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ワーグナー 「パルジファル」 (2003年11月9日〜2003年12月25日の日記より)
ある司祭の秘密
1885年6月1日、フランスの片田舎レンヌ・ル・シャトーに一人の若き司祭が着任しました。その名をベランジェ・ソニエール。長身の逞しい体躯、精悍な顔立ち、どちらかというと神学校よりも陸軍士官学校の方がお似合いの男。家政婦のマリー・デナルノーと慎ましい暮らしを始めたソニエールですが、人口200人の村では司祭も暇。やがて彼は郷土史の研究に熱中、暇と体力に任せて1059年に建てられたと伝えられる荒れ果てた教会の修復を始めた彼は、柱の空洞の中に新約聖書の一文がラテン語で書かれた4枚の羊皮紙を発見します。ソニエールはその中の一枚を選び、秘められた暗号を解き明かします。「この財宝はシオンに属す」、司祭である彼がこの羊皮紙とシオン修道会を結びつけたのは当然です。
何とか旅費を工面したソニエールは羊皮紙を携えてパリに向かいます。パリ滞在中のソニエールは何度かルーブル美術館を見学しています。ニコラ・プッサンの「アルカディアの牧童」の前で足を止めたことがあったかどうか。実は別の羊皮紙には複雑な暗号でこう書かれていたのです、「・・・プッサンとテニエ(フランドルの画家)が鍵を持つ・・・」。
パリから帰ったソニエールの生活は一変します。年俸900フランの彼がこの時から死ぬまでに使った金額は優に百万フランを超えます。村の3分の1を買い占めて水道を引き、多くの美術品を集め、あまりの金の出入りに銀行のなかったこの村に銀行員が派遣される有様。極めつけはゴテゴテと飾られた教会と山々を見晴らす奇っ怪な「マグダラの塔」。
度を超した金遣いの荒さに上司の司教がソニエールを問い質しますが、彼は無言。従順は聖職者の第一の徳、司教がバチカンに訴えますが、バチカンはなぜかソニエールに無罪を宣言。
1917年1月17日、ソニエールは脳卒中で倒れます。終油の秘蹟のために病室に入った隣の教区の司祭は真っ青な顔で部屋を飛び出し、1月22日、結局、ソニエールは秘蹟を受けないまま世を去ります。司祭が終油の秘蹟(これをしなかったカトリック信者は自動的に煉獄行きです)を放り出すなんて、病室でいったい何があったのか?
湯水のように金を使ったソニエール、その遺産はいかほど?その出所は?奇妙なことに全財産は家政婦マリーの名義になっていました。マリーは俗人ですから教会も彼女を問いつめることはできません。第二次大戦後、フランス政府は新フランを発行、旧フランを新フランに交換するには、その出所を明らかにする必要がありました。マリーは莫大な財産の出所を明らかにするよりも全てを捨てることを選びました。ソニエールの建てた別荘の庭で旧フラン紙幣の山が何とも贅沢な焚き火となって消えました。1953年、マリーは沈黙を守ったまま世を去ります。
さて、「鍵を持つ」と暗号に書かれたプッサンの絵です。遠くに険しい山がそびえる草地の真ん中に建つ墓石、それを取り囲むニンフと牧童たち、墓石に刻まれた文字は「ET
IN ARCADIA EGO(アルカディアにて、我)」、変な文章です。動詞がありません。想像で描かれたとばかり思われていたこの風景と全く同じ風景が1970年代になって発見されました。墓石の文字は風化してしまい読むことはできませんでしたが、後は全て絵と同じ。しかし、石棺の中は空っぽでした。
ある日、一人の歴史マニアが文字を入れ替えてみました。「I
TEGO ARCANA DEI(立ち去れ、私は神の秘密を隠した)」・・・、石棺の中にあったのは聖杯ではないかと推測する声もあります。
さて、その聖杯です。これはイエスが最後の晩餐で使ったコップとも、十字架上のイエスが流した血をアリマタヤのヨセフ(イエスの隠れ弟子でお金持ちのぼんぼん)が受けたコップとも言われております。このコップはその後ヨセフと共にイングランドに渡りグランストンベリーの地に埋められたという説と、マグダラのマリアがマルセーユに持ち込んだという説があります。
その後1000年の間忘れられていたコップですが、12世紀になってから突然注目を集めます。1000年も前に貧しい大工の息子だった男が使った、おそらくは粗末なものであろうこのコップを巡ってグロテスクな物語が進行していきます。
1118年、プレウリ・ド・シオン団(シオン修道会)の軍事・行政部門としてユーグ・ド・バイヤンが創立した「テンプル騎士団」、9人の騎士が1124年突然エルサレムに現れます。彼らの名目は聖地巡礼ルートの警護だったのですが、たった9人でそんなこともできるはずもなく、そもそもやりませんでした。じゃあ、彼らはエルサレムで何をしていた?神殿の周りでせっせと穴を掘っていたのです。何を探して?
聖地での穴掘り業務とは別に、ヨーロッパではテンプル騎士団は急成長します。1139年にローマ法王インノケンティウス2世の勅令によって、この騎士団は法王以外のどの世俗権にも服さずという特権を得ます。国際的な自治団体となったこの騎士団に折からの十字軍熱に浮かされたヨーロッパ中の貴族の子弟が殺到、その莫大な寄付金に支えられ、彼らは大きな政治勢力となっていきます。金が自分の財布を素通りすることを嫌うのが権力者の常、この頃からシオン団、テンプル騎士団と各国の王、そして「大きくなりすぎた子飼いの犬」を警戒する法王との軋轢が始まります。
1209年、3万の大軍が南フランスに侵入、キリスト教徒が相手という前代未聞の十字軍、アルビジョア十字軍です。カタリ派(アルビジョア派)は異端であると大号令をかけたローマ法王、何がそんなに気に入らなかったかというと、カタリ派は二元論だったんですね。ローマ教会によれば、世界を創造した神は唯一絶対の存在であり、その子イエスを通してこの世に現れた、となるのですが、カタリ派によれば、完全に霊的存在である善の「神」と本質的に悪である物質を創造した「世界の王」が存在し、物質は悪ですから神の子が肉体を持っているわけもなく、当然肉体がないので十字架にもかけられず、つまりイエスは十字架の上では死なず、もし死んだとすれば神の子ではないということになるわけです。
神学論争はさておき、当時のカタリ派の拠点であった南フランスは裕福な土地柄で、それが魅力だったことも事実でしょう。
1244年3月1日、カタリ派の最後の砦であったモンセギュール陥落、昼夜燃え続ける火刑台の煙が空を覆う中、大切な「財宝」を携えた何人かの信徒がテンプル騎士団の手引きによって逃げおおせたと伝えられています。アルビジョア十字軍については中立を保ったテンプル騎士団ですが、元々彼らの多くはカタリ派の家系だったんですね。
自治権を振り回して生意気だし、軍事的には正規軍よりも統制がとれていてムカつくし、おまけに金持ちで俺も金借りちゃっているし・・・、テンプル騎士団を嫌っていたフランス王フィリップ4世にとって異端は絶好の口実となりました。1307年、フランス全土のテンプル騎士団が一網打尽で逮捕され、その財産は没収されます。1314年、最後の総長ジャック・ド・モレーが時の法王クレメンスとフィリップを呪う言葉を叫びつつ火刑台で焼き殺され、テンプル騎士団は表向きは歴史の舞台から退場しました。
