ヴェルディ 「マクベス」 (1999年12月8日〜1999年12月16日の日記より
原作と構成を比較する
ヴェルディは、その生涯で3回、シェイクスピアに挑みました。最初がこの「マクベス」、そして「オテロ」、最後が「ファルスタッフ」・・・。「ナブッコ」の成功で一躍イタリアの国民的英雄になったヴェルディが、最初に選んだシェイクスピアがこの「マクベス」であるというのも、面白いと思います。「ロミオとジュリエット」の方がはるかに取り組みやすかったはずなのですが。彼は後に、格調高い悲劇「オセロ」で人間の中に潜む嫉妬という名の悪魔を描き出し、愉快で楽しい俗物、つまりリアルな人間そのものである「ファルスタッフ」で、人生に向き合う余裕たっぷりの姿勢を示し、そのオペラ人生を締めくくりました。作品こそできませんでしたが、最後まで「リア王」に関心を持っていました。本当にシェイクスピアが好きだったみたいですね。
この「マクベス」ですが、およそオペラ向きとは言えない作品です。そもそもオペラには付き物の愛が出てこないのです。愛の二重唱の代わりに響きわたるのは暗い陰謀の調べです。登場するのは、野心に燃えた恐ろしい夫婦、お互いに相手を信じられない命懸けの駆け引きの世界に生きる男達、そして人間をあざ笑うかのように乱舞する魔女たち・・・。お見事なくらい、愛が徹底的に排除されています。でも、私はこのオペラが大好きです。若きヴェルディが偉大なるシェイクスピアを徹底的に読み込んでいることが手に取るように分かるのです。何が何でも自分のものにしてやろうというヴェルディの握り拳が見えるのです。若くてエネルギッシュなヴェルディが、甘い愛のドラマではなく、血なまぐさい暴力的な権勢欲の物語に惹かれたのも理解できます。彼自身が野心に燃えたオペラ界のマクベス、もしくはマクベス夫人だったのでしょう。野心は若き成り上がり者の良き友です。才能と運に恵まれた若者というのは、いつだって神よりも悪魔に惹かれるものです。才能を使い果たし、運に見放され、年をとった時に初めて、彼らは愛や慈悲や神というものの存在に気がつくのです。
このヴェルディの「マクベス」は、シェイクスピアの原作とは、当然ながら構成も展開も違っています。時代背景もそれぞれの立場も違っていますからね。これを私なりに検証してみたいと思います。まず、最初にシェイクスピアの原作とヴェルディのオペラのストーリーの構成を比較してみましょう。
マクベス スコットランドの武将(国王の従兄弟でグラミスの領主)
夫人 マクベスの夫人
バンクォー スコットランドの武将
ダンカン スコットランド国王
マルコム ダンカンの息子、スコットランド皇太子
マクダフ スコットランドの武将(ファイフの領主)
シェイクスピア ヴェルディ 1 魔女たち、マクベスの噂をする 魔女たち「何をした?教えて」 2 ダンカン&マルコム、マクベスの勝利の知らせを受ける − 3 魔女たち、タイガ−号を呪う (「何をした?教えて」) 4 マクベス&バンクォー、魔女の予言を聞く
・マクベスはコーダ領主やがて国王になる
・バンクォーの子孫が国王になるマクベス&バンクォー&魔女たち「こんなに荒れた美しい日は初めてだ」 5 マクベス、コーダの領主に(予言的中) マクベス&バンクォー「これで予言は二つ当たった」 6 ダンカン、マルコムを王位継承者に指名 − 7 夫人、マクベスからの手紙を読む 夫人「勝利の日に/急いですぐに」「目を覚ませ地獄の精霊」 8 マクベス&夫人、ダンカン暗殺計画 − 9 ダンカン、来訪 − 10 マクベス&夫人、ダンカン暗殺を決意 マクベス&夫人「おぉ、私の妻」 11 マクベス&バンクォ−、予言の話をする − 12 マクベス、ダンカンを殺害 マクベス「妻に伝えてくれ」マクベス&夫人「ついに王は眠った」「不吉な妻」 13 マクベスの動揺と夫人の犯行隠蔽工作 マクベス&夫人「短剣を戻していらして」 14 マクダフと門番のやりとり − 15 マクダフ、ダンカンの遺体を発見、一同の嘆き マクベス&夫人&バンクォー&マクダフ「地獄の口大きく開けて」 16 マクダフ、マルコムの逃亡を知る − 17 マクベス、バンクォー暗殺を命令(夫人は知らない) マクベス&夫人「なぜ私を避けるの?」