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ベートーヴェン 「フィデリオ」 (2003年4月10日〜2003年5月6日の日記より)
「男」の逃走、「女」の闘争
すべての生き物の中で衣装が必要なのは「裸の猿」である人間だけです。衣服とは身体を外的要素(暑さ、寒さ、雨、そして生傷)から守ってくれる、ただそれだけのもの。よって、この条件を満たしてくれれば何でも良いはずです。ところが、巷にはありとあらゆる形の衣装が溢れています。人間がその進化の過程で、ただの「身体袋」にありとあらゆる意味、性別、年齢、身分、職業、民族、信条等々を織り込んできたからです。
人は衣装によってその人間を判断します。ボロをまとった途端にみんなからいじめられる王子様、豪華なドレスをまとった途端に高貴な人から注目される貧しい女の子、この手のお話は「小公子」、「シンデレラ」などで皆さんお馴染みでしょう。じゃあ、ボロを着ていれば大財閥の御曹司に間違えてもらえるかと言えば、きちんと貧乏人に分類されてしまいます。小さい頃に童話で学習したはずなのですが、人間の衣装への思い込みは第二の本能の域に到達しているようです。
衣装は、どこかで秩序と結びついています。その場に相応しい服装、晴れの場の礼装や制服は、装う人間の秩序を守ろうとする意志の表明です。逆に、TPOを無視した場違いな服装、本来あってはならない服装は、秩序への挑戦の表明です。
金持ちが貧乏人の服を着るならただの酔狂で済みます、警官が極道の格好をするなら張り込み中で済みます、山の手育ちの坊ちゃんがラッパーの格好をするなら反抗期で済みます。ただで済まないのが性を取り替える変装です。
古代、男の女装・女の男装は、両性具有の聖なる存在への憧れでした。仏教の仏様にもキリスト教の天使にも性別はありません。北アメリカのネイティブ・アメリカンのいくつかの部族では、選ばれて一生を女装して過ごす男がシャーマンとして崇められてきました。「古事記」には天照大神(アマテラスオオミカミ)が男装して剣を振り上げ高天原(タカマガハラ)を守ろうと須佐之男(スサノオ)に立ち向かう場面が登場します。ジャンヌ・ダルクは、神の声を聞いた時、髪を切り甲冑を身にまとい、「聖女」にして「魔女」に変貌します。
性を取り替えた服装は、非日常への憧れ、神秘的な力への欲求の表れなのです。
歌舞伎の女形は本物の女よりも濃厚な女の香りを振りまきます。歩く姿の上半身と下半身の軸のぶれ、髪を梳かす場面での必ず反対の腕が前へ出る交差した所作(この所作は外国映画でもイヤリングを外す場面でお目にかかれます)、たとえ娘を演じていてもアンバランスな成熟した女の色気を感じさせるファルセットの発声、すべてにおいて本物の女よりもどぎつい。
「色男女一分」と言われるように、男装した女性は逆に隠れた女らしさが垣間見えるところに男の色気が醸し出されるようです。
この倒錯した服装に人間が惹きつけられるのは、窮屈なジェンダーからつかの間解放されたいという欲望のせいでしょう。古来、劇作家たちはこの欲望の劇的効果をよく承知しております。たとえばシェイクスピア、「お気に召すまま」のロザリンドは美少年に変装してオーランドーの愛を手に入れ、「十二夜」のヴァイオラはお小姓に扮して恋人同士(えー、ちゃんと男と女です)の両方の間を揺れ動きます。
オペラにもあります。「フィガロの結婚」のケルビーノはなぜか必要もなくなったのに女装して登場し、ただでさえややこしい話をいっそう混乱させます。
お話がただのおとぎ話であれば、妖艶なオカマも女一分の色男もなかなかエロティックで楽しいものです。この性的ドタバタにちらりと現実が絡んでしまうと、コトは違った側面を見せてくれます。
男が女装する状況に共通するのは「逃走」です。フランス革命の最中、1791年のヴァレンヌ逃亡事件では、皇太子が女装して馬車に乗り込みました。ロシア革命の最中、1917年の十月革命では、時の首相ケレンスキーがこれまた女装して冬宮から逃げ出しました。「平治物語」の「主上六波羅へ行幸の事」では、藤原信頼の反乱の際、二条天皇が十二単の女房姿で内裏を脱出しています。
