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フンパーディンク 「ヘンデルとグレーテル」 (2008年11月11日〜2008年12月28日の日記より)
行く道、帰る道
交差点で毎日のように出会う音の鳴る信号機、最近は「ピヨピヨ」とか「カッコウ、カッコウ」とかが多いですが、少し前までよく耳にしたのは「とおりゃんせ」でした。あれに当たるとどうしても頭の中で「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ」って歌ってしまうのですが、最後まで行くほど待ち時間の長い信号はないわけで、必ず途中で信号が点滅を始め、「ピーパーピーパー」に変わってしまいます。あの中途半端なぶった切りが妙に癇に障ったものです。しかし、最後まで通しで聞かせるような信号があったらあったで、私は絶対に切れますが。
あの「とおりゃんせ」、物悲しい旋律、そして、どこか不安な歌詞、印象的な歌です。
とおりゃんせ、とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ 御用のない者通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
歌の背景にあるのは「七つ子祝い」の風習です。古来、日本では、七歳までの子どもは「神の子」とされてきました(「七つ前は神様」)。乳幼児の死亡率が高かった昔のこと、七歳までの子どもは神様の庇護の下にあり、何をしても罰は当たらない、その代わり、死んでも大人のような葬式は出さない。七歳以下の子どもは共同体の一員ではなく、神様からの預かり物、そんな時代が長くありました。無事に七歳を迎えた子どもは、生まれた時にお参りしてお札を頂いた神社にお札を返しに参ることで、共同体の仲間入りを果たします。それは同時に神様の庇護を離れたということでもあります。ここから先は自分の力で生きていかなければなりません。(まだお札を持っているから)行きはよいよい、(もうお札を持っていないから)帰りはこわい、天神様への細い道(細いということは通れなかった子どももたくさんいたということでしょう)の往復の間に子どもは神様から自立しなければならなかった、歩いて行き来のできるほどの距離でありながら、子どもはその道の行きと帰りでは別人になってしまうのですね。
七歳までは何をしても罰は当たらない、そうでないと、幼いうちに死んでしまったなら、叱ってばかりだった親には後悔だけが残ります。死んでも大人のような葬式は出さない、死んだんじゃない、神様のところから親のところに降りてこなかっただけなんだ。今日、甘やかし放題に甘やかされたクソガキめらを見れば、「いっぺん軽く締めたろか」と思うこともしばしばありますが、幼い我が子に先立たれた親の嘆きを思えば、優しい風習かとも思います。
さて、ヨーロッパにも、幼い子どもが行く道と帰る道を描いた古い伝承があります。グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」。
どこかの大きな森の入口に、貧乏な木こりがおかみさんと二人の子供と暮らしておりました。兄はヘンゼル、妹はグレーテルといいました。ただでさえ喰うのが精一杯の一家、ある年、国中が飢饉に見舞われて、日々のパンすら口に入らなくなりました。ある夜、木こりは溜息をついて言いました、「かわいそうに、どうしたら、子どもたちを養ってやれるだろ」。おかみさんは答えました、「明日の朝、子供たちを森の一番木の茂っているところまで連れだしましょう。火をおこして一つずつパンをあてがって、置いてきぼりにして、厄介払いができるわ」「わしはごめんだ。子どもら、すぐに獣に引き裂かれてしまう」「そんなこと言ってたら四人とも飢え死にしなきゃならない」。
空腹で眠れないでいた二人の子供は継母がお父さんに言う言葉を聞いていました。グレーテルが泣き出すとヘンゼルは言いました、「心配しないで、僕がきっとどうにかしてみせる」。ヘンゼルはそっと表に出ると家の前の白い砂利をポケット一杯に詰め込みました。
夜が明けて、一家四人は森に出かけました。ヘンゼルはその道にポケットの砂利を落として歩きました。
森の真ん中、「子供たち、火の側で休んでおいで。私たち、木を切りに行くからね」、兄妹は焚き火に当たり、お昼には小さなパンを食べました。やがて二人して眠り込んでしまい、目が覚めるとすっかり夜、泣き出したグレーテルをヘンゼルが励まします。やがて満月が昇りました。兄は小さい妹の手をとって例の砂利を辿って夜明けに小屋に帰り着きました。おかみさんは戸を開けて、「この餓鬼めら、もう家に帰るのがイヤになったと思ったよ」、お父さんは置いてきぼりにしたのが気になって仕方なかったので喜びました。
それからあまり経たない夜、「いよいよ何もかも食べ尽くして残ったのはパンが半切れ、子どもらを追い出しちまわなきゃだめよ。今度は森のもっと奥へ連れ込んでやりましょ。そうでもしなきゃ私たち助かりっこないわ」、木こりは自分が最後に頬張るやつを子どもたちに分けてやる方がいいと考えましたが、おかみさんは引きません。
