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Leafヴェルディ 「ルイザ・ミラー」 (2009年5月2日〜2009年6月29日の日記より)


『たくらみと恋』

「さて、お代官様、こちらはホンのご挨拶代わりでございます」
「菓子・・・か?」
「はい、お代官様のお好きな山吹色の菓子でございます」
「おぬしはワシの好みを心得ておるのう」
「つきましては、例の新田開発の入れ札の件、どうかよろしく・・・」
「近頃は何かと口うるさい者どもが増えてのう」
「うるさい口ならいっそのこと閉じておしまいになれば?」
「越後屋、おぬしも悪よのう」
「いえいえ、滅相もない、お代官様ほどでは」

 時代劇でお馴染みのシーンです。江戸時代、幕府の直轄地の行政の任に当たった代官、田舎とはいえ葵の御紋を背負ったその地方のトップですから、その権限は意外に大きかったようです。そんな代官ですが、時代劇に登場するとなると、なぜか全員して「悪代官」。天領は広いです、代官は大勢います、その代官の中には当然に「悪代官」がいたでしょうが、同じように「良代官」とか「そこそこ代官」とかも大勢いたはずなのに、こと代官となるとなぜか「悪」がつかないと収まりが悪い。

 ロビン・フッドに登場するノッティンガムの悪代官は、ボスである獅子心王リチャードが十字軍から帰還するや、その前に土下座して非を悔いました。騎士の華と謳われた獅子心王ですが、その治世10年間のうちイングランドにいたのはたった半年だけ、残りはずーっと十字軍に夢中、要するに自分の国のマツリゴトよりも外国での喧嘩の方がお好きだったわけですが、王のこの迷惑な道楽のための戦費やら身代金やらは、代官らが厳しく取り立てる重税によって賄われておりました。つまりは実際の獅子心王はノッティンガムの代官など足下にも及ばないほどの「悪王」であったわけですが。
 水戸黄門に登場する悪代官たちは、これまた、どう見たってただの暇な後期高齢者にしか見えない老人が印籠を出すや否や、こちらもたちまち土下座です。「自称」先の副将軍、印籠なんてあんなもん拾ったかも知れないし、ちょっと器用だったら自作かも知れないし、それなのに、印籠を手にとって確かめることもせず、いきなりの土下座。現場は自分の管轄下にあるわけで、わーって襲いかかって殺して埋めてしまえば誰にも分かりっこないにも関わらず、です。 

 東西を問わず、代官たちの悪はどこか滑稽でどこか卑しい。

 絶対権力者である王は、絶対的な悪になることができます。王は神にのみ言い訳する義務を負い、その義務さえ放棄してしまえば、地獄行きを笑って受け入れさえすれば、果てしなく深いところまで墜ちていくことができます。しかし、彼らから借りているだけの権力を行使する代官や宰相は、絶対的な悪にはなれません。なぜなら、彼らの悪にどうしても必要な条件が「王には良い人でなければならない」というものだからです。上に向かって従順で健気な顔、下に向かって冷酷で強欲な顔、二つの顔を使い分けるのに必死な悪、人はそこに滑稽さを感じるように思います。
 王になるにはその血筋が必要です。他の血筋の者が王になるには大がかりな仕掛けが必要です。内戦は勿論のこと、国際紛争も覚悟しなければなりません。しかし、その王に任命される代官や宰相だったら、人並み以上の幸運と聞き分けのよろしい良心を持っているならばなれてしまう、なろうと思えば自分だってなれる悪、人はそこに卑近さを感じるように思います。

 当然にその悪には計算が付いて回ります。王にとって「良い人」でなくなったなら、悪代官ではいられないのですから。悪代官は悪王が持つこの世の向こう側に突き抜けた壮絶な美しさは持ち得ない、お代官様の悪は、月並みで、いじらしくて、せこくて、履き古したスニーカーのよう、少々臭いますが、だらしなくも懐かしく誰の足にもフィットする感覚があります。

 シュトゥットガルトでの軍医の職を放り出し放浪生活を送っていたシラー、25歳の記念碑、「疾風怒濤」にドイツの芸術の未来を見た詩人の若さが匂うような作品、それがこの「ルイザ・ミラー」の原作である「たくらみと恋」です。

 ドイツのさる大公の宮廷で宰相を務めるヴァルターとその息子である陸軍少佐のフェルディナンド、町のヴァイオリン弾きミラーとその娘であるルイーゼ、身分違いの二人の愚直なまでに無邪気な恋は、お后を迎えるに当たって身辺整理を迫られた大公殿下が、その愛妾ミルフォード夫人をどこぞに片付けなくてはならなくなり、それに対して「是非息子に殿のお下がりを!」と宰相が名乗り出たことから破滅へと向かいます。
 二人の仲を裂こうと画策するのは宰相の秘書ヴルム、ミラーを逮捕しておいてルイーゼを脅かして、会ったこともない侍従長宛のラブレターを書かせ、それをこちらも侍従長を脅かしておいて、フェルディナンドの目の前にわざとらしく落とさせるという作戦です。一方でお坊ちゃま少佐は駆け落ちを計画、「父の名前で金を引き出してくる。泥棒の金を取っても罪にはなるまい」と、リッチな親を持つニートの息子なら一度は必ず口にする台詞、彼よりは世間を知っていて、何よりも両親を信頼し愛しているルイーゼがそんな彼に反対します。疑心暗鬼に陥ったフェルディナンドはヴルムの作戦に見事に引っ掛かり、たった一通の手紙を根拠にしてルイーゼの裏切りを信じてしまうのです。

