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Leafプッチーニ 「外套」 (2007年8月17日〜2007年10月2日の日記より)


音の三幅対


 「パトラッシュ、疲れたろう、僕も疲れたんだ、なんだかとても眠いんだ・・・」、ある年齢以上の日本人の涙腺を攻撃させれば、無敵の破壊力を誇るであろうこの台詞、おそらく今この時点で既に涙腺の緩んでいる方もおられるかと。今や伝説となった「フランダースの犬」のオメメうるうるでほとんど画面が見えないという最終回、アントワープの大聖堂での少年ネロの最後の言葉です。さて、その大聖堂でネロは何をしていたか?「パトラッシュ、僕ね、とっても幸せなんだよ!だって、あんなに観たかったルーベンスの2枚の絵を観ることが出来たんだもの」「だから僕は今すごーく幸せなんだよ」。ネロは、アントウェルペン大聖堂にかかっているルーベンスの絵をどうしても見たくて、覆いの布をはぎ取ってしまったのです。月明かりに浮かび上がったのは「王の画家にして画家の王」と称されたルーベンス渾身の傑作、それが「十字架昇架」と「十字架降架」。十字架にかけられるイエス、そして十字架から下ろされるイエス、その時間の経過を正確に表すイエスの皮膚の質感、救世主の亡骸を降ろす人物たちの力強い肉体表現、世界がこの瞬間に変貌したことをはっきりと伝える光と色彩のドラマは正に圧巻。左手にミケランジェロの鑿、右手にカラバッジョの絵筆を持ったかのようなルーベンスは、緊張感溢れる一瞬をカメラのレンズのような目で冷徹に切り取りつつも、その対象に対しては聖堂の床にひれ伏す修道僧のようにひたむきです。
 そして、この作品は、正面の祭壇に「聖母被昇天」を置き、三枚で一組、三幅対(さんぷくつい)と呼ばれる表現形式をとっています。

 三という数字は、西と東を問わず神聖な数字とされてきました。キリスト教では「三位一体」、老子では「三は万物を生む」、仏教では「三身」「三界」、そして、我が日本でも三は特別な数、皇室の三種の神器、徳川将軍家の御三家、結婚式の三三九度、歌舞伎の定式幕も三色なら、和食の前菜も三種盛り、という具合。

 「西部の娘」の後、プッチーニはメロドラマから一歩前へ、何か新しいオペラを作りたいという野望を持つに至りました。それが一幕物のオペラを三作品組み合わせ、一晩でセット上演するというもの。こうして生まれたのが、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の三部作(Il Trittico)でした。

 プッチーニが三幅対を選んだ理由については諸説があります。オッフェンバックの「ホフマン物語」に登場する3人の女性に着想を得たから、あるいは、そもそものきっかけとなったフランスの作家ゴールの人形芝居「外套」を上演したパリのグラン・ギニョール劇場が、三部作の上演を数多く打っていたから、等々。
 そして、中でも有力な説がダンテの「神曲」を模したというもの。地獄篇(「外套」)、煉獄篇(「修道女アンジェリカ」)、天国篇(「ジャンニ・スキッキ」)を表現したという説です。ダンテ?ダンテねぇ・・・、地獄、煉獄はともかく、天国が「ジャンニ・スキッキ」というのがどうも、公正証書原本不実記載の詐欺師が高笑いするのが果たして天国でしょうか?

 ダンテは12世紀から13世紀を生きた詩人、その「神曲」に描かれる地獄、煉獄、天国が、1858年生まれのプッチーニが考える地獄、煉獄、天国と同じであるはずはないと思います。

