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ヴェルディ 「ラ・トラヴィアータ」 (2001年1月6日〜2001年1月31日の日記より)
娼婦の恋
ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女)」の原作はアレクンサンドル・デュマの実体験嵩上げ小説「椿姫」です。
「モンテクリスト伯」や「三銃士」といった波瀾万丈ハラハラドキドキの大作を世に送り出した大作家を父に持ったこの息子、長身の美男でパリ社交界のプリンス的存在だった彼は、マリー・デュプレシーという名の美しい娼婦に恋をしました。所詮違う世界に生きる者同士のこの恋は結局悲恋で終わりましたが、転んでもただでは起きないのが作家というわけで、この時の体験は彼の代表作「椿姫」に姿を変え、これをオペラ化したヴェルディのおかげで、この短く儚かった恋は永遠の命を得たのです。
19世紀半ばのパリには二つの社交界がありました。一つは建前の表社交界、こちらは肩書きと家柄をひけらかすしゃちこ張った世界、そしてもう一つは欲望と本音がつかの間の快楽を追い求める裏社交界、こちらの主人公を務めたのが高級娼婦です。素敵な誰かに出会って恋をして結婚する、今では当たり前のことですが、当時のヨーロッパの上流社会ではこれは不可能なことでした。結婚は家同士のもの、個人の好き嫌いなんてどうだってよく、家柄と持参金、その結婚がもたらす社会的利益が優先される一種の契約です。有利な契約を勝ち取るためには些細な間違いも命取り、独身時代は品行方正を(表向きは)守り、立派な履歴書で少しでもランクが上の相手を射止める、但し一旦結婚してしまえばこっちのもの、恋愛はご自由に、というわけで、今とは全く正反対、自由な恋愛というのは既婚者のものだったんですね。
そんな裏社交界の女主人を務める高級娼婦、複数のパトロンから莫大な資金を受け、部屋を豪華に飾り立て、高価な食事と酒を用意し、宝石と最高級のドレスに身を包み、機知に富んだ会話を提供し、下心むき出しの男達を軽やかにあしらいつつ一夜を盛り上げる、これはかなりの重労働です。しかし、家でふんぞり返っている持参金つきの契約の相手方である奥方と違って、こちらの方はイヤになれば放り出せるという男にとって大変都合の良い関係ですから、羽振りの良いパトロンを探す側の娼婦たちの営業努力は大変なものであったろうと思います。自分の財力と気前の良さの証としての美しい女、それは金と力を持った男にとって自分を飾る最後の、そして最高の勲章であったのです。
抜群の歴史感覚と骨太の男っぽさで次々と名作を送り出したヴェルディ、彼がこのお涙頂戴のメロドラマにぞっこん惚れ込んでオペラを作ったのはなぜなのでしょう?
華やかなサロンの女主人、貴族の奥方以上に贅沢な生活、次々と現れてはお金と引き替えに嘘でしかない愛を求める男、男、男、彼女達の華やかさは所詮虚構でしかありません。いくら着飾ったところで中身はどうせ娼婦じゃないか…そんな人々の侮蔑の混じった冷たい視線を浴びつつ、クルクルと舞い続ける美しい玩具、彼女たちの多くは(そしてデュマの恋人マリーも)家柄も地位もない貧しい家の生まれです。当時、貧しい女に与えられる職業は女中かお針子しかありませんでした。私は美しいのに、聡明なのに、生まれが悪いというだけで一生陽の当たる場所には出られないの?奥様よりも美しいのに、私はこのみすぼらしい前掛けしか身につけられないの?この世には美味しいお料理やワインがあることを知っているのに、それを味わうことが私にはできないの?お芝居や音楽、文学、私は聡明なのにそれを見ることも語ることもできないの?
何も持たずにこの世に放り出された彼女達は、儚い武器でしかない美しさと聡明さに磨きをかけ、必死で陽の当たる場所を目指したのです。そしてヴェルディが惚れ込んだヒロイン、ヴィオレッタも闘いました。不幸な境遇の下で過酷な運命に弄ばれ、それでも持てる力を全て振り絞って闘う人間に対して、ヴェルディはいつだって優しかったと思います。
ヴィオレッタは娼婦、その愛はお金で取引される商品でしかありません。ヴィオレッタの愛は売り物でした。そんな彼女は本当の愛を知ります。歯の浮くようなお世辞も言わない、高価なプレゼントも持っていない地方出身の真面目な青年アルフレード、そんな彼の言葉がなぜこれほど胸を揺すぶるの?彼女を金で買うことしか考えていない金持ち男が囁く薄っぺらい「愛している」しか知らなかったヴィオレッタ、ビジネスの愛しか知らなかった彼女に対して、面と向かって、不器用に、真っ直ぐに「愛しています」と告げたアルフレード、その言葉はどんな宝石よりもきらきらと眩しく、どんなお世辞よりも心に暖かいものでした。これが愛なの?
