GO HOME HOME     GO INDEX 作品別インデックスへ

Leafヴェルディ 「ナブッコ」 (2002年1月9日〜2002年2月7日の日記より)


行け、我が想いよ

 40日40夜降り続いた雨が上がり、その後150日もの間ドンブラコしていた方舟がやっとこさ乾いた土地にたどり着いた時、人間はノアの一家8人だけでした。それがどういう訳かやたらと増えてしまい、メソポタミアの地に定住、どうせならでっかい箱モノを拵えたいという古代のゼネコン連中が建設したのがかの「バベルの塔」と旧約聖書にあります。バベルとはバビ・リム、神々の門という意味です。その名の通り天まで届けと建設されたこの塔は、「図に乗るんでねぇ!」と神様に一喝されて崩れ去ってしまいましたが、この地はこれ以降バビロンと呼ばれることになります。
 最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、そこにやってきたのが野蛮な遊牧民のアッカド人、その次はさらに野蛮なアモル人(かの「目には目を、歯には歯を」のハムラビ大王が6代目です)、その次がこれまた勇猛な騎馬民族のアッシリア人、この目まぐるしい状況の中、すっかり荒廃してしまったバビロンを再建したのがセム族最後の王ネブカドネザル2世(在位紀元前604年から紀元前562年)、つまりナブッコです。

 ネブカドネザルは、皇太子時代から毎年のようにシリアやパレスチナ方面に遠征を重ねて勢力を伸ばしました。荒れ果てたバビロンを数多くの美しい神殿で飾り、緑豊かなメディアからお輿入れした王妃アミティスが砂漠の景色を寂しがるや、世界七不思議の一つに数えられる「空中庭園」まで拵えました。しかし、軍事作戦も公共事業もやたらとお金がかかる。手っ取り早い赤字解消の方法は略奪です。というわけで、あちこちから金品を奪って回る遠征の過程で目をつけたのが南ユダ王国。総黄金造りで床は水晶で葺いてあるという眉唾もんのきらびやかなソロモンの神殿があった都市、こりゃいいとあっさり侵略、財宝と一緒に少しでも役に立ちそうなユダヤ人をまとめて連行してしまったのが「バビロンの捕囚」です。
 ある日、王宮を散歩していた王、この都は全部俺が拵えた、我ながらいー仕事したもんだと自慢。これを聞いた神様はゴーマンがお気に召さなかったようで、「お前の王国はお前を離れた。汝は人の世を離れ、野の獣と共にあれ。牛のように草を食い、7つの時(7年間)を経ていと高き者(神様)がこれを人に与えたことを知ろう」とのお声、正気を失った王は7年後我に返って天をあがめた、ダニエル書にこうあります。7年云々はともかくとして、神様がキレるくらいですから、傲慢な自信家であったことは間違いないでしょう。奥方に宙に浮く緑溢れる庭園をプレゼントしちゃうあたり、豪快な反面、ロマンチストの一面も伺えます。

 じゃ、この「ナブッコ」の原作は旧約聖書か?というと、これが全然関係ないんですね。旧約聖書にはナブッコの二人の娘(アビガイッレとフェネーナ)なんて全然登場しません。だいたい農耕民族と違って騎馬民族というのは男社会です。女帝なんてあり得ない。第一、ネブカドネザルにはちゃんと息子(エビル・メロダク)がおりました(オペラでは影も形もありませんが)。このオペラの元ネタはバレエなんですね。コルテージのバレエ「ナブコドノゾル」には娘二人、二枚目のイズマエーレ、抹香臭いザッカリーアがちゃんと登場します。バレエですから女性が出てこないことには様になりません。

 後年にはその抜群の歴史感覚で次々と大作を放つヴェルディですが、この「ナブッコ」は原作そのものがフィクションのせいか、ドラマ展開にかなり無理があり、歴史物としては少々弱いと言わなくてはなりません。この作品の面白いところは、古代オリエントの歴史物としては出来損ないなのですが、ヴェルディの時代のイタリアを語る歴史物としては超一級であるという点です。
 オーストリアの支配下にあったイタリアで、「ナブッコ」は熱狂的に迎えられました。勿論オーストリア警察はちゃんと検閲を行っていたのですが、文学と違って音楽の検閲は難しいものです。事態に気づいた時には既に手遅れ、囚われのユダヤ人たちの望郷の歌「行け、我が想いよ、金色の翼にのって」は、苦しい独立への戦いを続けていた初演当時も、第二次世界大戦の後の廃墟でも、イタリアの第二の国歌として歌い継がれてきました。
 「我が想いよ、金色の翼に乗って行け 飛んで行って故郷の地のそよ風が暖かく柔らかく匂う斜面や丘に憩え」・・・、ヴェルディの時代、外国の支配下のイタリア人はバビロンに囚われたユダヤ人に自分たちを重ねたのでしょう。「ナブッコ」でヴェルディの名はイタリア中に知れ渡ります。その後の「仮面舞踏会」の初演では、観客は総立ちで「ヴェルディ、Verdi!」と絶叫しました。VERDIは即ち「Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ)」、国王万歳と叫べばオーストリア警察に逮捕されますが、オペラに感動して作曲家の名前を連呼するぶんには取り締まりようがありません。ヴェルディご本人がどうであれ、彼の名はイタリア人にとって祖国の誇り、民族のシンボルとして、その精神に刻まれることになります。ヴェルディ自身が「時代の子」として歴史で一つの役割を果たすことになったという意味で、この「ナブッコ」は現代から見れば立派な歴史ドラマの側面を持っています。