ヘンゼルはまた起き出して砂利を拾うつもりだったのですが、戸に錠が下りていて外に出られません。ヘンゼルはそれでも妹を慰めました、「安心してお休み、神様が助けて下さるから」。
翌朝、再び森へ行く道で、ヘンゼルはお昼のためのパンを砕いては道に蒔きました。
森のもっともっと奥、「子どもたち、ジッとしているんだよ」、お昼にはグレーテルのパンを二人で分け合って食べました。やがて眠り込んでしまった二人が目を覚ませば夜、「グレーテル、お月が出れば蒔いたパンくずが見える、家へ帰る道を教えてくれるのさ」、ところがパンくずはどこにもありません。鳥たちが食べてしまったのです。
家を出てから三日目の朝、雪のように白い鳥が面白おかしく囀るもので、二人がその後をついていくと、小さな家が見えました。その壁はパンで、屋根は卵のお菓子で、窓は砂糖でした。二人が夢中で小屋を齧っていると、その戸が開いて婆さんが現れました。「良い子だ、おばあさんのところにおいで」、家の中には、牛乳や砂糖のかかった卵のお菓子やりんごや胡桃、美味しそうなものが並んでいます。ヘンゼルとグレーテルは天国にいるのかと思いました。
この婆さん、実は魔女、子供たちをお菓子の家でおびき寄せたのは、殺して、ぐつぐつ煮て、食べるためでした。翌朝、婆さんはヘンゼルを犬小屋に放り込み、グレーテルに命じました、「兄ちゃんに何か美味そうなものを拵えてやんなよ、脂が乗ったらおばあさんが食べちまうのさ」。ヘンゼルには上等な料理が、でも、グレーテルの食事はザリガニの皮。婆さんは毎朝ヘンゼルの指を見ては「そろそろ脂が乗っただろう」、ヘンゼルは食べ残しの細い骨を差し出しますが、婆さんは目が霞んで見分けがつきません。辛抱しきれなくなった婆さんは、「グレーテル!水を汲んできな、太っていようが痩せていようが、明日はぶち殺して煮てくれるわ」
翌朝、グレーテルは大鍋をつるして火をつけなければなりませんでした。「パン焼きを先にしよう」、婆さんはグレーテルを竈に突き飛ばしました。「火がうまく回っているか見ておいで」、婆さんはグレーテルを竈で丸焼きにしてしまうつもりだったのです。それを察したグレーテル、「どうやって中へ入るの?」「ばか、ガチョウ!見てみなよ」。グレーテルは婆さんをどんと突いて閂を差しました。こうして魔女は罰が当たって焼け爛れて死にました。
「ヘンゼル、お兄ちゃん、助かったのよ!」、二人は抱き合ってぐるぐる跳ねては接吻し合いました。二人が魔女の家に入ると、真珠や宝石が詰まった長持ちがたくさん、ヘンゼルはポケットにぎゅうぎゅう押し込むと、グレーテルは前掛けを一杯にしました。「さぁ、もう行こう、魔女の森から出るとしよう」
やがて二人は大きな川へ、「橋どころか丸木橋一つ見えやしない」。グレーテルが白い鴨に声をかけました、「鴨ちゃん、鴨ちゃん、ここにいるのはグレーテルとヘンゼル、橋がないので渡れません、乗せて、乗せて、お前の白い背中へ」。鴨は早速来てくれました。ヘンゼルが乗って妹に一緒にお乗りと言いますが、妹は、鴨ちゃん、重いでしょう、別々に連れて行って貰うわ。親切な鴨はその通りにしてくれました。
やがて森が馴染みの景色になり、遠くにお父さんの家が見えました。二人はどんどん駆け出して、お父さんの首ったまへかじりつきました。木こりは子供たちを森に置いてきてから楽しい時は一刻もなく、おかみさんは死んでしまったのでした。グレーテルは前掛けから、ヘンゼルはポケットから、たくさんの真珠と宝石を掴み出しました。
こうして苦労という苦労はすっかりおしまいになって、三人はうれしいことばかりで一緒に暮らしました。
数あるグリム童話の中でも、この作品の捉えどころのなさは際立っています。「子捨て」の話です、更に深読みすれば「子殺し」の話です、もっと深読みすれば「カニバリズム」の話です。おとぎ話にはこの手の現代の視点から見れば残虐なものは数多くありますが、この作品、その血生臭さが妙にリアルなのです。
木こり一家は、「夫と妻」と「兄と妹」の構図です。「父と息子」、「母と娘」等々の親子の組み合わせのシーンは一切なし、「大人」対「子ども」という構図で一貫しています。一家四人してもう生き延びる方法がないという状況で、「大人」は「子ども」を厄介払いすることを選択します。ヘンゼルとグレーテル、どちらか一人じゃなくて二人一緒に。夫婦の子捨ては二回行われます。つまり、一回目から二回目の間、一家四人は何とか生き延びられたわけで、子どもを二人とも捨てなければならないほど切羽詰ってはいなかったことになりますが、それにも関わらず二回目の子捨てが実行される、子どもたちの死は決定事項なのです。
両親が自分たちを森の奥に捨てようとしている、それを聞いたヘンゼルの行動は実に奇妙です。小石を拾ってポケットに入れる、それで「もう安心だ」。ヘンゼルにとって「安心」とは、自分と妹を捨てようとする両親の家に「帰ってくる」ことなのです。普通ならば家とは反対方向に逃げるでしょうに。そして、最後、ちゃんと帰ってくるのです。二人は宝石をたくさん持っています、だから、どこへだって好きな所に行けるにも関わらず、二度も自分たち兄妹を捨てた親の家に当たり前のように帰ってくるのです。