ヴィオレッタはこの愛のために闘います。娼婦だった女は、初恋の少女のように、一途に愛を貫きます。
「道を踏み外した女」、ヴェルディが原題の「椿姫」を使わずに、こんなタイトルを付けたのはなぜなのか…、娼婦という「人の道を外れた」職業を選んだから?その不道徳な快楽の生活のしっぺ返しとして平凡な女の幸せを逃してしまったから?
ヴェルディのこのタイトルには、二重の意味が込められています。デュマの描いた少々甘ったるい、都合良く美化された恋物語のヒロインであったマリーは、ヴェルディの手によってヴィオレッタという「愛の女神」へと昇華します。
第一幕 何も見えなかった男と見ないことを選んだ女
弦が静かに声を立てずに泣いています。これから先の悲劇を予感させる前奏曲、それはすぐにテンポのよい華やかな旋律にかき消されてはしまいますが、ずっと耳の奥に残ります。
幕が上がれば、そこは裏社交界の華、ヴィオレッタの豪華な客間です。金持ちの男達とそれにまつわりつく華やかな娼婦達の嬌声が沸き立ち、ヴィオレッタもそれに答えて婉然と微笑んでいます。彼女のサロンの常連であるガストーネ子爵が友人アルフレードを紹介します。原作によれば、彼はプロヴァンスの税務長官ジョルジョ・ジェルモンの長男、母は既に亡く、妹が一人、彼は父の仕送りで学んで弁護士の資格を取り、目下つかの間の息抜きを楽しんでいるところ。つまり、サロンの他の男達と違って爵位もないし財産もない、実直な地方のお役人一家に育った純情な青年です。彼は散歩の途中で見かけたヴィオレッタに惹かれ、子爵に頼み込んでこの場に連れてきて貰ったというわけ。
客達に求められて即興で乾杯の音頭を歌うアルフレード(「乾杯の歌」)、その声に皆が加わり、パーティーは一層華やかさを増します。そして音楽は軽やかなワルツに転じ、客達はダンスの間に移動します。部屋に残ったヴィオレッタは様子がおかしい。彼女は実は結核を病んでいるのです。苦しそうなヴィオレッタを気遣うアルフレードは、こんな生活は体に毒だと諫めつつも抑えきれない想いを歌います(「思い出の日から」)。初めての恋に僕はおののきつつ生きてきました、神秘で気高い恋を知ったのです…。そんな彼をヴィオレッタは、私は愛することはできないの、私のことなんて忘れて、と軽くあしらいますが、心の動揺は隠せません。この花をお持ちになって、なぜ?また持ってきて頂くためよ、椿の花(日本産の椿は当時のパリでは大変高価な花でした。贅沢の象徴である椿をヴィオレッタはアルフレードに託し、それが萎れたらまた会いましょうと告げる、ここで既に破局が予言されています。)を手に二人は明日の再会を約束します。
空も白み始め、客が一人また一人帰り始めます。一人になったヴィオレッタは何度も何度もアルフレードの言葉を噛みしめます。神秘で気高い恋…、不思議だわ、なぜこんな気持ちになるのかしら(「そはかの人か」)。でも、私は娼婦、旋律ががらりと変わります。「花から花へ」飛び回り、快楽を楽しむの、神秘で気高い恋なんて私には無用よ。自分の中に芽生えた感情を敢えて押し殺すヴィオレッタ、こんなこと馬鹿げているわ…しかし、窓の外からアルフレードの声が響きます、愛は全世界に波打っている!