と、まあ、歴史は動いていくわけですが、このテンプル騎士団がエルサレムでせっせと掘っていた穴から何が出たのか?法王様はなんだってあれほどカタリ派を目の敵にしたのか?密かに持ち出されたカタリ派の財宝って何?等々、好奇心と欲望がごた混ぜになり、ここから「聖杯伝説」が生まれます。
イエスには墓がありません。死後復活して天に昇ったわけですから墓があるわけない。というわけで墓参りの代わりとしてイエスにまつわる品々は「聖遺物」として崇められます。茨の王冠のトゲ、衣服の切れっ端、十字架の破片、釘・・・眉唾もんであろうが何であろうが、これをありがたがる人間がいる以上、その値打ちは天井知らず。そして、ただのコップは最高ランクの聖遺物「聖杯」となりました。
1000年の間忘れられていたコップは、いつの間にか、死んだ戦士を放り込んでおくと翌朝には蘇るという「再生の大釜」や欲しい食べ物は何でも手に入る「ブランの大皿」といったケルトやウェールズの伝説をまとい、かのインディー・ジョーンズ博士のお父上の命も救うこととなります。
これだけなら「ドラえもんのポケット中世版」なのですが、やがて、イエスは実は死んでいない、マグダラのマリアと結婚して子供を拵えたという説が登場します。「聖杯」とは実はイエスの子を宿したマグダラのマリアの子宮、イエスの血筋の証というわけ。この説の元は「Saint
graal(聖杯)」と「Sang real(聖血)」を間違えた15世紀の書物なのですが、この誤訳からイエスの血筋が脈々と受け継がれているという伝説が生まれてしまいました。
イエスとマリアとそのお子様たちはエルサレムを逃れてフランスに渡り、5世紀、この子孫がフランク族の王と結婚しメロヴィング朝を開いた。イエスの子孫たちは「祭司王」として「君臨すれど統治せず」、ローマ法王もこれを認めていたが、やがてメロヴィング朝はビザンティン帝国、イスラム教徒、スラブ人などに切り刻まれて分裂、これじゃいかんと焦った法王ザカリアスは、実力派の宰相ピピンを後押ししてクーデターを決行、メロヴィング朝は滅びカロリング朝が興った。神の子の子孫を裏切ったと知れればローマ教会は大打撃、その時から現在まで歴代のパパ様はイエスの血筋の証、つまり聖杯の存在を躍起になって隠している・・・という説です。
となると、ソニエールの大盤振る舞いは法王庁の口止め料?それともメロヴィング朝の末裔からの資金援助?
ヒトラーもマジで探していたと言われる聖杯は、ファンタジー本にハリウッドの大作映画に大活躍、聖杯を探し求めるお宝ハンター、暗号と取っ組み合う人、そしてメロヴィング朝再興を企てる人(ホントにいるんです)、古ぼけたコップを巡る伝説は「聖杯産業」として今日まで続いています。
さて、イエスの血を受けたのが聖杯なら、その血を流したのが「聖槍」です。十字架上のイエスが本当に死んだのかどうかを確かめるよう命じられ、イエスの脇腹を槍で突いたのは、ローマの百卒長のロンギヌス、彼は「まこと、この人は神の子なり」と一言発して洗礼を受けました。盲目だった彼がイエスを突いた途端に目が開いたという説がありますが、いくら何でも盲目では兵隊には採用して貰えないでしょう。聖書の外伝では、布教を続けたロンギヌスは盲目の地方総督に逮捕され、「我が首を刎ねよ、さすればお前の目は開こう。我はキリストの弟子なれば嘘は言わぬ!」と大見得を切って処刑されます。その途端に総督の目が見えるようになり、彼もまたキリストに帰依したと伝えられています。
その他大勢扱いの、しかも敵役の百卒長の名前がきちんと記されているのは少々不自然、ラテン語の「longus」(英語の「long」の語源)が意味する「長い槍」がいつしか名前になってしまったものでしょう。因みにこの槍は、厄介なコップと違ってバチカンの聖ピエトロ大聖堂にちゃんと大事に奉ってあります(あー、もう私の眉毛、ツバでベトベトです)。
1857年、パトロンの援助で借金取りから逃れたワーグナーは、妻のミンナと共に「アジール(避難所)」と名付けた小さな家に落ち着きます。あぁ、取り立て屋がドアを叩かないっていーなー、あれっ、今日は聖金曜日、久しぶりにヴォルフラムの聖杯の騎士の詩でも読もうかな、「その高貴な内容が私を圧倒し、今日が聖金曜日だという考えから、たちまち劇全体を構想した」・・・。やがてミンナと別居して再び文無しのワーグナーは、ルートヴィッヒ2世というパトロンとフランツ・リストの娘コジマという信奉者を得ます。ミンナとの生活で芽生えた「パルジファル」の構想がワーグナーの晩年に至って実を結びます。まるで全てを再生させる「聖杯」の力を得たかのように。
参考文献:「レンヌ=ル=シャトーの謎」(マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン著)
「イエスの墓」(リチャード・アンドルーズ、ポール・シェレンバーガー著)
「マグダラとヨハネのミステリー」(リン・ピクネット、クライブ・プリンス著)
第一幕 清らかなる愚者
時はおそらく10世紀、所は聖杯を守る騎士たちの集う聖杯城を囲む深い森。ゆったりと不規則に刻まれる旋律が聴く者をたちまち中世に誘う序曲、やがて弦と木管が溢れ出し、ドレスデン・アーメン(典礼曲)を拝借した聖杯の動機、清澄な神の平和を乱すのは重苦しい短調の苦悩、「世界」は傷つけられ、未だ再生することができません。
老騎士グンネマンツと小姓たちが朝の祈りを捧げます。澄み切った空気を荒々しく引き裂いて登場するのは妙薬を握りしめた謎の女クンドリ、そして輿に乗せられて聖杯王アンフォルタス。傷つき衰えて歩くことすらままならない王にクンドリの妙薬が差し出されます。せめて冷たい湖水を浴びて痛みを和らげようとアンフォンタス一行は湖へ。獣じみたクンドリの姿、小姓たちはその猛々しい視線に不安げ、グンネマンツがことの顛末を語ります。
その昔、聖槍を持ったアンフォンタスを美しい女が誘惑した。思わず聖槍を取り落とした王からそれを奪った者、それがクリングゾール。邪悪な手が聖なる槍で王の脇腹を突いた・・・、その傷は決して癒えぬ。邪悪な者になぜそのようなことができたのです?
先代の聖杯王ティトゥレル王からの因縁だ。救世主のお使いから賜った聖杯と聖槍、至高の宝を守る使命は罪人には与えられぬ。かつてクリングゾールは聖なる騎士に連なろうと試みて己の罪を捨てることができなかった。彼は聖杯に手を伸ばし退けられたのだ。怒った彼は魔術の力で荒野を悦楽の園に変え、聖杯の騎士たちを邪悪の道に誘惑した。アンフォルタスはクリングゾールと戦い、美しき女の誘惑によって傷つけられ、聖槍はクリングゾールの手に落ちたのだ。神は告げられた、聖槍を取り戻すことができる者、それは「同情によりて知を得る清らかな愚者」、汝ら我の選びたる彼を待てと。
周囲がにわかに騒がしくなります。矢に射られた白鳥、そして騎士に襟首を掴まれて一人の少年が登場します。お前が白鳥を射たのか?そうとも、僕は飛んでいる物なら何でも射てみせる。この聖なる森では殺生は赦されぬ。この白鳥がお前に何をしたと?なぜこんな大それた罪を。罪って何?どこから来た?知らない、父は誰だ?知らない、どうやってここまで来た?知らない、名前は?・・・忘れた。
何という馬鹿、何か知っていることはないのか?お母さんならいた、森で一緒に暮らしてた。クンドリが荒々しく割って入ります。そいつの母は夫が死んだあとその父無し子を産んだのさ、そして我が子を守ろうと愚か者に育てた、馬鹿な女さ!
