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ワーグナー 「ローエングリン」 (2006年7月19日〜2006年10月11日の日記より)
ヒーローは哀しからずや
ヒーロー不在の時代と言われて久しい今日この頃、ヒーローの皆様には、いずこにて、いかがお過ごしでしょうか?
しかし、人間とはつくづく身勝手な生き物でございます。欲望に引きずられ後先考えずに行き当たりばったり、その結果として社会の安定が損なわれた時、難しいこと考えるのは面倒、難しいことがあるのは認めるけれど、自分じゃない誰かが考えてくれるっしょ?その結果として社会の先行きが見えなくなった時、自分のことは棚のうーんと上の方に上げておいて、あなた方ヒーローを求めるのです。
人々があなた方に課す条件、これがまたとてつもないものでして、超絶的な能力を持ち、最高に洗練された装備に身を包み、誰よりも強い意志と倫理観を持ち、我が身の危険を顧みず人々に奉仕し、たとえ敵であってもその命を奪うことは拒絶し・・・、全く、どのツラ下げてあなた方にこんなことを期待するのでしょうね・・・って、このツラなわけですが。
あなた方は人々に賞賛され、感嘆される行い、誰もが立派と認めるけれど誰にもできない行いをしなければなりません。通常は、恐ろしい怪物を倒したり、災難から人々を守ったり、気高い行動で混乱を一瞬にして治めたりですね。つまり、怪物がいなければ、災難がなければ、混乱がなければ、あなた方は用無しです。「英雄時代」と言われた古代ギリシアにあってさえ、トロイア戦争が終わってしまえば、小アイアスは、美女カッサンドラをレイプして女神アテネの怒りを買い、哀れ、船ごと海の底、メネラオスは突然方向音痴になったのか、エジプトに漂着し家に帰るまでに8年を要し、オデュッセウス、こちらはさらに時間がかかって帰宅まで10年を要し、総司令官アガメムノンに至っては、家には帰ったものの留守の間に妻に愛想尽かしされており、妻の愛人に殺された・・・、用無しになったヒーローの末路はかくの如しなのですね。
いくらピンチを救ってやろうが、同じようなことが繰り返し起きる、同じようなことを繰り返ししでかす、それを自分たちではどうにもできないし、おそらくその気もないので、毎度安直に「助けてぇ!」と叫ぶ人間ども、あなた方から見れば、学習能力の欠如なんて甘いもんじゃなくて、ただのバカの集団でしかない、そんな連中をひたすら助け続ける日々、バケツで海の水をかき出すような、砂漠に如雨露で水をまくような作業の連続、どれほどご自分を虚しくしておられるか、心が痛みます。
あなた方の力をもってすれば世界制覇も夢ではありません。夢の装備でもって世界展開、そのロイヤリティ収入は最新鋭航空母艦(ジェット戦闘機付)をまるでボールペンのように買えるほどに昇るでしょう。フォーブスのランキング上位10社を買うことだってできるでしょう。六本木ヒルズなんて爪楊枝みたいなもの、フォートノックスの金なんてお小遣い、そんなことが可能なあなた方ですのに、強い倫理観がそれを妨げる、それを世間が許さない、自分によって、他者によって、二重に強いられた清廉なる日々、どれほどストレスが溜まることか、お察し致します。
ヒーローを求め、ヒーローに熱狂する人々ですが、彼らの一番好む部分、ヒーローの「大トロ」とは実は失墜であると、賢明なあなた方はとっくにお気づきのことと思います。持ち上げて落っことす、褒めておいてから貶す、他人のスキャンダルなら大好き、よそのカタルシスなら大歓迎、あなた方が日々命懸けで救っておられるのは、実はこんな人間たちなのです。
当然、あなた方はその正体を隠してこの世界で生きていかなければなりません。スーパーマンは新聞記者を選びました。勤務時間が不規則で急にいなくなってもそんなに怒られない職業だからでしょう。学校の先生だったらこうはいきませんからね。バットマンは大富豪でおられましたから、個人資産の運用益だけで生活するニートに。サンダーバードの皆さんは島を丸ごと一つお買い上げ、莫大な費用をかけて改造しておいて、その上で日々グータラしている遊び人一家として生きておられます。国税庁をごまかすだけでも一苦労かと思います。
あなた方の多くは一番親しい人にも自分がヒーローであることを隠しておいでです。秘密とは自分だけが知っている状態でしか保たれない、蟻の一穴、一度外に漏れた秘密はエボラ・ウィルスよりも早く広がります。そうなれば、後はパパラッチとの闘い、レポーターとの鬼ごっこ、そしてスキャンダル塗れ、どんなに清廉なあなた方であろうが、無理にでもスキャンダルを作り出すのが人間なのですから、あなた方の秘密主義は当然です。しかし、秘密とは常に漏れたがるという性質を持つものです。クラーク・ケントことスーパーマンとロイス・レーン、ピーター・パーカーことスパイダーマンとメリー・ジェーン・ワトソン、ハヤタことウルトラマンとフジ・アキコ隊員、二重生活ゆえの人間関係の複雑さは半端じゃないでしょう。男は嘘が下手、女は秘密に弱い、そもそもムチャなんですよね。災厄はいつも突然やってくる、デートのドタキャンは当たり前、クリプトン語やら「ジョワッ」やら言い出す恐れがありますから、寝言もうかうか言えません。
普通の人間にとっては当たり前の日常も、ヒーローであるがゆえの困難さがつきまとう、これまた難儀なことでございましょう。仮面ライダーは半分バッタですから、やはりベジタリアンで、生姜焼き定食なんか食べた後は消化不良で一人苦しんでおられるのでしょうか?月光仮面のおじさんは、ガス欠の125ccのバイクを、マスクを外してびくびくしながらガソリンスタンドまで押して行かれるのでしょうか?
本来、ヒーローとは、生きる目標であり、意欲の源であり、存在を分かち合う者同士の喜びであるはずなのですが、いつの間にやら人々の「玩具」になってしまいました。多様化した価値観の下では、誰にでも受け入れられる万能ヒーローはそうそう見つかりません。商売に目ざといマスコミは、限定的ヒーローをでっち上げ、連日連夜露出させては持ち上げて最後に落とすところまで、勝手にどんどんやってくれます。近頃では、何一つ人助けをしない、自分のための金儲けしかしない、しかもそれを自慢するという、トホホな賞味期間限定の線香花火型ヒーロー、最初から底が割れている、それを承知でもったいぶった様を笑うという自虐鑑賞型ヒーローまで登場する始末、既にヒーローという言葉自体、どこか胡散臭さ、皮肉を感じさせる語感を帯びてきてしまっているように思います。
あなた方が活躍なさればなさるほど、人々はあなた方の正体を知りたがり、あなた方の生活はより困難なものになっていくのです。あなた方の幸福と人々の幸福は、決して重なり合うことはありません。それでもなお、あなた方は人々の幸福のために戦う・・・のでしょうか?
