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Leafドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」 (2007年5月1日〜2007年7月9日の日記より)


水の記憶

 この地球の表面の70%が水です。その上で生きている私たち人間の体の70%が水です。私たちは水の惑星に水の生命体として生きています。
 この世で一番美味なもの、それは喉がカラカラの時に飲む水でしょう。世界一高価なワインも、世界一のシェフが腕を振るったスープも、喉が渇いた時のコップ一杯の水にはかないません。
 この世で一番多く人を殺してきたもの、それは水でしょう。古代から近世以前まではともかく、現代の銃大国のアメリカにおいてさえ、父親が引き出しに入れた銃よりも庭のプールの方が大勢の子供の命を奪っているのです。
 私たちは水なしには生きられません。そして、私たちは水の中では生きられません。何というジレンマ。

 その水、全ての人が毎日触れているありふれた水は、そこには何かの意思があるのかと勘ぐりたくなるくらい、自然界の常識をことごとく否定するトンデモなく「異常な」物質なのです。

 まず、液体から固体へ変化すると、つまり凍ると水は体積が増える、すなわち密度が小さくなるのです。普通は固体化すれば分子間がギュッと詰まりますので、密度が増して体積が減るのですが、なぜか水だけは逆。氷の密度は0度で1立方センチ当たり0.9168g、この氷が溶けると10%近く体積が小さくなり、0度で1立方センチ当たり0.9998gの水になります。温度が上昇するにつれて水の密度は大きくなり、3.98度で最大密度の0.999972gになります。さらに温度が上昇すると水の密度は低下していきますが、それでも水の沸点である100度になってもその密度は0.9584g、やはり氷より大きな密度となっています。
 もしも氷が他の物質と同様に水よりも重ければ、湖水、河川、海で水は底から凍ることになります。しかし、実際に冬の池や湖で起こっていることは、表面の水は3.98度までは密度が増すので底に沈んでいき、入れ替わりに底の温かい水が表面に上がる、これを繰り返していると、やがて水全体が3.98度になります。さらに表面の水が冷やされて3.98℃以下になると、その密度は逆に小さくなり、もう沈みません。水面でそのまま凍ることになります。水の表面を覆った氷は軽いので水上に浮かび、どんどん熱を放出して冷えていきますので、氷の下の水はいつまでも液体の状態を保ち、魚も冷凍魚にならずにすんでいます。

 単位質量の物質の温度を1度上げるのに必要な熱量を比熱容量と言います。水以外の液体の比熱容量が2kJ/kg以下なのに対して水の比熱容量は4.2 kJ/kgとダントツで高い。つまり、水は温めるのに大きな熱量を必要としますが、いったん温まると冷めにくい液体なのです。水の比熱容量を1とすると、油はその半分の0.5、てんぷら油の温度はお湯を沸かす時の二倍の速度で上昇します、鉄は0.1、水の十倍の速度で熱くなります。真夏の太陽の下、車のボンネットは目玉焼きができそうなくらい熱くても、プールの水はひんやり冷たい。もし、水の比熱容量が小さかったなら、海や川の水温は太陽に暖められてどんどん上昇し、魚は煮魚になってしまいます。

 水の沸点は100度、これも異常な数値です。水は水素化合物ですが、水以外の水素化合物はほとんどが0度以下で沸騰してしまう、つまり、地球の常温下では液体ではなく気体でしか存在できないのです。水が「まともな」水素化合物であったなら、地球上には海も川も池もなく、そもそも生命は誕生できなかったでしょう。

 水はいろいろな物質をどんどん溶かします。どんなにきれいな水でも、地球上に存在する限り様々な物質が多量に溶け込んでいます。有機物の多くは水に溶解するか、微生物などに分解されることで水に溶ける形に変化します。また、タンパク質も炭水化物も水に溶けるか、あるいは簡単に水に溶ける形に変化します。水ほどいろいろな物質を溶かす性質をもった物質は、自然界には他にありません。
 この水の節操のなさは、酸素原子と水素原子が104.5度という中途半端な角度で接合しているから。水は結合して安定しようと巨大なH2Oの高分子化を目指す過程で、あらゆるものを抱え込む、安定を求めるがゆえに揺らいでしまう。言ってみれば、水は分子のレベルでは常に姿を変えている、同じように見えて、全ての水は違っている、さっき注いだばかりのコップの中の水でさえ、さっきと今とでは別の水なのです。水は抽象としてしか存在できないし、人も水を抽象としてしか認識できない。実にとんでもないものが、地表の、人体の70%・・・。

 地球上の水は太古以来ただただ循環を繰り返しています。一滴も増えていませんし、一滴も減っていません。地域的にどれほど異常気象があろうと、地球全体で降る雨の量は一定です。今この時刻に雨が降っている場所は地球上の3%、この数字もずっと変わりません。水は20億年の間、ひたすら循環を繰り返してきたのです。私の体内には、かつてアノマロカリスが泳いだ水がある、イグアノドンの喉を潤した水がある・・・。

 生命を育む水ですが、それは同時に人間の生命を奪うものでもあります。古来、水の周りにはいろいろな恐ろしいものが潜んでいることになっているのも、水を恐れよという人の防衛本能の所以でしょう。日本の川辺には河童がいて、人を水中に引きずりこみます。ギリシアの海には海神ポセイドンがいて、気まぐれに嵐を起こしては船を沈めています。そのポセイドンと訳ありのメデューサの顔を見たものは石に変わって水の底へ。北欧の海には船をひっくり返すのが三度の飯より好きという巨人エーギルと、「溺死網」を張って人を海の底へ引きずり込む女房ラーンというとんでもない夫婦がおります。ケルト民族の海には、「分かれてこい、分かれてこい、海が待っている、後に続け!」と叫び、その声を聞いた人間は引き潮に引きずられて波間に消えるという「九番目の波」がうねっています。

 人はそれでも水に惹かれます。水はそこから来た揺りかごであり、そこへ帰っていく墓場なのです。その水の抗いがたい誘惑が多くの美しい水の精の物語に記されています。
 フケーの「ウンディーネ」、永遠の魂を手に入れるために人間の男を誘惑する水の妖精。この結婚には二つのタブーがありました。水の側で妻を罵れば妻は水に帰る、その後夫が人間の女と再婚すると水は彼を殺しに現れる。そして、定められた運命に従って、騎士はウンディーネの腕の中で息絶える。
 アンデルセンの「人魚姫」、人間の王子様と結婚するために、美しい声と引き替えに足を手に入れた人魚姫、悲しいことに王子は、溺れた自分を助けてくれたのは彼女ではなく隣国の王女と勘違い、人魚に戻るために王子を刺せと姉たちが渡した短剣をどうしても使えず、人魚姫は海の泡になることを選ぶ。

 ウンディーネの物語は、水を蔑ろにした人間に復讐する水の恐ろしさ、人魚姫の物語は、いくら傷つけられようが全てを受け入れる水の優しさ、水の相反する二面性を語る二つの物語です。

 そして、このオペラの原作であるメーテルランクの「ペレアスとメリザンド」、ヒロインのメリザンドは水の精というより水そのもの、ただそこに存在し、何もせず、法則に従って漂い、映ったものをそのまま返し、そして、全てを破壊する。
 ドビュッシーがカットした第一幕第一場、 メーテルランクはこんな場面を書いています。お城の門、女中たちが門番を起こします。「誰だね、眠いのに」「華やかな祝宴があることでしょうから」「あけてちょうだい、早く、早く」「夜明けまでお待ちなされ」「そとは、もうこんなに明るい」「とても洗いきれないわ」「水を運んでちょうだい」「水を流せ、ありったけの水をぶちまけろ、水はたっぷりあるぞ」

 あなたの足下、ひたひたと水が満ちてきます。それは音も立てずに暈を増し、透明に輝き、漆黒にうねり、そして、気づいた時、あなたは逃げられない、体は冷たく冷え切って、手足は重たくて動かない、息が出来ない、あるのは死のみ・・・。


