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ワーグナー 「神々の黄昏」 (2005年6月16日〜2005年9月7日の日記より)
序幕 神々が退場した後に
「ジークフリート」の幕切れ、あの岩山、恐れを知らぬ英雄によってブリュンヒルデが目覚めた時のあの旋律。しかし、今回は短調でじっとりと湿って重たい。ここまで3夜、劇場で通しで見てきた場合は、はぁー、やっとここまで来た、疲れたよぉ、しかし、こんなオペラ、作る方も作る方ならやる方もやる方、で、見る方もこれまた見る方ってゆーか、体力も気力もそろそろ限界・・・、良く頑張ったなぁ、自分を誉めてやりたいって感じでしょうか?
この重苦しさを静かな諦観に導くのが3人のノルンの語り。運命を織る三姉妹はそれぞれ過去、現在、未来を担当しています。アルト、メゾ、ソプラノの女声が絡み合います。
「あそこで輝いているものは?」と長女の「過去」、「もう夜が明けるの?」と次女の「現在」、「あれはローゲの炎よ」と三女の「未来」、縄を綯って歌うわ、たとえ吉でも凶でも。
かつて世界樹が茂り、木陰に泉が湧き出て、流れる水は叡智を囁いた、一人の雄々しい神が片目を代償に叡智を得た。ヴォータン、彼は世界樹の枝を切り取って一本の槍を作った・・・、世界樹は傷ついた、葉が落ち、幹は干乾び、泉は枯れ、そして私の心は憂えた・・・。今、世界樹の代わりにこの樅に綱をかけるわ。
ヴォータンはその槍に契約を刻んだ、その槍は世界を統べた、一人の英雄がその槍を砕いた・・・。ヴォータンは枯れた世界樹を倒して薪に変えた・・・。今、運命の綱は岩に絡まっているわ。
巨人たちが築いた城の広間にヴォータンは座っている、薪が積まれて燃え上がる時をじっと待っている、それこそかつての世界樹・・・。神々の終焉が始まる・・・。これ以上何を?綱を返すわ。
あれは何?暁?炎?火の神ローゲはどうなったの?ヴォータンの槍はローゲを手懐けた。ローゲは自由になりたくて槍を齧り取った、ヴォータンは怒って彼をブリュンヒルデの岩山の炎の環に変えたの。ローゲはどうなるの?
いつの日か、ヴォータンは砕けた槍の欠片でローゲを刺すわ。恐ろしい炎が上がって世界樹の薪が燃え上がる・・・、何が知りたいの?
闇が消えていく、もう何も見えないわ。綱の糸目はどこ?綻びている・・・、だから視界が乱れるの?アルベリヒ、ラインの黄金を奪った小人はどうなったの?綱が緩んでいる、ちゃんと張れないわ。怨念と苦しみが指環を生んだ、見える?迫ってくるわ。復讐が撚り目を傷めるのよ、これからどうなるの?
引っ張って、もっとピンと張って!切れた!切れた?切れた・・・、永遠の叡智に終わりが来たのね、もう知の女神は何も語らない。行きましょう、お母様のところへ、地の底へ・・・。三姉妹はエルダを追って大地の奥深くへ沈んで行きます。
暁が空を染め、ジークフリートとブリュンヒルデ登場。鎧と兜、剣と槍、完全武装のジークフリート、愛馬グラニの手綱をひくブリュンヒルデ。
あなたを愛しているから引き留めはしません、ご武運を・・・。神々の知恵を全てあなたに与え、ルーン文字の秘密を全てあなたに説き、今の私はかつての処女の神から一人の女に、知恵の代わりの希望、力の代わりの愛が私の全て、この貧しい女にはもうあなたに与えるものもない・・・。
これ以上何を?奇跡の女、僕はそれほど賢くはならなかったけど、一つだけ覚えている、ブリュンヒルデ!君を決して忘れない!あなた自身を忘れなければ私のことを忘れることはないわ、あなたは炎を踏み越えた、私の甲冑を破った、私たちは一つよ!
僕は旅立つけれど、君がくれた知恵のお返しにこれを上げるよ。大蛇が守っていた指環だよ、僕の冒険の証し、今は僕の愛の証し!かけがえのない宝、大事にするわ。私は愛馬を差し上げましょう。かつて私と共に天を駆けた馬、グラニはどんなところへでもあなたに従います。
僕は君の愛馬に跨り、君の槍を手に勝利する、ジークフリートはブリュンヒルデの腕!では、ブリュンヒルデはジークフリートの魂!たとえ僕がどこにいようとも僕ら二人は一つ!神々よ、私たちを見よ!
ブリュンヒルデ、輝かしい星、ジークフリート、勝利の光・・・、それとも愛?それは生命!幸あれ、幸あれ!
岩山に新妻を残してグラニと共に旅立つジークフリート、その勇姿をうっとりと見送るブリュンヒルデ・・・、この二人が再会する時、まさか血の雨が降ろうとは・・・。
オーケストラは「ジークフリートのラインへの旅」を奏でます。疲れを知らないグラニの蹄が軽やかに大地を蹴り、雄大なラインの流れに沿って、心躍る冒険と輝かしい勝利を摘み取っていくジークフリート。しかし、音楽は次第に重くなり、濁り、苦くなり、舞台はラインの畔、ギービヒ家の館へ。
大地の女神エルダの3人の娘、美しいノルンたちが歌う過去、現在、そして未来。ヴォータンは叡智の代償として世界樹を枯らし、泉を干上がらせてしまいました。砂漠で生まれたユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教では、唯一神が世界を作ったのであり、世界が神を産んだのではありません。そして唯一神は絶対にして永遠です。それに対して、豊かな森で育まれたゲルマンの世界観では、森と水を失えば世界は終わるのです、たとえそれが神々の世界であっても。
「過去」が歌います。ヴォータンが作った一本の杖が巨大な世界樹を枯らした・・・、世界樹を蝕んだのはその枝に刻まれた「契約」でしょう。与えられるものと与えるものが等価でなければならない、全てが循環する森には、与えるものと与えられるものの区別は存在せず、「契約」の思想はありません。大地の女神エルダはあらゆるものを与えながら何一つ受け取りはしませんでした。
「現在」が歌います。ヴォータンの契約は一人の若者によって砕かれた・・・、地底の小人や地上の巨人がどうであれ、人は神との契約を拒んだ。拒んでどうする?綱は鋭い岩に絡めたわ・・・、人は今、分岐点に立っています。ヴォータンが放擲した傷ついた世界を何によって再生させるのか、愛か?力か?
「未来」が歌います。巨人たちが築いた壮大な城、今、そこにいるのは神々と死者のみ・・・、ヴァルハラは墓場と化し、ノルンたちは居場所を失いました。何とか世界の運命を知ろうとする三女の「未来」ですが、彼女は手にした綱を死者の方位である「北」から次女の「現在」に投げ返します。彼女たちの見る未来は死・・・?
ノルンたちは度々炎と朝日を間違えます。炎は神々の世界の終焉であり、朝日は新しい一日の始まりです。終わりと始まりの区別が定かではない混沌、彼女たちは火の神ローゲの運命を思います。『ラインの黄金』の幕切れ、俺は神々として滅びるのか?人として生きるのか?と思案していたローゲは、どうやらその後ヴォータンに反旗を翻して返り討ちに会った模様。「契約の杖を齧った」・・・、半分人間であったローゲはヴォータンの契約を拒絶し、決められた運命のもたらす安逸よりも、荒々しい未知のもたらす可能性を選択したのでしょう。
ノルンたちはようやくのこと指環を思い出します。指環は、ヴォータンの統べる世界に対抗すべく、自らも契約を提示しました。愛を捨てよ、そうすれば無限の富と力を与えよう。その指環は、我が身に触れた者全てを滅ぼし、目下のところ唯一指環の価値を知らないジークフリートの所有物。ヴォータンが契約を放棄した今、指環はこの世界で唯一の契約として、愛の屍の上に築かれた権力の祭壇で唯一神となる時をじっと待っているのです。
しかし、とうとう運命の縄は切れてしまいます。人間は自らの運命を自らの手に握ったのです。これから先何が起ころうが、それはすべて人が為し人が引き受けること、それは自由?混沌?それとも孤独?