強い使命感を持って人々の危機を救済する→ヒーロー誕生→ね、ねっ、あの人って素はどんな人?→パパラッチ発生→ヒーロー引き籠もり→ますますパパラッチ→ヒーロー、ついポロる→総叩き・・・、恐ろしい負のスパイラルを乗り越えてでも・・・?
子供の頃は皆、あなた方に憧れておりました。玩具メーカーのマーケティング戦略のままにあなた方のスーパー装備のオモチャをねだり、風呂敷やママのスカーフ(この場合は後でどやされますが)をマントに公園を走り回る時、後ろにたなびく風呂敷は紛れもなくヒーローの証、自分で自分にウットリしたものです。
しかし、そんな公園のヒーローたちが大人になっても誰一人として、限定的ヒーローはともかく、真のヒーローになろうとはしないのです。あんなに大好きだったのに、あんなに憧れていたのに・・・。
人々は知っているのでしょう、あなた方の抱えている孤独を、あなた方の見つめている荒野を、そして、あなた方の既に予定されている転落と、そう、本質的な欺瞞を。だからこそあなた方に憧れるのかも知れません。誰かがやらなきゃならないけど、自分はやりたくない・・・、人ゆえにヒーローは生まれ、人ゆえにヒーローは堕ちるのです。
「拍手喝さいは人を愚にするの道なり。つとめて拍手せよ、つとめて喝采せよ、彼自ずから倒れん」(斎藤緑雨『緑雨警語』)
あなた方が真に恐れるべきは、怪獣でもなければ天災地異でもない、人間です。
第一幕 何処の誰かは知らないけれど
時は今を遡ること千と百年の昔、所は緑濃きブラバント公国、スヘルデ河の畔。甲冑に身を包んだ騎士たち、宮廷の女官たち、そして幾多の野次馬。その中心、樫の大木の下に陣取るのはドイツ国王ハインリッヒ。その傍らにはブラバントの摂政フリードリッヒ・フォン・テルラムント伯爵とその夫人オルトルート。お歴々の前には聖なる円陣が描かれ、ラッパ手が高らかにファンファーレを吹き鳴らします。
ハインリッヒの声が響き渡ります。ブラバントの方々よ、思いを致されよ、マジャール族どもが我らの国土を幾度蹂躙したかを!9年の休戦の時は尽きようとしている。今こそ名誉を守る時、全ての武士が立ち上がる時!一斉に武器を鳴らして答える騎士たち。ところが、貴殿たちは、君主を失ったまま内輪もめに明け暮れている。テルラムント伯爵、貴殿には説明する義務があろう。
王よ、真実のみを申し上げましょう。ブラバント公の臨終の折、枕元には二人のお子、エルザ姫とゴットフリート公子が。とりわけ公子は私が真心込めてお育てした、私の宝玉とも申すべきお方、その宝玉が奪われたのです!エルザ姫がこの弟君を誘って森に散策へ、そして帰って来たのは姫お一人、弟を見失ってしまったと申される。あらゆる探索も無駄に終わり、私は再び姫に問いました。血の気の失せた顔、乱れる言葉、私は悟ったのです、恐ろしい罪が犯されたと!
私はかつて、公爵から姫への求婚を許されました。しかし、私は、このオルトルートを娶りました。私は今、エルザ姫を弟殺しの罪で告発し、ブラバント公爵の地位を要求致します。どうか、王よ、正しい裁きを!
何という恐ろしい罪!それは確かなのか?王よ!この娘は私の求婚を撥ねつけた、何故なら悪魔と通じているからです!この娘は、弟さえ亡き者にすればブラバントを思うままにして、秘密の愛人と楽しめると妄想したのです。
エルザをここに!王と騎士たちの誓いの言葉によって、裁判が開始されます。
白いドレスを纏ったエルザ、その歩みは乱れ勝ち。見ろ!純潔そのものに見えないか?テルラムントはどんな証拠を?貴女がブラバントの公女エルザか?私を裁判官として認めるか?ハインリッヒの問いかけにエルザは黙って頷きます。訴えの内容を理解しているか?反論はあるか?エルザは黙って首を振ります。では罪を認めるのか?
可哀想な弟・・・、私は一人祈りました、私の溜息は遙か彼方へ空を飛び、消えていった・・・、私は優しい眠りに沈んでいきました。白銀に輝く甲冑に身を包んだ騎士、あれほど気高い人を見たことがありません。その腰には黄金の角笛、その手には剣、騎士は私を慰めてくれました。私のために闘うのはこの騎士です!エルザの訴えが漣のように広がります。
夢の話で惑わされてはなりません!テルラムントが主張します。私は武士、証拠よりも剣を選ぶ、どなたが私の名誉に挑まれる?王よ、私の武勲をお忘れか?貴殿の武勲は喜んで認めよう、このブラバントを守るに相応しいのは貴殿のみ、ただ神の裁きを仰ぐしかあるまい。
神明裁判を!神の裁きを!
テルラムント伯爵、貴殿は一騎討ちによる神明裁判を望むか?はい!ブラバントのエルザよ、貴女は代理人を望むか?はい・・・、では貴女のために闘う騎士を選ばれよ。
あの騎士です!領土も王位も差し上げます、さらに私を妻と呼んで下さるなら私も差し上げます!素晴らしい報酬、しかし、高くつくぞ、一同、息を呑みます。
エルザの騎士よ、現れよ!誰も答えません。王よ、もう一度呼んで下さい!エルザが願います。今一度、エルザの騎士よ、現れよ!沈黙・・・、これが神の裁きか?エルザが跪きます、神よ、どうか騎士に私の苦境をお告げ下さい!あの夢に見た騎士をここに!
見ろ、白鳥だ!小舟を曳いている、小舟には騎士が・・・、光り輝く甲冑と剣、何と眩いことか!奇跡だ・・・奇跡だ!
神から遣わされたお方、ようこそ!唖然としているテルラムントとオルトルート以外は全員が騎士を歓迎します。白鳥よ、ご苦労だった、遠い波路を帰るがいい、白鳥を見送った白銀の騎士はゆっくりと王に一礼。ハインリッヒ王よ、その名誉が永遠であるように!見知らぬ騎士よ、貴方をここに遣わしたのは神なのか?重い罪を着せられた乙女に代わって剣を振るために、私はここに来ました。ブラバント公女エルザよ、私を代理人として選んだからには、その身を私に任せるか?私の守護者、私の全てを貴方に捧げます!私が勝利したのなら、私を夫として望むか?貴方の足元に平伏す乙女の全てを差し上げます!ならば誓ってほしい、決して私に尋ねてはならない、知ろうと思ってもいけない、私の名とその素性を!決してお尋ね致しません、私の保護者、貴方のご命令を私は誠実に守ります!エルザ、私はお前を愛する、その胸にエルザを抱き寄せる白銀の騎士。
さぁ、全ての人が聞くがよい、エルザはいかなる罪も犯してはいない、テルラムント伯爵よ、偽りの告発を暴いてやろう!貴族たちが囁きます、伯爵、神の力に守られた騎士に貴方が勝てるはずがない、止めなさい!臆病と罵られるくらいなら死を選ぼう!テルラムントが激しく応酬します、勝利は我に!
