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モーツァルト 「フィガロの結婚」 (2001年10月2日〜2001年10月25日の日記より)
第一幕 『たわけた一日』の始まり
えー、フィガロとスザンナが結婚する話です、つーことでお終い・・・。
ストーリーの解説ができないという全くもってひでぇお話です。
モーツァルト・オペラの粋と言えるこの作品、美しくて、楽しくて、ホロリと哀しくて、サービス満点の傑作オペラなのですが、例によって話の方はメチャクチャです。原作は「セビリアの理髪師」でも十分にそのデタラメぶりを発揮してくれたボーマルシェ。登場人物も「理髪師」と被っておりますが、さらにややこしい連中が増えてしまって、もう訳の分からないドタバタ喜劇に仕上がりました。
序曲、これが最高に美味です。プレストの軽やかさ、これを聴いた途端に一気に物語に引き込まれます。ここから先は頭痛のしそうなややこしいお話なのですが、もう引き返せません・・・諦めて下さい。
アルマヴィーヴァ伯爵の従者フィガロは、伯爵夫人の小間使いスザンナとの新婚の部屋のサイズを測っています。二人とも結婚を控えてアツアツのウキウキなのですが、問題があります。スザンナに目を付けた伯爵が初夜権復活を企んでいるのです。スケベオヤジめ、そうはさせるもんかと怒るフィガロ。しかしフィガロにも問題あり、女中頭のマルチェリーナにあろうことか結婚を担保に借金しているのです。そして財産目当てで狙っていた姪のロジーナ(伯爵夫人)をフィガロのせいで伯爵にさらわれてしまった医者のバルトロは、これ幸いとフィガロへの仕返しのためにマルチェリーナに助太刀するつもり。
早くもこの辺りでこんがらがってきましたが、さらに追い打ち、小姓のケルビーノ登場。庭師の娘であるバルバリーナとこっそりデートしていたのを伯爵に見つかってしまい、クビになりそう、何とか伯爵夫人にとりなしてとスザンナにすがります。伯爵が登場、ケルビーノが慌ててソファーの陰に隠れます。誰もいないと思い込んだ伯爵がスザンナを口説きます。そこに音楽教師のバジリオが登場、伯爵が慌ててこれもソファーの陰に隠れ、ところてん式に追い出されたケルビーノが飛び出してソファーのカバーを被り、これも誰もいないと思い込んだバジリオが伯爵夫人と色気盛りのケルビーノの噂をし、怒った伯爵が飛び出して、「あの小僧はバルバリーナとイチャついていて、隠れていたのを私が発見したんだ、こんなふうに」とカバーをめくる(あっ、やめて、やめて!)と出てきたのはケルビーノ・・・お前、今度はここで何やってる?三重唱に乗ってマルクス兄弟とジャッキー・チェンの映画を足して二で割ったようなドタバタが繰り広げられます。
フィガロが村人たちと一緒に登場、初夜権を廃止なさった殿様は偉い!さすが伯爵!もう領主様の鏡!とホメ殺し作戦。さすがに困った伯爵は、二人の結婚を認めますが、しっかり準備をしてやりたいので(何の準備だ?)ちょこっと待てと時間稼ぎ。みんなのとりなしのおかげでクビは免れたケルビーノは軍隊行きが決定。軍隊風の行進曲で幕が下ります。