ノルンたちが静かに退場して、舞台の上に登場したジークフリートとブリュンヒルデ。新婚さん・・・と呼んでいいのでしょうか?出会いからどれほどの時間が流れたのか不明です。しかし、異様な新婚生活です。何しろそこは比喩でも願望でもなく、本当に「二人だけの世界」なのです。新郎は新婦以外の女を見たこともないという究極の童貞、新婦は神々の長と大地の女神を両親に持ち、世界の全ての知恵を持つ究極の姉さん女房、ものすごいっちゃーものすごい組み合わせです。
ジークフリートに知恵を与えた結果として戦乙女の力を失い、しかし、愛を得たブリュンヒルデ、ブリュンヒルデは力と愛の等価交換を行った、彼女はヴォータンの娘にして反逆者という身の上に相応しく、指環とは反対の契約をしたのです。この契約によってブリュンヒルデを通して祖父ヴォータンの知恵は孫ジークフリートに受け継がれた・・・らしいのですが、当のジークフリートは、僕、バカだしぃ、と知恵の継承を自覚していません。ジークフリートはあくまでも契約から自由なのですが、その自由をどうしていいのか分からないわけで、本人の申告通りホントにバカなのかも・・・。
バカな割にはこの若者、実に微妙なところでウソをついています。「ブリュンヒルデを我が物とするために!」「ブリュンヒルデを目覚めさせるために!」炎を超えたと歌いますが、ジークフリートはブリュンヒルデという個ではなく母への憧れの延長線にある女という性を求めていたはず。ぶっちゃけ、岩の上にいるのはブリュンヒルデである必要は全くなかった、オッパイがついている生き物なら何でも良かったはずなのです。このウソ、後で大きなツケを回してきます。
「お前がくれた知恵のお返しにこの指環を」、ジークフリートは指環を差し出します。ところがこの男、指環の価値を知りません。彼が差し出したのは自分の冒険の記念品としての指環であって、愛と権力の等価交換を提示する指環ではないのです。そして、奇妙なことにブリュンヒルデ、神々の全ての知恵をジークフリートに与えた女は、この指環について何も語りません。
孤独な小人を、実直な巨人を、神々の長を誘惑してきた指環は、初めて否定されました。男は無知ゆえに、女はその価値を知っているからこそ。指環はその価値を復活させねばなりません。己の価値を知る者の手に移動しなくてはなりません。ヴォータンの契約が砕けた今、指環の契約こそが唯一人間を組み敷けるはずなのだから。
輝かしい星!勝利の光!決して離れない!幸あれ!別れの場面にねっとりと絡みつく愛の言葉・・・、それが濃厚であればあるほど、彼ら二人の幸せはこれが最後と伝わってきます。なぜなら、ジークフリートの歩む先に広がる世界には、オッパイのついた生き物はたくさんいるんです。そして、ただの蜜月の記念品にされてしまった指環がこのまま黙っているはずもなく・・・。
第一幕 ノルンのくびきから解き放たれて人は何をする?
ライン川を見下ろすギービヒ一族の館。当主グンター、その妹グートルーネ、そして彼らの異父兄ハーゲンの三人がテーブルを囲んでいます。
賢いハーゲン、僕はこの家の当主に相応しいかな?いや、何かが足りないな、そう、君には妻が、グートルーネには夫がいない。グンターよ、炎に囲まれた岩山の頂に世界一の女がいるぞ、炎を突き破った勇者だけが彼女に求婚できる。それは僕にも出来ると?いや、無理な話だね、ヴェルスングのジークフリートならいざ知らず。そう、あの双子から生まれた純血の勇者さ。彼ならこのグートルーネに相応しい男だろう。何しろニーベルングの財宝を手にした英雄だ、世界は彼の前に平伏すだろう。彼だけがブリュンヒルデを?だったらなぜそんな話を僕にする!いや、ジークフリートが求婚し、君が結婚するのさ。そんなことをどうやって?このグートルーネが彼にそう願うのさ。からかうの?この私が英雄を意のままにできると?できるさ、あの秘薬を使えば。あれをジークフリートに飲ませれば、たちまち彼はお前以外の女を忘れてしまう、どうだ、ハーゲンの名案は気に入ったか?
気に入った!で、どうやって彼を探し出す?世界は広い・・・って、来たよ、向こうから!角笛を吹き鳴らし小船を漕いで、馬も一緒だ、なんて馬鹿力、おーい、勇者よ、ギービヒの館へ寄っていくがよい!
ようこそ、勇者殿!一同の歓迎に傲慢に応えるジークフリート、僕を呼んだのは一戦交えるため?友になるため?僕はどっちでも良いけど。剣などとんでもない!さっ、こちらで休息を。この館の全てを貴殿に、領土も領民もこの身もあなたにお仕えするだろう、とハーゲン。僕はこの通り、領土も領民も持ってないけど、剣だけは持っている、自分で鍛えた剣さ、ノートゥングを引き抜くジークフリート、この剣に誓おう、僕はこの剣で君たちに報いよう。何と頼もしい、ウワサでは君はニーベルングの宝を手に入れたとか?宝?宝・・・、あー、忘れていた、大蛇のところに置いてきた。全部?いや、この変な頭巾は持ってきた。それは隠れ頭巾、それさえあれば何にでも変身できるという逸品だ。それから指環を一つ見つけた。ふん、で、それは?女の人が持ってるのさ、ブリュンヒルデ・・・。
取り合えず杯を受けてくれ、グンターが手招きするとグートルーネが飲み物を持って登場します。さっ、ぐぐっとお空けになって、じゃ、遠慮なく。たとえ全てを忘れてもこれだけは忘れない、最初の一口はブリュンヒルデに捧げよう。ゆっくりと杯を干すジークフリート。
あれっ、何か変だ・・・、美しい、なんて美しい人なんだ、胸が熱い、声が震える、君はグートルーネ?良い(グート)知らせ(ルーネ)、良い知らせなら喜んで聞こう、君は僕と結婚してくれる?秘薬のあまりの即効性に思わず顔を見合わせるグートルーネとハーゲン。グンター、君に妻はいるか?いや、何しろ僕は理想が高くて。岩山の頂にいる女、炎が彼女を囲んでいる、その炎を突き破る者だけが・・・。その話、どこかで聞いた?いや、どこかで見た?あぁ、ともかく、僕は炎なんて平気さ、君のためにその女を連れてくる。だから、君の妹を僕に!しかし、どうやって?隠れ頭巾でさ、僕は君になる、だから誓おう、僕たちはたった今兄弟になったんだ!
ハーゲンが二つの杯に酒を満たします。ジークフリートとグンターはそれぞれ指を切って滴る血を杯に落とします。僕らは血で結ばれた兄弟、どちらかが誓いを破れば、どちらかが裏切れば、その血潮は滝となって償うだろう!乾杯!おい、ハーゲン、君はどうして誓いに参加しないんだ?俺の血はそれほどのものじゃない、気高くもないし熱くもない・・・。
陰気なヤツは置いといて、さぁ、行こう!一夜もあれば十分さ、岸辺で待っていてくれ、僕は君の花嫁を連れてくるから。なんと、もう出発すると?一刻も早くグートルーネと結婚したいんだ!よし、ハーゲンよ、僕ら出かけるから留守を守れよ!
留守を守れ?守るとも、追い風だ、舵を取るのは伝説の勇者、自分の妻とも知らぬその女はグンターへ、そして俺には指環、せいぜい急ぐがいいさ、お前たちは知るまい、お前たちは今この卑しい俺、ニーベルングの息子に仕えていると・・・。
ジークフリートが後にした岩山、あれからの歳月、ひたすら彼を待ち続けるブリュンヒルデ。遠くから雷鳴が響き、彼女にはお馴染みの音が響き渡ります。お姉様!ヴァルトラウテ?なんて懐かしい声!妹が空駆けて私の元へ!なんて大胆なこと、私に会いたくてお父様の言いつけに背いたの?お父様は私をお許しに?ええ知っているわ、私がジークムントを守った時、私はお父様の願いを叶えたのよ。お父様は私をここに封じ込めて通りすがりの男のものになれと仰ったけど、私を炎で囲んで下さった。だから私は幸せになったの、お父様の罰のせいで輝かしい英雄の妻になったの、妹よ、姉の幸せを見に来てくれたの?
お姉様、何を馬鹿なことを言っているの!違うの?ヴァルハラが・・・、神々に何が?お姉様と別れてからというもの、お父様は戦場もほったらかし、一人で世界を彷徨って、やっとお帰りになった時、その手の槍は折れていた。お父様は世界樹を切り倒し薪にしたわ、そして玉座に座っているの、何も言わずただ座っているの、フライアの林檎にも手を触れず、日に日に・・・。二羽のカラスを使いに出したの、そしてその知らせをただ待っているの。私は泣いたわ、するとお父様はお姉様のことを思い出したの、「ラインの乙女たちに指環を返してくれたなら、神々と世界は救われる」と・・・。だから私は来たの、お姉様、この苦難を終わらせて!
なんて悲しそうな話かしら、でも、私は神の力を失ってしまったの、だからあなたの話がよく分からない、その蒼ざめた頬は私に何をさせたいの?指環よ、指環を捨てて、ラインの乙女たちに返して!指環ってこれのこと?これはジークフリートの愛の証よ、とんでもない!その指環がある限りこの世の災いはなくならないの、その指環は呪われているの、だから川に返すのよ!
この指環の値打ちがあなたに分かるとでも?ヴァルハラが何よ、神々が何よ、これはそんなものよりもずっと価値がある、だってジークフリートの愛なのよ!さぁ、ヴァルハラに帰って神々に伝えなさい、私は決して愛を手放さない、神々とて私から愛を奪えない、ヴァルハラが瓦礫と化しても!お帰り、とっととお帰り!
