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ドニゼッティ 「ランメルモールのルチア」 (2001年2月23日〜2001年3月10日の日記より)
恋における『認知的不協和』
オペラにせよ文学にせよ、幸せな恋の数十、数百倍もの悲恋が登場します。なぜ人は悲恋物語に惹かれてしまうのか?他人の不幸は密の味?
悲恋物語には必ず「死」と「禁止」が付き添います。
まず「死」、これはどちらかが突然死を迎えてしまう、燃え上がった恋は一番美しい時に無惨にも散ってしまいます。お互いにウンザリし始めた時にどちらかが死ねば、「やれやれ」になってしまい、これではブラック・ジョークにしかなりませんが、容赦のない死神によって引き裂かれる今が盛りの熱い恋はどんな冷血な人の心をも溶かす力を持っています。この場合、死んでいった方よりも残された方がはるかにつらい、それもフラれたわけではないのでそのつらさの持って行きどころがない。そして「殺された」場合には「復讐」や「怨念」といった悲しみにとって替わる強い感情に身を任せることもできますが、誰が悪いわけでもない、ただ運命・・・という場合には、悲しみが思い出に変わるまで、長い長い孤独な時間が待っており、それが一層悲劇をかき立てます。
そして「禁止」。これが実はとても大切なのです。そもそも何でその人を好きになったのか?多くの悲恋物語では「その恋が禁じられていたから」です。
これを心理学では「認知的不協和」と言うのだそうです。厳しく禁じられれば禁じられるほど、その禁止の対象は魅力を増す、覚えがありませんか?「絶対に食べちゃだめよ」と言われたお客様用のお菓子は例え普通のケーキであってもすごく美味しそうに見える、「絶対に触らないで」と言われた父親のカメラはどうしても触ってみたくなる。
例えば「青ひげ公の物語」、絶対に開けるなと言われたドアはどうしたって開けてみたくなる、彼はそれを承知で妻にそう言った、怖い男ですねぇ(一種の心理的サディストだと思います)。
例えば「エデンの園のリンゴ」、神様が絶対に食べてはいけないと命じたリンゴをイブとアダムは「だからこそ」食べてしまった。「これ、食べない方がいいと思うんだけど、まずいから」と言ってくれれば彼らは食べなかったと思うのです(神様もサディストか?)。
なぜ禁止されたものほど魅力的に見えるのか?これは禁止を破った時に自分が直面するであろう事態(お尻を叩かれる、メチャクチャ怒鳴られる)を正当化するには、その対象が魅力的でなければ釣り合いがとれないからです。人間の心は常にバランスをとろうとします。「値段が高い=良いモノに違いない」、「地位が高い=立派なヒトに違いない」という思い込みへの誘導は詐欺の常套手段です。そして「禁じられた恋=甘く美しい」というわけ。
この認知的不協和は、経験を積むに連れて改善されます。人間は学習するからです。禁止を破ることで自分が払わなければならない代償を計算するようになり、あるいは対象を客観的に見るようになります。要するに「醒める」わけです。ですから悲恋の物語の主人公たちは若くなければなりません。醒めていたのでは熱い恋はできません。「ロミオとジュリエット」の二人はティーンエイジャーでした。敢えて「禁じられた恋」に挑むには、怖いモノ知らずで結果を考えない無謀さ、タブーを恐れない勇気、そして周囲を見ない一途さが必要です。これをある程度の年齢に至ってやるとなると、「いー年こいて」になってしまう(時間というのは残酷です・・・)。
この「死」と「禁止」が両方揃えば、それはもう最強の悲恋物語が出来上がります。それがスコットランドのロミオとジュリエット、このドニゼッティの「ランメルモールのルチア」。
この作品の場合には、さらに強力な「助っ人」がおります。「禁止」の原因が「憎悪」であるということです。憎悪という感情自体、その割り切れなさ、理不尽さが一層禁じられた恋を引き立てます。
