GO HOME HOME     GO INDEX 作品別インデックスへ

Leafベッリーニ 「清教徒」 (2004年4月27日〜2004年6月15日の日記より)


Money Changes Everything?

 聖書というのはありがたい書物なんであります。どんくらいありがたいかっていうと、聖書のおかげで死刑台送りから救われた男がいるくらい。
 1611年、イングランド、羊泥棒の罪で死刑判決を受けたアーチ・アームストロング、死刑囚のお約束の最後の望み、彼が望んだのは冷えた1パイントのビールでもなく、子羊のもも肉のローストでもなく、聖書でした。この年、イングランド国王ジェームス1世の命により初の英語の聖書「欽定訳聖書」が世に出たばかり。羊泥棒アーチはその聖書を読みたいと願ったのです。何とも殊勝な心がけ、アーチの望みは叶えられ、牢獄の彼の元にできたてほやほやの欽定訳聖書が届けられます。ありがたいご本だからじっくりと読まないと、つーことは一日一行ってとこかな?慌てたのは看守、そんなことされたらアーチの死刑執行はいつのことやら。この顛末を聞いたジェームス1世、なかなかに知恵が回る男だ、300年の執行猶予を与えよう。かくして羊泥棒アーチは死刑台から生還し、残りの人生を宮廷をうろつき、つまみ食いをしながらのほほんと送りました。

 かようにありがたい聖書ですが、この本、ローマ教会がヨーロッパをカトリック(普遍的)に支配した中世からこの時代まで、実はほとんど読まれていませんでした。ラテン語ですから読める人間が少なかったし、読めたとしても一冊の値段が司祭の年収に相当しましたから、よほど裕福かよほど熱心でない限り、司祭ですら自分の聖書を持っていることは希でした。大部分の人は、司祭のお説教に引用される聖書の一部を聞きかじっていただけ、その司祭にしたって全部を読んでいるガリ勉は少数派、たいていは修道院で習ったいい加減な記憶を頼りに、もっともらしいでっち上げで説教をしていたにすぎませんでした。そんな聖書が17世紀初頭には死刑囚に差し入れされるほど一般に広まっていたのです。それは1440年のグーテンベルクによる活版印刷の発明による出版物の大量生産、大量生産による価格破壊がもたらす読者層の拡大という相乗効果の賜物です。宗教改革の主戦場はこの情報戦にあったのです。

 戦いの火ぶたは1517年、ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に打ち付けた「九十五カ条の論題」で切って落とされます。ラテン語で書かれたこの「免罪符押し売り反対声明」はすぐにドイツ語に翻訳され、さらに国境を越えて各国語に翻訳され、あっという間に広まりました。

 ローマ教会の教えの根本は「御利益」です。神様に救われたいのなら良いことをしなさい、たくさん良いことすればそれだけ確実に救われます。人々に施しするのも立派な良いことです。いちいち貧しい人に小銭配るのは大変だろうから、まとめてローマ教会に寄付するのがお薦めですよぉ、早い話が善行によって救済を「買う」わけです。この理屈から言えば免罪符を買うことだって、その売上はローマでパパさんの住んでおられるサン・ピエトロ大聖堂のリフォーム代になるわけですから、立派な善行です。
 ルターがブチ切れたのは免罪符の販売代理店が高利貸しのフッガー家だったからではなく、まさに「免罪符が善行である」という本質だったのです。善行によって救済を得る、この行為の主体は得る側の人間です。神は、レジの向こうで善行と引き替えに救済を袋に詰め込んでいる人の良いおっさんに過ぎません。ルターは救済の主体は神であると説きます。善行で救済を得ることはできない、神の愛にすがることで救ってもらう以外に救済はない、ルターは救済観に「コペルニクス的転換」をもたらしました。
 善行を重ねることが救済を意味しないとなると、善行を重ねても地獄行きってこともありっつーこと、というカルヴァンが登場します。カルヴァンによれば、神は誰を救うかを自分の手帳に既に記入済み、このリストに載っていない人間は何をやっても無駄!というものです。自分をリストに載せてもらうこともできず(これだと御利益に逆戻りしてしまいます)、リストに載っているかどうかを知ることもできない(神は情報公開などしません)、全ては神によって予め決められているのです。ちょこっとでいーからヒントを!うーん、救われると決まっている人間はきっと敬虔で勤勉な暮らしをしてるね。修道院に入る?あんなもん、祈るだけで何もせんでしょ?怠け者の代表です。敬虔な生活とは一生懸命働くこと、その結果お金持ちになったらどうするって?イエスは「貧しき者は幸いなり」と言われた?聖フランチェスコは「清貧」を説いた?ちっちっ、それは怠け者の理屈です。働いて成功することが救済への希望、皆の衆、大いに働け!大いに稼げ!

 イングランドの宗教改革はヘンリー8世の離婚騒動から始まります。ヘンリーは神学論争には何の興味もありませんでした。自分の意志に従わないローマ教会をイングランドから追い出したかっただけ。修道院解散令も教会の財産が欲しかっただけ。ヘンリーの娘エリザベス1世も神様には無関心でした。エリザベスにとって宗教問題は心の問題ではなく統治の問題でした。カトリックを弾圧したエリザベスですが、それは彼らがカトリックを信じていたからではなく、国教会の礼拝に参加することを拒んだからです。何を信じるかは各自の心の問題、しかし、国が決めた礼拝に参加しないのは統治の問題、建前で国教会に従ってさえいれば本音の部分で何を信じようが勝手におし、わらわの作った法に従っている限り、坊主の派閥争いなんぞに興味はないわ!

