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Leafベッリーニ 「ノルマ」 (2000年10月12日〜2000年11月9日の日記より)


触らぬ神に祟りなし

世の中には怒らせてはいけない女というのがおります。どうしてかというと、それは簡単、おっかないからです。一途に愛する女、愛に対して生真面目で他の男には目もくれない女、そしてその愛のために大きな犠牲を払った女・・・この手の女は怒らせてはいけません。一旦怒るとコントロールが利かなくなります。自分の払った自己犠牲に匹敵する、いえ、それ以上の「他者犠牲」を求めます。自分も周囲も焼き尽くし、後には廃墟しか残りません。ベッリーニの「ノルマ」がそんな女です。

 紀元前1世紀あたりのガリア(元々は、ライン川、アルプス、地中海、ピレネー山脈、大西洋に囲まれた広範なケルト文化地域を指しますが、この時代にはだいぶ縮小され、現在のフランスのブルターニュと海を挟んで現在のイギリスのコーンウォール、ウェールズの一部とアイルランドだけになっていました)を舞台とするこのオペラはベッリーニの最高傑作、男と女の愛の最後の形を描き出しています。
 第一幕、ケルトの戦いの神イルミンスルの宿るオークの木、ローマ帝国の圧政に苦しむケルトの人々が集っています。ドルイドの教主オロヴェーゾは、月の出と共に巫女の長ノルマ(オロヴェーゾの娘でもある)の神託を聞くことを告げます。彼らと入れ替わりにローマ帝国の地方総督ポリオーネが登場。彼はノルマと密かに愛し合い二人の子供までもうけましたが、今ではその心を巫女のアダルジーザに移しています(他にも女はいくらでもいるだろうに、何だって巫女にばっかり惚れるんだろ、この男)。新しい恋に心をときめかせつつも、彼はノルマの復讐を恐れています。恐れる人間というのは得てして不必要に過激になるもの、ドルイドの祭壇を壊してアダルジーザを奪う、ポリオーネの決意は恋する男としてはともかく、地方総督としては全くの零点、植民地統治のイロハも分かっていません(何でこんなんが総督になったのか?)。

 銀色に輝く月と共にノルマ登場。冷たくなってしまった恋人と祖国の板挟みに苦しむ彼女は、血気に逸る人々を諫め、時期尚早との神の意志を告げます。ローマに神の怒りをと祈る人々の声にポリオーネの心を取り戻したいというノルマの悲しい祈りが重なります。儀式が終わり一人残ったアダルジーザにポリオーネが迫ります、ローマに帰還することになった、一緒に行こう。子供までいるノルマを残して若いアダルジーザとローマへ凱旋する・・・何という自己チュー!。ま、一途な恋心と良い方に解釈して上げましょうか。
 ノルマはポリオーネを失ったことを悟り、嘆きます。そこにアダルジーザ登場、恋と信仰の板挟みの苦しみを訴えます。ノルマはそんな彼女に自分を重ねます(相手が同じ男なんですから当然)。愛を守って幸せにおなり・・・優しく慰めるノルマですが、その相手がポリオーネと知って愕然とします。ポリオーネはアダルジーザを連れ去ろうとしますが、ノルマのことを知ってしまったアダルジーザは彼を拒絶します。
 第二幕、いっそ子供達を殺そうとまで思い詰めたノルマですが、それもできません。アダルジーザが現れると、ノルマは我が子を彼女に託します。この子たちをローマへ連れていって・・・私は死ぬわ。いいえ、ノルマ、きっとポリオーネをあなたの元へ、アダルジーザはノルマのために恋を捨てます。

 ケルトの戦士達はもはや一触即発状態、オロヴェーゾが必死に押し止めていますが、民衆蜂起というのは火山と同じ、一度噴火したら誰にも止められません。事態はにわかに緊迫します。ポリオーネを取り戻すという微かなノルマの期待はあっさり裏切られます。ポリオーネはアダルジーザの懇願を退けたのです。それどころか聖なる神殿からアダルジーザを連れ出そうとして捕らえられる始末(何でこんな浅はかなバカ男がもてるのか、謎です)。あの裏切り者!私を裏切り、子供達を裏切り、そして神殿を汚した!ノルマは渾身の力で鐘を鳴らし、手ぐすね引いていたケルトの戦士達に向かって戦いを宣言します。皆殺しだ!ローマの鷲を大地に叩きつけろ!戦勝祈願の生け贄としてポリオーネが連れてこられます。殺せと開き直る彼にノルマが迫ります。アダルジーザを諦めなさい、そうすれば命を助けるわ。ポリオーネが突っぱねます。ならば二人とも殺してやる!