1回目、ヘンゼルが道に落としたのは砂利です。家の前にいくらでもある全く無価値の砂利です。2回目、ヘンゼルはパンを道に落とします。このパンが足りないからこそ自分たちは親に捨てられるわけで、木こり一家にとってパンとは何よりも貴重なものです。ヘンゼルはその一番貴重なものを捨てて歩いた、その貴重品であるパンが無価値の砂利より役に立たない。
ヘンゼルは犬小屋でご馳走を、グレーテルはこき使われてザリガニの皮、兄妹はおそらく生まれて初めて別々の生活を強いられます。そして、それによってグレーテルは急速に成長(一家の主婦として甲斐甲斐しく働く)し、ヘンゼルは急速に退行(食っちゃ寝状態)します。魔女はヘンゼルに脂を乗らせて食うという計画において、グレーテルを「共犯者」と見なしています。
グレーテルは、魔女にこき使われて成長します。泣いてばかりいた少女は「泣いても何にもならない」ということを学び、魔女の命令通りに行動しながらその裏をかくという知恵も身につけます、彼女は「騙す」ということを覚えるのです。魔女を竈に放り込み、行く手を阻む川を渡り、我が家への帰り道、兄をリードして歩くのは妹の方なのです。
この物語、終わりそうで終わらない。兄妹が魔女を退治しても終わらず、魔女の家でお宝を手に入れても終わりません。彼ら二人の目的が「家に帰ること」だからです。知恵と機転で魔女を退治し宝石を手に入れた、既に十分成長した二人、貧しい木こりの家など忘れて、二人で華やかな都を目指せば良いものを、なぜ帰るのか、あの自分たちを捨てた親の家に・・・。
「おかみさんは死んでしまったのでした」、いくら継母とは言え何と言う素っ気なさ、しかも、継母が死んだことを二人に伝えるのは父親ではなく物語の語り部なのです。
継母=魔女であることは容易に想像できます。そして、グレーテルが魔女の系譜を受け継ぐことも・・・。泣いてばかりいた少女は、魔女によって一人前の女に鍛え上げられ、その魔女をたった一人で(魔女退治に関して兄は何もしていません)やっつけて、自らが次の魔女となる資格を手にしたのです。大きな川が行く手を阻む場面、途方にくれているのは兄の方、妹は鴨と会話ができる、その上、兄の方を先に向こう岸に渡して、自分はその後に続きます。堂々たるヒロインぶりです。
木こりの家にはもう「継母=魔女」はいません。なぜならその後を継ぐべく新しい魔女が帰ってきたからです。木こりの父が何だかんだ言いつつ結局おかみさんの言いなりであったように、「うれしいことばかりで一緒に暮らし」た一家三人を、彼女がしっかりと導いていくのでしょう、しかし、何処へ?
これは、「行った者」と「帰ってきた者」の物語、親から捨てられた幼い二人は、たった一晩だけ、魔女の家で「天国みたい」な思いをします。そして、次の朝、全てが転換するのです。
グレーテルには新しい運命が与えられます。彼女はもう泣かない、働くことで兄と自分を守り、たった一人で闘い、兄に手を引かれて泣きながら来た道を、兄を導きながら帰っていくのです。
ヘンゼルは現実に落ちていきます。命を救ってくれた小石より宝石の方がずっと良い、現実の富を選択することで兄はその機転を放棄し、現実を継承すべく愚鈍な父の家へ帰っていくのです。
行きはよいよい、帰りはこわい・・・、甘くて美味しいお菓子の家は子どもと大人の境界線上に一生にただ一度だけ現れる、まるで、神の子から人の子への誕生を祝うかのように、無垢から現実への転落を呪うかのように。
参考文献:「グリム童話集 1」 (金田鬼一訳 岩波文庫
第一幕 たとえ台所が空っぽでも家族が一緒の「家で」
貧しい箒職人一家の住むあばら家、兄のヘンゼルは箒を作り、妹のグレーテルは靴下を編んでいます。
グレーテルが歌います、かわいいズーゼちゃん、ガチョウが裸足で歩いてる、お靴がないの?革はあっても型がない、だから靴が作れない。ヘンゼルは溜息、砂糖もパンも買うお金がない、ベッドも売って藁布団、蚤に食われるばっかりで、あぁ、お母さん帰って来ないなぁ。ほんと、お腹空いたわね、ずっと干からびたパンばっかりだ!でも、お父さんが言うわ、「一番苦しい時に神様は手を差し伸べて下さる」って、立派な言葉だけどそれじゃお腹は膨れないよ、最後にご馳走食べたのいつだっけ?もう僕はケーキやバターロールの味なんて忘れちゃったよ。
グレーテルが箒を手にして何かを掃きだす真似をします、根性曲がりは出ておいき!ヘンゼルも一緒になって、もう我慢できないぞ!根性曲がり、出て行け!ほら、これで不平は出て行ったわ、お兄ちゃん、素敵な秘密教えて上げようか?うん!この壷の中を覗いて見て、ミルクがたっぷり入っているの、今夜はきっとミルク粥よ。ミルク粥!上澄みのクリームを舐めてみよう、ダメだったら、摘み食いなんか、お母さんが怒るわ!仕事なんてうんざりだ、グレーテル、踊ろうよ、うん、踊りましょ、歌いましょ!