思い出した、僕は美しい馬に乗った美しい男たちを見て、それであんな風になりたいと思ってずっと追いかけて来たんだ・・・。
グンネマンツが少年を諭します、お前の母はお前を心配しているだろう。終わったよ、そいつの母親は死んじまったよ!とクンドリ。お母さんが死んだ?いい加減なこと言うな!クンドリに掴みかかる少年をグンネマンツが抑えます。僕のお母さんが死んだ・・・。
私は疲れた、眠るのは恐ろしい、でも眠らないと・・・、クンドリは森の中に消え、グンネマンツが少年を聖杯城に導きます。お前は清らかだから聖杯の御心に適うだろう、聖杯って何?見れば分かるさ。
場面は聖杯城の大広間に変わります。騎士たちの祈りの声が辺りを満たし、アンフォルタス、そして厨子に納められた聖杯が登場します。我らの贖罪のために主が流された血は我らの中に生きる、葡萄酒を飲め、生命のパンをとれ!
先代ティトゥレル王が息子アンフォルタスに問いかけます、今日、この老人は聖杯を拝んで生きるのか?それとも神に伴われぬまま死ぬのか?あぁ、父上、呪われた身で聖なる勤めを果たせと?この聖杯城でただ一人の罪人の私に祈れと?聖槍で受けた傷から流れ出る罪なる血は絶えることがない。主よ、私を世襲の聖なる勤めから解放し、この傷を閉じ、そして死なせて下さい!
どうか我らのためにお勤めを!騎士たちに懇願されアンフォルタスはどうにか体を起こします。小姓たちが聖杯を取り出します。我が肉をとれ、我が血をとれ、我らの愛のために!聖杯の光に照らされる中、葡萄酒とパンが配られます。パンをとりて肉体の力に変えよ!葡萄酒をとりて熱き血に変えよ!
目の前の光景をぽかんと口を開けて眺めている少年を残して騎士たちは去っていきます。グンネマンツが少年を揺さぶります、お前はたった今自分が何を見たか分からないのか?首を横に振る少年、お前は本物の馬鹿だったか、もうよい、出て行け、お前の道を行け!
えー、禁欲主義の硬派な組織のボスがですね、その昔、一家の掟を破った咎で破門した舎弟が歓楽街に開いた風俗店に殴り込んだら、すっげぇグラマラスな美女がいて、ついフラフラしちゃったところをドスでぐっさり刺されて、大事な代紋を奪われ、おまけに抗生物質の全然効かない淋病を貰ってしまって、どこかの誰かが持っているらしい特効薬を子分どもが探していると・・・ぶっちゃけ(ぶっちゃけ過ぎ?)こんな話ですね。
ヤマンバもどきの荒々しい美女、何を訊いても分かんないの薄ぼんやりした少年、死にたい、死なせろと嘆く王、一人で盛り上がり一人で絶望する老騎士、非常に分かりにくい展開なのですが、それもそのはず、ワーグナーはわざとやっております。彼は聴く者に少年と一緒に口をぽかーんと開けてバカ面するように要求しているのです。
中世の聖杯伝説では、アンフォルタスが傷つけられたのは脇腹ではなくて生殖器です。大事なところを槍で突かれた彼は、自らが破った禁欲の掟をその絶え間ない痛みによって強制されてしまったのです。禁欲願望は本意か不本意か叶ってしまいましたが、それは苦痛を伴う、何とも厄介な状況です。この厄介の原因は何か?
この厄介さの原因はキリスト教の持っている矛盾にあります。ユダヤ教は男の宗教です。苦難の歴史が彼らに叩き込んだのは、強力な父のもとに民族ガッチリと団結して、産めよ増やせよで生き残ろう!女は黙って子供産んでおれ!という思想です。当然に女は生殖に関わらない限り無意味、旧約聖書では女性は「女」「娘」としか記されておりません。
この男の宗教から派生したキリスト教も、当然に男の宗教・・・だったのです。新約聖書には聖母マリアに関する記述はほとんどありません。ところがキリスト教が広まっていったギリシア、ローマ、そしてゲルマンの土着宗教は女の宗教でした。ギリシアではたくさんの女神が亭主を尻に敷いており、ローマ帝国もその多様性と享楽を受け継ぎましたし、ゲルマン民族は「母なるもの」を神聖視していました。この伝播の過程で、キリスト教は女性原理を取り入れざるを得なかった、言ってみれば古代教会のマーケット戦略(マーケティング部長は聖パウロ)だったのです。
男性原理(選別)を掲げつつ、女性原理(受容)で布教する、この強引な戦略がねじれ現象を生んでしまいます。その結果、女は聖母マリア(セックスとは無縁)とマグダラのマリア(元娼婦)の二つのイメージに分裂してしまいました。ユダヤ教にはなかった女性原理を取り入れた結果、ただの「女」でしかなかったマリアが聖処女に祭り上げられ、しかし本来の女性を生殖のための道具とする思想は生き残り、女性のイメージは「聖処女」か「娼婦」の両極端に分裂してしまったのです。勿論、女はどちらにもなれますからどっちでもいいのですが、男から見ればどっちかでなきゃダメ!なんですね。母親と娼婦が同一性を持つというのはキリスト教世界の男には理解不可能なんです。ですから、聖母マリアを選びますと当然の回答をすれば、その結果は自動的に禁欲になってしまいます。
アンフォルタスは妖艶な美女の誘惑に屈してしまいます。残念ながら知性は性欲をコントロールできないというのがホントのところです。だから人は知性ではなくモラルによって性欲を抑制します。しかし、モラルには限界があります。モラルは社会の中での調整機能しか持たないということです。モラルとは右(禁欲)から左(放縦)まで目盛りのついたダイヤルみたいなもので、目盛りの間にあるものは制御できますが、逸脱したものにはお手上げなのです。
アンフォルタスを苦しめるもの、それはモラルという外部の規範ではなく、彼の内部の自己矛盾です。肉体の苦痛から自由になりたければ死ねばよい、しかし、彼の死は聖杯城が瓦礫と化すことを、禁欲が享楽に屈することを、聖杯の騎士たちの誓いが無意味であることを意味し、それは彼自身受け容れることなどできない。アンフォルタスは神聖な義務を果たすべき選ばれた者としての使命(男性原理の選別)と全てから解放されて死に抱かれる安らぎ(女性原理の受容)の狭間でどちらもままならないのです。
クンドリの妙薬は一時痛みを和らげるだけ、父の嘆きも騎士たちの懸命の看病もアンフォルタスを救ってはくれません。逸脱してしまったアンフォルタスの救済はどちらにもないのです。
そもそも、聖杯と聖槍自体がねじれ現象の賜物です。イエスが最後に口にした葡萄酒(命を支えるもの)を湛え、その血を受けた聖杯は女性原理の象徴であり、イエスの身体を傷つけた聖槍は男性原理の象徴です。アーサー王の伝説は、世界の破滅を食い止めるためにこの二つを求める旅の物語、男性原理と女性原理の結合を求めるための彷徨の物語です。
そして、この「パルジファル」では初っぱなから聖杯と聖槍が別居状態、こりゃ家庭、つまり世界の危機です。この危機を救えるのは、「同情によりて知を得る清らかな愚者」。
少年に父はおりません。「そいつの母は夫が死んだあとその父無し子を産んだのさ」、聖霊によって未婚のまま神の子を身ごもったマリア、イエスは「後家の子」と呼ばれておりました。この少年には十字架上のイエスがもたらす救済という意味が託されており、それをグンネマンツとクンドリだけが理解しています。
