HOME
作品別インデックスへ
ロッシーニ 「セビリアの理髪師」 (2001年3月16日〜4月8日の日記より)
床屋さんは忙しい
「町の何でも屋だよ!そこ、どいた!剃刀、はさみ、櫛にメス、こちらさんはカツラのお手入れ、そちらさんは髭を剃り、そっちの方は瀉血?で、手紙の配達?はいはい、ただいま。俺はまるで稲妻のよう」
忙しいったらないねぇと言う割に陽気に歌っているのは、セビリアの町の床屋さんのフィガロです。
セビリア・・・どこかエキゾチックで心惹かれる町。スペイン南部のアンダルシア地方最大の都市、この町の起源は古く、伝説には怪力のヘラクレスが建設したとも、古代タルテソス王国の首都であったとも言われていますが、このあたりの話は眉唾もん。本当は紀元前1世紀、カエサルがヒスパリスと名付けたローマ帝国の自治都市がセビリアの起源です。豊かに実るオリーブと小麦はローマ帝国の巨大な胃袋を満たすのに不可欠なものでした。8世紀にはイスラム圏に組み込まれ、カリフ朝の重要拠点となりました。当時、ヨーロッパをはるかに凌ぐ先進国だったイスラム世界、彼らの洗練された生活にはセビリア産の石鹸も重要でした。11世紀にカリフ朝が分裂するとセビリアを首都とするタイファが周囲を制圧、セビリア王国として独立します。しかし12世紀には再びイスラム世界の一部に逆戻り。大切な貿易拠点をイスラムから取り返せ!というスペインは、やっとのことで1248年にセビリアを奪回、13世紀のセビリアは経済的繁栄の頂点を極めます。その後は新大陸からの金と銀で貨幣を造る造幣局も置かれ、植民地貿易を独占。マゼランもベスプッチもこのセビリアから海に漕ぎ出しました。
19世紀初めにはナポレオンの侵略を受けますが、市民全員が武器を持ち勇敢に応戦、「英雄都市」と呼ばれます。20世紀には1936年に始まったスペイン内戦ではセビリアは反乱軍の重要拠点となります。
ヨーロッパとイスラムの交差点、カディス湾からジブラルタル海峡へ続く恵まれた立地条件と豊かな風土、その魅力的な姿のおかげで、入れ替わり立ち替わりの侵略者と戦い続けたセビリアの長く厳しい歴史は、タフで抜け目なく、誇り高く、そして自主独立を重んじる人間を育て上げました、そう、フィガロのような男たち・・・。
さて、フィガロは床屋さんです。ヨーロッパにおける床屋の歴史は古代ギリシアまで遡ります。アテネには髪や髭(ソクラテスといいアリストテレスといい、立派な髭の持ち主でした)の手入れとマッサージをする床屋がありました。お風呂大好きのローマ帝国では公衆浴場には必ず床屋が店開き。お湯に浸かってリラックスしてからノンビリと髪の手入れ、そこではきっと政治からゴシップネタまで色々な話に花が咲いたことでしょう。
ローマ人ほど衛生的でなかったゲルマン人の時代になると町の床屋は一旦姿を消します。キリスト教支配下の中世では床屋は修道士の仕事でした。あのてっぺんを丸く剃った河童頭を自分たちで何とかする必要からでしょう。当時の修道院は唯一の学校でもありました。そこではごく初歩的なものでしたが医学も教えられ、その結果それぞれの教団には病院が生まれます。
当然、色々な患者が来ます。中には外科的処置を必要とする人も来ます。普段からはさみや剃刀を使っているんだから慣れているだろう、というおっそろしくいい加減な理由から床屋担当の修道士が外科医ということになりました。
今でこそ外科医は医療の花形、「ブラックジャック」から「ER」まで人気がありますが、近世まで大学出の医者はやんごとなき方々が専門で、町の人々にとっての外科医は床屋だったんですね。英語で「barber
surgeon」というとやぶ医者の意味ですし、イギリスでは今でも内科医はDoctor、外科医はMr.と呼ばれています。
さすがに医学が進歩するに従って床屋が外科医ではまずかろう、ということになり、徐々に外科医と床屋を分ける方向に進んでいくわけですが、生死にかかわる事態ならともかく、虫歯をひっこ抜いたり、簡単な切り傷や火傷の手当をしたり、そんな日常の外科医療はやっぱり町の床屋さんの担当でした。
理容師兼外科医として忙しい彼らをさらに忙しくさせたのは、18世紀ヨーロッパのカツラ文化でした。貴族の殿様のあの茹でる前のチキンラーメンみたいなウェーブヘア、奥方様の遙か天井を目指すコテコテにこね上げた巨大なアップスタイル(革命前のフランス宮廷ではその高さは優に1メートルを超え、最高記録は1メートル40センチ!)、このド派手なカツラを手入れする人間が貴族にはどうしても必要でした。流行に合わせてカールを付けたり、色の粉を振って染めたり、このカツラのおかげで床屋は宮廷にまで進出します。