 代々の国王たちがプロテスタントを許容したのは、そのおまけにくっついてくる「王権神授説」が欲しかったからです。「国家の王権はローマ教会を経ずに直接神に由来する」、カール大帝以来、王冠を国王の頭に載っけるのはローマ教会の役目でした。この王冠の仲介役を放り出すことはあらゆる王様の夢だった、それを実現させてくれるなら、ルターでもカルヴァンでも鰯のアタマでも良かったのです。
 お互いの利害で危うい均衡を保っていた国王様御用達の国教会、カルヴァン派の清教徒、ローマカトリックの三すくみ状態はやがて破綻します。エリザベスほど現実主義者でなかったジェームスがカトリック追い出しに成功、もう一方の清教徒も追い出しにかかります。マジで殺されると信じた一部の清教徒は遠くアメリカ大陸まで逃亡し、かの地を勝手にニューイングランドと名付け、神権政治を目指します。

 ジェームスの後イングランド国王となったチャールズ1世、生来病弱でひどい吃音、何言ってんのか側近にも分からないという厄介な王様、おまけに根クラ、宮廷も議会も嫌い、一人で本を読んでいるのが好きという、本来、王様には向いていない男でした。さらにその王妃がカトリック国フランスのアンリ4世の娘アンリエッタ、一波乱ありそうでしょ?

 ヘンリー8世の修道院解散とその領地の払い下げは多くの新興地主を生み出しました。そして、この時期イングランドの人口は急増します。地代とパン代は急騰し賃金は急落、貧富の差が一気に広がります。その成金地主たちの拠り所はカルヴァンの「富は善」、稼げば稼ぐほど天国に近づくのですから、こりゃたまりません。
 かくして、絶対王政維持には地主どもと彼らの構成する議会が邪魔なチャールズと、やたらと税金取りたがるチャールズが邪魔なジェントルマン(新興地主)たちの対立が始まります。
 1628年、議会は「権利請願」をチャールズに突き付けます。議会の同意なしの課税、国債の押し売り、不当な投獄を禁止するという内容。チャールズはその腹いせに翌年に議会を解散し、この後11年間招集しませんでした。その間、チャールズと側近たちはやりたい放題。側近たちに乗せられたチャールズはここで致命的な過ちを犯します。スコットランドに対して国教会を強制し、長老会派を土俵に上げてしまったのです。教訓「一度に二面の敵と相対するのはマズい」。スコットランドの反乱制圧の費用を集めようと11年ぶりに議会を招集したチャールズですが、集まった議員たちが増税を認めるワケがない、この議会は3週間で解散。取り敢えず間に合わせの軍隊でスコットランドに進軍した金欠チャールズは、あっさりと押し返され多額の賠償金を要求される始末。弱り目に祟り目、カトリック弾圧を止めろ!アイルランドでも反チャールズの反乱が起こります。教訓「一度に三面の敵と相対するのはさらにマズい」、複数の戦争が同時進行、チャールズは、もう一度議会を招集して何とか金を集めるしか道がない。しかし総選挙では議会派が王党派を上回り、チャールズ、いー加減にせい!の大合唱。逆ギレのチャールズは、1642年、議会派の逮捕を目論んで失敗、イングランドは内乱に突入してしまいます。

 フランスに里帰りしてた王妃アンリエッタが援軍を引き連れてご帰還、僕の奥さんカトリックなんよとアイルランドを丸め込んだチャールズ、議会派はスコットランドと手を組み、もう誰が敵か味方か識別不能。一応戦争慣れしていた王党派有利で進んだ戦況も、清教徒クロムウェルの「鉄騎兵(アイアンサイド)」の登場で形勢逆転、1645年のネーズビーの戦いで完敗したチャールズは、これまでのいきさつも忘れてスコットランドに逃亡します。パパの故郷だから助けてくれると思ったようですが、お坊ちゃんは甘いんだよなー。スコットランドはチャールズをさっさと議会派に売り渡します。議会派勝利で終わったかに見えた内乱ですが、今度は議会派内で独立派(徹底的に闘うぞー!)と長老会派(テキトーなところで手打ちにせん?)の内輪もめが始まり、さらに独立派からより過激な平等派が分派、もう誰が何やら分かりません。この機に乗じて再びスコットランドに逃亡したチャールズ、スコットランドは長老会派を後押しするなら話に乗らんでもないでぇと提案、チャールズとスコットランドは連名で独立派を解散させよとイングランド議会に布告します。王党派の生き残りと長老会派とスコットランドの「なんちゃって連合軍」対「清教徒のアイアンサイド」はクロムウェルの圧勝。チャールズ、今度こそ絶体絶命です。

 内乱を軍事力で押さえ込んで今や鼻息の荒い独立派は、長老会派を議会から追い出し、56人の「残り物議員」はチャールズに死刑を宣告します。1649年1月30日、ホワイトホールでイギリス史上唯一の国王の処刑が実行されます。「余は今、現世の王冠を捨てて不滅の王冠を被る・・・」、チャールズの最後の言葉です。

 さて、チャールズ亡き後、権力をその手に握ったクロムウェルは、オランダに亡命中のチャールズの息子チャールズ2世をアイルランドが承認したことに腹を立て、アイルランドに侵攻します。「清く正しい」アイアンサイドがクソ真面目にお仕事した後はペンペン草も生えません。アイルランドは農地の大部分を奪われ、人口の半分を失います。しかし、これはまた別のお話。

 カルヴァン主義の清教徒が実権を握ったことで、イングランドではもう一つの血を流さない内乱が勃発します。それは「教会」対「居酒屋」です。異教に由来するイースターやクリスマスさえ「迷信」と攻撃する清教徒たち、日曜日は安息日、神様のことを考える以外は家事も娯楽もクシャミもできなくなります。せっかくの休みなのに・・・、息抜きを求める人々は居酒屋に集まります。「敬虔な人々」が教会で聖書を読み、「呪われた人々」が居酒屋でくだを巻く、清教徒政権は、今度は居酒屋と商店の日曜日の営業停止を命じます。これが当時のイングランド名物の「暗い日曜日」・・・。