参考文献:「水とはなにか」(上平恒著・講談社)
       「水と空気の不思議100」(左巻健男著・東京書籍)
       「ウンディーネ」(フケー著・深見茂訳・国書刊行会)
       「人魚姫」(アンデルセン著・大畑末吉訳・岩波文庫)
       「ペレアスとメリザンド」(メーテルランク著・杉本秀太郎訳・岩波文庫)



第一幕 水と出会う

 黄昏が迫る深い森、狩の出で立ちの男が登場。

 手負いの獲物を追っては来たが俺が迷ってしまった、・・・泣き声?泉の傍らで娘が泣いている、顔が見えない。そっと肩に手を触れる男、怖がらないで、こんなところで一人で何を泣いている?触らないで、触らないで!何と美しい人・・・、触らないで、触ったら水に飛び込むわ!誰かに虐められたのか?みんなよ!何をされた?言いたくないわ!どこから来た?逃げてきたの・・・、道に迷ったの、私はこの国の生まれじゃないの、どこの生まれ?遠いところ、遠くの遠く・・・。

 おや、泉の底で輝くものがある、あれは?あれはあの方が私にくれた冠よ、拾って上げよう、欲しくないの、死んでしまいたいの、わけなく拾えるよ、欲しくないの!あれを拾ったら私が代わりに水に沈むわ、見事な冠らしいが・・・。
 貴方は誰?王子のゴロー、アルモンドの老王アルケルの孫、髪が白いわ、髭も白いわ、どうして私を見るの?貴女はその目をちっとも閉じない、夜には閉じるわ、貴方、大きいのね、巨人みたい、いや、人並みの男だよ、なぜここに?狩をしていて、猪を追いかけて迷ってしまった、貴女のお年は?
 寒いわ、一緒に行こう、いえ、ここにいるの、一人で夜通し?貴女の名前は?メリザンド・・・、一緒に来なさい、メリザンド、ここにいるの・・・、たった一人で夜明かしなど、さぁ、手をどうぞ。触らないで!触らないよ、だが一緒においで、夜はとても暗くて、とても寒い、どこへ行くの?分からない、私も迷った・・・。

 アルモンド王国、アルケル王の城、広間には王と嫁のジュヌヴィエーヴの二人。

 ゴローが弟のペレアスに手紙をよこしました。『ある夕暮れ、迷い込んだ森でその人に会った。年も素性も生まれも分からないが、何を問うても泣くばかり、怖いほどだった。彼女と結婚して半年が経ったが、未だに出会った時より彼女を知ったわけではない。ペレアスよ、異父兄弟のお前だが実の兄弟より愛しい弟よ、俺の帰国の準備をしておくれ。母上は喜んで下さろう、問題はお祖父様のアルケル王だ。もしも彼女を受け入れて下さるようなら、3日目の夜に海を見下ろす塔に灯りを点しておくれ。もし拒絶されるなら、俺は二度と帰らない。』、どうなさいます?
 何も言うまい。我らには運命の裏側しか見えない。ゴローはいつも忠実だった、ユルスュール姫に求婚に行かせたのも、争いと憎しみに終止符を打つためだったが、あれはそれを望まなかった・・・。ならば望むようにさせてやろう、私は運命には逆らわない。
 ゴローはいつだって慎重で生真面目で、意思の強い子でしたわ。妻に先立たれてからは忘れ形見の息子イニョルドのために生きてきました。今はそれどころではない様子、いかが致しましょうね?

 誰か来たのか?ペレアスですわ、泣いておりました・・・。お祖父様、兄上の手紙と一緒に親友のマルセリュウスからの手紙を受け取りました。死の床で僕を呼んでいます、一刻も待てないと。旅路は長く、ゴローを待っていれば手遅れになるでしょう。だが待つがよい。兄が帰れば何が起こるやら、それにお前の父もこの階上で重い病に臥せっているではないか、父と友、どちらをとるか、迷うことではなかろう。
 ペレアス、塔に灯りを点す用意をなさいませ。

 城の前庭、ジュヌヴィエーヴとメリザンド。

 暗いお庭ですのね、周りの森もとても深くて、そうそう、私も昔ここに着いたときは驚きましたよ、でもすぐに慣れてしまいますよ、もう40年が経つのね、ほら、海は明るいでしょう?誰か上って来ますわ、ペレアスよ、長いこと貴女を待っていたのよ、ペレアス、ペレアスでしょう?えぇ、僕です、海の方から登ってきました。私たちも明るいところを探していたの、海が暗いわね。今夜は時化そうですね、うっかり船出するとそのまま帰れないかも知れない。
 何かが港を出て行くわ・・・、大きな船だ、光の帯に入れば見えますよ、見えるかしら、海は霧が立ち込めて、霧が昇っていきますね、見えましたわ、小さな光が!あれは灯台です、船が・・・、もうずいぶん遠いのね、急いで遠ざかっていく、私を乗せてきた船だわ、今夜の海は荒れそうだ、こんな夜にどうして行くの?もう見えないわ、きっと難破するわ、見る間に暗くなってきた・・・。

 誰も何も言わないのね、お話が尽きましたか、戻りましょう。ペレアス、メリザンドに道を教えて上げなさい。私はイニョルドに会っていきますから。

 もう海には何も見えないね、あちこちに光が見えるわ、他の灯台ですよ、潮騒が聞こえる、風が立ってきた、下りましょう、さぁ、手をどうぞ。でも、ほら、両手一杯に花が、では腕を支えて上げましょう、道はとても暗い。僕は、明日旅立ちます。まぁ!なぜ・・・?

 オペラではカットされましたが、メーテルランクの原作では、この前に城の女中たちが総出で城門を洗い流す場面が描かれています。「何やら大きな出来事がある」「だから水で全てを清める」・・・、「大きな出来事」とは、当然、城の主の長男ゴローの再婚なのでしょうが、この作品の厄介なところは、全ての言葉に裏の意味がある、あるいはあると思わせられるということ、「大きな出来事」が婚礼の儀であれば良いのですが、のどかな主題を重苦しいゴローのモティーフと哀しげなメリザンドのモティーフが染め上げていく前奏を聴けば、それは虚しい願いと分かります。

 ゴローが森で迷います。彼は敵対する国のユルスュール姫を娶りに出掛けたのですから、彼が迷った森は敵地の森、そんなところで狩りをするか?ゴローの行動は実に奇妙、全ては運命なのか?何やら得体の知れないものが裏で糸を引いているのか?

 泉の傍らで泣くメリザンド、彼女はゴローの質問に一切答えません。奇妙なことにゴローの有り様をそのままゴローに返していくのです。髪が白い、髭も白い、大柄・・・、そして、メリザンドがゴローに与えたのは名前だけ。メリザンドは彼女の傍らにある泉と同じ、ゴローの姿を映しているだけなのです。
 ゴローは泉の底の冠に固執します。メリザンドは冠をくれた人を「あの人」としか言いません。ゴローにとって冠は高価な宝という実体であり、メリザンドにとって冠は過去の記憶という思念です。水に映るものは実体ではないし、手に取ることもできません。そして、水に沈んでしまえば、全ては忘れ去られる。
 触れないで!ゴローが触れることを強く拒絶するメリザンド、水は触れたら像を結ぶことができなくなってしまう。結局、ゴローはメリザンドという名前を知ったのみ、手紙によればその後もそれ以上、彼女を知ることはなかった、にも関わらず、彼が継ぐべき王国の安全をかけた結婚を捨ててもメリザンドを選んだ、それはメリザンドが美しいからか?彼は強靱な体を持ち、犬を駆って猪を追い詰めるような男、妻を亡くした後は一人息子一筋に生きてきた男、彼のような男に必要なのは、強い体と強い母性を持った女であるはず。そもそも最初から奇妙な出会い、ゴローが惹かれたのではなく、メリザンドが絡め取ったのではないのか?「分からない、私も迷った・・・」、ゴローの無意識は早くも不安を感じています。

