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ヴェルディ 「十字軍のロンバルディア人」(2007年2月1日〜2007年4月7日の日記より)
神がそれを欲しておられる!
「フランス人よ!神の愛を受けし民よ!神に敵対する憎むべき邪教の徒が、我等キリスト教徒の土地を乱暴に侵略し、略奪、放火、殺人の限りを尽くしたのだ!彼らは捕らえた同胞をあるいは自国に拉致し、あるいは残忍になぶり殺し、汚れた手で聖なる祭壇を冒涜し、破壊した。この極悪非道の仇を討ち、聖地を奪回するのは諸君をおいて誰の任務であろうか?」
1095年11月28日、クレルモンの公会議、「至上者たる教皇にして神に許されて全世界の最高聖職に就く余、ウルバヌスは」、弱々しい外見に似合わぬ力強い口調で語り始めた教皇ウルバヌス二世、その演説が歴史を変える熱狂を生み出すことになりました。
エルサレム、その小さな街は、ユダヤ教徒にとってモーゼの十戒を収める聖櫃が置かれた場所であり、キリスト教徒にとってイエスが処刑され、蘇った場所であり、イスラム教徒にとって天馬に跨ったマホメットが一夜のうちに天を巡った場所です。
古代ギリシアと同様に多神教、というか、神様なんて酒飲んで騒ぐための口実としか思っていなかった現実主義のローマ帝国が、いくら殺しても減るどころか増える一方のキリスト教徒に根負けしたのか、キリスト教を公認したのは313年のこと。その前年の312年、どちらが正しい皇帝かを争ったマクセンティウス帝とコンスタンティヌス帝の両軍がローマ近郊で激突しました。結果はコンスタンティヌス帝の圧勝、哀れマクセンティウス帝は逃げ惑う自軍の兵でごった返すミルティウス橋からテヴェレ川に転落して溺死。この「ミルティウス橋の戦い」を前にしたある日、「余は自分の目で、天空の太陽の上に光の十字のついたトロフィーと『この印のもと、汝は勝利する』との刻印を見た」、そしてその夜、「神は天空に見たと同じ印を作り、彼の敵と出会うたびにお守りとして使えと命じた」、キリスト教の信仰を強くしたコンスタンティヌス帝は、軍旗にギリシア語のXとPを交差させたモノグラムを採用、これ以来、ローマ帝国は東西に分裂した後もそれぞれ十字を掲げて戦うことになりました。
体制側に転じたローマ教会はゲルマン諸国の中でも最大のフランク王国を手中に収めます。小ピピンは、ランゴバルド王国のローマ侵攻の際、パニくった教皇ステファヌス2世を救出して「ローマ人の保護者」の称号を受け、これに応えてラヴェンナ一帯を教会に寄進します。元手タダの勿体ぶった称号をでっち上げただけで豊かな土地が手に入る、ローマ教会は己の力を自覚し始めます。
800年のクリスマス、フランク王国のカールに実体のない西ローマ帝国皇帝の冠を乗っけて、「神によって授けられた」と勿体をつけたのは教皇レオ3世。カールは皇帝として、善男善女にエルサレムへの巡礼の道を拓く使命をおっ被せられます。そのエルサレムは638年以来イスラム教徒の支配下にありました。カールは「千夜一夜物語」でお馴染みのペルシャ王ハールン・アル・ラシードに手紙を送り、ラシードはキリスト教徒も是非見習ってほしい寛容をもって答えます。ローマの人々が見たこともない巨大な象という動物と一緒にカールに贈られたのは、キリスト教徒の巡礼の安全保証と聖墳墓教会の隣に巡礼の宿舎を建てて良いとの許可でした。お陰様で巡礼問題をクリア・・・だったのですが、残念なことに時代はそれでは済まない方向に進んでしまうのです。
壇上のウルバヌスは続けます。「諸君の今住む土地はあまりに狭い。耕しても十分な食べ物を与えてくれない。諸君は互いに争い、傷ついている。内乱に終止符を打とうではないか!聖墓への道を進め、その地を邪悪な異教徒から奪回して諸君のものとせよ!エルサレムは乳と蜜の流れる肥沃なる歓喜の園なのだ!」
何か、戦前の開拓団募集広告みたいですが、実はこっちが本音、ウルバヌスは聖地を奪還するというお題目の下に思慮遠謀を隠していました。
10世紀末のフランスで「神の平和」という運動が起こります。内乱に明け暮れている領主たちを教会に集めて手打ちさせようという趣旨、要するに領主たちはサッパリ治安維持ができないので教会が代わりにやるというもの、神はその命令権を司教たちに委ねた・・・、ローマ教会はそう考え始めたのです。ローマ教会は王たちから神権を奪い、彼らの上に立つことを決意します。その典型が「カノッサの屈辱」、ミラノ大司教をどちらが任命するかで争った教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世、司教や諸侯はグレゴリウスにつきました。
平和がその通り平和であるのなら、お代官様が仕切ろうが坊主が仕切ろうが結構なことなのですが、この「神の平和」は「神にとっての平和」であって、つまりはキリスト教の世界をこの世に実現することを意味しました。グレゴリウスは常日頃、旧約聖書エレミア記の一節を好んで口にしました。「主が課せられた務めを疎かにする者は呪われよ。主の剣をとどめて流血を避けるものは呪われよ」、教皇は剣を手にします。
このグレゴリウスの片腕として、特に皇帝ハインリヒのお膝元ドイツでその辣腕を振るったのがオドのラゲリウス、つまりウルバヌス2世、教会改革に邁進する超タカ派教皇。そして、間が悪いというか、時の東ローマ帝国皇帝アレクシウス1世は、およそ先読みができない場当たり主義者、帝都コンスタンティノープルに迫るトルコに怯えてローマ教会に援軍を要請します。この要請は伝言の途中でどんどん尾鰭がついて、ローマに到着した時にはトルコ軍は血に飢えたサディスト集団に変貌しておりました。これを見逃すようなウルバヌスではありません。当のアレクシウスは遠く離れたエルサレムになど何の興味もなく、ただただ国境警備のための少数の援軍を求めただけだったのですが、ウルバヌスは、練りに練った言葉と火のような熱弁でもって、それを聖地奪還を命じる神の声に変換してしまったのです。
内戦、飢饉、疫病、人々の生活は荒廃し、教会への寄付も年々減る一方、全ての人が新しい土地、新しい収入源を必要としていました。内輪もめのエネルギーを異教徒に向けさせ、聖地奪還という大義名分の下、広大な土地と富が手に入る、しかも十字軍の総指揮官はローマ教皇の代理、征服した土地は教会に寄進され、そこには新たな信者候補がたくさん住んでいる、おまけに分派した後いちいち格上をちらつかせるギリシア正教の高い鼻もへし折れる、これに乗らない手がありますか?