夫人「天のランプが」 18 バンクォー、闇討ちで殺される(息子は逃亡) バンクォー「何と暗い夜の闇」 19 マクベス主催の宴会(マクダフは欠席) 夫人「杯に選り抜きの酒を」(マクダフは出席している) 20 マクベス、バンクォーの死を知る マクベス「顔に血が付いているぞ」 21 マクベス、バンクォーの亡霊を見る マクベス&夫人&マクダフ「妖怪は私の血を求めている」 22 魔女たちの相談 魔女たち「さかりのついた雌猫が」 23 マクダフ、イングランドへ逃亡 − 24 マクベス、魔女たちの予言を聞く
・マクダフに気をつけろ
・女から生まれた者には殺されない
・バーナムの森が動かない限り無敵(バレエシーン)〜マクベス「召集まで静かに待とう」「行ってしまえ王の霊」 25 マクベス、マクダフ一家殺害を決意(夫人は知らない) マクベス&夫人「今や死と復讐の時」 26 マクダフの妻子、殺される − 27 マルコム、マクダフを試す − 28 マルコム、マクダフに真意を明かす − 29 マルコム&マクダフ、イングランド王の奇跡の噂 合唱「虐げられた祖国」 30 マクダフ、妻子の死を知る マクダフ「父の手は」マルコム&マクダフ「あの森は何という?」☆ 31 夫人、夢遊中に罪を語る 夫人「ここにまだ染みが」 32 マクベス、戦闘の支度 マクベス「老いを慰める慈悲、尊敬、愛」 33 マルコム、バ−ナムの森の木の枝でカモフラージュ作戦☆ 34 マクベス、夫人の死とバーナムの森が動いていることを知る 35 マクダフ、マクベスを倒す マクベス&マクダフ「武器だ!武器だ!」 36 マルコム、王位に就く マルコム&マクダフ「勝った!」
このストーリー展開の違いは、シェイクスピア、そしてヴェルディ、二人の巨人のそれぞれの「マクベス」を読み解く(あるいは聴き解く)上でとても重要な手がかりになります。
人は生まれた時代を生きるしかない
シェイクスピアが「マクベス」を書いたのは、1606年のことです。1603年にエリザベス1世の後を継ぎ、スコットランド国王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド国王に即位しました。そして、1606年に王の義弟デンマーク国王クリスチャン4世がイングランドを訪問した際に上演されたものとされています。「マクベス」は彼の作品としては異例の短さなのですが、これも宮廷での歓迎行事とすれば納得できます。国賓ですから長々とお芝居を見ているヒマはなかったでしょう。
宮廷一座の座付き作家であったシェイクスピアは、ホリンシェッドの「イングランド、スコットランド、アイルランド年代記」から「マクベス」の題材をとりましたが、何しろ国王がパトロンですから、かなり変更を加えています。まず、年代記ではダンカンはひどい王様だったということです。マクベスは、バンクォーの支持を得てダンカンを倒し王位につきますが、これは当時(11世紀)では別に珍しくもありません。当時は実力のある者が王位につくことが当然で、後のような長子相続制はありませんでした。指導者が少々馬鹿でも誰も気にしないということは、安定した時代にしか許されません。マクベスの生きた時代、馬鹿な国王の存在は全ての人にとって命取りだったのです。ちなみに、マクベスは名君だったと伝えられています。シェイクスピアはこれらの年代記から得たヒントを職人技でまとめ上げ、緊張感溢れる戯曲に昇華させました。
まず[3]ですが、シェイクスピアはタイガー号という船の遭難に触れています。これは当時本当にあった事件で、タイムリーな話題と言えます。
[4]の場面ですが、ジェームズ1世は自分をバンクォーの子孫であると信じており、「魔女オタク」だったと伝えられていますから、魔女がバンクォーの子孫が王になると予言する場面では喜んだことでしょう。