貴族のお屋敷の寝室近くまで出入りすることができる床屋、きっとあれこれと面白いシーンを目撃したことと思います。
このオペラの原作を書いたのはフランスの劇作家ボーマルシェ。時計屋の長男として生まれた彼、王室出入りの時計職人となりますが、その後金を使って秘書の仕事を手に入れます。そして親友の未亡人と結婚、都合よく(?)翌年に奥方が亡くなってその領地を相続、ボーマルシェの名を受け継ぎ貴族の仲間入り。王女様のハープの先生をしてゴマをすり、とうとう国王の書記官にまで出世します。この傍らで戯曲も書き、その上財産争いの訴訟に巻き込まれ、敗訴してしまいますがめげずに告発の書をしたため、王様のスパイとしてロンドンやウィーンにまで出張をし・・・、フィガロよりも忙しかったであろうというお方です。
彼のフィガロ三部作の第一作がこの「セビリアの理髪師」です。第二作はモーツァルトの「フィガロの結婚」(第三作の「罪ある母」は駄作だったので忘れられてしまいました)です。作家として有名になってもボーマルシェのドタバタ癖は治らなかったようで、劇作家協会の会長さん、ヴォルテール全集の編集長、その合間に伯爵相手の訴訟で勝利し、3回結婚し、フランス革命で亡命、その後に帰国・・・彼のつむじ風のような67年の人生は、1799年の脳卒中でやっと終わります、やれやれ。
ボーマルシェの分身とも言える町の何でも屋フィガロは、ロッシーニお得意の弾けるような音楽の魅力によって、世界で一番有名な床屋として今でも愛されています。
セビリアの「吉本新喜劇」
物語は有名な序曲で始まります。主題が繰り返し登場し、グイグイと力強さを増しながら上へ上へと登っていく、沸き立つ「音の渦巻き」、かの「ロッシーニ・クレッシェンド」が否が応でも期待をかき立てます。
第一幕、舞台は18世紀のセビリア。アルマヴィーヴァ伯爵が楽士たちの伴奏に合わせて愛しいロジーナちゃんのバルコニーの下、「ご覧、空が白み」と愛の告白を歌います。今なら「アホ」という場面ですが、この時代、良家のお嬢様は本当に「箱入り」でした。外出時には必ずドーベルマンのようなおっかない侍女が付き添い、恋する若者にとってのハードルは高かったのです。伯爵は熱唱しますが歌自体は退屈、そのせいかロジーナは窓を開けてくれません。
ガックリきた伯爵、楽士たちにギャラを支払って「解散!」、えぇ、こんなにたくさん!と大喜びの楽士たちはさっきとはうって変わって生き生きと御礼を乱発(仕事の方もこれくらい熱心にやってくれれば、窓だって開いたろうに)。「うっさい!」とやっと連中を追っ払った伯爵、向こうから床屋のフィガロ登場。「町の何でも屋」、髪のお手入れから恋の取り持ちまで、この俺がいなけりゃセビリアの娘っこは一人も結婚できないよ、と陽気な自己紹介。どっかで見たヤツと伯爵、フィガロじゃないか〜、あれっ、旦那、こんなところで何を?実はあの屋敷に住む医者の娘に惚れちゃってさ、旦那は運がいいねぇ、俺はあのお屋敷出入りの床屋、それに医者はロジーナの後見人で親父じゃないっすよ。
その時バルコニーが開いて愛しのロジーナ登場。後見人のバルトロ先生は窓を開けたってだけであれこれとうるさい。ロジーナは紙切れを外に落とし、それを伯爵が拾います。何々、「あのウザい後見人が出かけたら、あなたのことを教えて下さい。籠の鳥のロジーナより」、お出かけのバルトロ、今日中にロジーナの音楽の先生バジリオを仲人にロジーナと結婚してしまおう・・・。
オヤジが出かけた隙にフィガロのギター伴奏で伯爵は再び愛の歌。爵位やお金は関係無しで自分を愛してほしい伯爵は「僕は貧乏学生のリンドーロ、金は無いけど心を贈ります」と歌います。窓はすぐに閉じちゃったけど伯爵は大興奮。よ〜し、あの耄碌爺からロジーナを救うのだ!フィガロ、手伝え!はぁ・・・、好きなだけの金貨をやるぞ!金貨、この万能の金属の効果はてきめん。フィガロの脳はフル回転を始めます。宿泊証を持って酔っぱらいの兵隊のふりをしてロジーナの家に入り込むという作戦に決定。
表で男二人が「侵攻大作戦」を立てている間、ロジーナは部屋でリンドーロに手紙を書いています。「あの歌声は」愛しいリンドーロのもの、絶対に彼を私のものにするわ、ここは知恵を働かせて、必要ならば蛇にでもなる・・・。
そこに顔パスを利かせてフィガロ登場、ちょこっとお話があるんですがね、あら、私もなの・・・。明日中にロジーナと結婚するぞ!と宣言するバルトロにバジリオが入れ知恵、あのアルマヴィーヴァ伯爵が邪魔でございますね。そこで名案、ヤツの悪口を流しましょう、「悪口はそよ風のように」優しく耳から入って口から出ていく、どんどん尾鰭がついて大きくなりながら、これはもうインフルエンザみたいなもの、効きますよ〜。よっしゃ、それでいこう!