 階級の異なる若い男と女、彼らは愛を成就させるために階級という障壁と果敢に闘います。それは、愛を勝ち取るための闘いであると同時に、市民階級が自由と平等を勝ち取るための闘いでもあります。シラーの筆の激しさは、既に革命を予言しています。

 ヴァイオリン弾きの娘であるルイーゼは、玉の輿を否定して自由と革命を語ります。
「身分の違いという垣根がこわれて、階級のいやな殻がすっかり取れてしまったとき、人間がただ人間として」「心の値打ちがあがるのですって。そうなったら、あたし、お金持ちだわね」
 お坊ちゃま少佐であるフェルディナンドは、父の持つ金と権力を嫌悪し、はねつけます。
「忌まわしい父上のことを思いだすだけの遺産なら、僕はもちろん、その遺産をいまここできれいさっぱり諦めます」「嫉妬、恐れ、呪詛などというものは陰惨な鏡で、そのなかには、高貴な支配者のほほえみがうつっているのです」

 悪意をもって、あるいは善意であったにもかかわらず、愛し合う恋人たちを追い詰めてしまう二人の周辺の人物たちも、それぞれ熱いものをその胸に秘めています。

 しがない楽師のミラーですが、慎ましい金銭欲と一緒に健全な勤労者としてのプライドを持っています。 
「おれのたった一人の娘が魂と来世の幸せをふいにした金で、ぬくぬくと暮らすくらいなら」「この国は陛下が采配を振るっておさめていなさる。だけど、ここはわっしの部屋ですぜ」
 宰相まで昇りつめたというのに、ヴァルターは更なる上を目指して何でもやってのけるつもりです。
「誰のためにわしは、わしの前任者を除けものにして席をあけてやったのだ」「おのれの君主とある第三の場所(大公の愛妾ミルフォード夫人の寝室)をかわるがわる、占める特権を、熱心に望まぬ者はないはずじゃ」
 ヴルムはその主人である宰相ヴァルターの縮小コピーであり、貴族と市民の間の哀しいコウモリです。
「(誓いなど)われわれではなんの役にもたちませんが、あの連中のあいだでは、どうして大した力がございます」「おれに罪がある?このとんまの悪党め!これ(フェルディナンド)はおれの息子だったかね?おれはおまえ(宰相)の上役だったかい?」
 大公のお妾でありながら幸せな結婚を夢見たミルフォード夫人は、夢破れた時、誇り高き一文無しとして城を後にします。
「わたしはあの方とは幸せになれないのだわ。だが、お前さんだって幸福にはしてやらないからね」「幸福を壊すのも、やっぱり幸福」「あなたがた(召使い)の一番貧しい人でも、ここを去るときは、主人であったわたしよりも金持ちなのですよ」

 シラーの「たくらみと恋」が書かれたのは1784年、フランス革命が5年後に迫っています。耐用年数の切れた体制は完全に行き詰まっています。上を見れば腐敗臭漂う支配者層、下を見ればパンを口にすることすら困難な下層民、既に権力とは即ち悪であるという公式が人々の心に確立しています。権力者は権力者であるだけで悪なのであり、プライベートでの彼らが善良な隣人であろうが、優しい夫であろうが、理解ある父であろうが、もうそんなこと関係ないのです。

 ヴェルディは、そして、台本を書いたカムラマーノは、シラーのこの原作から階級の対立という太い骨組みを取り除いています。崩壊寸前のアンシャンレジームの中で若き詩人シラーが描いた夢、それは、健全な市民が腐敗した貴族に取って代われば、物欲と権力欲の代わりに自由と愛が人々の行動規範になれば、この世界は良くなるのだという夢でした。フランス革命の結果として登場したナポレオン、その支配下のイタリアで生を受けた作曲家ヴェルディが見たもの、それは、彼らが「奴ら」を倒した時、彼らが次の「奴ら」に、我らが「奴ら」を倒した時、我らが次の「奴ら」になる、人々はなぜか次々と相手を変えては対立を見出す、際限もなく「奴ら」を創造してしまうという現実でした。
 そこにはもう悪王も悪代官もいません、そこにいるのは我ら、そして我らが選んだ選良、人々は神へのアリバイを失ってしまったのです。そして、内なる「奴ら」を倒した革命の時代は、そのまま外の「奴ら」を倒すための戦争の時代に突入してしまいます。
 ヴェルディは、シラーの原作から詩人の時代特有の骨組みを取り除き、噛み合わない父と子という誰の時代にとっても、いつの時代にあっても共通する悲劇に組み替えました。この試みは、ある部分で成功し、ある部分で失敗しています、そう、有名な原作を持つオペラの多くがそうであるように。しかし、イタリア独立のための闘いのシンボルであったヴェルディ、妻と二人の子を喪った失意のどん底で新しい妻ストレッポーニと出会った彼は、こうした試行錯誤を重ねつつ、大上段に振り被って叫ぶのではなく、同じ目線で語り合うという手法を学んでいったのだと思います。
 この「ルイザ・ミラー」はヴェルディの、目立たないけれど大切な記念碑の一つと言っていいと思います。外的自己同志の対立ではなく、内的自己の葛藤を表現すること、それには熱い興奮は必要ない、優しい眼差しと冷静な表現こそが重要である、作曲家はこの作品で新しい手法を掴み取ったのだと感じます。

 ドイツは勿論、フランスやイタリアでも「市民のための代弁者」として高く評価されたシラー、彼の書いた詩「自由賛歌」は、後に修正されて「歓喜に寄せて」と改題され、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第四楽章で歌われています。


参考文献:シラー 「たくらみと恋」 (野島正城訳 河出書房)