少年は父を知らず、母と二人、女性原理の中で生きてきました。森は彼を黙って受け容れ、育んでくれました。ある日、美しい馬に乗った美しい騎士を見た彼は、森を切り裂いて進む煌めく甲冑に身を包んだ男たちにその選ばれた者ゆえの美を見いだし、男性原理の存在を知ります。そして、矢も楯もたまらず後を追い母を捨ててしまいます。彼は女性原理と男性原理の真ん中で、未だ世界に触れていない純粋さでもって、傷ついた既存の世界とこれから訪れる未知の世界を危うく繋いでいるのです。
ゼウスがその姿を借りてレダを誘惑したと伝えられる神の化身である白鳥を射ておいて平気、気に入らないことを口走ったクンドリに殴りかかる、衝動的に母の懐から飛び出して振り返ることすらしなかった少年、彼はモラルの目盛りを大きく振り切った存在、ここまでで「清らかな愚者」の条件はクリアです。問題は「同情によりて知を得る」です。聖杯を讃える騎士たちは歌います、「我らの贖罪に捧げられた主の肉体はその死によって我らの中に」、彼らは紙に書かれた罪を知っています。しかし、己の身体に刻み込まれる罪は知りません。彼らの脇腹には傷はないのです。
清らかな者なら大勢いるのに、聖杯城の騎士たちの誰にもアンフォルタスを救えないのはなぜか?その役目が聖杯城の外のよりにもよって愚者に委ねられたのはなぜか?神の啓示の真意がグンネマンツには見えません。「出て行け、お前の道を行け!白鳥にかまうな、ガチョウを探せ!」、白鳥は神に愛される者、変身の象徴ですが、ガチョウは食卓の、日常の象徴です。日常から抜け出して変身を願った少年は、日常に追い返されてしまいます。
しかし、彼の母はもうこの世にありません、故郷の森は遙か彼方です。彼には帰るべき日常がないのです。聖杯城を追い出された少年が目指すところはただ一カ所、母を知っていると言ったあのヤマンバが消えていった森です。
この幕、序曲の圧倒的美しさはもちろんですが、聖杯騎士たちの晩餐の場面の合唱も見事です。男声合唱が低音から始まり、テノール、アルトと舞い上がり、広がり、ワーグナーは音によって大聖堂を建てたと言っていいと思います。
反面、その壮麗さが哀しい。絶え間なく血を流すアンフォルタスが悲痛な面持ちで執り行う儀式を前にして、自分たちの受ける祝福しかアタマにない満ち足りた聖杯の騎士たち、彼らは傷ついた聖杯王を心配はしておりますが、その苦痛を己のものとしようとはしません。騎士たちは清らかではありますが、安全地帯から逸脱するほど愚かではない、そして、彼らの儀式はこの場でただ一人の愚者である少年には分からない・・・。
私が一番好きなのは、すぐにキレる少年を前にして嘆くグンネマンツ、母の死を知って打ちのめされる少年、そしてその少年に水を汲んで与えるクンドリのシーンです。傷ついた世界を憂う老騎士、その世界に知らないうちに引き寄せられた少年、そんな少年を優しく慰める呪われた女。一番たくさん悲しんだ者が一番優しくなれる・・・、少年は知るでしょう、クンドリの悲しみを、アンフォルタスの悲しみを、母の悲しみを、そして、生きる者全ての悲しみを。彼は誰よりも悲しまなければなりません、誰よりも優しくなるために。
第二幕 あの傷!あの嘆き!
所は変わって背徳の騎士クリングゾールの魔法の宮殿。重たく激しい半音階の前奏曲がクリングゾールの心の闇を映し出します。
あの愚か者がやって来る・・・上がってこい!クンドリ!目を覚ませ!安らぎのない泥のような眠りから無理矢理身体を引き剥がすかのようにクンドリ登場。仕事だ、どんな騎士とてお前の前では腑抜けになるが、今度の相手は厄介だぞ、何しろ馬鹿だ。少年を誘惑せよとのクリングゾールの命令に力無く首を振るクンドリ。できない・・・したくない・・・。呪われた女よ、あの騎士たちを滅ぼせば聖杯は我が手に!ほらっ、やって来る、見てみろ、美しい若者だ。城壁に向かって突き進む、警護の者たちをなぎ倒して、早くも城壁の上に。クンドリ、出番だ!おい、そこの若造、お前の純潔を奪えばお前は私のものだ!
美しい女たちが登場します。騒がしいわ、私の恋人を傷つけたのは誰?どこ?あそこに!見つけたわ!ゆったりとした三拍子の合唱に乗って花の乙女たちが少年にまつわりつきます。なぜ、どうして、私たちの恋人を倒したの?
だって、道を塞ぐからさ、私たちに会いたかったの?こんなにきれいな人たちって見たことないよ、私たちの相手をしてくれるの?喜んで!
少年を巡って艶やかに恋のさや当てを繰り広げる乙女たち、良い香り・・・君たちは花なのか?花よ、あなたのために咲く花よ、いらっしゃい、坊や、少年は乙女たちの真ん中で揉みくちゃ。
パルジファル!クンドリの声が響きます。パルジファル・・・お母さんも僕をそう呼んだ・・・。花の乙女たちはフワフワと消えていきます、僕は夢を見ていたのか?
今や妖艶な美女と化したクンドリがゆっくりと登場します。パルジファル、あなたの父がまだ見ぬあなたをそう名付けた、私はたくさんのことを見てきたの、あなたが母にしがみつき、哀しみの母ヘルツェライデも思わず微笑んだ、父と同じ目に遭わせぬために男たちからあなたを隠し、昼も夜も我が子を守った・・・。聞こえなかったの?あなたがいなくなった時、母が上げた叫びを。母は待ち続け、心も体も哀しみに蝕まれ、そして死んだわ・・・。
僕は何という愚か者か、お母さんを殺してしまった!お母さんを忘れてしまった!悲しいでしょ?でも、愛が慰めてくれる・・・。クンドリの唇がパルジファルの唇にゆっくりと押し当てられます。
アンフォルタス!パルジファルが悲痛な叫びを上げます。あの傷、あの嘆き、聞こえる、あの傷から滴る血が僕の中に流れる、あの傷が燃え上がる!いや、傷ではない、この渇き、これが欲望・・・。聖杯を満たした血が輝く、僕は聞いた、救世主の嘆きを、救えとの声を。僕は何と愚かだったことか、主よ、救い給え!
さぁ、私を見て・・・、甘いクンドリの囁き。この声だ、この瞳だ!あらゆる苦しみと一緒に魂の幸福まで吸い取るこの唇だ!去れ、破滅をもたらす女、永遠に去れ!
あなたは私の苦しみを感じないの?永遠に待っているの、私を救う男を。遠い昔、救世主と呼ばれた男がいたわ、私はその哀れな様を笑ってやった!それからずっと私は彼を捜しているの。でもだめなの、どの男も弱い、私の腕の中で罪人に変わるのよ、そして、あの呪わしい笑い声が蘇る。私は笑うけど泣けないの。永遠の狂気に閉じ込められ、目覚めることがないの。だから、あなたの胸で泣かせて、私を救って・・・。
欲望が溢れ出る泉を探っても救いはない、違うんだ、救済は愛すること、共感すること、分かち合うことから生まれるんだ。
あなたの使命は世界を救うこと、ならば私のこの腕であなたを抱かせて、そうすれば私は救われるわ。アンフォルタスはどこだ?あんな無恥な男、自分の槍で滅びればいいのよ!でも、あなたは違う、だから私を抱いて。消え失せろ、穢れた女!