 ダンテの時代、天国とか地獄とかは、今日の私たちが考えるような抽象的な意味ではなく、リアルに、そのまんまでこの世界のどこか、空のうーんと上の方とか、地のうーんと下の方とかに現実に存在するものでした。「神曲」はなんと言っても地獄篇が秀逸、地獄には歴代の教皇もいます、ホメロスもホラティウスも、アッシリアの女王セミラミスもエジプトの女王クレオパトラもいます。しかも、その描写のえげつないこと、元々が政治家志望だったダンテは、辛辣なことにかけてはイタリア一と言われるフィレンツェっ子、そして、そのフィレンツェの歴史は政争の歴史、特にダンテの生きた時代は、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権力争いの真っ最中、フィレンツェは二つに分かれて熾烈な政争を繰り返しておりました。負け犬として石を投げられて故郷を追われた流浪の詩人は、この「地獄篇」でここぞとばかりに気に入らない連中をボコっております。そりゃ、地獄なんて未だかつて見てきた人は一人もおりませんから、言ったモン勝ちですが。
 何しろカトリック教会は罪人を作ることにかけては天才でありまして、善良なる一市民として普通に生活していても、ありとあらゆることで因縁付けられて、まず全員が地獄墜ち決定、それを逃れたければ・・・、という手法を駆使して巨大化していった組織です。よって、当然のことながら、当時の善男善女は、天国は何かみんなで白い服着て竪琴持って歌っているというあやふやなイメージしかないのですが、地獄についてはメッチャ詳しい。そりゃ、ダンテだって地獄を書く時は筆がビシバシ走ろうというものですね。

 そして、プッチーニ、「トスカ」、あの美しいテ・デウム、神を讃える声が恐怖を引き立て、欲望に火を付け、官能を掻き立てる、聖と俗が、天使と悪魔が、獲物と猛禽が、粘りつく夜気を引き裂きつつ螺旋を描いて上昇する。プッチーニは祈りの旋律を官能のドラマの要素として使いこなした、それが出来る音楽家だったのです。そこには、地獄、煉獄、天国の三界が現実にはなくとも、人の精神がそれを生み出すのだと「知っている」近代人の姿があります。

 そう、私は、プッチーニは、ダンテに倣ったわけではなく、ただ、三幅対の均整のとれた姿に惹かれたのだと思います。絵画的に完成された作品、一夜で三作品を上演することで、世界の在り方を語ることができるだけの語彙を持った作品、それがつまり、教会の祭壇画でお馴染みの三幅対だったのだと思います。

 しかし、ダンテの地獄には美しい恋人たちが登場するのです。

 道ならぬ恋に落ちた二人、パオロとその兄嫁フランチェスカ。13世紀、イタリアはラヴェンナのボレンタ家の娘フランチェスカは、宿敵マラテタス家の長男ジョヴァンニと政略結婚することに。花嫁を迎えに現れたのはジョヴァンニの弟パオロ。二人は互いに惹かれ合い、結婚式が無事に済んだ後も密会を続けます。ところがある夜、密会場面をジョヴァンニに見つかり、嫉妬に狂ったジョヴァンニによって二人は殺されてしまいます。色欲の罪を犯した者として地獄に落とされた二人、そんな二人が恋に落ちた瞬間をダンテは美しく綴っています。
 ある日、木の下でアーサー王伝説の中の湖の騎士ランスロットとアーサー王の妃グィネヴィアの恋物語を読んでいた二人、「いくたびかふたりの眼は合い、顔は色を変えました。しかし、私たちをおとしたのは、ただ一つの刹那。」、それが彼らの地獄落ちの始まりでした。
 しかし、彼らにとって、地獄での永遠の苦痛は、世にある時に求めた永遠の歓喜の代償でした。肉体が坩堝となり、精神が炎となり、その灼熱の中から生まれるもの、それを人は愛と呼ぶのでしょう。
 余談ですが、20世紀に入ってから、サンドナイが「フランチェスカ・ダ・リミニ」というオペラで二人の悲恋を描いております。