 群衆の前でノルマが叫びます。火刑台を!裏切り者がいる!・・・それは私・・・。巫女の長のあまりの言葉に群衆は息を飲みます。ノルマよ、死ぬ気なのか?ポリオーネはやっとノルマの愛に目覚めます。あなたは私を裏切った、でも私はあなたを裏切らない、地の底まで一緒よ。子供達をオロヴェーゾに託し、ノルマとポリオーネは炎の中に消えていきます。

 ひたすら愛した男を若い女に奪われる、脅すことはできても、殺すことはできても、その心を取り返すことはできない、そんな悲しいノルマ。そして愛に苦しみ、信仰に悩み、でも何一つ救うことのできないアダルジーザ。踏みつけにした女の愛に最後に目覚め、死を持って償うポリオーネ・・・。甘く心地よい愛がやがて苦く胸を灼く毒に変わったとしても、それを乗り越えるのもやはり愛・・・、愛とは何とも厄介なものですね。


ローマ帝国とケルト
 
 ノルマたちケルトの人々の歴史については不明なことが多いのですが(何しろ文字を持っていなかったので「歴史書」がないのです)、彼らのルーツはドナウ川上流の騎馬民族であろうと言われています。紀元前2000年頃から、彼らは鉄器を手にして青銅器しか持っていない周辺を次々と征服し始めます。紀元前5世紀から3世紀になりますと地中海世界に進出、ギリシャやローマを脅かします。特に紀元前385年にはローマの城壁にまで迫り、略奪の限りを尽くします。この時の経験からローマ人は「攻撃は最大の防御」というわけで、拡張主義へ政策を転換、これが結局カエサルのガリア征服に繋がる訳で、皮肉なものです。紀元前52年のアレジアの戦いをもってガリア地方はローマ帝国に完全に組み込まれ(ということは、ポリオーネのボスはカエサルでしょうか?)、ケルト文化圏はアイルランドを残すだけとなってしまいます。

 ローマ帝国とケルト、これくらい対照的な文化も珍しいと思います。思いついた点を列挙してみます。

ローマ ケルト
政 治 王政→共和制→三頭政治→帝政と変化するが、常にローマを中心とする連邦国家であり続けた。 多くの部族が割拠する状態。部族を超える存在として、ドルイド(僧)、フィーリ(語り部)、バルド(吟遊詩人)がいて、一種の神権政治。
建 築 日常生活のための浴場や水道、娯楽のためのコロッセウム、またローマを帝国の核と位置付けるための街道の整備等、現実的な建築に優れる。 多くの巨石建造物を残すが、使途は不明なものが多い。メンヒル(ストーンヘイジに代表される)は儀式のため、ドルメンは墓であったと思われ、信仰と死後の世界のための建築が多い。
宗 教 ギリシャの多神教をそのまま踏襲し、それに加えて多数の神様を創出。神は人間のサポーターでしかなく、その絶対的権威は認めていない。 自然崇拝(特に樹木)を元にした多神教。ドルイドが主宰する儀式と占いで政策を決定した。大地を母とする地母神信仰の傾向が強い。
生死観 非常に現世的、「死んでしまえばそれまでよ」的で生きているうちに楽しもうという享楽的傾向が強い。 霊の不滅と「他界」の存在を確信していた。この他界はキリスト教の天国と地獄とは異なり、人間は自由にこの世と他界を往来できるとされていた。
言 語 ラテン語とギリシャ語を使用し、法律に優れる。特に市民権の定義や税法等は今読んでもよくできていると思う。 ゲール語を使用。文字を持たなかったので全ての記録はフィーリによって暗記され口承された。フィーリは歴史家兼出版社のようなものであり、全ての伝承を記憶するための勉強は数十年にも及んだとか。
軍 事 明確な指揮系統を持つ騎兵と歩兵を組み合わせた機動部隊中心の軍事行動が得意。 優秀な騎兵であり、勇猛でも知られていたが、部族毎の編成なので統一された軍事行動がとれない。
 余りにも異なった文化をもったケルト人たちがよほど珍しかったのか、彼らの文化や伝説を文字にして後世に残したのは彼らの敵であったローマ人やゲルマン人でした。特にカエサルは「ガリア戦記」の中でケルト人たちの勇猛さについて繰り返し触れています。よほど手を焼いたのでしょう。ケルト人は霊の不滅と転生を固く信じていましたから、彼らは死を恐れませんでした。何が手強いって死ぬのが怖くない軍隊くらい手強いものはありません。