どこにも行かせるもんですか!お前の行く手という行く手を呪ってやる!迷え!迷いがお前の道連れさ!
聖槍を手にクリングゾールが登場します。愚か者、これでも食らえ!クリングゾールが投げた槍は真っ直ぐな軌跡を描いて・・・、パルジファルの頭上でぴたりと停止。ぱっしと聖槍を掴んでパルジファルが叫びます、お終いだ!偽りの花園は荒野に返る!クリングゾールの魔法の宮殿は音を立てて崩壊します。
クンドリ、僕と再び会える場所をお前は知っているはず!聖槍を手に走り去るパルジファル、その後ろ姿を見送るクンドリ。
かつて聖杯の騎士を志し拒絶されたクリングゾール、「彼がどんな罪を犯したか知らぬが、彼は贖罪し、神聖になろうとさえした。しかし、自らの罪を滅ぼす力はなく涜神者になり果てた」、クリングゾールが第一幕でグンネマンツが語る通りの人物であるのなら、自ら快楽の園を支配し、聖杯騎士たちを次々と毒牙にかけて復讐を遂げるクリングゾールの登場を描く前奏曲がなぜこれほど神経症的で力強さがないのか?ぴくぴく痙攣する弦と投げ遣りな管、そこに垣間見えるのは「絶望」ではなく「虚無」です。
仕事を命ずるクリングゾールに対してクンドリが投げつける言葉、「ははっ、あんた童貞なの?」、己の罪、つまり欲望を滅ぼせなかった男がなんで童貞なのか?クリングゾールは不能なのです。彼にはそもそも聖杯騎士として仲間と分かち合うべき欲望も葛藤もなかったのです。当然、彼は性に関しては純潔ですから、自分こそ聖杯王に相応しいと思ったでしょう。しかし、聖杯は彼を退けた。もしもクリングゾールが不能である己を哀しんだなら聖杯は彼に微笑んだと思います。しかし、クリングゾールは哀しみから目を逸らせたまま、共鳴できない苦悩を装うことで選別されようとしてしまったのです。
花の乙女たちに取り囲まれたパルジファルですが、彼の心を鷲掴みにしたのは「パルジファル、止まりなさい」とのクンドリの声、いきなりの命令形、手が込んでいます。マザコン男を籠絡するには母親になるのが一番、アンフォルタスさえ落としたクンドリの凄腕が窺えます。母ヘルツェライデの悲しみを切々と歌うクンドリ、母にした仕打ちに後悔の念に焼かれて思わずクンドリにすがるパルジファル、「苦痛を知らなかったあなたには慰めも無意味だったけど、今のあなたには慰めが必要なのよ」、クンドリの唇がねっとりと絡みついた瞬間、パルジファルは叫びます、アンフォルタス!
変貌の瞬間です。半音階で上昇、下降を繰り返すオーケストラと支離滅裂の叫び声、「あの傷、あの傷、あの傷が僕の脇腹で燃える!」、「ここに、ここに、違う!それは傷じゃない」、「愛の苦しみに身体が震え戦き、痙攣する」・・・。
愚者パルジファルをクリングゾールの虚無の触手から救い、奇跡の変容に導いたもの、それは官能の疼き、それもただの官能ではない、母として語りかけた女の官能なのです。少年は一瞬にして大人になります、そして知ってしまいます、母性の「受容」の哀しさ、父性の「選別」の哀しさ、その両方がなければ生まれることのできない人間の哀しさを。
パルジファルが全く無知な少年であったことからすれば、この変貌は奇跡です。彼には道徳も規範もありませんでした。ですから、パルジファルには「クリングゾールの虚無に共鳴する」こともあり得たはずなのです。
人が皆、賢者であれば、理性が全てをリードしてくれるはずです。他人の苦しみを自分も苦しむ必要はない、ただ手を差し伸べれば十分なはずです。なぜなら、他者を救うという義務を果たす喜びを知っていれば、共に苦しむことは必要としないのが「理性」だからです。
しかし、残念ながら賢者などいないのです。人が全て愚者であるとすれば、共鳴は「自己愛」を「他者への愛」に変貌させる奇跡の鍵となります。
自ら誘惑し傷つけたアンフォルタスに妙薬を届け、男性の機能を持たないクリングゾールを蔑みつつも離れられないクンドリ、彼女の矛盾だらけの行動はクリングゾールの魔法のせいではありません。それは彼女が持っている「傷ついた人は誰だって助けたい」(女性原理)が「正と邪を峻別する世界」(男性原理)に居場所を求めようとするゆえの矛盾なのです。
一瞬にして変貌を遂げたパルジファルにクンドリは呪われた自己の救済を求めます。イエスを笑ったその笑い声が己に跳ね返ってきた、でもあなたにその叡智をもたらしたのは私の恍惚、だから私を救って!パルジファルは答えます、アンフォルタスへの道を教えればお前を救うと。ところがクンドリは激しく拒絶します。あんな男、死ねばよい!
クンドリには己の苦悩は見えますが他者の苦悩が見えない。愚かな「息子」パルジファルをその愚かさゆえに愛しつつ(ブチ切れて自分に掴みかかった罪を自覚しない少年に水を汲んでやった優しさ)、同じく愚かさによって堕落した「夫」(何しろ、一度は一緒に寝た男です)アンフォルタスを排除する自分の矛盾が見えないのです。そして、パルジファルが「母」クンドリと「父」アンフォルタスの痛みを共有することによって変貌を得た今、共鳴による新しい世界が開けようとしているのに、その行く手を塞ごうとします。クンドリは救済を分かち合うことをせず独り占めしたいのです。
「僕と再び会える場所をお前は知っているはず!」、パルジファルはクンドリに再会を約束します。その場所は聖杯城、クンドリを寄せ付けなかった禁欲の騎士たちの集う場所、パルジファルははっきりと自覚しています。僕が聖槍を手にした今、あの城は正邪を分け隔てる城壁を失い、苦しむ者なら誰にでも扉を開ける、扉を開ける鍵はただ一つ、共鳴すること。クンドリ、僕の母、呪われた女、苦しみを共有することができるなら、たとえ魔性の女のお前とて、聖杯に集う騎士となり得る、そして、アンフォルタスが救われた時、全ての人が救われた時、お前も当然に救われるのだと。
第三幕 救いをもたらす者に救いを
モノクロームの輝きを持った前奏曲、舞台は再び聖杯城を臨む森の中。木漏れ日も風の囁きも変わりはありませんが、どこか物悲しさが漂います。呻き声がする、この神聖な朝にいったい何ごとが・・・、グンネマンツ登場、茂みに潜り込んで眠っているクンドリを発見します。目覚めよ、春だ!クンドリはゆっくりを目を覚まします、奉仕を、奉仕を・・・!せっかくだがもう奉仕して貰うこともない、使者たちが旅立つこともないのだ。しかし、クンドリ、お前はどこか幸せそうだな。おや、誰か来る、武器を手にして、聖なる泉に近づく男、道に迷ったか?
無言のまま頭を垂れる謎の騎士、聖なる場所に鎧兜、おまけに槍とは似つかわしくもない、まして今日は聖金曜日、武器を捨てなさい。無言のまま槍を地面に突き立てて兜を脱ぐ騎士、どこかで見たような、あの面影・・・、白鳥を射たあの坊主か?彼だ、あの愚か者だ!そして・・・この槍は・・・!