「憎悪」のせいで「禁止」された恋が「死」によって永遠に美しい姿を留める・・・。運命の出会いがあって、燃え上がった恋だって、そのままではいつか必ず色褪せます。いつまでもアツアツでいられるようには人間は出来ていません。でも、悲恋はその美しい姿を永遠に保つことができます。人が悲恋物語に惹かれるのは、そこでは容赦のない時の流れも力を失い、青春が永久保存されているからでしょう。
「運命のなぶり者」
第一幕、17世紀中頃のスコットランド、レーヴェンスウッド城、最近不審者が現れるとかでパトロールの兵が走り回る中、城主エンリーコが妹ルチアの家庭教師ライモンドに語ります。以前の領主一族の若者エドガルドがこの城の奪回を狙っている、対抗策としてルチアをアルトゥーロと政略結婚させる必要があるのに妹はうんと言わない・・・。ライモンドは母上を亡くされたためと取りなしますが、警備隊長のノルマンノは姫様は突進する雄牛から自分を助けてくれた若者に恋をしておられると告げ口。その相手はこともあろうに宿敵エドガルド!よりによって妹が、こんな恥辱があるか!と怒るエンリーコ、もっともらしく調子を合わせるノルマンノ、そして不吉な予感に震えるライモンド。
庭園の井戸の傍らにルチアと侍女のアリーサが現れます。エドガルドが忍んでくるのを待っているのです。無分別を諫めるアリーサですが、ルチアはエドガルドに危険を知らせなければなりません。井戸にまつわる恐ろしい伝説を語るルチア、嫉妬に狂った男が恋人を殺して井戸に投げ込んだ・・・私は彼女の亡霊を見たの・・・。他人事じゃない、こんな恋は諦めなさいと説得するアリーサですが、ルチアの恋は恐怖よりも強い。
エドガルド登場、一族を救うためにフランスに助けを求めに行くと告げ、長旅の前にエンリーコと和解したいと言います。兄の怒りを知っているルチアがとんでもない!と制止し、二人は宿敵同士に生まれた不運を嘆きつつも、お互いの指輪を交換し愛を確認します。恋する二人には家の事情も身内の恨みも関係ない、これは運命の恋なんだ、永遠に離れない・・・。
第二幕、何が何でも妹にアルトゥーロと結婚してもらうと意気込むエンリーコは、勝手にさっさと婚礼の準備。そのための秘策も練ってあります。エドガルドからの偽の手紙をこしらえたのです。絶対に結婚しない、だってもう結婚しているのですと頑ななルチアに手紙を見せます。フランスで好きな女性が出来ました、さよなら。顔面蒼白のルチアにはもう何が何だか分かりません、こんなことって・・・。
混乱するルチアに俺を破滅させる気か?と迫るエンリーコ。ライモンドもルチアを諭します。お兄様の命令を聞き入れて下さい、お家の一大事なのです。
花婿アルトゥーロ登場、城を挙げての歓迎の中、当の花嫁が青ざめた顔でフラフラと登場。結婚契約書への署名を迫る兄、ルチアには逆らうことすら出来ません。追い詰められて既に正気を失いかけているのです。
そこにエドガルドが乗り込んできます。婚礼の場は一転して修羅場の様相を呈します。花嫁姿のルチアに衝撃を受けるエドガルド、よくもノコノコとめでたい場にとエンリーコ、何で彼がここに来るの?何がどうなっているの?とルチア、恐ろしいことになったとライモンドとアルトゥーロ。
何しに来た!と剣を抜くエンリーコ、受けて立つエドガルド、ライモンドが必死に止めます、お止めなさい、もう手遅れなのです、結婚契約書を見せられてエドガルドは打ちのめされます。誓いの指輪を抜き取り僕の指輪を返せと迫ります。呪いの言葉を投げつけるエドガルド、出て行け!さもないとタダでは済まないとエンリーコとアルトゥーロ、お願いだから帰って下さいとライモンド、殺気立った男どもの真ん中で「彼を助けて!」と神に祈るルチア。
第三幕、「嵐の場」から始まります(ここ、カットされることが多いのですが)。めでたい結婚式をぶち壊されたエンリーコがエドガルドのもとに怒鳴り込みます。明朝、エドガルドの先祖の眠る墓地で決闘だ!