 原始、愛はエロスだけでした。それは生物的な性衝動、本能がお互いを求めるもの、性的に合致しさえすれば他は関係ありません。やがて誕生したキリスト教はアガペーを最上位に置きました。それは精神的な愛、自分と同じように隣人を愛すること、つまり、隣人が誰であっても、どんな人間であっても関係ありません。そして、中世に至って、人は個人と個人の愛、アモールを創造しました。それは、私とあなたでなければ生まれない愛、私とあなただけが分かち合う愛、そして、私とあなたの内なる世界を満たし、私とあなたを外の世界から隔離する愛。
 だから、秘めた愛ほど熱くなる、秘密は愛を鍛え上げ、しかし、人を嘘つきにし、刹那に閉じ込めて未来を隠す。そして、嘘が重たくて、こんなもの何でもないんだと、男はひけらかし、未来が見えないから苛立って、女は仄めかす、秘密はどんな小さな隙間も見つけ出しては外へこぼれていく・・・、繰り返される悲喜劇。

 愛はしばしば幸福よりも不幸を育みます。なぜなら、人の情熱は、持っていないものに対して燃え上がるものであり、持っているものは情熱の対象とはならないからです。彼が(彼女が)私の(僕の)ものになったらどんなに素晴らしいだろう!そして、恋い焦がれた対象が私の(僕の)ものになった途端に、彼もしくは彼女は色褪せます。「幸福な愛」などあり得ないのだとしたら、選択し得るのは、「幸福あるいは愛」の二者択一なのだとしたら、どちらを選びます?
 幸福を選べば平穏に暮らせるでしょう。パートナーは情熱の対象ではなくなっても、感謝と尊敬の対象として日常に存在してくれる。では、愛を選べば?愛は欠如であるとするならば、愛の対象は常に未知なるもの、持っていないもの、求めて得た時には既に失われているもの、突き詰めてみれば、純粋な愛ってどこか死に似ています。

 『こうして愛は目と目を通して心に至る』(12世紀の詩人、ギロー・ド・ボルネイ)

 見詰め合った目と目、その先に見えるのは、退屈な天国か、めくるめく地獄か・・・。


季節がすれ違った夜に 

 所はパリ、セーヌの畔、伝馬船の上、9月の夕刻、この船の持ち主である五十男のミケーレがパイプをくわえて夕陽に見入っています。ミケーレの妻、年齢は彼の半分ですが早くも疲れた印象を漂わせたジョルジェッタが登場。
 ミケーレ、夕陽ばかり見ていると眼に悪いわ、でも、すごい光景ね、まったくだ、沖仲士たちの仕事は終わったのか?皆よく働いたもの、船倉は片付いたはずよ、明日には荷が積めるわ、皆に一杯振舞わないとね。そうしてやってくれ、気の利く女房だな。俺の僅かな酒でも連中の元気付けにはなるさ・・・、ところで、俺のことは考えなかったか?あんたの何を?このパイプの火が消えても俺のお前への情熱は消えないってことさ、キスしておくれ、俺の可愛い女。なぜか顔を背けるジョルジェッタ、気分を害したミケーレは船倉へ。

 渡り板の上を身軽に歩いて若い沖仲士のルイージが、彼に続いて30代半ば、深酒のせいで年よりうんと老け込んだ様子のティンカ(鯉のこと)、50代半ば、長年の重労働で既に腰の曲がったタルパ(モグラのこと)も船上に。皆、一杯お上がりよ、ジョルジェッタが酒を注いで回り、一同グラスを掲げます。奥さんの健康に!酒がくれる喜びに!ほら、お代わりは?断るわけないっしょ。
 オルガン弾きが来るぜ、ルイージが岸の上を指差します。おい、ちょっと、素晴らしいやつを聞かせてくれよ!そうね、踊りたくなるようなのを、ジョルジェッタが意味ありげにルイージを見ます。俺がお相手を!出しゃばったのはティンカ、奥さん、俺と踊ろうぜ!オルガンが奏でる調子っ外れのワルツ。ティンカ、床掃除やってんじゃねーよ!痛い!足を踏まないでよ!俺に任せな、ルイージの腕がジョルジェッタの腰を抱きしめます。
 親方だ!ルイージとジョルジェッタはさっと離れ、沖仲士たちは船倉へ。ねぇ、ミケーレ、出発するの?タルパとティンカは残るの?ルイージもな、昨日はそんなこと言わなかったわ、今日決めた、奴を飢え死にさせたくないからな。彼なら自分で何とかするわよ、分かっている、だが・・・働き者はそれらしく働くものさ。
 陽が落ちたわ、9月の夕焼け、秋が来るのね、あの太陽、まるでオレンジみたい、あら、フルーゴラが来るわ、亭主を探しているのね、ねぇ、あんた、何でそんなに不機嫌なの?なぜ黙っているの?