ウルバヌスはさらにぶち上げます、「そこへ行く全ての者には、陸路や海路での旅の途中、あるいは異教徒と戦っての死によって妨げられて生涯を終えたとしても、即座に罪の赦免が生ずるであろう。私は神からその権限を与えられ、それを保証する!」、今ならなんと天国への入場券、免罪が漏れなく付いてくる!
貧民までもが、いえ、貧民だからこそ、人々はこぞって十字軍に馳せ参じました。その多くは文無し、手ぶら、着の身着のまま、今で言えば、現金もトラベラーズチェックもクレジットカードも持たず、旅行者保険にも入らず、パンツと歯ブラシをポケットに入れただけで紛争地域に出掛けるようなものです。その数約10万人、これは現在の西ヨーロッパの人口に換算すると130万人超、どえらい人数です。
「何しろ聖戦じゃけぇ」「パパ様が命じられただで」「飯は出るんかのう?」「そりゃ出ようが、十字軍じゃもん」「神様は砂漠の真ん中で魚やマナを降らしたりするお方だでな」、生まれてこの方自分の村の外に出たこともない連中がそれぞれ勝手に旅立ちます。アレクシウス帝の目には、城壁の外でとぐろを巻く彼らはホームレスの集団か山賊の群にしか見えませんでした。皇帝の予想通り、当時最も洗練されていた大都市コンスタンティノープルに入るなり十字軍は盗人集団に変貌します。「ワシらは神様の兵隊だで、ちょこっとお給金の前払いっつーことで」。帝都から追い出された彼ら民衆十字軍はまともなガイドもいないまま小アジアを彷徨い、その多くは砂漠で命を落としました。
さすがに正規の十字軍はマトモで、名門貴族の子弟たちがキラ星のように名を連ね、1096年8月15日に各地を出発、12月に東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルで合流します。ところが、貧民十字軍の盗人の群にうんざりしていたアレクシウスの対応たるや、冷たいを通り越して敵対的ですらありました。兵糧を出すから占領地を寄越せとごねるアレクシウスを何とか丸め込んで、十字軍はエルサレムに向けて進軍開始。迎え撃つ方のイスラムの諸国は、十字軍の目的地がエルサレムであると知り、下手に争うよりも早々に通過させた方が得と個々に判断、イスラム世界として団結することはありませんでした。
1099年5月7日、十字軍、エルサレム郊外に到着、守備軍は徹底抗戦、攻める十字軍側の損害は増える一方、そんな中、一人の従軍司祭が「断食して裸足で9日間エルサレムの周りを回ればその城壁は崩れ落ちる!」と喚き出しました。まぁ、断食と裸足はどうでもいいのですが、9日もうろつき回れば守備軍の弱点くらい大抵見つかるわけでして、徘徊を始めて7日目のこと、十字軍はエルサレムの城内に突入します。
「ソロモン神殿の屋上に逃げたサラセン人たちは矢で射殺され、この寺院の中で1万人が首を打たれた。一人のサラセン人も、女も子供も救われなかった」、殺されたのはイスラム教徒だけではありません。シナゴーグに逃げ込んだユダヤ教徒は入り口を塞がれた上で火を放たれ、ギリシア正教の信者も多数殺されました。3つの宗教が共存していたエルサレム、「聖戦」の名の下に殺された人の数は8万人に及びました。
1101年、十字軍国家「エルサレム王国」誕生。このまさかの棚ぼた勝利がその後の歴史を変えていきます。狭いところで内輪もめに明け暮れていた諸侯たちは、東に向かえば豊かな富が分捕り放題と知ります。ヴェネツィアやジェノヴァなどの海洋都市国家は占領地との交易によってボロ儲けを始めます。エルサレムから帰った騎士たちは一躍ヒーローに、参加しなかった騎士たちは厳しいバッシングに晒されました。東ローマは当面、イスラムの脅威から解放されました。そして、何よりも大きな変化、それはローマ教会が、戦争と祈りが両立することを発見してしまったということです。教皇が命じる限りにおいて、暴力は祈りと同じになったのです。
「神はキリストの旗手なる諸君に、騎士たると歩兵たるとを選ばず、貧富を問わず、あらゆる階層の人々を立ち上がらせるよう、そして我等の土地から忌まわしい民族を根絶やしにするよう、繰り返し繰り返し、神がそれを欲しておられる!」
参考文献:ジョルジュ・タート著 池上俊一訳 「十字軍」、新井政美 「オスマン対ヨーロッパ」
第一幕 『復讐』するはずだった・・・
11世紀、ミラノ、サンタブロージョ広場、市民たちの歓喜の声が広場を満たします。心からの歓喜!獰猛な狼が穏やかな兎になって祖国に帰る、追放者バガーノに故郷の地にひれ伏すことが許された!美しく優雅なヴィクリンダ、男という男は皆この優しき乙女に恋焦がれた、勿論、領主フォルコの二人の息子、アルヴィーノとパガーノも。ヴィクリンダが選んだのは兄のアルヴィーノ、恋に傷ついた弟バガーノは復讐を誓った。婚礼の日に兄殺しを企てた弟は、故郷を追われて流浪の身に。歳月が巡って今、帰ることが許された。
バガーノの目に何かが見える、恐ろしい何かが、獰猛な狼が穏やかな兎に・・・?