お姉様を恨むわ!そう言い残して嵐と共に去る戦乙女、それを見送る元戦乙女。行くがいい、二度と来るんじゃない!闇が空を覆う・・・、炎がひときわ明るいわ、どうしてこれほど猛々しく燃え上がるの?誰か来る、ジークフリート!帰ってきたのね!違う・・・、裏切られた!ここまで押し入ってきたのは誰?
グンターに姿を変えたジークフリート登場、ブリュンヒルデ、炎を恐れぬ男がお前に求婚する、拒むなら力づくで連れて行くまで!お前は誰?ギーヒヒ一族のグンター、女よ、僕に従え!ヴォータンが裏切ったのね!やっと分かった、こうして私を嘲るつもりね、近寄らないで、この指環が見えないの?下がれ、盗人!お前に指環は奪えないわ!それは奪えということか?こんな具合に?抗うブリュンヒルデの指から強引に指環を抜き取るジークフリート、これでお前は僕のもの、グンターの花嫁。
ぐったりとしたブリュンヒルデを岩の上に横たえてジークフリートは剣を抜きます。ノートゥングが証人となる、義兄弟の誠に賭けて、今宵、僕とこの女をノートゥングが隔てる・・・。
物語はすったもんだの挙げ句にあのラインの畔に戻ってきてしまいました。三人のラインの乙女の代わりに登場したのはギービヒ一族の三人の兄妹。見目麗しいグンターとグートルーネに対して醜く歪な姿のハーゲン。この三人の関係は?
実はハーゲンは、神々の長ヴォータンが愛娘ブリュンヒルデに愚痴っていた、アルベリヒが指環奪還のために人間の女との間に「愛なくして」作ったという息子です。つまり、ギービヒ一家の三人は父親が違っている。で、どう違っているのか?
第一子グンター、第二子ハーゲン、末っ子グートルーネ、これが一般的な解釈でしょう。グンターは「私に弟を与えてくれたグルームヒルト(母)を讃えよう」と歌っていますし、勇者との結婚を持ち出され恥じらうグートルーネはハーゲンの妹が収まりがよろしい・・・、でも、私はこれ、納得できないんです。
グリームヒルトはギービヒ家の長男を産んだ後、アルベリヒと愛のない関係を持ってハーゲンを産んだ、で、その後再び先代ギービヒ殿とよりを戻して長女を産んだ、長男も長女も次男が異父兄弟であると知っている・・・、これ、不自然でしょう?こんな状況で母グルームヒルトを讃えるグンターとグートルーネは性的にいかにもだらしなくて、ギービヒ家が名門どころか自堕落な成り上がり一族の印象になってしまいます。
第一子グンター、第二子グートルーネ、末っ子ハーゲン、彼らの母グリームヒルトは先代ギービヒ殿に先立たれ、アルベリヒと愛のない関係を持った。こうなるとアルベリヒはグンターとグートルーネの義父ということになりますが、父亡き後母を奪った醜い小人とその息子を家族に持つにしては、グンターもグートルーネもアッケラカン、特にグンターには強烈なエディプス・コンプレックスがあって当然。それすらなしでは、この兄妹、まるっきりバカになってしまい、物語のタガが外れます。
第一子ハーゲン、第二子グンター、末っ子グートルーネ、ハーゲンはグリームヒルトの連れ子、半分ゲテモノの子はいてもアルベリヒが残した(ヴォータンが巻き上げ損なった)たっぷりの黄金が持参金のグリームヒルト、先代ギービヒ殿は醜い連れ子を受け入れる代償として黄金を手に入れ、私生児を抱えてアルベリヒに捨てられたグリームヒルトはお后の座を黄金で買った。所詮は連れ子、先代ギービヒ殿はハーゲンを始末してしまいたかったでしょうが、その秀でた頭脳を見込んで執政として残し、我が子グンターに家督を譲った。自分の頭上を通り過ぎる王冠を見送った切れ者の兄の屈折、兄を差し置いて王冠を頂いた愚鈍な弟の傲慢、この設定が一番しっくり来ると思います。
もう一歩踏み込んで、グンターとグートルーネは双子であろう・・・、ジークムントとジークリンデのヴェルスングの双子と釣り合って美しい。
ラインを見下ろす館の正当な承継者である美しい兄と妹、彼らの執政の地位に甘んじている醜い異母兄が、その関係をあっさりとひっくり返してみせます。兄に妻を、妹に夫を、八百長の縁談に喜々として応じるグンターとグートルーネ、ハーゲンの知恵が兄妹の運命を決めます。ノルンたちが投げた運命の綱の代わりにハーゲンが繰り出すのは己の頭脳、アルベリヒの息子は、他人の知恵に便乗するギービヒ兄妹の卑しさから、ブリュンヒルデから与えられた神々の知恵を何一つ身に付けていないジークフリートの愚かさから、傲慢に距離をとって静かに立っています。
ヴォータンとアルベリヒがそれぞれ指環のためにこの世に送り出した息子同士は、遭遇し、しかし、あっさりとすれ違ってしまいます。耳をつんざく金管の凄まじさに乗せてジークフリートとグンター、テノールとバリトンがそれぞれ力を誇示する誓いの場面、重なり合う旋律と繰り返される言葉、男声二重唱の溢れかえる圧倒的な「音」は、なぜかハーゲンの「沈黙」を際立たせます。
ハーゲンは己の出生のいかがわしさと容姿の醜さを理由に、契約に加わりません。彼はこの場で唯一、父アルベリヒと神々の長ヴォータンの指環を巡る長い争いを知っています。全てはヴォータンの契約違反から始まった、それを知ったヴォータンは愛によって指環を葬ろうとして契約に手足を縛られ、愛の形見の剣によって契約を守る槍を砕かれた。誓え、愚か者共よ、ヴォータンが去った世界で誓え!虚しい契約をするがいい!
ハーゲンの相手、それはジークフリートやグンターのようなサカリのついたボンクラ男どもではありません。彼にとってジークフリートは彼の元に指環を運んでくる犬に過ぎず、ギービヒ兄妹はその犬を手懐ける餌に過ぎません。ハーゲンの敵、それは現在の指環の所有者、指環の本当の力を知る元戦乙女、知った上でそれを愛の証と言い張る女、愛の前には神々の世界も滅びるがいいと言ってのける英雄の妻。
そして、ハーゲンは知っています、指環を本来の富と権力をもたらす存在として己の手に握るためには、指環が仮に象徴している愛が放棄されなければならないと。
その難役をこなしてくれるのが、何も知らない元英雄、現パシリのジークフリート。
ハーゲンがジークフリートの杯に盛った秘薬は、目の前にいる女に一目惚れしてしまい、過去の女を忘れてしまうという「女限定」の効用のものでした。ジークフリートは炎の岩山の場所も、そこへの道筋もちゃんと覚えています。彼が忘れてしまったのは、ブリュンヒルデと結婚していたという事実だけのはず。
ところが、この男、目の前の「見知らぬ女」の手から強引に指環を奪います。それがいったい何であるのか全く知らないまま、ただ単に欲しかったというだけで。さらに岩山でなぜか一泊してしまいます。麓では義兄弟のグンターがまんじりともせず待っているというのに。
ノルンたちが退場し、神々が末期の用意を始めてしまった世界で、英雄ジークフリートは彼本来の姿、ただの男になりました。それは欲望に弱くて、誓いの与える安心を欲しがるくせに、誓いのもたらす窮屈さから逃れたくて、他人には厳しくて己には優しい、そんな男です。
そう、人間の物語が始まったのです。
第二幕 宿命の剣は何を見た?
ジークフリートとグンターの義兄弟が嫁取りに出かけた後のギービヒの館、深夜。広間の柱にもたれて眠っているハーゲンを冷たい月が見下ろしています。
眠っているのか?息子よ、夢魔となったアルベリヒが呼びかける声。聞いているぞ、厄介な小人め、母はお前の計略にかかって俺を生んだ、お陰で俺には何の楽しみもない。恨め、我が子よ、陽気な奴らを恨め!お前は強く、勇敢で賢い、ヴォータンがヴェルスングに打ち負かされた今、神々は終末を見据えている、おい、眠っているのか?では神々の力は誰に?俺とお前さ、息子よ!ヴォータンの槍を砕いたガキが指環を手にした、恐れを知らぬヤツには俺の呪いも効かない、何しろヤツは指環の力を知らないときた。だから俺とお前はヤツを滅ぼすのさ。黄金の指環・・・、ヤツがそれをラインの乙女たちに返しちまったら全てお終いだ。そうとも、だからお前がいるんだ。お前はヤツほど強くはない、だがお前には憎悪がある。指環を奪え、誓うか、ハーゲン、息子よ?