 岸の上では、仕事が終わったお針子たちが流しの小唄売りに群がります。流しは春の訪れとともに別れてしまう恋人たちの悲恋を歌います。

 俺はお前に面倒かけたか?あんたは手を上げたこともないわ、ただ黙りこくってしまうだけ、でも、打たれた方がましよ!ねぇ、何か言ってよ!何でもない・・・。パリにいると私は幸せだわ、そうだろうよ。

 拾い集めた屑で一杯の籠を背負って、タルパの女房フルーゴラ(フェレットのこと)が渡り板を渡ってきます。こんばんは、今夜も仲の良いこって、うちの亭主は?今朝は腰が痛いって動けなくてさ、だから私が背中にたっぷりラム酒を塗ってマッサージしてやったのさ、えーと、あった、ほら、ジョルジェッタ、今日拾った真っ赤な櫛だよ、あんたに上げる!
 ごらんよ、レースにビロードの切れっ端、捨てられた恋文、喜びも悲しみも皆この籠の中、これは?それは子牛の心臓さ、猫のカポラーレ(伍長のこと)にやるのさ、あんたの猫は果報者ね。そうとも、世界一綺麗な猫だもの、タルパがいない時はいつも一緒さ、教えて上げようか、猫の哲学を、お屋敷の小間使いよりもあばら家の主、ってね。
 タルパとルイージ、続いてミケーレとティンカ、男たち登場。もう酔ってんのかい?フルーゴラがティンカに声をかけます。今夜も酒場で夜明かしかい?恥ずかしくないのかい?酒ほど良いもんはないぜ、きれいサッパリ何もかも流してくれる、飲むときゃ何も考えずに済む、考えてたらやってられねぇからな。お前の言う通りかもな、ルイージが答えます。
 頭を下げて、背中を屈めて、俺たちの命なんざ一文の価値もないのさ、背中には袋、頭は地べた、空を見上げれば打たれるだけ、青春はもう行っちまった、後は成り行き、何も考えるな、頭を下げて、背中を屈めてりゃいいのさ。止めて、もうたくさんよ、ジョルジェッタが怒ります。
 ティンカは酒場に、タルパとフルーゴラは猫の待つ家へ、可愛い家が欲しいね、フルーゴラは語ります、小さな菜園、庭には松、あんたと二人で手足を伸ばして、足元にはカポラーレ、静かに死にたいねぇ。私は違う!とジョルジェッタ、パリの空気を吸っていたい、こんな流れ者の暮らしはうんざりよ!あんた、どこにいたの?ベルヴィーユさ、ジョルジェッタの代わりにルイージが答えます、俺と奥さんは同郷なんだ。故郷!私、水の上じゃ暮らせないのよ、家があって、友達がいて、知らない人は一人もいないのさ、みんな家族さ!店先は明るくて、馬車が走って、日曜日にはブーローニュの森を歩いて、踊って、恋をして!故郷を離れれば故郷を夢に見る!
 ルイージ、晩飯を食いに行かないか?タルパが誘いますが、ルイージは残ります。

 ジョルジェッタがルイージに擦り寄ります。気をつけて!あの人、すぐに上がってくるわ、なぜ俺を呼ぶ?夕べのこと、覚えてるわ、あんたの熱いキス!何を怖がっている?ばれたら殺されるわ!死んだ方がましさ!二人で一緒に・・・、捨てないで、決して!