その間にフィガロはロジーナに接近。あの耄碌爺がお嬢様と結婚するって息巻いていますぜ。冗談じゃないわ、私はリンドーロが好きなのよ、ねぇ、彼って彼女いるの?いますとも、ここに・・・。「本当かしら」、もちホント、哀れなヤツは表で待っているんです、手紙を書いてやってくれませんかね、恥ずかしいわ、そんなこと言わずに、じゃ、これ!さっき書いていた手紙をフィガロに渡すロジーナ、何だい、これじゃ俺が教えることなんてないじゃないか。
フィガロと入れ替わりにバルトロ登場、指にインクがついてるぞ、火傷をしたのでお薬代わりよ、便箋が一枚足りないぞ、お菓子を包んだの、ペンが汚れているぞ、刺繍の下書きをしたのよ・・・、「私のような医者に向かって」あれこれ言い訳は止めなさい!挙動不審につき監視を強化するからな!と宣言。
酔っぱらい兵士に扮した伯爵が登場、「ちわっす。はい、宿泊証、ヨロシク〜」。兵隊なんて泊めてやるもんか!と宿泊免除証を取り出すバルトロに絶対ここに泊まる!と頑張る伯爵は手紙を床に落とし、ロジーナが拾い上げると、バルトロは「何だ、それ?」、ロジーナはクリーニング屋のリストとすり替えます。内心バ〜カと思いつつ、いっつもこれなんですもん、グスン、と涙ぐむロジーナ、「このオヤジ〜!」と剣を抜く伯爵、フィガロが割って入ります。「ケダモノ!」、「下等動物!」、静かにしてくださいよと全員。騒ぎを聞きつけて士官(本物)がやって来ます。こら、お前!と伯爵を連行しようとしますが、彼は士官に身分証を提示。敬礼したまま凍ってしまった士官には一同びっくり。全員好き勝手なことを喚きアタマが変になりそうな大騒ぎのうちに幕。
第二幕、ロジーナの家の音楽室。あのムカつく兵隊の正体はなんだ?アルマヴィーヴァのスパイか?とバルトロは独り言。そこに当の伯爵の登場、酔っぱらい兵士の次は音楽の先生に扮しています。貴族のわりには芸達者。「えー、私、アロンゾと申しまして、バジリオが急病なんで代わりに」、「そりゃ見舞いに行かんと」、「あ、その、そんなには悪くないんで」、お前、何か怪しいぞ。実はですねとアロンゾが話すには、偶然にもおたくのロジーナちゃんから伯爵に宛てた手紙を手に入れましてね、で一計を講じたわけですよ。この手紙を私が伯爵の彼女からもらったってことにして、彼はいい加減な男ってことでいかがでしょう?おー、さすがにバジリオの弟子じゃ!