問題は[6]です。マルコムが王位継承者に指名される部分をヴェルディはカットしています。これは時代の違いを考えれば納得できます。長子相続制のなかった11世紀では王の従兄弟であるマクベスにも十分に王座の可能性があったのです(何しろ彼は優秀な武将です)。しかし、ダンカンは自分の長男マルコムを後継者に指名します。ここで初めてマクベスの中に殺意が芽生えます。ヴェルディがこの部分をカットしたのは、彼の時代には王室の長子相続制が当然だったからでしょう。つまりヴェルディのマクベスにはクーデター以外に王座を手に入れる方法が最初からないのです。
[7]から[10]の場面で、シェイクスピアは夫人に恐ろしい言葉を駆使させ、野望に燃える悪女を生々しく表現しています。ジェームズ1世は先代のエリザベス1世に対するコンプレックスが強く、強い女がお嫌いだったようですから、ここでシェイクスピアが夫人を悪女に仕立てたのは当然でしょう。しかし、ヴェルディでは、もっとおっかないことになっています。主導権は殆ど夫人に移っています。ヴェルディの時代には、亭主をそそのかすくらいでは悪女の範疇に入らなくなっていたのでしょう。
[14]の場面は、ヴェルディが作曲していれば、門番は最高のブッフォ・バスの役柄に仕上がったでしょうが、彼は門を叩く音以外は全部カットしています。ここでシェイクスピアは門番に「二枚舌」という言葉を使わせていますが、これは当時の大事件「国会議事堂爆破未遂事件」の被告である修道士が裁判で難解な神学理論で自己弁護した時の言葉で、当時の流行語だったのです。そんな背景のないヴェルディがここをカットするのは仕方ないとしても、このとき門を叩いてマクベスを脅かしたのはマクダフです。深読みをすれば、この時点で既にマクダフがマクベスを殺すという結末が用意されているとも言えますから、このカットは私には少し残念ですが。
[17]と[25]は重要です。シェイクスピアでは夫人はバンクォー親子暗殺とマクダフ一家皆殺しの計画を知りません。ヴェルディでは、夫人はどちらにも荷担していますし、とても積極的です。
[26]で登場するマクダフ夫人と息子は、ヴェルディでは全く登場しません。マクダフ夫人はマクベス夫人に対するアンチ・テーゼとしての役です。野心家で冷酷なマクベス夫人に対して大人しくか弱い女性として描かれています。夫のいない間に息子共々殺されるわけですから、嘆きのアリアでもあると結構聴かせてくれた役かもしれませんね。
[27]から[29]をヴェルディがカットしたのは正解でしょう。マルコムがマクダフの愛国心を試そうとして延々と自分の欠点を上げます。それを聞いたマクダフは絶望し、嘆きます。それを見たマルコムが今度は前言を全て撤回して自分の美点を並べます(マルコムの美点の中には「謙遜」というのは入っていないようです)。国王たる者かくあるべしという一種の理想論ですから、ヴェルディには必要ないですね。王が奇跡で病気を治すという話は完全にシェイクスピアのサービスでしょう。ここでマクベス支配下のスコットランドの惨状が詩的な言葉で語られますが、この場面をヴェルディは合唱「虐げられた祖国」に仕立てています。
[31]は有名な夢遊病の場面です。そのままヴェルディが使っています。
[32]から[34]はマクベスの独断場です。シェイクスピアではマクベスは殆ど錯乱に近い状態です。部下を罵り、夫人の侍医を罵り、そして夫人の死にすら動揺を示しません。ここでシェイクスピアは本当に美しいセリフをマクベスに語らせています。「明日が来て、明日が去り、一日一日と小刻みに時の階を滑り落ちていく、この世の終わりにたどり着くまで。昨日という日が愚か者が塵と化す死への道筋を照らす。消えろ、消えろ、つかの間の灯火、人生は動き回る影、哀れな役者だ。自分の出番の時だけ舞台で見得を切り、喚き、そして消えていなくなる…白痴のしゃべる物語も同然…」。しかしヴェルディは、このセリフはほんの僅かしか使っていません。その前に出てくる「私の人生は枯れ葉となって散るのを待っている、それなのに老年に相応しい名誉もなければ尊敬も従順もない、ささやかな友情さえ。呪詛の声が国中に淀み…」(いずれも福田恆存訳「マクベス」より)というところをアリア「老いを慰める慈悲、尊敬、愛」に仕立てています。ヴェルディはどうしてこっちのセリフの方に惹かれたのでしょうか?