「乾杯の歌」でアルフレードは「つかの間の快楽に身を任せよう」と歌います。これは彼の精一杯の背伸びでしょう。だいたい快楽の何であるかが彼には分かっていたのでしょうか?若い彼の出現にご機嫌斜めのパトロンである男爵を差し置いてグラスを掲げる彼は、一生懸命遊び人を気取ってはいますが、所詮は田舎のお坊ちゃん、気の利かないことにヴィオレッタに宝石の一つも持ってきていません(もちろんお金もないでしょうが)。
金で買われる女であるヴィオレッタのところに手ぶらで現れていきなり愛を告白する、普通なら「出口はあちらよ」と追い出されて当然でしょう。そんな彼がヴィオレッタの心を捕らえたのは、彼が「当たり前」だったからです。青ざめたヴィオレッタを気遣う彼、他の男達がダンスに興じている時に、この当たり前の気遣いがヴィオレッタにはうれしかった。病気の娼婦なんて誰も相手にしません。快楽を売る商売では病気という不快な要素は許されないのです。
彼には娼婦であるヴィオレッタが見えていないのです。頭では彼女の職業が分かってはいても、心では理解できないのです。普通なら滑稽にしか聞こえない「もし貴女が僕のものなら、快い時を過ごすように心を配るのに」という言葉(高級娼婦を「僕のもの」にするには莫大なお金が必要で、アルフレードには最初から無理なのです。)がヴィオレッタには何とも不思議で、だからこそ新鮮に響きます。この人は私を買おうとはしていない、ただ愛していると…。ただの「愛」、それがヴィオレッタを誤らせます。この人となら私は娼婦ではなくて一人の女として生きられるかも知れないと。彼女は娼婦である自分を見ないふりをするという選択肢に気づいたのです。華麗なコロラチューラがその不安(見えない人間は安心していられますが、敢えて見ない人間は不安なものです)と高ぶりを歌い上げます。この二重唱での二人は壁によって隔てられています。窓から聞こえる声を頼りに、お互いに独りぼっちで見えない相手に愛を歌っています。アルフレードには本当のヴィオレッタが見えず、ヴィオレッタにはアルフレードの優しさと生真面目さが実は若さゆえの無頓着さの結果であることが見えません。アルフレードにはビジネスとしての愛には慣れきったヴィオレッタが「ただの愛」には処女であることが見えず、ヴィオレッタにはいくら見ないふりをしたところで、現実はちゃんとそこにある、決してなくなるわけではないということが分かりません。
アルフレードが体に毒だと説く快楽の生活、それを手に入れるためにヴィオレッタはどれほどの犠牲を払ったことか、貧しい少女が豪奢な客間で絹と宝石に包まれるまでにはどれほどの涙が流されたことか。ヴィオレッタは文字通り体を張って手に入れた生活を否定します。見えない男と見ない女、二人はただひたすらお互いだけを見つめ合っておぼつかない一歩を踏み出してしまいます。
第二幕 世間は過去を忘れてはくれない
舞台はパリ郊外の静かな別荘。ヴィオレッタとアルフレードは喧噪を離れてささやかな愛の巣で幸せを噛みしめています。アルフレードは「あの人から離れては喜びはない、喜びの中に全ての過去を忘れるんだ」(「燃える心を」)と恋に酔いしれています。情熱的な旋律は、彼の若さを強調し、同時にその単純さをほのめかします。
侍女のアンニーナからヴィオレッタが生活費のために財産を処分すると聞いた彼は、カバレッタで「あぁ、知らなかった!」と歌います。ホント、単純です。いくら慎ましくてもお金は必要です。この男、毎日の生活費が天から降ってきているとでも思っていたのでしょうか?愛ではお腹は膨れないのです。経済観念ゼロの自分(これでも弁護士の卵なんだけど)を恥じた彼は金策のためにパリに出かけます。
娼婦フローラからの招待状を、私はもう娼婦じゃないわと放り出したヴィオレッタに突然の来客、アルフレードの父ジェルモンです。大切な息子が性悪女にたぶらかされて財産まで貢いでいると思い、乗り込んできたのです。ところが貢いでいるのはヴィオレッタの方、ジェルモンの誤解は解けますが、話はそこで終わらない。息子が娼婦と同棲しているとなれば娘の縁談に差し障る、どうか身を引いて下さいませんか(「神は私に天使のような娘を」)。アルフレードを愛しています!娼婦としてではなく一人の女として愛しています!ヴィオレッタは必死に訴えますが、ジェルモンだってここで引き下がるわけにはいかない。子を思う父は強いのです。ヴィオレッタは折れます。「お嬢様にお伝え下さい」、私は何物にも代え難い愛をあなたの幸福のために捧げますと…。お泣きなさい、あなたの犠牲に神は報いて下さると慰めるジェルモン。
アルフレードが帰宅します。ヴィオレッタはありったけの心を込めて歌います、「私を愛して!私があなたを愛するように愛して!…さよなら」、彼女の行動を訝しがるアルフレードのもとにヴィオレッタから別れのメッセージが届きます。唖然とする彼の前に現れたジェルモンは、故郷を思い出して欲しい、あの「プロヴァンスの海と陸」を、と傷心の息子を力づけますが、アルフレードはフローラからの招待状を発見、ヴィオレッタは夜会に出かけた!あの享楽の生活が僕よりも恋しいのか!