 ところで、童謡の「ドナ、ドナ」をご存じですか?小学校の時、音楽の時間に聴いた、歌ったって方は多いと思います。「ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ 子牛を乗せて ドナ、ドナ、ドナ、ドーナ 荷馬車が揺れる」・・・悲しい旋律には、無力感というか諦観というか、行き場のない悲しみと絶望が溢れています。荷馬車に乗せられた子牛は売られていって、そして二度と帰ってきません。どこかで子牛じゃなくてお肉になってしまう。私は世界史の授業でバビロン捕囚を習った時に、なぜかこの「ドナ、ドナ」を連想してしまい、我ながら何と幼稚な連想であろうかと思った覚えがあります。
 実はこの童謡には重たい歴史があるのです。この歌詞の元になったのはイツァーク・カツェネルソンというワルシャワのユダヤ人学校で先生をしていたユダヤ人作家の「仔牛」という詩であるという説があるのです。カツェネルソンは妻と二人の息子と共に1942年にアウシュビッツの強制収容所へ送られ、1944年にそこで死んでいます。彼が連行される時にその印象を綴った詩であるというものです。この詩にはこう書かれています、「哀れな仔牛を人は縛ることができる そして連れてゆき屠殺することが 翼をもつものなら空高く飛んでゆく そして誰の奴隷にもなりはしない」(細見和之・「アドルノ 非同一性の哲学」(講談社))。
 囚われ、縛られ、為すすべもなく異国で死んでいく・・・翼があれば空を飛んでどこへでも行けるのに・・・「ナブッコ」と「ドナ、ドナ」はつながっています。


 戦いに敗れ遠い地で苦悩に喘ぐ民族、権力の頂点で理性に見放され狂う王、愛に満たされない苦痛を野望で満たそうとする孤独な女、民族の狭間で引き裂かれる恋人たち・・・、登場人物は全員、不幸で、利己的で、残酷で、そして弱い。弱いからこそ絶叫する、弱いからこそ牙を剥いて傷つけ合う。ヴェルディはその剥き出しの感情に、これも剥き出しの旋律を与えることによって、苦しむ人間だけが持つ「崇高なる醜悪さ」を描き出しています。
 翼がないから、飛べないから、どこへも行けないから、ここではないどこかの美しい幻にしがみついて、せめて我が想いだけでも大空に飛ばしつつ、地を這いずり回って血を流す・・・。強くて弱い、優しくて酷い、賢くて愚か、理性では語ることのできない人間の矛盾をそのまま五線譜に叩きつけたかのような「ナブッコ」は、ヴェルディがオペラに新しい地平を開いたことを告げる雄叫びです。


第一部 決して退かない人たち

 序曲からして、力が入っています。伝統的なスタイルの割にはあちこち荒っぽいというか、力みすぎというか、そのアンバランスが変に若々しく響きます。コロコロと雰囲気が変わる辺り、少々書き込みすぎの感もありますが。

 幕が上がれば舞台はエルサレムのソロモンの神殿。ヘブライ人、レビ人(人種が違うわけではありません。仕事が違うだけ、レビ人はユダヤ人の祭司担当部族のこと)がナブッコ率いるバビロニア軍の侵略を嘆きます(「祭祀の聖具が壊れて墜ちるといい」)。祭祀長ザッカリーアが人質であるナブッコの次女フェネーナを連れて登場、「エジプトの海辺で」神はモーゼに命を授けた(出エジプト記の有名な紅海が割れるシーンのこと)、神が救って下さると説きます。そこへユダヤ王の甥であるイズマエーレが息を切らせて登場、ナブッコが迫っている!この知らせにザッカリーアは「陽の光の前の夜のように」偽りのベル神は消え去ると、バビロニアの神を罵ります。
 イズマエーレとフェネーナは二人になると「愛しい人!」と呼び合います。この二人、かつてバビロニアに囚われたイズマエーレをフェネーナが救った時から、民族を信仰を超えて愛し合っているのです。イズマエーレはフェネーナを逃がそうとしますが、そこに現れたのは兵士を率いた勇ましい女、ナブッコの長女、フェネーナの姉アビガイッレです。これもイズマエーレを愛するアビガイッレは「雄々しい武人よ、愛という武器しかご存知ないのか」と彼をせせら笑い、「復讐の稲妻が落ちる」と妹を脅かします。
 「私はあなたを愛していました」とイズマエーレに迫るアビガイッレ、「私を愛してくれればイスラエルの民は助かるのよ」と迫る姉、「命を委ねても心は委ねられない」と突っぱねる男、愛する男の信ずるユダヤの神に祈る妹、若々しい三重唱です。
 「彼を見た?」「血塗られた剣を振りかざし」「もうお終いだ」、次々と登場しては口々に恐怖を語るヘブライ人たち、その嘆きの頂点で力任せの行進曲に乗ってバビロニア王ナブッコ登場。異教徒に神殿を汚されたことに怒り狂うザッカリーアが人質フェネーナに剣を突き付けます。「私の怒りを恐れよ!」「敗者よ、額を地につけよ!」、ナブッコにはひるむ気配すらありません。イズマエーレがザッカリーアの剣を払いのけます。神殿を焼き払えと命ずるナブッコ、愛が満たされなくても憎悪は満たされると嫉妬に燃えるアビガイッレ、不幸な恋を嘆くイズマエーレとフェネーナ、イズマエーレの裏切りを罵るザッカリーア、早いテンポに乗せて、憎悪と憎悪が、愛と愛が激突します。