初夜権というのは、領民同士が結婚する場合、花婿より先に領主様が花嫁を頂いてしまうというとんでもない権利です。当時の考え方では、領民は領主の所有物なので、花婿は領主から花嫁を「買う」ことになるんですね。お金で買っても良いのですが、お金が払えない場合、あるいは領主様が「むふふ、良きおなごよの〜」と思った場合には、権利行使ということになります。花婿にしてみれば「ふざけんな!」ですよね。これに真面目に激怒したのは13世紀スコットランドのウィリアム・ウォレス、メル・ギブソン主演の「ブレイブハート」で描かれた通りの悲惨な物語ですが、そこは我らがフィガロ、ホメ殺しという作戦に出ました。
第一幕のお楽しみは何と言っても序曲です。短いものですが、出だしの弦のゴニョゴニョした感じは、まるで首筋をくすぐられるよう。このウキウキした気分をそのまま引き取って、新婚のベッドを運び入れるために床のサイズを測っているフィガロとスザンナの二重唱「5、10、20、30」、明るい長調、軽やかなリズム、この弾むような心地よさは、この作品では(途中で色々とありますが)最後まで変わりません。
そしてスザンナとマルチェリーナがドアのところでお互いに嫌みたっぷりに道を譲り合う「どうぞお通りになって」、フィガロを巡って女二人が火花を散らす場面です。ある意味壮絶な場面と言えますが、フレーズの繰り返しはあくまでも軽やか。スザンナの女らしい底意地の悪さ、それに怒るマルチェリーナ、女同士のジャブの応酬が見事に描き出されます。
色気盛りのケルビーノが歌う「自分で自分が分からない」、この坊や、女を見るとそれだけでドキドキしてしまう自分を持て余しています。でも彼には偽善的な禁欲願望も自己嫌悪もありません。ホルモンに翻弄される自分を素直に表現します。思春期の少年の性の目覚めを歌うのはメゾ・ソプラノのズボン役です。この後彼は女装を披露します。女の演じる男が女装する、優雅な倒錯、ひねりの利いたエロス。
ケルビーノとは旧約聖書に登場する天使ケルビムのことです。ケルビムの役割は炎の剣を手にエデンの園の東の門を守ること。エゼキエル書によればその姿は「4つの顔と4つの翼を有し、その顔はそれぞれ人間の顔、獅子の顔、牡牛の顔、鷲の顔」、完全に化け物です。これがいつしかキューピットと呼ばれるコロコロした赤ん坊の姿で描かれるようになりました。モーツァルトのケルビーノはこの無邪気な赤ん坊、恋の天使キューピットのイメージです。ちなみにケルビムは「智の天使」と呼ばれ、仲裁、知識を表すのだそうですが、ケルビーノときたら騒動を撒き散らかすだけ、天使というより小悪魔に近い。
最後は有名なフィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」、ケルビーノを笑い、からかい、かつ励ますフィガロ。「人生いろいろあらーな、でも心配ご無用、要は楽しもうと思うことさ、そうすりゃ楽しめるって」、そんなフィガロの楽天的な性格が軽い軍隊風の旋律に乗って歌われます。
しかし、この蝶々、まだまだあちこちを飛び回るんです、困ったことです・・・。
第二幕 『たわけた一日』は最高潮!