ロジーナがレッスンに現れ、「無駄な用心」のロンドのお稽古の始まり。アリアにかこつけて「私の心に愛が芽生えて」とアツアツの伯爵とロジーナ。このごろの音楽はうるさい、昔のは良かったぞと歌って踊るバルトロを、いつの間にかやって来たフィガロがからかって遊びます。床屋が何しにきた?何しにって今日は予約入ってますよ、俺も忙しいんですよ、他にも予約いっぱいなんだから。じゃ仕方ないか・・・、このやりとりの間にフィガロはバルトロから鍵束を手に入れます。やがて大音響、あのドジ床屋、何をやらかした?とバルトロが部屋を出た隙に伯爵とロジーナは運命を共にと誓います。フィガロはお皿6枚、グラス6個、土鍋一つその他を壊してその間にバルコニーの鍵を失敬して涼しい顔。
病気のはずのバジリオがやって来ます。大丈夫?大丈夫って何が?噛み合わない会話にフィガロと伯爵は慌てます。バジリオ先生、顔色悪いですよ、町医者でもあるフィガロは脈をとって「こりゃ麻疹だ」、一同の「お大事に〜」で訳の分からないバジリオ退場。フィガロの援護射撃の影で伯爵とロジーナは駆け落ちの相談。それを聞いたバルトロは大激怒、伯爵とフィガロは逃げ出します。
悔しい〜!と収まらないバルトロは、女中のベルタをバジリオを迎えにやります。まったくうっさい爺だね、とベルタはぶつぶつ。「年寄りは妻を求め」娘は夫を欲しがる、みんなソワソワしちゃってさ、フンッ、私はどうすりゃいいのさ。
「じゃ、アロンゾってのは君の弟子じゃないんだな?」「違いますって」、やっぱりあの音楽の先生が怪しいと感じたバルトロは、公証人を呼んで今すぐにロジーナと結婚しようと決めます。ロジーナに彼女の書いた手紙を見せて「あの男、お前を弄んだのだ」「ひどいわ!」
そして夜、フィガロと伯爵は梯子を上ってバルコニーから侵入に成功、「愛しいロジーナ!」「お下がり、悪党!」・・・どうなってんだ?とフィガロ。私を騙してアルマヴィーヴァ伯爵に売り渡す気でしょ、って、そのアルマヴィーヴァは僕なんですけど。うっそー!となると、あなたはいったい誰なの?名前なんてどうだっていい、君は僕の妻、それでいいじゃないか。さて、こうなったら駆け落ち決行あるのみ。ところが梯子がない!そこに公証人を従えてバジリオ登場、バルトロさん、連れてきましたよ〜。公証人?こりゃいいや、というわけで、フィガロはその場で伯爵とロジーナを結婚させてしまいます。バルトロが警官と一緒に登場、あのコソ泥を逮捕して下さい!そのコソ泥が爵位を持っているのだから始末が悪い。その上ロジーナと結婚してしまった・・・、ロジーナを逃がすまいと梯子を外したバルトロですが、その結果、彼らを公証人と一緒に閉じ込めてしまったというわけ。バルトロの「無駄な用心」のおかげでこのお話はやっとのことで、めでたし、めでたし(ねっ、どうしたって吉本新喜劇でしょ?)。
一生懸命に、でも軽やかに、それが極上の人生
チャールズ・チャップリンは、ある日、逃げ出した子羊を必死で追いかける肉屋さんを見て喜劇の本質を知ったと語っています。逃げる子羊も追う肉屋も必死、子羊にとっては生命にかかわる事態ですし、肉屋にとっても逃げる子羊は大きな経済問題ですから、両方とも必死なのは当然ですが、それを端から眺めればこれはもう喜劇でしかない。一生懸命であること、一方から見ればドタバタの喜劇であっても、他方から見れば必死の悲劇であること、これがチャップリンの喜劇の原点です。大男に追いかけられてチョコマカと逃げ回るチャーリーが真剣だからこそ見ている観客は大笑いができます。
他愛のない好いた惚れたの物語と目まぐるしい入れ替わりで構成されるドタバタ劇、これをしっかりと支えているもの、それは裏側に隠れているそれぞれの一生懸命の結果です。
アルマヴィーヴァ伯爵とロジーナは恋に一生懸命、バルトロはロジーナの財産をそっくり頂くのに一生懸命、みんな一生懸命だからこそ、この作品は輝いています。良質な喜劇とは「おふざけ」ではなく「一生懸命」から生まれるものなのです。
物語の発端は伯爵の一目惚れです。彼は元気一杯の若者ですから一目惚れは分かるとしても、愛しいロジーナへのアプローチの方法が何故か突拍子もないシロモノで、ここから全ての喜劇が生まれます。伯爵様なのですから行列を仕立てて乗り込めばそれでいいものを、「僕の名前や身分を愛するのではなく、全世界の中で僕だけを愛してくれることを確かめたい」という彼は、貧乏学生リンドーロに扮し、酔っぱらい兵士に扮し、音楽の先生に扮しと大忙し。