女が男装する状況に共通するのは「闘争」です。息子であるトトメス三世を差し置いて付け髭をして絶対者として古代エジプトに君臨したハトシェプスト女王、木曽義仲とタッグを組んで戦った巴御前、戦火に覆われた中国大陸で暗躍した川島芳子、忘れちゃいけないのは「ベルサイユのばら」のオスカル様・・・。
女装の男の「逃走」は、女性が社会的に認知されていない時代に弱者、無能力者を装うことで責任を逃れようとするものであり、男装の女の「闘争」は、女だって男と同じように、それ以上に権力を操れるのだという決意表明です。
これがまたまた演劇の世界にも登場します。再びシェイクスピアの「ヴェニスの商人」、男装したポーシャがユダヤ人の金貸しシャイロックを「慈悲なき正義」で追い詰めます。我が身の肉1ポンドを借金のカタにしたという商売人の風上にも置けない出来損ないのアントニオを棚の上に上げておいて、キリスト教徒の多数意見によってユダヤ人の少数意見を圧殺する裁判官ポーシャ、シャイロックが強欲ならポーシャは独善、どっちもどっち、そこには「正義の戦い」と呼ばれるものがいかに胡散臭いものであるかが、男装の女の弁舌と機転と一緒にしっかりと描かれています。
さて、18世紀のスペインはセヴィリアの刑務所、ここに一人の男装した女が働いております。何で男装しているのか?従業員の募集広告が「求む、若くて健康な男子」だったから、なんでしょう、多分。しかし、彼女の目的はお給料を貰うことじゃなくて、刑務所の地下深くに監禁されている政治犯の夫を救うことです。この手の状況では、女の方が話が早いと思います。胸元チラチラ、おみ足チラチラの色仕掛けの方が、真面目に働いてチャンスを窺うよりもずっと簡単で有効です。じゃ、何でそうしないのか?それでは「闘争」ではなくて「逃走」になってしまうからです。彼女の「救済」、それは同時に彼女の「戦い」なのです。
参考文献:平凡社 「世界大百科事典」
第一幕 流れ者に惚れちゃあいけないよ
素晴らしい序曲で幕が上がります。苦悩の果てに歓喜が待っている、直接的で力強い旋律で描かれる困難に対峙する勇気、絶望に対峙する希望、そして、正義と愛情に対する目映いほど率直な信頼。
舞台はセヴィリア近郊の刑務所の中庭、看守のヤキーノは看守長ロッコの娘マルツェリーネに夢中。「さあ、愛しいお前」、二人っきりだね。私、忙しいのよ、ちょっとだけ話をしようよ、じゃ早いとこどうぞ。けっ、結婚しないか?ひっきりなしに扉を叩く差し入れの連中に邪魔されつつ、その間隙を縫って一生懸命口説くヤキーノですが、あぁ、いらつく男ね、あっちへ行って!マルツェリーネはつれない返事。可哀想なヤキーノ、でも、私、フィデリオに夢中なのよ。「あなたと一緒になれたら」、そう考えるだけで希望と喜びで胸が一杯よ。
看守長のロッコ、続いて食料品の袋を抱えてフィデリオが登場、あら、汗びっしょりよ、甲斐甲斐しくフィデリオの額を拭うマルツェリーネ。働き者のフィデリオはロッコのお気に入り、それが気が気でないヤキーノが加わって四重唱「不思議でならないわ」、彼は私が好きなのよ、幸せになれるわ・・・、うぅ、彼女、こっちを見ている、愛されてる・・・のよね、これって。娘とフィデリオはお似合いだ、素敵な若夫婦になるぞ!ってことは、僕はお呼びでないってわけ?
フィデリオ、お前、うちの婿にならないか?ホント?パパ!所長が町に出かけたら暇になる、式はその時がいいな。アタマを抱え込んでいるフィデリオそっちのけで「人間、金を持ってなけりゃ」幸せにはなれんぜ、世の中、万事金さ。空きっ腹で愛を囁いてどうする?娘夫婦には幸せになって貰いたいのさ。
親方、幸せ(って・・・それ以前の問題なんだけど)になるには大切なものが足りないんです。何だ、それは?信頼です!だって、親方、毎日地下牢まで息を切らせて往復しているってのに、私に手伝わせてくれないじゃないですか。地下には政治犯がいる、あそこには誰も入れない決まりなのさ。でも、それじゃ私が「親孝行」できないじゃないですか。うぅ、何て優しい婿殿だ、分かった、お前を地下へ連れて行こう。やった!これでチャンスが・・・。但し、一人だけ例外の囚人がいる、ここに来て2年になるがヤツとはしゃべっちゃダメだぞ、もっとも、それも長いことじゃない、ピツァロ所長の命令で少しずつ食事を減らしているから、ヤツの命もあと僅か・・・。パパ、そんな恐ろしいところに愛しいフィデリオをやらないで!そんな、私には勇気も力もあります!