舞台は伯爵夫人の部屋、最近の伯爵の冷たい様子を嘆く夫人のカヴァティーナ「愛の神よ、安らぎを与えたまえ」で幕が開きます。フィガロの伯爵コテンパン作戦が披露されます。夫人が謎の男と密会するというラブレターをでっち上げて伯爵に見せて嫉妬させる(作戦A)、一方でスザンナが伯爵をおびき出しておいて、現場には女装したケルビーノを派遣してぎゃふんと言わせる(作戦B)、というもの。そこに当のケルビーノ登場、「恋とはどんなものかしら?」と伯爵夫人に捧げる自作のカンツォーネを歌います。このケルビーノ、女と見れば口説いて回っております。何しろどんな女性を見ても心が揺れてしまう、そして彼にはその衝動が何故なのかが分からないのです。夫人とスザンナはドアに鍵をかけてケルビーノのオカマ作戦開始。スザンナが席を外したところに伯爵が登場、作戦Aの手紙が少々効きすぎたらしく、予想外のお早いお出まし。慌てたケルビーノはここでも衣装部屋に隠れます。なんで鍵なんかかけている?様子がおかしいぞ、衣装部屋で音がします。スザンナがウェディングドレスの試着をしていますの、と誤魔化す夫人ですが、伯爵はドアを開けようとします。ケルビーノ、ピンチ!伯爵がドアをこじ開ける道具を取りに出た間に戻ってきたスザンナ、ケルビーノが窓から飛び出した後を受けて衣装部屋へ。怒り心頭の伯爵が衣装部屋のドアを開けると、夫人の言葉通りスザンナが出てきます。形勢逆転、しかし、手紙は偽物とばれてしまって作戦Aはここに沈没。
フィガロが登場、話が噛み合わなくなります。そこへ庭師が登場して「窓から男が飛び出して植木鉢を壊していった」と訴えます。フィガロは咄嗟に飛び出したのは自分、足くじいちゃって、あー痛!とお芝居。やること全てが失敗で伯爵の不機嫌は沸点寸前です。
そこにマルチェリーナがフィガロの借金の証文を手にバルトロ、バジリオと一緒に現れます。証文によれば、フィガロは金返せなけりゃ私の亭主だよ!と債務履行請求の訴訟を起こします。ふむふむ、となるとスザンナはどうなる?とほくそ笑む伯爵。フィガロ、絶体絶命!あぁ、もう全然分かんなくなってきた・・・。
この幕の魅力は伯爵夫人の憂い顔とケルビーノの妖しい魅力です。「セビリアの理髪師」で「僕の真心を捧げます」と貧乏学生リンドーロに扮して熱く愛を語った伯爵は、今や小間使いにヨダレを垂らして初夜権を振り回すオヤジになり果て、「彼を手に入れるためなら毒蛇にだってなるわ」と積極果敢に愛を求めたあの勇敢なロジーナは、ひたすらため息をつく日々です。歳月とは残酷なものです。
「私に宝をお返し下さい、神よ、さもなくばせめて死を」、夫人の喪失感の静かな悲しみ、あのリンドーロはどこへ行ってしまったの?男と女の間を冷たく吹き渡るすきま風が簡潔な言葉で語られます。伯爵は、夫人は、何を失ってしまったのか?
一緒に人生を分かち合う上で、女が男に求めるものと男が女に求めるものは、決定的に違っているのです。お互いに相手が求めるものを理解しようとし、与えようとする努力を怠ってしまえば、その結果はこの通り明白です。
スザンナ欲しさに初夜権復活を目論む伯爵の動機はセックスです。彼にはスザンナを幸せにしたいとか、彼女の望みを叶えてやりたいといった思いやりはありません。当然、スザンナは「このヒヒ爺!」と思っているのですが、伯爵にはそれが分からないし、分かったとしても気にしないでしょう。彼には自分の欲望しか見えていないのです。
女が男に求めるもの、それはたまの豪華なフルコース・ディナーのデートでも時折の情熱的なセックスでもありません。女が一番欲しいもの、それは日々与えられる優しさであり思いやりなのです。それがないと女は「いっそ死を」とまで落ち込んでしまうのです。権力を振りかざして一時のセックスを求める伯爵は、夫人にとって、スザンナにとって、なんて遠い存在なのでしょうか。