アルヴィーノ、その妻ヴィクリンダ、二人の娘ジゼルダ、そして政府のお歴々に伴われ、バガーノ登場、地にひれ伏すなり、世界と神に許しを請います。そんな弟を立ち上がらせて抱擁するアルヴィーノ、しかし、その表情は険しいまま。お父様、どうなさったの?ジゼルダが問います。弟のあの目・・・、あれは怒りだ!そうとも、兄上、俺の心を切り刻んでおいて、許すだと?平和だと?天もどうかしている。アルヴィーノの従者ピルロがそっとバガーノに囁きます、貴方の怒りに共鳴する者は大勢おります、今宵、闇に紛れて・・・。
兄弟は口付けを交わした、ユダがイエスを裏切った時のように、この平和も裏切られるのか?喜びと不安に揺れ動く人々の前に一人の僧が現れます。聖ペテロの叫びに燃え立つ人々よ、高貴なアルヴィーノ、貴方様こそロンバルデイの十字軍の指揮官!アルヴィーノが答えます、謹んでお受けしよう、聖ペテロのために心血を注ぐ喜び、天も地も我らの誓いを聞き届けられよ!アルヴィーノとバガーノは剣を交わして聖地奪還の遠征に参加することを誓い、修道女たちの祈りが兄弟の誓いを祝福します、人々に平和を、不信の徒よ、消えるがよい、喜びの日に聖歌が響く。
乙女たちよ、祈るがいい、バガーノが嘲笑います。天はそんなものを聞きはしない、今宵、この剣は復讐を果たす、愛がこの魂を邪悪に染めたのだ。ヴィクリンダ、愚かな女、お前は歓喜の絶頂に、俺は悲しみのどん底に、お前と離れていた歳月が俺の愛を鍛えたのだと思い知れ・・・。
ピルロ、同志はどこだ?あちらに・・・、俺に尽くしてくれれば、その見返りは多いと知れ。どんな危険とて恐れはしません、今宵の闇は刃の煌きで明るく照らされましょう、貴方の敵を一撃であの世に送ってご覧にいれましょう、血塗られた剣で宴に興を添えて差し上げましょう。あぁ、復讐よ、バガーノは心の高ぶりを抑えることができません。長い歳月、俺を支えてくれた愛しい復讐よ、もうお前以外の声は聞こえない、今宵、お前は俺のもの!
そして夜、ファルコの館、暗い回廊でヴィクリンダが震えています。あの男の顔、後悔ではなく怒りが見えたわ、ジゼルダ、母と一緒に祈りましょう、あなたの父、私の夫を神が守って下さいますように。アルヴィーノがそっと妻の肩を抱きます、もう部屋に引き取るがいい、今宵は父上と一緒にいるのだ。何やら大勢の足音が聞こえる、気のせいか・・・?
マリア様、母と娘が跪きます、主の御恵みがあらんことを、聖なる御子が祝福されんことを、哀れな私たちのためにお祈り下さい。
こちらです、ピルロの案内でバガーノ登場。灯りを消せ、アルヴィーノの部屋に押し入る刺客たち。バガーノがヴィクリンダを引きずり出します。ヤツを呼ぶがいい、言う通りにしろ!死んだ方がましよ!誰が助けに来ると?もうお前は俺のもの、誰も俺からお前を奪えはしない、誰もお前の声を聞きはしない!私が聞いている!・・・ア、アルヴィーノ?馬鹿な、俺の剣は血に濡れているのに、そんな・・・、いったい、これは誰の血だ?あなたのお父様の血よ、ヴィクリンダとジゼルダが顔を覆います。
何ということ!地獄よ、その口を開けろ!神よ、稲妻を放て!天は我が名を聞くだけで震えるだろう!
父殺しの弟よ、お前も父上の骸の上で死ね!アルヴィーノが剣を振り上げます。止めて!ジゼルダが必死にその腕にすがります、もうたくさん、罪も恐怖ももうたくさんよ!兄上、止めるのか・・・?なら、俺は自分で死のう、自分の胸に剣を向けたバガーノを兵士たちが押さえつけます。
愚か者よ、生きるがいい、死よりも辛い生を生きるがいい!その額にカインの印を受けるがいい!
地獄の火よりも恐ろしい運命が俺を焼く!あぁ、この世のどの場所にあっても俺の額から血が滴りおちる、この世のどの道を歩いても俺の道連れは悪魔だけ!
もう、十字軍どこじゃないっしょ?聖地なんかどーだっていいっしょ?旧約聖書によれば人類最初の殺人事件であった兄弟殺し、それを企んだ挙げ句の親殺し、その原因が女の取り合いというとんでもない体たらくの「華麗なる一族」、こんな一家の長男に総大将を頼んでしまうのですから、神様もいー加減っつーか適当っつーか。
この呪われた一族が生息するのはミラノを州都とするロンバルディア州、その名はゲルマン民族の一派、ランゴバルド族に由来します。古代ローマ時代、ケルト民族の土地であったイタリア半島北西部に侵入したのは、長く顎髭を伸ばした戦士の一団、ランゴバルドとは「長い顎髭」という意味です。彼らはケルト人から奪った大地に568年にランゴバルド王国を建設、しかし、774年にフランクのカール大帝、さらに1162年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ(バルバロッサ)1世の侵略を受け、ヴィスコンティ家の台頭によって建て直されるまでの間、この髭の長い連中は長い混乱の時代を生きました。このフォルコ一族もそんな時代に翻弄された(つーか、翻弄され過ぎ)人々なのでしょう。ちなみにオペラファン、そして映画ファンにとってお馴染みのルキノ・ヴィスコンティは、このランゴバルドの雄、ヴィスコンティ家の末裔です。
ヴェルディの筆は、あるところでは華麗に走り、あるところでは蹴っつまずき、聴く者を不安に陥れるような荒っぽい「つんのめり」ぶり。この第一幕、天上の神が欲しておられることと、その神が作った人間が地上でやっていること、一見突拍子もない乖離、しかし、意外に同じ匂い、ヴェルディはそれを嗅ぎ取り、しかし、正確な距離を測りかねているという印象です。これから先のドロドロを前に清めの塩のような前奏曲、それに続く女声5重唱のアンサンブルが印象的。上下(天上から地獄まで)に、左右(西のキリスト教世界と東のイスラム世界)に、素早く動きながら、対象が大きすぎてその視界に全貌を捉えることがなかなか出来ない、ヴェルディはそんな彼自身の視線の混乱を素直に音に置き換えています。
惚れた女が惚れたのは兄、だから兄が憎い、愛しているのに愛してくれない、だから女が憎い、こんな可哀想な自分を法で裁いた、だから祖国が憎い、もう絵に描いたようなルサンチマン(弱い者が強い者に対して抱く憎悪、ニーチェによれは「奴隷の道徳」)を抱くパガーノ。
しかし、実に奇妙なことです。兄弟の父であり、ロンバルディアの領主であり、長男の結婚を認めた(この時代の支配者階級には、恋愛結婚の自由などありません)当主であり、次男を追放した法の執行者であるところのフォルコが全く登場しないのです。パガーノのルサンチマンには向かうべき相手がいないのです。
憎悪が生まれた現実を冷静に分析できない場合、それは往々にして自己否定に向かいます。自己否定をコントロールできない場合、それは往々にして過度の禁欲を招きます。行きすぎた禁欲が肉体を蝕む場合、それは往々にしてその精神を狂信の温床に変えます。
というわけで、物語はここから先、さらにトンデモの方向に走りそう・・・、そんな不安にかられてしまうあなたに微かな慰めを。「罪に対して罪で報いてはなりません」、ジゼルダの言葉、この際だから信じてみませんか?