[35]から[36]はシェイクスピアはマクベスの奮戦ぶりをかなり丁寧に書いているのですが、ヴェルディはマクベスとマクダフの一騎打ちだけに絞って、他はばっさり刈り込み、最後は二人のテノールと合唱で力強く締めくくっています。
このオペラを聴く時には、絶対に原作を傍らに置いておいて下さい。そして折々で原作のページをめくってみて下さい。そうすれば、何倍も楽しめますよ。では、もう少し踏み込んでみましょう。
それぞれのマクベスを求めて
シェイクスピアの作品の中でも「マクベス」は最も緊張感の高い作品だと思います。ハムレットの約半分という長さの中に権力と暴力、人間の弱さという大きなテーマを盛り込んだものだからです。そして、「マクベス」の特徴は矛盾にあると思います。
魔女たちは見る側の期待に反して何もしません。彼女たちは語るだけ、嘘すらついていません。予言に振り回される人間たちを外から眺めているだけです。そして、バンクォーの亡霊も果たして本当に存在したのか不明です。「ハムレット」の王の亡霊は、主人公だけではなく現実的なホレイショーも見ているわけですから、確かに「出た」のでしょうが、バンクォーの亡霊を見たのはマクベスだけ、彼の幻覚ともとれます。登場人物も矛盾に満ちています。バンクォーは自分の子孫が王になるという予言にたっぷりと魅力を感じ、そしてダンカンを殺したのはマクベスであると察し、そのことによって自分に対する予言も当たるという期待を持つに至りました。なのに夜道を護衛もつけずに(予言によれば未来の国王である)息子と二人で出かけるという一見矛盾した行動は、彼が恐れよりも期待に心を奪われたことの現れでしょう。マクダフもマクベスを倒すべくイングランドへ亡命しますが、彼の残虐さを知りながら迂闊にも妻子を置き去りにしています。この二人に託されたものは、権力ゲームにうつつを抜かす男たちの悲しさのように思えます。そして二人はその結果として運命から手痛いしっぺ返しを受けます。
ヴェルディとなると、シェイクスピアよりもさらに圧縮された物語が展開します。削りに削ったセリフを効果的に使いながら、物語の主軸はマクベスとその夫人の関係に移っています。序曲で早々と「ここにまだ染みが」が響くことからも分かるように、ヴェルディでは主犯は夫人です。マクベスを次々と殺人に駆り立てるのは、夫人の言葉に他なりません。マクベスは運命を魔女に、行動を夫人に操られる人形なのです。このことによって、オペラはさらに矛盾を孕んだものになっています。なぜ夫人にはバンクォーの亡霊が見えなかったのか?殺しを示唆したのは当の彼女なのに。
マクベス夫妻の仲睦まじさ、マクベスはその野心を唯一妻にだけ告げます。妻はそれをがっちりと受け止め、自分の野心とします。ためらう夫を叱咤激励し、乳ではなく血でこの胸を満たしたいと言ってのける女、彼女は女であり自ら権力の座に座ることはできませんが、マクベスの野心を我が物とすることで夫と一体化します。マクベスはそんな妻を誰よりも頼っています。マクベスには「腹心」がいません。有能な武将である彼、当然に「お供致します!」という部下がいていいのですが、彼が運命共同体として選んだのは妻のみ。
その頼れる妻が正気を失い始めた時、マクベスは口を閉ざします。夫婦の意志の疎通は途絶え、彼はただ一人その手を血に染めていきます。マクベスは妻を守りたかったのかも知れません。その「小さな手」を「大海の水でもっても流せない」流血に二度と触れさせたくなかったのかも知れません。