再びお目にかかれました、迷いと苦しみの道を通って帰ってきました。彼は、あの嘆き悲しむ男はどこに?救済を求めて呪いに道を阻まれ、僕は彷徨いました。そして、この槍を手にやっと帰りました、聖槍がここに!
色々なことがあった・・・、もはやアンフォルタスは聖なる勤めを果たさず死を求めるのみ、聖杯は閉ざされ、騎士たちはその恩恵を失い、そして先王ティトゥレルは亡くなった・・・。
遅すぎた!僕が道を見失ってしまったばっかりに!思わずよろけるパルジファル、グンネマンツがその頭に泉の水を注ぎ、クンドリがその足を洗います。アンフォルタスに会えますか?会えるとも、先王のご葬儀とあれば、聖杯の儀式は欠かせない。さぁ、きれいにして上げよう、罪が消え去るように。グンネマンツはパルジファルの頭に香油を注ぎ、パルジファルはクンドリの煤けた顔を洗ってやります。
今日は草原が一段と美しい、全てが無邪気で親しげで、香しい野の空気を喜ぶパルジファルにグンネマンツが語ります。罪人の涙が野を潤す、救世主の恵みを野の草花も知っている、神が人を憐れみ給うように、人も草花を憐れむ、今日こそ、全てのものが救われる・・・。クンドリ、泣いているの?ご覧、野原は微笑んでいるよ、パルジファルは優しくその額に口づけをします。
聖杯城から鐘の音が響きます。ティトゥレルの葬儀の時間です。
先王の棺を囲んで騎士たち、そして聖杯に続いてアンフォルタスが登場します。なぜ先王は亡くなった?聖杯を仰げなくなったから。なぜ聖杯は隠れた?罪ある守護者ゆえ。騎士たちはアンフォルタスに聖なる勤めを求めます。
父上!今や神の御許におられる父上、どうか神に祈って下さい、私にも死を下さるように、死こそが唯一の慈悲・・・。だめだ、できない、私に生きよと強いるのか?この傷を見よ、さぁ、剣で突け、罪人を殺せ、そうすれば聖杯は再び輝く!
パルジファルが静かに王に寄り添います。その傷を癒すのはこの槍、あなたの悩みは祝福される、この臆病な愚か者が同情を知った今、この手に聖槍がある今、奇跡が生まれる!パルジファルが聖槍をアンフォルタスの傷口に当てると、醜い傷は呆気なく消えていきます。
聖杯よ、出でよ!覆いを取り除かれた聖杯にパルジファルが静かに祈りを捧げます。辺りは暖かい光で満たされていきます。奇跡よ・・・救いをもたらす者に救いを!
眩しく光り輝く聖杯、その光を貫いて一羽の白い鳩がパルジファルの頭上に舞い降ります。騎士たちの祈りの声が層をなす中、その凛々しい姿を見上げつつ、クンドリはそっと息絶えます。
新しい聖杯王が誕生したのです。
グンネマンツさえ見違えたほど面変わりしたパルジファル、かつての愚かで無垢で美しかった少年の顔には何が刻まれていたのでしょう。美しさの代償にパルジファルが手に入れたもの、それは、ティトゥレルの死を聞いた彼が上げる悲痛な叫び「僕のせいだ!」に凝縮されています。一気に上昇する旋律の熱は、第二幕の「この傷!」の痛みが再び彼を襲ったことを暗示し、白鳥を射ておいて知らぬ顔だった少年が、一人の人間の死を我が身をもって共感する男に成長したことを告げます。
再び卒倒する姿に、一瞬、何じゃ、またクンドリがねちょーっとキスして誘惑する場面か?と心配になりますが、今や苦難の刻まれたやつれ果てた顔の「かつての美少年」に対して、クンドリはひたすら奉仕を求めるのみ。彼の足を洗い、自らの髪の毛で拭うその姿には、「ルカの福音書」に描かれた罪の女の改心の情景が重ねられています。
しかし、宗教画のような場面に反して音楽が妙に色っぽいところがミソ。唇を重ねる行為と足を洗い髪の毛で拭う行為と、どっちかっていうと後者の方がよりエロティックな感じがします。
誰だか分かって貰えなかったパルジファル、彼のアイデンティティは失われています。自己を確定し決定することは即ち非自己を否定することに繋がります。事実、第二幕での彼は熱い唇を押しつけるクンドリを突き放しています。彼は性の快感を否定し、結局、その否定は「否定する自我」を明示してしまったわけで、それは自我の肯定に他なりません。だからこそ、クンドリはパルジファルの行く手を呪ったのです。
パルジファルとクンドリのもつれ合ったままの長い彷徨、それは舞台の向こう側、想像するしかないのですが、無知の揺りかごに育まれ、しかし、成長し自我に目覚めてしまったパルジファルと、救済を求め、しかし、救済から排除されているクンドリの道行きの結末の澄み切った美しさ。
無言のまま、相手の身体に触れ、祝福を与える二人、この幕、やたら饒舌なグンネマンツやアンフォルタスに比して、パルジファルとクンドリは言葉少ないのですが、彼らの間には言葉は既に不要なのです。彼らは面変わりするほどの辛い彷徨の果てにたどり着いたのです、与えることと与えられることは実は同じである、救うことと救われることも実は同じである、そこには我と他を隔てる自我はなく、触れあう指先の伝える温もりだけが存在するのです。
場面転換の旋律の重苦しさ、自分たちの生命の源である聖杯の力を失い、硬直している騎士たちの真ん中で死に焦がれるアンフォルタス、色彩も揺らめきもない静止した「廃墟」に新たな聖杯王として乗り込むパルジファル、冷たい鉛色に静まりかえった水面に落ちた一滴の暖かい涙、その小さな波紋が静かに、やがて力強く水面を覆い尽くします。「願いをかなえる武器はただ一つ!」、聖槍に選ばれた男が手にした武器は、命を奪うのではなく命を与えるものに変貌し、鳩の姿を借りた聖霊が舞い降ります。
自我に目覚めたにも関わらず敢えて自我を捨てた「愚か者」には、自己と他者の境界線は既にありません。寛容が共存への扉を開く、パルジファルはその扉の鍵を手に入れたのです。「同情によりて知を得る愚か者」、パルジファルは自我を捨てた愚か者であることを選択したが故に、知を得た。その知は、「官能は精神によって克服されるべき」がモットーの聖杯騎士たちには決して得られなかった知、クンドリとの追いかけっこによってもたらされた知、即ち共感なのです。パルジファルはクンドリに洗礼を与え、クンドリはパルジファルに聖別を与える、お互いに与え与えられる二人の何と美しいことか。
舞台の上でどれほど禁欲の「意志」が賛美されようが、枯山水のような旋律には、「意志」を放棄した果ての至福が濃密に漂っております。このアンバランスがこの作品の魅力、この微妙なぶれが、禁欲と性愛の狭間で、選別と受容の狭間で生きていく、それ以外に生きていく方法を知らない、聖杯の騎士ならぬただの人間であるワーグナーの晩年、パルジファルとクンドリの両方に深い愛情を湛えた旋律を与えた作曲家の老いた自画像です。
しかし、この作品、聴けば聴くほど奇妙なざらつきが残るのです。かつて「トリスタンとイゾルデ」で性愛の極限の中で自我を失い一つに溶け合う男女が全てを焼き尽くす「愛の荒野」を描いたワーグナーも、寄る年波で大人しくなったもんだ、今じゃ禁欲と友愛こそが世界を救う・・・だもんなぁ、と、単純には終わらないのです。なぜなら、呪われた誘惑者でありながら永遠の母であり、新たなる聖杯王パルジファルに洗礼を受けながら、だんまり決め込んだまんま死んでしまうクンドリに象徴されるように、全ての人物の矛盾がそのまま堂々と放置されているからです。