そんな夫人がケルビーノに惹かれるのは当然のことです。「恋とはどんなものかしら」と自分の中の衝動を持て余すケルビーノは、夫人に、そしてスザンナにその答えを求めます。彼は愛について女性のリードを求めており、それに従うことを受け入れています。ケルビーノの愛、それは力とも権威とも無関係、彼は「自分が何も知らないこと」を素直に表明し、だから僕はリードできない、女性にリードして欲しいのですと歌います。そこには男らしさの誇示もなく、気負いもありません。
彼の「恋とはどんなものかしら」という問いには答えはありません。伯爵夫人だってスザンナだって答えられない。そんなもの誰にも分かりません。ただ、僕に恋を教えて下さいと真摯に問いかけるケルビーノとなら、この厄介な一生モノの疑問を一緒に考えることができます、一緒に悩むことができます。この共感こそが日々の思いやりを生むのです。
ケルビーノは「どんなものなのか分からない」という恋の本質を正しく理解しています。そしてその疑問をパートナーである女性に問いかけるという正しいアプローチも知っています。この本能的な「正しさ」はつかの間のものです。ケルビーノはやがて本能よりも知恵を頼りにする「フィガロ」という男になり、下手すると、権威は愛を支配できると勘違いする「伯爵」になり果てるでしょう。少年以上男未満のケルビーノにしか許されない「正しさ」なのです。
モーツァルトはケルビーノをメゾ・ソプラノのズボン役に歌わせました。キューピットとして描かれる天使に両性具有の姿を与えた発想は、まさに天才のものです。ケルビーノは男と女の間を自由に飛び交い、断絶を希望に変えるかも知れない一つの可能性として、誰もが一度は経験して、つかの間で失ってしまった貴重な時間の形見として、輝いています。
第三幕 『たわけた一日』は終わらない
舞台は大広間、あれもこれも怪しいとヘタな考えを巡らせる伯爵のもとにスザンナが登場します。お金貰えるんなら言う通りにして差し上げても・・・と思わせぶり、今夜お庭で会いましょうという言葉に、一旦は舞い上がった伯爵ですが、スザンナがボロを出してしまい、再び猜疑心の固まりに。
マルチェリーナの訴訟の審理が始まります。借金を返すか、結婚するか、圧倒的に不利なフィガロはとんでもない理屈をこね上げます。自分はさる貴族の捨て子なので両親の承諾なしには結婚できないと言い出します。メチャクチャです。だったらスザンナとの結婚はどーなんだ?両親の承諾貰ったのか?捨て子で両親は所在不明なんだろ?いーのか?いーのか?今だ!ツッこめ、伯爵!・・・ツッこまないの?ツッコミませんねぇ。
フィガロの身の上話から衝撃(笑撃?)の事実が明らかにされます。フィガロはマルチェリーナとバルトロの間の子で、その昔、盗賊にさらわれたんだそうで。思いがけない親子のご対面場面です。もう、ここいら辺りで私はさじを投げたいと思います。とてもじゃないがついて行けませんです、はい。
当然、フィガロの借金はチャラ、マルチェリーナとバルトロはよりを戻して結婚するんだそうです。親子同時の挙式です。メチャめでたいですね〜、良かったですね〜、もう何でも勝手にして下さい。
ここで終わりにすれば良いものを、話はまだまだ続きます。作戦Bが少々変更されます。スザンナの代わりに現場に派遣されるのは、ケルビーノじゃなくて伯爵夫人というわけ。スザンナと夫人は伯爵をおびき出すための手紙を書いてピンで封をします。そこへ村娘たちが花を持って登場します。あれっ、どこかで見たような「娘」が混じっています。バルバリーナに女装させられたケルビーノです(コイツ、女装ばっかりやっています。根はそっちの方面か?)。伯爵が登場、軍隊に入ったはずのケルビーノがなぜか女装しているのを発見、お前、何やってんだ!と怒りだしますが、いつも伯爵から色目を使われているバルバリーナは、それを逆手にとってケルビーノと婚約したいと頼みます。弱みを握られた伯爵は仕方なくOK。バルバリーナとケルビーノ、本日3つ目のカップル誕生です(しかし、ケルビーノがこれで大人しく収まるとは思えない)。