王が進み出ます、各々三人の騎士を証人に、そして神聖なる円陣を検分せよ。試合の邪魔立ては許されぬ、円陣を乱してはならぬ、法を犯した者は厳しく罰せられる!一騎討ちの騎士よ、魔法やまやかしで裁きを汚すことなきように、神のみを信じて闘われよ!
王が樫の大木に吊るした盾を叩きます。第一打で白銀の騎士とテルラムントは円陣の中へ、第二打で剣を構え、第三打で決闘が始まります。テルラムントも懸命に剣を振るいますが、白銀の騎士の強さは圧倒的、テルラムントは地面に倒れこみ決着がつきます。倒れたテルラムントの喉元に白銀の騎士の剣が押し付けられます、前非を悔い改めるのであれば命だけは助けてやろう!勝利だ!白銀の騎士の勝利だ!
エルザの熱い視線が騎士に注がれます、貴方のために限りない賞賛を歌います、私を幸せにして下さるのなら私の全てを受けて下さい!
オルトルートの熱い視線が騎士に注がれます、何者?私の魔法をも跳ね返したあの男は何者?彼の前には私の全ての希望も潰えるのか?
王、貴族たち、そして善男善女の祝福の中、騎士たちが掲げる盾に乗った白銀の騎士を取り囲んで立ち去る人々、地に倒れたままのテルラムントを誰も省みません。
「聖杯グラールが天使の群に伴われて、地上の至福の人々のもとに降ってくる」、厳かに響き渡る和音で始まる前奏曲、視点は天上にあります。ヴァイオリンの最高音域で描かれる至高の宝、聖杯、地上に降り立った聖杯は徳高き騎士を祝福し、管楽器が聖杯の騎士の出現を宣言します。天使たちは聖杯騎士団に聖杯を委ね、ヴァイオリンの弱音と共に天に帰っていきます。この前奏曲が描くのはこれから先の物語の予告編ではなく、これまでの物語のダイジェスト版、ヒーローは既にこの世界にあり、出番を待っているのです。
しかし、その出番っちゅーのが刑事事件の被告代理人、倒す相手は検察官一人、一気にスケールダウンする感は否めません。
テルラムントが告発するエルザ姫の弟殺害容疑、被告は申し開きをするかと思いきや、昨夜見た夢を延々と語り出す。エルザの夢の内容は、白銀に輝く甲冑を纏った騎士が自分を助けてくれる、それだけじゃない、もう登場する前から、白銀の騎士は彼女の夫となって、領土と財産を受け取ることになっているんだそうで。追い詰められたエルザの病的な精神状態が同情を誘うわけですが、同時に、彼女の幼さ、ひ弱さも明らかになり、この先への不安も掻き立てられる次第です。
神明裁判、これは中世まで行われていた祭政一体時代の法システムです。犯人が誰なのか、裁判官でもなく陪審員でもなく、神様に尋ねるというもの。その方法とは、木の棒を放って枝の先が差した人が犯人(今でも子供がやっていそうです)、燃える火の中に手を突っ込んで火傷しなかったら無罪(無理・・・)、手足を縛って川に放り込んで沈めば無罪、浮けば有罪(どっちにしても死ぬ)、等々。その中に決闘というのがあります。神の御加護により正しい方が勝利するというわけ。男性対女性の場合には、女性にハンディがつきます。男性は頭と手だけ出して地面に埋められるというもので、これなら大抵の女性は勝てると思うのですが(後ろに回ってアタマ蹴飛ばせば終わりじゃん)、そんなことできないヤンゴトなきお方の場合には代理人が闘います。
伝令が代理人たる騎士を呼び出しますが、なかなか登場しない辺り、さすがヒーローはちゃんと焦らすことをご存知です。
白鳥の曳く小舟に乗って厳かに登場した騎士、その神々しいまでの美しさ、凛々しさを人々が口々に褒め称えます。長い長いクレッシェンドは、人々の溜息にも似て、のっけからこれでは、何もしないうちにヒーロー認定。
その後がすごい。ハインリッヒ王にいきなり斜め上から挨拶してのける、それをまた王も嬉々として受け入れる、どっちがエライのかよう分からんです。で、初対面でいきなりエルザに奇妙なプロポーズ、私が勝った暁には私を夫として望むか?「僕と結婚して下さい」じゃなくて「僕と結婚したいですか?」、これでウンと言う女はおらんだろうと思うのですが、エルザにとっては既に夢の中で決定済みのこと。
しかし、莫大な報酬を約束されて戦うヒーローって・・・。ウルトラマンは怪獣退治のサービス料を受け取りませんし、仮面ライダーもサイクロンのガソリン代を人々に要求しませんし、スーパーマンもスパイダーマンもバッドマンも、用事が済めば颯爽と消えるというのに、このヒーロー、領地と財産と王冠と嫁さんと貰って、その上ブラバントに居座るつもりらしいです。ヒーローというより示談屋に近い気がする・・・。
「貴女は私に尋ねてはならない、知りたいと思ってもいけない、私がどこから来たかを、私の名を、私の素性を・・・」、訊かれても答えない、なら話は分かります。それは自分の意思です。しかし、この白銀の騎士の要求は、訊くな!エルザの意思を縛るものなのです。
法律にはどこにも「人を殺すな」とは書かれておりません。ただ「人を殺すとこんな罰を受ける」と書かれているだけです。人は自由な意志を持つ、だからこそ意志によって起こした行動の結果を自ら引き受ける、それが「生きる」ということなのです。白銀の騎士はこの時点でエルザの「人としての生」を奪っております。
自分は金ぴかの甲冑に兜、手には盾と剣、腰には角笛と完全武装、対するエルザは寝起きに引っ張り出されたのか、質素な白いドレス。エルザは夢の中で自分の悲しみと苦しみを全て打ち明けており、エルザには秘密がない。対して、白銀の騎士の方は秘密しかない。これでなお「問うな」です。
普通は秘密を持っている人間の立場が弱いのです。それを白銀の騎士は、問いを禁じることで逆転してしまった。ここから先、エルザは無防備なまま意志を放棄して生きなければならない。それがエルザの命の代償であるとして、白銀の騎士が受ける栄誉と富と地位と愛、ありったけのものの代償、それが分からない。
文脈だけ追っていくとトンデモなヒーローなわけですが、旋律がそれを救っています。白鳥をねぎらうカンタービレの優しさ、人々に挨拶を贈る高音部の優雅さ、常に上からモノを言っておきながら何故か漂う哀しさ、エルザが孤独であるように、白銀の騎士も孤独なのです。
孤独な者同士が運命的に出会った、そして恋に落ちた、その恋は成就され、二人はそれを守った・・・、そうであればどんなに良いか。しかし、そうはならないのです。
何故なら、愛など最初から何処にもありはしないから。
第二幕 問うな!問うな・・・、問うな?