月が地平線に姿を消し、暁が空を染め、アルベリヒは闇と共に消えようとしています。誓え、ハーゲン、息子よ、誓うとも、この自分に!それでこそ息子、ハーゲンよ、誠だ、誠を忘れるな・・・。
血のように赤い朝焼けがラインの川面を染めています。ホイホー、ハーゲン!戻ったぞ!これはこれはジークフリート、どこから?ブリュンヒルデの岩山からさ。では首尾よく?グートルーネは起きているかな?グートルーネ、ジークフリートが戻ったぞ!許嫁に歩み寄るグートルーネ、ジークフリートはもう気が急いてたまりません。抱いておくれ、今日から君は僕の妻だ。ではブリュンヒルデは兄上と?万事上手くいった、隠れ頭巾のお陰、ハーゲンの作戦のお陰さ。では、あの勇ましい乙女はあなたに屈したの?僕じゃなくてグンターに。ブリュンヒルデはあなたと結婚したの?ブリュンヒルデは彼女の夫を受け入れたのさ。その夫はあなたでしょ?僕は君のものさ。でもあなたの隣に寝たのはブリュンヒルデでしょ?僕らは遠く隔たっていた。ノートゥングを手に饒舌に語るジークフリート、炎が消えて朝霧を突っ切って、ラインの岸で僕とグンターは入れ替わったのさ、彼らもじきに帰ってくる、歓迎の支度を!
花嫁を迎えましょう、ハーゲン、兵士を集めて、私は女たちを集めるわ、ジークフリート、したたかな勇者、少しお休みになっては?早くも新妻らしさを発揮するグートルーネ、君がそういうなら・・・。
ギービヒの家臣たち、集まれ!ハーゲンが叫びます。災いだ、武器を取れ!ホイホー、ホイホホホー!何ごと?おっとり刀で駆けつけた猛者たちが広い前庭を埋め尽くします。ハーゲン、ホイホー!来たぞ、どんな敵だ?戦はどこだ?誰が我らを危険に晒す?
身なりを整えよ、今日はグンターが妻を迎える日だ。殿が危険なのか?グンターは勇猛で知られる女を連れ帰るぞ、じゃ戦に勝ったのか?大蛇を倒した助っ人がグンターを救った!じゃ俺たちは何を?ヴォータンのために牡牛を屠れ、フローのために猪を屠れ、ドンナーのために山羊を屠れ、フリッカのために羊を屠れ、酒を飲め、祝え、良き結婚のために!
気難しいハーゲンが笑っている!こりゃよっぽどめでたいことだ、さぁ、皆の衆、グンターと花嫁を迎えよう、新しい女主人に手を差し出せ、彼女の苦難には素早く報いよ。
ようこそ、ようこそ!グンターとブリュンヒルデの乗った船がラインの上を滑るように近づきます、ようこそ、ようこそ!
グンターがブリュンヒルデの手を取って登場、我らの殿と花嫁に幸あれ!ガチャガチャと武器を鳴らして挨拶する家臣たちに新妻を紹介するグンター。この高貴なブリュンヒルデこそギービヒ家の最高の名誉!ジークフリートとグートルーネも手を取り合って登場。勇者よ、妹よ、お前たちも幸せだろう?今日は二組の婚礼の日、ブリュンヒルデとグンター、グートルーンとジークフリート!
・・・ジークフリート・・・?彼がどうしてここに?グートルーネって誰・・・?目の前の光景がどうしても信じられないブリュンヒルデに向かってジークフリートが平然と答えます、グンターの妹、そして僕の妻、君がグンターの妻であるのと同じさ。私が・・・、グンターの妻?嘘よ!目の前が暗くなる・・・、ジークフリート、私が分からないの?おい、グンター、君の花嫁、おかしいぞ、ブリュンヒルデの体を支えるジークフリートの指にきらりと光るもの。指環、この人の手にどうして指環が!何ごと?訝しげな家臣たち、よく聞くがいいとハーゲン。
指環、これはあなたのものじゃない、これを私から奪ったのはこっちの男よ、グンターを指差すブリュンヒルデ。これは結婚の証よ、彼から取り返しなさい!指環って・・・、僕は彼にはやっていない、狼狽するグンター。じゃあ、私から奪ってどこにやったの!まさか・・・、私から指環を奪ったのはこの男だったのね、ジークフリート、盗人!
これは人から貰ったものじゃない、冒険の記念、大蛇を倒して手に入れたのさ、反論するジークフリートと食い下がるブリュンヒルデの間にハーゲンが割って入ります。勇ましき女よ、この指環を知っているのか?グンターに与えたのか?ならばジークフリートはそれを盗んだことになる、罪は償わねばならぬ。嘘よ、恥ずかしい嘘よ!裏切られたわ!誰に?
神々よ、天上に集まってこんなことを企んでいたの?これほどの苦しみ、恥辱を私に?復讐を!怒りを!ブリュンヒルデよ、汝を裏切った男を滅ぼせと!新妻のあまりの怒りにオロオロするばかりのグンター。近寄らないで、自分も裏切られたと分からないの?私の夫はこのグンターじゃない、あの男よ!ジークフリート?グートルーネの夫?彼は私を力ずくで犯したのよ!
何てことを、この嘘つき女、ジークフリートが皆の前に進み出て反撃します。僕とグンターは血で契った義兄弟だ、どうして彼を裏切る?ノートゥングが証人だ、この剣が僕とその女を隔てていた!大した大嘘を、剣を引き合いに?その剣なら私もよく知っている、忠実なノートゥングは己の主人が私を陵辱する間も鞘に収まっていたわ!
勇者はグンターの名誉を汚したのか?ざわつく家臣たち、グンターとグートルーネがジークフリートに迫ります、何とか言えよ!身の証しを立てて!そうとも、潔白であるならそれを証明せよ!正しいのなら誓いをたてよ!
誓うとも、誰か誓いの担保を!俺の槍を、ジークフリートの目の前に槍の穂先を突き出すハーゲン、誓おう、この切っ先が名誉を守る!
ジークフリートの指が槍の穂先に触れます。聖なる刃よ、僕の誓いに力を!僕は誓う、僕を切れ、僕を殺せ、あの女の言葉が誠であるのなら、僕が義兄弟を裏切ったのなら!
その槍をブリュンヒルデがひったくります。聖なる刃よ、私の誓いに力を!私は誓う、あの男を倒せ、あの男を切れ、たった今偽りの誓いを立てたあの男を!
ブリュンヒルデの振る舞いに一同唖然、雷神よ、ドンナーよ!嵐をもて恥辱を黙らせよ!グンター、君の妻を黙らせろ、ジークフリートがやけに饒舌に語ります。この女を何とかしろ、まるで魔物が憑いたみたいだ。家臣たちよ、ひとまず下がろう、イカレタ女の言うことは放っておけ。おい、グンター、女一人手懐けられないのか?隠れ頭巾から半分見えていたのかな?女の恨みはすぐに収まる、何しろ、いい女だろ?僕に感謝しろ。さて、皆の衆、元気を出せ、宴だ、今日は楽しもう、愛の喜びに浸る幸せ者は僕を見習うがいい!
一同が去った広間、残されたのはとんだ婚礼を迎えてしまったブリュンヒルデとグンター、そしてハーゲン。何かが潜んでいるわ、魔物の策略を感じる、でも私は知恵を失った、謎が解けない、何も分からない。私の知恵はあの男に・・・、あんな男の言いなりになるなんて、私は彼の獲物、いましめを切る剣は?立ち尽くすブリュンヒルデにハーゲンが近寄ります、お前を裏切った男に俺が復讐しよう。誰に?ジークフリートに?お前が?はっ、あの稲妻のような眼差しだけでお前は怖気づくわ!だが、あの男は俺の槍に誓ったのでは?誓い?そんなものが何になるの、あの男の強さを知らないの?確かにジークフリートは無敵だろう、だが知恵があれば・・・。何て恩知らず、あの男を無敵にしたのは、不死身にしたのは私なのよ!でも・・・、背中、彼は敵に背中を向けない、だから背中から撃てば・・・。俺の槍が撃つ!
義兄弟に妻を寝取られるなんて、何という不名誉、惨めな僕・・・、うなだれるグンターにブリュンヒルデが追い討ち。卑怯者、勇者の後ろに隠れておいて褒美だけは貰おうと?名門ギービヒも落ちぶれたもんだわ!うっ・・・、確かに僕はインチキをした、でも裏切られた、骨の髄まで!ハーゲン、僕はどうしたら?お前の不名誉を晴らすのはジークフリートの死!死・・・、それだけだ!でも、僕らは義兄弟で・・・、何を言っているの!彼はあなたを裏切った、そしてあなたたちは皆して私を裏切った、この咎はこの世の全ての血でも償えない、彼の血だけが必要なのよ!グンターよ、ハーゲンが義弟の肩を抱きます、彼には死んで貰おう、お前のために、お前が手にするであろう力のために・・・、あの指環を手に入れるにはそれしかない。ブリュンヒルデの指環?ニーベルングの指環!アルベリヒの息子がたたみかけます、彼の死は我ら皆にとって幸いなのだ。でも、妹は、グートルーネには何と?その名に逆上するブリュンヒルデ、あの女こそ魔法の正体よ、私の夫を奪った、死ねばいい!