行進曲に乗って婚礼が始まります。スザンナが伯爵に手紙を渡します。話はまだ終わっちゃおりません(終わらせて欲しいんだけど)。
この幕は二重構造になっています。表向きはフィガロとマルチェリーナ、そしてバルトロの親子の再会がメインとなり、なんだかんだと疑いつつもスケベ心には逆らえず、きれいに騙されてしまう伯爵の姿がフィナーレへの期待を高めます。
裏側から透けて見える物語、これがポイントです。冒頭の伯爵とスザンナの二重唱「どうして今まで私を」、思いがけずにスザンナから意味深な言葉を聞かされる伯爵の甘い誘惑の旋律、調子を合わせるスザンナ、二重唱とは言え、二人の旋律は決して交わりません。これを聴けばスザンナにはそんな気は毛ほどもないと分かるのですが、当の伯爵は有頂天。しかし、その後にやっぱり怪しいと「私がため息をついているというのに」、フィガロのヤツは幸せそう、アッタマ来た!伯爵は自分の身分をことさら強調し、召使いのフィガロが自分よりも幸せになるなんて許さないと歌います。旋律にはおふざけは微塵もなく、貴族としてのプライドを守るためには決して負けないという強い決意、あのリンドーロが少しだけ垣間見えます。伯爵の扮した貧乏学生リンドーロは最後に身分を明かして恋を勝ち取りました。彼にとって伯爵という身分は無敵の武器でなければならないのです。長く力強いフレーズには真の貴族しか持ち得ない、ある意味、爽快な傲慢さがあります。
夫人の歌う「甘さと喜びの歌は」、夫を騙すなんて、私は何故こんなことを?あの甘い恋の日々はどこへいったのかしら、私のこの揺るぎのない心はあの人を取り戻せるのかしら・・・。小間使いと衣装を交換して夫をペテンにかけてでも、あの愛を取り戻したいの、アレグロの高揚感の中に、あの賢くて勇敢なロジーナがまだ息づいています。
そして、スザンナと夫人の二重唱「そよ風に寄せる」の美しい陰謀、入れ子細工のように絡まる声、スザンナは伯爵のスケベを何とかしたくて夫人に協力するのではない、愛を手に入れようとする女と女として共闘するのです。ここではフィガロも伯爵もない、男という何とも浮気で身勝手で困った、それでも愛おしい存在を手に入れようと、取り返そうとする女たちが張り巡らす罠、伯爵はともかくとして、フィガロでさえこの陰謀から除外されているのは当然です。これはフィガロとスザンナが伯爵に対峙するのではなく、スザンナと夫人対伯爵(そしてフィガロ)、女と男が対峙する人類永遠の「戦争」なのです。
でも、この幕の一番の魅力は、どう考えてもメチャクチャな話を、聴いているこっちとは無関係に登場人物が納得して歌う六重唱「母を認めておくれ」でしょう。意味をなさない展開、完全にすべっております。今なら「さぶ〜」という場面です。ただ一人、本当に楽しそうに笑っているのはモーツァルトです。うれし恥ずかしのマルチェリーナとバルトロ、ガックリの伯爵、そして怒って、ビックリして、大喜びと忙しいスザンナ、フィガロ。どう?楽しいでしょう?と得意満面のモーツァルトの顔が浮かぶようです。全然おもしろくねーんだよと言いたいところなのですが、彼があまりに楽しそうなので、つい、うん、楽しいって言ってしまいます。これがモーツァルトの底力です。
第四幕 『たわけた一日』、お疲れ様
長い一日もやっと夜です。庭ではスザンナの手紙に留めてあったピンをなくしてしまった伯爵が、バルバリーナに探すように言いつけています。スザンナが伯爵に手紙を渡すのを目撃してしまったフィガロは、作戦Bの決行を知りません。当然裏切られたと思い込み、現場を押さえようと忍んできます。衣装を取り換えたスザンナと夫人が登場。さて、もう何が何だか分からなくなります。といっても、元々がメチャクチャですから、別にどうでもいいんですけどね・・・。覚悟はいいですか?