舞台はフローラのサロン、今夜の趣向は「スパニッシュ・ナイト」、エキゾチックな音楽の中、客達は「ヴィオレッタとアルフレード、別れたんだって?」と噂しています。そこに登場したアルフレード、好奇の視線に晒されつつカード賭博を始めます。勝ちまくっているところにパトロンの男爵とヴィオレッタが登場、空気は一気に緊張します。男爵からも大枚を巻き上げたアルフレード、彼の態度が男爵とトラブルを起こすのではと心配するヴィオレッタ(若造になめられていてはパトロン稼業はやってらんない)。ヴィオレッタに捨てられたと逆上したアルフレードは衆人環視の中、賭けで勝った金を彼女に投げつけます。怒りに身を任せるアルフレード、ボロボロに朽ち果てた心を抱えて崩れ落ちるヴィオレッタ、不作法な仕打ちを非難する客達。息子の後を追って来たジェルモンは「こんな息子を持った覚えはない」と厳しく叱ります。我に返ったアルフレードは「僕は何てことをしてしまったんだ!」、刃物の傷は治っても言葉の傷は消えません…。
第二幕でヴィオレッタは見えない振りをしていた過去がきちんと存在するという残酷な現実に直面します。
アルフレードはヴィオレッタが財産を処分すると知ってプライドを傷つけられます。女に食わせてもらうなんて!ということでしょうが、現実問題としてヴィオレッタの方がお金を持っているんだから仕方ないだろうが。生活費というのは誰かが稼げば良いわけで、男が稼がなければいけないという決まりはありません。しかしアルフレードの中には男の傲慢さがしっかりと根付いています。しかもその結果が博打なのですから何とも幼稚です。若さとは哀しい一面を持っています。
そして何よりも哀しいのは、彼がヴィオレッタの愛よりも自分のプライドを優先してしまったということです。愛する彼と静かに暮らすために財産を処分する、それはヴィオレッタにとっては喜び以外の何物でもないということが彼には分からなかった。
こんな息子と違ってジェルモンはヴィオレッタの全てを瞬時に理解しました。その愛が真実であること、かつて娼婦だった女が今では一途に息子を愛していることを。しかし、彼は娘の幸せを守らなくてはなりません。優しい父は冷酷であるという厳しい選択に耐えなければなりません。
彼は自分の願いがいかに身勝手なものであるかを知っています。ヴィオレッタが歩んできた過酷な人生とそれにも負けなかった彼女の中の純真な少女を賞賛しています。しかし彼は家族のために彼女に犠牲を強います。ジェルモンは自分の偽善を知り抜いた上でそれを押し通します。偽善は卑小だと知ってはいても、彼らの生きている現実の世界が偽善で成り立っている以上、彼はそれを受け入れる以外にない、これもまた形こそ違え苦痛に満ちた選択です。
第一幕で壁を隔てて愛を歌った息子と違って、ここでのジェルモンは面と向かってヴィオレッタとの二重唱を歌い上げます。お泣きなさい、いつか天はこの涙に報いて下さる…、彼らを取り巻いている偽善だらけの世界には、純粋に愛する娼婦という矛盾した女の居場所はない、でも私は知っている、あなたがどれほど気高い人かを、そう、私と天が知っている…。ジェルモンが自分を受け入れてくれた時、ヴィオレッタは身を引くことを決意します。
ヴィオレッタは、ジェルモンに対して、そして世間に対して、戦いを挑んでもよかったはずなのに、誰よりも大切な男をその愛ゆえに捨てるという、自分との孤独な戦いを選びます。そして、ジェルモンもまた、卑怯であることを承知した上でそれを貫くという、自分との戦いを選びます。彼らはお互いに戦い抜くのです。
金をヴィオレッタに投げつけるアルフレード、彼はかつて娼婦としての彼女をただの女として愛しました。そして、ここで自分の愛した女を娼婦として扱いました。彼に愛されている間こそヴィオレッタは娼婦であった自分を見ないふりをしていられたのに、その幻が粉々に砕け散ります。
「私の息子はどこへ行った?」、ヴィオレッタの犠牲と勇気を知っているジェルモンは実の息子を激しく叱責します。お前はお前への愛ゆえに一番尊い犠牲を払った女性を再び娼婦として侮辱するのか?お前は彼女の愛を金で計るのか?ジェルモンにはここで息子に真相を打ち明けるという選択肢がありました。しかし、彼はそうはしなかった。彼はヴィオレッタに犠牲を強いたのは自分の家族への愛であり、それを受け入れたのはヴィオレッタの息子への愛であることを知っています。ここで真相を明かすことはヴィオレッタの愛を否定することになるからです。