 アルケル王は殆ど盲目なので手紙が読めません。ジュヌヴィエーヴが読み聞かせるゴローの手紙はペレアスに宛てたもの、普通にペレアスが読めばいいものを。この持って回ったやり方は、友の手紙に動揺してしまったペレアスが、適当に読み飛ばした兄の手紙を母に託してしまったからだと思われます。同時に、先妻の子ゴローと実の子ペレアスに対するジュヌヴィエーヴの距離を暗示しています。
 アルケル王はゴローの再婚に、国家の安全と一人では暮らせないゴロー自身の未来を託した、それが空中分解したというのに、それを嘆くでもなく、怒るでもなく、すべて運命に委ねてしまいます。アルケル王は、人の行為は運命の前では無力だと暗示します。
 兄からの手紙を母に丸投げしたペレアス、その口から出るのは遠くで死の床に伏せっている親友であり、すぐそこで死の床に伏せっている父も、兄ゴローも全く眼中にありません。ペレアスが義務とか使命とかいう概念とは無縁であることが分かります。しかし、彼は結局旅立ちません。彼が旅立っていれば、これから起こる悲劇は回避されたはず、運命の裏側しか見えないアルケル王が、祖父の言葉を跳ね返す(ゴローのような)強さを持たないペレアスが、運命の表側を導いてしまう、避けられないのが運命・・・。

 城の暗さを嘆くメリザンドと慰めるジュヌヴィエーヴ、遠い海の明るさを義母が指さしたところで、その海の方角からペレアスが登場する、メリザンドが海の明るさには全く気付きもせぬうちに、海は暗くなってしまう。そして、ペレアスは今夜の荒天を伝え、メリザンドは自分を乗せてきた船が沈むであろうと感じます。彼女はもうここから出ていくことはない、ここから出ていくことができるのは死ぬ者だけなのです。ペレアスもメリザンドも難破を予感しながら船を見送るだけ、どれほど多くの死者を飲み込んでも、翌朝には明るく輝いて人々を魅了する、それが海。

 ペレアスとメリザンド、この二人はまるでずっとずっと昔からお互いを知っていたかのように、自然に触れ合います。メリザンドの両手は花嫁のように花で一杯、ペレアスの腕は花婿のように彼女の腕をとります。ですから、ペレアスの旅立ちを聞いてメリザンドは実に奇妙な、しかし、彼ら二人にとっては極めて自然な言葉を返します、「なぜ?」、私たちが別れるなんてことがあり得るのかしら?・・・と。

 船は出て行きました、そして、今宵、海の底に沈むでしょう。この場所は閉ざされました。そして、水が閉ざされた空間を満たして行きます、音も立てずに。


第二幕 水に触れる

 ペレアスとメリザンド登場。

 どこか分かる?僕はよくここへ来るんだけど、まぁ、なんてきれいな水かしら!冬のように冷たいよ、昔は盲人の目を癒したこともある、だから「盲人の泉」と。今はもう治らないの?王ご自身がほとんど盲目になられて以来、誰もここには来ないんだ・・・。
 何も聞こえないわ・・・、いつ来ても静かなんだ、水の寝息が聞こえるようだ、座らない?菩提樹の陰に。私、大理石の上に横たわるわ、底が見たいの、見えないよ、海みたいに深いかも知れない。何かが光れば見えるわ、そんなに乗り出さないで!
 水に触れたいの、両手を水に浸けたいの、私の手、今日は病気なの、気をつけて、メリザンド!貴女の髪が!水に浸って・・・、そうなの、とても長い髪なの、腕よりも身の丈よりも長いの。
 泉の畔だったよね、彼が貴女を見つけたのも・・・、ええ、彼、何て言った?覚えていないわ、そばにいた?私を抱きしめようとしたわ、でも拒んだ・・・、そうよ、なぜ?
 あっ、何かが水底を走ったわ!気をつけて、落ちるよ!何を弄んでいるの?あの人がくれた指輪よ、お止めよ、こんなに深い水の上で、私の手は確かなの。陽の光に輝いている、そんなに高く投げちゃいけない!あっ、落ちた!落ちてしまったわ、光っているのが見えるよ、ほら、あそこに。
 あんなに深いの、いえ、違う、指輪じゃないわ、水に波紋が広がっているだけ、どうしましょう?指輪の一つくらい、何でもないよ、別のを探せばいい。もう見つからないわ、他のだって見つからないわ、手の中にあると思っていたの、それが落ちてしまったの、お日様に向かって高く投げすぎたわ・・・。

 さぁ、また来ようよ、誰かに見つかるかも知れないよ、指輪が落ちた時、正午の鐘がなった。ゴローに何と言えば?本当のことを有りのままに。

 城の一室では、ゴローが寝台に横たわっています。その傍らにはメリザンド。

 あぁ、やっと気分が良くなった。しかしどうしてあんなことに?森で狩をしていたら突然馬が暴れ出した。正午の鐘が聞こえた時だった、馬が急に怯えて立ち木に向かって走り出し、その体が押しかかって胸が破裂したかと思ったが、俺の心臓は丈夫だ。
 お水を召し上がります?いや、喉は渇いていない。枕を取り替えましょうか?血が付いています、それには及ばぬ。痛みません?俺は蹄鉄や血には慣れている。お休みなさいませ、私はここにおりますから、いや、俺は何もいらん、どうした、メリザンド、なぜ泣く?
 気分が晴れません、この城では・・・、どうして?なぜかしら、私、ここでは幸せではありません。誰かが虐めたのか?侮辱したのか?いいえ、誰も・・・。言ってごらん、国王か、母上か、ペレアスか?
 ペレアスではありません、誰でもない、私よりも強い何か・・・ですわ。どうしてほしい、メリザンド、俺と別れたいのか?そんなことではないのです、私はこの城では生きられないような気がするのです。それには理由があるだろう?言ってごらん、ペレアスだな?彼はお前に余り話しかけない様子だが。いいえ、時々話してくださいます、でも、私がお好きでないのです、あの方の目を見れば分かります。彼を恨むな、ああいう男なのだ、少々変わり者だがまだ若い、そんなことではありませんわ。
 では何なのだ?この城は確かに古いし陰気だ、寒いし広すぎるし、年寄りばかりが住んでいる、領地は光も入らぬ暗い森ばかり、だが、心がけ次第だ、何なりと言うがいい、望みは何だ?ここでは明るい空を見たことがありません、今朝、初めて見ました・・・、それでお前は泣いていたのか?かわいそうなメリザンド、そんなことで泣く年でもあるまい、やがて夏、毎日青空が見えよう、そして、来年には・・・、さぁ、手を貸してごらん。
 この小さな手を花のように握り潰したい・・・、指輪はどうした?指輪?結婚指輪をどうした?それが・・・落としてしまいましたの。落とした?どこへ?なくしたのか?いえ、落ちてしまったんです、でも、どこにあるか知っております。どこだ?貴方もご存知でしょう、海辺の洞窟を?知っているとも、あそこに・・・、えぇ、今朝あそこに行きましたの、イニョルドのためにきれいな貝殻を拾いに、その時に指輪が滑り落ちて、波が押し寄せて、見つからないままに。確かにあそこにあるのだな?間違いなく、だって滑り落ちるのを感じましたもの。
 今すぐ探しに行くのだ!今?すぐに?この暗闇に?あの指輪をなくすくらいなら全ての財宝をなくした方がいい、お前はあれにどんな由緒があるのか知らないのだ、今夜は高潮、海がお前より先に指輪を奪ってしまうぞ、急げ!でも、とても一人では行けません。誰とでも行くがよい、ペレアスに頼め、ペレアス?ペレアスは嫌がりますわ。
 ペレアスはお前の頼みなら何でもするだろう、俺はお前よりペレアスを知っている、さぁ、行け、指輪を手にするまで俺は眠らんぞ。あぁ、私は幸せではありませんわ・・・。