夜の闇が下りて、小さな窓には暖かに揺らめく光、楽しげなホルンの響き、そして、冷たい石畳の上に蹲るのはテルラムントとオルトルート。
行こう、こんな姿を見られたくはない、いいえ、動きません、奴らに毒を浴びせるまでは!恐ろしい女だ・・・、お前のお陰で俺は名誉も名声も失った、剣は折れ、家紋は破れ、家名は地に堕ちた!あの男に殺されるべきだった!何を嘆くの?お前を殺す剣すら持たないことをだ!
あの潔白な姫を告発しろと言ったのは、あの暗い森の奥で弟殺しの現場を見たと言ったのは、エルザがゴットフリートを水に突き落としたと言ったのは、古の血筋がブラバンドの領主に返り咲くと言ったのは、エルザではなくお前を娶れと言ったのは、お前だ!そうとも、全てお前だ!ええ、ええ、その通りよ!その上お前は俺を欺瞞の共犯に仕立てた!神は俺を裁いたのだ!
神?自分の臆病を神と呼ぶの?あぁ、私を詰るその熱意であの騎士に立ち向かっていれば、貴方は勝利したはずよ。神など取るに足らない、聞きなさい、私の言葉を!あの白鳥に曳かれてやってきた騎士の正体を知っているの?名前と素性を口にすればあの男の力は消えるのよ。そうか、だからエルザに何も聞くなと?あの男の秘密を聞き出せるのはエルザだけ、だからエルザを唆すのよ。ここから一歩も退いてはだめ、人々の前で堂々と訴えるのよ、あの騎士は魔法を使ったと!それでダメなら力に訴えるまで、魔法で守られた者は体の一部でも失うとその力も失うの、指一本でいいのよ。俺は神の力によって打ち負かされたのではなく、魔法でたぶらかされたのか?だとすれば、あのエルザの色男を倒せば俺は名誉を取り戻せる!そうよ、甘い復讐は我らのもの・・・、愚か者どもよ、眠るがいい、だが、眠らぬ者が爪を研ぐことを忘れるな!
バルコニーの扉が開いて、夜風を浴びるエルザ、風よ、私の嘆きを聞いてくれた風よ、今宵は私の幸せを聞いてちょうだい、長い船路の間、あの方を守ってくれたお前たち・・・、私の涙を乾かしてくれたお前たち、今宵は幸せに火照る頬を冷やしてちょうだい。
エルザ!誰?悲嘆の淵に突き落としておいて私を忘れたの?オルトルート!可哀想な人、可哀想?異端の烙印を捺しておいて、私をそう呼ぶのね?袖にした男が私と結婚したからって私を妬むなんて・・・、妬む?私が貴女を?フリードリッヒは後悔しているわ、それも神の思し召しよ。エルザ、束の間の苦しみの後、貴女は微笑みで溢れているわ、だから私を疎んじるのね、私を死の旅に追いやるのね、自分の幸せに影が差さぬように!神が下さったこの幸せに懸けて、そんなことはしないわ、オルトルート、待って、今扉を開けるから!
虐げられた神々よ、復讐に力を!ヴォータンよ、フライアよ、私の嘘を祝福し給え!
オルトルート、どこなの?館の扉が開いてエルザが現れます。ここよ、貴女の足元に・・・。何てこと、あんなに誇り高かった貴女が、どうかお立ちになって、貴女を許します、だから私も許して下さい。フリードリッヒ殿のことも、私の夫となるあの方にとりなしましょう。明日は私と一緒に聖堂まで歩いて下さるわね?身に余る光栄、そのご厚情に報いるために貴女の未来を見て上げましょう、あの不思議な騎士、彼が去った後は彼が現れる前と同じではない、何故なら彼は魔法を使ったから!まさか!後悔とは無縁の幸せがあるの、教えて上げましょう!
思い上がるがいい、小娘め!その高慢に刃を打ち込んでやろう・・・、澄んだ真心には真の喜びがあるの、オルトルートを促して館に入るエルザ。
女たちを陰から見送るテルラムント、姫よ、お前が招き入れたのは災いだ、今度は奴らが倒れる番だ、俺の名誉を奪った者は殺す!
東の空が明るくなった頃、塔の上からファンファーレが響き、ブラバンド中の貴族たちが晴れやかに登場、婚礼の朝です。
王は申されました!伝令が叫びます。フリードリッヒ・テルラムントは神明裁判に破れたり、全ての権利と保護を失い、ブラバンドの地から追放されるべし、彼を匿う者も同罪と心得よ!さらに王は申されました!エルザ姫が夫君に望まれた異国の騎士殿はブラバンドの領地と王冠を得られたり、今後はブラバンドの守護者と称されるべし!神から遣わされた新しい領主に幸あれ!
ブラバンドの守護者の最初のご宣告!今日、守護者は婚礼の儀を迎えられます、明日には守護者は王の軍と共にご出陣、皆、遅れをとることなきように、気高い名誉の手柄こそ守護者の望まれるところ!
戦だ!ブラバンドの名誉と栄光のために神から遣わされた人、あの方と共にあれば勝利は我らのもの!
浮き立つ人々の中で浮かぬ顔はテルラムントの腹心たち、マジャール軍を討つ?この地に足を踏み入れてもいないのに?ヤツにそんな命令を出す資格があるのか?だが誰がヤツに刃向かえる?俺が!フリードリッヒ?追放の身でなぜここへ?お前たちに見せてやるためさ、厚かましくも出陣命令を出したあの男の正体を!聖堂へ向かう男たちと入れ替わりに小姓たちが先触れを叫びます、姫のお通りです!
神が姫の歩みを守り給いますように、天使のようなエルザ!エルザ・フォン・ブラバンド、万歳!人々の歓声の中、エルザが聖堂の石段に足を乗せた時、下がりなさい!オルトルートが叫びます、お前は私に頭を垂れるがよい!唖然とするエルザ。
今こそ復讐を、私は私に相応しい地位を取り戻すのよ!夕べの涙は嘘だったの?神の裁きを受けた男の妻が私の先に立つというの?テルラムントは、私の夫は、この国一の徳と胆力を謳われた男よ、それに引き換え、エルザ、お前の夫は何者なの?名前は?素性は?どこから来たの?どこへ行くの?言えますまい!言えない訳がある、だから質問を禁じたのよ!
あの方は穢れなく気高いお方、あの方を疑うような人間は不幸者、あの方は神明裁判で貴女の夫を倒したのよ、正義はどちらにあると?魔法の正体が明らかになってもそう言えるのかしら?どうしてあの男に聞かないの?お前自身が恐れているからでしょう?
静まれ、王のお出まし!
ハインリッヒ、そして白銀の騎士が登場、私の主、エルザが駆け寄ります。あの女、哀れに思って救ってやったのに私を裏切りました、私の貴方への信頼を詰るのです。
恐ろしい女よ、エルザに触れるな!お前に勝機などありはしない。エルザ、泣かないで、涙は祭壇で歓喜に暮れて流すがいい。静々と聖堂に進む行列にテルラムントが叫びます、貴殿たちは騙されておられる!まだ言うか?立ち去れ!なおもテルラムントが主張します。神明裁判そのものが魔法に汚されたのです!私は、そこに立つ男を魔法使いとして告発する!誤った裁きによって私は名誉を失った、ただ一つの問いを為さなかったからだ。だから今、彼に問う!白鳥の曳く船でこの国に現れた騎士は何者?答えて貰おう!