「よろしい!可愛い息子よ」、勇気があれば何でもうまくいく。勇気ならありますとも、どんな苦しみにも耐えてみせる、だって、私は神と正義を信じているから!フィデリオって素敵・・・、私たち幸せになるわ。そう・・・私は幸せへの希望を捨てはしない・・・。パパ、フィデリオを信頼してあげて、そうだな、お前たち手を取り合って幸せにおなり、私、この親子に残酷な希望を与えてしまった・・・。
行進曲に乗ってピツァロ登場、異常ないか、ロッコ?異常なし!書類は?まったくいつもながら下らんもんばっかり・・・、おっとこれは?『貴下の監督下にて無法な暴力による犠牲者が出ていること、大臣閣下にはお聞き及び・・・』、俺がフロレスタンを監禁していると知れたら、やばいぞ、これは。となると、思い切って・・・、「今こそチャンスだ!」、ひと思いに片づけちまうとするか、俺の勝ちだ!ざまーみろ、フロレスタンめ!おい、塔から街道を見張れ!騎兵を従えた馬車が来たらすぐに知らせるんだぞ!
ところで、ロッコ、「じいさん、急な話だが」、金持ちになりたくないか?そりゃなりたいです、では人を一人殺してくれ、何と!あいつが生きていたんじゃまずいのさ、そんな・・・いくら命令でも人は殺せません。ちっ、役立たずね、じゃ俺がやる、お前は大急ぎで墓穴を掘れ。んで?一突きさ。・・・ずっと苦しんできたんだ、短剣で救われるのもありかも・・・。大ありさ、ヤツが死ねば俺は安全なんだ。
「悪党、どこへ急ぐ?」、物陰でピツァロを睨みつけ怒りに身体を震わせるフィデリオ。希望よ、どんなに遠くても私の行く手を照らしておくれ、愛はきっと届く!フロレスタン、やっとチャンスが!夫を救えなくて何が妻なもんですか!私は負けない!
未練タラタラのヤキーノ、君のために一生懸命だったのに、あのフィデリオが来てから・・・、だってフィデリオが好きなんですもん。あんな流れ者が良いのか?そう、その流れ者が好きなの!僕が黙って引き下がるとでも?もう、パパ、ヤキーノがしつこいの!何だって?大事に16歳まで育てた娘だ、ヤキーノ、お前にはやれないよ。そう、フィデリオ・・・、っと(ヤバいよ、これ)・・・、親方、今日は天気が良いし、受刑者たちを庭に出してやりましょう。フィデリオって優しいのね・・・。
空気、光・・・、生きている、自由よ、お前はまた戻ってくるのか?囚人たちの合唱、甘い大気を胸一杯に吸い込んで空を見上げる喜びが響き渡ります。
フィデリオ、所長はお前たちの結婚も地下への出入りもOKだってさ、ホントですか!ホントさ、あの男のところへ行くぞ。じゃ、彼は釈放?じゃない、ん?楽にしてやるのさ、そして俺たちが埋めてやる。まさか、死んだ?いや、まだだ。じゃ、親方が殺す?俺たちは埋めるだけさ。私は夫の墓穴を掘るの・・・?辛いならここに残れ、いえ、行きます!何があっても行きます!
ピツァロは囚人たちを庭に出したとカンカン、「勝手なことをする老いぼれめ」、いえ、その、春ですんで、それでもって、本日は王様の命名の祝日ですんで、その、お怒りは地下の例の男だけでご勘弁を。分かってんならさっさと墓穴を掘らんか!