式の方はメチャクチャになっちゃったけど、どんな形にせよ結婚したわけだから、というわけで披露宴です。人々が喜びの歌を歌っているとライモンドが駆け込んできます。大変なことになった・・・姫様が初夜のベッドで花婿を刺し殺した・・・。血塗れのルチアが登場します。神様は彼女を哀れと思ってか、その心を命よりも一足先に天国に召されたようです。ルチアは発狂しています。エドガルド!戻ってきたの、逃げてきたの、これは私たちの結婚式でしょ?司祭様もいらっしゃる、幸せよ・・・。妹のあまりの姿に立ち尽くすエンリーコにルチアは微笑みかけます。私が死んだら泣いて下さる?私は天国であなたのために祈りますから・・・。
墓地でエンリーコを待つエドガルド、不幸なご先祖よ、最後の一人である私を受け入れて下さい、もうこの命が重たいのです。遠くに見える城の灯り、あの下では今頃花嫁ルチアが他の男と並んで祝福を受けている・・・。この苦しみも私が死ねば終わる、私が死んでも、ルチア、お前は泣いてはくれないだろう、ならばせめて忘れてくれ・・・。
城から行列が出てきます。人々の嘆きの声にエドガルドは驚きます、何があった?姫様が死にそうです。呆然とする彼にライモンドが告げます、「姫様は亡くなりました」。この醜い地上で引き裂かれるというのなら、天国で一緒になろう、待っていてくれ、今そこに行くから。エドガルドは剣を自らに突き立てます。ライモンドや城の人々が跪く中、エドガルドは息を引き取ります。
親友マキューシオを刺し殺したジュリエットの従兄弟ティボルトを、カッとなって殺してしまったロミオは、天を仰いで叫びます、「あぁ、俺は運命のなぶり者だ!」。
ルチアとエドガルドもまさに「運命のなぶり者」です。領地を取った、取られたを繰り返す一族、ルチアとエドガルドは宿命を超えてみせると懸命に愛するのですが、執念深い運命の女神は二人を見逃してはくれませんでした。運命の女神の冷たく長い腕に絡め取られた時、ルチアとエドガルドは武器を握りしめ彼女に立ち向かいます、その武器は狂気であり、死でした。
幼さが、弱さが二人の武器だった
ルチアとエドガルドの出会い、それは雄牛がルチアに突進したところに出くわしたエドガルドが颯爽と彼女を助けたから、正に「交通事故」みたいな衝撃の出会いです。
ルチアがエドガルドを愛したのは分かります。幼い彼女、厳重な箱入りのお嬢様の彼女が命の恩人である凛々しい若者に恋をするのは当然の成り行きです。
しかし、ルチアはたった一通の手紙でエドガルドの裏切りを信じてしまいます。兄を疑いもせず、せめて本人に確認すると主張もせず、アッタマ来たから面と向かって「このサイテー男!」と罵ってやる(これが普通だと思う)とも言わず、こうなったら兄と一緒にエドガルドを滅ぼそうともしません(ヴェルディだったら絶対にこの路線だったと思う)。ただただ涙に暮れてエンリーコの言うがままになってしまう。
そして、エドガルド。彼はルチアの身分(一族の仇であるアシュトン家の姫様)を知った時、なぜ去らなかったのか?エドガルドはアシュトン家、エンリーコを自分で敵として選んだのです(滅ぼされた一族の男としてさっさと修道院にでも入るという選択肢だってあったはずです)。彼は「不幸な血統の最後の一人」なのですから、彼に対して「お家再興」だの「お城奪還」だのを強制し、あるいは吹き込んで鼓舞する人間はもういません(オペラにも登場しません)。彼の恋と彼の闘争は最初から完全に矛盾しています。
彼は「味方であるフランス」に向けて出帆します。当時のスコットランドは、イングランドのチャールズ2世が王政復古を強行した後の大混乱期。1668年にはイギリスとオランダは対フランスのためにハーグ同盟を結んでおり(直後の1670年には今度はフランスとドーヴァーの密約を結んでいます)、それに加えて宗教界も長老派教会、その他のプロテスタント、そしてカトリックが入り乱れ、誰が敵で誰が味方かも定かでないという状態でした。
フランスに助けを求めるとは即ち外国勢力を引き入れてアシュトン家を倒すということです。ところが「その前にアシュトンに会って手を差し伸べたい(和解したい)」と来る。そして兄の怒りを恐れるルチアがそれを止めると今度は、「墓の上で私は永遠の戦いを誓った。まだそれを果たすことができる」と来る。この男、一体全体何をやりたいのか?何が望みなのか?
「運命」に対抗し得る最強の武器は「意思」です。仇敵同士に生まれたのは運命ですが、それでもお互いを選び結婚しようとするのは意思です。彼ら二人は井戸の傍らで間違いなく自分達の意思で指輪を交わし、結婚を誓いました。ところがその後の出来事ではその意思をあっさりと放り出します。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の二人には「初志貫徹」する強さがありました。ロミオがティボルトを殺してしまうのも、その後の手紙が届かなかったのも運命ですが、彼らはここで屈しませんでした。ジュリエットは仮死状態になるという恐ろしい薬を自分で飲み干します。ロミオは死刑を覚悟してヴェローナに戻ります。二人が死んでしまったのはジュリエットの目覚めがほんの数分遅れてしまったからです。しかし、これは敗北ではありません。運命に弄ばれた二人が、最後の死だけは運命の好きにはさせない、死を自分たちの手でもぎ取るのだという意思なのです。この二人に比べて、ルチアとエドガルドの何て幼くて、か弱いことか。
信じ抜くことも闘うこともできなかったルチア、真っ向から矛盾している自分の中の二つの情熱(ルチアへの愛と一族の復興)を自覚することもできなかったエドガルド、この幼い二人は、では、運命に弄ばれるだけだったのか?単なる「なぶり者」だったのか?