 こぼれ話を一つ、11世紀、シリアから帰国した十字軍が珍しいレシピを持って帰りました。それはシャルバートと呼ばれる果物を使った冷たいお菓子、つまりシャーベット、これがアイスクリームの起源です。シチリアからフィレンツェに伝わったアイスクリームは、1533年、メディチ家のカテリーナとアンリ2世の結婚によってフランスに伝わり、チャールズの妃アンリエッタによって初めてイングランドに上陸。このアイスクリームをこよなく愛したチャールズ、彼はアイスクリーム職人に多額の給料を払い、そのレシピは王室の最高機密扱い。チャールズの処刑によって独占から解かれたアイスクリームはやがて世界中に広まって行きます。清教徒たちがイスラム生まれの甘くて冷たい美味を弾圧したかどうかは、残念ながら私は知りません。


参考文献  「絵画で読む聖書」(中丸明)
        「西洋の歴史」(ミネルヴァ書房)
        「宗教改革とその時代」(小泉徹)
        「クロムウェル」(ケン・ヒューズ)
        「日本アイスクリーム協会ホームページ」


第一幕 花婿、逃亡する

 イングランドの西北、プリマスにそびえる清教徒軍の陣取る城塞。東の空が白み始め、歩哨の交替、清教徒軍の指揮官ブルーノの激励に兵士たちが答えます。クロムウェルの戦士よ、朝の賛美歌を捧げよう!城主ヴァルトンの娘エルヴィーラ、その恋人アルトゥーロ、清教徒軍の将校リッカルドとヴァルトンの弟ジョルジョが賛美歌に加わり、やがて神を讃える声はエルヴィーラの婚約を祝う喜びに変わります。一同の声が澄み切った朝の空気の中に消えていき、城壁に残ったのはリッカルドとブルーノ。エルヴィーラに恋しているリッカルドが嘆きます、恋を失った私に何が残っているというのか・・・。ブルーノが友人を案じます、何があった?エルヴィーラの父上ヴァルトンは彼女を私の妻にと約束して下さった。ところが、エルヴィーラはアルトゥーロを愛していると知ったとたんに、娘を諦めてくれと。私に残されたのは苦痛と不幸だけ。君は武将だ、祖国と名誉こそが君の本分のはずと友を叱咤激励するブルーノですが、リッカルドの嘆きは収まりません。

 窓辺に佇むエルヴィーラは父のように慕う叔父ジョルジョに秘めた苦悩を打ち明けます。彼女の愛するアルトゥーロは王党派の騎士、仇敵の男を恋してしまった女が幸せになれると?なれるとも、夢の騎士殿がやって来るのだから、彼が?そうアルトゥーロが。思わすジョルジョの胸で嬉し泣きのエルヴィーラ、お父様が許して下さったのね!お前の祈りと涙が届いたのだ、父上も皆もお前のことを思っているんだよ、幸せであれと。
 角笛が聞こえる、誰がお見えに?高貴なるアルトゥーロ・タルボ伯爵が!もうこれ以上待てない、こんな喜びがあって良いのでしょうか?羽根が生えたかのように軽やかに走り去るエルヴィーラ。

 広間ではアルトゥーロを迎える一同が勢揃い。伯爵様に敬意を!平和と愛が訪れますように!祝福を浴びながら見つめ合う恋人たち、ジョルジョもヴァルトンも若い二人の輝く美しさに平和な未来を託します。ヴァルトンがアルトゥーロに信頼の証の通行証を手渡し、ジョルジョに後を頼んで中座します。城主にはやらねばならない勤めがあるのです。ブルーノに導かれて一人の貴婦人が登場します。やんごとなき御婦人、私は貴女を議会まで護送致します。この貴婦人こそ処刑されたチャールズ1世の后でありフランス国王の娘エンリケッタ。婚礼の支度をしなくては、立ち去る一同。
 立ち去ると見せかけて残ったアルトゥーロがエンリケッタの前に跪きます。貴女の騎士の忠誠を信じて下さい、私にご命令を!遅すぎたわ、騎士殿、私はじきに死ぬのよ、死ぬ?そう、断頭台が待っているの。いいえ、王妃様、希望はあります。僕が貴女を救います!

 ジョルジョに伴われて美しく着飾ったエルヴィーラが登場、その手には婚礼のための純白のヴェールが。アルトゥーロ、どう?私きれいでしょ?4月の百合みたいに真っ白よ。一生懸命にヴェールを整える花嫁、これでどうかしら?試してみないと、貴女の頭に載せて見てよろしい?エルヴィーラはエンリケッタの頭上にそっとヴェールを被せます。何てきれいなのかしらと息を弾ませるエルヴィーラ、不安も苦悩も隠しておくれと静かに顔を伏せるエンリケッタ、天よ、この罪なき生け贄の女性を私に救わせ給え!と拳を握るアルトゥーロ。
 さぁ、早くお支度を、一同に囲まれてエルヴィーラが華やかに退場。純白のヴェールは花嫁のもの、死人のものじゃないわ・・・、ヴェールを取らないで!願ってもない変装です、さぁ、王妃様、僕とご一緒に!
 待てぃ!剣を引っさげてリッカルド登場。愛する人を奪われて黙っている俺ではない、決闘だ!うぅ、それどこじゃないのにと言うかと思ったら、何と喜々として剣を抜くアルトゥーロ。止めなさい、このバカ男ども!ヴェールを上げるエンリケッタ、囚人だ!ということは・・・、二人とも行け!とか何とか言って後ろから斬りつける気だろ?さっさと逃げろ!マジで?手を取り合って逃亡する王妃と騎士をバーカと見送るリッカルド。
 花嫁を囲んで一同が登場します。花婿はどこ?ここにいました、だからどこ?出て行きました、城壁の向こうに囚人を連れて。なにぃ!ヴァルトンは大慌て、追え!裏切り者を追え!