我に返ったアルフレードは自分のしたことが許せません。世間に背を向けて二人だけで育んできた愛を、僕は自分の幼稚さと下らないプライドのせいで、僕の捨てきれなかった世間体のせいで失ってしまった…。
いいえ、ヴィオレッタの愛は消えません、失われません。ヴィオレッタは愛を守り抜きます。この愛は売り物じゃないの、誰にも指一本触れさせない、アルフレード、たとえあなたが遠くに去っても、私を軽蔑しても、あなたは私の愛から逃げられない、なぜなら私は愛されることじゃなくて愛することを選んだから…。
第三幕 そして娼婦は聖女になった
消え入りそうな悲しい弦の響きで幕が開きます。舞台はパリのヴィオレッタのアパート、時は謝肉祭、第二幕からかなりの時間が経過しています。病気が進んでやつれ果てたヴィオレッタ、かつてパトロンたちに囲まれて夜の社交界の女王様だった女は、ただ一人近づいてくる死の足音を聞いています。
何度も何度も読み返して、もう暗記してしまったジェルモンからの手紙をまたもや読み返すヴィオレッタ。「アルフレードは外国におります。私は息子に全てを打ち明けました。彼はあなたの許しを求めに行くでしょう、そして私も。」、ヴァイオリンが第一幕でアルフレードが愛を告白したあの熱っぽい旋律を奏でます。しかしそこには、もう情熱はありません。力なく崩れていくだけです。「遅すぎるわ!」、私はなんてやつれてしまったの、さよなら、過ぎ去った喜びの夢、神様、道に迷った女の望みに微笑んで下さい、私を受け入れて下さい…。
ヴィオレッタにはもう時間がありません。この手紙を受け取ってから今日まで、彼女は、毎日毎日、足音に耳をそばだて必死で待ち続けてきたに違いありません。そしてもう待てない、もう待つだけの力がないのです。
カーニバルの賑やかな音楽が窓から聞こえてきます。かつてその窓からはアルフレードの甘い声が聞こえました、「愛は世界中で波打っている」と。その声はヴィオレッタの心を震わせました。今聞こえてくるカーニバルの生き生きと楽しげな合唱は、もうすぐ死んでいく彼女の哀れな姿を浮き彫りにするだけです。
音楽が急に変わります。ドキドキするような興奮を伝えます。何ごと?アンニーナが駆け込んできます。アルフレード?あの方ね?アルフレード!抱き合った二人の二重唱「パリを離れて」。間違っていたのは僕だ、全て知っているよ、最後には帰って下さるって知っていたわ、僕と父を許してくれるかい?パリを離れて一緒に暮らそう…、ヴィオレッタはこの言葉だけを待ち続けて生きてきました。やっとそれを聞いた今、彼女の命はもう残りわずかです。
ジェルモンが現れます、ヴィオレッタを娘として抱擁するために。アルフレードの愛を取り戻し、ジェルモンから娘として受け入れられた今、ヴィオレッタはやっと死ぬことができます。形見に肖像を渡し、「私を思い出して、そしてもしも結婚なさるのなら、その娘さんにこれを上げて」、かつて娼婦だった女は、遠い天から後に残された恋しい男を見守る聖女になったのです。
不思議だわ、力が湧いてくる、私、また生きるのね…そう、ヴィオレッタはまた生きるのです、アルフレードとジェルモンの心に、そして、このオペラを聴いた人間の心に。
デュマの原作ではマルグリット(ヴィオレッタ)は一人でひっそりと息を引き取ります。アルマン(アルフレード)は彼女の残した日記によって事情を知りますが、その死を受け入れることができず、彼女の墓を掘り起こします(ホラー映画みたいな展開)。
ヴェルディのオペラでは、ヴィオレッタは「多くの親しい人たちの腕の中で」、「私はまた生きるのね、うれしい」と幸せな死を迎えます。
第三幕のハイライトはヴィオレッタとアルフレードの唯一の甘い二重唱「パリを離れて」でしょう。二人の感情が完全に一致した場面はこれが最初で最後です。ここで二人は初めて一つになる幸福に酔いしれます。アルフレードの歌う楽天的な未来、君は元気になるよ、すべてが良くなるんだ、彼にはヴィオレッタがもうすぐ死ぬということが見えていません。再会の喜びでいっぱいでそんなゆとりがないのです。その明るさがヴィオレッタに、当の死んでいくヴィオレッタにまでつかの間の力を与えます。
第一幕での壁を隔てた二重唱でお互いに現実を見ることができず、見ないことを選んでしまい、その結果としてこの第三幕があるわけですが、ここでも二人は見えないし、見ていません。そしてここではそれでいいんだと思えるのです。何を見る?何を見ない?もう二人には時間がないのです。非現実的な愛の言葉に酔いしれて何が悪い?決して来ない未来を歌って、永遠に輝かない希望を歌って、喜びに浸りきって何がいけない?