 夜の海辺、洞窟の前。

 ここだ、やっと着いた、あまりに暗いから入り口やら闇やら見分けがつかない、月があの雲間から出るのを待とう、そうすれば入れるだろう。両側には深い淵がある、灯りを持ってくればよかった、でも空の明るさで十分かと、この洞窟に入ったことはないんだね?ないわ。さぁ、入ろう、兄上に聞かれたらちゃんと説明できるように、洞窟はとても大きくて真っ青な闇、小さな灯りが灯ると岩の天蓋が夜空のように輝くよ、手を貸して、震えないで、海の明かりが消えたらすぐに立ち止まろう、今夜は海も幸せそうには見えない・・・、あぁ、明るくなった!
 まぁ、あれを・・・、何?ほら、あちら・・・、僕にも見えるよ、行きましょう、行きましょう!老いた乞食が3人眠り込んでいる、飢饉がこの国を痛めつけているんだ、どうしてこんなところに・・・。行きましょう、さぁ、行きましょう!静かに、彼らを起こさないで、まだぐっすりと眠っている、さぁ。放っといて、一人で歩きたいの、また、いつか来よう。

 泉の畔で戯れる二人、霊験を失った「盲人の泉」は、アルケル王が、つまり、この城、この国が衰退しつつあることを暗示し、しかし、ペレアスは全く無頓着。誰もいないところに兄嫁と二人きり、しかも、陽の光を通さない暗がりへ誘っておきながら、それを気にするでもなく、やはり彼は無頓着。そんな彼の前で、両手を、髪を水に浸して無防備に横たわるメリザンド、ゴローには「触らないで!」と怯えた女が、まるでその長く解いた髪のように、伸びやかにして淫ら。
 しかし、ゴローとの出会いを問うペレアスに対して、メリザンドはさらりと嘘をつきます。「私を抱きしめようとしたわ」、ゴローは肩に軽く触れただけでした。メリザンドはあの日のゴローの何が嫌だったのか、今日のペレアスの何が好ましいのか、一切答えません。
 ペレアスにとってメリザンドは水、ただそこにあって捕らえどころのない感覚を、捕らえどころのないまま映しているだけの鏡。メリザンドにとってペレアスは水、流れる方向を与えられない限り、自分では動かない怠惰で透明な澱み。

 手が病気だと言っておきながら、手は確かだと指輪を弄ぶメリザンドは、あっさりと指輪を落とします。ゴローのモティーフが、この場面が第一幕の出会いの場面が循環しているだけだと、そして、5オクターブのアルペジオが、指輪と一緒にゴローが、メリザンドにとって「あの方」に転落していく様を描きます。メリザンドは、指輪はもう見つからないと繰り返します、まるで、指輪さえなくなれば後はどうでも良いとでも言うように。それに対して、たかが指輪と軽やかに答えるペレアスには、冠に拘ったゴローの現実性も、結婚の誓いの意味を理解しようとする知性もありません。
 ペレアスとメリザンドは、起こってしまったことを二人並んでただ傍観するのです、まるで水の寝息を守ろうとするかのように。

 メリザンドが指輪を落とした同じ時刻、狩りの最中に負傷したゴロー、第一幕では優男であろうと努めたゴローは、ここで初めて、己の肉体の頑強さを誇示します。しかし、それがメリザンドには全く理解できません。メリザンドは水を勧め、ゴローは拒絶、メリザンドはゴローを労ろうとし、ゴローはメリザンドを守ろうとします。二人の思いはすれ違い、メリザンドは唐突に自分は不幸だと泣き出します。その原因は「私よりも強い何か」、メリザンドはアルケル王と同様に、逃れられない運命の手を感じとり、しかし、それを表現することができません。そして、ゴローは実に奇妙なことに、「私よりも強い何か」はペレアスの存在であろうと想像します。無気力で無責任な半ば引き籠もりのニート、旅立つと言い続けながら一向に旅立たない義弟。ゴローは少々変わり者のペレアスをそれでも兄らしく擁護して見せますが、メリザンドはここでも嘘を言います、「あの方は私を好きではないのです」。メリザンドは、ゴローとペレアス、二人の男に同じように無意味な嘘をつき続けるのです。

 どうかしているとメリザンドが泉に浸した両手を、握り潰したいと征服欲と支配欲で愛撫するゴロー、その手に指輪がないと知ったゴローは、今すぐに拾ってこいと命じます。ゴローは冠と同様に指輪に固執します。ゴローにとって黄金は、現実世界とそれを律する秩序を体現するものなのです。ペレアスが「有りのままに」答えるように言ったのに、メリザンドは指輪を落としたのは海辺の洞窟だと、イニョルドに貝殻を拾っていたのだと、さらに嘘を重ねます。城の泉はアルケル王の泉、ペレアスの好きな場所、そこだけは二人の秘密と思ったか?「イニョルドのために貝殻を拾いに」、ゴローの一番の弱点を知っての言葉か?それとも、ゴローの願望をそのまま映しているだけなのか?ゴローの目の届かない海辺の洞窟へペレアスを誘うきっかけを仕組んだのか?滅びつつある王国の運命など波の彼方に捨てておけと告げたいのか?メリザンドは誰にとって都合が良いのかも不明な必然性のない嘘をフワフワと重ねて、挙げ句にまた泣き出します。

 そして、あるはずのない指輪を探しに海に出掛ける二人が目にするのは、力無く眠りこける三人の老いた乞食、この国は今、静かに崩れようとしています、夏の終わり、人気の失せた黄昏の浜辺に忘れられた砂の城が、波によって元の砂に還っていくように。


第三幕 水に囚われる

 夜、城の塔の窓、メリザンドが解いた髪を梳きながら歌います。

     私の髪は塔の下まで、塔に寄り添い貴方を待つの
     日がな一日、日がな一日
     聖ダニエル様と聖ミシェル様、聖ミシェル様と聖ラファエル様
     日曜の真昼に私は生まれたの

 オラー、オラー、オー!・・・誰?僕、僕だよ、何をしているの?小鳥のように歌いながら、休む前に髪を梳いているの、髪だったの?明かりを持っているのかと思った。窓を開けたの、塔の中があまり暑いから、今夜はきれいね。こんな星空は初めてだよ、でも月はまだ海の上、乗り出して、メリザンド、君の髪が見えるように。
 あぁ、メリザンド、美しい!こんなに美しいのか!乗り出して、乗り出して!君のそばに!もうこれ以上は無理よ、僕もこれ以上は届かない、せめて手を貸して、明日、僕は旅立つよ。いや、だめよ!明日発つんだ、だから君の愛しい手を僕の唇に・・・。明日お発ちなら貸さないわ、さぁ、手を、お発ちにならない?延期するよ。
 闇の中に薔薇が見えるわ、どこ?もっと下の庭、暗い茂みの中よ、あれは薔薇じゃないよ、見てくるね、でも、その前に手を貸して。もうこれ以上乗り出せないのよ、僕の唇が届かない、落ちそうよ、あら、髪が・・・!君の髪!僕に降り注ぐ君の髪!両手で握って口づけするよ、抱きしめて、僕の首に巻きつけて、もう今夜は放さないよ、放して!落ちてしまうわ!
 放すもんか、こんな髪を見るのは初めて、ほら、あんな高いところから降りてきて僕の膝まで降り注ぐ、暖かくて優しくて、両手でも持ちきれない、僕の手の中で小鳥のように生きている、そして僕を愛している、君よりも僕を愛している!放して、誰か来るわ!放さない、今夜の君は僕の囚われ人だよ、一晩中。
 ペレアス!ペレアス!髪を結ぼう、柳の枝に、もう逃げられないよ、君の髪に唇を、息が詰まる、髪を伝って口付けが昇っていく、ほら見て、僕の手は自由、でも君は僕を放せない。ペレアス、何かしら?塔から飛び出した鳩だよ、鳩たちはもう帰らないのね、どうして?闇に迷ってしまうのよ、放して、ゴローだわ!待って、髪が枝に絡んで、闇で縺れて、待って!

 ゴロー登場。

 何をしているんだ、お前たちは?メリザンド、落ちてしまうぞ、もう真夜中、暗闇でこんな遊びはよせ、まるで子供だ、まるで子供だ!