第二幕 神か、悪魔か、『洞窟の人』
所は変わってアンティオキア、アッチャーノ王の館、王を囲んで廷臣たち、兵士たち、皆憂い顔。邪悪な剣が閃くのを見たのだ!何と無礼な!残忍なキリスト教徒は嬉々として略奪と殺戮を繰り返している、アラーよ、不信心の輩を罰し給え!我らにその偉大さを示し給え!我らはアラーのために戦おう、奴らを一人として生きて帰しはしない!
アッチャーノ王の息子オロンテが母ソフィーに尋ねます、あのひとはどうしています?不幸の底で、息子よ、貴方を愛していますよ。僕は何と幸せな男だろう、あのひとと一緒に人の辿り着けぬ高い天に昇りたい・・・。しかし、息子よ、彼女の神と貴方の神は相容れないのですよ。密かにキリスト教を信じる母に向かって息子が告げます、母上、唯一の神は愛の天使の神であるはず、僕を彼女の元へ連れて行って下さい、真実がこの心を鎮めてくれるように。息子よ、天使は貴方のために舞い降りたのね・・・。
荒れ野の洞窟には一人の隠者、この静けさはいつ破られる?この目はいつ十字軍の印を見る?静かだ・・・、神よ、あなたのみが正しい、どうかこの悲しみを祝福して下さい!十字が輝くのが見える時、この心は燃え上がり、この手は剣をとるだろう、そして、この魂は救われるだろう、誰か来る・・・。
待って下さい、隠者よ!サラセンの衣装を纏って登場した男、徳高き聖者よ、私はロンバルディアのピルロ、親殺しに手を貸した挙げ句、信仰を捨てた男、教えて下さい、私は許されるのでしょうか?私の手にはアンティオキアの城門の鍵が・・・。何と!行きなさい、神はお前を許される、だから罪深き町を神に捧げるのだ!聖者よ、誓います、今宵、城門を開き、十字軍を引き入れましょう!神よ、あれはロンバルディアの軍だ!
洞窟の聖者よ、甲冑に身を包んだアルヴィーノ登場、私の永遠の怒りを哀れんで下さい!回教徒たちが私の娘を浚って行きました、私は娘を救えなかった・・・。何という喜ばしき日、ついて来なさい、ロンバルディアの兄弟たち、今宵、あの街は落ちる!アラーとやら、お前の最後の日がやって来る、我らの神の声が大地を制する、十字架は血の色に輝き、異教徒たちはその前から逃げ出す!
アッチャーノのハーレム、憂い顔のジゼルダを囲んだ女たち、異国の美しい人、その目はどうして濡れているの?オロンテ王子の心を独り占めにしているのに、家が恋しいの?恋人を残してきたの?愚かな女!傲慢な女!王子を虜にした異教の瞳、その瞳は同胞たちの死を、破れた十字の旗を見ることになるわ、一人で勝手に邪神に祈るがいいわ!
お母様!ジゼルダが嘆きます。天からどうか私に手を差し伸べて下さい!恐ろしい場所、恐ろしい日々、この祈りは天に届くのでしょうか?何・・・?あの悲鳴は何?
殺せ!全員殺せ!十字軍の兵士たちがハーレムに雪崩れ込んできます。逃げまどう女たちの中にソフィーの姿が。ジゼルダ!私は裏切られたわ、十字軍は夫と息子の命を・・・、何ですって?王と王子は殺されたのよ!
お父様・・・?お父様!隠者に率いられてアルヴィーノたち登場。ジゼルダ!両腕を娘に差し伸べる父、しかし、ジゼルダは後ずさり、何という血・・・、何という・・・、いやよ!大地を血で染めることが、異教徒の富を奪うことが、神の御心であるわけがないわ!神はそんなもの望んでおられないわ!そうよ、私には見えるの、打ちのめされた人々はやがて立ち上がり、復讐を叫ぶ、未来なんてないのよ!神は屍など欲したりなさらないわ!何という不敬な言葉を、やっと再会した娘の怒りに傷つくアルヴィーノ。見えるのよ、血は復讐を呼び覚ます、神はそんなもの望んではおられない、神は平和だけをお告げになるの、ただ平和だけを!