 婚礼を放り出し臨戦態勢の城の中、挙式直前に花婿に逃げられたエルヴィーラが彷徨います。アルトゥーロ、私はもうあなたの花嫁じゃないの?アルトゥーロ・・・、帰ってきてくれたの!良かった!教会に行きましょう、私たちは死ぬまで一緒よ、アルトゥーロの幻に熱く愛の言葉を浴びせるエルヴィーラ。何と痛ましい、裏切り者は許されない、一同が嘆く中、復讐を誓うリッカルドと神に祈るジョルジョ。

 裏切り者は呪われよ、天も地も彼らを呪え、永遠の苦悩を与え給え!狂乱する花嫁を案ずる嘆きはいつしか怒りに変わります。
 アルトゥーロ、私から逃げたの?どうして?あなたは幻なの?私の心を引き裂いて、私を殺すのね・・・。

 はい、ストーリーは滅茶苦茶です。いくら娘が惚れているからといって、王党派の貴族と結婚させるなんざ、ヴァルトンの旦那もその弟のジョルジョもいー度胸というか何というか・・・。勝手に王党派と手打ちしてしまったらそれは即、清教徒派に対する裏切りです。物わかりの良い父も優しい叔父もあっという間にボコボコにされてしまいます。チャールズの未亡人を処刑する?んなことしたらフランスが黙っているわけないでしょう。エンリケッタはアンリ4世の娘、ルイ13世の妹、時のフランス王ルイ14世の叔母ですよ。叔母様の首が飛ぶとなれば、ルイは大軍引き連れて喜び勇んでドーバー海峡を渡ったことでしょう。カトリック王の妹が処刑されるとなれば、いくら日和見とは言え、ローマのパパさんインノケンティウス10世だって黙っちゃいないでしょう。フランスが大手を振ってイングランドに侵攻となれば、いくらぼんくらとは言え、神聖ローマ皇帝フェルディナンド3世だって黙っちゃいないでしょう。終わったばかりの30年戦争がガキの喧嘩に思えるくらいの大喧嘩が始まっていたはずです。いや、マジで、オペラの台本で良かった・・・。

 パパや叔父様よりももっとすごいことをやってのけるのがエルヴィーラの元フィアンセのリッカルド、何しろ王妃を連れた王党派の騎士に「逃げろ」だもんなー。アルトゥーロが囚人連れて逃げたと騒いで恋敵を追い落とす作戦のようですが、ホントに逃げ切ってしまった場合、どうやって責任取るんですか?追っ手が首尾良く捕まえた場合、どうやって言い訳するんですか?

 この作品、タイトルは「清教徒」ですが、ピューリタン的生真面目さはゼロ、ローマ・カトリック的えー加減さ満点、主義主張よりも好いた惚れたが、義理よりも人情が先行し、登場人物は全員、あの世の救済よりも現世の幸福を追い求めるのに忙しく、神を讃える歌と男と女の甘いため息と恨み節が、文脈上は矛盾だらけながら音楽的には何の矛盾もなく混在しています。
 ベッリーニの歴史感覚はかようなものだったのでしょう。しかし、だからこそこの第一幕はあまりに美しい。リッカルドの「永久に貴女を失った」の甘くてほろ苦い流麗な旋律、アルトゥーロの「愛しい乙女よ」のスリリングな最高音は三点嬰ハ音(ハイCよりさらに半音上)、エルヴィーラの「私は愛らしい乙女」の華麗な装飾音、フィナーレ「教会に参りましょう」のアンサンブルにはただただ溜め息あるのみ・・・。
 だいたいですね、最初の賛美歌を王党派のアルトゥーロがなぜか清教徒と一緒に歌っちゃってるんです。テノールがブルーノ一人じゃ頼りなかったのかも知れません。しかし、ヴェルディなら絶対にここでアルトゥーロに歌わせたりはしません。のっけからベッリーニはアッケラカンとネタ晴らしをやってのけています。この先少々のトラブルはありますが、調和が悲劇に打ち勝つことが約束されているのは音楽から明らか、この作品にはハッピーエンドしかないのです。

 アッケラカンといえばエルヴィーラ、王党派の恋人とは結婚できないという真っ当な悲劇では狂乱しなかったくせして、彼が女連れて逃げたという下世話の悲劇では狂乱できてしまうんですから、何とも女らしいというべきか、バカバカしいというべきか。バカバカしいついでに、未亡人とは知らないとは言え、物憂げな囚われの女に自分の婚礼のヴェールを被せるのはやりすぎです。自分の幸せに酔っ払ってしまい、エンリケッタの表情の奥が読めないし読みたくない、隣にいたら鬱陶しいタイプかも。
 いーかい、エルヴィーラ、誰かが幸せな時だって誰かが嘆いている。君は幸せだろうけど、リッカルドのこと考えたかい?君が舞い上がれば舞い上がるほど彼は落ち込んでしまうんだよ。君がウットリと手にする花嫁衣装、憂い顔の彼女にはそれは喪服にしか見えないかも知れない。それが分からないほど君はおバカさんなのかい?困ったちゃんだね、ちょこっとお仕置きだよ、何かそんなヒトの良い神様の軽い声が聞こえてきそうです。
 このテキトーな悲劇、テキトーな歴史、テキトーな狂乱、全てテキトーな台本の上に、テキトーどころか、上演するなら最高ランクのテノールとソプラノ揃えて、アンサンブルに美しさと危うさを同時に盛り込む腕持ってかかってこんかい!のガチンコ勝負の音楽、何と悩ましい作品であることか。

 さて、エルヴィーラがエンリケッタに被せたヴェールですが、婚礼衣装に白が使われるようになったのは18世紀末のこと、この時代のイングランドでは白は喪の色でした。ベッリーニも台本を書いたペーポリもそんなこと知ったこっちゃなかったのでしょうが、そう思って聴くとヴェールを巡る花嫁と未亡人のやりとりが妙に意味シンです。