白銀の騎士が拒絶します、お前に答える義務はない!王が問うても私は答えない、私が答えねばならぬのはただ一人、エルザだけだ。全ての視線がエルザに注がれます。エルザ、悩んでいるのか?秘密・・・、それが明かされたら災いが?私が裏切ったら彼は?
姫はどうするのだ?神よ、清らかな魂を守りたまえ!ブラバンドの騎士たちが白銀の騎士を取り囲みます、貴方こそ勇士、その名がなくとも我らは信じます!エルザ、テルラムントがにじり寄ります、あの男の小指の先でいい、切り取れば全てが明らかになる、何ですって?今宵、夜が更けたら証明して見せよう。
清らかな女から離れろ!白銀の騎士がテルラムントを退けます。その姿を二度と見せるな!エルザ、全てが君の心にかかっている、疑いがあるのか?私に問いたいのか?私の救い主、私の勇士、この身も、この心も貴方の中に消えていきます。私の愛は全ての疑いを超え、そして決して変わりません!
幸あれ、ブラバンドのエルザ!エルザはその身を白銀の騎士の腕に委ね、聖堂に進みます。
国を追われ闇に沈むテルラムントとオルトルート、そして華燭に浮かび上がる白銀の騎士とエルザ、光と闇がすれ違い、そして入れ替わります。
お互いを詰るテルラムントとオルトルート、全部お前のせいだと嘆く亭主の恨み節を毅然と聞き流す女房。王座を手にするために妖しい力を持つ妻を必要とする夫、心に秘めた復讐を果たすために夫の豪腕と一途さを利用する妻、恨みを、絶望を、希望を語りはしますが、決して愛を口にしない二人。この二人は愛し合ってはいないのかも知れませんが、お互いを人生のパートナーとして認めています。彼らはベッドを共有しないかも知れませんが、人生を共有しています。そして、人生を共有する二人には愛も結婚も意味を持ちません。お互いに罵りあいながら、この二人は閉ざされた空間でお互いを見詰め合うのではなく、開かれた空間で並んで未来を見ています。国を追われた罪人です、婚礼の宴から外されている元摂政夫妻です、冷たい夜気に身を縮めている宿無しです。しかし、人生を共有している二人です。
魔術の動機、復讐の動機で紡がれる二重唱のラストはユニゾン、オルトルートがテルラムントを絡めとり、底なしの沼に引きずり込んでゆくわけです。しかし、テルラムントはそれを希望をもって受け入れる。この時点で既に彼はオルトルートの捨て駒なのですが、全てを失って後がない武人にとって、捨て駒であろうが踏み石であろうが、もう一度剣を振るう以外に未来などありません。オルトルートは夫が一番欲している形で彼の最後を用意します、「不遇の正義」というせめてもの虚構を屍衣として。
彼らに対して、新婚の二人には何もありません。妻は夫に全てを委ねており、夫は妻に何一つ求めない、二人の間にあるのは完全な支配と服従。お互いに二人で分かち合う人生には興味がない様子です。夫となるべき男は、妻となるべき女を一人残して、王たちと政治と軍事という男の最大の娯楽に夢中です。妻となるべき女は、夫となるべき男には聞こえないのに、彼を讃えるお題目を唱えることを止めません。男は自分の「その他」の部分を女に与え、女はそこに自分の全てを投影し、彼らはこれを愛と名付けたようです。
人生とは愛だけで出来上がっているわけではない、時には、いいえ、多くの場合、愛をそっと押しやってこそ、人生が始まります。愛は人生を生きていく上での力であって、目的ではない。二人の間の愛のみを目的とした結婚はいずれ破綻します。なぜなら二人でベッドを分かち合っているだけでは、寝室の外に広がる人生が始まらない、人が生きるのは人生であって愛ではないのです。
祭壇へ歩む白銀の騎士とエルザ、威嚇するかのように強く響く禁問の動機、それはまるで問え!と迫るかのよう。無知にして無欲であれば幸福が守られると説く「守護者」、今宵、二人の寝室の扉が閉ざされる、その時を前にして初めてエルザは夢から覚めた。私の夫、私の守護者・・・、問うてはならぬ、問わずとも幸せですもの、でも・・・。
オルトルートとエルザ、二人の女がすれ違いました。今、オルトルートは自己実現のために夫の命を払い除けて闇から出ようとし、エルザは足元から立ち込めてきた闇の中、一人立ち止まってしまいました。
第三幕 そして、約束されていた別離
白銀の騎士とブラバントのエルザ姫の婚礼。心を込めて飾られた新婚の間、天蓋を頂く寝台は花に埋もれております。松明を掲げた従者たちに導かれ、新郎新婦入場。
愛の祝福が見守る喜びの部屋、真心込めてお進みあれ!愛が二人を幸せな夫婦に結びましょう、愛の幸せに導かれしこの時を永遠にお忘れなきように!愛が祝福をもって見守るこの喜びの部屋に、お留まり下さい、今宵、お互いの胸を歓喜で満たされますように!従者たちが静かに立ち去り、新郎新婦は二人きり、白銀の騎士が花嫁を抱き寄せます。
初めて二人きりになったね、エルザ、お前は幸せか?天上の至福を独り占め、この心は貴方ゆえに甘く燃えています。愛らしい女よ、その幸せを私にも分けておくれ、それこそ神が与えたもう歓び!
まだ会わないうちに私たちはお互いを知っていた、一目お前を見た時、その眼差しに純潔を見た時、私はお前に尽くそうと決めたのだ。私は貴方を知っていました、幸せな夢の中で・・・、貴方が現れた時、私はその足元に伏したいと願いました・・・、これを愛と呼んでよろしいのですか?まるで貴方のお名前さながら、口には出来ぬこの歓喜を!貴方の唇から零れる私の名前は何と甘美に響くのかしら、私も貴方のお名前を口にしたい・・・、二人きり、誰にも聞こえはしません。
私がお前に出会った時、お前の素性を尋ねる必要すらなかった、なぜならこの心がお前を知っていたから。
私は重い罪に問われておりました。だから、貴方がそのお心に重荷を負っておられるのなら、我が身に引き受けたいのです!何を隠しておいでです?人々に知れてしまったらどうなるのです?私は誰にも言いません、死んでも言いません!貴方に相応しい女でありたいのです、だから貴方の秘密を打ち明けて!
エルザ、口を慎むがよい!私を信頼なさって下さい!信頼しているとも、だからこそお前の誓いを私は信じた、お前に課した決まりを守っておくれ、そうすればお前は誰よりも尊い女になる!
白銀の騎士はエルザに語りかけます。お前のために私が捨てたもの、お前の愛はそれを補って余りあるに違いない。私の運命は王座すら退ける気高いもの、私は闇の国から来たのではない、光の国から来たのだ!