異教に染まってしまった娘なら、いっそ父の手で!剣を抜くアルヴィーノの前で昂然と頭を上げるジゼルダ、えぇ、殺すがいいわ!お止めなさい!理性を失っておられる・・・、隠者が父の剣を止めます。しかし、娘が叫んだ言葉は呪いのように宙を彷徨うのです。
関係者ご一同様、順不同のごった返し状態でアンティオキアに集合です。フォルコの一家の因縁はどこまでも祟る、それだけでも十分に大変だと思うのですが、ニュー・キャラ登場、スルタンの妻であり、王子の母后でありながら、いつの間にかキリスト教徒に改宗している母、それを知らないのですが、惚れた女のために信仰を捨てようと考える王子、アッチャーノの一家の因縁は、フォルコ一家に負けていません。
第一幕からさほど時間が経過したとは思われない(だって、十字軍がヨーロッパを出発したのは1096年8月のこと、アンティオキア陥落は1098年ですから長くて1年半しか経っていません)のですが、その間に何が起こったかというと・・・。
ヴィクリンダとジゼルダの母子は、どこでどうしたのかイスラムの捕虜になってしまったようです。まさか領主一家の奥方と一人娘が女二人で十字軍、はないでしょうから、おそらくはどこか旅の途中で山賊もしくは海賊に遭遇し、当時は人身売買は当然のビジネスでしたので、二人して売られてしまい、ヴィクリンデは異国で命を落としたのでしょう。あるいは母は娘を守ろうとして抵抗し、殺されてしまったのかも知れません。略奪品の中でも特別に美しかったジゼルダは、アッチャーノのハーレムに献上されたのでしょう。
イスラムの正妻を4人、妾は異教徒であれば何人でもオッケーだったスルタンのハーレム、そこは世界中からの献上品の美女でいっぱいでした。一人の女に寵愛が集中して国を左右する事態(いわゆる「傾城」)を予防するための策、当然、競争は激しい、命すら独裁者の気分次第。そんなハーレムで一人憂いに沈むジゼルダ、ヴェルディは様々な長さのフレーズを一見無造作に(しかし、あれこれと悩んだ跡が窺えます)ちりばめ、異国情緒を醸し出しています。若きヴェルディはこの手の「揺らぎ」は苦手だったはず、しかし、敢えてやってのける男気がまた彼の魅力でもあります。
ジゼルダに恋するオロンテ、寵姫が異教徒の奴隷上がりであっても、男系社会のイスラムでは特に問題にはなりません。イスラムというのは、こと異教徒に関しては無関心なんです。何しろアラーに相手にして貰えない連中なんですから、それを何で俺らが相手せんならん?異教徒であることは即ち罪人であり、そのままこの世で罪多き人生を過ごすより、火炙りにして魂を救ってやろうという「ご親切な」キリスト教とは違います。
しかし、王子様本人がキリスト教に帰依するとなると話は別です。恋した相手に気に入られようと自分の信念を変える男、そんな男は女にとって魅力的には映りません。そこを何とかしようとしてか、台本は、オロンテの変心は神の勝利であるという解釈をこじつけているのですが、そこから先、十字軍によってオロンテは殺されたという報が入ります。そうしないと、主題であるところのジゼルダの言葉、「神は平和だけをお告げになる」の出番がなくなるわけで、しかし、こうなるとオロンテは恋人役ではなく、ただの小道具扱いになってしまい、このあたりで台本がグダグダになってしまっているのは事実です。
しかし、一番の謎というか、トホホというか、それは父殺しから幾ばくも経過しないのに、砂漠の洞穴にすっこんだってだけでインスタントの聖者になってしもうたパガーノでしょう。兄を殺し損じておいて、兄嫁に不埒な欲望を抱いておいて、過失とは言え父を殺しておいて、ほんの十何ヶ月か洞穴に籠もって無精髭はやしたら聖者ですか?しかも、この聖者の生臭いこと、この期に及んでも餌で釣ってピルロを利用する。しかも、第一幕では餌は金と地位でしたが、今回はパガーノはそんなもん持っていないわけで、彼がちらつかせるのは魂の救済です。金や地位よりうんと厚かましい。何よりも、彼の心には依然として憎悪しかない、かつて兄に向けられた憎悪が今イスラムに向かっているだけです。変わらぬ憎悪、暴力の快感、自己正当化、砂漠での祈りの日々は結局、彼の容貌を変えただけなのです。
ですから、対立の構図は何一つ変わりません。暴力と平和、憎悪と愛、復讐と慈悲、父の剣の前でまなじりを決して神の愛を叫ぶジゼルダ、それを狂気と定義するパガーノ、真の狂気は勿論パガーノにあります。ジゼルダの叫びは、愛する男を信じる同胞によって失った故ですが、パガーノの冷静さは憎悪の仮装、偽られた憎悪はしばしば好んで神の正義を纏い、しかし、憎悪こそ神の敗北に他ならないという矛盾をどうしたって包含してしまうのです。
砂漠の洞窟の日々、衰えた肉体はしばしば強い想像力を育みます。己の欲することこそ正義、それこそ神の意志、その実現は己の使命・・・。考えてみれば、これこそ十字軍の始まりであったと思います。
余談ですが、アッチャーノが守るアンティオキアは、アレクサンドロス大王の後継者の一人であったセレウコス朝シリア王セレウコス一世、彼が父アンティオコスに因んで建設した都市の一つ、キリスト教がローマ帝国に公認されてからは、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレムと並ぶ五大総主教の一つとして栄えました。526年5月、巨大地震発生、町は壊滅。復興もならないうちにペルシアの侵攻を受け、7世紀に東ローマ帝国がシリア地方を失った時には既に寂れた地方都市でしかなく、969年に一度は東ローマが取り返すのですが、1084年に再びイスラムの支配下に。
そして、この第一次十字軍の折、この城塞都市を守っていたのはセルジューク朝の総督シヤーン、攻めるは南イタリアの猛者、ターラント公ボエモン。1098年、半年の籠城戦の末陥落したアンティオキア、十字架を掲げた兵士たちの略奪と虐殺の後、ボエモンは聖地エルサレムには行かないと言い出して十字軍から脱退、この地にアンティオキア公国の設立を宣言します。
その後、アンティオキア公国は、同じくあちこちに雨後の竹の子のように生えてきた十字軍国家と協力してイスラムの領土を狙い、勝ったり負けたりを繰り返し、まぁ、そこそこ頑張ったのですが、何しろインスタントのミニチュア国家、西と東の間で板挟み、途中で女王様が変な婿殿貰ってしまったり、モンゴル軍の進軍をこれも対イスラムの聖戦だと変な解釈をしてお先棒担いだり、そんなことを繰り返すうちに少しずつ縮小してしまい、1268年、マムルーク朝によって徹底的に破壊され、歴史の表舞台から静かに退場することになります。
第三幕 『改宗』と裏切り
ジョサファイトの渓谷、遠くにエルサレムを望む丘の上、巡礼たちの列が進みます。エルサレムへ、エルサレムへ、血は正しく流れた、我らの魂はその最後に神に抱かれる。あれは不信心者たちが神の御子をつないだ壁、あれは神の御子が涙を流した丘、山よ、野よ、永遠に聖なる谷よ、十字軍は進むであろう、エルサレムへ、エルサレムへ!
