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チャイコフスキー 「スペードの女王」 (2004年2月19日〜2004年4月1日の日記より)
最後に勝つのは胴元です
私の住んでいる町の話で恐縮ですが、駅前の交差点の近くにパチンコ屋があります。この交差点は交通量も信号の待ち時間も平均的、ごくありふれた交差点なのですが、ある日、気付いたんですね、左右をキョロキョロと見渡して信号無視して横断する人は、ほぼ全員がパチンコ屋に入ることに。信号待ちの僅かの時間さえ惜しいと感じさせる何かがパチンコにはあるらしいのです。私自身は大昔に一度パチンコ屋に入ったことがありますが、そのあまりの騒音に5分で逃げ出し、それ以来入ったことありませんので、その魅力は全く理解できませんが。
たいていの町にはパチンコ屋があります。さぞ家賃が高いであろう駅前のビルの一階を占有しています。たとえば私の住んでいる町の駅周辺には4件のパチンコ屋があります。因みに本屋は3件、寿司屋は2件、パチンコは本や寿司よりも必要とされているようです。
しかし、考えてみて下さい。駅前に大きな店を構えて、高いテナント料を払って、4件も競合しているのに商売が成り立つ、ということは、それだけパチンコ屋は儲かっているということです。つまり、客がカモられているということです。
ギャンブルの起源は占いと言われています。未来の幸運あるいは不運を知りたい、天災や地変を知りたいという欲望がやがてギャンブルに発展していきます。古来よりギャンブルは常に権力者によって禁止されてきました。日本では689年に早くも「すごろく禁止令」が出されております。その後も鎌倉幕府法、室町時代の「健武式目」、江戸時代の「かるた博打諸勝負堅御法度」、明治時代の「新律綱領」等々、これだけしつこく禁止しなければならない、それでも根絶やしにできないという事実が、ギャンブルの誘惑がいかに強いかを証明しています。
ギャンブルとは確率のゲームです。ルーレット、一番簡単な赤と黒の場合、どちらも当たれば二倍になります。赤と黒の出る確率はそれぞれ50%ですから、同じ金額が行ったり来たり、これでは胴元はボランティア?んなワケはなくて、「0」と「00」が出れば全ての掛金は胴元のものです。確率は非常に低い、これで胴元が儲けるにはたくさんの人を相手にたくさんの勝負をする以外にありません。賭ける人が大勢いれば確率は一定に収束し、いずれ必ず「0」と「00」が出るのです。つまりギャンブルは多くの人に魅力的でなければ成立しません。滅多に当たらない、でも間違いなく誰かが当たっている、いつ当たるのか分からない、次は自分かも・・・、ギャンブルは未来を知りたいという占いを起源に持ちながら、その未来の不確定性ゆえに成立するという拗くれた「鬼っ子」です。
G1レースで大穴が出てもJRAは経営危機には陥りません。一等賞金が1億円の1枚300円の宝くじ、発行元の銀行が損をしたとは聞きません。ギャンブルで最後に勝つのは胴元です。林立するパチンコ屋のピカピカのネオンの数がそれを教えてくれます。
さて、ギャンブルには掟があります。支払はきっちりと!これです。負けを踏み倒そうとすれば、怖いおにーさんたちがやって来て、東京湾に沈むことになるかも知れません。客も胴元も、いくら負けようが支払から逃げることはできません。運命は決められた期日に必ずあなたの部屋のドアをノックします。ある時は美しい幸運の女神の姿で、ある時は大鎌を構えた死神の姿で。
この作品の原作はプーシキンの「スペードの女王」、ファラオンというカードゲームが運命の鍵、切ない希望、悪魔の仕掛けた罠、そして死神の振るう大鎌となります。このゲーム、二組のカードを使うルーレットと思えばいいでしょうか。AからKまでの11の枠に配られたカードのどれかを選んで客が金を賭けます。親がボックスから2枚のカードを引き抜いてそれぞれの枠内のカードの左右に配ります。左のカードが客、右のカードが親、勝ちのカードを当てた客は掛け金と同額を親から受け取ります。
ドイツ移民の工兵ゲルマン、「余分な金を手に入れようとして、入用な金が投げ出せる身分ではない」彼は、友人のトムスキーの祖母、御年80歳のフェドトヴナ伯爵夫人が、その昔、ヴェルサイユ宮殿の賭場でこのファラオンでオルレアン公に3回立て続けに勝って大金を手にしたという話を耳にします。伯爵夫人にこの必勝法を授けたのは怪しげな錬金術に入れあげていたサン・ジェルマン伯爵だったとか。誰もが喉から手が出るほど欲しいその必勝法は伯爵夫人の干涸らびた脳の中・・・。