第一幕 『愛』

 キリリとコクがあり、スッキリした統一感を持った序曲で幕が上がります。

 時は18世紀も終わり頃、ところはチロルの山村、遠くにワルター伯爵の城を臨む退役軍人ミラーの家、今日はミラーの一人娘ルイザの誕生日、村人たちが集まってきます。起きなさい、ルイザ、お日様が笑っている、この4月の朝だって貴女ほど美しくはない、起きなさい。戸口からミラーとルイザが登場、皆に挨拶を返します。有り難くて泣けてしまう、この父にとって今日は特別な日、しかし、ルイザは恋人のカルロの姿がないことにがっかり。娘よ、カルロという男の素性を誰も知らない、父はお前の恋が心配で・・・、大丈夫、お父様、カルロを一目見た時から彼の誠実さが私には分かったの、神様が私たちを会わせて下さったのよ。村娘のラウラたちがルイザに花束を差し出すところに噂の若者カルロ登場。お父様、カルロを息子のように抱いて上げて、私、幸せで一杯よ。貴方の側にいると嬉しくて、どんな言葉もこの愛には足りない、神様が永遠の絆で繋いだ二人、この世を去っても天国で愛し合うの。見つめ合う二人、ミラーは不安を覚えます、もしや騙されているのでは?この心はなぜ痛む・・・?聞こえた?教会の鐘が鳴っている、さぁ、行きましょう!ミラーを残して一同は教会へ向かいます。

 話がある、伯爵の秘書ヴルム登場、俺はあんたの娘が好きなんだ、一年前に俺がルイザを嫁にと言った時、あんたはいやとは言わなかっただろ?それに先代の殿様が亡くなってから俺にも運が向いてきた、俺は今の殿様の覚えがめでたいんだ、俺を袖にしていいのか?止めろ!娘があんたを好きならともかく・・・、じゃぁ好きになるように何とかしろよ!何だって?結婚は神聖なもの、自由なもの、無理強いなどできるものか、俺は父親であって暴君じゃない、ルイザに命令などできるものか。じいさん、あんたの溺愛は高くつくぜ、なぜ?あんたのお気に入りのあの若者、知っているのか?あれはワルター伯爵の御曹司さ!何だって?殿様のご子息ロドルフォ様なのさ、そう言い残してヴルムは去ります。
 あぁ、俺の不安は当たった!何よりも大切な娘の純潔を汚されてたまるか、神よ、貴方は私に娘を下さった、ですから、どうか清いままにお守り下さい、何てことだ・・・。

 ワルター伯爵の城、息子のヤツは分別をなくしおった!と伯爵、若様が熱くなりやすいのはご存じのはず、とヴルム。まもなく公爵夫人が来られる、息子を呼んでこい!全てがうまくいくようになったかと思えば、我が子が私に逆らうとは、息子の今の幸せに私がいくら注ぎ込んだことか、息子の幸せのためなら命も血も惜しくはない、なのに恩知らずめ!神は我が子を苦しみの種になさった。
 父上、お呼びですか?ロドルフォ、良い話だぞ、フェデリーカ公爵夫人がお前の花嫁だ!何ですって?一緒に育った仲だから彼女の良さはお前が一番知っておろう、彼女はとても喜んだぞ、公爵と結婚する前からお前を愛していたそうだ。何てこと・・・、あの老人が戦地に倒れて彼女には財産と家名が残された、これでお前の出世も思うがまま。
 僕が野心など持たぬことはご存じのはず!お前のその弱気は何故か知っているぞ、それは・・・、黙れ!公爵夫人がお見えだ、ご挨拶を申し上げ、結婚を申し込むのだ!
 お付きの者を従えてフェデリーカが登場、ようこそ、美しい我が姪よ、私はこれで失礼するが、ロドルフォが折り入ってお話があると。

 公爵夫人・・・、フェデリーカと呼んで、運命は変わっても私は変わらないわ、私の心はいつもここにあったの。無邪気な頃には僕たちは喜びを分かち合った、でも、今、僕は伏して申し上げなければなりません。何を?父が無理なことを言いますが、僕の過ちではありません、僕の伴侶は貴女のような高貴な方ではなく、僕の運命の女性は他に・・・、他の女?許して下さい、婚礼の祭壇で偽りは言えない、僕の心には他の女性への愛が燃え上がっているのです!お望みなら私の胸を剣で刺されるがいいわ、残酷なお方、この嫉妬に燃える心に許しを期待しないように、破れた恋は怒りで満ちています、私は貴方を許さない。

 再びミラーの家、山から狩りの声が聞こえる中、ルイザがカルロことロドルフォを待っているところにミラー登場、お前は裏切られている!私が?ヤツの名も素性も偽りだ、カルロが?ヤツはワルター伯爵の息子だ、そして今、伯爵の命令で大層な結婚式を挙げようとしている、そんな・・・、花嫁はもう城にご到着だとか、止めて!とんだ女たらしを我が家でもてなしていたとは!老いたとはいえ俺も軍人、復讐を誓う!
 ドアに当のロドルフォが現れます。僕は約束したよ、ルイザ、僕の名が変わっても心は変わらない、僕は君の夫、お父様と神に証人となって頂こう、何と無分別な、伯爵がそれを許すと?神と僕だけが知っている秘密、それを前にすれば伯爵は跪くしかないのです、来た、父だ!