 城の地下、ペレアスとゴロー登場。

 気をつけろ、こっちだ、ここに来たことはあるのか?あります、一度だけ、もうずいぶん前だけど。ほら、これが澱んだ水溜り、死臭が立ち込めているだろう?ちょっと身を屈めてごらん、鼻を突く臭いだろう?支えてやるよ、手じゃない、手は滑る、腕をよこせ、ほら、淵が見えるか、ペレアス?淵の臭いが見えるみたいです、こんなに震えているのは明かりかな?兄上・・・?そう、カンテラだよ、ほら、壁を照らそうと動かしていたんだ、ここは息が詰まります、出ましょう、・・・あぁ、出よう・・・。

 地下から戻った二人。

 やっと息がつけます、一瞬気を失いそうになりました。あの空気は鉛の雫のよう、あの闇は毒入りの捏ね粉のよう、ここには海の大気が、爽やかな風がある、緑の若葉、ほら、濡れた薔薇の香りがここまで漂ってきます。もう正午、鐘の音が聞こえます、あそこに母上とメリザンドが、ほら、塔の窓に。
 メリザンドのことだが、昨夜の出来事は見てしまったし聞いてしまった。無論、子供じみた遊びだろうが繰り返してはならんぞ。あれは感じやすいし、それにじきに母親になる身だ、労わってやらないと。お前たちに何かありそうだと感じたのはこれが最初ではない、お前はあれより年上だ、察してくれ、あれにできるだけ会わないように、それをあれに気取られぬように。

 城の前庭、ゴローとイニョルド。

 イニョルド、父の膝に座るがいい、ちっとも会わなかったな、いつもお母様と一緒だな。ほら、今、お母様は窓の下に座っている、夕べのお祈りだろうか、イニョルド、お母様はペレアス叔父さんと一緒にいるんだろう?うん、いつもだよ。二人は言い争っているらしいが、本当かな?うん、本当だよ。そうか、いったい何を争っているのかな?扉のこと。扉?開けておきたくないんだよ。誰が開けておきたくないんだ?知らない、明かりのことなんて。明かりじゃない、扉だ、さぁ!痛い、お父様が抓った!抓った?どこを?ここ、僕の腕を。さぁ、もう泣くな、明日、何か上げよう、何を?矢筒に矢だ、大きな矢?ああ、とても大きい矢だ、さぁ、答えるんだ、二人は何を話している?ペレアスとお母様?そうだ、僕のこと、いっつも僕のこと。お前の何を?僕がとっても大きくなるだろうって。あぁ、情けない!俺はまるで大海の底で宝を探す盲人だ!森で迷う赤子だ!
 イニョルド、ペレアスとお母様は俺のことは何と?お父様と同じくらいに僕も大きくなるだろうって。お前はいつも二人のそばに?うん、よそへ遊びには行かないのか?行かない、だって二人とも怖がるんだ。何を?二人とも暗がりで泣いているよ、そうすると僕も泣きたくなるんだ、お母様は蒼い顔をしているよ。あぁ、堪えよう、待つんだ。なに?何でもない、狼が森の中を通り過ぎだだけだ、あの二人は時々抱き合っているのか?ないよ、あっ、一度あった、雨の降っている日、一度だけ。
 どんな風に抱き合った?こんな風に・・・、お父様、お髭がちくちくするよ、真っ白なお髭、髪も真っ白、あっ、お母様が灯りをつけた、明るいね。明るくなったな・・・、僕たちも行こうよ、どこへ?明るいところへ。いや、まだ暗闇にいよう、ペレアスはおかしくなっているようだ。ううん、おかしくないよ、とても優しい。お母様を見たいか?うん、見たいよ!窓まで持ち上げてやろう、俺は背が高いがそれでも届かない、見えるか?お母様は部屋にいるか?うん、明るいよ。一人か?ペレアス叔父さんもいるよ、お父様、痛いよ!見るのだ、もっと見るのだ、イニョルド、二人は何をしている?
 何もしてない、寄り添っているか?話しているか?ううん、話してない、何をしているのだ?灯りを見ているよ、二人とも?そうだよ、何も言わずに?うん、瞬きもしないで。寄り添っているか?ううん、全然目を閉じないよ、僕、怖いよ。何が怖いのだ?見るのだ!お父様、下ろして!よく見るのだ!下ろしてよ、下ろしてよ!・・・よし。

 有名な塔の場面、メリザンドの歌う歌、メーテルランクの原作は、「黄金のランプを手にして塔を上っていく3人の盲目の姉妹」が「私たちのランプはもう消えてしまった」と歌うというシュールな情景を描いたもの。盲人にとって、ランプの火が明るかろうが、それが消えてしまおうが、何の意味もない、人間は、見えもしない望みの存在を信じて暗闇を歩く盲人に過ぎないのか。
 ドビュッシーのメリザンドはもっと単純で艶めかしい。身の丈よりも長い髪を解きつつ歌うのは、愛しい人を待つ女の怠惰にして蠱惑的な姿。「塔に寄り添い貴方を待つの」、貴方とはペレアスなのか?おそらく誰でも良かったのだろうと思われます。メリザンドが待っていたのは特定の男ではなく、運命が、自分よりも強い何かが連れてくる誰かであって、それがたまたまペレアスだったのでしょう。「日曜の真昼に私は生まれたの」、日曜日すなわち安息日、一切の労働が禁止された日、運命のままに漂うメリザンドの自嘲なのか。

 ペレアスはまたもや旅立とうとしますが、ただメリザンドの手が握れないというだけで今度もやはり出発できません。危篤の父と兄嫁の手が彼にとっては同じ価値なのです。あられもない姿で窓辺に佇む物憂げなメリザンドと一向に旅立てない怠惰なペレアス、メリザンドが見た「薔薇の花」は当然にゴローでしょうが、ペレアスはそれを確かめに行くと言いつつ、まだメリザンドの手に固執してそれをしません。そして、塔の窓から滝のように流れ落ちる金色の髪・・・、髪というのは身体の一部なのか、違うのか、実に厄介です。これが胸なら決定的なのですが、髪・・・、この微妙な対象が醸し出すむせ返るようなフェティシズム。
 メリザンドの髪を柳の枝に結ぶペレアス、原作では偶然に引っ掛かってしまうのですが、オペラでは意図的に結ばれます。これによって、二人の戯れがより官能的になりますが、「愛する」という意思が明らかになってしまい、運命に翻弄される二人の悲劇性は少々損なわれてしまっているように思います。

 塔から鳩が飛び立ちます。第二幕で嵐が待ち受けている暗い海に乗り出した船を見送った時と同様に、闇夜に飛び立った鳩はもう帰らないと淡々と語るメリザンド、アルモンド王国から出ていくのは死ぬ者だけ、ならば、運命がペレアスの旅立ちを止めたのは彼の命を救うためなのか?それとも、死すべき時まで待たせているだけなのか?

 「子供だな、お前たちは」、二人を嗤うゴロー、彼は一部始終を見ていたはず、その悪ふざけに潜む官能を感じ取ったはず、引きつった笑顔と上ずった笑い声、己の体面を守るための卑小な嘘は当のゴローの心を灼き、発せられなかった嘆きと怒声が行き場もなく闇を漂います。

 城の地下を歩く兄弟、すぐ足元でありながら光の届かない世界、この世とあの世の間、澱んだ水がアルモンド王国の土台を音もなく洗っています。カンテラを持つゴローの手は震えています。馬蹄や血に馴れている男が何に怯えて?ゴローは感じたのでしょう、メリザンドの言う「自分よりも強い何か」が存在することを、それも、すぐ近くに。
 芳しい大気の下、ゴローは言わなければならないことを切り出します。しかし、その声と言葉の何と女々しいこと、身重のメリザンドを労わる言葉は嘘ではないでしょうが、真実でもありません。ゴローが言いたかったことはそんなことではなかったはず。そして、ペレアスは傲慢ではなく怠惰ゆえ一言も答えない、ゴローの言葉はここでも行き場がないのです。

 幼いイニョルドに妻と義弟の仲を問い質すゴロー、彼の手には知らないうちに力が入り、イニョルドは痛いと泣き出します。メリザンドの手を握り潰したいと愛撫した彼の手は、愛する者を愛する故に傷つける手なのです。
 そして、イニョルドが証言するのは、愛し合っているというには余りに儚く、不義というには余りに幼い二人です。暗がりでいつも二人、瞬きもせずに明かりを見つめて泣いている・・・、兄嫁と義理の弟として出会ったことが悲しいのか?もうこの国から生きて出ることはない運命が悲しいのか?彼らの悲しみには形というものがありません。
 そして、ゴロー、真っ白な髭、真っ白な髪、嫉妬と不安はゴローに容赦ない、メリザンドが巨人かと見紛った偉丈夫は急速に老いて、我が子を潜望鏡に仕立てるまでに落ちぶれています。浅ましいと分かっていて、情けないと分かっていて、それでも覗かずにはおられない、不安は人の心に穴を穿つのです、滴り落ちる水が岩を穿つように。