 この文化の違いを頭に入れてベッリーニの「ノルマ」を聴くと、また違った楽しみがあります。地母神信仰を根底に持つ人々が巫女の長であるノルマに注ぐ熱い視線、神への畏敬の念を持たないローマ人であるポリオーネの軽率な行動、彼のボスがカエサルだとすれば彼の女好きも納得できます(カエサルはクレオパトラだけじゃなくて、その女性関係は隣のお嬢さんから親友の奥方まで何でもありだったようですから)。そして火刑台へ向かう二人、ノルマが死を恐れないのは当然ですが、ポリオーネの愛は死の恐怖を超えたのでしょうか?
 ローマ帝国はこの後キリスト教社会へ変貌します。面白いことに、ケルト文化の生き残りであるアイルランドではキリスト教は一人の殉教者も出していません。彼らの教えはすんなり受け入れられてしまったのです。地母神信仰や他界の概念があったので、聖母マリアや天国と地獄といった教理に抵抗がなかったのでしょう。ローマとケルトはキリスト教によって融和します。手を取り合って火刑台に向かったノルマとポリオーネの姿は、それを先取りしているかのようにも見えますね。


背負った荷物の重さが違う
 
 愛には重さがあります。そして愛の重量が釣り合わない者同士の恋は結局悲劇で終わります。ストロー級同士、軽い気持ちで一時の恋を楽しもうと両方が思っていれば、別れも「バイバイ、楽しかった」でお終いです。お互いに「あなた無しでは生きられない!」というヘビー級同士の恋でしたら、外部から悲劇の要因が入り込まない限り、いつまでも幸せでしょう。でも、重量の釣り合った愛というもの、これはなかなか見当たらないものでもあります。それぞれが背負っている条件が変化すれば、愛の重量も変化するからです。

 ノルマ、彼女の愛は秘密の愛です。ドルイドの巫女の長である彼女が敵国の総督を愛することは、決して許されません。ノルマの恋の秘密は絶対に守られなければなりません。事実、彼女の恋はその父オロヴェーゾさえ知りませんでした。秘密の恋には大きな問題があります。恋の喜び、苦しみを誰とも分かち合えないということです。ポリオーネとの間に二人の子供までもうけながら、誰からも祝福も慰めも得られないノルマ。そして、巫女でありながらその神を裏切り、誰も知らないその裏切りを自分だけは知っているノルマ。ポリオーネを知ってからの彼女の孤独は想像を絶しています。彼女が自分の恋を話すことができるのは、この世で当の相手であるポリオーネただ一人なのです。当然、ノルマのポリオーネに対する愛は、時間が経てば経つほど重量を増します。そして、その重量がかえってポリオーネを遠ざけてしまいます。しかしどうにもならない。被征服民の巫女の長としての立場と恋する女の立場とは、絶望的に対立しています。民族の怒りに身を任せることも、許されない恋に溺れることもできない女、既に裏切ってしまった神に祈りを捧げ、不名誉な平和よりも輝かしい死を求める民を自分の愛ゆえに抑えつける神の使い、ノルマは全てにおいて最初から矛盾し、破綻しています。