 父上、どちらにご用ですか?どちらに?私はこの罪深い罠を暴きに来たのだ、たとえ父上であろうと彼女の純愛を侮辱することは僕が許さない、売女のさかりをお前は純愛と呼ぶのか?なっ、何だって!ロドルフォが剣を抜きます。父上は僕に命を下さった、しかし、今の父上の言葉で貸し借りはなしだ!言わせておけば、ミラーが伯爵に迫ります、体中の血が煮えたぎる!
 弓矢を持った衛兵たち、そして村人たちが登場、伯爵は衛兵にミラーとルイザの逮捕を命じます。そんな・・・、伯爵の前に跪く娘をミラーが引き起こします、止めろ、潔白な者が尊大な者に跪いてどうする?この男は人の顔をした獣なんだ!父上、どうか僕の愛を許して下さい、ならぬ、バカ息子め!
 神よ、私も神のお姿に似せて作り給うたはず、なぜこの男に泥のように踏み付けにされるのです?お救い下さい、さもなくばこの命をお召し下さい!ルイザが泣き伏します。父上、もはや再び息子になることも父親になることもありません!父と息子の絆を破廉恥な色恋のために捨てるのか?さっさと逮捕せんか!僕の妻を逮捕するというのなら夫である僕も一緒に行きます、行くがいい!いっそ僕がこの手で、ルイザの胸に剣を突きつけるロドルフォ、殺せばよかろう、伯爵が冷たく言い放ちます。
 実の息子に対してそれほどにも冷酷ならば、もう僕には悪魔の手段しか残っていません、父上がどうやってワルターの伯爵となったのか、僕は知っている!・・・ロドルフォ!待て、その女を放せ・・・、放せ!

 伯爵の一人息子であるロドルフォは、狩人のカルロと名乗っております。「セヴィリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵も学生に扮しましたっけ、あっちはやけに楽しそうでしたが。恋に落ちれば少しでも自分を良く見せたいと願うもの、普通なら、ただの狩人なのに伯爵の御曹司と名乗ってしまいそうなところ、逆を行く彼、身分や地位ではなく一人の男として自分を愛して欲しいということでしょう。そして、彼の望み通り、ルイザは純粋にロドルフォという男をロドルフォであるという理由だけで愛しています。しかし、この「キレイな嘘」によってミラーの不安が正当化されてしまいます。なぜなら高貴な身分の男が低い身分を装って女に近づく、これ即ち、「ヤリ逃げ」狙いにしか見えないということです。ロドルフォがルイザに飽きてトンズラ決め込んだとして、いくら探しても狩人ロドルフォは二度と世間に現れることはないのですから。そして、ロドルフォ自身が身分を打ち明けるのならともかく、ヴルムによって「図らずも」正体が判明してしまうという展開、これによってロドルフォという若者の人物造形が少々緩くなっていることは否めません。
 反面、御曹司を狩人と信じて一途に愛するルイザの清潔さが強調されます。強調されてしまったことで、たとえキレイな嘘であっても嘘は嘘、ルイザを「試している」ことに変わりはない、この純情娘がそれで傷つかないことがあるだろうか?という疑問が生まれてしまいます。ルイザの悲劇は冒頭で決定してしまっており、ロドルフォとの二重唱の締め括りで響く教会の鐘の音がそれを暗示します。

 ヴァイオリン弾きから退役軍人に書き換えられたミラー、原作のミラーにあった娘の玉の輿への期待や手切れ金への執着はきれいさっぱりカットされ、無骨ながらも一人娘に懸命に愛情を注ぐ男親、いかにもヴェルディ・バリトンらしい役です。「伴侶を選ぶことは聖なること」、娘の恋を守ろうとする父が歌うアリアは清潔な力強さと品の良さ、これを町のヴァイオリン弾きに歌わせるのは無理ってものですから、退役軍人、正解でしょう。

 原作では伯爵のためにせっせと悪知恵を搾るヴルムも、一人の恋する男として登場します。立身出世を果たしてリッチになって、ルイザを嫁に貰おうとせっせと伯爵にゴマ擂ってきたのかと思えばいじらしくて健気、ただ産まれてきたというだけで御曹司のロドルフォにルイザを持って行かれる悔しさも怒りも分かるような気がします。好いた惚れたは誰にでもある、しかし、恋は残酷なもの、人を傷つけ、人を堕とすもの。

 自ら「今の幸せ」を買ったと公言して憚らないのは、権力欲と金銭欲旺盛なワルター伯爵、原作では大公殿下のお下がりの愛人を息子の嫁に頂こうと企み、それを恥じるどころか自慢するというトンデモな親父でしたが、殿のお下がりを持参金付きで娶るのは貧しい下っ端と決まっていますので、オペラではこの設定は却下。裕福な未亡人である姪を嫁にと願う父、金目当ては見え見えではありますが、お金が幸せな生活のための大切な条件であることは事実です。伯爵は悪党というより現実主義者というべき人物に描かれています。

 フェデリーカ公爵夫人は、大公の払い下げではなくロドルフォの幼馴染みの従姉妹という設定、原作の腐敗臭が抜けはしましたが、こうなると、ロドルフォは不道徳を糾弾することができず、フェデリーカの求愛を拒絶する言葉が逆に青臭い感じ、ロドルフォの幼さが些か鼻についてしまいます。父の命令で意に添わぬ男に嫁ぎ、愛のない結婚生活を耐えて、やっと自由になったフェデリーカ、しかし、解き放たれた恋心は上昇した途端に失速、籠の鳥だった女がやっと口にした自由な愛の言葉は、下りのエスカレーターを上るみたいな妙にぎこちないリズムにのって虚しく木霊します。

 目まぐるしく場所と人物が交錯するこの幕、「お前も悪のよう」型の悪党が一人も出てきません。幕切れに用意されているミラーとワルター伯爵の対決は、善と悪ではなく父と父の対決です。ミラーが願うのは我が娘が彼女を心から愛する誠実な男と結婚すること、伯爵が願うのは我が息子が裕福な妻を娶って権力への階段を真っ直ぐ上っていくこと、まったく正反対の方向を向いてはいますが、どちらも我が子の幸せを真剣に願う父です。どちらも自分の生き方を正しいと信じています。そして、正しい者同士の対立というのが実は一番たちが悪いわけでして・・・、悪代官の登場しない物語にハッピーエンドはないのです。