ロジーナは箱入り娘でありながら「箱」には収まりきりません。バルトロの目を盗んではあれこれと小細工をし、フィガロの「お嬢様にはラブレターの書き方なんて分かんないだろうから、ここは俺が丁寧に教えて差し上げて・・・」なんて心配は余計なお世話、自分の力できっちりと立派なラブレターを書き上げます。秘密の通信も咄嗟の機転でクリーニング屋のメモと入れ替えて見せ、その後ウソ泣きまでやってのけます。
この恋人たちは当時の社会のルールなんて無視して恋に突き進みます。身分や財産こそが大切な結婚の要素であった時代に、「本当の僕」を愛してほしいと願う伯爵、彼がロジーナのバルコニーの下で一生懸命に愛の歌を捧げる場面には、因習に立ち向かう真摯な反逆児が隠れています。この若者の一生懸命があるからこそ、ここから後の彼の「七変化」が笑いを誘います。
良家のお嬢様のロジーナ、いくら何でもバルトロでは可哀想だと思いますが、彼女に求婚するお金持ちのお坊ちゃんはたくさんいたはず。それを全部袖にして貧乏学生を「私のモノにしてみせる」と歌うロジーナ。彼女は大人の決めた楽チンではあるけど平坦な路線を無視して自分の意志で恋の相手を選ぶと宣言します。ウソ泣きもうわべだけの恥じらいも全てそのための武器、彼女の意思が背景にあるからこそ、コケティッシュな演技がいっそ爽やかに映ります。
そしてバルトロ、彼の狙いはロジーナの財産だけ。ここで彼がチラリとでもロジーナを「女」として見ているとなると、このお話一気に生臭くなってしまいますが、バルトロにとって彼女はただの財産目録でしかありません。彼がロジーナを閉じ込めるのは守銭奴が金庫に鍵を掛けるのと同じ。フィガロと伯爵がバルコニーにかけた梯子は言ってみれば「金庫破り」の行動です。「コソ泥」と非難する彼は、彼の立場からみれば全くもって正しい。
さて、フィガロ、何かと顔の広い便利屋の彼は、金貨獲得のために伯爵のアドバイザーに就任します。しかし、彼は伯爵、ロジーナ、そしてバルトロとは少々違います。もちろんポケットの中で心地よい歌を奏でる金貨は魅力ですが、その金貨が手に入らないとしてもフィガロには失うものがありません。これはあくまでも「棚ボタ」金貨であって、伯爵とロジーナにとっての恋のように、バルトロにとっての財産のように、是が非でも手に入れたい、他では決して手に入らないというものではないのです。だから彼の「一生懸命」には少々「遊び」が混じっています。必死だからこそドタバタと大騒ぎを繰り広げる彼らの影の演出家であるフィガロは、距離を置いて彼らを眺めているという少し醒めた存在です。
彼はあれこれと機転を利かせては伯爵とロジーナの危機を救いますが、その危機はフィガロのものではありません。彼は危機を楽しんでいます。このフィガロのゆとりと遊びこそが、このあと一歩で低俗に陥ってしまいそうな危うい作品を救っていると思います。
この作品の本来の主題は価値観の異なる世代の対立です。結婚=財産の保全と(あわよくば)増殖というバルトロの世代の価値観に対して、若い伯爵とロジーナが「生涯のパートナーは自分で選ぶ」と新しい価値観をぶつけます。その二つの世代のちょうど真ん中に位置するのが男盛りのフィガロ、彼には両方の滑稽さがちゃんと見えるはずです。
そして、もう一つの主題は階級の対立です。お上品ぶった上流階級が実はこの程度の連中である、そしてそれを引っかき回すしたたかさな庶民代表のフィガロの活躍、この作品の視点はフィガロの側にあります。伯爵はやんごとなきお人かも知れませんが、窓の下でロジーナが出てくるのを待っているという幼稚で消極的な求愛しかできません。バルトロは財産が欲しいという自分の欲望だけしか見えず、ロジーナの心を掴む努力は何もしません。フィガロだったら、その機転と知恵で恋も財産も両方モノにするくらいのことはやってのけたでしょうに。
爵位を持っていたって、恋も自由にならないのかい?財産を持っていたって、その金に首根っこ押さえられているじゃないか、それで人生楽しいかね?冒頭のフィガロの自己紹介「俺は町の何でも屋」、セビリアの町を表も裏も知り尽くし、「ほらほら、どいた!」と我が物顔で飛び回り、「腕さえ良ければ人生は極楽」と職業人としての自立と誇りを歌い、「素晴らしいぞ、フィガロ」と自信に満ちた彼、早口でまくし立てる彼の歌声は、そのまま人生の賛歌です。
見ようによっては「階級闘争」の走りとも思える辛辣な一面もあるこの作品、下手な作曲家の手にかかった日には、ベタベタ、ドロドロの「おじや」になりかねない際どさを持っています。これを軽やかにフンワリと料理して極上の喜劇に仕立てたのは、ボーマルシェではなくロッシーニの腕前です。なぜならこの作品、セリフではなく音楽が笑っているからです。
ロッシーニ・マジック!