騒動となると必要もないのに必ず登場する「歩くはた迷惑」のケルビーノが偽スザンナ(夫人)にちょっかいを出します。伯爵が偽スザンナを口説きます。陰で見ているフィガロ、そこに偽夫人(スザンナ)が登場、フィガロはそれがスザンナであると見抜きます。悪戯心で偽夫人に愛の告白、怒った偽夫人はフィガロに平手打ち。「俺には君の声が分かっていたよ、だって愛する人の声だもの」、フィガロとスザンナは仲直り。デートの最中に偽スザンナとはぐれてしまった伯爵が登場。フィガロと偽夫人は熱いラブシーンを演じて伯爵をからかいます。夫人が浮気していると思い込んだ伯爵は、怒り心頭で武力行使を宣言。バジリオやらマルチェリーナやら、もうありったけのお騒がせ連中が登場します。「見ろ!妻は私を裏切った!現場を押さえたぞ!」と一人ハイテンションの伯爵ですが、そこに偽スザンナの伯爵夫人が登場、私はここにおりますわよ、で、あなたはここでどなたとご一緒だったのかしら?ペシャンコにされてグーの音も出ない伯爵は、夫人に平謝り。夫人は「私はあなたより素直ですもの」と伯爵を許します。
全員勢揃いで幕切れの合唱、みんなでお祝いを致しましょう、やっとのことで、めでたし、めでたし・・・ってめでたいんだろうか、これ?(あ〜疲れた。しかし、こんな台本書くなよなぁ)
お騒がせケルビーノには、この幕に登場する必然性がありません。何しに来たんだ?って感じになります。何しに来たのか?ケルビーノは伯爵の影法師なのです。毎度女性のところに忍び込んでは、その都度伯爵に見つかって、見つかりそうになって、ドタバタと大騒動を繰り広げる彼、ケルビーノはかつての伯爵を表現しています。貧乏学生に酔っ払い兵士、そして音楽の先生に扮してロジーナを手に入れた、あの恋に忠実だった伯爵、ケルビーノは伯爵に対して「ほらっ、恋ってさ、こんな感じなんだよ、思い出してよ」と問いかける役回りを担っています。当然、伯爵は彼に厳しく当たります。でも、いくら怒られてもケルビーノは消えません。軍隊に放り込んでもお構いなしに登場します。伯爵夫人に憧れつつもスザンナを口説き、そしてバリバリーナともよろしくやってしまうケルビーノ、彼には伯爵にはある権威がありません。そんなもの要らないのです。彼はその身一つで伯爵を超えることができる、だって「天使のように」自由だからです。
この幕ではフィガロと伯爵はともにスザンナと夫人のお芝居に引っかかってしまいます。しかし、フィガロはその声を聞いただけで「夫人」がスザンナであることを見抜き、一方、伯爵は最後まで自分の妻に気づきません。奥様がヘアスタイルを変えても気づかない、香水を変えても気づかない、大切な記念日を忘れる、約束したことも忘れる、こんなことに思い当たる方は要注意ですよ。
でも、私が一番好きなのは冒頭でピンを探すバリバリーナが歌う短いカヴァティーナ「なくしてしまった、困ったわ」です。なくしてしまったの、困ったわ、どこにあるのかしら?見つからない、きっと怒られるわ・・・、短調に載せて歌われるのはたったこれだけです。このカヴァティーナがこの作品全てを物語っていると思います。みんな、みんな、とても大切なものをなくしてしまった。それは小さなピンです。何かと何かを繋いでいたピンです。それがなくなってしまったら、繋がっていたものがバラバラになってしまいます。伯爵は夫人への思いやりと優しさをなくし、フィガロは新婚早々だというのにスザンナの浮気を疑い、信頼をなくしかけています。夫人は若さの贈り物である勇気と無鉄砲さをなくし、スザンナは夫人に同調してしまってフィガロへの気遣いをなくしかけています。男と女を繋ぎとめるのは、何とも頼りない、探すのに苦労するような小さなピン、とるに足らないちっぽけなピンなのです。それをバルバリーナが探します。機転を効かせて意中のケルビーノを射止めたばかり、恋の真っ盛り、幸せいっぱい、熱に浮かされたような恋が終わった時の虚しさ、どんなに素敵な恋だっていつかは色褪せる・・・、そんなことをまだ知らないバルバリーナが探すのです。