第二幕 『奸計』

 ミラーの家、村人たちとルイザ、野良から帰る道で連行されるミラーさんを見たよ、お父さんが・・・!そこにヴルム登場、村の衆、ちょっと外してくれ。ルイザ、お前の父は投獄された、何の罪で?伯爵様を侮辱し、脅かした罪だ、このままじゃ斬首だな。止めて!お前なら助けられる・・・、私が?どうやって?一通の手紙を書けばいい、手紙?ほら、書け!ヴルムが机を指さします。
 「彼が良い血筋であると知っていました、だから色仕掛けで落とそうと・・・」、そんなこと書けません!父が死ぬぞ、「全て終わりました、許して下さい、貴方の愛に戻ります、夜になったら一緒に逃げましょう」。
 こんな手紙に署名なんてできないわ、神よ、父を救うためにこんな恐ろしい不名誉を受けなければならないのですか?イヤならいいさ、哀れな老人が死ぬだけだ。・・・ほら、署名したわ、持って行って!ルイザ、何かの時には、この手紙は自分で書いたと誓うんだぞ、誓います・・・。もう一つ、お城にいる高貴なご婦人の前で俺に惚れているところを見せて貰いたい、貴方に?イヤだろうな、イヤよ、でも、そうすれば、お前の父は救われる。
 私の心を引き裂いてくれた悪党にお礼を言うわ、父をすぐに放して!私は死を感じる・・・、だから父がこの瞼を閉じてくれるように・・・、元気を出せ、俺はまだお前を諦めちゃいない。

 城の一室では伯爵が悶々としています。息子は逆上している、しかし、そんな息子を若気の過ちから守ってやるのが親の務めというもの。そこへヴルムが登場、首尾は?筋書き通りに、ルイザは何と?簡単にこちらの手の中に、やがて現れるでしょう、手紙は?若様の元へ届けさせました。しかし、一つ解せぬことがございます、あの時、なぜ殿はあのように弱気に?恩知らずの息子め、甥の財産をやつにやりたかった、だからこの手を悪に染めたというのに。先代は花嫁を決めたと仰って、もし跡取りでも生まれようなら・・・、そこでお前がある手立てを。ある夜、先代様は暗い森をお通りになって・・・、もう言うな、身の毛がよだつ。終わったことでございます、先代様は群盗に殺されたと皆信じております。皆ではない!息子が駆けつけた時、彼にはまだ息があった・・・、まさか!今際のきわに名前を、誰の名前を?刺客の名前を、あぁ、では私は破滅でございます!お前だけか?悪魔は我らの運命を一つに、お前が助かれば私も助かる、お前が死刑台に上るなら私も行こう。

 公爵夫人がお見えだ、夫人、どうかご安心を、倅の恋の病はすぐに癒えますゆえ。そんなことは信じられませんわ、ルイザという娘の心は他の男のものだったのです、証明できますの?ルイザ自身によって、もうすぐここに参ります、ほらっ、現れた。

 ルイザ、伯爵夫人にご挨拶を、フェデリーカが恋敵を値踏みします。可愛らしい・・・、顔も目も体も、全てが清らかなのね、顔を上げないの?私をみる勇気がないの?何しろ、田舎娘のことで。ルイザとやら、お前の一言で私は幸せにも惨めにもなるの、嘘は許しません、お前、恋をしているのね?はい、誰に?ヴルムさんに、ロドルフォは?何にもありません、一度も?一度も!嘘を言わないで、自分自身を欺いてはいけないわ、その胸に秘密があるのなら言いなさい、あの、私・・・。そうそう、お前は孝行娘だとか、伯爵がルイザを睨みつけます。私の言葉は変わりません、この方だけを誠実に愛しています!ルイザの指さす先にはヴルムが。夢のようだわ、この喜び!嬉しくて死んでしまいそう、喜ぶフェデリーカの前で青ざめて立ちつくすルイザ。

 この手紙は?ロドルフォの問いに農夫が答えます、ですからお話しした通りで、もう一度聞かせてくれ!ルイザがこれをそっとヴルム様に届けろとオラに頼んで、僕のいないところで?何度も念押すんで何かあると思って、若様にお知らせすれば褒美が頂けるんじゃねぇかと、ほら、持って行け、ロドルフォが投げる財布を拾って農夫は去ります。ヴルムを呼べ!
 この目は何を見ている?天と地が、人と天使が何と言おうと、全ては嘘だったんだ!ルイザの字だ、裏切り者!どす黒い心!父上は正しかった、あの誓いも、希望も、喜びも、涙も、全部嘘だったんだ、あの眼差し、あの手、全部偽りだったんだ、あの愛の言葉、全部裏切りだったんだ!
 ヴルム、これを読め、そして、選べ!ロドルフォは二丁のピストルを示します。若様・・・、お前は僕とここで死ぬんだ!ヴルムが逃げ出し、衛兵、そして伯爵が登場、いったい何ごとだ?ロドルフォ、何があったのだ、落ち着け、私はお前に厳し過ぎたようだ、お前の貞淑な娘に免じてルイザとの結婚を許そう。何ですって?喜べ、息子よ!僕は気が狂いそうだ・・・。不満なのか?父上、あの女は僕を裏切っていたのです!僕は死にたい・・・、ならば、息子よ、復讐するのだ、どうやって?他の女と結婚してやれ、公爵夫人を祭壇へお連れするのだ。僕は・・・そうします、そうしなければ、僕はもう自分が分からない!
 婚礼と葬送が一緒に近づいてくる、運命に全てを任せよう、僕には恐れも希望もない、彼女を失って天国へ行けば、そこは僕には地獄だ!息子よ、あんな女は忘れて幸せになれ、さぁ、私の言うことを聞くのだ。そうです、若様、お父上のお言葉をお聞き下さい、苦しみは永遠には続きません・・・。