何ということを・・・惨めだわ、光の国から私の元へ、そして今、去ってきた故郷を懐かしんでおられる、そう、いつの日か貴方はその愛情を悔いて私から去っていってしまうのだわ!
止めないか!私を苦しめているのは貴方なのです!いつまでここに?いつ去ってしまわれるの?その日を私に数えろと?お前が疑いに汚されない限り、お前の美しさは永遠だ。私に貴方をつなぎとめる力があるのですか?貴方には不思議な魔法が取りついているよう、でも私の不安は消えません!・・・何か聞こえた?物音が・・・、白鳥!あの白鳥が貴方を呼んでいるのね!妄想は止めろ!妄想を消す方法はただ一つ、貴方が誰なのか知ることです。教えて、貴方の名前を教えて、止さないか!どこからいらしたの?どこの誰なの?
エルザ、何ということを・・・。
テルラムントの剣が閃きます。エルザが咄嗟に寝台の脇の剣を白銀の騎士に差し出します。鞘を払うや否や、白銀の騎士はその剣を大きく振り下ろし、テルラムントは呆気なく討ち取られます。
エルザ、幸せは終わった・・・。方々、テルラムントの亡骸を王の御前へ、侍女たちよ、妻の身支度を整えておくれ、王の御前で妻の問いに答えよう。白銀の騎士は寝室を後にし、新婚の部屋は廃墟と化しました。
朝焼けに照らされた草原、召集に応じて騎士たちが集まります。王が登場、樫の木の下で一同に挨拶を送ります、親愛なるブラバントの勇者たち!騎士たちが王に応えます、ドイツの剣をもてドイツの地を守れ!
さて、神から遣わされた騎士殿はどこだ?4人の貴族が布で覆われた担架を掲げて登場。それは何か?何やら不吉なものが・・・。エルザ姫、何と青白い顔!いったい何が・・・。人々がざわめきます。ブラバンドの守護者!現れた時と同じ輝く甲冑に身を包んだ白銀の騎士登場。尊い勇士、貴殿に率いられる戦士たちは既に勝利を確信しておる、上機嫌な王に白銀の騎士は静かに答えます、私は戦場へは行けません。
私がここに来たのは出陣するためではなく、訴えを聞いて頂くため。テルラムントの亡骸の覆いを取り去る騎士、この男、私に闇討ちを仕掛けた、返り討ちにした私に判決を!全員が一斉にテルラムントの亡骸を指差します、現世で裁かれたように死後も裁かれよ!
次に、神が娶わせた妻が私を裏切ったことを訴える!
私に問わないと誓ったエルザを皆見ていたはず、妻は唆しに乗って誓いを破った!敵の問いなら拒みもするが妻の問いに答えないわけにはいかない、王に、ドイツに、世界に対して答えよう、この身の上の尊さを!
遙か彼方、モンサルヴァートの城、そこに祀られるのは聖なる杯、天使が地上にもたらした杯は最も清浄なる騎士たちに守られている。年に一度、白い鳩が天から降りてきて杯に奇跡の力を与え、騎士たちに至福の信仰を伝えるのだ。聖杯に仕える騎士には超人的な力が宿る、悪の企みも死の影も騎士に道を譲る。彼がその身の上を知られない限り、その神聖な力は奪われない。しかし、素性を知られれば騎士は立ち去らなければならない。だからこそ、誰も騎士を疑ってはならないのだ。さぁ、禁じられた問いに対する答えを聞いて頂こう!私は聖杯の騎士、聖杯騎士団の王パルツィヴァールこそ我が父、私の名はローエングリン!
大地が揺れる、闇が!息が出来ない!悲痛な叫びを上げて地に倒れこむエルザ、エルザよ、なぜこんな仕打ちを?お前の純粋な魂を救いたかった、しかし、私は行かなければならない。いけません!行ってはいけません!この通り、身を伏して願います、贖罪を果たします、ですから置き去りにしないで下さい!すがりつくエルザを置いて静かに立ち上がるローエングリン、なすすべもなく見守る人々。
王よ、正体を知られた聖杯の騎士は全ての力を失ってしまうのです。しかし、私には分かっている、ドイツは勝利する!
白鳥だ、あの白鳥だ!聖杯が迎えを遣した、白鳥よ、出来ればお前を再び旅に出したくはなかった、1年が過ぎれば聖杯の力によってお前は自由になる、その時お前に会いたかった。エルザ、せめて1年でも一緒にいたかった、弟が聖杯に導かれて帰ってくるまで。角笛、剣、そして指環をゴットフリートに渡しておくれ、私を偲ぶ縁にと。さようなら、妻よ!
帰るがいい!誇り高き騎士とやら!オルトルートが叫びます。あの白鳥の正体をそこのバカ女に教えてやろう、あれはブラバントの世継、ゴットフリートさ!騎士を追っ払ってくれて礼を言うよ、あいつが残れば弟の呪いも解けたものを!何とおぞましい女・・・、人々の非難にオルトルートが答えます、お前たちが背いたゲルマンの神々の復讐さ!
ローエングリンが静かに祈ります。一羽の白い鳩が小舟の上に舞い降ります。それを認めたローエングリンはそっと白鳥の首輪を外します。白鳥は消えて、銀色の甲冑を身につけた少年が現れます。
この方こそブラバント公爵、あなた方の総統となるお方!その姿を見た途端にオルトルートの心臓は止まってしまいます。人々が王子の帰還を喜ぶ中、エルザが叫びます、私の夫!私の夫!