日々の思いやり、何でもない平凡な、でも優しい一言、男と女を繋ぎ止めるピンは小さなものです。だからみんなつい粗末に扱ってしまいます。でも一度なくしてしまったら探し出すのは至難の業なのです。バルバリーナ、頼むからピンを見つけてくれぃって言いたくなります。しかし、バルバリーナはフィガロが咄嗟にあてがった別のピンを手にして森に駆けていってしまいます。何しろケルビーノとのデートが待っている。そう、若いうちはそんなピンは必要ないのです。繋ぎ止めなくたってお互いの情熱でぴったりと貼りついてしまっているからです。フィガロが与えたピンはマルチェリーナのものでした。何だかんだがありながら、長い年月の末に結局バルトロと元の鞘に収まったマルチェリーナのピン、さぞや効き目があることでしょう。
強引なエンディングに至るまで、この幕は少々きついです。途中でマルチェリーナとバジリオの愚痴っぽいアリアも挟まります(カットされることもありますが)。話はこんがらがって何のことだか分からなくなってしまったし、とってつけたようなハッピーエンドも唐突で白々しい、もう知らん!
そんな気分を帳消しにしてくれるのはフィナーレのアレグロのアンサンブル、あぁ、これがあるからモーツァルトは止められない・・・。
恋には勝者はいない
ボーマルシェが書いたこの作品の原作は、一説によればフランス革命の導火線となったと言われています。芝居一つで革命が起こるのか?当時のフランスの状況から見れば、どうせ革命は起こると決まっていたのではないか?と思いますが、それほどこの原作は風刺が効いていたのでしょう。ただのスケベオヤジのくせして、単に貴族に生まれたというだけで初夜権を振り回す伯爵(原作のフィガロは伯爵に対して、「それだけの名誉を手に入れるために、あなたはそもそも何をされた?この世に生まれてきた、ただそれだけじゃないか」と辛辣なセリフを投げています)、そんな彼を知恵でペシャンコにする才知に溢れたフィガロとスザンナ、階級対立の物語はルイ16世のパリでは上演禁止、当然、ハプスブルク家の支配するウィーンでも上演許可はおりませんでした。
しかし、オペラの台本を書いたダ・ポンテは一筋縄でいく男ではありませんでした。上演禁止は最高の宣伝です。見ちゃダメと言われれば誰だって見たくなる、それが人情ってもんです。大当たり間違いなしの作品をお蔵入りにするわけにはいきません。原作の問題の箇所をばっさりとカットして、音痴のくせして音楽通を気取っていた皇帝ヨーゼフ2世を丸め込み、1786年5月1日、ウィーンのブルク劇場で見事に初演の幕を開けてしまいました。
面白いことにルイ16世の妃マリー・アントアネットはこのお芝居がえらく気に入ってしまい、宮廷内の劇場で自分の主演で上演することを主張したと言われています。何しろ「(民衆には)パンがないのならケーキを食べればいいじゃない」と言ったとか言わなかったとかいう王妃様のこと、階級対立なんて最初から理解不可能、自分がおちょくられているなんて夢にも思わず、ただの陽気な恋物語と理解したのも無理はありませんが。