 ヴルムに脅かされて手紙を書くルイーザ、クラリネットの旋律はどこかで聴いたことがあるような・・・、「ラ・トラヴィアータ」でヴィオレッタが、こちらは父ジェルモンの無骨な愛にほだされてですが、アルフレードに別れを告げる手紙を書くあの場面とよく似ています。しかし、ヴルムという男、悪党と言うにはどこか切なくて憎めません。面と向かって嫌いです!と言われているにもかかわらず、対お坊ちゃま用の偽ラブレターに自分の名前を書かせる・・・、自分で自分を晒し者にしています。ロドルフォがフェデリーカと結婚してしまえば、失意のルイザを再度口説くチャンスが巡ってくるかも知れないのに、命の恩人ぶりを高値で売り付ければミラーだってそうそう邪険にはできないはずなのに、わざわざルイザをいたぶってどうする?この場面、彼の締めの台詞は「俺はまだお前を諦めちゃいない」、手紙に書かせる偽りの恋人の名前、誰だっていいはずです、農夫Aでも狩人Bでも従僕Cでも。そんな空欄にヴルムは自分の名前を書かせた、「諦めちゃいない」とは裏腹に、なぜかその声には哀しい諦めが滲んでいます。
 それとも、ヴルムの敵意は既にルイザの先に見えるロドルフォに向いているのでしょうか?産まれてきたというだけで権力と富を約束された男に、この上愛までくれてやるものか、ヴルムはロドルフォの心臓めがけて自分の名前の書かれた手紙を撃ち込みたいのでしょうか?

 続く場面で、ヴルムにロドルフォへの憎悪があるとしたら、その憎悪が伯爵によって正当化されてしまいます。よりによってロドルフォが彼の悪事の証人なのです。ご主人様に恩を売りたい一心で先代を殺害したことを御曹司だけが知っている・・・、ヴルムの首の安全はロドルフォの沈黙によって辛うじて保証されている、しかし、伯爵は自分の首よりも息子の幸せが大切、もはや主従の共犯関係は崩れ、敵対関係が芽生えつつあります。

 ルイザとフェデリーカの直接対決、不安と嫉妬と希望を一緒くたに抱え込んで、それでもフェデリーカはルイザに真実を問います。「自分自身を欺いてはいけないわ」、正しい言葉ではありますが、それは力を持つ者だけの特権であることも事実なのです。自分に正直に・・・、この言葉で身を滅ぼした人間はいくらだっています。第一幕ではモノクロームの旋律とリズムで得体の知れない女が強調されていたフェデリーカですが、ここでは人物造形がふらついています。財産目当ての父によって無理強いされた結婚、私は自分を欺いて生きてきた、そして、自由になった私が正面からぶつけた愛をロドルフォは拒絶した、彼が愛する女は彼を愛してはいない、ならば、彼は私を選ぶはず、なぜなら・・・、この先がふらついているのです。なぜなら彼は私が裕福だと知っているから?なぜなら彼は二番目で妥協するしかないから?フェデリーカという女はここで喜ぶような女ではない、冷笑する方がずっと似合います。大公から払い下げられる愛妾という設定を、いくら何でもと変更してしまったことにより、フェデリーカという女が毒気を失ってしまっているのです。ヴェルディが彼女に与えた不貞不貞しい旋律だけが、辛うじてルイザのアンチテーゼであるこの女性に魅惑の堕天使のイメージを寄り添わせています。

 ここから先、ロドルフォの暴走ぶりがすごいです。「彼が良い血筋であると知っていました、だから色仕掛けで落とそうと・・・」、つまり、ルイザは狩人カルロの正体を知っていたと?知った上で騙されたフリをして、ヴルムを愛していながらロドルフォをたぶらかしたと?ルイザ、悪過ぎだろ、これをすんなりと信じられるロドルフォの方が私には信じられません。登場人物の中で彼一人が(いくら否定して見せたところで)自分の出自に囚われています。ルイザはそもそも狩人のカルロを愛していました、ミラーは(原作の楽師ミラーとは違って)娘の恋人の家柄を危ぶみこそすれ、惹かれはしませんでした、ヴルムは主人の爵位が「盗品」であると知っています、そして伯爵、彼は財産が爵位に勝ることを知っています、財産が欲しくて先代を殺したらオマケで爵位が付いてきただけなのです。
 ところが、ロドルフォは狩人カルロだと身分を偽った、伯爵家の御曹司ロドルフォではルイザの目が眩むと恐れたから。だから、彼一人がルイザの「嘘」をいとも簡単に信じてしまう、その「嘘」はロドルフォにとっては脳内で何度も「見た」光景だったのです。彼にフェデリーカが持った疑いの1%でもあれば、ここから先の悲劇は回避されたでしょう。ヴェルディはそんな彼にきゅーんと甘く切なく、しかし芯のないアリアを与え、彼の悲劇は実は彼自身に由来するのだと、そして、レチタティーヴォにヴルムの影を落とすことで、既に「恋」は「たくらみ」に絡め取られてしまったことを仄めかします。