あっちへ一度、こっちへ一度、ぐるっと回って、ほらっ、僕にも教えろよ、だからあんよでトントン、おててでパチパチ、ぐるっと回って・・・、出来た!簡単だ。お首をコックリコックリ、お指をチクチク、あっちへ一度、こっちへ一度。僕は悲しいことはごめんだ、楽しい方がいい!私は悲しいことはごめんよ、楽しい方がいい!ヘンゼルちゃん、こっちよ、おい、僕は小さな女の子なんかとは踊らないよ、あんなこと言って、ほら、トラララララ、私のヘンゼルちゃん。トラララララ、お嬢ちゃん、靴下に穴が開いてるよ。グルグル回って、靴下がダメになったならお母さんが編んでくれるわ。すっかり目が回り、床に倒れこむ兄妹。
こらっ!これはいったいどういうこと?ドアが開いてお母さんが現れます。歌って踊って、これが仕事?お父さんも私もこんなに苦労しているのに。グレーテル、靴下編み上がらないの?ヘンゼル、箒一つも出来ていないの?この怠け者!逃げる兄妹を追いかけているうちに、お母さんはミルクの壷を床に落として割ってしまいます。神様、何てこと・・・、ミルクで濡れたお母さんを見て思わずヘンゼルはクスリ。笑ったね!森へお行き!苺を採ってくるんだよ、ほら、グレーテル、この籠一杯にしてこないとただじゃおかないよ!兄妹は森に向かって走ります。粉々にしてしまったわ、どうしよう、神様、もう子どもたちにやるパンのかけらもミルクの一しずくもありません、私、疲れたわ・・・、神様、どうかお恵みを・・・。
おーい、母さん、福の神を連れてきたぞ!籠を背負って上機嫌なお父さんが帰ってきます。ひもじさは一番の料理人ときたもんだ、俺たちはもう何も食うものがなくって、母さん、俺の土産を見てくれよ!お母さんが目を覚まします、誰が歌っているの?俺の腹の中の獣がさ、あんた、飲んできたのね?その通り、今日は素晴らしい一日だった、一人で飲み回るなんて、何て人だろ!
まぁ、今日のご馳走を見ようじゃないか、お父さんは籠を下ろします、ご覧よ、母さん。夢かしら!ベーコンとバター、小麦粉とソーセージ、ソラマメ、玉ねぎ、それからコーヒー!たくさんのジャガイモも籠からごろごろ転がり出ます。さぁ、今日は愉快にやろう!
聞いてくれよ、領主様の森の向こうでじきに大きな祭りがあるんだってさ、で、俺は思いついた、立派な祭りにはまず辺りを掃き清めないと。「箒はいかが、箒はいかが!上等の箒、特製ブラシに熊手はいかが!」、全部売れちまったのさ。さぁ、食事の支度をしておくれ、箒屋ばんざーい!
おい、子どもたちは?それが、壷が粉々になってしまって、しょうのない悪ガキども、また悪さか。二人して怠けて悪さばかりするんで、私、カーッとなって・・・、怒ったのか?・・・壷を壊した!夫婦は思わず噴き出します。あんな壷なんぞどうでもいいが、子どもたちはどこにいる?きっとイルゼ岩よ、まさか!夜になって迷ったらどうするんだ、あそこには魔物が住んでいるんだぞ、魔物ですって?お菓子の魔女さ、真夜中には箒に乗って山を越え、谷を越え、飛び回るんだ、昼間には子どもたちをお菓子でおびき寄せ、ひっ捕まえると竈へ押し込んで、すると子どもたちはこんがり焼けたジンジャーケーキになっちまうんだ、ジンジャーケーキ!食われちまうんだよ!魔女にかい?魔女にだよ!どうしよう、神様、子どもたちをお助け下さい!
お母さんは森に向かって走ります。おい、待てよ!お父さんが酒瓶片手に後を追います。
様々なモティーフが重なり合う前奏曲で幕が上がります。ヘンゼルとグレーテルの兄妹、兄は家業を手伝って箒作り、妹は母親を手伝って靴下の繕い、二人とも健気に一家を支える労働者です。腹減った・・・の文句にも悲惨さがありません。箒を握って「根性曲がり」を掃きだす兄妹、腹が減ったから腹減ったと言うののどこが根性曲がりなの?兄妹には現実を受け入れ、しかし、戦わずして嘆くことは否定する、絶望しても、虚無には落ちない、これこそ健全なる生活者の魂です。悲しみや苦しみを掃きだすのは父と息子が作る箒、自分たちの生活に対する誇りがあります。
壷の中のミルクの甘い誘惑、兄をピシャンと諌める妹は既に小さなお母さん。クルクル回りつつ人生哲学を披露する兄妹、その哲学とは、「悲しいのはいや、楽しいのが好き」、実に単純明快です。息が切れても踊るのを止めない二人、僕は立派な男だから、私はお子様とは踊らないの、背伸び競争が楽しいです。
そして、お母さん登場、箒も作らず、靴下も繕わず、二人して回っているなんて!ネズミのように逃げ回る兄妹を追いかけているうちに、お母さんはミルクの壷を割ってしまいます。今夜の夕食が・・・、ずぶ濡れのスカートを笑う兄妹にお母さんマジ切れです。ミルクを手に入れるためにどれだけ苦労したと思っているの、子どもはそんなこと知っちゃいない、いつの時代だって、どこの国だって同じことです。森へ行って苺を採っておいで!母親は「命を育み与えてくれる森」へ子どもたちを送り出します。壷が粉々、どうしよう・・・、生活に疲れ果てた主婦の描写がリアルです。
一杯引っ掛けてご機嫌なお父さん登場。稼ぎを飲んでしまったの?何て人だろ!怒り心頭の妻の目の前に現れたのは、ベーコンやバターといった日常の食材、これがご馳走?そう、これがご馳走、日々食べる当たり前の食事が一番美味しいんです。思わず手を取り合って踊る夫婦、兄妹の踊り好きは遺伝ですね。壷が割れたの・・・、何で?私が割ったから、顔を見合わせて噴き出す夫婦、私、ここ大好きです。子どもたちが割ったなら怒らないといけないけど、お母さんが割ったなら怒らなくて済む、それが嬉しくて笑う二人、貧しくても、学がなくても、健全にして賢明な両親がここにいます。
で、子どもたちはどこだ?森よ、森だって?箒に跨って(ってことは、魔女はお父さんのお得意さんですか?)空を飛ぶ魔女が棲む森、父親は「命を獲り込んでは奪う森」を恐れます。
つい苛ついて子どもたちにきつく当たってしまったお母さんは、森へ走ります、そんな妻をなぜか酒瓶持って追いかけるお父さん、どうも女性の方がしっかりしているのが、この箒屋一家の家風のようですね。
残酷な暗喩に満ちたグリム童話とは全然違っています。箒屋一家は貧しくても楽しそう、ヘンゼルとグレーテルの兄妹も、喧嘩したり競ったり、原作に登場する兄妹に色濃く映る「ジークムントとジークリンデ」のような暗いエロスと宿命を感じさせません。お母さんは少々生真面目過ぎますが、苦労を厭わず家計をやりくりする良き母であり、お父さんは少々お調子者ではありますが、家族の生活と安全を全力で守る良き父です。兄妹は両親を無条件に信頼し、甘えていています。両親は子どもたちを無条件に愛し、案じています。生きること即ち共食いさえ辞さない戦いであった中世は既に遙か彼方へ。
この第一幕で描かれるものは、正しい市民たちの几帳面な道徳が確立している19世紀の、ある一家のありふれた日常の記録です。悲しみや怒りも、貧しさや気苦労も、空腹や諍いも、笑って振り返る日が必ずやって来ると分かっている人間だけが持つことのできる日常への揺るぎない信頼が、非日常への扉を開ける展開、作曲家はそんな現実と架空の間を、ドイツの民謡をモティーフに用いて確実に繋いでいきます。
第二幕 現から夢へ 「森の中」
森の奥深く、恐ろしげなイルゼ岩の下、夕暮れ時、グレーテルは花冠を編んながら歌います、小人さんがジッとたってるの、赤い外套で一人で立ってるの、一本足で立ってるの、黒い帽子で立ってるの、小人さんはだぁれ?