ローエングリンは最初からそこには存在しなかったかのように消えていきます。残されたのは命を失ったエルザ、その姉の亡骸を見つめる弟、そして人々の溜息のみ。
何と無残な結末・・・。ワーグナーの作品中おそらく最も有名な「婚礼の合唱」も、こうなると取って付けたかのようなわざとらしい甘さが気になります。全てを破壊して去っていく白銀の騎士改めローエングリン、そりゃウルトラマンだって、怪獣と同サイズの図体でくんずほぐれつ取っ組み合いを演じて、そこいら中の建造物を破壊しまくり、さっさと決め技のスペシウム光線を使ってくれれば生じなかったはずの数百億円規模の損害をインフラに与えておいて、さも偉そうに胸を張って空に帰って行きますが、ローエングリンの冷酷さはそれ以上です。
オルトルートが植えつけた疑惑が新婚のエルザの心を締め付けます。しかし、エルザはオルトルートが言ったように夫が抱えているはずの秘密が恐ろしくて問うたのではない、その秘密を分かち合いたいから問うたのです。白銀の騎士の足元に平伏して救いを請うた少女は、夫の苦悩を我が身に引き受けようとする女に成長した、それは恋する女として、夫を持った妻として、当たり前のことでしょう。
身の上を問う妻を遠ざける夫、これがどう聞いたって煽っているとしか聞こえません。私がお前のために捨ててきたものを、お前の愛は補って余りあるに違いない、その捨ててきたものが何であるかが分からないのです。私は闇や苦悩を逃れて来たのではない、輝きと喜びの中からやって来たのだ、彼が捨ててきたものがそれほど素晴らしいものならば、エルザはいくら愛したところで愛し足りないという不安から逃れることはできません。問うな、そうすればお前は誰よりも尊い女になる、今のエルザは愛したいのであって、尊い女などどうでもいいのです。
華麗な言葉で己の身の上の高貴さを仄めかしつつ、問うなと命じる冷酷なヒーロー、彼がエルザに求めるもの、それは無知であれ、しかも、無知であれという言葉に従順であれ・・・、聖杯は「清らかな愚者」を選ぶ、ローエングリンは自分が聖杯に対して従順であるように、エルザに夫に対して従順であれと命じます。しかし、エルザはその聖杯の存在を知らないし、教えて貰えないのですから、ローエングリンの言葉は全く逆効果。エルザは今初めて一人の女として一人の男を愛しており、そんな彼女に対して置いてきたものの価値を訴えれば、それは即ち他の女の存在にしか聞こえないのです。過去が輝かしいと言うことは、今の「天上の至福」が絶対的なものではないということ、相対的な幸せはいずれ必ず色褪せるもの、それを乗り越えるための力を得ようと足掻くエルザを、ローエングリン自身が拒否しているのです。
ゴットフリートはあと1年で元の姿に戻れたというヒーロー、その1年の間に彼は何をするつもりだった?当然にヒーローですから、勇敢に外敵を追い払い、乱れたブラバンド公国を建て直したことでしょう。で、帰ってきた正当なる跡継ぎに全てを譲って・・・どっちみち消えるはずだったのでしょう。そうでないと簒奪者になってしまう。しかし、その時エルザは?ローエングリンが救おうとしたのはブラバンドであり、世界の秩序であり、男が作り男が運営するシステムであり、エルザはその口実に過ぎなかったのかも知れません。それをオルトルートは知っていた、エルザも知るに至った、オルトルートはヒーローを否定して呪った、エルザはヒーローを疑って問うた。そして、ローエングリンの視界で、この二人の女が同一の像を結んでしまうラスト、結局、彼は女に触れることもなく、純潔のままブラバンドを去っていくのです、聖杯の呼び声の命じるままに。
名乗ることができないのなら普通は偽名を使います。遠い国の公爵の御落胤、高名な騎士の叶わぬ恋の忘れ形見、何とでも言えるはずです。しかし、ヒーローであるローエングリンはその正義ゆえにそれができません。問いに対する答えは普通は問うた人に向かって発せられます。エルザが問うた、というかエルザにしか問えなかったのですから、エルザ一人にひっそりと答えれば良いではないですか。しかし、ヒーローであるローエングリンはその使命ゆえにそれができません。
このローエングリンのやけに律儀なヒーローぶりが、物語をかくも無惨なものにしているのです。
エルザは夢に見たヒーローを現実の男として愛した、どこからともなく現れて自分を窮地から救ってくれたヒーローが、何やら重たいものを心の内に秘めているらしい一人の男に変貌した瞬間に生まれたエルザの愛、それはそのヒーローによって踏みにじられます。エルザが誓いを破ったからではない、そもそも、それ以外の結末は最初からあり得なかったのです。
しかし、妙なことにテルラムントの死体が仄かな温もりを与えてくれます。この女房の尻に敷かれっぱなしだった武人は、最後は真っ当に戦って死んだのです。この幕切れで唯一の救いです。
ヒーローが去った後に
ドイツ民族の国難を救うため、麗しい乙女の命を救うため、眩いばかりの出で立ちで颯爽と登場した聖杯の騎士ローエングリン・・・、彼は、エルザだけではなく、ブラバンド公国の民、果てはドイツ王にまで自分への絶対的信頼を求め、それが得られることを疑いません。初夜に破綻した結婚、美しい乙女の柔肌に触れることもなく、聖杯に帰って来いと命じられれば後も振り返らずさっさと帰途に着く、下位に対して徹底的に権威主義、上位に対してあくまでも従順、どこまでも真面目。
無駄口を叩かず、必要最小限の労力(神明裁判と寝室と、テルラムントと二回闘っただけ)で最大限の効果(自分に対する疑惑の一掃、ゴットフリート失踪事件の解決、ブラバンドの王位継承問題の決着、戦う前なのにドイツの勝利宣言、異教徒にして反逆者であるオルトルートの処断、そしてコトに及ぶ前に妻が問いを発してくれたので晴れて純潔のまま聖杯城への帰還)を引き出す要領の良さ、宇宙人から改造人間まで何でもありのあまたのヒーローの中でも、ホモサピエンス男子のローエングリンの完成度の高さは群を抜いています。そして、当然のことですが、その完成度が高ければ高いほど、聴く者の感情移入は難しくなります。
この作品はどこからどう眺めようが悲劇です、悲劇でしかない。作品の幕切れは「Weh!」、人々の深く重たい溜息なのです。危機に際して謎のヒーローが登場し全てを解決して去っていく、お約束通りの物語、しかし、どうにもこうにも救いようのない悲劇なのです。なぜなら、聴く人間は誰もがエルザでしかあり得ない、ローエングリンは頑として解釈を拒むのですから。
この作品をローエングリンの立場で聴くことができるのは、子供だけでしょう。聖杯と自分との間の永遠に越えられない壁が見えない、決して傷つかず決して汚れないローエングリンと、一日毎にうっすらと埃を纏っていく自分の差異が見えない、子供でなければ、こんなヒーローに自己投影をすることはできません。
子供と大人、どこで線を引く?この微妙な問題の一つの答え、それが、トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」。
15歳の少年ハンノ、ちゃんと歯医者さんに行ったご褒美に「ローエングリン」を見せてもらった彼は、「美がどんなに悲しいもの」かを知り、眠れぬ一夜を過ごします。光り輝く聖杯の騎士は行ってしまう、美しいものに触れるために人生はあるのかと思わせる感動と、彼が来なければ知らないで済んだはずの悲しみを残して。ハンノは、美は、ヒーローは去っていってしまうという現実を目の当たりにして、それを受け入れるのです。子供はローエングリンに悲しみを見ませんし、大人はローエングリンに悲しみしか見ません。ハンノ少年はちょうどその中間点でこの作品に触れるのです。