 今、水は城の地下まで迫っています。メリザンドはまるで水死体のように柳の枝に髪を獲られ、ペレアスはもう逃げ出す意思すらなく、そして、ゴローは藻掻き始めています。残された時間はあと僅か・・・。


第四幕 水が逆巻く

 城の一室、ペレアスとメリザンド。

 今夜、どうしても話したいんだ・・・、父上は快方に向かっている。父上は僕の手を握ってこう言った、「ペレアス?お前は彫りの深い親しげな顔をしているな、早死にする顔だ、旅に出なさい」・・・。僕は父上に従うよ、母上も喜んでいた。君だって気づいたろう?城中が蘇ったようだ。息遣いが、足音が聞こえる、早く答えて、どこで会う?どこで?庭の「盲人の泉」、来られるかい?ええ。今夜が最後、僕は旅に出る、もう僕には会えないよ、そんなこと言わないで、いつだって貴方に会いたい、いつだって貴方を見つめているの。いくら見つめてもだめだよ、もう二度と見ることはないんだから、ペレアス、貴方の言うことが分からないわ。
 行こう、扉の後ろで人の声がする・・・。

 アルケル王登場。

 ペレアスの父は一命を取りとめ、喜びの太陽がようやく蘇る。閉め切った城の中で囁きながら暮らすばかりだった。わしは、メリザンド、お前を見守っていた。そなたは気にも留めまいが、そなたを見るのは痛ましかった。死の吐息を感じつつ生きるにはそなたは若く美しすぎる。だが、全てが変わるぞ、わしはこの年になって一番豊かな実りを手にするのだ。若く美しい者は、若く、美しく、喜ばしいことを呼び寄せる、新しい時代の扉を開くのはそなただ。さぁ、ここにおいで、なぜ黙っている?なぜ目を伏せる?そなたに接吻したのはそなたがここに来たあの日一度だけ、だが、老人は乾いた唇で女の額や子供の頬に触れねばならぬ、生命の瑞々しさを信じるために、死の脅威を一瞬でも遠のけるために、メリザンド、そなたが不憫でならなかった・・・。
 お祖父様、私は不幸ではありませんでした・・・、近くでそなたを見せておくれ、死を間近にすると美しいものが愛おしい。

 ゴロー登場。

 ペレアスは今夜旅立ちます。ゴローよ、額に血が、どうした?いえ、茨の垣を抜けて参りましたので、私がお拭き致しましょう。お前に触れられたくはない、分かるか?行け!話したくもない!俺の剣はどこだ?祈祷台の上に・・・。持って来い!
 海辺で飢え死にした農民が見つかりました。奴らは当てつけがましく我らの目の前で死ぬつもりらしい、剣は?何を震えている?殺しはしない、殺しに剣は使わぬ。なぜ俺を物乞いでも見るような目で見る?何か読み取ろうとしてか?俺が何を知っていると思う?ゴローよ、お前の妻は穢れを知らぬ目を・・・、穢れを知らぬ?穢れないどころか!神に説教でもしよう目だ、穢れを知らぬ目!睫毛を感じるほど近くにいても、この目の秘密は見抜けぬ、穢れを知らぬ目!天使たちがその中で洗礼を受けるかのような目だ、騙されんぞ、目を閉じろ!閉じろ!永久に閉じてやろうか?分からぬのか?他意はない、他意があれば言う男だ、俺は。逃げるな!その手を寄こせ!何て熱い手だ、行け!汚らわしい、消えろ!もう逃げようたって無駄だぞ!跪け!そら、長い髪がこうして役に立つ、右を向け、左を向け、アブサロム、アブサロム!前だ、後ろだ、床だ!どうだ、俺は老い耄れのように笑っているぞ!

 ゴロー!・・・どうぞお好きなように、俺はどうでもいい、他人のやることを覗き見はしない、待とう、そして、その時にこそ・・・、これも世の常か・・・。
 どうしたのだ?ゴローは酔っているのか?・・・いいえ、酔ってはおりません、私を愛していないのです、私は幸せではありません。もしもわしが神であれば、人の心を哀れみもしようが・・・。

 庭園の泉、夕暮れ、イニョルド。

 この石は重い、僕より重い、世界より重い、何より重い。岩と石の間に金色のボールが見えるのに届かないよ、この石はビクとも動かない。あれ、羊が鳴いている、お日様もいなくなった、子羊だちがたくさん、みんな暗いのが怖いんだ。寄り添って鳴いている、右に行きたくても行けないんだ、こっちを通る、何てたくさん、みんな黙っている、羊飼いさん、なぜ羊たちは大人しいの?いつもの小屋へ帰る道とは違うからさ。どこへ行くの?聞こえないの?もうあんな遠くに、小屋へ帰る道じゃないなら今夜はどこで眠るんだろ?すっかり暗くなった、誰かさんに何かを言ってこよう・・・。

 庭園の泉、夜、ペレアスとメリザンド。

 最後の夜だ、全てを終わらせてしまわないと・・・。僕は子供みたいに振舞って、戯れた、運命の罠の回りを。誰が僕の夢を破ったのか?僕は喜びと苦しみの叫びを上げて逃げようとしている、あの人に伝えよう、僕は逃げると。夜も更けた・・・、このまま旅立った方が良いのか、いや、あの人の目をしっかり見よう。もし今去れば、僕には何もない、思い出さえ、布袋でわずかな水を持ち歩くよう。見届けなくては、言わなくては・・・。
 ペレアス!メリザンド?こっちにおいで、明るいところに立たないで、話し合うことがたくさんあるんだ。明るいところにいたいのよ、塔の窓から見えるだろ、ここにおいで、気付かれなかったかい?ええ、貴方のお兄様は眠っていたわ、あと1時間で門が閉まる、どうしてこんなに遅れたの?貴方のお兄様が悪夢にうなされて、それに私の服が門の釘に引っ掛かって、ほら、裂けてしまったの。可哀想なメリザンド、小鳥みたいに息を切らして、僕のために来てくれたんだね、君の胸の鼓動は僕の胸の鼓動のよう、ここにおいで。なぜ笑っているの?笑っている?泣きたいくらいなのに。
 ずっと前にここに来たわね、そう、何ヶ月も前に、今夜なぜ呼んだか分かるかい?いいえ。君に会うのはこれが最後、僕は永遠に去らなくてはならないんだ、なぜいつもそう言うの?分からないの?分からないわ、遠くへ行くそのわけは、愛しているんだ・・・、私も。何だって?地の果てから囁くような声で僕を愛していると?いつから?ずっと、貴方と会った時から。
 こんな声を聞いたことがない!信じられない、メリザンド、なぜ僕が好き?嘘じゃないの?嘘なんて・・・、嘘は貴方のお兄様にしか言わないわ。君の声!水よりも爽やかで清らかで、僕の唇を濡らす、僕の手の中の泉のよう、君の手を!何て可愛い手、君がこんなに美しいなんて!君ほど美しいものを見たことがない。僕は探したんだ、美しいものを探し求めて巡り合えなかった、今、君がいる、君より美しいものはこの世にはない、君はどこにいるの?貴方を見つめているの、どうしてそんなに僕を見つめるの?あぁ、この木陰は暗すぎる、明るいところへ行こう、僕らの幸せが見えないもの。
 いいの、暗闇の方が貴方の近くにいられるもの、どこを見ているの、僕から逃げていくの?貴方のことしか考えていないわ、よそ見したね?他のところに貴方を見たの、嬉しくないの?嬉しいわ・・・、でも悲しいの。
 あの音、門が閉まる!閉まったわ、戻れない・・・、遅すぎる、その方がいいの、もうお終いだ、今夜で全てお終いだ、おいで、僕の心臓は狂ったように鳴っている、暗闇は何て美しいんだろう!
 誰かいるわ・・・、誰もいないよ、音がしたの、君の鼓動しか聞こえない、枯葉がかさこそと、風が凪いだ、私たちの影、何て長いの!影が庭の向こうで抱き合っているよ、あんな遠いところで抱き合っているよ、見てごらん!彼が木の後ろに!誰が?ゴロー!どこに?あそこ、私たちの影の先に、いる、見えたよ、剣を持っているわ、僕は丸腰だ。見ていたのね、私たちが抱き合うところを、行って!僕がここで引き止める、さぁ、行って!行けないわ、僕らを殺す気だ、その方が良いの!
 口づけを!口づけを!早く!早く!あぁ、星が全部落ちてくる!私の上に!もっと!もっと!全部よ!全部よ!