第二幕 花嫁、壊れる

 花婿の逃亡で結婚式はおじゃん。暗〜い城内では人々が傷心の花嫁を気遣って歌います。何て恐ろしいことが・・・どんなご様子?ジョルジョが語るのは花嫁衣装を身に纏い、ただ一人で結婚式を演じては肝心の花婿がいないことに気付いて涙に暮れる、そんなエルヴィーラの姿。何とお労しい、一同が貰い泣きしているところにリッカルド登場。アルトゥーロは王妃の逃亡幇助につき正式に死刑判決を受け、城主ヴァルトンは身の潔白を証明した、我らが指導者クロムウェルは憎き王党派には慈悲は無用と宣わったとのこと。
 私、死にたいの、死なせて下さい、髪を振り乱したエルヴィーラがフラフラ登場、あの方は私に誠実を誓ったわ、それなのに逃げてしまった・・・、だから私死にたいの・・・。あなた、どなた?私が分からないのか?呆然とするジョルジョ、あなたはお父様・・・だったかしら?アルトゥーロ、私を祭壇に連れて行って、私と踊って、誰だかよく分からないけど、あなたも結婚式に出て下さいね、リッカルドの手を取るエルヴィーラ、泣いておられるの?恋しておいでなのかしら?恋をなさったことおあり?
 私の命をとるの?それとも恋を返して下さるの?月が太陽にかき消される前に帰ってきて、アルトゥーロ、帰ってきて・・・。

 君は彼を救えるはずだ、意を決したジョルジョがリッカルドに語りかけます。できません!王妃が逃亡した時のことだ、あれはアルトゥーロだけの罪なのか?何ですって!彼の死刑判決は議会の意志、私には私心はない、価値のない男が死ぬだけです。私心がないだって?君には私心しかない。残りの生涯を後悔で塗り潰す気か?君は二人の人間を破滅させたんだ、断頭台に消えるアルトゥーロ、そして、見てみろ、彷徨い歩いては泣き叫ぶエルヴィーラの姿を、私はあなたのせいで死にました・・・、君には聞こえるはずだ。エルヴィーラの亡霊には伏して許しを請います、アルトゥーロの亡霊ならば地獄に送り返すのみ!
 リッカルド、君には優しさが残っているはず・・・、ジョルジョの言葉に涙を拭うリッカルド、私は愛を知っている、だから祖国を愛している・・・、もしも夜明けの王党派の総攻撃の先陣にアルトゥーロの姿があれば、私は彼を討つとリッカルド、もし君が彼を討てば私は君に剣を振り上げる!とジョルジョ。

 闘うとも、力の限り、命よりも名誉を愛する!血に染まった勝利を手にするのは誰か、登る朝日が全てをはっきりと照らすだろう!

 ぶっ壊れた姫様を案ずる一同の嘆きが重々しく展開するのですが、肝心の姫様が・・・。彼女ゆえにアルトゥーロをはめたリッカルドに対して「恋をなさったことがおあり?」と来た。リッカルド、さぞ辛かったであろう・・・。第一幕でエンリケッタに純白のヴェールを被せる場面といい、この場面といい、エルヴィーラはお育ちの良さゆえの無頓着というよりも自己中心ゆえの無神経。

 登場した時からエルヴィーラには「現実」がありません。王党派の騎士との結婚を巡って、父ヴァルトンが、叔父ジョルジョが、どれほどの危ない橋を渡ったか、この結婚がイングランドの未来に何をもたらし何を奪うのか、全然考えておりません。彼女の愛の許容量は何とも小さくて、アルトゥーロお一人様で一杯。夫を殺され自分も死を突き付けられたエンリケッタも、戦場から帰ってみれば婚約者を失っていたリッカルドも、大事な捕虜を奪われて下手すれば裏切り者の汚名を着せられそうな父ヴァルトンも、愛する姪のための自分の尽力が全て裏目に出て今や一族の危機に直面している叔父ジョルジョも、明日の夜明けの戦いで命を落とすであろう兵士たちも、ぜーんぶオツムの外。

 肝心のヒロインに現実がないわけですから、作品に現実があるわけない!ここから先、このオペラの物語は聴く人間が自力で紡いでいく他ありません。えらいことになりました・・・。しかし、心配ご無用です。聴けば分かります。ベッリーニを信じて踏ん張って下さい。

 こんな姫様、放っとき!そう言いたくなりますが、その言葉を押し止めるのが「私に希望を返して下さい」から「いらっしゃい、愛しい方、月が空にかかっています」まで延々と繰り広げられるソプラノの超絶技巧です。ベッリーニの筆は自由自在に空を飛び、華麗に散りばめられたコロラトゥーラが、緩急を美しく織りなすオーケストラが、どうにも感情移入のできない姫様の手前勝手な嘆きを、スノードームの中の嵐のような自己完結型の狂乱を、一つの宇宙に昇華させております。そりゃ、その宇宙はちっぽけなもんです。世界観もなければ主張もない、踏み潰したところで誰も気づかないようなミニチュア宇宙です。
 大きな愛は世界を救うかも知れない、大きな愛は人々の未来を変えるかも知れない。でも、小さな人間には小さな愛しか持てないし、それが精一杯だからといって、大きな愛の前に踏みにじられなければならないのか?
 目の前にいる「一人」を愛せない人間が「人々」を愛することができるのか?「一人」を救えない人間に「人々」が救えるのか?「一人」への愛ゆえに傷ついたことがない人間が「人々」を平気で傷つけるのではないか?