さよなら、太陽、再び牢へ連れ戻される囚人たちの嘆き、そして、フィデリオ、いえ、フロレスタン夫人であるレオノーレの粗末な男物の服に隠されたその胸が不安と怒りに脈打っています。
圧倒的な序曲はすーっとアダージョから始まります。そしてアレグロ、ビオラとコントラバスの低音が刻むリズムにそっとヴァイオリンが寄り添います。ホルンが、フルートと弦が希望とおののきを歌い上げ、管が希望の実現を予言します。序曲以降は少々もたつき加減なのですが、ベートーヴェンは不器用ながらも情熱を込めて筆を進めます。四重唱「不思議でならないわ」のカノンの形式には、彼お得意の変奏曲の魅力が垣間見えます。また中庭で太陽に酔いしれる囚人たちの合唱には荘厳なオラトリオの響きがあります。
この幕の圧巻はレオノーレのアリア「悪党、どこへ急ぐ?」です。私は心の内なる力に従おう、私はひるみはしない!剥き出しの情熱、荒々しい怒り、このアリアには甘さも優美さもありません。夫が政敵によって捕らえられた時、レオノーレは泣いたでしょう、絶望にうちひしがれたでしょう。しかし、彼女はそこから立ち上がった。長い髪を切り、スッピンの顔を晒し、豊かな肉体を男物のゴワゴワの服に押し込めて、目に見える女らしさすべてを捨て去って、一人の仕事にあぶれた流れ者としてこの刑務所に現れました。女が愛する男のための闘争に立ち上がる、目に見える女らしさをすべて捨て去っても、その心の内の愛する女は消えはしない、いえ、燃え盛っています。愛する男のために女を捨てる、レオノーレの一途な想いは暗い地下牢を照らすことができるのか?
第二幕 えーい、この紋所が目に入らぬかぁ!
悲劇も悲劇、大悲劇をぎゅっと凝縮したかのような重々しいオーケストラで幕が上がります。舞台の方もそれに合わせて目一杯暗いです。
地下の独房、鎖につながれたフロレスタンのアリア「神よ、ここは何という暗さ」、人生の盛りで私の幸せは消えた、真実を語った報いがこの鎖・・・。天使よ、妻にそっくりな天使よ、私を自由の国へ導け・・・。
レオノーレとロッコがえっちらおっちら階段を下りてきます。「ここは何て寒いの」、そりゃ深い地下だからよ、あの男だ、動かない・・・、さっさと片づけようぜ、神よ、あれがあの人なのですか?
ツルハシを振るって穴掘り開始の二人、「グズグズしてはいられない」、がんばれ!もうちょい!穴を掘りつつもレオノーレは例の男が気になって仕方ありません。起きた!何だって?今、彼が動きました!その男の声がレオノーレの心を揺さぶります、彼よ・・・。
看守よ、教えてくれ、ここの所長は誰だ?ピツァロさ、ピツァロだと!頼む、誰かをセヴィリアへやってレオノーレ・フロレスタンを探してくれ・・・。そのレオノーレ・フロレスタンは目下彼の墓穴を掘っております。そんな頼みきけないね、じゃ、せめて水を。ついホロリときたロッコは、フィデリオ、こいつにワインをやんな。若い男を見つめて誰だ?と尋ねるフロレスタン、俺の部下、そしてもうすぐ婿になる男さ。狼狽えつつも目の前の夫の姿に身体を震わせるレオノーレ。
ワインをありがとう、「もっと良い世界で報いがあるように」、親方、パンを与えても良いですか?うーん、良いだろ。ありがとう、おかげで心が穏やかだ、レオノーレの手を握り礼を言うフロレスタン(っつーか、いー加減気づけよ)。パンを貪るフロレスタン、傍らではロッコがドアを開けて合図を送ります。私を殺すのか?レオノーレ、もう君に会えないのか?落ち着いて、神はあなたをお守り下さる、囚人を励ますレオノーレ(だから、いー加減気づけよ)。
悪党ピツァロ登場、「奴は死ぬのだ!」、俺が見えるか?お前が倒そうとした男さ、短剣を引き抜くピツァロの前にレオノーレが飛び出します。この男の前に私を殺せ!えーい、あっちへ行ってろ!最初にこの妻を殺せ!妻だって?(ってことは、女・・・か?)とロッコ、妻だって?(やっと気づいた)とフロレスタン、こうなりゃ二人とも!剣を突き出すピツァロの頭にレオノーレがぴたりと銃を押し当てます。
遠くからトランペットの響き、大臣様の登場です。
抱き合って涙するレオノーレとフロレスタン、がっくりと膝をつくピツァロ、もうこんな仕事やだとロッコ。レオノーレ、私たちは勝ったのか?勝ちますとも、大臣閣下がお見えになったんですもの。どうやってここへ?男装して雇って貰ったの。私のために何という苦労を、苦労?この身体は正義によって鍛えられたのよ。レオノーレ!フロレスタン!