ハーゲンが提案します、妹には秘密にしておこう。明日、皆で狩に出かけよう、あの勇者は真っ先に飛び出すだろう、そこを・・・。ジークフリートは倒れよ!恥辱の償いを!誓いを破った男には血で償ってもらおう!
ニーベルングの財宝は俺のものだ、指環を奪わねばならぬ、アルベリヒ、我が父、堕ちた王よ、闇の守護者よ、ニーベルングの王よ、聞こえるか?この言葉が・・・、ニーベルングの民よ、指環の主に従え!
夢魔と成り果てても指環にしがみつくアルベリヒ、その執念ゆえに愛なくしてこの世に生を受けたハーゲン、愛を捨てた父はともかく、ハーゲンはその出生のいかがわしさと父親譲りの容貌で、母グリームヒルトからも愛されることはなかったでしょう。その息子の脳にサブリミナルというか、洗脳というか、ひたすら憎悪を植えつけるアルベリヒ。しかし、ハーゲンは父との会話を「指環は俺自身が持つべきもの」「俺自身に誓うのだ」という言葉で締めくくります。眠りから目覚めへ、ハーゲンは指環の与える力を我が物にするという欲望を自覚します。そのためならば彼は父さえ裏切るでしょう。だから彼は父にではなく己に誓った、アルベリヒの息子は、既にヴォータンの契約の槍が砕けてしまった世界にあって、契約の虚しさを知るがゆえに誰でもなく己にしか誓わず、しかし、いえ、だからこそ、他人を契約の鎖で縛ることの有効性を知り尽くし、その二重性を己の欲望のままに利用することに何の躊躇いもない、そんな男なのです。
そんな男が全く別の顔で颯爽と登場するのがハーゲンの「ドッキリ」に皆の衆が引っかかる場面です。冷徹な実務家(インチキの求婚を仕組むなんぞ平気)、陰険な策士(指環のためなら兄でも妹でも利用する、ましてやアカの他人の英雄くんなんぞ)、眠っている間も夢魔すら手玉に取る得体の知れない男、そんな男がギービヒ家の屋台骨を支えている家臣たちの心をガッチリと掴んでいるのです。ハーゲンの呼びかけに高らかに力強く応える猛者ども、彼らを生き生きとリードする頼もしい執政、容貌が何だ、血筋が何だ、男が惚れるのは自らの命を預けるに足る男だけ、ハーゲンはオペラ史上最も魅力的なワル、最も美しい「化け物」でもあるのです。
この幕、私たちはこの作品を左右する重大な決断を迫られます。ぶっちゃけ、あの炎に囲まれた岩山で、グンターに扮したジークフリートはブリュンヒルデを犯したのか、要はやったのか、やらなかったのか、です。
英雄ジークフリートが行きがけの駄賃とばかりに義兄弟の妻となる女を犯すなんてことがあるわけないっしょ!彼の言葉通り、あの夜、二人はノートゥングの鋭い刃を挟んでお行儀よく並んで眠った(もっとも、ブリュンヒルデは一睡もできなかったでしょうが)。この場合、記憶をなくしたジークフリートの重婚に怒り狂ったブリュンヒルデが嘘の告発をしたことになります。元戦乙女は、その持てる知恵の全てを出来の悪い夫に与えた結果、ハーゲンに良いように利用される嫉妬深くて口の軽い女になり果てた、ということになります。何も知らずに暗殺者にその身を委ねることになるジークフリートの無頓着な若さが目映い。
神々の長と大地の女神の娘が、いくら重婚を企んでいると知ったからって、今は薬のせいで記憶をなくした哀れな男を、事情も聞かずに一方的に冤罪で陥れるなんてことあるわけない!この場合、ジークフリートは義兄弟の許婚を犯しておいてしらばっくれたまま、そして今宵はその妹と・・・というとんでもない男になります。一夜の快楽のために後先考えずに女を犯し、それを詰られれば平然と嘘をつく男、ジークフリート暗殺プロジェクトが発足して当然でしょう。ブリュンヒルデはその汚され傷つけられた身体と心の正当な代償として、再び戦乙女となります。それも、ヴォータンの使い走りではなく、彼女自身の物語を完結させるために必要な、ただ一人の死者を求める愛の絶対者として。
それから、忘れちゃいけないのがグートルーネ、この女も解釈によってがらりと印象を変えてしまいます。何が何やら分からぬまま、惚れた男と一緒になることしか考えられない幼い女なのか?新郎の嘘を知った上で、婚前浮気を知った上で、世間が英雄と讃える男を手に入れるしたたかな女なのか?
で、どーでもいいというのか、悲嘆のどん底にありながらなぜか緊張感のないグンター、義兄弟、妹の夫を殺す・・・、彼が血の報復を求める理由、それは自分が裏切られたからではない、他人に指摘されるまで怒ることすらしなかった男です。彼は復讐によって得られるであろう新妻との一体感が欲しい、ギービヒ家を支えている異母兄弟には逆らえない、寝取られ男でありながら、ヒットマンの役目をいつの間にかハーゲンに取られてしまって、それが気にもならない程度の殺意しか持ち合わせていないのです。何ともひ弱で馬鹿馬鹿しくて、しかし、愛らしい男であることか。
全てを仕組んだのはハーゲンです。全てを受けて立たねばならないのは、英雄ジークフリート・・・のはずですが・・・。「ブリュンヒルデはお前のものに?」「グートルーネは起きているかな?」、「あの勇ましい女はあなたに屈したの?」「グンターの力にさ」、「ブリュンヒルデの夫はあなたでしょ?」「僕はグートルーネの元にいたさ」、あらゆる質問をはぐらかした挙げ句、肝心の指環の盗難疑惑、「私から指環を奪ったのね!」「これは戦いの報酬だ」、正しいけど答えになってませんし、誰もそんなこと聞いてません。そして、「女の恨みはすぐに収まる」・・・、はっはっ、何を知ったかぶりして。女の恨みくらい長持ちするもん、この世にはありません。無知ではあっても純粋であった男は、無惨なことに、真理に無知でありながら嘘が得意な男になり果てました。やたら陽気に婚礼の祝いを強調するジークフリート、得てして、嘘をついている人間の言動は大げさになるものです。
ジークフリートは愛の代償に差し出した指環を、愛を代償とせずに取り返しました。こんな屈辱に指環が黙っているはずもなく・・・。
さて、昨夜、あの岩山の上で何があったのか?あるいはなかったのか?これは「悪魔の証明」ってやつですね。「あること」を証明するには「ある」証拠を提示すれば事足ります。しかし、「ないこと」を証明しようとすれば、「ない」とは「ある」証拠がない状態なのですから、証拠を提示することができません。そもそも最初からジークフリートには「やってない」を証明する手立てがない。それ以上きつい状況、彼の「やってない」はどう転んだって嘘なのです。昨夜の岩山では何もなかったとしても、彼は現実にブリュンヒルデの夫であり、それを今のところ忘れているからといって、新しい妻の代償として義兄弟に献上されるブリュンヒルデにとっても、使用済みの妻を勿体ぶって押し付けられるグンターにとっても、事実関係が前後するだけ、事件の本質は何も変わりません。
このどん詰まりの袋小路から湧き上がる三重唱、歌っているのは裏切られた義兄弟と元妻、そして、その裏切りに乗じて己の野望の達成を目論む陰のプロデューサーの執政。当のご本人は婚礼の宴に大はしゃぎ・・・、さすがはヴォータンの思惑を裏切った孫、祖父が愛娘を通じて与えたはずの知恵は欠片もありません。
さて、不本意か本意か、昨夜の唯一の証人にされてしまったノートゥング、剣に口なし?確かに口はありませんが、この宿命の剣は証言します、言葉ではなく沈黙によって・・・。
第三幕 そして、すべてが振り出しに戻る
ラインの水辺、3人の水の乙女たちが輪になって歌います。黄金が去って川底は闇、ラインの黄金、川底の星!勇者が返してくれるなら再び輝く自由な星!聞こえる?角笛・・・、勇者が来るわ。
熊を追っていたら迷ってしまった、獲物はどこだ?狩りの身支度でジークフリート登場。ジークフリート!何を怒っているの?妖精にからかわれたの?熊を隠したのがお前たちなら喜んで譲るぞ、それとも何か欲しいものが?黄金の指環、その手の指環が欲しいの。これは大蛇を倒して手に入れたもの、熊と交換なんてできるか!ケチね、女には気前良くするものよ。お前たちに気前良くしたら女房が怒る、あら、悪い奥さんだこと!笑えばいいさ、指輪はやらない!男前で強くて頼もしいのにケチだなんて、残念ね・・・笑いながら水中に消える乙女たち。
あーあ、勿体無いことしたなぁ、もう一回現れたら指輪をやってもいいな、おーい、水の精、来いよ、指輪をやるから!再び浮かび上がった乙女たち、その顔に笑いはありません。指環はお持ちなさい、大事にしなさい、災いを被るまで。何だって?ジークフリート!不幸が訪れる、その指環はある男がラインの黄金から作ったの、そして呪った、持ち主に死を与えよと。大蛇のようにあなたも殺されるわ、それも今日!だから指環をラインに沈めるのよ!何を訳の分からないことを、脅したって無駄さ!これは真実よ、ノルンがあなたの未来に織り込んだ運命よ!僕はこのノートゥングで槍を砕いた、ノルンの綱も切ってやる。この指環は僕に世界をくれると言うんだ、愛をくれるなら世界なんていらない、お前たちにくれてやる。でも僕を脅すなら渡すもんか!僕は命知らずの勇者なんだ!