貧しさからはい上がるために娼婦となった少女は、およそ場違いな若者と愛し合った時に本当の愛の喜びを知り、その愛が本当の愛であったがために、娼婦としてではなく一人の平凡な女として、もう一人の会ったこともない平凡な女であるジェルモンの娘の幸せのために身を引き、その秘密を守り抜き、全てのしがらみが解けた今、あり得ない幻の未来の輝きを浴びつつ、その幻が与えてくれた命の力に満ちあふれたままで、最後の息を吐き出します。ヴェルディはとことんヴィオレッタに優しい。こんなに優しいヴェルディって他の作品では決して見られないと思います。
さて、「道を踏み外した女」です。ヴィオレッタはどこで道を踏み外したのか?いえ、ヴィオレッタだけじゃありません。アルフレードもジェルモンも同じように道を踏み外しました。みんながみんな、とても大切なところで間違ってしまいました。なぜなら彼らはみんな誰かを愛しており、守ろうとしており、そのために真剣だったからです。人は不注意から道を踏み外すとは限らない、一生懸命だからこそ、真摯だからこそ道を誤ることだってあるのです。
三すくみの悲劇
このオペラ、人物の設定が少々厄介です。原作は小説ですから事細かに書き込まれて分かりやすいのは当然として、ヴェルディは敢えてその「分かりやすさ」を無視しているように思います。
まずヴィオレッタ、彼女は娼婦ですが全然娼婦らしくない。第一幕のパーティーの場面でもそれらしい雰囲気はありません。何も知らなかったら大金持ちの貴族の女当主で通ってしまいます。
アルフレード、原作での彼は完全な「つばめ」です。マルグリットはパトロンを騙して別荘を借りてもらい、アルマンはそこに居候を決め込む、少々すれた感じの気取ったワルの一面を持っていますが、アルフレードはひたすら単純なお坊ちゃんです。
そしてジェルモン、彼は娘のためには何でもする優しい父ですが、一方で息子の恋は踏みにじります。世間体ばっかり大切にする非常にいやらしいオヤジなのですが、オペラでは何故か一番痛々しく感じられる役です。
そしてこの三人はいわゆる「三すくみ」状態に陥ってしまい、その結果として悲劇が生まれます。
【ヴィオレッタとジェルモン】
快楽を売る娼婦とお堅いお役人、普通に出会っていればお互いに全く相手が理解できなかった関係です。息子が堕落してしまったとヴィオレッタの元に乗り込んできたジェルモンですが、こと経済問題に関しては、やけに物分かりがいい。しかし、恋愛問題となると冷酷さを貫きます。彼は一人の男としてヴィオレッタの純愛を信じてはいますが、秩序を重んじる父としては彼女を否定します。
「アルフレードを愛しています。神様は後悔している私の過去を拭い去って下さいました」、ヴィオレッタの誤算は、彼女はもう娼婦ではないと思っているのは神様と自分だけだということに気づかなかったという点です。ジェルモンがいくら言葉巧みに迫ったところで、娘の縁談に差し障ると言っていること自体、彼女は未だに娼婦である、世間はそう思っているということの証明です。ここでのヴィオレッタは「息子と別れて欲しいなら手切れ金くらい持ってきたんでしょうね(あんたの息子を今まで養ってきたのは私なのよ)」と言うべきだったのです、言って良かったのです。目の前のジェルモンが、そして世間が彼女は娼婦だと思っているのですから。
ヴィオレッタは自分と神様の手前、娼婦としてではなく一人の女としての選択を迫られてしまいます。自分を否定している社会の秩序を守るために犠牲になる、こんなバカな話はありません。この時彼女は道を踏み外します。そして道を踏み外したからこそ、やっとのことで娼婦ではなくなります。そんな彼女にジェルモンは最大級の賛辞を贈ります。「気高い心の人よ」、そんな賛辞に何の意味があるのか?ジェルモンの偽善の哀しさです。
彼が賞賛するのは、自分の家族のために犠牲になってくれるヴィオレッタ、自分にとって都合の良いヴィオレッタでしかありません。そしてジェルモンはそのことを知っています。知っているからこそラストで彼は「睫毛が涙に溺れるほど」泣きます。ヴィオレッタは死んでしまう、彼は犠牲を払わせただけで、もう償うことはできない、取り返しがつかない・・・。偽善者であることを選択しておきながら、偽善者に徹しきることができなかったジェルモン、彼は「あなたの気高さは神が知っておられる」と歌いました。当然、彼の偽善も神の知るところでしょう。ジェルモンにはそれを償うための時間が与えられなかった、彼は一人取り残されたのです。
【ヴィオレッタとアルフレード】
そもそもアルフレードはヴィオレッタのところに何をしに来たのか?口説きに来たのか、それとも説教しに来たのか?彼の特徴は万事行き当たりバッタリということです。「乾杯の歌」では快楽を賞賛しておきながら、ヴィオレッタが青ざめた途端にその快楽の生活を諫める、「あの人から離れては僕に喜びはない」と歌いつつ、ヴィオレッタの喜び(自分の財産を処分することで彼との生活が守れるのであれば、それは彼女にとっては喜びです)には無頓着。
「こんな生活は体に毒です。僕は弁護士として一生懸命働きます。今までのような贅沢はさせられないけれど、一生貴女を大切にします。ついてきてくれますか?」、なぜヴィオレッタにこう言ってやれなかったのか。