良いニュースだ、ロッコが急ききって飛び込んできます。大臣閣下が囚人を名簿と照らし合わせるってさ、で、フロレスタン、あんたはピツァロが勝手に監禁していたから名簿には載ってない。だから、あんたは自由さ!
ここで「レオノーレ序曲3番」が挿入されます。精緻でありながら力に溢れたこの旋律、既にここで立派にハッピーエンドです。これはマーラーのアイデアだそうです。音楽的にはとても魅力的なアイデアですが、ドラマ的にはちょっと・・・、だって、これじゃここから先要らないって感じになります(ま、実際、なくてもいいんですが)。
大臣閣下ドン・フェルナンド登場、親友のフロレスタンか?死んだはずの男か?この青白い男が?そうとも、そしてこれが私の妻レオノーレだ。ロッコが割り込みます、この女性、男装して働いていて、もう、俺なんか婿にしようって思ったくらい見事な化けっぷりでして。ちょっと、パパ、今、何て言ったの!マルツェリーネのショックをよそにお話は強引に大円団に突入。
優しい妻と結ばれた男は歓喜の歌を歌う、夫を救った妻を讃える声は限りなく大きく響く!
この作品はベートーヴェンの唯一のオペラです。つまり、これ一作でオペラに懲りちゃったってことなのでしょう。そりゃ、こんなひどい台本をあてがわれれば懲りるよなー。
まず、人物描写が不自然であること。ロッコとマルツェリーネ、そしてヤキーノはオペラ・ブッファ(喜劇)の役どころです。ところが、この台本に喜劇的要素はゼロ、よってこれは邪魔です。人物とっ違えで笑えるのは、「コジ・ファン・トゥッテ」にしろ、「フィガロの結婚」にしろ、ストーリー自体が軽やかでなければなりません。暗い地下牢で餓死しかかっている政治犯なんて設定、モーツァルトなら絶対に蹴飛ばしたはずです。
そして、大切な背景であるフロレスタンとピツァロの対立が全く見えないということです。第二幕まで出番がないフロレスタン、嘆きのアリアでいきなり登場ですが、その背景が分からない。さっさと殺して埋めておけば完全犯罪成立だったのに、サディスティックにダラダラと決着を引き延ばしたピツァロですが、その背景も分からない。これはどうしたって別の第一幕が必要です。悪を憎み正義を求める熱血漢フロレスタン、その妻レオノーレの幸せな家庭にいきなり踏み込みフロレスタンを拉致するピツァロ、泣いてすがるレオノーレをいやらしく嘲笑する悪党、屈辱のどん底で復讐を誓う女・・・、どうしたってピツァロには「トスカ」のスカルピア的な見せ場が必要です。フロレスタンとレオノーレの熱々ぶりもここから先の決死の救出劇の大切な伏線ですし、たおやかな人妻が敢えて女を捨てて男装するという設定を生かすためにも、この「第一幕」で美女レオノーレを出しておくのが本当でしょう。
そして、この作品の決定的な「ダメ」は、女というものについてあまりに無知である結果、せっかくの可愛らしいマルツェリーネが「生殺し」になってしまったという点です。
一途に夫の救出だけを考えるレオノーレ、彼女は「聖女」であって生身の女の体温がありません。これに対してちょっと女っぽいナヨナヨ型の色男フィデリオに恋しちゃったマルツェリーネ、彼女はレオノーレのアンチテーゼとして非常に魅力的になれる役柄なのですが、彼女にまで少々安っぽい「聖女」らしさを与えてしまった。ヤキーノの一生懸命の口説きを冷たく突き放しパパに告げ口する「真面目な」マルツェリーネ、女を知らないからこういう展開になるんです。女というのは、相手がストーカーか宇宙人でもない限り、何人の男に好かれようが全然困らないのです。ここはマルツェリーネには二人の男を器用に手玉にとる「可愛い天然の悪女」であって欲しかった。私、フィデリオが大好きなの、そりゃ、ヤキーノだって可愛いと思うわ、私に夢中だし。でも、フィデリオのあのほっそりとした首筋と白くて滑らかな頬が好きなの、ヤキーノの太い首と剃り跡ジョリジョリの頬とは全然違うんだもん・・・、。マルツェリーネにこの生身の女の計算高さがあれば、ラストでは、うっそ、女じゃん!でも、私にはヤキーノがいるもん、そっ、俺がいるって。うふっ、やっぱ可愛いー!って結末に収まったはずなのに、このラストでは、女に惚れてしまったマルツェリーネも、女に彼女をさらわれたヤキーノも存在自体が全く無意味、どうしようもありません。
じゃ、なんだってベートーヴェンはこんな台本でオペラを書いたのか?