やった!ヘンゼルが籠を振り回します、苺でいっぱい、お母さんに褒めてもらえる!私の花冠もできたわ!兄の頭に花冠を載せようとする妹、よせよ、僕は男だってば!お前にこうやって、グレーテル、お前、まるで森の女王様みたいだ、女王様に花束は?さぁ、女王様、この花束をお取り下さい、それから、籠一杯の苺も捧げましょう。
カッコウが鳴いてる、カッコウ、カッコウ、卵をパクリ、苺をパクリ、カッコウ、パクリ、カッコウ、パクリ。二人してお互いの口に苺を放り込んでいるうちに、籠は空っぽに。どうしよう、全部食べちゃったのね、お前だって食べたじゃないか、お母さんに怒られるわ、急いで新しいの探しましょう、でももう暗くなってきた・・・。木が囁いている、子どもたち、怖くないのかって、グレーテル、僕、道が分からなくなっちゃった。あぁ、ヘンゼル、どうしましょう、あそこで何か光っている、あれは白樺さ、あそこで何かが睨んでいる、あれは柳の根っこさ、光るものがやってくる、あれは鬼火さ。
グレーテル、元気出して、僕が大声で確かめてやるからね、そこにいるのは誰だ!木霊が答えます、彼だ、彼だ、彼だ・・・。聴こえたわ、小さな声で「いるよ」って、お兄ちゃん、怖い、お家に帰りたい!グレーテル、僕から離れるなよ。誰か来るわ・・・、お父さん、お母さん!ほら、ご覧よ、小人だよ!小人なの・・・。
眠りの精が兄妹の目に砂を振りかけて歌います、私は小さな眠りの精、可愛い子どもたち、この袋から砂が二粒だけお前たちのおめめに入るよ、お前たちの瞼は自然と閉じて、お前たちは眠るんだよ、お星様が守って下さって、天使たちが夢を運んでくるよ、お眠り、お前たち、お眠り・・・。
眠いわ、眠る前にお祈りしなきゃ。兄妹は跪いてお休みのお祈りを唱えます。
・・・私が眠ると14人の天使が現れます、二人は頭に、二人は足に、二人は右に、二人は左に、二人は私を眠らせて、二人は私の目を覚まし、そして、二人は私を天国へ導いて下さいます・・・、木の根元に腰を下ろして、互いの腕と腕を絡ませて、二人は眠ってしまいます。辺りはすっかり闇。
空から柔らかな光が降り注ぎ、14人の天使が現れます。二人ずつ手を繋いで、兄妹の周りを取り囲み、音もなく、しかし、伸びやかに、光の中で踊ります。
「ふたりは、脚がもうからだのつっかい棒にならないくらいくたびれきっていましたから、いいかげんな木の下へごろりところがって、ぐうぐうねてしまいました」(岩波文庫『グリム童話集』)、原作では僅か二行、それを延々と引っ張ってひと幕丸々、おそらく数あるオペラの中で最も意味のない幕であろうこの第二幕。
ヘンゼルとグレーテルの物語、当然、この先には魔女が出てきます、兄妹は魔女に食べられそうになり、機転を利かせて魔女を殺し、その財産を奪います。しかし、この第二幕で、オペラは、この誰もが知っている物語からすっと離れて、同じエピソードを辿りながら全く違う終着点へ向かい始めます。
グリム童話の結末はあからさまな現実そのものです。自分が生き残るために子どもたちを殺そうとして結果的に失敗した父親と、自分が生き残るために魔女の姿を借りた母親を殺してきた子どもたちは、魔女から奪った財産が当面保証してくれる日々の糧という共通の利益をお互いに享受するために、再会し抱擁し合います。結末の幸福(らしきもの)をもたらすものは、腹の足しにならない愛ではなくて現実のパンなのです。それに対して、オペラが目指す結末は、誰一人傷つけることなく、目覚めた時には既に半分消えかかっているような夢なのです。
この強固な現実と脆弱な夢の間をつなぐために、作曲家はこの第二幕に敢えて意味を求めず、ただ柔らかい枕のごとき心地良さを与えることに専念したように感じられます。
箒に乗って空を飛び回る魔女の姿を映した前奏曲「魔女の騎行」からして、森に迷い込んだ子どもたちに舌なめずりする魔女の気味悪い食欲に対して、なぜか元気な行進曲風のモティーフが被り、何やらワクワクする仕上がり、そう、生活感たっぷりの第一幕(箒に靴下、こぼれたミルクと割れた壺、疲れたお母さんと一杯気分のお父さん)から始まった現実的な物語は、ここで空想の翼を大きく広げて別世界へ移行するのです。