ルチアは兄に騙されたと知っても兄を恨みません。エドガルドが誤解していると分かっても彼を追いません。かといってお家の犠牲になると腹をくくってアルトゥーロとベッドを共にすることもできません。彼女にできたのは狂気の中に逃げ込むことだけ。全てを放り出して自分一人さっさと別の世界に入り込んでしまう。ルチアの狂気はそのか弱さの故ですが、彼女はその狂気で全てを救います。あくまでも政略結婚を拒み通して結婚式から逃げ出せば、エンリーコは死ぬまで憎悪から救われません。お家のために結婚すれば、今度はエドガルドが一生憎悪の虜になってしまいます。「狂乱の場」でのルチアは殺人犯でありながらその場にいる全員が哀れに思う犠牲者として登場します。誰も彼女を責めません。彼女は憎悪を封じ込めてしまったのです。
そしてエドガルド、ルチアに裏切られたと激怒した彼ですが、勇ましく結婚式に乗り込んでは来ても、やったことは指輪を取り返しただけ。決闘を申し込むというマッチョで勇ましい役柄もあっさりとエンリーコに譲ってしまいます。そしてこれから決闘だというのに、ご先祖様の墓に向かって「生きているのがつらい」と泣き言、お家再興はどこへいったやら・・・。これでは決闘になったとしても到底勝ち目はないでしょう。ルチアが死んだと聞かされた彼、当然に悲しみと怒りはエンリーコに向かわなければならないはずなのに、彼は自殺を選びます。エンリーコに突き立てなければならない剣を自分に突き立てます。エンリーコに奪われた城を取り返すために手にしていたはずの剣で自分の命を絶ったエドガルド。彼は復讐を封じ込めてしまったのです。
一緒に生きることも一緒に死ぬこともできなかった二人は、結局、それぞれの幼さと弱さの結果として死を選びました。そしてその死がもつれにもつれた因縁を押さえ込みました。ルチアの狂気はエンリーコから復讐を奪い取りました。自分の妹を狂わせ死に追いやったのは自分自身なのですから、彼にはもう自分以外に復讐の対象がありません。エドガルドは決闘の始まる前に自分で死んでしまいました。彼はやったやられたの復讐劇の幕を自分の命で下ろしてしまいました。一族の最後の一人が自殺では、続きはもうありません。
この幼い二人には最初から乱世を生きていく力などなかったのです。ルチアは庭園の井戸で亡霊を見ました。「生気のない手で私を招いて・・・突然消えてしまった・・・」、ルチアもエドガルドも、この時代を生き抜くには弱すぎました。彼ら自身が最初から「時代の亡霊」だったのです。生存のための本能がギシギシと音を立ててせめぎ合う世界で、数え切れない人間の血を吸い込んできたスコットランドの古城の闇を彷徨う、この世では生きられない「亡霊」だったのです。だからこそ二人は亡霊の立ち会いの元、井戸の傍らで指輪を交わして結婚したのです。
最初から消えていく運命だった二人の儚さが全てを救いました。この二人はその幼さと弱さによって、運命からその破壊力を奪ってしまったのです。
狂乱の場
「ルチア」といえば「狂乱の場」。第三幕、アルトゥーロの血で染まったネグリジェをまとって発狂したルチアが延々と声を転がす場面です。
ベッリーニやドニゼッティの活躍した時代、この狂乱の場は大変な人気でした。19世紀前半のヨーロッパは「怪しげなモノ」が好まれる時代でした。教会の束縛は緩みつつありましたが、まだまだ「科学の時代」には遠い頃、怖いモノ見たさという好奇心はあっても、それを分析し解明する力は未だ登場していないわけで、精神錯乱は「悪魔憑き」と「心の病気」の間で宙ぶらりん状態でした。これをオペラに取り入れれば、本人が異常なのですから物語の整合性やリアリズムはそっちのけで声の妙技をひけらかす絶好の場面となります。
この狂乱の場はソプラノの専門分野になっていますが、これは「女は弱いのですぐに正気を失ってしまう」という当時の社会通念の結果です。当時の観客(特に男性)は「か弱い乙女」が「狂乱」するという美しくも儚い幻想を求めていたのでしょう。実際のところは男に裏切られたくらいで発狂する女なんておりませんが(フラれてガックリとへたりこむのは男の方が多いんじゃないかな?)、美しく若い女性にはか弱くあって欲しいという男性の単純な願望が当時はまだ健在だったのだと思います。