 ノルマをこの苦しみから救うもの、それは破滅、そしてそれがもたらす死以外にありません。その慈悲深い死は彼女の心の奥深く、静かに息をしています。いくら憎んだところで、恨んだところで、忘れることも捨てることもできないポリオーネが、その直情的な行動から死を選び取った時、ノルマは自分の中の死を自覚します。そう、私は死のう、この男、私に愛の喜びと、かわいい子供達と、耐え難い苦痛と、民族の屈辱を与えた男と一緒に死のう。なぜなら、それがドルイドの巫女としての彼女と、ローマ人を愛した彼女という、どうにも整合性のとれないノルマ自身を救う唯一の方法だからです。ポリオーネに対して愛する妻として、オロヴェーゾに対して父を裏切った娘として、アダルジーザに対して恋の勝利者として、そしてケルトの人々に対して戦勝を祈願する生け贄として、死のう。「Casta Diva」、冷たく輝く天空の月、清らかな女神に捧げられるのは、苦しみ抜いた血みどろの女でなければならないのです。

 ポリオーネ、彼はローマの総督、ガリアは彼にとって組み敷かなければならない属地です。そして彼は異邦人です。いずれはローマに帰っていく人間です。そしてノルマとの秘密の恋が知られてしまったとしても彼には失うものはありません。事実、同僚のフラヴィオに対して、ノルマのことも、アダルジーザのこともアッケラカンと語っています。ボスに知れたら勤務評価が少々下がるかも知れませんが、ローマから見れば所詮ノルマは征服された民族の女、そしてローマはドルイド教ではありませんから、巫女の長という地位も何の意味も持ちません。ノルマが、秘密、民族の運命、信仰という大きな荷物を背負っているのに対して、ポリオーネの背中は空っぽ。となれば、新しい恋の方が新鮮で刺激的、そちらに走るのは当然ですね。

 ポリオーネは最後の最後にノルマの愛に目覚めます。なぜなら彼は「命」を求められたからです。ローマ人である彼はおそらく来世を信じていないでしょう、転生も信じていないでしょう。彼にとって命とはたった一つ、たった一度しか生きられないものです。アダルジーザ恋しさに無謀な行動に出て、その結果として彼は自分の命を代償として要求されます。その上アダルジーザの命まで失いかねない結果を招いてしまいます。自分の、そして愛する女の命を背負ったその時、彼の愛とノルマの愛の重さは初めてピタリと釣り合います。そして彼はノルマがたった一人で背負ってきたものを理解します。彼がノルマを愛した男としての命を全うするには、その命を捨てる以外にありません。ポリオーネが恐れていたものはノルマの復讐ではなく、ノルマの愛だったのです。その愛を受け止めた時、彼はその愛の代償として命を差し出します。彼は享楽的で現世を愛するローマ人ではありますが、決して卑怯な男ではありません。

 アダルジーザ、彼女は巫女ではありますが未だ見習い。神に捧げようと誓った自分を現実の男が熱い視線で見つめているとしたら、心が動くのは仕方ありません。何しろ神様の方は見えませんから。でも、彼女はドルイドであり、ケルトです。アダルジーザはガリアの大地に根を下ろした美しい花、ポリオーネはその花を引っこ抜いてローマへ持ち帰ろうとします。一度は承諾したものの、この野の花は不安におののき、ノルマにすがります。そしてノルマの秘密を知った時、アダルジーザは恋する男ではなく、ケルトとしての自分、その自分をガリアの地に繋ぎ止めてくれる導き手としてのノルマを選びます。この花はローマの水では生きられないのです。それに気づいたアダルジーザはノルマのために恋を捨てます。このアダルジーザの拒絶が結果としてポリオーネを死の運命に追いやり、そしてノルマとポリオーネに死をもたらします。「愛を守って幸せにおなり」、悩む自分を優しく力づけてくれたノルマの言葉を、アダルジーザはここでノルマに対してそのまま返すことになります。「愛を守って幸せに」死んでいく二人を見送るのは、ノルマの愛したガリアの地でしか生きられない、眩いローマの栄光の太陽よりも冷たく寂しいケルトの月の光の下で咲く、一輪の美しい野の花です。