楽聖が愛した『女』
このオペラは一度「死んで」います。1805年11月13日、ナポレオンの軍隊がウィーンに進撃、逃げる先のある人たち、逃げるお金のある人たちはとっくにウィーンから逃げ出し、残っていたのは「皇帝さんが誰に代わろうが搾り取られる税金の行き先が変わるだけだろ?」って庶民だけでした。そんな最中、アン・デア・ヴィーン劇場で「フィデリオ」は幕を上げます。ところが客席にぽつりぽつりと座ったのはナポレオン軍の士官たちだけ、当然、ドイツ語は全然分からない、きれいなおねーちゃんでも出てくるかと思えば舞台は刑務所、ヒロインは男装、そしてバレエ場面もない、これじゃ面白いわけがない。というわけで、3回上演されたところでベートーヴェンはスコアを引き上げてしまいます。「フィデリオ」はここで消えても不思議じゃなかったのです。
ちょこっと手を入れればマシになるのに・・・、リヒノウスキー侯爵とその夫人が意固地な作曲家を説得しようと乗り出します。ところが、作曲家の抵抗たるや凄まじいものでした。話し合いは平行線のまま時は深夜、ガサガサと楽譜をかき集めて憤然と席を立つ作曲家、「あなたの可愛い子供を救ってほしいのよ」、侯爵夫人の一言がベートーヴェンの頑なな心を溶かします。改訂作業開始、これがまたどえらい難工事となりました。
この作品、序曲が4つもあるのです。第二幕の前奏曲は18回、フィナーレの合唱は10回書き直されています。消しゴムでゴシゴシ擦りすぎて紙が破れそうになっている出来の悪い小学生の宿題みたいなイメージです。ベートーヴェンをここまで駆り立てたものは何だったのか?
学校の音楽室の壁を飾っていた作曲家たちの肖像画を思い出して下さい。若々しく茶目っ気たっぷりのモーツァルト、情熱的な黒い瞳に甘い憂いを湛えたショパン、落ち着いた雰囲気の中にも豊穣さを感じさせるバッハ、触れれば壊れそうな清澄な知性と憂鬱をまとったマーラー、そしてベートーヴェン・・・、色黒のいかついしかめっ面、くしゃくしゃの金属タワシみたいなヘアスタイル、無骨で恐ろしげで、秋田の「なまはげ」みたいなご面相、色恋とは対局にいるおっかないおっさんというイメージしか残っていません。
ベートーヴェンは生涯独身でした。やっぱイメージ通り好いた惚れたには縁がなかったか・・・。
「私の天使、私のすべて、私自身よ。・・・私たちの愛は、犠牲によってしか、すべてを求めないことでしか、成り立たないのでしょうか。あなたが完全に私のものでなく、私が完全にあなたのものでないことを、あなたは変えられるのですか・・・胸がいっぱいです。あなたに話すことがありすぎて、言葉など何の役にもたたないと思うことがあります。・・・」
「ああ、私がいるところにはあなたもいっしょにいる、私は自分とあなたとに話しています。一緒に暮らすことができたら、どんな生活!!・・・あなたがどんなに私を愛していようと・・・でも私はそれ以上にあなたを愛している・・・私から決して逃げないで、・・・こんなにも親密で!こんなにも遠い!私たちの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうか・・・」
「この手紙をあなたが早く受け取れるように、封をしなければなりません・・・愛してほしい、きょうも、きのうも、どんなにあなたへの憧れに涙したことか・・・私のいのち、私のすべて、お元気で、私を愛し続けてください・・・永遠にあなたの、永遠に私の、永遠にわたしたちの」(『ベートーヴェン不滅の恋人』青山やよひ(河出文庫)より)
これほど真摯で情熱的なラブレターを貰ったなら、女に生まれた甲斐があるってもんです。これを書いたのがベートーヴェン、そう、彼は生涯に何度も燃えるような恋をしています。容貌は「なまはげ」ですが、彼には自分の感情を率直に表現する誠実さと知性が、理想を追い求める情熱と克己があった、実際は相当女にもてたと思います。男は顔じゃない。