彼の幼稚さは、ある意味、魅力的でもあります。彼はいつも物事の一面しか見ません、偽善もありません。彼は実は娼婦としてのヴィオレッタにこそ相応しい男です。生活力はゼロだけど、快活で適当に愛想が良くて情熱的、これはもう「つばめ」にする以外にないでしょう。ところが彼にはそんな自分が分からない。
冒頭での彼は高級娼婦の館に招かれた男に相応しく振る舞います。そしてヴィオレッタの具合が悪いと知るや、いきなり保護者になりたいと名乗りを上げます(「あなたが僕のものであるなら保護者として・・・」)が、決して保護者にはなれません(保護者なら生活費の心配くらいして当然でしょう)。彼女が財産を処分すると知れば後先考えずに金策に飛び出します。なんでこんなことになったのかは決して考えません。ヴィオレッタが男爵とよりを戻せば怒りに身を任せて決闘騒ぎを起こし、結局、海外へ逃れる羽目になります。残されるヴィオレッタのことなんて考えられなかったのです。そして第三幕で再会すれば一方的に未来への希望を歌い、父に対して「お父さん、彼女をご覧になりましたね?」と見当違いを言う(ジェルモンは初対面からヴィオレッタを「ご覧になって」います。ご覧になったからこそ否定したのです。ところがアルフレードの方は、ここに至るまで全然「ご覧になって」いません)。
いい加減にしろ!と言いたくなるようなこの野放図さ、この傍若無人な若さ、実はこれこそがヴィオレッタの求めていたものなのです。剥き出しの若さが彼女には眩しかったのです。この若さがそばにあったからこそ、娼婦は聖女として戦い抜くことができたのです。
「慎ましい娘さんがあなたに心を捧げるのなら、その方と結婚なさって」・・・、アルフレードは勿論そうするでしょう。彼にとってヴィオレッタは美しい思い出になっても、醜い傷跡にはなりません。なぜなら彼は一つの面しか見ないからです。
娼婦にして初恋の少女であったヴィオレッタ、この相容れない二人の自分に苦しみ抜いた女が安らぐのに、彼の心くらい相応しい場所はないと思います。
【アルフレードとジェルモン】
この親子関係は不可解です。娼婦と同棲している息子は家族にとって大問題と考えるジェルモンは、なぜ当の息子本人に意見を言わないのか?彼にとってアルフレードは「出来の悪い息子」のようです。パリに留学させたらロクでもないことばかり覚えてしまったみたいで(第二幕での博打のシーンのアルフレードはいかにも手慣れた様子、相当遊んでいたと思われます)、そのくせ親の言うことは聞かない、挙げ句に娼婦と同棲する・・・。自分の息子の出来の悪さを棚に上げてしまっているところに、ジェルモンの家族への執着が窺えます。
ヴィオレッタとの別れを嘆く息子に対して、彼は「理」ではなく「情」に訴えます。「プロヴァンスの海と陸」を思い出してくれ、老いた父は「苦しみ」、一家は「悲しみ」・・・、彼が歌うのは感情のみ、ヴィオレッタには秩序の守護者として立ち向かった父が、息子に対しては甘い誘惑者です。それが一転して彼がヴィオレッタに金を投げつけると「私の息子はどこへ行った?」と厳しく叱ります。ジェルモンの行動は逆さまです。妹の幸せをぶち壊す息子に対して「私の息子はどこへ行った?」と諫め、金を投げつけた息子に対して「故郷を思い出せ」と誘惑するのが正しいはずです(金を投げつけた息子も息子ですが、父の方はそれよりもっと酷いことをしたわけで、この親子は両方して潜在意識ではヴィオレッタの職業を軽蔑しているのですから)。
このすれ違ったままの奇妙な親子はヴィオレッタによって救われることが予定されています。父は残りの生涯を通して自分の偽善を悔やみ続けるでしょう。息子はいつか若さを失い、自分も父親になって父の苦悩を知るでしょう。でも、彼らにはヴィオレッタの思い出があります。父の偽善と息子の単純さの犠牲になることを自ら選んだヴィオレッタ、彼らは彼女の思い出のおかげでお互いの過ちを忘れることはないでしょう。許しても忘れない、この親子にはそんな絆が生まれることでしょう。
そして、プロヴァンスの海と陸があります。毎日目にする美しい故郷の光景は、遠いパリでの享楽の生活、その華やかさの裏側の醜さから彼らを守ってくれるはずです、ちょうどヴィオレッタがそうしてくれたように。
完全なる女性
ヴェルディは「男」の作曲家です。彼の真骨頂は強烈な個性を持った男たちの激突する激しいドラマにあります。抜群の歴史感覚でトコトン掘り下げられた人物像と壮大なアンサンブル、パワフルな合唱、彼の作品に登場する男たちは圧倒的な魅力を見せつけます。
これに対して、彼の描く女性像は少々偏っています。
「父性」と「母性」を簡単に定義すれば、「選別」と「受容」だと思います。父親的立場とは、我が子の中から一番優れた一人を自分を継ぐべき者として選び、鍛えることですし、対して母親的立場から見れば、我が子はみんな可愛い、みんな大切、ということになります。父なる者は強く、厳しく、母なる者は無条件に優しい。但し、これは性別は関係ありません。男が優しくても、女が厳しくてもどちらも結構、要はバランスがとれていれば良いのだと思います。ところがヴェルディの作品では、このバランスが崩れ、「母性」が欠如しています。