 ゴローの剣がペレアスに振り下ろされる・・・。そして、メリザンドは走り去り、ゴローは無言で後を追います。

 死の淵から生還したペレアスの父の言葉によって明らかになったこと、ペレアスもメリザンドも間違っていた、城に残る者が死んでいく運命なのです。彼らは、港を出て行く船を、塔から飛び立った鳩を、死ぬ者として見送って来た、実は、死に囚われているのは自分たちだと言うのに。水面に映る自分の姿、それはこちら側にいて水を覗き込んでいる自分なのか、水の底に沈んで虚ろな目を上に向けている自分なのか、父の言葉によって、ペレアスはやっと己を待っている運命を知り、旅立ちを決意します。
 しかし、ペレアスは、既に快感と苦痛の区別がつかなくなっています。死から逃れる喜び、メリザンドと別れる悲しみ、禁断の愛に終止符を打つ苦痛、兄を踏み付ける秘めた快感、ペレアスは渦巻く感情に引き込まれ、生と死の境界を見失っていきます。

 アルケル王は、メリザンドの憂い顔を不憫に思いつつも、その美しさと若さを愛おしみます。そして、メリザンドは答えます、私は不幸ではありませんでした、アルケル王の慈しみと優しさに応えて。

 海辺では農民たちが死んでいき、この国は破滅に向かって加速しています。しかし、ゴローはそれに苛立つだけ、彼は疑心に理性を蝕まれ、愛を乞う乞食に成り果てており、もう、誰にも、何も、与えることなどできないのです。

 ゴローが妻を罵る言葉、アブサロム、アブサロム!これは旧約聖書にあります。巨人ゴリアテを一撃で倒して民族の英雄となったダビデ。しかし、サウル王は、彼に王位を奪われるのではという不安に取り憑かれます。王を恐れたダビデは国を逃れるのですが、王は執拗に彼を追い回します。やがて嫉妬の余り正気を失った王は自らの剣の上に身を投げて死にます。跡を継いだダビデ、イスラエルの王となったダビデは19人の王子に恵まれますが、その一人、長男アムノンが異母妹のタマルに欲望を抱き、何と犯してしまうのです。タマルと同じ母を持つ三男のアブサロムが卑劣な異母兄を殺します。ダビデは美貌のアブサロムを愛していましたが、兄殺しとあってはどうしようもありません。ヘブロンに幽閉されたアブサロム、彼は父に反旗を翻します。父と息子が激突したエフライムの戦い、形勢不利と見て退却するアブサロムの長い髪が樫の枝に絡みつき、ダビデ軍の将軍ヨアブの槍がアブサロムの身体を貫きます。紀元前972年の出来事、アブサロム、アブサロム!それは、愛する息子を失ったダビデの嘆き、そして裏切りを呪う言葉。

 メリザンドは今度はこう答えます、私は幸せではありません、ゴローの渇きと暴力に応えて。メリザンドは、ここでも相手の姿をそのまま返すのみ。

 ゆっくりと、しかし確実に満ちてくる死を、イニョルドは感じ取っています。金色のボールを覆っている世界よりも重い石とは誰も逃れることのできない運命であり、その腕に取り込まれた者には逃れる術はない、そして、帰るべき場所から切り離されて、抗っているつもりが、実は確実に、整然と、死に向かって歩む羊たち。闇と静寂を誰かと分かち合おうと急ぐイニョルド。

 夜、死と愛の狭間で狂乱するペレアス、抑揚のない早口の呟き声(オペラの常識は完全に水面下)がその恐怖と歓喜を伝えます、漆黒の水面を走る銀色のさざ波のように。ペレアスとメリザンドはめまぐるしく言葉を交わしつつ絡み合います。おいで、菩提樹の影に、明るいところにいさせて。明るいところへ行こうよ、暗闇の方がいいの。愛の頂点に向かって上昇する言葉と生命の終わりに向かって下降する旋律がめまぐるしく位置を取り替え、吐息が闇に結露していきます。
 二人は初めて「愛している」と口にします。メリザンドはアルケル王の優しさに対して幸せを返し、ゴローの苦悩に対して不幸を返し、そして、ペレアスの愛に対して愛を返します。

 城門が閉ざされます。二人が会ってから1時間が経ったとは到底思えません、ゴローの仕業でしょう。もう戻れない、イニョルドが嘆いた羊たちと同じ運命が二人を待っています。死を前にして一気に燃え上がるエロス、星が全て落ちてくる、つまり、相対的に考えれば彼らは二人して星々の高みに上っていくのです。
 そう、彼らも、この城から一緒に出て行くはずだったのかも知れません、たとえ命を失ったとしても、二人一緒に・・・。しかし、ゴローが登場します。ゴローはただの一言も発しません、嘆きも、恨みも、呪詛もなし。ペレアスも一言も発しません、断末魔の叫びも、恐怖の喘ぎも、最後の愛の一言も。ただ、メリザンド一人が繰り返すのです、怖い、怖い・・・。

 全ては水面下に沈み、言葉はもう意味をなさない、ただの泡でしかないのです。



第五幕 すべてが水に沈んだ後に

 城の一室、メリザンドが寝台に横たわり、その傍らには医師、アルケル王、そしてゴロー。

 お后様のお命が危ないのはあの小さな傷のせいではありませぬ、あれでは小鳥も死にますまい、ですから、殿のせいではない、お嘆きなさいますな。医師がゴローを慰めますが、アルケル王は何やら不吉なものを感じている様子、あれの魂がゆっくりと冷えていくような・・・。ゴローの嘆き、謂れもなく殺してしまった!幼子のように抱き合っていた二人を、兄と妹のような二人を、我を忘れて!お静かに、お目を覚まされた・・・。

 窓を開けてくださいな・・・、大きな窓を、外が見えるように・・・、お日様が沈むのですね。そうとも、もう遅い、気分はどうだな?メリザンド。とても良い気分、でも、何か分かる気がします、何が分かるのかな?分かりませんわ、私、何を言っているのかしら?こうしてそなたの話が聞ける、何日もうわ言が続いたが今はすっかり良くなった!お一人ですか、お祖父様?お医者様がいるぞ、それにもう一人・・・、どなた?もしそなたが怖がるのなら彼は出て行くだろうが、どなた?そなたの夫、ゴローだ。
 なぜ傍に来ないの?メリザンド、メリザンド・・・、ゴロー、貴方なの?目に夕陽が入ってよく見えないの、貴方、やつれてお年を召したわ。どうか王と侍医殿、席を外して下さいませんか、あれに聞きたいことがある、聞かねば死ねない、どうか、お願いです。アルケルと医師、退場。

 メリザンド、俺を憐れんでくれるか?許してくれるか?もちろん許しますわ、でも、何を許すの?お前に酷いことをした、今になって分かったのだ、初めて会った日のことが。全て俺の過ち、これまでのことも、これからのことも、全て。今になって悟ったのだ、何もかもを!しかし、俺はお前を心底愛していた、今、ここで死んでいくのは俺だ、だから知りたい、恨んでくれるな、真実を知りたい・・・、お前はペレアスを愛したのか?もちろん愛しました、今、どこに?お前は罪を犯したのか?いいえ、罪など犯してはいませんわ、なぜそんなことを?真実を言ってくれ!ありのままに申しました。最後に嘘を言うな!誰が最後なの?・・・私?お前、そして俺だ、真実が必要なのだ、全てを言ってくれれば全てを許そう!
 私、死んでいくのね、知らなかったわ、早く!真実を!ありのままを・・・?メリザンド、どうした!どうか、王よ、侍医殿よ、来てください!遠いところへ行ってしまった・・・、あれを殺すつもりか?もう殺してしまいました。

 お祖父様?そうだよ、娘、何か頼みがあるか?冬が来ますの?なぜ?寒いの・・・、では窓を閉めよう、いいえ、お日様が海の底に沈むまで、それで冬になるのね。冬は嫌いか?嫌い、寒いのが怖いの。・・・お前の子に会いたいか?