「美しい歌」と「蝿男」の関係
 
 この「ノルマ」は「ベルカント・オペラ」の最高傑作と言われています。ベルカント=美しい歌ですが、オペラっつーのは全部そうなんでないの?と、私も思っておりました。ここをクリアするには、「そっか、これがベルカントか」と理解するまでいくつかの作品を聴く必要があります。手抜きは通用しません。

 ベルカント・オペラの作品をその後の作品と聴き比べると、ドラマと歌、どちらにウェートを置くかがはっきりと違っています。ヴェルディの作品の中には、敢えて「美しい歌」を否定し、耳障りな音を使っている箇所が多くありますし、ワグナーが使った聴く者を不安に陥れる不協和音も決して「美しい歌」ではないと思います。何しろドラマが、主張が大切、現実の人生が決してきれい事だけでは済まないということ、愛という結構な感情だって時には人を傷つける凶器にもなるということ、そんなこんなのリアリティをドラマに求める以上、ただ美しいだけでは表現できない場面が必ず登場します。

 ベルカント・オペラの作品は違います。どんな場面でも(争いでも死でも)、歌は美しくなければならないのです。私はベルカント・オペラというとなぜか昔のオリジナル版の「蝿男」を思い出すんですね(我ながらあまりに突飛な発想…)。つまり、この映画に登場する奥様は、旦那が半分ハエになっちゃったというのに、毎日違うドレスをきちんと着て、ヘアスタイルもそれに合わせて一筋の乱れもなく、メイクもばっちりで登場するのです。これを現実の感覚で見れば「旦那がハエになったっちゅうのに、なんて女だ!」となるわけですが、当時のハリウッド映画では、ヒロインはともかくどんな場面でも「美しく」なければならなかった、髪を振り乱したり、ノーメイクで憔悴した表情を見せたりしてはいけなかった、リアリティなんでどうでもよかったのです。ベルカント・オペラはどこかこの感覚に似ていると思います。

 「ノルマ」には登場しませんが、ベルカント・オペラには「狂乱の場」という場面が付き物です。ヒロインのアタマがプッツンしてしまい、あらぬことを口走るという設定で、技巧を凝らした歌唱が堪能できる名場面です。ヒロインの精神が正常ではないという設定ですから、どんなに派手な歌唱でもリアリティを考える必要がありません。作曲家はありったけの技法を盛り込んで美しい旋律をこね上げます。例えば、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の狂乱の場とヴェルディの「マクベス」の夫人が歌う「まだここに染みが」とを聴き比べれば、マクベス夫人の精神錯乱は非常にリアル、とりとめなく不規則に音階を上下する不気味な旋律、これに対してルチアはというと、あくまでも声を聴かせるための狂乱なのであって、延々と続く長丁場は華麗なコロラトゥーラに彩られ、とことん美しい。

 ベルカント・オペラのもう一つの特徴はそれが持つ「型の美しさ」だと思います。アリアはきちんと緩やかなカヴァティーナからドンチャカしたカバレッタへ移行し、カバレッタは二回繰り返される(但し二回目には少々変化をつけて)という具合。この形式を守っていてはリアルなドラマの表現には少々無理がありますが、そこには型を極めた美しさがあります。ヴェルディ以降のオペラはドラマの表現のためには型を崩すことも当然というわけですが、ベッリーニの時代、オペラはその様式美をきっちりと守っていました。ある物語を舞台に乗せるとして、歌舞伎にするか、それとも新劇にするか、という訳です。

 昔の映画を見ると、その古色蒼然とした演技、真ん中にドンと座っていて全く動かないカメラアングル、今では「クサい」としか言いようのない台詞、時間の流れをはっきりと感じます。多くの作品はどこかに消えてしまった訳ですが、今日でもレンタルビデオや深夜の名画劇場で見ることのできる作品は、淘汰をくぐり抜けた強者揃い、生き残っただけのことはある、だから今見ても十分楽しめます。