 ルイージ、まだ、いたのか?驚くミケーレ、親方に話があって・・・、俺をルーアンで降ろしてくれませんか?ルーアン?正気か?あそこはまともな所じゃない、そうっすか、じゃあ、俺、残ります、お休みなさい、親方・・・。

 何であんなことを?ルーアンで降りるなんて、ジョルジェッタがルイージを詰ります、だって、俺たち、どうしようもないじゃないか。あんたの言う通りよ、縛られてるの、この鎖に!でも、あんたが救ってくれたわ、俺たち、生きていけるのか?怖い、苦しい、終わりのないキスをして!二人で遠くへ・・・、世間なんて捨てて!
 後で戻ってきてね、渡り板を残しておくわ、マッチを擦るから、それが合図よ、小さな炎、愛の炎。お前を抱きしめたい、俺のものみたいに!もう我慢できない、他人にお前に触れさせるなんて、血を流してやりたいよ!ルイージが一旦船を去ります。見送るジョルジェッタ、幸せって何て難しいの・・・。

 休まないのか?ミケーレ、あんたは?俺はまだだ、ルイージを引き止めたわよ、代わりにティンカを首にしたら?だって飲んだくれだし。ふしだらな女房を殺さないために毎晩酔っているんだ、奴は・・・。お前はもう俺を愛していないのか?あんたは良い人よ、さぁ、寝ましょうよ、お前は眠らない、・・・だって、あそこは息が詰まるわ。覚えているか、三人で寝ていた頃、小さなベッドがあって、赤ん坊がいて・・・、止めて!黙って!俺はお前と赤ん坊を一緒に外套に包んだっけ、小さな愛の巣、幸せだった、本当に幸せだった、今は違う、お前の若さが俺の老いを嫌っている!落ち着いてよ、ね、寝ましょうよ。眠れまい!自分で知っているだろう?なぜ?
 思い出さないか?あの頃の夜、空、月、もう一度俺のところに戻ってくれ!愛し合っていた頃に戻ってくれ!俺の傍にいてくれ!あんた、変わったわ・・・、私、寝るわね、行くがいい、あばずれ!

 岸辺を歩く恋人たち、ミケーレが一人呟きます。あそこにいる、着替えもせずに、待っているんだ、誰を?タルパ?年寄りだ、ティンカ?飲んだくれだ、ルイージ?ルーアンで船を降りると言ったじゃないか、誰だ?俺を嘲笑っているのは誰だ?

 ミケーレはパイプに火をつけようとマッチを擦り、ルイージが現れます。

 捕まえたぞ!お前か?違う!白状しろ!違う!逃がすものか、ゴロツキめ、ルーアンへ行きたいか?ホトケになって行くがいい!あれを愛しているのか?放せ!言えば放してやる、・・・そうだ、もう一度!愛している!何度でも言え!愛して・・・いる・・・。

 ミケーレ、あんた、私、なんだか怖いの、ジョルジェッタが船室から出てきます。やっぱり眠っていなかったのか?あんたのこと苦しめて悪かったわ、許すって言って・・・、そばへ行ってもいい?俺の外套の中か?ええ、あんた言ったわね、「誰も彼も持っている、あるときは喜びを、あるときは苦しみを、包み隠す外套を」って。

 あるときは罪を・・・な!

 外套が開く、ルイージの遺体、ジョルジェッタの悲鳴、そして、暗闇・・・。

 三人以外は全員渾名、書き割りの風景画の扱いなのですが、その筆の精緻なこと、お見事です。
 連れ添って、支え合って、ささやかな夢、未だに叶わない、おそらく決して叶わない夢を二人で分かち合うモグラとフェレットの夫婦、お似合いです。男漁りに精を出す女房を殺すことができず、代わりに自分を殺そうと酒に溺れる鯉、濁った水の中でその口はパクパクと愛を求め、代わりに酒を飲み込むばかり、しかし、濁った水の中以外に生きる場所はない。
 そして、舞台には登場しませんが、猫の伍長殿、もう猫の鏡であります。妖しく輝くつぶらな瞳、上目遣いでじっと見上げればたいていの人間はイチコロ、獲物を仕留めた猫は、日溜まりで寝そべりつつ気まぐれに生きる、まるで飼い主に奉仕する喜びを与えてやっているとでも言いたげに。