 裏切られた!と叫ぶ息子に向かって、あの娘を娶るがいいと見え透いた台詞をしゃぁしゃあと言う伯爵、息子に「裏切られた!」と言わせた当人のくせして。この部分、何だかもうみんなして闇雲にロドルフォを追い立てるという展開に必要なのは分かるのですが、伯爵という人物を(ここまでの展開から見て)必要以上に落としている感もありますね。
 「いつの日かきっとお前は幸せになる」、伯爵の言葉は偽りのない愛情に裏打ちされた父の言葉です。しかし、その言葉は息子には届きません。親から子への言葉というものは、そもそもが「届かない」ものなのかも知れません。

第三幕 『毒薬』

 ミラーの家、ルイザが一人机に向かって書き物をしているところに、ラウラと娘たちが登場。たった一日で悲しみが額に刻み込まれ、天国から追放された天使のよう、ねぇ、ルイザ、何か食べた方がいいわ。・・・いいの、気分が悪いの、もうこの世の食べ物は要らないの、ねぇ、どうして教会があんなに明るいの?それは・・・、新しい領主様のためのお祝いよ、・・・お願い、結婚式だなんてルイザの耳には入りませんように!ミラーが帰宅し、ラウラたちは親子を残して退場します。
 ルイザ、顔色が悪いぞ、何でもないわ、お前が私のためにしてくれたこと、ヴルムから聞いた・・・、恋を諦めてくれたと。ところで、この手紙は何だ?「ロドルフォ様、恐ろしい裏切りが私たちを引き裂きました。でも誓ってしまった以上、私は何も言えません。偽りの誓いの及ばぬ場所で、真夜中の鐘が鳴る時にお待ちしております」・・・、それはどこだ?お墓よ、何をそんなに驚くの?花が一面に敷き詰められた寝台よ、正しい人がそこで眠るの、死に怯えるのは罪人だけ、だから私たち二人は怖くないの、死は天国への扉を開けてくれるの。
 ルイザ、自殺した者には神の救いはないんだよ、恋することは罪なの?お願いだ、止めてくれ!父が与えた愛情にお前は苦痛と涙で報いるのか?お前が扉を開けようとしている墓場へは、この私が先に行かなければならないんだよ。私ったら何を・・・、ルイザは手紙を引き裂きます。お父様、私はお父様のために生きます。ミラーが娘を抱き寄せます、どこかへ逃げましょう、そうしよう、夜が明けたらすぐに、そうしよう、何一つ持たずに旅立とう、貧しい人として戸口を回ってパンを乞おう、父の側にはいつでも娘がいる、神は祝福して下さるだろう、ミラーはそっと退場。

 私が幸せな日々を過ごしたこの地、あの人が愛していると言ってくれたこの地、最後の祈りを捧げましょう、明日は知らない土地で祈るのね。戸口に従者を伴ってロドルフォが登場、父上に伝えてくれ、儀式の準備は整った、僕はここでお待ちしますと、従者は退場。祈っている、祈るがいい!そっとドアをくぐったロドルフォは、小さな瓶を取り出すとその中身を卓上のカップに注ぎます。
 ロドルフォ!ルイザ、これを書いたのはお前か?お前が書いたのか?驚くルイザに手紙を突きつけるロドルフォ。ええ・・・、喉が灼ける、飲み物をくれ、ルイザが差し出すカップから水を飲むロドルフォ、この水は苦いぞ。苦い?そうとも、飲んでみるがいい、ルイザも同じカップを口に運びます、苦くないわ。
 お前は他の男と逃げる、そして、僕は他の女と婚礼の祭壇に上る、だが、お互いに相手は待ちぼうけだな、くそっ、こんな剣など何になる?どうなさったのです?ほら、お水を召し上がって、恥知らずな女は自分が僕に何を勧めているのか知っているのか?ロドルフォ、なんてひどい言葉を。あっちへ行け!創造主よ、なぜ地獄の魂に天使の衣を着せたのだ?泣いて、泣いて下さい、涙が貴方の心を癒しますように、涙が神に届きますように。神は僕を見捨てた、この心を慰めるものなどないんだ・・・、城の鐘楼が時を告げている、僕たちにとって最後の時を。
 最後にお前に聞く、ヴルムを愛しているのか?この期に及んで嘘をつくな、神に召されるのだから、神に?なぜ・・・?なぜならお前は僕と一緒に毒を飲んだから!

 私、死ぬのね、死ぬと仰ったのね、死が私の枷を解いてくれたわ、私、何も悪くないの、彼らが父を連行して、それで私、父の命を救うために・・・、ヴルムがあの手紙を書かせたの。何だって!それで僕は君を殺すのか!我が血よ、我が父よ、神は僕を怒りに任せて創造したのか?死が近づいているのよ、だから止めて、神様に逆らうのは止めて。

 ミラーが登場、誰かと思えば、いったい何が起こっているのだ?誰かって?僕はお前の娘を殺した男さ、何だって!ロドルフォ、待って・・・、毒が・・・、毒?ルイザ、お前は毒を飲んだのか?お父様、最後のお別れを、手を握って、ロドルフォ、もう貴方が見えないの、お父様、私たちを祝福して、二人で一緒に神に召されるの・・・。娘よ、永久の別れなのか?もうお前は私の天使ではなくなるのか?嫉妬深い神は私からお前を奪うのか?僕も一緒に行くよ、ルイザ、だから、どうかお許しを!
 ルイザが事切れた時、村人たち、そして伯爵とヴルムが登場します。ロドルフォが最後の力を振り絞って振るった剣がヴルムの胸を貫きます、死ね、悪党・・・、父上、これは貴方の罪だ・・・。ロドルフォがルイザの傍らに倒れます。

 息子よ!