 この幕を聴いてつくづく思うことは、後に退かない、退けない人たちってのは大変だなぁってことです。双方がちょこっと譲歩すれば済むものを、なぜここまで自己主張にこだわるのか、しんどい人たちだと感じます。
 この幕では二つの対立が露わになります。一つはナブッコ対ザッカリーア、これは剣と信仰の対立です。もう一つは片思いのアビガイッレ対フェネーナとイズマエーレのアツアツカップル、満たされない愛と満ち足りた愛の対立です。

 古代イスラエルで誕生したユダヤ教は、後にキリスト教とイスラム教という二つの世界宗教を生みました。しかし、当のユダヤ教は世界宗教には発展しませんでした。その理由はただ一つ、その閉鎖性にあります。例えば、私はキリスト教徒にもイスラム教徒にもなれます、仏教徒にもヒンズー教徒にもなれます。でもユダヤ教徒にはなれません。ユダヤ人から生まれた人間でない限りユダヤ教徒にはなれないのです。この閉鎖性の原因はユダヤ教の特異な成り立ちにあります。

 人間が神というものを発明した過程を想像します。なぜ人は死ぬのか、なぜ嵐が来るのか、なぜ大地は揺れるのか、なぜ太陽は毎日昇るのか、なぜ星は軌跡を描くのか、それらの疑問に対する答えを古代の人たちは持っていませんでした。彼らは自然に倣って色々な神を創造しました。古代宗教にとっての神とは自然を擬人化したものでした。ところが、砂漠の真ん中で突然変異のように異様な神が生まれます。それがエホバです。エホバは何かを擬人化したものではありません。「在って在る者」、唯一存在し、永遠に存在し、不変ですが、なぜか意志を持っています。純粋に「理屈の上だけ」の神なのです。この神は絶対的な存在ですから、当然に絶対服従を要求します。これが「契約」です。ユダヤ教の閉鎖性はこの契約という性格の故です。契約当事者以外には何の関係もないのです。契約をしっかりと守っている限りユダヤ人には唯一絶対の神がついています。当然、彼らは契約の相手方である神以外の権威は決して認めません(彼らの指導者は預言者、つまり神様からお言葉を預かっている者に過ぎません)。それを認めることは契約違反になるからです。何しろこの神様、契約違反には皆殺しというペナルティを科す恐ろしいお方です。
 対するナブッコ、彼は理屈ではなくて現実の暴君です。彼も当然に服従を求めます。彼も皆殺しという最終兵器を持っています。これをちらつかせればたいていの人間はひれ伏します。ところが戦争では大負けしたくせしてザッカリーアたちは彼の権威を認めません。理屈だけの存在である神を信じ、現実の存在であるナブッコを否定するユダヤ人たち、これを組み伏すことができないようでは、暴君の看板が泣くというものです。彼は信仰に対して力で迫ります。
 そしてどちらも全く後に退きません。戦争に負けてしまったんだから大人しく言うこときけばいいのに、ザッカリーアは抵抗します。何しろナブッコよりも神様の方がうんと怖いのです。戦争に勝ってお宝を手に入れたんだから何を拝んでいようが放っておけばいいのに、ナブッコは服従を求めます。何しろ得体の知れない神よりも自分の方が偉くないとイヤなのです。

 イズマエーレに片思いのアビガイッレと信仰を超えて愛し合うフェネーナとイズマエーレの対立。片思いばかりは致し方ない。解消方法は二つしかありません。諦めるか、奪うかです。奪うには一つの方法しかありません。フェネーナよりも魅力的な存在になることです。アビガイッレはとびっきり魅力的な提言をします、「私を愛してくれるならあなたの民を救うこともできる」・・・民族の存続が条件です。これ以上に魅力的な求愛があるでしょうか?彼がこの勇ましい巴御前かララ・クロフトかって女戦士の愛に応えれば、民族丸ごと助かってしまうのです。ところがイズマエーレはこれを拒絶します。この男には政治も闘争も理解できない、心地よい愛以外の価値が分からないのです。アビガイッレはここで「この男、私には向いていない、だって全然バカじゃん」と気付くべきでした。しかしアビガイッレは愛を復讐にすり替えます。彼女は退くことができなかったのです。なぜなら彼女には愛以上に力が大切であり、力が愛に通じないという目の前の事態を認めることができなかったからです。この事態を認めることはアビガイッレにとって自己否定に他なりません。ナブッコ譲りの傲慢さと強さを持つ彼女にとって、自己否定は到底受け入れることができないのです。

 神を前に退かない王と王を前に退かない祭司長、愛を前に退かない姉と力を前に退かない恋人たち、誰一人自分の信ずる価値観を曲げようとはしないこのきつい睨み合いは、さらにきつい展開を迎えます。力と力という同じもの同士が激突してしまうのです。


第二部 似た者同士

 バビロンのナブッコの王宮、アビガイッレは秘密の文書を発見してしまいます。長女である彼女の母親は実は奴隷、王位継承権は妹フェネーナにある!「宿命の文書よ、お前を見つけてよかった!」、父上は私を騙していた、そして今、フェネーナとイズマエーレを私に見張れと、何て仕打ちなの、正気じゃない。王位から疎外され、恋から疎外され、孤独なアビガイッレにとって友達と言えるものは復讐と怨念のおっかない二人連れだけ。ハイCからガタガタと2オクターブ一気に下がる旋律、アビガイッレの怒りが爆発します。「かつては喜びに心を開いた」こともあったのに、私の思い出は全て偽物・・・、アイデンティティを失った女の深い喪失感と悲しみ。
 そこにバビロンの神ベルを守る大司教が登場します。次期の王位が約束されているフェネーナはユダヤ教に傾いている、このままではベル神は、そして自分はどうなる?大司教はアビガイッレにクーデターをそそのかします。そのためにナブッコが倒れたとの噂も流し、人民を煽り立て、準備は万全。ナブッコとフェネーナに復讐を誓うアビガイッレにとって、これは願ってもない提案、「私は黄金の王位の血に汚れた座に就く」、王の娘よ、奴隷に哀願するがいい、賤しい女奴隷に。