ボーマルシェの風刺たっぷりの原作を何ともまろやかに包み込んだ「達人」ロッシーニ、彼の包丁の冴えは随所に見られます。
ベルグソンはその「喜劇論」で、喜劇の本質は日常生活を硬直させることにあるとしています。例えば同じ動作、同じ言葉の繰り返し(チャップリンの映画での追っかけっこがグルグルと同じところを回る場面、あるいは「モンティ・パイソン」のあのスパムの場面等)、これが硬直です。実際の生活は1秒先も読めないという柔軟で変化に富んだフワフワしたものですが、これが同じことの繰り返し、一種の機械と化してしまった時、そこに笑いが生まれる・・・これがベルグソンの定義です。この定義をロッシーニは音で実現させました。それが「ロッシーニ・クレッシェンド」です。
第一幕の楽士たちの「お有り難うございます」と伯爵の「うっさい!あっちへ行けって!」の掛け合いがその典型だと思いますが、ロッシーニの魔法はこの作品中至るところで聴くことができます。
バジリオの「悪口はそよ風に乗って」、言葉自体はとても陰険で、根も葉もない中傷がどれだけ人を傷つけるかを思えばゾッとするような場面です。しかし、クレッシェンドがそれを救っています。軽快な旋律に乗せてしまえば、バジリオの陰謀も「どうせ失敗するんでしょ」という間の抜けた雰囲気、バジリオが恐ろしいマキャベリストではなく、バルトロに取り入りたい一心の小心なおべっか使いに変身してしまいます。
何かと勿体をつけたがる俗物のバルトロ、「私のような医者に向かって」言い訳はやめなさいとロジーナを脅かす場面も、旋律がチョコマカと細かく刻まれているものですから、おっかな〜いとは思えず、「床屋外科医」フィガロの前での「大学出の外科医」バルトロの必死の空威張りが滑稽に映ります。酸欠になりそうな早口が何とか威厳を保とうとする彼をあっさりと裏切り、床屋相手にムキになって、このオヤジったら子供っぽいんだから、って感じです。
ロッシーニ・クレッシェンドの魔力のおかげで、本来は悪役のはずのバルトロとバジリオがなんだか憎めない道化に変貌しています。悪役にさえも暖かい体温を与えるロッシーニの手腕が、このドタバタ劇に何とも言えない上品さをもたらしていると思います。これはロッシーニの人となりのおかげでしょう。
時計職人から国王の秘書官にまで成り上がったボーマルシェ、そしてフランス革命の前後をその真っ直中で生きたボーマルシェにとって、辛辣な批判者フィガロは彼自身であったと思います。上昇志向の強かった彼には、どこかギラギラと脂ぎった感があります。しかし、ロッシーニはボーマルシェとは違いました。彼は豊かな才能に恵まれて天才の名を欲しいままにし、次々と沸き上がる美しく軽快な旋律を自由自在に組み合わせています。彼の作品は旋律の転用が多いのですが(著作権がなかった時代とは言え他人の旋律をパクるのは問題と思いますが、ロッシーニは全部自分のをパクっています。この辺、彼の穏やかな性格と良識が窺われます)、メチャクチャに組み合わせればドラマが意味不明のものになってしまいます。ロッシーニのすごいところは、転用した旋律をドラマに合わせてジグソーパズルのピースのようにピタリとはめ込むことができたという点です。彼はその頭の中で渦巻く旋律を自在に操ることができたようです。
そして何よりもその生き方に私は憧れてしまいます。彼は人気の絶頂の37歳でさっさと筆を折ってしまいます。その後にもいくつかの作品は残していますが、興味はもっぱら「グルメ三昧」の方に集中させてしまいます。彼は「ロマン派」といわれる時代を生きましたが、彼の作品には少々古風な響きがあります。自分が美しいと感じる音と時代の求める音がずれていると知った時、彼は足掻くことはせず、静かにペンを置くことを選びました。
人生の前半を最前線でバリバリ働いた彼は、そのまま前線にしがみつくことはせず、さっさと後退して趣味の世界に生きることができた、時代に添いはしても決して巻き込まれないこの絶妙の距離感、ため息が出るくらい見事です。因みにグルメの方は趣味の域を超えており、彼の名を冠した高級メニューをたくさん残しましたし(特にフォアグラとトリュフを愛したようです)、「ロッシーニ」というブランド名のバルサミコ酢は最高級品として知られています。