自分は賢くて強いと思っているのね、何も見えていないくせに。誓いを立てて誓いを守らず、教えを受けて教えを読めず、この世の宝を手にしながらそれを捨てた、死をもたらす指環だけを持っている。さようなら、ジークフリート、誇り高き女が今日あなたの遺産を継ぐわ、だから彼女に頼むわ、泳ぎ去る乙女たちを見送るジークフリート。陸でも水でも女ってのは・・・、でも可愛かったな、僕が独身だったら一人くらいお近づきになって・・・。
ホイホー、ハーゲンとグンター、家臣たちが登場、やっと見つけたぞ、勇者殿、さぁ、ここで昼食にしよう、酒の入った皮袋と杯を取り出して一同腰を下ろします。ジークフリート、獲物は?ゼロ、ゼロ?見つけたのは水鳥ばかり、鳥たちは歌っていた、僕が今日殺されるって。思わず顔を見合わせるハーゲンとグンター。喉が渇いた!ジークフリートが杯に手を伸ばします。鳥の歌が分かるのか?ハーゲンの問い、昔はね、飲めよ、グンター、義兄弟の杯をとれ!ジークフリート、お前の酒は薄いぞ、じゃ、お前のと混ぜよう、おっと、溢れた、これは母なる大地に捧げる御神酒としよう。ハーゲン、今日のグンターって暗くないか?あの凄まじい新妻を持て余しているとか?鳥の歌を分かるようにはいかないさ。グンターよ、僕の思い出話でも聞くか?
一同がジークフリートを囲みます。ミーメって小人が僕を育てた、大きくなったら大蛇を退治させて財宝を得るために。小人は鍛冶屋仕事を教えてくれた、僕は師匠を差し置いて父の形見の砕けた剣の欠片を鍛えた、ノートゥング。ある日ミーメは僕を森に連れ出して、僕はそこで大蛇を殺した。大蛇の血を舐めると鳥の話が分かるようになって、そう、鳥たちが歌っていたんだ、ジークフリートはニーベルングの財宝を見つける、隠れ頭巾と指環、指環は彼を世界の王にするって。それから、ミーメは腹黒い、奴を信用するなって。ミーメは毒入りのスープを差し出したんで僕はノートゥングで小人を殺した、それから・・・。まぁ、俺の酒も飲んでくれ、ハーゲンがジークフリートに杯を渡します。その杯を満たすのは例の忘却惚れ薬の解毒剤、飲め、過去を忘れないために飲むがいい!
鳥が歌っていた・・・、素晴らしい女、岩山の上で炎に囲まれて眠っている、炎を超えれば彼女は僕の花嫁・・・、僕は出かけて行って、岩山を登って、炎を超えて・・・、輝く甲冑、兜を脱がせるとそれは美しい乙女で、僕は・・・彼女に接吻を・・・、ブリュンヒルデ!
不意に二羽の鳥が茂みから飛び立ちます、それを見上げるジークフリート、分かったか?今の耳打ちも分かったか?復讐しろと俺に告げたのさ!背後からハーゲンの槍がジークフリートの背中を貫きます。ハーゲン、何ということを!騒然とする一同、誓いを破った男に復讐したまでよ!ハーゲンは悠然と立ち去ります。
ブリュンヒルデ・・・、聖なる花嫁!起きて、目を開いて、君を眠らせたのは誰?オイラの接吻で君は目覚める、そして君はオイラに笑って・・・、ゆっくりと息が漏れて、甘い香り、オイラ、気が遠くなって・・・、ブリュンヒルデがオイラに挨拶してくれて・・・。
動かなくなった勇者、夕闇の中、家臣たちが掲げる盾の上に横たわるジークフリートの骸は、ゆっくりと立ち去ります。
角笛?お帰りに?いえ、まだね、夫の帰りを待つグートルーネ。嫌な夢を見たわ、彼の馬が嘶いて、ブリュンヒルデが笑っていた・・・。私、ブリュンヒルデが怖いわ、館にいるのかしら?起きているの?そっと扉を押すグートルーネ、いないわ・・・、ラインに向かって歩いていたのは彼女だったの?どうしてここには誰もいないの!会いたい、ジークフリート!
ホイホー、起きろ、松明を燃やせ!獲物だ!ハーゲンが登場、グートルーネ、勇者のご帰還だ!ハーゲン、何ごとが?ジークフリートの角笛はどうして聞こえないの?死人は角笛を吹かない、狩も戦もしない、美女を口説くこともない。あれは何?家臣たちは何を運んできたの?盾が静かに床に下ろされます。ジークフリートは猪の牙にかかった、そのまま気絶するグートルーネ、グンターが駆け寄って支えます。
ジークフリートが殺された!お兄様、あなたなのね!皆してジークフリートを殺したのね!僕じゃない、ハーゲンこそが猪だ、奴が勇者を・・・。はっ、それで俺を恨んでいるとでも?その通り俺が殺した、奴が偽りの誓いを立てたこの槍で俺が殺した、さぁ、指環を頂こうか。誰がお前なんかに、指環は妻であった妹のものだ、恥知らずの小人の倅が!ははん、グンター、小人のアルベリヒの息子が正当な遺産を要求するのだ!ハーゲンの一撃、グンターはあっけなく死んでしまいます。指環をよこせ!ジークフリートの手がすっと持ち上がります。死者が何かを伝えたがっている・・・。
皆が裏切った・・・、ジークフリートの妻が復讐します、ブリュンヒルデがゆっくりと歩きます。ブリュンヒルデ、全てあなたのせいよ!あなたが男たちをけしかけたのよ!泣き喚くグートルーネを見下ろすブリュンヒルデ。
お黙り、お前が彼の妻だったことなどないわ。彼の妻は私、永遠に誓った夫婦なのよ。だって、ハーゲンが・・・、あの薬を・・・、やっと分かったわ、ブリュンヒルデこそ彼が忘れてしまった最愛の妻だったのね!
ブリュンヒルデが家臣たちに命じます。薪を積みなさい、ラインの岸高く、炎が明るく燃え上がるように、勇者の気高い肉体を焼き尽くすに相応しいように。そしてグラニを曳いてきて、私と一緒に彼の後を追うために、さぁ、ブリュンヒルデの言葉に従いなさい!
最も純粋だった男が私を裏切った、友のために妻を欺いた、かけがえのない女との間に剣を横たえた、彼ほど誠実に誓いを守った男はいない、彼ほど穢れなく愛した男もいない。全ての誓いが裏切られた・・・何故か知りたい?神々よ!見るがいい!私の苦悩を、これこそあなた方の永遠の罪。神々よ!聞くがいい!彼の武勲を、これこそあなた方の希望。あなた方はそれを愚かな呪いの犠牲にした。彼が裏切って私は知ったわ・・・。
神々の長よ、あなたが使わした鳥の声も聞こえる、あの二羽を天上に帰らせましょう。憩いなさい、神よ、憩うのです!ブリュンヒルデはジークフリートの指から指環を抜きます。私は手にした、受け継ぐべきものを、呪われた指環を!ラインの乙女たち、これを返すわ、私を焼いた灰の中から持っておいき。私を焼く炎が指環を清めるはず、その輝く黄金を守りなさい。
行くがいい、ヴォータンの使いの鳥たちよ、主に伝えるがいい、あの岩山の上、ローゲをヴァルハラへ案内するがいい、神々の終わりが始まる、私は火をかける、ヴァルハラの壮麗な城に火をかける!
高く積み上げられた薪の山に放り投げられた松明、たちまち炎が吹き上がります。グラニ、私の愛馬!どこへ行くか知っているわね?光の中にお前の主が、私の勇者が横たわっているの。後を追うためにお前は嘶くの?燃えているわ、炎が私を捉えて離さない。彼が私を、私が彼を抱き締めて、私たちは結ばれるの、グラニ、ご主人に挨拶を!ジークフリート、あなたの妻が参ります!
グラニの背に跨ったブリュンヒルデは炎の中に飛び込みます。炎がひときわ明るく燃えさかった瞬間、ラインの水が溢れ返り、ブリュンヒルデとジークフリートの骸を飲み込みます。指環、俺の指環!ハーゲンが水に身を躍らせます。指環に触れるな!