 宮殿の広間では、囚われのザッカリーアがエホバに祈りを捧げます。「神よ、あなたは預言者の口を稲妻で打たれた」、私に語って下さい、あなたを侮辱した異教徒に奇跡をお見せ下さい。レビ人たちがイズマエーレを責めます。呪われた者には同胞はいないと慈悲を求めるイズマエーレを冷たく拒絶、追い詰められた彼は死を願うのみ。
 ザッカリーアがフェネーナを伴って登場、イズマエーレが救ったのは我らの同胞と告げます。フェネーナは愛する男のためにユダヤ教に改宗したのです。
 場面が一気に加速します。ナブッコの死とアビガイッレのクーデターの知らせ、フェネーナは後継者として行動を起こそうとしますが既に手遅れ、大司教を伴ってアビガイッレが登場、女二人で王冠の奪い合いが始まります。その王冠を手にしたのはナブッコ本人。アビガイッレよ、わが頭上から王冠を奪え!娘はクーデターを起こす、大司教は自分を裏切る、ユダヤ人たちは頑固に服従を拒む、暴君の怒りは頂点に達します。「避けられない怒りの時が近づく」「さぁ、私の言うことをきけ!」、ナブッコは怒りに任せて、ベル神もエホバ神も蹴飛ばします。神はただ一人、それは私だ!
 神を畏れよ!と警告するザッカリーア、私はヘブライ人と共に死にますと父を否定するフェネーナ、まだ逆らうのか?私は神だ!とナブッコが叫んだその時、彼の頭上に稲妻が光ります。打ち倒されたナブッコは理性を失ってしまいます。
 私から王の笏を奪うのは誰だ?恐ろしい亡霊が追ってくる・・・娘よ、父を助けてはくれないのか・・・天は奢れる者を罰し給うとザッカリーア、王冠を手に誇らしげにナブッコを見下ろすアビガイッレ、力を失った暴君は今やただの老人に過ぎません。

 この幕でこの作品は歴史物としては破綻してしまいます。母が奴隷だったと知って嘆くアビガイッレですが、彼女がナブッコの娘であることには変わりはありません。父系社会では母親なんて誰だっていい、父が誰であるかだけが問題なのです。奴隷の生んだ子だからといって何の差別もありません。
 アビガイッレは聡明で強い女性です。兵士を率いて戦場を駆けることだってやってのける女性です。対するフェネーナは政治を理解することができません。愛するイズマエーレのためにユダヤ教に改宗してしまいます。一人の女としては当然の選択でしょうが、バビロニアの王女としてはとんでもない背信行為です。どう見てもアビガイッレの方がナブッコの後継者に相応しい。では、なぜナブッコはアビガイッレを押しのけてフェネーナを後継者に選んだのか?母が奴隷という理屈は通用しません。
 アビガイッレはナブッコの娘なのです、彼が期待する以上に・・・。彼女は王位が自分に回ってこないと知った瞬間から戦士に変貌します。ナブッコに取り入ろう等とは夢にも思わない、欲しいものは力で奪うことに何のためらいもありません。そして祭司長の提案するクーデター、「民はアッシリアの地を救うためにあなたが女王になることを求めている」、ナブッコの死の噂が流れた時、民衆はフェネーナではなくアビガイッレを求めました。彼女は王として民衆から受け入れられる存在なのです。強く、賢く、勇ましく、民を熱狂させる存在、ナブッコとアビガイッレは似た者同士なのです。ナブッコが長女を排除したのは出生の故という理屈を借りた近親憎悪です。

 愛する女のために民族を裏切ったイズマエーレと愛する男のために信仰を捨てたフェネーナ、この二人も似た者同士です。自分たちの愛以外の価値が分からない。ユダ王国の王族の一員でありながら、バビロニアの次の国王になるべき王女でありながら、政治的思考ができない。愛する人と二人きりで幸せに、なんて王族には最初から許されないのです。彼らの愛はまず第一に民族に捧げられるべきであって、個人の恋愛なんて夢のまた夢に過ぎません。権力は常に代償を求めるものなのです。お互いに死を突きつけられてもなお愛を守る、これは美しいように見えて実に残酷で利己的な行為です。それをこの二人は自覚すらしていない。民族の存亡と引き替えにできるような愛なんて、さっさと引っ込めるべきなのに。

 近親憎悪の対象である長女と政治的センス皆無の次女が王冠を奪い合う、これではナブッコは到底納得できません。彼は王冠を自ら戴き、宣言します。神はいない、私が神だ!その瞬間、エホバは彼に稲妻を浴びせ理性を奪います。しかし、エホバは契約の神です。ナブッコは契約当事者ではありませんから、エホバが彼に怒るのは筋違いです。異教徒なんてどうなろうと知ったことかというのがエホバの基本方針なのですから。
 ナブッコを打ちのめしたもの、それは彼自身の孤独です。権力の頂点にありながら誰からも理解されない孤独です。長女は自分そっくりで権力に夢中で油断も隙もない、次女は愛する男のために民族のシンボルである信仰さえあっさり捨てるという出来損ない、この家庭崩壊を目の当たりに突きつけられてナブッコは初めて自分の孤独を悟ります。俺は独りぼっちだ・・・、独裁者にとって一番恐ろしいもの、それが孤独です。一人きりでは独裁者ではいられないからです。この孤独感がナブッコから理性を奪います。