 映画に比べればはるかにゆっくりとした歩みではあっても、オペラも当然に進化し続けました。ベルカント・オペラはいつの間にか時代遅れになり(ちょうど、「スター・ウォーズ」の登場がSFX時代の幕開けを告げ、それまでのゴワゴワの着ぐるみ、ピアノ線丸見えの特撮を遠くに押しやったように)、醜さに、心地悪さに、美しさと同じ価値を置くオペラの時代が到来して、多くの作品はクローゼットの隅にしまい込まれてしまいました、まるで流行遅れになってしまい、でも捨てられない(何しろ素材が上等で美しいわけですから、簡単には捨てられません)靴のように。それらの作品は新しい感性が現れるのをじっと待っていたのだと思います。そして、それは現れました。マリア・カラスという形をとって…。

 「ノルマ」はマリア・カラスによって生き返りました。型を極めた様式美を決して崩さず、しかし、そこに生の人間の感情を吹き込むことのできる歌い手の登場で、「ノルマ」は復活します(要するにこれが言いたかったんです)。


美しく、あくまでも美しく

 声の様式美を極めたこの作品は、本当に隅から隅まで美しい音で溢れています。まず序曲、たいていは「これから先、こんなのやります」という予告編的なものが多いのですが、ノルマの序曲は堂々たる管弦楽曲、本職のシンフォニー作家と比べれば少々甘い感じは当然にありますが、ピリピリとした緊張感は独立作品としても十分に聴かせてくれます。

 オロヴェーゾとケルトの民の合唱「行け、丘の上に」にはマーチが登場しますが、これがなぜか完全に「ローマ風」、私は最初何も知らずに聴いた時にこれはローマ帝国軍のテーマだと勘違いしたくらい。でもここで物悲しいケルト音楽を使えば、圧政に立ち向かおうとする人々の怒りと闘志が伝わって来ませんから、威風堂々の力強い音が正しいのでしょう。ポリオーネのアリア「彼女と共にヴィーナスの祭壇へ」、ベッリーニは型を極めた美しさを聴かせてくれます。技巧的ではありませんが正面から訴えかける力強いテノールの声には、アダルジーザへの恋とノルマへの恐れ、それ以上に属地であるケルトを見下すローマ帝国のエリートの傲慢さが感じられます。そしてノルマ登場、アリア「清らかな女神」、ソプラノ歌手なら絶対に一度は歌いたいであろう気品に溢れる清澄な旋律です。ローマはやがて内部崩壊すると告げた後のカバレッタ「愛しい人、帰って」では、ローマを呪う合唱に冷たくなった恋人を思うノルマの悲しみが重なり、とびっきりの表現力が要求されます。中途半端に美しく歌われると神々しい巫女の長ノルマと現実の男の愛を求める生身のノルマの矛盾と嘆きが迫ってきません。「徹底的に美しい」ことが必要な場面です。

 そして悩めるアダルジーザとそれを慰めるノルマの二重唱「思い出す、私もそうだった」からポリオーネが加わっての三重唱「不実な人」、女声二人の艶やかな旋律にはいわゆる三角関係は感じられません。二人の女性はお互いをしっかりと受け止めているのです。そしてそれが理解できない(抑圧されたケルトの巫女同士の絆が彼に分かるはずもありません)ポリオーネが加わって音は一転して激しさを増します。冷たく澄んだケルトの水面に石を投げたのは征服者ローマなのです。