ジゼルダが彷徨い歩きます。私はどこにいるの?父上の元では息すらできなかった、ここには空気がある・・・、私の魂は愛しか見えなくなってしまったわ。ジゼルダ!オロンテ?夢かしら!貴方が死んだと聞いてどれほど泣いたことか!剣を受けて倒れただけだっだんだ、そして、僕は・・・逃げた、卑怯者になった、貴女に会いたかったから。僕は全てを失った、祖国も、肉親も、王位も、そして貴女も・・・。いいえ、私は貴方と一緒に行きます、私の運命は貴方の運命です。僕と一緒に森を彷徨って、獣のように暮らすのか?砂漠の砂を新婚の床にするのか?それでも僕と一緒に?早く逃げましょう、十字軍がやって来るわ、貴方は私の祖国、命、そして天なの。僕は失ったもの以上のものを得たんだね?さよなら、美しいロンバルディア、お許し下さい、お母様・・・。僕も全てを捨てる、僕たちは同じ苦しみを嘆き、一つの心を持とう、貴女が信じる神が僕の祈りも聞いて下さるだろう。
武器を取れ!丘の向こうで雄叫びが上がります。あれは十字軍の声?行きましょう、私たちの魂を引き離すのは死のみ、行きましょう!
アルヴィーノの陣営、父は一人怒りに震えています。いったい何が起こったのか?混乱の中、誰も彼もがあっという間に消えてしまった、家名を汚す忌まわしい娘まで!揺り籠の中で死んでくれれば良かったのだ、神を冒涜する女、不幸の元凶、それが我が娘とは!
大将に申し上げます、あのパガーノを見たという者がおります!親殺しの弟君は今度はいったい誰を裏切るつもりか?我ら皆、決して彼を許しはしません!そうだ!彼を罰しない天の過ちを、私はこの剣で正してやる、あの悪党の心臓を突き刺してくれる!
ヨルダンの岸辺近く、傷ついたオロンテを必死に支えるジゼルダ、なんて酷い傷・・・、ジゼルダ、僕はもうだめだ、だから、もう優しくしないで・・・。神よ、貴方は私から母を奪い、悲しみの底に突き落としておいて、たった一つの愛を慰めに下さった、それを今取り上げようと!何という残酷な神!
神を責めるのは誰だ?隠者が登場します。誰?オロンテが問います。私は、信仰を改めるお前に新しい命を与える者。あぁ、ジゼルダ、僕はやっと会えた、この時をずっと待っていたんだ、聖者よ、僕のそばに!
立ちなさい、神はお前を呼んでおられる、神はお前に栄光を示される、ヨルダンの聖なる水は永遠なる命の水・・・。洗礼を受けるオロンテを支えるジゼルダ、生きて!私たちの愛は今、罪ではなくなったの、だから生きて!喜びが僕の体の中を駆けめぐっているよ・・・、でも、もう立っていられないんだ、もう何も見えないんだ・・・。神だけを見なさい、神だけにすがりなさい、神の慈悲を信じて勇気を持ちなさい、隠者が祈ります。ジゼルダ、そばにいるのか?僕は待っているから、天で貴女を待っているから、貴女が僕に天への道を拓いてくれたのだから・・・。置いていかないで!天よ、この人が行くところに私も連れて行って!
あなたがたの愛がこの世では涙しか与えられなかったとしても、希望を持ちなさい。いつの日か天は喜びを与えて下さる・・・。
「死が二人を分かつまで」の時間すら与えられない二人、同じ天国に行くために、そこで幸せになるために、全ての同胞を裏切って死んでいくオロンテ、父を裏切ってまで守ろうとした愛を、その愛を天で成就させるために捧げることを強いられるジゼルダ、二人の間に立ち、オロンテに洗礼を与え、婚姻の祝福を与えるのは、兄殺し未遂にして父殺しのパガーノ、聖地エルサレムの砂漠を彷徨いながら、逃れたいはず過去をなぜか連珠のようにまさぐりつつ、捨て去りたいはずの憎悪を鍛えてきた男、パガーノは常に死を運んでくる男です。
そして、物語はここに至って、憎悪が悪性腫瘍のように増殖する様を描き出しています。本来は、そんなこと描きたくはなかったのでしょうが、どうしたってそうなってしまう。何しろ、他者の神を否定しなければ神として存在できない一神教の神とそれを信じる人々が、一つしかない街をそれぞれの聖地と呼んで奪い合うこと、それがこの物語の設定なのですから。一神教ですから、己の信じる神以外は全て邪神ということになってしまうわけですが、このあたりの信仰の有り様は、八百万の神々を頂き、万物に仏性を見る、よって家の中に神棚と仏壇が共存していて何の問題もないという日本人には、一番理解しにくい部分ではあります。
聖地奪還という名誉を与えられた指揮官であるアルヴィーノは、弟に加えて娘まで憎悪の対象に加えてしまいました。異教を擁護する娘は娘ではない、ジゼルダが守ろうとしたのはアラーではなくてアラーを信ずる人々の命なのですが、アルヴィーノにはその違いが理解できない、彼にとって異教徒とは、死んでいるか、これから死ぬかであって、命を持っている必要がないのです。
ジゼルダの心には、父への憎悪と信じる神への疑惑が立派に育ってしまっています。神は平和のみを語るのだと言い放った彼女は、父を捨て、ロンバルディアを捨て、神の平和に身を投じました。しかし、徐々に冷たくなっていく花婿を腕に抱き、この世での生を捨てることを望むに至ってしまいました。ジゼルダに既に希望はなく、希望のないところには平和もない、平和とは常に人々の希望が未来に託す概念なのですから。
この展開の中でただ一人、憎悪から自由なのはオロンテ。父を殺し、おそらくは母も殺し、祖国を蹂躙した十字架を掲げ持った異教徒たち、その中にただ一つ、だた一つだけ、愛を見つけたことで、オロンテは希望を持って世を去るのです。その希望は愛する人と結ばれたい、ただそれだけ、オロンテはそこに正義はおろか、何の動機も理由もくっつけません。一人の若者が一人の女に捧げた小さな愛、オロンテにはそれしかない、それだけで充分であったのです。トンデモ王子であり、出来損ないの戦士であり、しかし、物語の中でただ一人幸せな男。
ヴェルディは、フィナーレの三重唱「素晴らしい喜び」の長い溜息にも似た導入部によって、辛うじて(本当に辛うじてですが)、水面下にある本来の主題である愛を、うねる憎悪の波の上に引っ張り上げています。
野球でいうと、体が泳いだまま最後には片手でライト前に運んで落としたヒットって感じです。解説者が「気持ちであそこまで持って行きましたね」っていうやつ。稀代の強打者ヴェルディにだってこんなヒットは必要ですよね。
第四幕 そして、『聖墓』
エルサレム近く、憔悴しきったジゼルダは幻を見ています。聖霊たちが歌います、優しい乙女よ、その顔を喜びで飾りなさい、汝の救った魂が天に昇る、おいで、おいで、喜びは汝にも与えられよう・・・。見えるわ、オロンテ・・・、あなたは天使たちと共にいるの?どうして私を無視するの?オロンテの幻影が答えます、ジゼルダ、僕は貴女の神に受け入れられて天に達したんだ、だから行って皆に告げておくれ、希望を持て、シロエの泉を目指せと・・・。
歓喜に顔を輝かせて我に返るジゼルダ、奇跡!私の心に力が漲る、夢じゃないわ、あの声がまだ響いている、棕櫚の葉を手にした彼が見える、十字軍の兵士たちよ、聖なる川はあなた方の魂を清めるために流れるのよ。
ラルケの墓近くの十字軍の陣営、兵士たち、そして巡礼たちが祈ります。主よ、あなたとの聖なる約束によって我らはここに至りました。キリストよ、あなたの兵士をお守り下さい。ロンバルディアを流れるせせらぎ、野を渡る風、枯れることのない泉、澄んだ湖、陽を浴びて輝く葡萄畑、故郷・・・、それに引き替えこの地は不毛の砂に覆われて・・・、行こう、シロエの泉へ!