 ルイザ、ロドルフォ、そしてミラー、三人だけの濃密な世界、シラーの手になる「古典劇」の薫り高い緻密な言葉の応酬、ヴェルディは無駄な音を徹底的に排除して応えます。無理心中の場面なのにトコトン美しい旋律、しかし、一幕、二幕とは違って、この三幕、その旋律は甘さや親しみをかなぐり捨て、ある種の厳しさ、険しさを持っています。美しい小瓶に詰められた毒薬のように。

 ルイザは恋を捨てて父のために生きようと決め、ミラーは故郷を捨てて娘のために生きようと決め、そんな親子のおそらくは苦難に満ちたものになるであろう、しかし、寒空の下でもそっと寄り添って温もりを分かち合うであろう未来を、ロドルフォが破壊します。ルイザにそれと知らせずに毒を飲ませた後に手紙の真偽を問い質すという矛盾だらけの行動、ロドルフォが求めているものは「真実」ではない、単純な「死」であることは明らかです。彼はともかく死にたいのです、今ある自分が嫌になってしまったから死にたいのです。でも、一人で死ぬのは嫌なのです、こっそり死ぬのも嫌なのです、だから、ルイザを道連れに、その場にわざわざ父を呼び寄せて死ぬのです。
 こう書くと何かロドルフォがとんでもない男に思われますが、ヴェルディのロドルフォにはシラーのフェルディナンドにあった「革命の意志」がありません。ロドルフォには父を嫌悪する、フェデリーカを退ける大義がありません。その死は、腐敗した権力への命懸けの抗議にはなり得ず、新しい市民の時代への命懸けの犠牲ともなり得ず、自分で自分をどんどん追い詰めた挙げ句、それじゃあんまりだということでしょうか、ヴルム一人を、偽手紙を書かせたという咎(ロドルフォは最後まで先代の伯爵殺しに触れません)で断罪して死んでいくのです。

 そのヴルムは黙って殺される、つまり、伯爵の秘密はロドルフォ(とヴルム)の死によって今や永遠に守られたことになります、伯爵がそれを有り難がるかどうかは別として。その伯爵に与えられた台詞は息子の死を確認する二つの言葉、「死んだのか」「息子よ」だけ、そして、その父に息子が残したのはその罪を詰るたった一言だけ、錆びたナイフで捩り切られた傷口のように酷い結末です。

 そして、全く理不尽に娘を奪われたミラー、父はロドルフォを責めずに神を責めます。「もはや私の天使ではなくなるのか?」、ミラーの最後の言葉には、伯爵がルイザを娼婦呼ばわりした時のあの激しさはなく、静かな諦観に覆われています。いつの日にか、私の天使は神の元へ帰ってしまうのだと初めから知っていたかのよう、知っていたからこそ、かりそめのこの世での日々を無垢のままに守りたかったかのよう、妙に他人行儀でぎこちない父の言葉は、誰にも恨み言を言わずにこの世を去っていく天使の如き娘を、苦い涙を飲み込みながら声にならない声で詰っているかのように聞こえます。

 この作品、ヴェルディ過渡期の名作と言ってよろしいと思います。「ナブッコ」からここまでのヴェルディ作品の特徴と言えば、荒々しく興奮を掻き立てる合唱と、それに比して妙にちんまりと古風にまとまったアリアであったと思います。そして、この「ルイザ・ミラー」、ライト・モティーフの原型を聴くことができます(ルイザの「愛」、ヴルムの「たくらみ」)。カバレッタを敢えて物悲しい短調で綴るという新しい試みも見えます(ルイザが偽の手紙を書かされる場面)。そして、この作品には、ヴェルディの「未来」が映し出されています。ロドルフォとルイザ、そしてヴルムは「オテロ」のオテロ、デズデモーナ、イアーゴに、父ミラーと娘ルイザは「リゴレット」の道化師とその愛娘に発展して行きます。ワルター伯爵にかけられた呪いはルーナ伯爵に手渡されるでしょう、フェデリーカは冷徹な計算とたぎる情熱を身につけてエボリとなって登場するでしょう。
 しかし、過渡期にはありがちなことなのですが、作曲家はあまりに多くのことを語ろうとしているように感じます。過去に置いていくものと未来に持って行くものを選ぼうとして選び切れていない旅人、そんな印象を否定できません。

 さて、録音です。1975年、ロンドン・ナショナル・フィル、ペーター・マーク指揮、ルイザにカバリエ、ロドルフォにパヴァロッティ、ミラーにミルンズ、伯爵にジャイオッティ、フェデリーカにレイノルズ、ヴルムにヴァン・アラン、この録音、私は好きですね。パヴァロッティのおバカ御曹司は妙にフテブテしいというか、冷たく開き直っている感があって、「キレる」歌唱に凄みがあります。カバリエの声はそのまんま「天使の声」。
 1979年の映像盤、MET、レヴァイン指揮、ルイザにレナータ・スコット、ロドルフォにドミンゴ、ミラーはこちらもミルンズ、伯爵もやはりシャイオッティ、フェデリーカにジーン・クラフト、ヴルムにモリス、キャスティングも舞台もぜーんぶ豪華、METならではの夢の舞台です。
 両方でミラーを歌っているミルンズ、この役をがーっと歌い込むと「リゴレット」になってしまうわけですが、その手前で優雅に寸止めする巧さ、いつもながらお見事です。

 演出としては、物語の舞台であるスイスをあまり強調しないでほしいですね。ヴェルディ自身、殆どスイスを意識していないと思います。ヴェルディとスイスって何か似合わない、秘密口座の暗証番号をずらーっと暗記しているヴェルディとか、乗っている列車が5分「も」遅れたと車掌にクレームを言うヴェルディとか、庭に羊小屋に模したトーチカを作っているヴェルディとかって、どうにも想像できないんですよね。



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