 アビガイッレのクーデターにベル神を奉る大司教が一枚加わることで、民族対立に加えて宗教対立が織り込まれますが、どちらも不発に終わってしまいます。「私が神だ!」、このナブッコの叫びは出口の見えない宗教対立への真っ当な怒りでもあります。そうもゴチャゴチャ揉めるんなら、そんな神などいらん!俺が神だ!って感じ。しかし、この一言に彼にとっては異教の神であるエホバが怒った、そして彼にとって祖国の神であるベル神は沈黙・・・整合性がありません。作品中唯一愛を語るフェネーナとイズマエーレが、お互いに大した苦悩も見せずにあっさりと民族を捨ててしまうことで、緊張感が失われています。この幕でヴェルディが唯一その力を発揮するのは、父に疎外されたと怒るアビガイッレと、どいつもこいつも逆らいやがってとキレるナブッコのシーンだけです。
 ヴェルディは若い。彼は怒りと苛立ちしか音にすることができなかったのです。彼が権力の恐ろしさを描ききるには「アイーダ」まで、父性の切なさとエゴを描ききるには「リゴレット」まで、独裁者の孤独を描ききるには「ドン・カルロ」まで待つしかありません。



第三部 王冠の魔力

 アビガイッレが王座につき、人々が新しい女王を讃えています。そこに登場したのは大司教、フェネーナの裏切りを告発し、ヘブライ人たちの処刑を求めます。骨を折ってクーデターのお膳立てをし、女王にしてやったのだから、お支払の方をお願い致しますということでしょう。妹の裏切りなどとっくに知っているアビガイッレですが、「何を望むのです?」と空とぼけて見せます。この辺り、高度な政治的駆け引きが感じられます。

 ボロをまとった老人がヨタヨタと現れます。変わり果てたナブッコです。まったく、閉じこめておけと言ったのに、連れてお行き!老臣アブダッロが錯乱したナブッコを優しく労ります。ナブッコは自分が王であることを思い出したかのように、どうして俺を支えている?弱っているのは知っている、しかし、それを知られては大変だ、元気だと思わせないと・・・、決して弱みを見せてはならない、一度でも付け入る隙を見せたらそれは破滅を招く、力で全てを支配する独裁者の厳しい現実、ナブッコは理性を失っても本能は失っていません。
 王座はどこだ?誰が座っている?何という厚かましさ!王座にアビガイッレを見て驚くナブッコ。人払いをしたアビガイッレとの対決の時、「女よ、お前は誰だ?」、ナブッコの記憶は途切れ途切れ、そこにアビガイッレがつけ込みます。王はご病気です、民衆はヘブライ人の反逆に怒っております、悪人には死を与えるようにと、この判決文にご署名を。何のことやら分からずぼんやりしているナブッコにさらに畳みかけます。反対なさると?ヘブライ人よ、栄光の賛歌を歌うがいい!臆病なナブッコなどナブッコではない!臆病、恐れられることで支配してきた暴君にとって一番我慢のならない言葉です。デタラメを!全員死刑だ!ナブッコは判決文に王の印を押します。私は勝ったわ・・・、娘は・・・?フェネーナは?ナブッコは判決文がフェネーナの死を意味することをようやく悟ります。この奴隷女め!奴隷女?私が?ナブッコが秘密の文書を探しますが、それはとうにアビガイッレの手の内です。目の前で破かれて散っていくアビガイッレの秘密、ナブッコは切り札を失いました。

 トランペットが響きます。あれは何だ?処刑の合図よ、あなたが印を押したでしょう?裏切られた!登場した護衛がナブッコを取り押さえます。許してくれ、娘を返してくれ、女王よ・・・泣き崩れるナブッコをアビガイッレがはねつけます、私に和解を乞うても無駄よ!許してくれ・・・、これが王なの?私を辱めた王なの?必死で哀願するナブッコとそれを冷たく見下ろすアビガイッレ、そこには親子の関係は既にありません。あるのは新旧の権力者の冷たい現実だけ。

 鎖に繋がれたヘブライ人たちが故郷を思って歌います、「想いよ、金色の翼に乗って飛んで行け、ヨルダンの岸辺に、シオンの塔に、失われたかくも美しい祖国よ」・・・、単純な旋律が徐々に音量を積み重ね、厚みを増していきます。技巧も工夫もなし、ストレートな表現、切ない情感、あまりに自然であまりに美しい、奇跡のような合唱です。因みにイタリアの歌劇場では、これをアンコールしないと先に進めないそうです。
 ザッカリーアが神の声を告げます、恥辱の鎖は断ち切られる!ユダの獅子は怒っている!