この「不滅の恋人への手紙」の宛先は不明です。結局生涯独身だったわけですから、この恋が実ることはありませんでした。ドイツのボンのオランダ系一家に生まれた彼、実家はパン屋や大工をやっていたということですから、根っからの庶民ですが、彼の恋人として知られている女性は貴族のご令嬢ばっかりです。これじゃうまくいくわけないのですが、彼は生涯「高嶺の花」を追い求めました。高ピー女が大好きな上昇志向剥き出しの田舎モノ・・・というよりも、彼の知性と情熱を理解してくれる女性が、当時は彼と同じ庶民階級には皆無だったからでしょう。
元々が粗野で頑固で取っつきにくかった彼の性格に拍車をかけたもの、それは徐々に進行していく難聴でした。1802年には32歳の誕生日を前にしてハイリゲンシュタットの地で自殺を決意、弟に宛てて遺書を書いています。慢性的な体調不良のせいで演奏旅行に出かけられず家計は火の車、だんだん聞こえなくなる耳は音楽家としての将来を脅かし、何よりも周囲の会話が聞こえないせいで、生来社交好きで知的な会話を好んだ彼は次第に孤独へと追いやられていきます。
生まれた階級にはそぐわない才能と知性と教養を持ってしまったために庶民には飽きたらず、しかし、どこから見ても無骨な成り上がり者であったために貴族階級には受け入れられなかった彼。
毎日毎日少しずつ失われていく聴力、音楽家として一番恐ろしい未来を目の当たりに突きつけられ、しかし持って生まれたプライドの高さから助けを求める言葉を口にすることすらできず、一人その恐怖と対峙しなければならなかった彼。
罪なき身を暗い地下牢に繋がれ、日々減らされる食事から当然に見えるのは恐ろしい餓死という結末、正義が日の目を見る時を待ち焦がれつつ、必死で死に対して孤独な闘いを続けるフロレスタン。
この時牢獄に閉じこめられていたのはベートーヴェン自身なのです。そんな彼は、貧しい男の姿に身をやつし、理屈やら正義やらの前に、ただ彼ゆえに、だた愛ゆえに彼を救出するレオノーレを想い続けたのです。
台本の出来はひどいもんです。破綻している性格描写、無理が多すぎる展開、しかし、そんなもんはベートーヴェンにとってはどうでもよかったのです。レオノーレがいる、絶望という牢獄に繋がれた囚人の元に目映い太陽の光を運んでくれる女、愛する男のためには女を捨てて銃を振りかざして正面切って戦う女、レオノーレこそがベートーヴェンが生涯愛した女であるような気がします。
このオペラで絶対に聞き逃してはならないのは、「最初に妻を殺せ!」で一同ビックリの後に響くトランペットです。このトランペットは単にこの作品の「水戸黄門」である大臣登場を告げるにしてはあまりにドラマティック、一瞬ドラマを静止させ、再び管弦楽に引き渡す、これは「希望」の音なのです。レオノーレ序曲の三番ではこのトランペットが中盤でソロを形成します。そこに響き渡る力強い旋律は、「囚人の合唱」でつかの間日の光を浴びた「希望」が、今やしっかりと根付いたのだと告げています。
ベートーヴェンの恋は結局一つも実りませんでした、彼の耳は最後には聞こえなくなりました。しかし、彼はレオノーレの救済を信じ、死の誘惑を乗り越えたのです。
えー、欠点が多くてオペラとしてはかなり苦しい作品ですが、まずはベーム盤、55年のウィーン国立歌劇場、60年のMET、63年のベルリン・ドイツ・オペラ等々、たくさんありますが、イチ押しは69年のドレスデン盤、格調の高さといい、男性的躍動感といい、名演だと思います。53年のフルトヴェングラー盤と70年のカラヤン盤も捨てがたい。
歌手としてはマゼール盤(64年)のニルソンとベーム盤(69年)のジョーンズが、どちらも戦う女の強さが出ていて好きです。この69年ベーム盤はピツァロのテオ・アダムが正統派の悪党ぶりで実に良いのでお買い得。
やはりこの作品は歌手よりも指揮者とオケ優先で選んだ方が良いみたいです。
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