何とかこの必勝法を知りたいゲルマンは、伯爵夫人の養女リーザを誘惑します。連日のラブレター攻勢(全部本の丸写しですが)にリーザ陥落、「今宵、私と伯爵夫人は舞踏会に出かけます、留守の間に私の部屋に忍んで私を待っていらして」・・・。まんまと屋敷に忍び込んだゲルマンの目的地は当然に伯爵夫人の寝室の方です。暗闇でじっと伯爵夫人の帰りを待ち受けるゲルマン。
どうか驚かないで下さい。あなたは3枚のカードを立て続けに当てる秘策をご存じとか、それをどうか僕に!老婆に迫るゲルマン、突然の闖入者に茫然自失の伯爵夫人は口がきけません。こうなりゃ力づくで、ゲルマンがピストルを取り出した途端、伯爵夫人の年老いた心臓は動きを止めてしまいます。「あなたは恐ろしい魔物」「殺すつもりはなかった」、東の空が白み、ロウソクが燃え尽きた時、ゲルマンはリーザの元を立ち去ります。
伯爵夫人の葬儀、罪の意識か、失われた必勝法への未練か、棺に近づき恐る恐る死者の顔をのぞき込むゲルマン、僕を見ている、ほら、目を細めて嘲りの視線を僕に投げた・・・、逃げ帰ったゲルマンはしこたま酒を飲んでベッドに潜り込みます。
その夜、月明かりの下、ゲルマンの部屋のドアがそっと開きます。そこに現れたのは白装束に身を包んだ伯爵夫人の亡霊。3、7、1と賭けなさい。但し一晩に一回だけ、勝ったなら生涯カードに触れてはなりません。そして、リーザと結婚するのなら私はあなたを許します・・・。
ゲルマンの頭は3、7、1で一杯。何を見ても何を聞いても3、7、1に見える、聞こえる。とうとう大金持ちのチェカリンスキーが胴元となりファラオンが開帳される夜がやってきます。全財産を持ってサロンに現れたゲルマンは3に賭けて見事に大金をものにします。翌日、その大金全てを7に賭けてこれも当たり。そして三晩目、限度額を遙かに超えた大勝負、ゲルマンが選んだカードの左右に胴元がカードを配ります。右にクイーン、左にエース・・・勝った!ゲルマンが叫びます。胴元が静かに言い返します、いいえ、あなたの負けです、あなたのカードはスペードの女王です。
まさか!驚いて自分のカードを見るゲルマン、スペードの女王、たしかにエースだったのに、あり得ない、あり得ない!スペードの女王はゲルマンにニヤリと笑いかけます、あの婆だ!
ゲルマンは今、精神病院にいます。何を訊かれても「3、7、1」「3、7、女王」としか答えません。リーザは気立ての良い役人と結婚し、慎ましく暮らしています。
ロシアの散文文学を完成させたプーシキンの手によるゴシック・ホラー、ゲルマンの一見冷静に計算された野望が狂おしい幻視を紡ぎ出し、読む者はそれを彼と一緒に見せられてしまうのか、それともゲルマンの見た「現実」は、生きる者と死んだ者の狭間に間違いなく存在する「トワイライト・ゾーン」なのか。ピョートル大帝のお気に入りであったエチオピアの将軍ハンニバルの野生の血を受け継ぎながら、近代フランス哲学の父ヴォルテールの理性によって磨かれたプーシキン、西欧への屈折した憧れと劣等感に覆われた北の大地を吹き渡るのはナポレオンを打ちのめした新しいロシアの風、その風を全身に浴びたプーシキンならではの作品です。
参考文献:世界大百科事典(平凡社)
第一幕 愛か、さもなくば死か
どっしりと重たい序曲、暗い宿命、それを冷たくせせら笑うのは黒衣を纏ったスペードの女王、ガタガタと音階を駆け下りるのは地獄への道を急ぐ亡霊か、物語の行く末は既に明らかです。幕が上がれば舞台は一転して陽光に満ちています。時は18世紀の後半、所はロシアの古都ペテルブルクの「夏の庭園」、やっと訪れた春を喜ぶ人々、はしゃぐ子供たちを見守る乳母や住み込みの家庭教師たち、勇ましくもかわいらしい兵隊ごっこにはナポレオンを追い返したロシアの喜びが溢れています。束の間の光、束の間の生・・・。
スーリンとチェカリンスキー登場、昨夜は?ボロ負けさ!ゲルマンも一緒に?あいつはいつも見ているだけさ、変人だな、というより貧乏人さ。噂をすれば何とやら、トムスキーと一緒にゲルマン登場。ゲルマン、顔色が悪いぞ、朝まで賭場に入り浸ったりするからさ。違う・・・、実は、恋をしているんだ。誰に?名前は知らない、名前なんて知りたくない、ただもう彼女が恋しいんだ。だったらさっさと名前を突き止めて告白しろよ。彼女は高貴な身分なんだ、僕には到底手が届かない・・・、でも諦められない!情熱が僕を蝕んでいく、僕は恋してる!