 子供?お前の子、お前の可愛い娘だ、どこに?ここに、抱こうとしても腕が動かないの、わしが抱いて上げよう、ご覧。笑わないわ、この子も泣きそう、かわいそう・・・。

 扉から一人ずつ、侍女たちが登場。

 何ごとだ?誰が呼んだ?何をしに来たのだ?答えろ!声を荒げるでない、ほら、目を閉じたぞ、では・・・?いえ、息をしておられます。泣いているのは彼女の魂か、腕を伸ばして、何を求めている?母君が姫様を探しておいでなのでしょう。話してくれ、話せ・・・、言いたいことがある、メリザンド!メリザンド!二人きりにしてくれ!
 ならぬ、近づくな、乱すな、もう話しかけるではない、魂がいかなるものか、お前には分からんのか・・・。俺のせいじゃない、俺のせいじゃない!静かに・・・、魂とは静かなもの、一人で旅立ちたいのだ、こんなにもひっそりと、ゴローよ、目にする全てが悲しい、あぁ。

 壁際に並んだ侍女たちが一斉に跪きます。

 医師がメリザンドの脈をとります。この通りでございます、まことか?さようでございます、何も聞こえなかった、何も言わなかった、逝ってしまったのか・・・。ゴローよ、ここで泣くでない、あれには静けさが必要なのだ、さぁ、おいで。酷いことだがお前のせいではない。あれはひっそりとした存在だった、まるでこの世のように不可思議で不憫な存在だった。今はこの子の姉のように横たわって・・・、行こう、この子をここに置いてはならぬ。
 今や母親に代わってこの子が生きねばならぬ、可哀想なこの子の順番が来たのだ・・・。

 オペラではカットされましたが、メーテルランクの原作では、第一幕冒頭(こちらもオペラではカットされましたが)に登場した女中たちが再び登場します。城の地下室で、噂話に興じながら彼女たちは待っています、今夜のうちに届く知らせを、上にあがるべき時を、外で遊んでいる子供たちの声が静まる時を、ひたすら待っています。
 ゴローとメリザンドは寄り添って城門の前に倒れていた、メリザンドの傷は小さかったが、ゴローの脇腹には剣が刺さっていた、おそらく自害し損なったんだろう。ところが、ゴローは回復したというのに、メリザンドは衰弱する一方、そして、3日前に女の子を産んだ、乞食ですら欲しがらないような蝋細工のようなひ弱な子を。そして、ペレアスのその後は誰も知らない、いや、誰もが知っているが何も言わない。
 静寂・・・、時が来た・・・。

 小鳥でも死にそうにない傷で死にそうなメリザンド、理由もなくこの世に生まれ、理由もなく死んでいく、そして、人はそれをただ受け入れるのみ、アルケル王ばかりか、死に抗うことが使命であるはずの医師までも、静かに運命を受け入れています。しかし、ただ一人ゴローだけが足掻くのです。
 二人は幼子のように抱き合っていたのに、兄と妹のように抱き合っていたのに、殺してしまった・・・、そう言っておきながら謝罪を与えるのではなく許しを求めるゴロー、それに対するメリザンドの何という非情、許すわ、でも、何を・・・?ペレアスが殺されたことも、自分が殺されそうになったことも忘れている、脅そうが、殴ろうが、命を奪おうが、ゴローの存在はメリザンドには全く無意味、これは許しではない、抹殺です。
 そして、あれほど恐れていた不義の事実を懸命に求めるゴロー、不義がなければ彼はただの弟殺し、ゴローには不義がどうしても必要なのです。寝取られ男になることが弟殺しから逃れるための唯一の救済、いくら足掻いてもゴローは水の底まで沈んでいくでしょう。
 メリザンドはゴローに救済を与えません。「罪など犯してはいません」「私はありのままを申しました」、そして、「私は死んでいくの?なぜ?」、ゴローは不義の妻を殺すことも叶わないばかりか、その死からも隔てられてしまうのです。そして、メリザンドは、真実を!と自分を責めるゴローに、真実を・・・と返すのみ。

 寒いわ・・・、メリザンドは死を寒さとして感じています、水は凍ってしまったら動かないもの。

 メリザンドは子供を生んだことも忘れています。娘を抱くこともなく逝くメリザンドの最期の言葉、それは「かわいそう」、誰が可哀想なのか?結局どこへも行けないまま兄に殺されたペレアス?生まれた日に母を亡くす娘?俺を寝取られ男にしてくれと懇願するゴロー?メリザンドの「かわいそう」は、この世ではないどこかから聞こえてくるかのようにリアリティがありません。呟きが消えた時に残るもの、それは「自分よりも強い何か」を前にした人には敗北しかあり得ないのに、それ以外に生もあり得ないという、生きることそのものの哀しみ。そして、メリザンドはそんな哀しみから自由、彼女は何一つ求めず、決して逆らわず、透明なままで、清らかなままで、元々そこには属していなかった世界から去っていくだけ、残る者全てを冷酷に踏みにじっておきながら、無垢の犠牲者として悼まれつつ去っていくだけ。究極のヒロイン像がそこにあります。
 物語は三角関係ですらありません。メリザンドは、自分を見つめる相手の姿をそのまま返すだけ、行くと言いつつどこにも行けないペレアスの弱さが愛おしかったから、愛を返し、猛々しく獲物を追うゴローの強さが哀しかったから、嘆きを返した。ペレアスに必要なのは強さであったし、ゴローが何よりも欲したのは愛であったのですが、メリザンドは映すだけで何も与えはしないのです。
 メリザンドもペレアスも、そしてアルケル王も、皆、「自分よりも強い何か」に逆らおうともせず、はじめから定められた物語を演じるだけ、ただ一人、ゴローだけが「自分よりも強い何か」から己の運命を取り返そうと戦います。そして、そんなゴローはメリザンドゆえに破滅します。
 メリザンド、彼女は水、水はただそこにあるだけ、ある人はそれを眺めて楽しみ、ある人はそれに溺れて死ぬ、それは水のせいではありません。メリザンドは、汚れることもなく、透明なままでするりとゴローの手から抜けていきます。彼女が行く先を彼女に聞いても無駄というもの、水はその行く先を自分で決めはしない、それを決めるのは人、常に人なのです。

 そして、物語は終わります。舞台の上にはメリザンドの遺体のみ、音は消え、光は消え、沈黙が全てを支配します、まるで深い深い水の底のような沈黙。決して見ることの出来ないとてつもなく大きな力、それは水というこの星の生命の源に姿を借りた運命なのでしょう。

 この作品、今聞こえている音ではなく、音が消えた時の無音が語る物語です。フランス語の抑揚をそのまま語るかの如く歌うという変わった作品ですので、普通に聞いている分には、その響きの美しさにうっとりする反面、申し訳ないがどうしても眠くなる・・・。私としては、聞くのではなく見ることをお勧めしたいです。
 ブーレーズ指揮、ペーター・シュタイン演出、ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団のDVDがお勧めです。アリスン・ハーグレイのメリザンド、ニール・アーチャのペレアス、そして、ドナルド・マクスウェルのゴロー、ハーグレイはこの無垢なる悪女、あるいは嘆くことを知らない犠牲者を実に美しく表現しています。アーチャも無気力な美形の王子様にピッタリ、マクスウェルも水面を引っ掻くが如き男の悲しさを十分引き出しており、納得の一枚です。



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