ところが、ヴェルディでは夫婦は最後まで寄り添う共犯者であり続けます。これによって夫人のイメージが分裂してしまいます。彼女は昼間は次々と殺人を企てながら夜になると夢遊病の中で罪の意識に苛まれるという一種の二重人格になっています。
この矛盾を一挙に吹き飛ばす力技をヴェルディが発揮するのが第四幕だと思います。
ここでヴェルディは、まったく異なる旋律を巧みに構成することによって、それぞれの心理状態を丁寧に描いています。合唱「虐げられた祖国」で幕が開きますが、この合唱は非常に叙情的で繊細です。冷たい湖面をわたる北風のような澄んだ美しさを持っています。そして、マクダフの「父の手は」、これはきっちりと端正なテノールのアリアで、マクダフの生真面目な性格がよく出ていると思います。そして一転してカバレッタ「あの森は何という?〜祖国が呼んでいる」、大変勇壮な曲ですが、マクダフはその直前の父としての夫としての嘆きから、一変して戦いの雄叫びを上げるわけですから、この男はやたら立ち直りが早いというよりも、家族よりも国家を愛していたようで(今で言うと全く家庭を顧みない会社人間ということでしょうか?)、この手の男は「いつも正義」なんですよね、正義は一つしかありませんが、しかし多くの顔を持っています。声高に叫ばれる正義って危うい感じがしませんか?
攻める側には「正義」があります。しかし、守る側は既に分裂しています。この幕、あれほど仲睦まじかったマクベス夫妻が一緒に舞台に立つことはありません。夫人は無意識の世界に閉じ込められ、マクベスはただ一人運命を迎え入れます。
夫人の「ここにまだ染みが」、非常に不安定な半音階を上下する何ともゾッとするような旋律です。数々の殺人の「主犯」であった夫人の精神が崩壊していく様が見えるようです。既に正気を失っている夫人はある意味幸せです。目の前にあるのが破滅であろうが死であろうが、彼女がそれと対峙することはない。夫人の心は過去の殺人現場に囚われており、そこで無限のループを描きます。あの夜から逃れられないのなら、もうどこへも行けないのなら、ここにいる意味はない・・・、夫人はいともあっさりと世を去ります。おそらく、死を意識することすらなく。
オペラの中盤を支配するのはマクベス夫人、なぜか名前も不明の女です。彼女は魔女の予言など信じてはいません(彼女はタダの一度も魔女の姿を見てもいないのです)。彼女が信じたのは「魔女の予言を信じる夫」です。彼女はその存在を信じてもいない、夫の言葉でしか知らない魔女を通して夫を支配します。魔女であろうが天使であろうが、夫に己を重ねる力が欲しかったのです。たまたまそれが魔女であったために彼女も夫もおぞましい殺人者となり果てましたが、マクベス夫人の野心(それは王座であったのか、それとも愛であったのか)は成し遂げられたのです。その代償が正気と命であったからといって、それが何なのです?
ヴェルディは初演の演出で、夫人役に「歌うな」とオペラとは思えないめちゃくちゃな指示をしています。美しい声よりも声の向こう側にある倒錯した愛の桃源郷を表現する力が要求される役です。
マクベス、彼は最後まで正気です。彼は唯一無二の戦友であった妻を失い、しかし、それでも剣を振り上げます。彼はこの期に及んでも魔女の予言を信じてる・・・のか?