19世紀、バイエルンの狂王ルートヴィヒ2世、詩人アポリネールは、そのアルコールに侵された脳でもって彼をこう呼びました、「月王」。真昼の太陽の光に耐えられない王、ノイシュヴァンシュタイン城の人工の光の中に己を封じ込めた王、そういえば、ローエングリンも夜明けに登場し、夜明けに去っていきました。
王子に生まれた者は王になる以外の未来を持ち得ない、聖杯王の息子ローエングリンは聖杯の騎士以外の未来を持たず、バイエルン王マクシミリアン2世の息子ルートヴィヒはバイエルン王以外の未来を持ちませんでした。しかし、ローエングリンには聖杯という絶対的な指標がありました。19世紀のローエングリンたらんとしたルートヴィヒは、神なき世界に生きるほかありませんでした。
すさまじい勢いで歴史の歯車が回り出した19世紀、戦争の世紀、革命の世紀にあって、ルートヴィヒはただ一人10世紀に生きようとしました。彼が生涯を賭けた夢、ノイシュヴァンシュタイン城、ベッド一つに14人の彫刻家が4年の歳月をかけ、「歌手の間」の天井では600本のシャンデリアが12星座を照らし出す、この馬鹿げた浪費はすべてワーグナーの世界を再現するためでした。バイエルンは財政破綻に瀕し、プロイセンが台頭してきます。国家存亡の危機にあって、だからこそ、なおさら現実を見ることを拒みワーグナーの世界に耽溺する王。拘束、幽閉、そして青い月が冷たく微笑みかけるシュタルンベルク湖、その湖面に浮かんだ王とその侍医の死体・・・。
「私は、自分にとっても他人にとっても永遠の謎でありたい」(ルートヴィヒ)、近代の終焉にあって王たる者が謎であることが許されるはずもなく、結局、その死だけが謎として残り、しかし、その謎を解いた先に広がるのは虚空だけであると既に人々は知っています。
20世紀、自らフューラー(総統)と名乗った小柄な男、「この方こそブラバンド公爵、あなた方を率いる総統!」、白鳥の騎士がブラバンドをゴットフリートに託したように、時代が自分にドイツを託したと信じ込んだ独裁者、彼もその生涯を通じてローエングリンに憧れ続けました。当時のドイツでは、ヒトラーと同じ4月20日生まれの男の子にローエングリンと名付けることが流行ったほどに。聖杯から遣わされた騎士がドイツを救う・・・、しかし、この20世紀の総統がもたらしたのは死と破壊でした。
ルートヴィヒとヒトラー、ローエングリンに憧れてローエングリンになりたかった二人の権力者。どちらも鏡に映る自分の姿に見とれ、自分の理想を追い求め、しかし、他者の美、他者の理想には全く無関心、女性にも淡白でした。どちらも物語の世界に耽溺する自己愛はあっても、現実の世界で他者を受け入れる勇気も愛情も持ち合わせていませんでした。15歳のハンノにできたことがとうとう出来なかった大人たち。
決して変化しないローエングリンに対して、変容し解け合うエルザとオルトルート。簡素な寝間着姿で神明裁判に引っ張り出され震えていた少女、夢の騎士の足下にひれ伏して永遠の恭順を誓った少女は、新婚の豪奢な寝間着姿で、その男としっかりと向き合って、禁じられた問いを口にしました。その問いは彼女から全てを奪ってしまうものであったのですが、知恵を持ったことで楽園を追われた人間としてのエルザは、その自由意志をもって問うのです。自由意志を人間に与えたのが蛇の姿を借りた悪魔であったとしても、人間は己の命を賭けて自由意志を守ってきたのです。それは、天の高みから地の底まで、行きたければどこへでも行ける人間の可能性の代償なのです。聖杯城と俗世をかりそめの姿の白鳥に乗って往復するだけのローエングリンに対して、エルザは、自分の意志でどこへでも行けるのです、そう、地獄の果てまでも。
自由意志をもって問うたエルザ同様、オルトルートはブラバンドの王位後継者を白鳥に変えたと高らかに告白します。第三幕、延々と歌うローエングリンに対抗するのは彼女の声のみです。その告白の報いは死なのですが、オルトルートは命に換えてローエングリンをその世界から追い出します。そして、物語の最後で、ローエングリンは、彼のサンクチュアリであり彼の牢獄である聖杯城へ帰り、私たちが受け継ぐのはエルザとオルトルートの世界なのです。「問うな」という意志の放棄の強制を一度は受け入れても、結局オルトルートがエルザの意志を復活させたように、人は意志のみに従う、自由によって呪われている、それがこの世界、15歳のハンノがその後生きていく世界なのです。
かつて、近所の公園で、風呂敷のマントを翻し、木の枝の剣を振るい、必殺技を繰り出していた小さなヒーローたち、彼らはやがてマントを制服に、スーツに替え、剣を携帯電話に、アタッシュケースに替え、恋人となり、夫となり、父親となります。ある者はハインリヒになり、ある者はテルラムントになるかも知れません。しかし、誰もローエングリンにはなりません。誰も手を触れることができない、決して汚れることのない、光り輝く永遠のヒーロー、自分は決してローエングリンにはなれないのだと知った時、少年は男になるのでしょう。
人は成長し、自立し、そして様々な障害と出会います。苦しみ、嘆き、悩み、己の非力に歯噛みする時、一瞬思い出すことでしょう。両手を突き上げれば空を飛べたのに、この手から光線が飛び出していたのに、高層ビルから飛び降りてちゃんと着地できたのに。そして人は前へと進むのでしょう、遠い日々、かつて一瞬だけヒーローだった自分を後に残して。
本当の物語はヒーローが去った後に始まります。たった一回こっきりのそれぞれの人生を一生を賭けて生きていく、後にも先にもそれっきりの人生、そのかけがえのない重み、そのとるに足らない軽さ。
お勧め盤です。世界を超越したところからやってくる非現実のヒーロー、そんなヒーローを俗世で愛し、乙女から女になる姫君、己の野望のためには男などただの踏み台、幼気な少年を水鳥にもするし、夫を刺客にもする女、正しいと信じた価値観に忠実である余りに己を見失う不器用な武人、多彩な登場人物それぞれの彫りの深さ、どうバランスをとるかが肝心です。
少々古い録音ですが、1962年のバイロイト、サヴァリッシュ盤、ジェス・トーマスのローエングリン、ストレートな表現でありながらコテコテの一歩手前で引く品の良さ。1981年のベルリン・フィル、カラヤン盤、ルネ・コロのローエングリン、強くて優しくて男前、理想的なヒーロー像。1986年のMET、レヴァイン盤、ペーター・ホフマンのローエングリン、文句なしのルックスとしなやかに伸びる声(いささか重石が足りませんが)、非現実的であろうが何だろうが、もういい、何でもあり!という説得力。1991年のウィーン・フィル、アバド盤、細やかだけど神経質じゃない、心地よいんだけど緩まない、カラフルなんだけど気品がある、イェルザレムのローエングリンが何か最初から哀しそうで、それが物足りなくもあり、美しくもあり、悩ましい出来。1985年のウィーン・フィル、ショルティ盤、ドミンゴのローエングリンは表情豊かで温もりがあって、第三幕の寝室の場面の艶っぽい口説きといい、異色のヒーローぶりが何だか愛おしい。そして、ジェシー・ノーマンのエルザが出色の出来です。物語の枠に収まり切らないスケールの大きさ、聞いていると何だか、結局全てはエルザの夢だったんじゃなかろうか、って感じがするのです。
この作品の隠れたお楽しみ、それはドイツ王の伝令役です。シャキシャキと歯応えの良い口舌で「皆の者よ、聞くがよい!」と舞台の中央で踏ん張る姿はなかなかどうして。ヒーローとまではいかないけれど有能な武人の力強さが心地良い、儲け役だと思います。
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