「救いをもたらす者に救いを」、奇妙な言葉で舞台は幕を下ろします。アンフォルタスを、聖杯城を救ったパルジファルでさえ救いを求めているのか?聖杯は彷徨っています、今も・・・。
彷徨える聖杯
ワーグナーにひらめきを与えたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルツィヴァール」に触れます。
アンジューの王ガハムレト(妖精の血を引く超イケメン)とヴァーレイスの女王ヘルツェロイデ(先妻からガハムレトを奪った気の強い女)の間に生まれたパルツィヴァール、夫を失った母は息子を無菌状態で純粋培養、おかげで何も知らずに育ったパルツィヴァール、母様から「神は光り輝き人と同じ顔をしている」と聞いていたおかげで、ピカピカの甲冑を着込んだ騎士を神と思い込み後を追って家出。母様から「立派なご婦人が指輪と挨拶を下さるなら受け取りなさい」と聞いていたおかげで、高貴なご婦人に襲いかかり指輪を奪取、立派なお尋ね者となります(幼児期の躾を間違えると怖いです)。あちこちフラフラしていた少年は老騎士グンネマンツに出会い、騎士道の基本を教わります。この老人は無知な少年が気に入ってしまい娘婿にと望みますが、父親譲りで放浪癖のある少年はグンネマンツの嘆きをよそに旅立ちます。
で、あちこちで散々もめ事起こした挙げ句、たどり着いたのは聖杯城。禁断の恋によって神様に与えられた傷に苦しむアンフォルタスに招かれ聖杯を目にするのですが、グンネマンツから「みだりに人にものを尋ねるのは不作法」と聞いていたおかげで、大切な問いを端折ってしまい、おかげで目覚めた時には聖杯城はもぬけの殻。
その後も冒険を繰り返し、やっとこさアルトゥース王の円卓に加えて貰ったところが、聖杯城の使者にして魔法使いのクンドーリエ登場、こんな若造を仲間にするなんて円卓の騎士も落ちたものねと散々罵られ、グサッときたパルツィヴァールは行方不明に。
またまた色々ありまして、最後にクンドーリエがパルツィヴァールが次の聖杯王に指名されたと呼びに来て、いそいそと向かった聖杯城、やっとのことでお約束の問い、「どこが痛むのですか?」を発したおかげでアンフォルタスの傷は癒え、めでたく新聖杯王誕生・・・。
ざっとこんなお話です。はて、どこにも禁欲が出てこない、どころか、パルツィヴァールは冒険の合間にナンパにも精を出しラストでは既に二人の子持ちです。そりゃそうです、みんなでせっせと禁欲していたら人類は滅亡します。
ワーグナーを触発したのは「禁欲願望」ではなかったと思います。
この作品、タイトルロールのパルジファルよりも、延々と歌うアンフォルタスよりも、クンドリが目立ちます。妖怪なのか、絶世の美女なのか、はたまた悔い改めるマグダラのマリアなのか・・・。
クンドリは自分の誘惑を跳ね返す強い男によって救済されたいと願っています。なのにせっせと誘惑に精を出します。聖杯城では家畜扱いされ、ポン引きのクリングゾールの元では娼婦扱いされ、しかし、その両方を行ったり来たり、この幾重にも捻れた女をワーグナーは呪われたユダヤ人の系譜として捉えております。
「されど心得よ、汝らに重くのしかかる呪いから解放される道はただ一つのみ、彷徨えるユダヤ人の解放とは、滅びゆくこと」(ワーグナー「音楽におけるユダヤ性」)、こんなこと書くもんだから、この作品はホロコーストを肯定するものとして解釈される余地を残してしまいました。
ワーグナーの時代、ユダヤ人とは何者であったのか?長い間、自らの国家を持たなかった彼らは、農民にはなれませんでした。キリスト教徒の王様の気まぐれでいつ追い出されるか分からないのですから、不動産には投資できません。彼らの財産、それはいつでも自由に持ち出せるもの、即ち現金と頭脳です。人口の大部分が農民であった時代に、ユダヤ人は都市生活者として生きる他なかったのです。右にあるものを左に移して利ざやを稼ぐ貨幣至上主義者、そんな彼らを軽蔑していた「どん百姓」のキリスト教徒ですが、やがて時代がユダヤ人に寄り添ってしまいます。大部分の人間がユダヤ人的生き方を選択せざるを得ない都市生活者の時代が来てしまったのです。
ワーグナーが嫌悪していたもの、それはユダヤ人に具現される(と信じられていた)自己の利益追求が第一であり、他者と共鳴することを忘れてしまう利己性という病に冒された近代のあり方そのものであったように思います。クンドリを操るクリングゾールもクンドリが傷つけたアンフォルタスも、自らの意志(聖杯王になりたい、聖杯王でありたい)によって互いに争い、自らの意志(聖杯城を滅ぼしたい、死んでも聖杯城を守りたい)から逃れられない「近代人」です。その両方を結びつけるクンドリに、ワーグナーは近代人に広がっていく利己性という病のウイルスを見ていたように思うのです。お金には意志はありませんが、お金は人に意志を植え付けるように、クンドリには「意志」がありませんが、彼女は彼女に触れるもの全てに「欲望」を植え付ける。魔宮では妖艶にして遣り手の女主人であり、聖杯城では奉仕を求める乙女であるクンドリは、疎まれつつも宿主の体内でしか生きられない存在なのです。
クンドリ、彼女がキリスト教徒だったのは僅か数十分、アンフォルタスは元気になってみんな幸せそうなのに、クンドリは一人死んでいきます。これをユダヤ人差別と受け取られてもワーグナーとしては致し方ないでしょう。
しかし、台本に差別があっても音楽には差別がないことも事実、どうしようもなく男を惹きつけてしまう自分に苦悩しつつも、触れ合いを求めずにはいられない孤独なクンドリは、第三幕のパルジファルとの無言の触れ合いによって初めて、聖杯城でもない、魔宮でもない外の世界を知ります。そこに広がる美しい野原を涙で一杯の瞳で見つめるクンドリ、自分を利用しつつ蔑む男たちの世界の外を初めて知った女、その涙は草に宿る露になる、なんとも優しい言葉とともにそっと額に口づけするパルジファル、男と触れ合う快楽を求める女とそれを罪であると自己批判する女が融和する瞬間です。
ウィルスが宿主の体内から出ては生きられないように、この時点でクンドリの死は決まっています。その死は孤独な生からの解放でなければなりません。なぜならワーグナーが近代の病を見たアンチ・キリストの女がイエスの愛を知らぬまま死んでしまったのでは、パルジファルの辛い彷徨はアンフォルタスと聖杯の騎士たちの救済しか導き出せない不完全なもので終わってしまうからです。
ワーグナーのユダヤ人嫌いは本物だったでしょう、彼が貨幣亡者で満ち溢れる近代の有り様を嫌い、素朴な原始キリスト教に憧れたことも事実でしょう。しかし、皮肉なことに、彼が神の一人子の血を湛えた聖杯に焦がれれば焦がれるほど、その一人子が十字架の上で説いた愛は、アンチ・キリストにまで広がっていくことが明らかになってしまうのです。