このオペラの原作そのものは楽しい喜劇というよりも辛辣な風刺劇です。厳しい批判の言葉に皮肉やユーモアを被せて口当たりを良くしてはあるものの、一口味わえば、その本質が毒であることは明らかです。この風刺は時代の転換期には大きな役割を果たしますし、面と向かっての権力批判が許されない場合には、サイレント・マジョリティの唯一の武器と言っていいでしょう。
ところが風刺は「両刃の剣」でもあります。時代と社会背景が変われば全く通用しなくなるということ、そして、少し間違えれば非常にどぎつく下品になるということです。ボーマルシェの原作は時の流れと一緒に忘れ去られる運命にあったと思います。それに永遠の命を与えたのがロッシーニなのです。
美味しいお料理が大好きだったロッシーニ、新しいメニューを作り出すには自由な発想が必要なことは勿論ですが、それ以上に、その自由な発想に歯止めをかける常識が必要です。いくら自由だからといって鯛のオーブン焼きにコーラをかけたものは美味しくないであろうということは十分想像できます。斬新な料理は大胆な異種交配から生まれますが、そこには当然にセンスが求められます。ロッシーニはそのセンスを持っていた希有の人間だったのでしょう。
ボーマルシェが貴族階級のバカさ加減を暴く刺客として生み出したフィガロは、ロッシーニの手によって、人生の楽しみ方を知り抜いた下町の艶っぽい伊達男として今日まで生き残りました。いつの時代だって、美味しいものは美味しいのです。
役者が揃えば・・・〜
初演が失敗してもその後をご覧じろ、というオペラはたくさんあります。その中でもこの「セビリアの理髪師」の初演は歴史的大失敗の一つに挙げられています。一説によると舞台を猫が走り回ったとか(大切な衣装や鬘をネズミから守るため当時の劇場はたいてい猫を飼っておりましたが、ステージに立った猫は少ないと思います)伝えられています。猫をデビューさせたのはパイジェッロの「セビリアの理髪師」のファンだったようです。現在では「理髪師」と言われれば誰でもロッシーニ!と答えることを考えると、皮肉なものですね。
ロッシーニはこの作品を当初「アルマヴィーヴァ」と命名していました。大先輩のパイジェッロに対する気配りが勿論その理由ですが、伯爵が主人公だったのかと考えると、この作品、少々違った面が見えてきます。
【アルマヴィーヴァ伯爵】
冒頭の「ご覧、空が白み」、甘い旋律は美しいのですが退屈なセレナーデで登場する伯爵、彼はこの時点では実は「愛」を自覚していません。「僕の悩みを和らげて下さい」「この愛する心を哀れんで」、そこには憧れはあっても強い愛はありません。ですからロジーナは「まだ目を覚まさない」のです。
ところがバルトロがロジーナと結婚しようとしているのを聞いたとき、伯爵は愛に目覚めます。フィガロのギターに乗せて歌うカンツォーネで「妻に迎えたいと心から願って」、自分は貧乏学生だと名乗ります。身分よりも心、愛はこうでなくっちゃ。フニャけた伯爵は憧れのロジーナが奪われてしまうと知った時に愛を自覚します。
この後の彼はフィガロに引っ張り回されつつも大活躍。愛を自覚した若者はその愛のためには何だってできる、目下、彼は自分の身分を否定しているわけですから、酔っ払い兵士だろうが怪しげな音楽の先生だろうが、どんな役も平気、彼の行動はどんどんエスカレートしていって最後には不法侵入までいってしまいます。
このドタバタがあればこそ、フィナーレでの「もう逆らうのを止めろ!」が光ります。お前(バルトロ)の陰謀は失敗したと勇ましく宣言し、傍らのロジーナに優しく愛を歌う伯爵、彼は愛を「勝ち取った」のです。このアリア、ずっとカットされるのが慣習でした。音程が高い上にトリルやアジリタの技巧がテンコ盛り、「チェネレントラ」に転用されて女声が歌っているくらいですから、テノールには至難のアリアなのです。でも、私としてはこの伯爵の「勝ち鬨」がないとつまらないですね(最近になって復活しております)。そして、この場面にはチラリと苦いものが混じっています。ここでの彼はリンドーロではなくてアルマヴィーヴァ伯爵として勝利を歌います。「お金はないけど心を贈る」貧乏学生リンドーロはどこかへ行ってしまった・・・、ロジーナはいつかきっと消えてしまったリンドーロを懐かしく想うでしょう(って、これが「フィガロの結婚」なのですが)。
【ロジーナ】