ラインの乙女たちがハーゲンを水の底に引きずり込みます。ラインの流れはいつの間にか明るさを取り戻し、乙女たちは輪を描いて泳ぎながら指環と戯れます。焼け落ちたギービヒの館、廃墟の向こうに広がる空の上では、炎に包まれたヴァルハラ城が終焉を迎えています。
長い長い物語がとうとう終わりを迎えます、それも実に奇妙な終わりを・・・。
ジークフリートを誘惑するラインの乙女たち、『ラインの黄金』でアルベリヒを弄んだ時の無邪気な残酷さも失せて、どこか気だるい雰囲気、さしもの水の精も、年をとったのか、いや、黄金を失った嘆きを繰り返すことに倦んだのか。無知なまま狡猾さだけを身につけてしまった哀れなジークフリート、指環を返さない理由にグートルーネの吝嗇ぶりを持ち出してみたり(新婚早々でもう女房の悪口かよ)、ケチを詰られてようやく指環で女が釣れることに気づいてみたり(スケベだけど財布は開けたくないという夜の歓楽街で一番嫌われるタイプ)、指環にかけられた呪いについて考えることもせず脅しと決め付けて脊髄反射(根拠のない自信過剰は臆病よりタチが悪い)。挙句の果てに、愛をくれるなら指環なんかいらないと言ったかと思えば、快楽をくれるなら指環をやる、この物語、いつの間に愛と快楽が同義になったのでしょう?
快楽と指環を交換すると持ち出したバカ男を前にして、あれほど誘惑に長けた乙女たちがあっさりと退場。彼女たちは待ちわびた英雄の死を予言し、しかし、それを嘆くことすらしません。それどころか、あっさりと相続人ブリュンヒルデに世界の運命を託します。既にジークフリートの死は決定されています。
この愚かな男に死をもたらすことになったあの岩山の一夜、いったい何があったのか?唯一の証人であるノートゥング、この宿命の剣はあの夜、ジークフリートとブリュンヒルデをその冷たい刃で隔てていたのか?ジークフリートとグンターの義兄弟の誓いを守ったのか?ノートゥングの「証言」を聞いてみましょう。
不意に茂みから二羽の鳥が飛び立ちます。それはヴォータンが世界を見るために使わした目、その目はまるで一度は神々が世界の希望を託した英雄の最後を見ることを拒むかのように、不吉な羽音を残して空の向こうに消えていきます。その影を見送るジークフリート、汗ばんだ金色の巻き毛の下、しなやかな首が伸びて、それに連れて広い肩が青い空の一角を切り取るかのように軽やかに回転し、狩りの軽装では隠しきれない逞しい筋肉に覆われた背中がこちらを向きます、何と瑞々しく生命に満ちた光景。突然、ハーゲンの槍がその背中に突き立てられます。何物をも寄せ付けないかのように力強さを湛えていた英雄の背中、しかし、ハーゲンの槍は呆気なく突き通ってしまいます。盾を振りかぶってハーゲンの頭蓋骨を打ち砕こうとするジークフリート、しかし、彼の身体から急速に命がこぼれ落ち、盾もろとも音を立てて地面に崩れ落ちる神々の希望・・・、この長い長い「一瞬」の間、ノートゥングはどこにいた?何をしていた?宿命の剣はその場に居合わせることすらせず(剣があれば誰が盾などで反撃します?)、きっぱりと主を見殺しにしたのです。
ジークフリートは有罪です。
この沈黙の証人のおかげで、物語はその最後になって、捻れに捻れて収拾がつかなくなってしまうのです。
ハーゲンの英雄殺しは、動機は不純であっても理に適った正義の裁きとなってしまいます。厚かましくもその槍に己の誠実を誓った英雄、彼の剣は、その槍を前にして主の不実を恥じ入るかのように沈黙したのですから。そうなると、ハーゲンは、契約を打ち砕いた英雄が愛の証として妻に与えた指環から、その愛をこそげ落として権力の証とするために、婚姻の掟と誓いの遵守という契約を持って立ち向かうという、権力の亡者アルベリヒの息子なのか、契約の神ヴォータンの後継者なのか、よく分からなくなってしまうのです。
どうにも影の薄いグンターは、自分の代わりに不義を糾したハーゲンを激しく非難します。ジークフリートを殺したことで非難できるはずはないのですから、その非難は当然に指環の所有権争いに落ちてしまいます。ギービヒ家のご当主は、ハーゲンに煽られて裏切られるためだけに、ハーゲンの殺人に大義名分を与えるためだけに、ジークフリートとインスタント義兄弟の誓いを立てたボンクラ男なのか?それとも、誇らしげに嫁取りの成果を吹聴する義兄弟の手に指環を見た瞬間、それを我が物とすることを決意し、ハーゲンを利用してまんまと義兄弟を殺し仰せたものの、最後の最後で詰めを誤った冷徹な策略家なのか?
新婚ホヤホヤの夫の死、それを嘆く間もなくブリュンヒルデに喪主の地位も奪われて、悲嘆の余りに息絶える薄幸のグートルーネ。さて、この女、悲しみの余りに後追いで死んでしまうほど夫を愛していたでしょうか?惚れ薬を飲んだのは夫の方、彼女ではないのです。何が彼女を死ぬほど打ちのめした?自分の夫がどこかの女のお古だったから?そもそもお古だからこそ記憶を奪う必要があったわけで・・・。グートルーネを打ちのめしたもの、それは彼女がハーゲンにそそのかされるまま薬によって手に入れ、それなりに大切に思っていた「愛」が、彼女以外の誰も意に介さない「愛に良く似たもの」でしかないことを思い知ったからでしょうか?
さて、ブリュンヒルデ、物語の最後に指環の呪いを愛で浄化してラインに返す役目を担う死せる英雄の妻。しかし、彼女はジークフリート謀殺の立案者でもあるわけでして、ノートゥングの証言によれば、彼女の夫は妻を妻と知らずにレイプし、それをしらばっくれたというとんでもない男でありまして、こと彼に関しては彼女の告発は正しく受理され、正義は満たされました。で、なぜか事のいきさつを全て知っているハーゲンとグンターの前に堂々と喪主として登場し、全てを自分でお膳立てして殺した元夫の功績を讃えて「ブリュンヒルデの自己犠牲」を延々と歌うわけですが、あの・・・どこが「自己犠牲」なんでしょか?「自己弁護」あるいは「自己陶酔」なら分かるのですが・・・。夫の後を追って死ぬから「自己犠牲」ですか?しかし、ブリュンヒルデの立場からすれば、ジークフリートは後追いするに値しない男のはず。指環の呪いを愛をもって浄化するから「自己犠牲」ですか?その愛を見事に踏みにじったのは、彼女が歌うところの「彼よりも汚れなく愛した者もいない」くせに嘘つきレイプ犯だった彼女の夫なのですが。
青い空の向こう、神々もろとも炎を上げるヴァルハラはここからは見えません。ラインの水は黄金を取り戻して以前と変わらず穏やかにうねり、岸辺の森を潤して行きます。ギービヒの城は焼け落ちて、辺りの空気はまだ焦げ臭いですが、それも山から下りてくる涼しい風がすぐにぬぐい去ってくれるでしょう。
ここまで4日間、壮大な物語が今、幕を下ろし、私たちは不意に気付いてしまいます、これって物語の最初に戻っただけじゃない?結局、この4日間は何だったの?何がどうなったの?