その別世界にはグリム兄弟が描いた剥き出しの生存本能はありません。暗い森の中、古代ゲルマンの記憶の微かな名残りである妖精や鬼火を見た兄妹ですが、眠りにつく時にはちゃんと正しきキリスト教徒として守護の天使に祈ります。その祈りとは、たとえ道に迷っても信仰を失わなければ救済され天国へ導かれるという、およそ子どもらしくもない「死」が主題。しかも、そこに登場する「死」は、森の獣に食い散らかされるという原始的にして生物的なあるがままの「死」ではなく、正しき信仰を積み立てた結果を永遠の命と交換する行為としての「死」、極めてキリスト教的、商業主義的、近代的な、つまりは死臭を放たない綺麗事の「死」なのです。
荒々しいゲルマンの記憶をキリスト教に引き渡すために、現実から空想へ、覚醒から眠りへ、異端から正しき信仰へと兄妹を、そして我々を導くのは眠りの精が歌う子守歌、いかにもありそうな童歌風の旋律は作曲家のオリジナル、それに続く14人の天使たちのパントマイム、現実をゆるゆると解きほぐし、しかし、新しい世界を構築し直す力強さはなく、祈りの旋律はそのまま静かに心地良い眠りへ。
兄妹を眠りに誘う「背中に小さな袋を背負った、背の低い灰色の小人」、これはヨーロッパに昔から伝わる妖精「砂男/サンドマン(Sandomannchen)」ですね。中世のヨーロッパでは、砂を使って銅の食器やロウソク立て、寄せ木の床を磨くサンドマンと呼ばれる職人がおりました。この職業から生まれた砂男、そもそもは、大人しく寝ない子どもたちのところにやって来て、その目に砂を入れたり目を刳り貫いたりするという恐ろしい怪物でした。「さっさと寝ないとサンドマンが来るよ!」、大人の言うことを聞かない子どもたちへの脅し文句は全世界似たり寄ったりですね。
時は流れ、世界はゆっくりと、しかし確実に豊かになり、洗練され、怪物砂男は、いつの間にか優しい眠りの妖精に姿を変えていきました。
ブラームスがその親友シューマンの死後、彼の子どもたちために編曲した作品集「14の子どものための民謡集」の4番、「眠りの精」、美しい曲です。
月明かりの下、花たちは眠り、お日様の下で歌っていた小鳥たちも眠り、そして、眠りの精がそっと現れて窓から眺める、ベッドに行かない子はいるかな?そんな子を見つけたら、その目にそっと砂をかける、眠れ、眠れ、可愛い子・・・。
そして、ドイツではサンドマンは未だに現役、今夜も子どもたちを眠りに誘っているらしいのです。夕食後のひとときのテレビ番組「おやすみ物語」、赤い帽子に砂袋を担いだパペットのサンドマンが世界中の子どもたちと出会って、一緒に遊んで、最後は砂を撒いておやすみなさい・・・、単純なストーリーと凝ったディテールで大人にも人気の番組だそうです。
2002年のドイツ映画「グッバイ、レーニン!」、熱狂的な社会主義者である母親が昏睡状態にあった8ヶ月の間に、ベルリンの壁が呆気なく崩壊、東西ドイツは統一に向かって大きく動き出します。そんな中、奇跡的に目を覚ました母親、しかし、医師の診断は、「もう一度大きなショックを受ければ命の保障はない」。統一ドイツのベルリンのアパートの一室で自前の東ドイツを作って母親を守ろうとする若者、しかし、窓を開けてみれば、目の前の道路はトラバントよりもメルセデス、ビルの壁面には巨大な「Coca Cola」の看板、国営配給所はなくなって、その後に出来た巨大なスーパーマーケットには旧東ドイツの製品なんて一つもない。ドイツ統一の日は目前に迫り、切羽詰った若者は、国民的英雄である宇宙飛行士にそっくりのタクシー運転手と映画オタクの親友の力を借りて・・・というヴォルフガング・ベッカー監督作品にも、ちゃんとサンドマンは登場しております。
サンドマンは、今も子どもたちの眠りを見守っています。
第三幕 さぁ、召し上がれ、「お菓子の家」
やがて夜明け、暁の精が登場します。私は小さな霧の人、お日様と旅をする、東から西まで世界を全部知っている、誰が良い子で誰が悪い子かをね、チリン、チリン、早起きは三文の得だよ、お前たち、目を覚ましなさい。
グレーテルが目を覚まし、小鳥さんが朝の歌を歌っている、チレリレリ、もう遅いよって。ヘンゼルが目を覚まし、コケコッコ、気持ちの良い朝だ。私、夢を見たの、僕も見た、天使の歌が聞こえて、空が輝いて、さっと光が差して、天使がこちらに降りてきて、それって14人だろ?お兄ちゃんも見たの?見たさ!