ロジーナは伯爵の(いや、リンドーロの)真摯な歌声に愛を自覚します。「今の歌声は」リンドーロのもの、この時点で早くも彼女は行動に出ると宣言します。表でゴチャゴチャと作戦を練っている伯爵とフィガロに対し、ロジーナは作戦はまだないけど、絶対に負けない!ときっぱりと宣戦布告をします。「リンドーロをきっと私のものにするわ」、ロジーナは私をあなたのものにして、と待っているのではなく、自分から撃って出ると歌います。ヤツらの思う通りにさせておきましょう、「でも」、私の弱みにつけ込むなら蛇にだってなってやる・・・、この「でも(ma)」にロジーナの意思が凝縮しています。私は可愛くて良い子なの、その通りに見えるってことも知っているの、でも、本当は・・・。私はこのアリアを聴くとき、いつも「ma」のところがとても楽しみです。ロジーナの解釈がそれで分かるからです。
フィガロとの二重唱「それじゃ私じゃないの」でのロジーナは散々恥ずかしがった後、早手回しに用意してあるラブレターを差し出してフィガロを呆れさせます。「女、女、永遠の神々、心の中は誰にも分からない」、町の何でも屋フィガロをすらギャフンと言わせる箱入り娘のロジーナ、この行動力と機転は若さの贈り物、伯爵夫人に納まった後のロジーナが憂いを浮かべて耐えるだけであることを思えば、この大胆さが若さの特権であることがよく分かります。
【バルトロ】
なぁんか、いいように遊ばれるヨボけた爺さんという感のあるバルトロですが、彼にはもう一つの面があります。若さに任せて無鉄砲な恋に突進する伯爵とロジーナという若い世代に対して、そして支配階級に対して辛辣な視線を向ける庶民代表のフィガロに対して、堂々と立ちはだかる壁であるということです。新旧の対立、階級の対立というこの作品の本当のテーマから見れば、彼はとても大切な役です。
バルトロは守銭奴として描かれています。お金(=ロジーナ)が欲しいと望む彼は、その欲望を自分の権威によって達成しようとします。そして、より強力な権威を持ちながら、目下のところアタマに血が上ってそんなもんどうでもいい伯爵、さらには権威なんてものを最初から認めていない自由人フィガロの登場によって、ボコボコにやりこめられてしまいます。その彼が笑いを誘うことに成功した時、この作品はその本来の輝きを放ちます。
【フィガロ】
「町の何でも屋」の陽気な自己紹介から分かる通り、彼は楽天的で人好きのする男です。当然、バルトロやバジリオをやっつける場面も嫌みなくあくまで陽性にこなして欲しいと思います。どうもフィガロは伯爵の恋を成就させることよりも、その過程でバルトロをおちょくる方が気に入っているように見受けられます。
このオペラ史上最も有名な自己紹介、少々不思議です。彼は誰に向かって自己紹介しているのか?そう、舞台の上にはその相手がいないのです。彼の相手は客席であり、世間です。彼は自分の力を信じており、それで日々のパンとワインを手に入れ、味わうことの喜びを高らかに歌います。ロジーナとの二重唱での彼には、「このねえちゃんよくやるよ」と歌いつつも、自分の意志で恋を貫くロジーナを頼もしく思い、それに手を貸してやろうという優しさが欲しいと思います。孤児のロジーナにとって、フィガロはその自立を後押ししてくれる父親なのですから。
と言う訳で、役者を揃えるのが大変な作品です。音作りとしてはアバドの録音が大好きです。1971年のロンドン交響楽団との録音、フィガロをヘルマン・プライ、伯爵をルイジ・アルバ、ロジーナをテレサ・ベルガンサ、バルトロをエンツォ・ダーラというものです。アバドはドタバタを抑えて洗練された色彩豊かな極上の一枚に仕立てています。プライには何とも言えない男っぽさと色気がありますし、ベルガンサのロジーナは決して「おきゃん」ではなく上品で知的な愛すべきお嬢様。アバドにはこの他1992年の録音もありますが、オケはお見事なのですがキャスティングがメチャクチャ、フィガロのプラシド・ドミンゴ(!)はどう聴いてもミス・キャスト、キャサリン・バトルのロジーナは可愛らしいのですが、内に秘めた強さが感じられません。ルッジェロ・ライモンディがすっとぼけた関西弁を喋りそうなバジリオを好演しているのは買いますが。
ロッシーニ・クレッシェンドがミルフィーユのように重なり合い、それに甘〜いクリームのような口当たりの良いコロラチューラ、ふくよかな香りのブランデー漬けのドライフルーツのような豊かな高音、そしてトッピングは砕いたナッツのようにカリカリとした「早口言葉」・・・、なかなか難しい作品です。
HOME
作品別インデックスへ