 この幕では権力の持つ恐ろしい魔力を感じます。王座に座り、民衆の賛辞に酔いしれるアビガイッレ、彼女は(母が違うとはいえ)妹の死を命じます。生まれが違うというだけで、政治も戦争も分からないくせに次の権力の座を約束されていたフェネーナ、愛するイズマエーレの心を独り占めしているフェネーナ、恋のために民族を捨てたフェネーナ、そうもあの男が良いのなら一緒にあの世に行くがよい、愛に傷ついた心を復讐が甘く癒していく快感。それと同時に、彼女はなんともあっさりと愛する男の死を命じます。王冠に比べれば、権力に比べれば、男なんてどうでもよくなってしまう。

 権力を得たアビガイッレにとって愛が不要品になってしまったように、権力を失ったナブッコには今や愛が必需品になってしまいます。娘を返してくれ!第一部でザッカリーアがフェネーナに剣を突きつけた時、たじろぐ素振りもみせず「王にひれ伏せ!」と周囲を圧倒した王、あのナブッコが自分の娘に涙ながらで必死にすがります。ナブッコは権力に生きた男です。彼は権力の持つ魅力と恐ろしさを知り尽くしています。ザッカリーアを突き動かしたのは、唯一絶対の存在であるエホバへの信仰と、民族を救わねばならないリーダーとしての義務感です。アビガイッレを今動かしているもの、それが権力です。ナブッコには神は分からなくても権力は分かる、一度権力の座に着いた者は、その魔力から逃れられない、その地位を守るためには何だってする、妹を殺す、愛する男も殺す、それくらい何でもない、たとえ理性を失ってはいても、それが彼には分かっているのです。今、ナブッコがひれ伏して懇願しているもの、それはアビガイッレの姿を借りたナブッコ自身なのです。娘の命のために涙を流す無力な父、理性を失って初めて、彼は父親の愛に目覚めます。父の愛とは次の権力の座を約束してやることではない、その命を守ってやること、そのためには自己を捨てることなのだと。
 娘を返してくれ、娘を奪わないでくれ・・・、この言葉はフェネーナを通してアビガイッレにも向けられます。復讐のために妹を殺し、権力のために父から娘を奪ってはならない、それをすればお前は私になってしまう、私を見よ、権力に生きる者はいずれ権力によって追われる、この父を見よ・・・、剥き出しの旋律には不器用な父の哀しみが透けて見えます。

 そして、イタリア第二の国歌「行け、我が想いよ」、愛国心だのイデオロギーなどは抜き、頭ではなく心に染み込む旋律、暴力によって奪われた自由、陵辱された祖国を美しい思い出と哀しい情念で包み込む優しさ、ヴェルディは音楽の持つ力を解き放ちます。

 「泣いているのは誰だ?」、ザッカリーアがヘブライ人たちに未来を語ります。悩める同胞よ、立て!泣いているのは誰?ヘブライ人たちだけではありません。ナブッコも泣いています、フェネーナもイズマエーレも泣いています。しかし、誰よりも苦い涙を心のうちで流しているのはアビガイッレのような気がします。
 泣いているのは誰?望郷の涙、恋するが故の涙、打ちのめされた父の涙、そして愛から見放された孤独な女の決して流れることのない涙、その涙は拭われるのでしょうか?


破壊の後に

 幽閉されている薄暗い王宮の片隅で、かつての暴君は目を覚まします。夢か・・・?恐ろしい夢・・・?いいえ、夢ではありません。外から聞こえる合唱は、彼の娘フェネーナの処刑が近いことを告げます。娘の名前が・・・フェネーナは泣いている、ナブッコは何とか外に出ようと次々と扉へ走りますが、全て固く閉ざされています。「ユダヤの神よ」、お許しを、祭壇も神殿も立ち直るだろう、私の苦しみを取り除き給え、永遠にあなたを讃えます!老臣アブダッロが兵士を引き連れて登場します。王よ、いずこへ?辱められるために外へ?私はもう狂ってはいない、剣を!ナブッコは理性を取り戻します。「勇敢な兵よ、私に続け!」、アッシリアの王が帰ったのだ、王冠が再び輝くのだ!凛々しく復活を宣言したナブッコは兵士を引き連れてフェネーナの救出に向かいます。

 ベル神の祭壇の前、葬送行進曲が陰鬱に響く中、ザッカリーアはフェネーナを励まします。棕櫚の枝をとりなさい、生け贄の勝利のために・・・。「天国は開かれました」、覚悟を決めたフェネーナはエホバ神に祈ります。処刑が始まろうかというまさにその時、人々の歓声を受けてナブッコが登場します。「不敬な者たちよ、止めよ!」、あの忌まわしい偶像を破壊せよ!ベル神の像は粉々に砕け散ります。
 奇跡を讃える人々の声の中、ナブッコがヘブライ人たちに語りかけます、祖国へ、イスラエルへ帰れ、新しい神殿を建てよ、この神だけが偉大、この神だけが強大。アビガイッレは神の力によって狂気に陥り毒を仰いでしまいました。一同がエホバ神の偉大さを讃えます。「偉大なエホバ!」、あなたの前で塵でない者がいるでしょうか、あなたの声を聞かない者がいるでしょうか。

 瀕死のアビガイッレが現れます。哀れな娘の姿にナブッコは私は誰を見ている?と戸惑いぎみ。「死んでいく」、どうか許して下さい、アビガイッレが懇願します。フェネーナ、イズマエーレ、愛し合っているのね、父上、彼らの希望を託します、私の罪を取り除いてくれるのは誰?私を呪わないで・・・。犯した罪の大きさと呪いに怯えるアビガイッレに優しいフルートの音色が許しを与えます。崩れ落ちるアビガイッレ、ザッカリーアがナブッコを王の中の王と讃えます。

 台本の粗雑さが気になります。理性を取り戻したナブッコがなぜエホバ神を信じるようになったのかが不明です。ここが弱いからそこから先がどうにも白々しい。アビガイッレの自殺(じゃなくて、これは神による他殺か・・・)が幕の外で起こってしまいますから、ここもどうにも納得がいかない。

