実に小気味よい仕上がりです。

 そして・・・、老年になってもすらりとした体型を維持していたヴェルディは、この太っちょのビア樽騎士殿に己を見たのでしょう。悲劇に灼かれ、運命に弄ばれ、しかし、その都度這い上がってきたこの「漢」が人生の最後に見た自画像、それは剣を振り上げるヒーローでもなく、薔薇を捧げ持つ色男でもなく、やりくりに苦労した挙げ句に、インチキ恋文で一攫千金を狙う怠惰な男、しかし、その手段において決して己を偽らない、誰でも騙すが己だけは騙さない誇り高き男、そして、ヴェルディはそんな自画像を楽しんだのでしょう。
 額の皺は沢山考えたから、目尻の皺は沢山笑ったから、口元の皺は沢山泣いたから、そして、この皺だらけの手の甲は沢山の楽譜の上を旅してきたから・・・。長い道程を高台から振り返れば、あの峠もあの谷も、今となっては懐かしい、おっと、もう一度歩くのだけはごめんだけど。

 ただただ、ここまで歩いてきた自分へのご褒美として、誰に急かされることもなく、その出来の善し悪しを心配するでもなく、手に入れるであろう作曲料の多寡を心配するでもなく、楽しむために、ただ自分のために、音符の一つ一つを慈しむように五線譜の上に置いていくイタリア・オペラの巨匠、「愉快な、そして永遠に本物のならず者よ。行け、進むのだ」、譜面の空白にヴェルディが書き込んだメモが全てを物語っています。

 人が問われるのは何を手に入れたか、ではない、どう求めたかにある・・・、ヴェルディは、手に入れたものではなく、求めた己の手を慈しんでいます。シェイクスピアのフォールスタッフは、この後の「ヘンリー5世」では登場することはありません。病を得て死んでしまったことがピストーラやクイックリー夫人の口から伝えられるだけ。相棒ハルはその死を知ることさえありません。しかし、ヴェルディはエンディングにフーガを持ってきました。次から次へを重なり合う声、誰だってみんなファルスタッフ、ヴェルディはビア樽騎士に永遠の命を与えることで、彼の人生を祝福し、私たちの人生を祝福し、死んでいった人たち、生まれてくる人たちの人生を祝福し、「オペラ」の巨匠から一歩外へ踏み出したように思います。その一歩の先にあるものは・・・、人それぞれ、何が見えてもそれはそれで良いと思います。

 さて、録音です。非常に高度なアンサンブル・オペラ、キャスティングの質を揃えることがポイント、タイトルロールのくせして聴かせどころが少ない我らが騎士殿の柔軟性、そして、指揮者の統率力が問われます。
 例えば、ゴッビのような名歌手でさえ、1956年のカラヤン盤では重苦しくて笑えない、人を笑わせることは泣かせることよりずっとずっと難しいのです。
 1980年のカラヤン盤(ウィーン・フィル)、タデイのビヤ樽騎士殿が闊達にして暖かい、歌手と役との境界線が見えない程に役をこなしきっています。カバイヴァンスカ、アライサ、共演陣も強力。1992年のMET、レヴァイン盤、プリシュカのファルスタッフはどこか品が良くて男臭い、アリーチェを口説く場面は秀逸です。マリリン・ホーンの稀代の詐欺師、クイックリー夫人が楽しい!1993年のムーティ盤(スカラ座)、ポンスのタイトルロールは控えめなのですが、それが作品本来の魅力を引き立てます。ダニエラ・デッシーのアリーチェの艶やかさ、それにも負けないオケの艶やかさ、酔い心地の良い逸品です。
 で、ジュリーニの1982年の録音(ロサンゼルス・フィル)、ブルゾンのファルスタッフがもう一生懸命で、可愛くて、元祖にして決定版の「チョイ悪オヤジ」(つーか、「極悪オヤジ」?)、ヌッチのフォードが例によってじとーっと引きずっていてこれまた楽しい。じっとりねっとりで楽しい歌手って彼以外にいます?ジュリーニの優雅な棒は、ドタバタ喜劇を滑らかな音で構築すると、かくも美味であることをそっと耳元で囁くかの如く。
 この作品のツボ、それは言葉が、物語が、舞台がどうであろうが、ヴェルディの「白鳥の歌」であるということをアタマの片隅に置いておくこと。楽しく、大らかに、バタバタと、しかし、決して「落ちて」はならないのです。

 求められるは「永遠のならず者」を鏡に映った己の姿として受け入れ、祝福する心、そして、例えどんな人生であろうが、生まれてきたってだけで、今日まで生きてきたってだけで丸儲けという感謝(神様に?いえいえ、生きている自分に、です)の心、それさえ伝われば後はどーでもいい。お気に入りの酒を満たしたグラスを手に、どうぞ、ごゆっくり。




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