「ドン・カルロ」では恋人同士が義理の母子になってしまい、そしてそうなりきれないことから悲劇が起こります。「トロヴァトーレ」のアズチェーナはマンリーコを我が子として育てはしますが、彼の命をもって自分の復讐を遂げます。「マクベス」の夫人には子供がいたはずなのですが、彼女には優しさのかけらもありません。「リゴレット」のジルダにも母はいません。彼の作品には母性が登場しません。
反面、彼の描く「男の精神を持った女たち」は、とても生き生きとしています。アズチェーナの不屈の執念、「ドン・カルロ」のエボリの逞しさ、「仮面舞踏会」のアメリアの強固な意思、「ナブッコ」のアビガイッレの権勢欲…、彼女たちは男顔負けの強さを発揮します。
男、あるいは男の精神を持った女をお得意としてきたヴェルディは、デュマの「椿姫」に何を触発されたのか、「ラ・トラヴィアータ」でのヴィオレッタを完全な女性として描き出しました。
第一幕での匂うようなたおやかさと華やかさ、第二幕での強い自己犠牲の意志、第三幕での全てを受け入れ、全てを許す優しさ…、ヴィオレッタはパーフェクトです。そして蔑まれる娼婦を完全なる女性として描いたというところに、ヴェルディらしい反骨精神が窺えます。
これがこの作品の魅力であり、そして大きな問題です。ヴィオレッタは3人のソプラノに分裂してしまったからです。第一幕では華麗なコロラトューラが、第二幕ではリリコ・スピントの強さが、第三幕ではリリコの繊細さが要求されます。これを一人で歌いきる、これはソプラノの一生の夢でしょう。
「この声は一人のソプラノのものではなく、三人か四人のものである、と言いたくなるほど、その声質には変化があり、糸のようにかすかなところから、鳴り響くフォルティッシモに至る。」(1951年「エクセルシオール」ジュニウス氏)
「三つの声、それはあまりにも役作りと声の訓練が異なり、それはおそらく違いがありすぎて、これらを統合するにはとてつもない困難がある。そして技術と、最高のスタイルと偉大な舞台の技巧が支配するところ、…聴衆は、上演中、そして四幕終了後の終わりを知らぬ喝采で疲労困憊してしまった。」(1956年「コリエレ・デラ・セラ」フランコ・アッビアーティ氏)(どちらもデーヴィッド・A・ロウ編・千代田晶弘訳「マリア・カラス/批評・思い出・記録」より)
今日までマリア・カラスを超えるヴィオレッタを私は聴いたことがありません。レジェロからドラマティコまでをこなすレパートリーの広さ、戦闘的な声の強さ、一つのフレーズに何十行ものセリフに匹敵するドラマを織り込む表現力、「一人で三人分」歌ってお釣りが来るヴィオレッタです。録音はたくさんあるのですが、映像が残っていないのが残念で仕方ありません(ポルトガルのテレビ局に映像があったらしいのですが、この連中、なんと処分してしまったんだそうで…責任者、許したらんからね!)。
CDのお薦めは1955年のスカラ座ライブ、指揮はジュリーニ、共演はジュゼッペ・ディ・ステファノとエットレ・バスティアニーニ、第二幕の「私を愛して!私が愛するように愛して!」(Amami,
Alfredo, Quanto io t'amo)には鳥肌が立ちます。それから1958年のギオーネ盤、共演のアルフレード・クラウスが張り切っていて、ピチピチの若さで本当に素敵です。
カラス以外ですと1976年から77年にかけて録音されたクライバー盤、イレーネ・コトルバス、プラシド・ドミンゴ、そしてシェリル・ミルンズ。コトルバスはすごく丁寧に歌っていますし、ドミンゴも全盛期、ミルンズも男の色気たっぷり(ジェルモンって妻を亡くして独り者なんだし、いっそのことヴィオレッタ、単純な息子は捨てちゃって、この父上と幸せになればいいのに、などとあらぬことを考えてしまいます)。クライバーの棒はパキパキとリズムを刻み、端から端まで躾のよろしいこと最高の一枚。
映像ですと映画版(1983年)はゼッフィレッリの演出、指揮はレヴァイン。凝りまくった映像(特に第二幕の冒頭、二人が野で遊ぶシーンは素敵)、テレサ・ストラータスはコロラトューラが少々ギシギシいっていますが、それが気にならない演技力、ドミンゴは声も演技も余裕…って感じです。
夢が一つあります。第二幕のフローラの夜会のシーン、アルフレードはベロベロ泥酔状態、というのを是非とも見たいのです。ここで思い詰めた顔して素面で登場されると、その後の彼の乱暴狼藉がなんだか確信犯めいて悲しすぎるのです。ワイン(シャンパンでもいいけど)の瓶を持ってふらふら登場して、最初からみんなのひんしゅくを買って(これじゃ捨てられても仕方ないわよね〜)、酔った勢いで博打やったらまぐれで勝っちゃって、さらにやけ酒を煽っていたらヴィオレッタが登場して、ろれつも怪しい状態で「ふんっ、お前なんか!」と絡んでいるうちについ興奮して金をぶちまける、で、ジェルモンにひっぱたかれていっぺんに酔いが醒める・・・、これを一度見たいのです。どっかでやってくれないかしら。
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