脳の奥の方が心地良い疲労でじんわりと熱を持っています、耳の奥では、この4日間ですっかりお馴染みになったライト・モティーフの余韻が漂っています。私たちはこの幕切れに何らかの答えを求めなくてはなりません。たとえそれは得られないものと知ってはいても・・・です。
「もう何も言うまい」
4日という時間を経て、物語の舞台は最初に戻りました。父なるラインの流れの畔、何ごともなかったかのように昇る朝日、しかし、その同じ太陽が照らすかつての世界と今ある世界は全くの別世界、ラインの底から黄金が登場し、ラインの底に黄金が帰っていくまでの間に、世界はすっかり変貌しました。
ワーグナーは、この作品のラストシーンに二つの歌詞を用意しました。一つは、1852年に書かれたもの、「フォイエルバッハ的結末」と呼ばれるこのエンディングでは、ブリュンヒルデは、「私の神聖な叡智の宝を世界に与えよう。財産でも黄金でもなく、神々の栄華でもなく、城や屋敷でもなく、権力者の栄耀でもなく、曖昧な契約のまやかしの絆でもなく、虚飾にまみれた道徳が強いる苛烈な掟でもなく、喜びの時も、悲しみの時も、至福をもたらすもの、ただ愛のみを私は残していきましょう」と愛の勝利を高らかに宣言し愛する男の後を追います。
もう一つは、1856年に書かれたもの、「ショーペンハウエル的結末」と呼ばれるこのエンディングでは、ブリュンヒルデは、「欲望も迷妄もない神聖な地へ、世界の変転が目指すところへ、輪廻のくびきから救われて叡智を得た私は向かおう。全ての永遠なるものの清らかな終焉、どうして私がこれを手にしたかをご存知か、悲惨な愛のもたらしたこの上もなく深い悲しみが私の目を開いた、私は世界が終わるのを見たのです」と愛と権力が差し違える世界に、ただ傍観者としてのみ存在が許される人間、その人間の意志の否定を突き付けて自らの無意味な生を放棄します。
結局、ワーグナーはどちらの歌詞も使わず、音楽に全てを語らせることを選びました。おかげで4日かかって元の場所に戻ってしまった私たちは、こんな長ったらしい作品を作った張本人にさえ放置されてしまうハメに陥りました。あんまりだ・・・。
ブリュンヒルデは、彼女の手にある指環に何の意味も与えず、躊躇う素振りすら見せず、あっさりと水に放り投げます。明日の朝には当たり前に目覚めて挨拶を交わす家族に向かって「お休みなさい」と言うように、神々に「永遠に憩うのです」と命じます。
黄金を指環に変えた醜く孤独な男、愛の断念という計り知れない犠牲の代償である権力と富に、いつの間にか心も身体も乗っ取られてしまった男、一見孤独な独裁者によく似た、実は忘れられた奴隷が夜毎呟く誰にも聞こえない声。あるいは、世界を統べることに倦んでしまったかのように、自分で割った自分の世界のひび割れを契約で塗り固めることで塞ごうと愚行を重ねた挙げ句に、そもそも嘘で築いた壮麗なヴァルハラ城の真ん中に座ったまま、恍惚と己を飲み込む炎を見つめる神々の長、その黒い頭巾の奥で蒼く光る片目。
そのどちらもブリュンヒルデは顧みることすらしません。世界は生まれ変わり、饐えた臭気を発する空気を吐き出して、新しい命と新しい空気でその胸を満たすことを求めており、その脈動を全身で受け止めるかつての戦乙女は、新しい世界のために、古い世界の全てを、神々を、指環を、ヴェルズングの血を、壊れかけた古い世界を守る死者を運ぶために生まれた自分自身を、喜々として焼き払います。
ジークフリートはその生の最後で、ブリュンヒルデと出会った瞬間に戻って行きます。思えば彼が一番美しく輝いていた瞬間でした。彼は結局、育ての親にして母の敵であるミーメから恐れを学ぶこともできず、そうと知らないまま遭遇した世界の至高の座を占める祖父から契約を受け継ぐこともせず、見たことのない母の面影を宿すブリュンヒルデとの愛だけを無我夢中で貪り、その愛だけで満たされました。その時、愚かで美しい若者は自己を飾る言葉を持たず、必要ともしなかった、その美貌も二人きりの世界では意味もなく、その豪腕も愛する女の枕以外に使い道もなかった・・・、あの時、あの場所。
叡智を与えられ、それを使って世界を手にするべく旅立った彼は、その美貌で女を誘惑することを知り、その言葉で人を騙し裏切ることを学び、その豪腕で人を支配することを覚え、自分の言葉で誓った契約ゆえに死んでいきました。彼が英雄だったのはあの岩山の上でブリュンヒルデと過ごした長い一瞬、あるいは短い永遠の間だけだったのです。
ハーゲン、彼は死んだのか?彼が触れたのはブリュンヒルデの自己犠牲によって浄化された後の指環です。彼は父が指環にかけた死の呪いから自由です。ハーゲンはきっと生きています。そして、指環はいつの日か再び地上に現れるでしょう。世界を支配し、人々を迫害し、富を搾取し、自然を破壊する資本家の指を飾って、あるいはアルベリヒと同じように、誰かの夢の中に夢魔として登場し、その脳髄を欲望で溶かすために。その時、私たちは希望を託すべき「英雄」を持つことができるのか?
その来るべき英雄が実はハーゲンなのではないか?私はそう思うことがあるのです。「指環に触れるな!」、彼の言葉がこの長大な作品の最後の言葉です。愛なくして自分をこの世に送り出した父、愛せない子を愛する子の使用人として残してさっさとこの世を去った母、愛を取引したことで知らなくてもいいことを知ってしまって自滅した義弟、愛の本質を知らず、知る機会すら与えられず、愛に似たものを愛と思いこんで裏切られた義妹、そして、愛の上位には何も存在し得ないと命を持って主張して、彼が殺した男の後を追って炎の中に飛び込んでいったあの女・・・。指環を「知る」者、指環に「触れた」者の最後がハーゲンなのです。ハーゲンは、彼をこの世に送り出した指環とその痕跡、その記憶を、自分ごと世界から消し去ってしまいたかったのではないか?彼の父アルベリヒには手に入れたい愛があった、しかし、生まれた時から愛を知らないハーゲン、考えてみればそんな彼にとって、愛を否定して作られた指環に何の意味がある?ハーゲンは指環の申し子であるがゆえに、実はただ一人指環から自由なのです。
「指環に触れるな!」、仮に愛の形見とされていた指環が、己は無限の富をもって権力を約束する存在であるがゆえにラインの水の底に封印されていたのだと思い出した、その刹那に放たれた言葉・・・。
余りにも多くの命が失われました。ファーゾルトとファーフナー、ジークムントとジークリンデ、ミーメ、グンターとグートルーネ、そして最後にジークフリート、神々の希望を託された英雄。ラインの乙女たちの警告を無視するジークフリート、しかし、その愚かさは、人生には必ず終わりがある、人は必ず死ぬ、その誰も逃れることのできない、生きている者は誰も知らない(知った時には死んでいるわけで)恐怖に運命を決定させることは決して許さない、死に辿り着くまでの全ての時間は、最後の一瞬まで自分のものであるという、神々から解放された人間の自由意志の独立宣言でもあったのです。その結果のジークフリートの死を、ブリュンヒルデは「英雄の死」としてしっかりと抱き上げ、高く掲げます。
「彼ほど誠実に誓いを守った者はいない」「彼ほど汚れなく愛した者もいない」、人は死すべき運命を生きることを自ら選んだのです。その選択の意志こそが、神々の去った世界を生きていく全ての「英雄」のための新たな「ノートゥング」なのです。炎に包まれるジークフリートの亡骸の傍らにノートゥングはありません。宿命の剣は、今、私たちの手にあります。裏切りの証人としてではなく、運命を切り開くためのかけがえのない道具として。
私たちに残されたのはそんな世界、水の底には指環があり、でも私たちには愛があり、指環は再び封じ込められ、愛は再び解き放たれ、一見すると何一つ変わらない世界です。ヴォータンはアルベリヒの脅威がブリュンヒルデの決断によって消え去ったにも関わらず、世界から退場することを選択しました。神々の長は私たちに束の間の猶予を与えたのです。愛でも権力でも好きな方を選べばいい、しかし、その結果からは誰も逃れられない、それが世界を覆い尽くす炎であっても・・・。
来るべき世界にヴォータンは存在してはならないのです。ジークフリートは指環ゆえではなく、神の定めた運命ゆえではなく、自己の意志の結果ゆえに死んだのですから。彼の妻であり、指環の相続人であり、神々の長の娘であったブリュンヒルデは、その死を良しとしたのですから。ジークフリートの死とその結果のヴォータンの退場は、あらかじめ決められた運命など持たない、どこまでも自由でしかない人間、その人間が自分の力で、自分の力だけで切り開いていく、神々も手を触れたことのない未知の世界、自由意志によって無限の可能性を持つ、何もない、だからこそ全てがある世界、そんな途方もない贈り物を後に残していったのです。
「もう何も言うまい」、ワーグナーはそう記して、この長大な作品の最後を締め括りました。運命は目の前にある、決して後ろにはない。
さて、録音です。愛と死によって世界を暗転させるブリュンヒルデ、ビルギット・ニルソン(1955年バイエルン州立歌劇場のクナッパーツブッシュ盤、1960年バイロイト祝祭劇場のケンペ盤)、強靱でありながらどこまでも透明な声はラインの清らかな流れのよう、全てを愛で浄化する聖女のようでもあり、生きている父も死んだ夫も一切合切を焼き尽くす魔女のようでもあり、物語に対する深い洞察と言葉に対する思い入れが感じられて、一番説得力がある歌唱だと思います。
最もおぞましく最も美しい悪、ハーゲン、1989年METのレヴァイン盤のサルミネンは凄まじい声量を駆使した堂々たるワル、1991年バイエルン放送のハイティンク盤のトムリンソンは拗くれた哀しみを纏った繊細なワル。
あと、1979年バイロイト祝祭劇場のブーレーズ盤なんですが、シェローの演出が愚直にして大胆、物語の背骨をガツンと感じさせるスグレモノです。
2002、2003年のシュトゥットガルト州立劇場の映像、歌手も棒もオケも「ん?」なのですが、コンヴィチュニーの演出が衝撃的。音と言葉と動作を緻密に織り上げた計算高さ、「奇をてらった」の一言で片付けるのは惜しい秀逸さ。
「リング」全曲セットとなるとお値段張りますし、好きな歌手よりも好きな指揮者で選ばないと長丁場ですから続かないような気がします。私はショルティ盤(1964年ウィーンフィル)のとろみのある優美さが好きです。
真面目に聴き込もうと思えば一生かかりそうな作品です。いきなりセットにかぶりつくよりも、好きになれそうな作品から順不同で聞き始めるのが良いと思いますよ。どうしたって全部聞かなきゃいかん、なんてことないんですから(痛っ、ワグネリアンから石が飛んできました)。
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