狂乱の場にも色々あります。同じくドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」ではアンナが途中で正気に戻り王妃然と振る舞う場面があります。アンナは死刑執行を目前にしているわけで、狂いっぱなしの方がずっと幸せだろうと思うのですが、途中に挟まれる毅然とした態度は悲劇を一段と引き立てます。ベッリーニの「清教徒」ではエルヴィーラは狂乱した後に彼氏が帰ってくるとケロリと治ってしまい、ハッピーエンドを迎えます(えらい都合のいい発狂もあったもんだ)。
ルチアは狂ったままで呆気なく死んでしまいます。「か弱き」ヒロインたちの中でも一番弱い感じがします。これをさらに強調するのが声に絡むフルートです。ドニゼッティの狂乱の場にはよくフルートが登場します。ソプラノとフルートが技量の限りを尽くして渡り合う長丁場には、嫋々とした乙女チックな旋律がよく似合います。
ここで一番複雑な表現を求められるのは、狂ってしまったルチアではなくてエンリーコだと思います。彼はこの前の「嵐の場」でエドガルドに決闘を申し込んでいます。この場面、全員が狂ったルチアの姿に涙するわけですが、エンリーコだけはこの後のエドガルドの死を予見しています。愛し合う恋人を両方とも死に追いやることになる自分を知っています(ですから「嵐の場」のカットは大間違いだと私は思います)。「苦い涙」の日々を予感するエンリーコ、彼は自分が悲劇の原因ですから誰も責めることができません。
ルチアにばっかり良いとこを持って行かれてはたまらないのがエドガルドです。狂乱の場に匹敵するテノールの見せ場が「墓場の場」。エドガルドは男なので狂乱はしないのですが、静かな旋律が既にこの世を諦めてしまった彼の孤独を伝え、狂乱できない彼の方が可哀想に思われてしまう場面です。前半の「やがてこの世に別れを告げよう」の後にライモンドと合唱で「葬送」が歌われます。ルチアの死を知ったエドガルドは剣を胸に突き立ててカバレッタ「神のもとへ翼を広げた君」でルチアの後を追います。剣が突き刺さっている断末魔の状態で延々と歌うエドガルド、さぞや苦しかろうと思うのですが、リアリティなんてこの際あっちの方に置いといて、なかなか死ねないエドガルドの嘆きは、ルチアほどの技巧はないのですがストレートに迫るものがあります。テノールの力量によってはルチアを食ってしまう場面です。
私が一番好きなのは第二幕の六重唱「邪魔をするのは誰だ」です。エドガルドがルチアの裏切りを詰って指輪を奪い返し、ルチアが絶望に打ちのめされます。それを見たエンリーコの心にはチクリと後悔の念が走ります。ライモンドが何とかエドガルドを取りなそうとして結婚証書を見せ、かえって火に油を注いでしまいます。アルトゥーロは「えらい一族と結婚してしもうた」(この後初夜のベッドで殺されてしまう・・・、この作品中で一番悲劇的な人物は実は彼ですね)。六重唱なのですが、ルチアのソプラノだけが頭一つ抜けているように響きます。彼女は既にこの世から片足が出てしまっている、これからの惨劇を予言する重唱です。
「ルチア」はマリア・カラスの当たり役でした。彼女の録音は1953年のセラフィン盤と1955年のカラヤン盤がありますが、カラヤン盤の方が断然良いです。カラスのルチアは技術と表現力の高さは文句なしなのですが、暗い声が本来のルチア役に求められる「か弱い」乙女にはほど遠い。しかし、格調高い悲劇のヒロインとしては一級だと思います。但し、何カ所かカットされておりますので、気を付けて下さい。
そしてカラスと双璧をなすのはジョーン・サザランド。1982年のボニング盤ではアルフレード・クラウスの気品溢れるエドガルドも魅力。サザランドというと「仏作って魂入れず」みたいなことを言われることが(日本では)多いようですが、カラスのドラマに対するサザランドの技巧は少しも遜色ありません。その型を極めた歌唱の完成度の高さにはため息が出ます。
最近ではエディタ・グルベローヴァ(1991年ボニング盤)ですが、少々押しつけがましいような感じがしないでもない(ファンの方、ごめんなさい)。
1976年のロペス=コボス盤のモンセラト・カバリエも、例によって本当に美しい。ホセ・カレーラスのエドガルドが切なく「お坊ちゃん」していて泣かせます。
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