 旧約聖書の世界、それは一言で言うと絶対者である神と屁理屈で言い訳するユダヤ人の絶え間ない揉め事の世界です。まず、『ノアの方舟』です。増えすぎた人間が勝手なことを始めたのに腹を立てたエホバは、自分のいうことをヘーコラ聞くノアの一家以外の人間を抹殺してしまいます。出来損ないを作ったのはエホバなのですが、この神には製造物責任なんて通用しません。次が、この作品の舞台ともなっている『バベルの塔』、「民は一つで、皆同じ言葉である。彼らは既にこのことをし始めた」、人々は散り散りとなり、ばらばらの言語を喋るようになってしまいます。おかげで「BABEL」たら「NOVA」たらいう企業が今も存在します。次に背徳の都『ソドムとゴモラ』を破壊し、『出エジプト記』では、紅海を二つに分けてまで救ってやったユダヤ人たちが金の牛を拝みだしたのに腹を立て、仲間同士で殺し合わせ一日で死者3000人という大殺戮・・・、要するに旧約の世界とは、ユダヤ人困る→エホバ助ける→ユダヤ人じきに図に乗る→エホバ怒る→ユダヤ人再び困る・・・この果てしない繰り返しなのです。契約を交わした者同士、甲と乙との契約条項を巡っての論争、これが全てなのです。これに絡むその他の契約外の人間は、単なる「ユダヤ人イジメ役」でしかありません。当然、ナブッコも然りです。このナブッコを主役に据えてしまったのですから、台本が破綻するのは当然でしょう。受難と救済という設定がエホバとユダヤ人にしか関係がない以上、それと関係ないナブッコ家の家庭内悲劇を一緒に盛り込むのは、土台無理ってもんです。かといって家庭内悲劇がなければ、この作品はオペラではなくオラトリオになってしまいます。素材選びからして問題があったように思いますね。

 民族の対立を描くのであれば、ナブッコは改心してはならないはずです。彼はバビロニア(アッシリア)を背負っており、征服した民族の神なんぞに決して屈してはならないはずです。宗教の対立を描くのであれば、ベル神は沈黙してはならないはずです。ザッカリーアと大司教の対決シーンが絶対に必要です。権力と愛の対立を描くのであれば、イズマエーレは後悔してはならず、フェネーナは改宗してはならないはずです。彼らは熱い愛の二重唱を歌って喜々として死ぬべきです。イズマエーレを巡るアビガイッレとフェネーナの対立を描くのであれば、アビガイッレはイズマエーレを死刑にすることはできないはずです。愛するけど愛されない女と愛されるけど愛せない男の対立、これがどうしたって必要です。ナブッコとアビガイッレの王位を巡る対立を描くのであれば、ナブッコは理性を失ってはならないはずです。片方が正気じゃない権力闘争なんて意味をなしません。

 ヴェルディお得意の対立が全て中途半端に終わってしまいます。対立するものの軸が複数交錯し、どれもが不完全なのです。では、この作品は失敗作なのか?

 ヴェルディはどん底状態でした。「王国の一日」がブーイングの嵐の中、初日=楽日という有様、大都会ミラノでの苦闘の日々の中で、彼は妻と子を続けて失ってしまいます。もういっそオペラなんて止めて故郷に帰ろうか・・・、こんな時にスカラ座支配人から無理矢理押しつけられた「ナブッコ」の台本、その中の一節が偶然彼の目に触れます。この偶然がなければ「ナブッコ」は、いえ、イタリアの誇る大作曲家ヴェルディは存在することはなかったと思います。
 「我が想いよ、金色の翼に乗って飛んで行け」、このフレーズから全てが始まりました。苦悩する民族を力強く励ます言葉は、そのままヴェルディを励ます言葉となりました。そう、想いを飛ばそう、現実の苦痛、現実の孤独、そこから始めよう、芳しい自由が、安らぎの故郷が、ここにはないからといって、それを想う心を誰に奪える?それを奪えるのは自分だけ、俺は誰に負けても自分には負けない。だから、想いだけは飛ばせよう、大切な想いだからこそ、眩しく輝く金色の翼に乗せて飛ばせよう・・・。

 ヴェルディの想いはこの合唱と共に飛びました。いかにも彼らしいゴツゴツとした手触りの旋律には、優美さはなくとも力があります。若いヴェルディはその力を制御することができなかったようですが、制御する必要もありません。溢れる情感がほとばしり、善も悪も、愛も憎悪も、信仰も背信も、信頼も裏切りも、全てを押し流していきます。

 ベル神の偶像が砕け散った廃墟で暴君ナブッコが「王の中の王」として立った時、失意と絶望の廃墟の中から私たちの知っているあのヴェルディが立ち上がります。


ヴェルディの世界はここから始まる

 台本の展開のまずさ、いささか古めかしい形式、「ナブッコ」の欠点はいくらでも上げられます。しかし、この欠点がなければ、イタリア・オペラの雄ヴェルディは存在しなかったと思います。台本が歴史ドラマとして優れたものであったなら、ヴェルディの荒削りな旋律はそれにそぐわない「野暮」な音と言われたことでしょう。形式がヴェルディの熱を帯びた旋律に相応しく破天荒なものであったなら、この作品は生まれるのが早過ぎたと評価されたでしょう。穴だらけの台本といい加減な歴史考証、そして失意のどん底にあった若きヴェルディの抑えようにも抑えられない情熱、これが不思議な化学反応を起こした結果、この「ナブッコ」があります。言ってみれば「偉大なる失敗作」、「試験管が破裂しちゃった実験作品」、そして「起こるべくして起こった爆発」なのです。