朝霧が晴れると、イルゼ岩のそばにお菓子の家が見えてきます。なんて素敵な香り、ケーキやタルトのお家よ、白いお砂糖、甘い干し葡萄、ジンジャーブレッドの垣根!なんて美味しそうなの、もしかしたら綺麗なお姫様が私たちをご招待して下さるとか・・・、静かだね、何も動かない、中を見てみよう・・・。それって厚かましくない?だって、きっと天使たちが持ってきて下さったんだよ、そうね、きっとそうね!二人はお菓子の家を壊しては食べ始めます。
誰だい、ガリガリ囓っているのは?・・・今の聞こえた?風よ、風だよ、空の子さ!美味しいね、甘いよ、お菓子屋さんの家なのね、僕らはネズミさんさ!誰だい、ガリガリ囓っているのは?風よ、風だよ、空の子さ!うわっ、放せよ!いつの間にか現れたお菓子の魔女がヘンゼルの首に縄を掛けてしまいます。
天使ちゃん、ご親切に来てくれて、こんなに丸々していてさ、私は美味いものが大好きなロジーネ、小さな子どもが大好きさ、食べてしまいたいくらいにね。あっちへ行けよ!ヘンゼルが足をじたばたさせて抵抗します。うちにおいで、楽しいよ、チョコレート、タルト、アーモンド菓子、ケーキにパイ、それからミルク粥もあるよ。お前なんかと行くもんか、そうよ、親切過ぎて怪しいわ、ちょっと、お兄ちゃんに何するつもり?素敵なものを食べさせて、美味しく柔らかくするのさ、そうすると、お前にはとっても良いことが起こるよ。
グレーテル、逃げるぞ!走り出した二人に魔女が杖を振ります、ホークス、ホークス、次にはヨークス、もう動けないよ、さぁ、厩に入るんだよ、さて、たっぷりと太らせることにしよう。グレーテル!・・・ヘンデルが囁きます、あいつの言う通りにするふりをして、しっ、静かに。
さぁ、坊や、どんどんお食べ、美味しいお菓子になるんだよ。それから、おちびさん、ホークス、ホークス、ニワトコの林!そら、動いて働くんだよ。さて、グレーテルの方から頂こうかね、魔女は竈の中を覗き込みます。ほら、よく燃えているよ、グレーテルちゃん、こんがり焼いて上げようね、魔法の竈の中で、お前は素敵なジンジャーブレッドになるのさ。ほうれ、びょん、びょん、びょん!昼間はあちこち飛び回り、真夜中には宴会へ出かけるのさ、5つと6つで7つと8つ、9つは1つ、10は0!
ヘンゼル、起きな、ほんとに美味そうだ、グレーテル、もっと干し葡萄とアーモンドを持っといで!言われた通りにしたグレーテルは魔女の後ろでそっと杖を振ります、ホークス、ホークス、ニワトコの林!何だって?いえ、ただ、よろしくどうぞ、ヘンゼルちゃんって。おいで、グレーテルや、竈の中に屈んでごらん、ちゃんと焼けてるかい?あの、どうすればいいんでしょう?ほら、頭を曲げてさ、どんな風に?こんな風にさ、魔女が竈を覗いた途端に二人は扉を閉めてしまいます。ガタンと一突き、こんがり焼けろ!
万歳、魔女は死んじゃった、万歳、魔女はもういない、お菓子がたくさん、楽しく食べよう!ヘンゼルは魔女の家のいろいろなお菓子をグレーテルのエプロンに放り込みます。ドカン!いきなり竈が破裂します。呆然としている二人の前にお菓子の子どもたちが現れます。いったいどこから?
呪いが解けた、触って、触って、そしたら目を覚ますから!グレーテルが一人の子の頬を撫でると、お菓子の子は目を開けて微笑みます。触って、触って、そしたら目を覚ますから!ヘンゼルが杖を振ります、ホークス、ホークス、ニワトコの林!お菓子の体から自由になった子どもたちが輪になって兄妹を取り巻きます、ありがとう、ありがとう!魔法が解けた、歌って踊ろう、みんなの声が森に響くよ、ありがとう、ありがとう!夢で天使が言ったことが本当になった、兄妹が子どもたちに応えます、笑っていられることに、素晴らしいこと全部に、こちらこそありがとう!
うちの子たちはいないか?お父さんとお母さんが登場します、いた、こんなところにいた!両親に抱きつく兄妹。子どもたちがジンジャーブレッドになった魔女を運んできます、うわっ、おっきい!
子どもたち、見てごらん、お父さんが歌います。魔女はカリカリのお菓子になっちゃったのさ、天罰てきめん、悪いことは続かないのさ、その苦しみの最も大きい時、神は手を差し伸べて下さる。
その苦しみの最も大きい時、神は手を差し伸べて下さる!