 眠っている子供達を殺そうとまで思い詰めたノルマの「愛しい愛しい子供達」、短くてストンと終わる旋律ですが、だからこそ一層ノルマの苦しみが伝わります。本当に思い詰めた人間というのは泣いたり喚いたりはしないもの、淡々とした表現に怖さが滲み出ます。アダルジーザを許し、死を求めるノルマと、ノルマのためにポリオーネを取り返そうとするアダルジーザ、「お願い、子供達を連れていって〜ご覧なさい、ノルマ」、そして「永遠の友」へと続く二重唱。互いに自分の痛みに耐え相手の痛みを思いやる二人、ハーモニーのお手本のように美しく声と旋律が絡み合います。その美しい余韻に不吉に被るのは合唱「まだ立ち去っていないのか」。ケルトの民のローマへの、ポリオーネへの怒りは爆発寸前です。オロヴェーゾの重々しい「テベレの不当な圧政に」、今は従順を装おう、怒りに身を任せる日はやがてやって来る・・・、オロヴェーゾのバスが暗い森に響きわたり、物語は既に悲劇に向かって転がり始めており、もう誰にも止めることはできないことが伝わってきます。私はいつもこの辺りからドキドキしてしまいます。

 ポリオーネはアダルジーザの願いを拒絶し、神殿に押し入ります。女としてのプライトを傷つけられても耐えていたノルマですが、民族の誇りを傷つけられた今、彼女は巫女の長として、踏みつけられた女として、ローマとポリオーネに対して戦いを挑みます。「とうとう私の手に」この男は墜ちた、生も死も私の思うまま。ノルマがケルトを、二人の子供を背負っているように、ここでのポリオーネはローマ帝国の威信とアダルジーザの命を背負っているわけで、迫るノルマと突っぱねるポリオーネの対立はそのまま民族の対立に重なります。ここでのポリオーネは甘くなってほしくない。甘くなると単なる恋人になってしまう、大ローマ帝国のプライドと傲慢さを体現するわけですから、輝かしい声とヒロイックな表現が欲しいところです。ケルトとローマが一対一で対峙したその時、ノルマは「裏切り者は私」と自分を生贄に供します。ノルマの愛は憎しみに勝ったのです。

 しかしノルマの祖国ケルトはポリオーネのローマの前にやがて滅びると、この時点で分かります。なぜならここでケルトは(ノルマは)皆殺しも辞さない戦いの動機を失ってしまい、愛に身を委ねてしまったからです。「あなたが裏切ったこの心」はそれでもあなたを裏切らない・・・。ノルマの愛は捨てられた恨みを、民族の屈辱を超えます。そしてポリオーネがそれに応えます。この二人は死ぬことで愛を守ります。ケルトの巫女とローマの将軍がこの世では結ばれることは最初から不可能だったのです。ぐんぐんと盛り上がる音楽は、炎の中に消えていく二人の愛が民族の対立を超えたことを伝えています。怨念に怨念をぶつけても何も生まれない、怨念を超えるものは唯一、愛…。いかにもキリスト教の精神を先取りした音楽ですが、現実のキリスト教にはもう一つの恐ろしい顔があります。一神教が当然に持っている「迷える子羊」(つまり異教徒)に対する過酷さです。ノルマたちケルトの人々の信仰と伝説に育まれた精霊や妖精たちは、これから十数世紀にも渡って異端と見なされるはめになります。ローマ教会の苛烈な太陽が天空に輝いている間、ケルトの精霊たちは冷たい月の光の下、ひっそりと生き延びます。

 さて、「ノルマ」といえばマリア・カラス。まず1954年セラフィン盤(アダルジーザはスティニャーニ、ポリオーネはフィリッペスキ)、そしてまたセラフィン盤(55年、スティニャーニ、デル・モナコ)、ヴォット盤(55年、シミオナート、デル・モナコ)、またまたセラフィン盤(60年、ルートヴィッヒ、コレッリ)。ヴォット盤のシミオナートは最高にキラキラしています。デル・モナコのコテコテの英雄ぶりも古典的な美しさでベルカント・オペラの真髄って感じ。コレッリもモナコに負けず端正なテノールの「型の美しさ」、この二人は甲乙つけ難いと思います。その他では84年のボニング盤、サザランドのノルマにカバリエのアダルジーザ、このカバリエの澄み切った美声からはガリアの野の花アダルジーザがそのまま伝わってきます。サミュエル・レイミーのオロヴェーゾも不遇の民族を率いるドルイドの苦悩と格調高さが十分、ただパヴァロッティのポリオーネが少し軽い・・・でしょうか?

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