 この作品はヴェルディの掌のようです。様々な線が交わり、そして離れ、彼の作曲家としての未来を全て読みとることができます。タイトル・ロールのナブッコは、前半は傲慢ですぐにブチ切れる暴君であり、後半は嘆き悲しむ父です。この二つの性格の転換点となるべききっかけが、エホバの怒り、走る稲妻、突然の錯乱というおよそ理解し難い超常現象であり、強引にエホバに帰依するという物語の展開は間違いなく欠点ですが、ナブッコの性格付けとその表現は見事にリアルです。暴君としての彼は、後のルーナ伯爵(「トロヴァトーレ」)に、フィリッポ2世(「ドン・カルロ」)に引き継がれます。嘆く父としての彼は、リゴレットに、シモン・ボッカネグラに引き継がれます。
 アビガイッレの怒りと復讐、これもいささか見当違いの方向に走ってしまっております。その野望は、エホバによって死を与えられるという外部的要因から破綻してしまいます。意志の塊のようなアビガイッレにしてみれば、納得のいく破滅ではありませんが、極端に触れる感情の爆発には有無を言わせぬ強さがあります。野心家としての彼女は、後のマクベス夫人(「マクベス」)に、エボリ公女(「ドン・カルロ」)に引き継がれます。愛に満たされない孤独な女としての彼女は、後のアムネリス(「アイーダ」)に引き継がれます。

 この異様な二人を前にすっかり霞んでしまったようでお気の毒なのは、フェネーナとイズマエーレですが、彼らはアイーダとラダメス(「アイーダ」)として力強く蘇ります。フェネーナを自分の意志で愛と死を選択する女として捉えれば、ヴィオレッタ(「ラ・トラヴィアータ」)が透けて見えます。イズマエーレを許されない恋に苦しみはしても決して後悔はしない男として捉えれば、グスターヴォ(「仮面舞踏会」)が透けて見えます。
 終始一貫して神様頼みのザッカリーア、神様の教えの方が民族の存亡よりも大切という辺り、抽象的な祈りの言葉だけで民族を率いるには無理がありますが、彼を不屈の意志で自らの価値観を守り抜く男として捉えれば、アモナスロ(「アイーダ」)が、ジェルモン(「ラ・トラヴィアータ」)が透けて見えます。影で暗躍するもののその動機が自己保身のせいか、あまりパッとしない大司教ですが、彼を高度な策略家として捉えれば、パオロ(「シモン・ボッカネグラ」)あるいはイヤーゴ(「オテッロ」)が透けて見えます。
 若きヴェルディの掌には彼の未来がしっかりと描かれているのです。

 この作品は非常に演奏が難しい作品だと思います。剥き出しの感情をそのまま力任せに演奏すれば、いささか下品に流れます。距離を置いて説得力を持たせれば、肝心の情熱が冷めてしまいます。こんな状況を想像してみて下さい。目の前に骨付きのチキン、あるいは殻付きのエビといった食べるのがとっても難しい料理が出されたとします。きちんとナイフとフォークをマナー通りに使って食べたのでは、神経が舌ではなく手の方にいってしまって美味しくありません。かといって手づかみで頬張れば美味しいでしょうが、見た目があれま・・・になってしまいます。これをお料理は美味しく、見た目も美しくクリアするにはどうすれば良いか?これができるのは「本当にお育ちが良くて姿も美しい人が手づかみで食べる」場合です。完璧なマナーを叩き込まれた人間が敢えて手で食べるからこそ絵になるのです。
 ナブッコには、広い音域と滑らかな声が要求されます。そうでないと怒れる暴君、失意の権力者、悲しみの父という複雑で、しかも背景が不明瞭という厄介な表現がこなせません。加えて高い演技力が必要です。アビガイッレは決して叫んではなりません。絶叫したのでは、恋する男と父という二人の男への愛を手ひどく裏切られ、その痛みを決して人には見せないままに復讐を誓うという、彼女の本当の辛さが伝わりません。アビガイッレの場合、叫んでいるのはあくまで心であって、表面は力強い野心家なのです。求められるのは鉄の強さを持った、しかし、決して絶叫しない声です。そして、オーケストラ、これは情熱という名の奔馬にしっかりと手綱をつけ、なおかつ、その奔放さを妨げないという綱渡り的表現が求められます。

 私のお薦めは、1977年のムーティ盤、あくまでも正確に刻まれるリズム、しかし決してゴチゴチではなく、所々にムーティ特有の色彩の豊かさが溢れています。ムーティの再度のトライは1986年のスカラ座の録音、ブルゾンのナブッコは特に後半が素晴らしい。ディミトローヴァのアビガイッレも迫力十分。そして、1982年のシノーポリ盤、光と影を強調した演奏からは、ヴェルディ若書きの熱っぽさがそのまま伝わってきます。カップッチッリの美声には聞き惚れてしまいます。こちらもアビガイッレはディミトローヴァ、高音部分は斧のような強さと切れ味。そして、マリア・カラスのアビガイッレは1949年のグイ盤、若きカラスの超人的な力と技巧、これが本格デビュー間もないソプラノ?と耳を疑います。但し、カラスの声以外は期待しない方が・・・。1979年のパリ・オペラ座の映像はサンティ盤、ミルンズのナブッコは滑らかな表現と体育会的熱演、バンブリーのアビガイッレは色っぽく仕上がった分、怖さに欠けますが、その分、ザッカリーアのライモンディがなぜか不気味、神様がオツムに降りちゃった男って雰囲気が良く出ています。


GO HOME HOME     GO INDEX 作品別インデックスへ