庭園をそぞろ歩く人の群れ、やっと春、澄み切った空、五月、素敵な殿方が大勢、目移りしちゃうと若い女たちが軽やかに笑えば、昔の方が暮らしだって陽気だって良かったさと愚痴をこぼす老女たち。
そこに登場したのは婚約ホヤホヤのエレツキー、一同からの祝福を喜ぶエレツキーの傍らで辛い恋を呪うゲルマン。おっと、彼女が来た、年老いた伯爵夫人と共に登場した美女、彼女って?だからあの美女がエレツキーの婚約者、リーザさ。何ということ!何ということ・・・、なるほど、リーザがゲルマンの秘密の恋人ってわけか。
また彼だわ、私を見つめるあの瞳、情熱と狂気、私、怖いわ、リーザを怯えさせるゲルマンの暗い瞳に不吉なものを感じる伯爵夫人、いえ、当のゲルマンも、エレツキーもトムスキーも何やら背筋に冷たいものを感じ取っています。そんな空気を嫌ってリーザの手を取って歩き出すエレツキー。
やれやれ、伯爵夫人、あの婆さんときたら、まるで魔女だね、同感!何しろ渾名が「スペードの女王」だ、でもカードをやっているところは見たことないな。君たち、知らないんだなとトムスキー。伯爵夫人はかつて「モスクワのヴィーナス」って呼ばれたこともある。パリ中の男が熱を上げてさ、あのサン・ジェルマン伯爵もぞっこん、ところが彼女、男よりカードに夢中でさ。ある夜、ヴェルサイユ宮殿の賭場でヴィーナスは大負け、そこにつけ込んだのがサン・ジェルマン、甘い声で持ちかけた、一晩お付き合い下されば三枚のカードの秘密を教えましょう。翌日、ヴィーナスは再び賭場に現れた。そして、3回立て続けに大勝負に勝った。カードの秘密は夫とどこかの美青年の知るところとなったんだが、その夜亡霊が現れて彼女に告げた、お前は死ぬ、三枚のカードの秘密を求める恋に狂った第三の男によって死ぬ!
ふん、良くできた怪談だな、なあ、ゲルマン、元手なしで大金を手に入れるチャンスだぜ、おっと、一雨来そうだ。
三枚のカードの秘密・・・、エレツキー、彼女は渡さない!彼女は僕のものだ!土砂降りの雷雨の中、一人立ちつくすゲルマン。
伯爵夫人の館ではリーザとポリーナ、そして友達が集まっています。ポリーナが古い歌を歌います、草原を駆け、桃源郷に目覚めるの、幸せは束の間、喜びも憧れも束の間、結局私が得た物はお墓・・・、ちょっと、そんな陰気な歌止めてよ!陽気な歌にしましょう、そして踊りましょう、娘たちがはしゃいでいると、お静かに!と家庭教師登場、もうお開きの時間ですよ!
リーザ、婚約したばかりだっていうのに寂しそうね、いいえ、そんなことないわ・・・。精一杯気を張っていたリーザですが、一人になるとその目からは大粒の涙が。私には勿体ない縁談なのにどうしてこんなに悲しいのかしら、秘密のせいね、私の秘密、それは彼のあの暗い瞳、あの瞳が私の心を奪ってしまったの。
バルコニーからいきなりゲルマンが登場します。出て行って、人を呼びますよ!どうぞ呼んで下さい、どのみち君なしじゃ僕は死ぬ他ないんだから。だから、ひとときでいいから僕と一緒にいて下さい、君の美しさを胸に死ねるように、リーザ、何と美しい!憂鬱な顔をしないで、僕を見下ろして下さい、リーザ、泣いているの?僕を哀れんでくれているの?ありがとう、僕の天使!