アンフォルタス、気高き聖杯王を苦しめる肉体の傷、しかし、アンフォルタスはその傷を与えたクンドリを愛しています。普通ならさっさと追い出すところを、「休みなく働く内気な女」の差し出した気休め程度の妙薬を「お前の忠実に対する感謝の気持ちから」受け取っているのです。彼が平凡な聖杯の騎士であったなら、かつて味わった聖槍を奪われても気付かぬほどの性の陶酔を求めてとっくの昔に出奔していたはず。しかし彼は、聖杯の力で命を蘇らせてくれという至って他力本願な人々のために苦痛を圧して聖杯城に留まりました。彼の自己犠牲は、傷の痛みもさることながら、遠回しに嫌みを言う父の圧力、なかなか聖杯の恩寵にありつけない騎士たちの不満という針のむしろに彼を置いてしまいました。この状況から彼を救い出したのは全くの部外者である「愚か者」、アンフォルタスが血を流しながら守ってきた世界が彼とは違う世界からやって来たバカによって救われてしまった・・・。新しい聖杯王が誕生した今、アンフォルタスは隠居です。しかし、たとえ傷が癒えたとしても、彼が耽った快楽の罪を聖杯城が忘れることはないでしょう。この後のアンフォルタスというのが、私はとても気になります。彼に肉体の快感をもたらしたクンドリは死んでしまった、聖杯の掟は彼にとっては不条理でしかなかった、その不条理に必死で耐えたのに新たな聖杯王が登場して自分は過去の人・・・、アンフォルタスが死んだ父を賛美する激しい旋律には不条理に対する憤怒が感じられるのです。もう聖杯も聖槍も全部捨てて荒野に乗り出し、できればどこかで新たなる魅惑の魔宮を作ってそこの主に治まるのも悪くないような気が・・・チラッとしてしまうのです。
クリングゾール、アンフォルタスへの憎悪と嫉妬、魅惑の宮殿で美女に囲まれつつも我が身は不能、プライドとコンプレックスのグロテスクな混合体。第二幕で警護の騎士たちをバッタバッタとなぎ倒し城壁に迫るパルジファルの姿を賞賛する旋律は、なぜか自分の宮殿の一大事を狂喜しているように響くのです。クリングゾールは一刻も早くこの魔宮を、自己の妄想の華麗な、しかし虚しい産物であり、彼にとっては意味をなさない美しい女たちで一杯の孤独な牢獄を壊したいのではないか?パルジファルがクンドリの誘惑を退けた時、聖なる槍を投げつける姿は、己を滅ぼす愚か者に大切な贈り物を与えるかのよう。
パルジファルはアンフォルタスから聖杯王の座を譲り受けたように、クリングゾールから魔宮の後継者として、堕天使の黒い翼をも託されたのかも知れません。
パルジファル、両親も故郷も持たない放浪者、常識を知らない愚者、聖杯の意味も分からない不信心者。しかし、神は聖杯の恩恵に与りつつその恩恵を与えることを知らない騎士たちではなく、どこかからやってきた余所者を新しい王に選びました。第一幕ではアンフォルタスの痛みを共感できなかった彼ですが、それは彼に同情がなかったからではありません。独りぼっちの彼には同情を与えるべき共同体の仲間がなかった、彼の同情は愚者という仮面の下、本人も知らない感情だったのです。
パルジファルに同情と共鳴を与えたのは異教の女、これで自分たちを差し置いて聖杯王となる彼に、キリストの騎士たちは納得するのでしょうか?
イエスはユダヤ教徒でした。しかし、彼はその溢れるばかりの愛を誰にでも、異教徒にも、蔑まれる娼婦にも分け与えました。その結果、イエスはユダヤ教の祭司たちによって告発され、十字架の上で死にました。イエスは敵を愛したおかげで味方に裏切られた孤独な男であったのです。パルジファルのこれから先に待っている運命はイエスの運命をなぞらえるものなのか?
まるで呪われているかのように不条理と苦難に満ちている現世、ワーグナーは生涯をかけてその現世から神の高みに己を昇華させる圧倒的存在を求め続けました。「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」では無償の自己犠牲に、「トリスタンとイゾルデ」では性愛の極限に・・・。しかし、本来、利己性の塊である近代人が利己性を捨てた救済を願うことの矛盾、自らの「意志」によって「意志を捨てて他者に共鳴する自分」を探すことの矛盾に彼は気付いてしまったのでしょう。
「パルジファル」はワーグナーの最後の作品です。父性によって「選別」されたのは、母性によって「受容」され育まれた愚か者、その結末には、残念ながら、いえ、当然のことながら、ワーグナーの求めた圧倒的存在によってもたらされる圧倒的救済は存在しません。パルジファルも、アンフォルタスも、矛盾を抱え込んだ不完全な存在のままであり、つまり聖杯そのものが救済ではあり得ないのです。
「パルジファル」の初演を終えたワーグナーは、その老いて疲れ果てた身体を水の都ヴェネツィアに運びます。そして、彼にとっては異国である地で死を迎えます。あたかもアンフォルタスが傷ついた我が身を水辺に運んだかの如く、あたかも母の胸から飛び出したパルジファルがそれっきり故郷に帰ることがなかったかの如く。
ワーグナーの求めた救済、それはどこかにあるはずの聖杯と共に未だ混沌とした世界を彷徨っています。
さて、録音です。1951年と1962年のバイロイトの録音、指揮はクナッパーツブッシュ、独特の粘り着くテンポ、細部までくっきりと浮かび上がる丁寧な仕事、素朴で単純で、ワーグナー自身が憧れたであろう、かつて存在したかも知れないキリスト者の理想郷をプリミティブに表現しております。62年盤のジェス・トーマス(パルジファル)とナイトリンガー(クリングゾール)が出色の出来。1991年のMETはレヴァインの指揮、スケールが大きい演奏、しかし後に残るのはスッキリと清潔な余韻、ジェシー・ノーマン(クンドリ)、クルト・モル(グンネマンツ)、ジェームズ・モリス(アンフォルタス)、タイトルロールのドミンゴにいささか少年っぽさが足りませんが、豪華キャストで聴き応え十分。力強い棒で場面を立体的に彫り上げるショルティ盤(1971〜72、ウィーン)、素朴さよりも壮麗さを引き立てるカラヤン盤(1979〜80、ベルリン)、ゆったりとまろやか、優しさに満ちたグッドール盤(1984、ウェールズ・ナショナル・オペラ)あたりがお薦めです。
パルジファルはというと、ほっそりと磨き上げられた鋼の剣を思わせるペーター・ホフマン(カラヤン盤)、アンフォルタス!から後の憂いを湛えた美青年ぶりが目映いジークフリート・イェルザレム(1989年バレンボイム盤)、そして、無垢な少年の瑞々しい息遣いと澄んだ眼差しの美しさはルネ・コロ(ショルティ盤)。
クンドリは、やはりルートヴィヒ(ショルティ盤)、その妖艶な声にはどんな男も骨抜き間違いなし。マイヤー(バレンボイム盤)は救済に焦がれる呪われた女の闇の部分が秀逸。
アンフォルタスなら、フィッシャー=ディスカウ(ショルティ盤)、長いモノローグを蕩々と歌い上げる掴みの良さと聖杯王の気品が匂い立ちます。
「舞台神聖祝祭劇」なんて漢字のテストに出てきそうな呼び名のせいで手強そうに思われる作品ですが、あれこれ聴いてみると、抹香臭い雰囲気の中に聴く者を優しく抱き留める確かな「手」の温もりを感じさせる作品です。
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