そして、もう一人この作品の原作が持つ「毒」を全く理解できなかったと思われる人間がおります。モーツァルトその人です。第一幕、伯爵の企みを知って怒るフィガロが歌うカヴァティーナ「上出来ですよ、お殿様」の軽やかさには、大事なスザンナを寝取られてたまるかい!という男としての怒りはありますが、階級闘争は窺えません。第三幕の伯爵とスザンナの二重唱「どうして今まで私を」の伯爵の甘い口説き文句には男の色気がたっぷり。歌手によっては「スザンナさ、フィガロよりも伯爵の方がイイ男なんでない?」って言いたくなります。それに続く伯爵のアリア「私がため息をついているというのに」には堂々たる大人の男としての威厳があり、憎まれ役の伯爵に寄せるモーツァルトの愛情が感じられます。フィガロと伯爵は階級なんて関係なし、男と男として対立しているのです。
そして、夫人とスザンナの二重唱「そよ風に寄せる」では、奥様とその小間使いなんて関係はどっかに吹っ飛んでしまっております。女同士、ロジーナちゃんとスザンナちゃんの恋のひそひそ話って感じ。
何よりも、モーツァルトは主人公たちにある種の哀しさを与えています。夫を騙すなんてと嘆く夫人の「甘さと喜びの美しい時は」、スザンナに裏切られたと勘違いする(自分で立案した作戦Bに何で騙されるんだ?)フィガロの「すっかり用意ができた」、どちらにも愛する人を失いたくないという本当の哀しみがあります。
ボーマルシェが描いた毒のある風刺劇、それをダ・ポンテはたわいのないドタバタ喜劇に仕立て直し、そして、モーツァルトはこう主張します。恋には勝者はいない、誰かを好きになれば、喜びと一緒に哀しみもついてくる、誰かを好きになれば、どこかで誰かがひっそりと悲しむ、それが恋なのだと。
「結婚」をタイトルに掲げながら、この作品は結婚を悲観的に見ています。伯爵夫妻は既にすきま風の冷たさに身を縮めて、伯爵は意識的にスザンナと暖かいベッドに、そして夫人も無意識にケルビーノと暖かいベッドに、それぞれ潜り込みたいと願っています。どちらも不倫願望です。結婚は否定されています。そして、フィガロとスザンナも結婚直後に危機を迎えてしまいます。その反面、マルチェリーナとバルトロは長い長い屈折した関係の末に、再びお互いを得ることができました。
生きているってだけで十分喜劇で十分悲劇、このメチャクチャな台本に、こんな重たい意味を何とも軽やかに盛り込んでしまう・・・、これがモーツァルトの途方のなさです。
ロココの優美さを湛えた演奏となると1968年のベルリン・ドイツ・オペラの演奏、指揮はベーム。ヘルマン・プライのフィガロ(男臭くて頼もしい)、フィッシャー=ディスカウの伯爵(何かクラ〜くて「むっつりスケベ」ってタイプ)、ヤノヴィッツの伯爵夫人(物悲しい雰囲気が良く出ています)、マティスのスザンナ(印象が薄い・・・)。ベームにはポネル演出による映画版もあります(1976年ウィーン・フィル)。こちらもフィガロはプライ、伯爵はディスカウ、夫人をテ・カナワ、スザンナをフレーニという贅沢なキャスト。配役はどれも視覚的に満足できます。ユーイングのケルビーノが何ともセクシー。
セクシーと言えば1991年のウィーン国立歌劇場のアバド盤、こちらはオケが例によって色っぽい。ミラーの演出による映像版は台所が見えたりしてリアルで楽しい。伯爵夫妻の子供も登場します(この夫婦、子供いたんですね)。
1978年のウィーン・フィルはカラヤンの棒。カラヤンのモーツァルトは何かもったりと重くって、と思っていたのですが、この録音は軽やかにまとまっています。しかし、こうして見ると、やはりウィーンの録音が目立ちますね。
ぶっ飛んだところではピーター・セラーズ演出の1990年のスミス盤(オケはウィーン交響楽団)。舞台は現代のマンハッタン、セントラルパークを見下ろす高級マンション。フィガロは運転手、スザンナはメイドさんです。軽い喜劇のはずが「愛の不毛」って感じの悲劇に仕上がっております。
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