ジゼルダが登場、天に祈りが通じたのね、人々はシロエに集う・・・。アルヴィーノと隠者が登場、ロンバルディアの民よ、乾きを癒せ、そして進もう、聖地は今日、我らのものとなる!そうとも、戦いだ!剣をとれ!一人も逃がすな!十字の旗は血と恐怖に輝く、勝利はすぐそこ、王冠が待っている!・・・そして、再び血が流れるのです。
ジゼルダとアルヴィーノに支えられた隠者、こんなに傷ついて、真っ先に突撃したこの方は誰?父と娘がそっと介抱します。私に触れるな!お前は誰だ?隠者よ、思い出して下さい、私はアルヴィーノ。アルヴィーノ・・・?何ということ、地獄が口を開ける、これは、・・・父上の血か?どうか落ち着いて、私は貴方が救って下さった不幸な女、覚えておられますか?その声は・・・、私を許してくれたあの天使か。
隠者よ、貴方はいったい誰なんです?兄の問いに弟が答えます、パガーノ・・・、パガーノ!兄上、私はもう死ぬ、神の前に行かねばならぬ、だから、どうか呪わないでほしい、この苦しみを終わらせてほしい。お父様、この方は罪を償われて神の御前に行かれます。弟を抱きしめるアルヴィーノ、勝った!お前が勝った!お前は許される・・・。何という幸せ、兄上、私に聖地を見せて下さい、エルサレムを・・・。
偉大なる神よ、主を讃えます、主は救いであり、道であり、栄光です!
人々の歓喜の声にパガーノが続きます。神よ、死にゆく殺人者になんという慰めを下さるのでしょうか、こんな男を最後に思い出して下さったのですか?ジゼルダが続きます。どうか、私の夫、私の母と共に主の御許で憩われますように、私はいつも二人と一緒だと、会える日を待ち望んでいると伝えて下さい。アルヴィーノが続きます。主よ、私の過ちを慈悲をもってお許し下さい、最後の時に心からの許しをお与え下さい。
偉大なる神よ、主を讃えます、主は救いであり、道であり、栄光です・・・。
兄弟の確執も、道ならぬ恋も、民族の対立も、宗教の争いも、何一つ解決していません。しかし、物語はあらゆる矛盾をどーんと舞台の上に放置したまま強引に終わってしまうのです。
隠者パガーノは神に仕える身でありながら、イスラム教徒たちに突撃を仕掛けて瀕死の重傷、叶わぬ恋、父への畏怖、兄への嫉妬、この男は、己の中の持って行き場のない怒りをいつも、全て、暴力に置き換え、最後にはそれが命と引き替えに神に受け入れられるのだと信じるに至ってしまいました。「あぁ、兄上、この魂は神の御前に行かなければならない」、ご本人、天国へ行く気満々です。兄嫁に欲望を抱き、父を殺したけれど、異教徒をたくさん殺したから全部チャラなのです。そして、これが十字軍の本質でもあるのです。十字軍が唱えた「神の平和」とは、異教徒を一掃し浄化されたキリスト教世界であって、異教徒同士が共存する「おぞましい汚れた世界」ではないのです。
ジゼルダ、「私の幸せな夫と母に逢うでしょう、その日が早く来ますように」、死者に対して死にたいと愚痴る、彼女が生きる明日は、オロンテだって生きたかった明日であるのに。結局、イスラム教徒としての生きているオロンテよりも、キリスト教徒としての死んだオロンテの方が「愛しやすい」のでしょう。これも十字軍の本質でもあるのです。宗教やイデオロギーが最も嫌うのは「現実」です。現実は究極の複合物質であり、およそ純粋さとは無縁であって、決して意のままにはならない。現実が困難であればあるほど、宗教やイデオロギーは突拍子のなさで自己防衛するしかなくなっていくのです。
アルヴィーノ、パガーノを抱擁して「お前が勝った!」、何がどうして誰に勝ったのか全く不明。異教徒に突撃を食らわして名誉の戦死を遂げたから、父殺しはなかったことに?なるほど、兄アルヴィーノは弟を許しても、父アルヴィーノは娘を許さない、神を介さないと人と人が結ばれない、これも十字軍の一つの側面であるのです。同じ神を愛しているからその人を愛するのであって、その人を愛するからその神も愛するでは、十字軍という熱狂は発生しなかったはずだから。
物語は、十字軍を讃えれば讃えるほど、その本質が露呈してしまうというドン詰まり状態。
さて、このハチャメチャな幕から何とかそれらしき意味を汲み取れる箇所はあるのか?私は一カ所だけ見つけたと思います。「シロエへ、シロエへ!」と十字軍が目指すシロエの池。シロエとは「遣わされた者」という意味、この池は「ヨハネの福音書」に登場します。
イエスは生まれつきの盲目の男と出会います。弟子たちはイエスに尋ねます、彼が盲目なのは彼の罪ですか、両親の罪ですか?どちらでもない、ただ神の御業が表れるため、私は世にある間は世の光である。イエスは地面に唾を落とし、その泥を盲人の目に塗ります。シロエの池に行って洗いなさい。池の水で泥を洗い落としたところ、彼の目は見えるようになっていました。ところが、パリサイ人たちが騒ぎ出します。安息日になんと言うことを!イエスは答えます、私がこの世に来たのは裁くためである。見えない人が見えるようになり、見える人が見えないようになるためである。
ヨハネは、イエスという一人の男がユダヤ人とユダヤ教の枠から一歩踏み出した瞬間を鮮やかに描いています。イエスは、いつも苦しむ人、悲しむ人と共にありました。それがどこの誰であるかは彼にとっては大した問題ではなかったのです。イエスは、神を裏切ったその時、「神の子」としての道を歩き始めた、シロエの畔がその場所であったのです。シロエへ、シロエへ!ヴェルディは愛国者であって狂信者ではない、巡礼たちと兵士たちの祈りの合唱から、ギシギシと軋む戦いの旋律を経て、最後に登場する希望のハ長調がそう教えてくれます。