このオペラの原案を書いたのはアーデルハイト・ヴェッテ、フンパーディンクの妹です。1890年5月、「夫の誕生日に子どもたちのお芝居を見せたいの」、妹の願いを聞き入れた兄は、妹の4つの詩に曲を付けました。第一幕の兄妹の踊りの場面、第二幕の「木霊の歌」と「眠りの精の歌」、そして、第三幕の鶏ごっこの場面がそうです。オペラの兄妹よろしく仲の良い二人ですが、妹の詩の元ネタは、グリム兄弟ではなく、1845年に出版されたルートヴィヒ・ベヒシュタインの「ドイツ・メルヒェン」、つまり、19世紀半ばの中産階級の「よい子たち」のための読み物、グリム兄弟がえぐり出した血生臭い人間の獣性も近親相姦の気配も既にきれいサッパリ拭い去られた、いわば除菌済みのメルヘンでした。更に加えて、良き妻から良き夫への、優しい兄から可愛い妹へのプレゼントという二重の善意に包まれて、原作とは似ても似つかぬ作品が仕上がったという次第。
この第三幕、曉の精が歌うのは「早起きは三文の得」、既に妖精からして小市民的生真面目さ。目覚めた兄妹は互いに夢に見た天使の姿の美しさを讃え合います。天国を讃える子どもっちゅうの、私は正直気持ち悪いのですが、19世紀の生真面目プロテスタント的には、勤勉市民社会的には、これがよい子たちということなのでしょう。
お約束のお菓子の家、しかし、兄妹はかぶりつく前に奇妙な問答、「家の中に誰がいるのか分かったもんじゃないでしょ?」「天使たちが持ってきて下さったんだよ」。たとえお菓子で出来ていようが人様の家ですから勝手に囓るのには躊躇いがある、兄妹は飢えてはいないのです。グレーテルの問いに対するヘンゼルの答えは、お菓子は自分たちの「善」に対する報酬である、言い訳にも資本主義の匂いがします。
魔女が登場してからも、この兄妹、「お前なんかと行くもんか」「お前は親切すぎるわ」、児童誘拐防止のための警察署地域安全課のマニュアルのような答え、こうも警戒心が強くては、魔女も魔法を使うしかありません。
グリム童話の魔女は実はただの一度も魔法を使っていません。彼女はただの飢えた老婆だったのかも知れません。オペラでは、そもそも誰も飢えていません。飢えは遠い記憶、世界は豊かになり、魔女の誘拐の動機は、「喰うためにやった」から「面白そうだったから」に変わっております。
兄妹はたくさんのお菓子を前にして踊りますが、金や宝石は一切出てきません。魔女は子どもたちでお菓子のコレクションを拵えただけ、あれだけ「うまそうだ」と言っていながら一人も食べてはいません。「本当に心からありがとう」、お互いに感謝の気持ちを伝えるエンディングのご馳走は、その「一人も食べなかった」魔女のこんがりジンジャーブレッド、それを全員で「わーい!」、これでは皆して魔女と同じじゃないかと思うのですが、勧善懲悪の物語ですから、誰の心も痛まない。
「行く道」と「帰る道」の物語、グリム童話では、兄妹は喰うための役には立たない子どもとして捨てられ、たくさんの奪った宝石と一緒に大人として帰ってきた、無惨な成長の物語でした。オペラでは、兄妹は母親の言いつけを守らない悪い子として出ていき、ちっとも変わらない姿で良い子として帰ってくる、豊かな時代の親にとっては「帰ってくる」子どもはみんな良い子なんです。
童話とは、剥き出しの現実を「どこかでこんなことがあったかも」と架空でまぶして語る、言ってみれば現実に向き合うためのトレーニング、しかし、オペラは、それを逆回転させました。親に叱られて、押入に潜り込んで、「ふんっ、探したって見つからないよ、うんと心配すればいいんだ」、いつしか泣き疲れて眠ってしまって、闇の中でふと目を覚まし、隠れていたことを忘れて思わず声を出す、お母さん、お父さん!そんな幼い日の思い出、ちょっと埃っぽくて、ちょっと甘くて、日向のような匂いのする作品です。
しかし、これほど食べ物が登場するオペラも珍しいでしょう。ミルク壷が割れてから登場したもの、ベーコンとバター、小麦粉とソーセージ、卵、そら豆、タマネギ、コーヒーにジャガイモ、森の苺、ケーキにタルト、焼き菓子に砂糖菓子、干しぶどうにアーモンド、とどめのジンジャーブレッド。ほろ酔いお父さんの締めのセリフ、「その苦しみの最も大いなるときに、神は御手を差し伸べ給う」、神の御手であるイエスが生まれたことを祝う聖夜、劇場を後にして、さて、今宵みんなで囲む食卓への期待に心が躍ります。
ドイツではクリスマスの時期に必ず上演されるという作品ですが、確かに、子ども向けのストーリーをなぞりつつ、十分に大人の鑑賞に堪える上質で格調高い旋律、考えてみれば、小さい子どもを連れて行って唯一「問題のない」オペラかも・・・。
初演は1893年12月23日、クリスマスのイブ・イブの夜のワイマール、大成功でした。序曲や「魔女の騎行」、パントマイムでのスケールの大きなオーケストラ、兄妹の歌うシンプルで洗練された「民謡のように聞こえる」斬新な旋律。ワーグナーの一番弟子と目されるフンパーディンクが紡ぎ出す童謡や民謡の素朴さを活かしたライトモティーフ、しかし、彼の動機は師のように生物的に成長し進化することはしません。物語の輪郭をしっかりと形作っていくのです。
この作品、私は二つの録音しか聴いておりませんので、あれこれ言えないのですが、その二つをご紹介します。アイヒホルンの指揮、ミュンヘン放送オーケストラ、1971年の録音、アンナ・モッフォのヘンゼル、ヘレン・ドナートのグレーテル、フィッシャー=ディスカウのお父さんにシャルロッテ・ベルトルドのお母さん、少々ゴツゴツした印象ですが、質実剛健というか、家内安全というか、この作品の本質の部分をしっかりと捉えた演奏です。ルチア・ポップの曉の精が可愛い。ラニクルズの指揮、バイエルン放送オーケストラ、1994年の録音、ジェニファー・ラーモアのヘンゼル、ルート・ツィーザクのグレーテル、ヴァイクルのお父さんにべーレンスのお母さん、作曲家が一音一音慈しんで紡いだであろうライトモティーフの素朴さに今風の伸びやかさが加わって、なかなか楽しい仕上がりです。
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