 この狂乱の場、長丁場ですし、難所てんこ盛り、非常に難しい場面です。マシンのような正確なテクニック(例えばモーツァルトの「魔笛」の夜の女王のような)だけでは乗り切れません。ばらけそうになるストーリー(とゆーか、最初から水面下ですが)を何とか次に繋がなければ物語はここで失速します。
 エルヴィーラは、小さな宇宙の小さな愛を完璧に歌い上げることで、精一杯の小さな宇宙が大きな宇宙の大きな愛への道筋を照らすことがあるのだと、物語の外に示さなければならないのです。

 次の物語、それは、ジョルジョとリッカルドの二重唱「もしも闇の中に白い幻を見るのなら〜ラッパを鳴らせ」です。バリトンとバスが美しくも逞しく絡み合う旋律、姫様は困ったちゃんだけど、いえ困ったちゃんだからこそ愛おしく思う男二人、前半は交互に歌うことで二人の対立、後半はトランペットに乗せて勇壮な祖国への愛を、美しく織りなす旋律。
 未だにしつこくアルトゥーロ憎しのリッカルドの頑なな心に、ジョルジョの優しく厳しい言葉がぶつかります。恋敵は許せないけどイングランドの人々のためには命を賭けて闘うと歌うリッカルド、イングランドの人々が救えるのなら恋敵だって救えるはずだと歌うジョルジョ、男二人は主張は平行線のままなのですが、旋律は見事に溶け合います。
 リッカルドは夜明けにはアルトゥーロを討つと歌います。ジョルジョはそうなりゃリッカルドを討つと歌います。そんな二人が「力の限り闘う!」と歌うのですから、これは果たし状のはずなのですが、旋律の方がそんな二人の遙か上を流れています。この先何がどうなろうが、小さな宇宙と大きな宇宙は和解する、台本はそんなことこれっぽっちも考えておりませんが、ベッリーニの旋風のような誰にも止められない筆が、台本にないテーマを「図らずも」この作品に持ち込んでしまったのです。さて、この落とし前、どーするかね?


第三幕 強引に、みんな幸せ

 エルヴィーラの居室の窓の下、アルトゥーロ登場、敵は僕を見失った、祖国よ、恋よ、神よ、再び帰って来られた、何という喜び!どうやらエンリケッタを王党派に送り届けただけで帰ってきた様子。エルヴィーラのもの悲しい歌声が聞こえます。エルヴィーラ!この森でかつて僕が歌った歌を覚えているかい?
 エルヴィーラ、僕はなぜ躊躇う?それは僕が故国を失ったさすらい人だから、悲しみを道連れにした旅人だから・・・。
 露台にふらふらと登場したエルヴィーラ、アルトゥーロは思わずその足下に跪きます。帰ってらしたのね!愛しい方、私の悲しみは終わりましたの?終わったとも、もう決して離れない!どこで何をしてらしたの?あの女性を愛していたのね、だから一緒に行ったのね?エルヴィーラ、彼女は王妃なんだ。王妃様・・・?やっと分かったわ!
 誤解が解けてよりが戻ってアツアツべたべたのご両人ですが、太鼓の音と共に清教徒軍の雄叫びが。あれは何?また私から逃れると?いいえ、絶対に離すもんですか、誰か、助けて!

 姫様の叫び声に清教徒軍がぞろぞろ登場。騎士殿、いや、反逆者、もう逃げられんぞ!得意満面のリッカルド、花婿さん?何だってまた帰ってきたのよ?どのツラ下げてってゆーか、要領悪いってゆーか。わいわい、がやがや。
 タルボ・アルトゥーロ、祖国は君に死を命じる!死ぬ?誰が死ぬの?死という言葉がエルヴィーラを現実に引き戻します。彼が死ぬなら私も死にます!僕は君と一緒だよ、抱き合う恋人たちを前に為すすべもない一同。
 反逆者に死を!誰かお慈悲を!一緒に死にます!復讐を!もう訳の分からない愁嘆場を救ったのは涼しげに響く角笛の音、一人の使者が登場します。

 スチュアルディ家は敗れた、王は敗れた!罪ある者は許された!愛する魂に幸あれ、幸福が今ここから始まる!

 強引なエンディング、舞台の上のご一同様は何か無理矢理納得しているような・・・。

 エンリケッタを王党派陣営に送り届けて帰ってきたアルトゥーロ、よくも無事に帰れたもんです。僕、ほらっ、裏切り者のアルトゥーロだよ、王妃様送って来たの、んじゃね、確かに送りましたんで、バイバーイ・・・こんなのありですか?
 エルヴィーラはどうも狂乱癖がついたみたいです。アルトゥーロはちゃんとバカ正直に帰ってきましたし、彼が「駆け落ち」した女性は王妃と判明、全てがきちんと収まったというのに、太鼓の音に過剰反応して再び狂乱、火に油を注いでおります。
 花婿を反逆者として断罪するご一同様ですが、当のご両人がいきなり「心中モード」に突入し、嘆きも復讐も不完全燃焼のまま燻るところに、王党派が負けたんでアルトゥーロは無罪というワケの分かんないお達し。スチュアート家が負けようがどうしようがアルトゥーロのやったことが消える訳ではないのですが、みんなこれで納得してしまうんですから仕方ない。

 王党派が敗れたと聞いても嘆くどころか清教徒たちと一緒になって喜んでいるアルトゥーロ、取り敢えず自分の男が帰ってくれば後はどうでもいいエルヴィーラ、主義ではなく恋ゆえに花婿を陥れたはずなのに、主義が勝ったと恋を捨てるリッカルド、花婿殿、何で帰ってくるかなぁと困惑するジョルジョ、このトホホな展開を強引にコーティングしてまとめる甘い砂糖のごときフィナーレの四重唱「不幸な乙女よ」。