そこで何やっているの?ゲルマンがバルコニーに身を隠したところで伯爵夫人登場。リーザ、さっさと戸締まりをして寝なさい!いったい何時だと思ってるの。
情熱に狂った男が三枚のカードの秘密を求めてやってくる・・・、リーザ、僕は死にたくない、君と生きたい!私に何ができると?出て行って下さい、つまり僕に死ねと?だめ、生きて!生きて・・・。
寄り添う二人を闇がそっと包みます。
チャイコフスキーは敢えてプーシキンの原作を無視しました。一山当てて貧困から抜け出すためなら何でも利用する冷酷な野心家ゲルマンは、名前も素性も知らない女性に焦がれた挙げ句に暴走する情熱的な恋人に、伯爵夫人の養女とは名ばかり、我が儘な老女にこづき回される体の良い小間使いに過ぎないリーザは、伯爵夫人の孫娘でありエレツキー公爵の婚約者という何不自由ないお嬢様に、原作ではたった一行しか出番のなかったエレツキーは、ゲルマンとリーザの前に立ちはだかる恋敵に変貌しました。
運命の恋、三角関係を持ち込んだことで、プーシキンの原作の持つ無機質なタッチと乾いた人間描写は失われてしまいました。チャイコフスキー兄弟(このオペラの台本は作曲家とその弟モデストです)は、モノクロームの美しい素描を極彩色の油絵の具で描き直してしまったのです。
プーシキンはロシア文学の頂点に輝く作家です、言ってみればロシアのシェイクスピア、ロシアのゲーテ、ロシアの紫式部です。そんな原作を敢えて変更した、これは蛮勇ではなくて配慮の結果だと思います。チャイコフスキーは原作に挑むのではなく、似て非なる物を創造することで、偉大なる作家の前をそっと顔を伏せて通り過ぎようとしたのだと思います。
リーザの不幸な境遇につけ込んで利用するプーシキンのゲルマン、彼が欲しいのはカード必勝法だけです。トムスキーの口から往年の「スペードの女王」の必勝伝説を聞いた時から、ゲルマンはただ一つの目標に向かって迷いがありません。伯爵夫人の秘密の扉を開く鍵がたまたまリーザだっただけ、リーザの立場にあるのが男だったらオカマをやることも平気だったはず。彼は、罪の意識にも自己嫌悪にも苛まれることもなく、合理的に冷酷に目的を追い求める一点の憂いもない男です。
高嶺の花にひたすら恋い焦がれるチャイコフスキーのゲルマン、彼は伯爵夫人の逸話を間違いなく聞きました、ちゃんと記憶しています、しかし、それで何をどうすればいいのか分かりません。チャイコフスキーはここにカードの秘密を知る第三の男が伯爵夫人の命を奪うという原作にない設定を織り込みます。ゲルマンは最初から金持ちになるには殺人を犯さなければならないと知っているのです。彼の心に無意識のうちに欲望と恐怖が忍び込みます。殺すことを恐れなければ金持ちになれる、エレツキーより金持ちになれる、しかしリーザの、愛する女の祖母を金のために殺せるのか?激しい雷雨の中、彼が感じるのは原作には欠片もない憂いと迷いです。バルコニーでの逢瀬、リーザを抱きしめるゲルマン、その脳裏を執拗によぎる三枚のカード、今宵、彼は自分の動機が愛だと果たして言い切れるでしょうか?
プーシキンのリーザは未来に何の希望も持てない怯えて震えている哀れな女に過ぎません。伯爵夫人を取り巻く華やかな貴族たちの誰一人として彼女には目もくれません。いれば便利だけどいなくても誰も困らない女、忘れられた女、そんな女であればこそ、ゲルマンの冷たい野心の無垢な犠牲者であることができるのですが、チャイコフスキーはそんなリーザに伯爵夫人の孫娘の地位と美貌と玉の輿を与えました。恵まれた境遇にありながらなぜか怪しげな男に惹かれるリーザ、彼女はゲルマンの暗い瞳に怯えつつ、それを愛ゆえと信じます。夜の闇の中で自分を見つめる男の瞳の奥に宿るもの、今宵、それが愛であると、彼女は本当に言い切れるのでしょうか?