 9月は夏と秋がすれ違う月、熱い情熱が冷たい倦怠にその場所を譲り、どこかへ去っていく月。そんな9月の一夜、甘じょっぱいような彼らのやりとりが醸し出すのは、ありきたりの小さな幸せとそれぞれの大きな不幸せ、人が暮らすところなら何処だって転がっている、大勢が繰り返し、これからも繰り返すであろう、天国でもなければ地獄でもない、この世の光景です。
 そして、名前を与えられた3人が構成するのは、「過去」「現在」「未来」が織りなす哀しい三幅対、フォルテッシモの殺人の動機で幕が下りた瞬間に観客の前に立ち上がるのは、当然に地獄。


三つの魂、三つの時制、三つの孤独

 この作品の台本は、パリのマリニイ劇場で上演されたグラン・ギニョールの台本を元にしています。グラン・ギニョール、それは19世紀末のざわついた空気を反映した少々グロテスクな大衆演劇。舞台に登場するのは、お涙頂戴担当の親に捨てられた子供、ホラー担当の連続殺人鬼、彼に殺される被害者、見事なソプラノで悲鳴を上げ、お色気を添える街娼、エキゾチックな彩りとしてケッタイな言葉を操る外国人(これもたいていは殺人鬼)。描かれる事件は、妖怪モノ、猟奇殺人、幼児殺し、嫉妬に狂った挙句の殺人等々、普通ではお目にかかれない人物たちが織りなす、普通ではお目にかかれない事件、不安をもって不安を忘れる、時代の仇花のような見世物小屋の出し物、そんなドブ川の面にだって人生の真実は映る。

 この一幕のヴェリズモ・オペラ、台本のアダーミが意図したのかどうかは不明ですが、見事な三幅対を構成しています。

 「過去」、ミケーレは愛されていた過去に囚われて今の自分がいかに愛すべきかが見えません。妻の愛が醒めたのは、過去の自分ではなく今の自分ゆえなのだということが見えません。ミケーレは与えたもので得られるものを計ろうとしています。愛には等価交換は通用しないのに、ただ愛すること、馬鹿みたいに愛すること、愛の代償に愛を求めないこと、それこそが愛だというのに、愛で愛を買おうとする愚かさがジョルジェッタをどんどん遠ざけてしまいます。
 ミケーレは自分で考える以上にずっと年老いてしまいました。彼は思い出があればそれで良い、その思い出をジョルジェッタと分かち合えればそれで良い、老いというものは思い出に不相応な価値を与え、美しいものに変えてしまうのです。幼い我が子を失った痛みすら、ミケーレは外套の温もりという思い出に磨き上げてしまっています。そして、それがジョルジェッタにとっては未だに血を流している傷なのだということが分からない。思い出が美しいんじゃない、それは残り少なくなった人生が自らを惜しんで美化しているゆえなのに、ミケーレには、どうしてジョルジェッタには自分と同じ思い出が見えないのかが分からない。

 「未来」、現実に裏切られたジョルジェッタは未来が欲しい、なぜなら現実から自分を連れ出してくれるのは未来しかないから。しかし、その未来は、やがて現実になり、夢を失望に変えていく・・・。昔、生まれ育ったベルヴィーユで退屈していた少女は、港から港へ漂う暮らしに自由を見てその身を委ね、今、揺れる伝馬船にうんざりした女は、かつて自分で捨てたはずの土埃と泥濘を懐かしんでいる。若さを失いつつあり、しかし黄昏はまだ遠い、そんなジョルジェッタにとって、時というものはまるで反転したミダス王の手のよう、触れるもの全てを黄金から鉄屑に変えていく、それでもジョルジェッタは未来を懸命に手繰り寄せることを止めようとはしません。
 ジョルジェッタは夫を遠ざけます。彼が嫌いになったわけではない、夫が自分を過去に繋ぎ止めようとするからです。かつてこの腕で抱いた赤ん坊はいなくなった、その温もりを思い出せばあの子は帰ってくるとでも?ジョルジェッタとミケーレは同じ思い出を二つの側面から見つめています、夫はかつて手にしたものの証として、妻は永遠に失ってしまったものの痕跡として。
 