 コトの発端は彼氏が女連れて逃げた!です。要するに痴話喧嘩です。ま、そのうちにアタマ下げて帰ってくるんでない?あんな男忘れてさ、次の男探しなよ、そんな程度のちっぽけな火花が点火した導火線の先が大爆発、「愛する魂に幸あれ、かつての悲しみと等しい幸福がこの時に始まる!」、幸せになるのは、取り敢えず狂乱すれば望みが叶うと変な味をしめてしまったかのような困った姫様と、清教徒と王党派、両方をしらっと裏切りつつ、それを自覚できないかのような困った婿殿、こんな娘とこんな婿を持ってしまったヴァルトンが登場しないのも妙に納得、これじゃ出られませんって。カルロ・ペーポリの台本が描いたもの、それは書いた本人だけが悲劇のつもりのドタバタ喜劇です。

 しかし、ベッリーニは違います。厳しい政治と宗教のせめぎ合いの中の幼く身勝手な恋、ベッリーニはこの恋を心の底から「良し!」として精緻な旋律で祝福しました。悲劇であるはずが誰も死なず、大上段に振りかぶったものの落としどころのなくなってしまった台本を、ベッリーニが救いました。

 この作品はベッリーニの絶筆です。この作品の成功の後、わずか34歳で世を去った早熟な天才は、まるでその残り少ない命を愛おしむかのように、彼の去った後の世界を生きる人々を慈しむかのように、彼の「最後の花嫁」をひたすら美しい音楽という純白のヴェールで飾りました。
 幸せに生きたいと思えばこそ、人は悲劇的な喜劇を、喜劇的な悲劇を一生懸命に演じてしまう、その少々みっともない有様を祝福しよう、「清教徒」は、生き急いだベルカント・オペラの天才の「白鳥の歌」として音楽の神様が特別にあつらえた作品なのかも知れません。

 ところで、負けたスチュアート家ですが、オランダに亡命していたチャールズの息子チャールズ2世がどっこい生きている。「イングランド、スコットランド、アイルランド、及び植民地連合国家護国卿」っちゅう長いだけで何のこっちゃさっぱり分からない地位に就いたクロムウェルのクソ真面目な独裁にうんざりしていたイングランドは、この根っからの女好きの新国王を大歓迎します。ペストの大流行、ロンドンの大火、どうも疫病神のお気に入りみたいだったチャールズ、彼はフランスのルイ14世(アンリエッタの甥)に清教徒を「売り」ます。年120万ポンドの年金をくれたらイングランドをカトリックにするってとんでもない約束をしてしまったのです。これに怒ったのは(怒らいでか!)議会、1673年、「審査法」制定、カトリック信者は政府の要職から閉め出されてしまい、チャールズの弟ヨーク公ジェームスもカトリックだったもんで当然王位継承者のリストから外されてしまいます。当のチャールズはというと、あれこれうるさいというので議会抜きで好き勝手、幸いというか不幸というか、フランスからたんまりお小遣い貰っているんで遊ぶ方が忙しく、政治らしきことは何もしませんでした。おにーちゃんのお小遣い稼ぎのせいでふて腐れていたジェームズですが、議会の内部分裂に助けられジェームズ2世として何とか即位。しかし・・・、1688年「名誉革命」、1689年「権利章典」、1701年「王位継承法」、アンリエッタの息子たちは揃いも揃って出来が悪かったようで。

 そのアンリエッタ、実はチャールズ1世が処刑される5年も前に夫と子供を残して実家であるフランスに帰国しております。カトリック教徒の新天地を求めてボルティモア男爵が建設した植民地であるアメリカ合衆国メリーランド州は、このアンリエッタ・マリアにちなんで命名されました。


世界の片隅で、愛をさけぶ

 この作品の特徴、それは美しい音楽とハチャメチャな台本、まるで「美女と野獣」のような組み合わせのどちらにも「私」しかないということです。私がいて、私たちがいて、その周囲の他人がいて、それで社会が出来上がっているわけですが、この作品に関しては、社会どころか「私たち」すら「私」の前に膝を屈します。

 エルヴィーラ、「私」の悲劇に狂乱する彼女ですが、エンリケッタの憂い顔が見えませんし、アルトゥーロの悲劇(恋のために同志を裏切ってしまった男)にも、リッカルドの悲劇(愛する女をよりによって政敵に奪われた男)にも全く無関心。彼女は清教徒派の大物一族の一員でありながら、お見事なくらいにそのことを自覚しません。自覚していたら怒り狂いこそすれ、狂乱に逃避することはしないでしょう。エルヴィーラはあくまでも自分の恋に忠実です。

 アルトゥーロは王妃を是が非でも救いたい、王党派からとっくに足を洗った身で何でいまさら?なぜならエンリケッタが不幸であり孤独であり、そんな彼女を救うことで、アルトゥーロは彼自身の不幸(政治的敗北)、彼自身の孤独(裏切り者)から逃れることができるからです。不幸を克服する一番安直な方法、それは不幸をシカトすること、アルトゥーロは王党派を裏切ったことで既に裏切っているエンリケッタ、彼のトンズラによって打ちのめされたエルヴィーラの前に、救済する者としてしゃーしゃーと登場します。彼女たちによって自己の優位性を維持できるからです。ところが、彼がシカトした彼の不幸は、死刑宣告によってその他大勢の前に明らかにされてしまいます。ここでもアルトゥーロは、自分の死をエルヴィーラの死とすり替えることで救済者であろうとします。アルトゥーロはあくまでも自分の優位性に忠実です。

 恋敵を陥れるために清教徒軍を裏切るリッカルド、彼はエルヴィーラを奪われた痛みを癒そうとして自らを裏切り者として陥れてしまい、さらなる痛みを被ります。誰にも言えない大きな秘密を抱え込み、その秘密を知ってそっと手を差し伸べるジョルジョを拒否し、「毒を食らわば皿まで」とばかりにウソを上塗りした挙げ句、裏切り者には死を!ととんでもないことを叫びます。裏切り者は死ななければならないのなら、自分はどーすんの?リッカルドはあくまでも自分の痛みに忠実です。