マクベスのアリア「老いを慰める慈悲、尊敬、愛」。ここに至ってヴェルディはシェイクスピアとは全く違ったマクベスを創出したことがはっきりと分かります。シェイクスピアのマクベスは、周囲を罵り、自分の不運を嘆き、非常に醜いあがきを見せた後、夫人の死を聞くに至って、「人生は所詮動き回る影」とこの世の向こう側にはみ出してしまいます。もう彼はこの世の人ではなくなっているのです。「白痴のしゃべる物語も同然」という彼自身が解体していきます。シェイクスピアのマクベスはここまで「主犯」でした。ダンカン殺し以降、彼は夫人に何も知らせずに自分の意志で行動して来ました。それが全て無に帰すのを目の当たりにした彼の精神がバラバラになっていく様は、本当に酷い。しかし、それは魔女の言葉にその運命を委ねた時から決まっていたことなのです。
しかし、ヴェルディのマクベスは、ここまでは「従犯」でした。彼は夫人に焚き付けられて次々と人を殺しました。そして、その夫人が死んだ今、彼は本来の自分に立ち返ったのでしょう。彼は武人として生きた男です。何よりも戦場の名誉を尊んだ男です。夫人(ある意味で彼にとって夫人は魔女そのものでした)から解き放たれた彼は、名誉を失ったこと、誰からも尊敬されないこと、打ち捨てられ悪し様に罵られるであろう自分の死後を淡々と語ります。
彼は己の手に運命を取り戻したのです、最後の時に・・・。ヴェルディが「動き回る影」ではなく、「名誉も尊敬も従順も、ささやかな友情さえ持たない」嘆きをアリアに仕立てたのは、本来の武人に戻った(しかし、どうしようもなく手遅れなのですが)マクベスの彼本来の姿を描きたかったからではないかと思います。
いよいよ最後の決戦を迎えたマクベスは、声を張り上げ「死か、勝利か!」と叫びます。その旋律は雄々しく、一種の明るささえ感じさせます。マクベスは今、最後の戦いを前にして幸せなのです。彼の不名誉な生はもうすぐ終わります。暗殺だの、闇討ちだの、女子供を皆殺しにするだの、そんなやり方は武人マクベスのものではなかったのです。彼はこれから剣をとって闘って死ぬのです。この場面のマクベスと兵士たちの掛け合いはとても短いものですが、彼が最後に掴み取った己の運命を己で生きる幸せが感じられます。
俺は死ぬ、殺される、そして誰からも悪し様に罵られ、その墓には一輪の花すらなく、忌まわしい記憶として冷たく打ち捨てられる・・・。それをマクベスは喜んでいるのです。俺は生きた、魔女にそそのかされ、妻にけしかけられ、しかし、自分で生きた。王冠が欲しかったのさ、だから必要な血を流した、今、その王冠は俺を見捨てて、次の宿主を求めている。だから、今度は俺の血が必要なのさ・・・。
ヴェルディが「動き回る影」をカットしたことで、マクベスが到達した逆説の幸福が立ち上がってくるのです。運命に弄ばれ、野心に火を付けられ、その炎に追い立てられた短い一生、俺はそれを受け入れる、狂気に満たされた王座の日々、思う存分の血を流した。今度は俺の血だからって血に変わりがあるじゃなし。
そして、マクベスとマクダフの一騎打ち、「女が産み落とした」のではなく「腹から取り出された(帝王切開ですね)」男であるマクダフによってマクベスは討たれるわけですが、ここをヴェルディは大変あっさりと終わらせています。マクベスは死にあたって何も語りません。ヴェルディは最後にマクベスに「武人としての潔い死」をプレゼントしたかったのではないでしょうか。
そして合唱が響きわたります。ここでもヴェルディは彼独自の主張を聴かせてくれます。合唱が褒め称えるのは「英雄マクダフ」、新国王マルコムは全く影が薄いのです。ここまで賞賛されたマクダフがマクベスに変身しないと誰に言えますか?魔女がその声の向こう側で笑っているのが(私には)聞こえます・・・。
マクベスに関しては、非常に細やかな表現のピエロ・カップッチッリ(1976年アバド盤)、第四幕で静かに静かに泣いている知的なシェリル・ミルンズ(1976年ムーティ盤)、そして息の詰まるような緊張感を持ったレオ・ヌッチ(1986年シャイー盤)が私の三大マクベスです。夫人に関しては、やはりマリア・カラス(1952年サバト盤)、そしてシャーリー・ヴァーレット(アバド盤とシャイー盤)で決まりでしょう。どちらも決して美しくなく不吉に響きわたる声を持った、理想的な「歌わない」マクベス夫人です。