革命家を父に持ち、自身、反政府活動で臭い飯を食った経験もあるソレーラの「愛国ドラマ」、熱っぽいが重苦しく、こじつけが目立つ台本。家庭の悲劇、男と女の悲劇に無理矢理十字軍をくっつけ、しかも「軍(暴力)」があっても「十字(平和)」は付け足し、ヴェルディは、そんな台本に一つの解決を与えました。国家が、文明が、民族が、宗教が激突する時、人は本当の勇気を試される、それは「シロエ」を目指して歩く意志であるのだと。
さて、その後の十字軍について触れておきましょう。
第一回十字軍にへたれぶりを披露してしまったイスラム勢力が盛り返します。1147年、法王エウゲニウス2世が第二回十字軍を宣言。しかし、フランスのルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世、大物二人が張り合ったままで統率がとれず、イスラム連合軍にボコられて終了。
1187年、イスラムの英雄サラディンがエルサレムを占領。法王グレゴリウス8世が第三回十字軍を宣言。イングランドの獅子心王リチャード1世、神聖ローマ皇帝の赤髭王フリードリヒ1世、そして、フランスの尊厳王フィリップ2世、スターが勢揃いしたものの、フリードリヒは川で落馬して溺死、フィリップはリチャードと仲が悪かったんで途中で帰国、残ったリチャードは残りの生涯の殆どを戦場で過ごすもサラディンに軽くあしらわれて成果なし。
1202年、法王インノケンティウス3世が第四回十字軍を宣言。しかし、商売人の国ヴェネツィアが用意した船の運賃が支払えず、んじゃ、戦闘力で払ってと言われるままに、何とキリスト教国のハンガリーを攻めてしまい、激怒したパパ様から破門を食らいます。破門された十字軍という訳の分からない軍隊は、そのままコンスタンティノープルを征服、ラテン帝国を建国。で、エルサレムには何時行くんじゃ!というパパ様の再三の要請を無視して解散、結局、何だったんだ・・・?
気を取り直して、1218年、第五回十字軍がイスラムの大国エジプトを攻めるも失敗。この時、遙か東の彼方から謎のキリスト教国プレスター・ジョンが大群を率いて十字軍に馳せ参じるというガセネタが飛びます。その正体はモンゴル帝国!十字軍どころか、全ヨーロッパを恐怖のどん底に叩き込みます。
1228年、法王グレゴリウス9世は、神聖ローマ皇帝の義務である聖地奪還に無関心のフリードリヒ2世にむかっ腹を立てて破門をかまします。うっせぇ坊主め、破門されたまま第六回十字軍を率いたフリードリヒは、巧みな外交戦術でエルサレムの統治権を入手。異教徒を一人も殺さなかったのがお気に召さなかったグレゴリウスは、フリードリヒ相手の十字軍を開始、しかしあっさり撃退され、面目丸つぶれのまま破門を取り消します。1239年にフリードリヒの締結した停戦期間が失効、エルサレムは再びイスラムの支配下に。
1248年、再び聖地をイスラムに奪われた西欧、しかし、フリードリヒ2世は第六回以来ずーっと法王と大喧嘩中、イングランドのヘンリー3世は内乱で忙しい。ここでフランス王ルイ9世、止めとけという周囲の声を無視し、第七回十字軍を募って颯爽とエルサレムへ進軍。しかし、サラディン2世にボコられて王自ら捕虜になる始末。気の遠くなるような身代金を支払ってようやく釈放。
1270年、懲りないルイ9世、第八回十字軍を仕立ててチェニスを目指します。しかし、途中で暑さに当たって死去。この信心深いだけで全く役に立たなかった王をバチカンは聖人の列に加えます。
時は移って1458年、ピオ2世、法王に即位。聖なる使命に目覚めすぎてしまったのか、突然、十字軍を宣言。しかし、彼が送りつけた招集通知に応える王は一人もいませんでした。神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世、彼は聖戦に駆けつける代わりにハンガリーに宣戦布告。フランス王シャルル7世、彼は十字軍に参加する駄賃にナポリを寄越せとごねます。イングランド、ばら戦争の真っ最中でエルサレムなんてどーだっていい、つーか、パパ様、ちょっと調停してくれんか?と泣きつく始末。
業を煮やしたピオは自ら十字軍を率いんとアンコーナの港へ。病床に就いたまま各国の軍隊を待ち続け、しかし、猫一匹現れませんでした。待ちぼうけを食ったまま世を去ったピオ、聖戦を信じた最後の法王でした。
録音です・・・が、実は、私、一つしか聴いたことがありません。1971年、ロイヤル・フィル、指揮はガルデッリ。パガーノをライモンディ、アルヴィーノをジョローム・ロ・モナコ、ジゼルダをドイテコム、オロンテをドミンゴ。ライモンディの一人舞台といっていいでしょう。パガーノというルサンチマンの怪物に加害者と被害者、両方から光を当てて立体的な像に結んでいます。ドイテコム、骨太のお嬢様、幕切れの大見得は鋼の切れ味。ドミンゴ・・・、うーん、ご本人的にはなかったことにしたい録音かも・・・と思わないでもないです。
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