 ベッリーニの旋律は、「狂乱の場」においてカンタービレに寂しげな翳りを、カバレッタに華麗なパッセージを採用したことで、極め付きに美しい仕上がりを得る代わりにリアリティを失いました。アルトゥーロに現実離れした高音を与えることで、ベルカントの古典的な優美さを得る代わりに「救済する男」に不可欠な男らしさを失いました。結果として、音楽的に完璧な美しさを得る代わりに、人物造形の彫りの深さを、陰影を失いました。ベッリーニはあくまでも自分の美に忠実です。

 中途半端な狂乱、形式に囚われたひ弱な人物像、泣くに泣けない自己満足の台本、そして取って付けたようなハッピーエンド、これらは明らかにこの作品の欠点です。

 そんな欠点を敢えて正面から見据えた時見えてくる全く別の魅力、それは、「私」に対峙する「私たち」の優しさです。この作品中、「私たち」はタダの一度も「私」を否定しません。エルヴィーラの狂乱を案じ、アルトゥーロの出奔を嘆き、リッカルドの逃亡幇助は最後まで秘密のまま封印され、そして、エンリケッタは無事に逃げおおせます。

 彼らのドタバタは実にあっけらかんと現実と無関係です。イングランドの端っこの小さな城で男二人が一人の女を取り合った、はっきり言ってどーでもいい話です。このどーでもいい話をみんなして寄ってたかって盛り上げているのです。誰か一人くらい「んなこと、どーでもいーだろ!今、俺たち革命やってんだぜ!」と真っ当な言葉を口にすれば、舞台の上の人々も、聴いている観客も、我に返ってそーだ、そーだ!と大合唱始めそうなくらいのどーでもよさです。

 エルヴィーラもアルトゥーロも、そしてリッカルドも、自分の立っている場所で精一杯の声で「私」の愛を叫びます。彼らは自分のいるところが世界の中心だと信じています。誰だってそうです、自分が世界の中心です。誰にとっても自分が世界の中心であるということは、つまり、世界には中心がないということです。しかし、「私たち」には中心が必要です。それがなければ有象無象の集まりが「私たち」になることはできません。
 「私たち」は自分たちで決めた中心(国籍であれ、人種であれ、イデオロギーであれ、宗教であれ、はたまた金であれ)のある方向をみんなして見る一体感によって成立しますが、問題は「私たち」を構成している「私」は相変わらず私が中心であり、それはちっとも変わらないということです。「私たち」は実に脆く、脆いからこそ、常に中心を向くように「私」を促し、ある時には強制します。
 ところが、この作品では、「私」の悲劇に「私たち」が共感して共に涙するのです。「私たち」の中心であるところの政治と宗教が、その存続を賭けた戦いの最中に、世界の端っこで叫ぶ「私」の愛に寄り添い、それを守るのです。
 台本がこんなこと意図していたわけはなく(何たってデタラメだもん)、ベッリーニの美しい音楽が図らずも描き出したある種の夢のパラドックス、それを聴き取りたい作品です。

 さて、その後の「清教徒」たちに触れておきます。オペラの舞台イギリスでは、清教徒、国教会、カトリック、長老会が入り乱れ、どれも安定多数を取れないままにそのうちみんな疲れてしまいまして、結局、「どれもこれだけが正しいってことはないんでない?」「そりゃそーだ、何せ神様の名前唱えながら喧嘩してるもんな」「これってみっともなくない?」「うん、第一殴られると痛い」って感じで、宗教対立は痛み分けの果てに収束していきました。
 王様に殺される!と新大陸に逃げ出した清教徒たち、彼らは負け犬としてイングランドを後にし、新大陸に勝手に「神の国」の幻想を託しました。信仰のために祖国を捨てた以上後戻りはできませんから、そりゃもう必死です。新大陸にはちゃんと人が住んでいたのですが、「神の国」を建設するわけですから、それに抵抗する先住民は「悪魔の手先」です。彼らを追いやって建設されたのがアメリカ合衆国。
 アメリカ合衆国は世界で初めて憲法に政教分離を書き記しました(意外でしょ?)。アメリカ合衆国は国教を持ちません(これも意外でしょ?)。先住民族から分捕った広大な国土にあらゆる民族が流れ込んできたわけですから、当然そんなもん持てません。彼らはやたらと「God」を口にしますが、そのGodは、イエスでもあり、エホバでもあり、アラーでもあり、仏陀でもあり、ブラフマーでもあり得る、それが本来この国の憲法が定めたこの国の姿のはずです。
 「世界の片隅」で愛を叫んだ物語から約350年、唯一の超大国となったアメリカ合衆国は、「世界の中心」で正義を叫んでいます。我らの「世界の中心」は、彼らの「世界の片隅」です。この世界には無数の中心があり、だから中心はありません・・・、とぼそっと言わせて下さい。

 録音です。1953年のスカラ座、指揮はセラフィン、カラスのエルヴィーラが極め付きに美しい。悪声を逆手にとって、本来この作品にはないはずのドラマを聴かせてくれる「狂乱の場」は何とも切なくて、カラスの歌唱だけで台本を蹴飛ばして悲劇として成立しています。ディ・ステファノのアルトゥーロも大らかに健闘しています。但し、何カ所かカットされており、キーもオリジナルより半音下がっているところが数カ所あります。1973年のロンドン交響楽団、指揮はボニング、サザランド、パヴァロッティ、カップッチッリ、ギャウロフ、これ以上望めないキャストです。4人が4人ともベルカントのお手本のような歌唱、至難の旋律を軽々と消化していく驚異的な声は圧倒的でありながら優美、これが目下のところイチオシです。


GO HOME HOME     GO INDEX 作品別インデックスへ