 「現在」、流れ者の肉体労働者であるルイージは、過去を振り返るにはまだ若すぎて、しかし、未来を望むには早くも疲れすぎています。叶わない希望は時として絶望よりも人を傷つける、既にそれを知っているルイージは、未来に希望を託すのではなく、現実の絶望を嘆くことを選びます。他の男のものだからこそジョルジェッタを欲し、罪だからこそ燃え上がり、しかし、彼は決してジョルジェッタとの未来を描こうとはしません。愛していると言いながらルーアンに逃げようとし、不毛の関係に終止符を打つんだと言いながら今宵の逢瀬に囚われる、ルイージは今しか見ない、未来は次々と現実となり、希望を絶望に変えていく、今だけが、叶わない希望とつきまとう絶望の間で、彼を甘やかしてくれるのです。
 一緒にベルヴィーユへ帰ろうでもなく、一緒にルーアンに逃げようでもなく、今宵、ミケーレの所有する船で逢おう、こんな男に未来など、運命が彼から未来を取り上げるのは当然でしょう。

 狭い伝馬船の上で暮らしながら、惑星同士のようにかけ離れている三つの魂、その間を埋めるのは漆黒の闇だけ、叩きつけるような独唱、旋律に添うのではなく、旋律から無理矢理何かを剥ぎ取るかのような管弦、縺れ合う肉体と遠ざかる心、求め合う孤独と解けていく絆、プッチーニは、お得意の甘いプッチーニ節を敢えて封じておいて、ガラクタに宿る真実を描こうとしています。
 ラスト、執拗に繰り返される殺しのモティーフとルイージの「愛している」が交錯します。白状すれば助けてやる、だとすれば、ルイージの愛の言葉は命乞いに過ぎないのか、それとも、ジョルジェッタを奪った男の寝取られ男への最後の嘲りなのか。助けてやると言いつつ、その手を緩めないミケーレ、彼はルイージと一緒に何を葬ろうとしているのか、嫉妬の前では余りに無力な愛などもう不要だと?

 そして、幕が下りた時、本当の地獄がその口を開くのです。

 ジョルジェッタとミケーレはどうなるの?不義を犯した妻と人殺しの夫、ジョルジェッタはルイージの後を追って伝馬船から身を投げるのか?我に返ったミケーレは罪の重さに慄いて首を吊るのか?ジョルジェッタはミケーレを残してパリの群集の中に消えていくのか?残されたミケーレは妻を追うのか、それとも、一人、警察署の門をくぐるのか?
 最も恐ろしい地獄、それは、この伝馬船が何ごともなかったかのようにセーヌを下っていくことでしょう。ジョルジェッタは夫が殺人者であると知っている、ミケーレは妻が裏切り者だと知っている、ジョルジェッタは夫の手に怯えつつ、ミケーレは妻の視線に怯えつつ、閉ざされた空間に閉じ込められる、お互いにお互いの喉元に罪という刃を突き付けたまま、ずっとずっと、どちらかが死んでくれるまで。どちらが死ぬの?自分じゃない、なぜなら、私は愛する男を殺された犠牲者だから、俺は妻に裏切られた犠牲者だから、可哀想なのは私よ!哀れなのは俺だ!こうなったのは誰のせい?あんたよ・・・、お前だ・・・。
 これより恐ろしい地獄は、おそらく「地獄篇」にも登場しないでしょう。

 さて、録音です。三人がきっちりと三すくみ状態であることが理想的なのですが、これがなかなか・・・、そのせいか上演も録音も少ないです。1977年、マゼールの指揮、三すくみは、レナータ・スコット、ドミンゴ、そしてイングヴァル・ヴィクセル、何か三人ともどこか知的で上品なんですよね、殺し場まで行かなくても調停で話が済んでしまいそうな雰囲気。でも、ヴィクセルの老いの苛立ちが秀逸、マゼールの棒は切れ味よろしいです。



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