光と闇のコントラストが鮮やかな第一幕、穏やかな春の日差しの中、叶わぬ恋と知りつつ、いえ、叶わぬ恋だからこそ暗い情念を燃やすゲルマン、秘密の恋人の名を知る喜びは同時に彼に負け犬の烙印を押し当てます。カードの秘密が彼の心に嵐を巻き起こし、心地良く晴れ渡った空は一転して土砂降りに。愛を求める男の瞳の奥に欲望が燃え、理性を宿す女の瞳の奥に愚かな憧れがきらめき、めまぐるしく交錯します。コッテリと濃い味付けの旋律、破滅をもたらすスペードの女王は、美味しそうな獲物を前にひどく空腹であられる様子です。
第二幕 富か、さもなくば死か
さる大金持ちの貴族の館、今宵は仮面舞踏会が開かれています。暇をもてあました「余計者」たちの姿がここにも。ゲルマンの恋患いはどうなった?恋?やつが夢中なのはカードの秘密の方さ、あれでゲルマン、しつこいぜ、どうなるか見物だな。
エレツキーとリーザ登場、婚約者の憂い顔が心配で堪らないエレツキー、「私は貴女を愛しています」、貴女のためなら何でもします、だから慰めさせてほしいのです。しかし、貴女は私を避けている、どうして苦しみを分け与えてはくれないのです?貴女なしでは生きられない、私を信じて下さい!
仮面舞踏会だというのに仮面も付けずにゲルマンが登場、彼女に会いたい、会って忘れたい、カードの秘密を・・・、それさえ知れば大金持ち、リーザを連れてどこか遠くに・・・くそっ、忘れたいのに忘れられない!その有様を見てチェカリンスキーが悪ふざけ、ゲルマンの耳元にそっとささやきます、君が第三の男だろ?えっ、空耳か・・・?
今宵の余興はオペラ「羊飼いたちの忠誠」、美しい娘に求愛するのは貧しい羊飼いとリッチな貴族、僕のありったけの情熱を!山のような黄金と宝石を!美しい娘が選んだのは羊飼い、キューピッドに祝福されて愛を誓う二人・・・。余興など全く見えていないゲルマンの網膜にいきなり飛び込んできたのはレトロな盛装に埋もれた伯爵夫人の姿、今度はスーリンがからかいます、ほら、お前の恋人だ!
仮面に顔を隠してリーザが現れます、これは秘密の扉の鍵よ、扉を開けて階段を登ればお祖母様の寝室よ、何だって、伯爵夫人の寝室?でもお祖母様はいないわ、その部屋を抜ければ私の部屋よ、待っています、あなたを待っています、明日・・・。いや、今夜だ、今夜行くよ、ことを急ぐゲルマン、カードの秘密が今夜手に入る!
儀典長が仰々しく女帝エカテリーナの登場を告げ、舞踏会は最高潮。しかし、女帝万歳の大合唱もゲルマンの耳には聞こえません。
深夜、伯爵夫人の寝室、ゲルマンが登場します。怖いのか?怖いもんか、秘密を聞き出すんだ、「モスクワのヴィーナス」、お前と僕とは運命の道連れ、お前が死ぬか、僕が破滅するか、どちらかが犠牲になる定めなのさ、おっと、帰ってきた・・・。
小間使いたちに囲まれて伯爵夫人とリーザがご帰還です。お嬢様、お顔の色が悪いですよ、家庭教師が尋ねます。彼が来るのよ、何ですって?私は彼を選んだの、彼は私の運命の人なのよ。
あぁ、うるさい連中だね、もう私はクタクタよ、今日日の貴族ときたら楽しみ方も知らないんだから。あの頃は良かったよ、オルレアン公にポンパドゥール夫人、もちろん国王陛下も・・・、思い出は気持ちを高ぶらせるわ、お前たち、いつまでいるの、さっさとお下がり!
思い出に浸って長椅子に微睡む夫人の前にゲルマンが。驚かないで!危害は加えません、一つだけお願いがあるのです。三枚のカードの秘密を僕に下さい。あなたにはもう価値のないもの、それが僕を最高に幸せにしてくれるんです。その秘密は罪、悪魔との取引だというのなら、僕が罪を引き受けます、どうか教えて下さい!伯爵夫人は茫然自失、口をきくどころじゃありません。ならばこうだ!ピストルを引き抜くゲルマン、ガキの使いじゃないんだ、答えろ!答えろ・・・、死んでる・・・、死んでる、死んだ!
ゲルマン、あなた、ここで何を?扉からリーザが登場します。伯爵夫人が死んだ、何も言わずに・・・、誰が死んだんですって?予言の通りさ、第三の男が現れて、そして死んだ、でも僕は秘密を聞いていないのに・・・。なんてことを、あなたが殺したの?殺したんじゃない、カードの秘密が欲しかっただけなのに・・・。そのために今夜ここに?私ではなくカードの秘密が目当てで?こんな男を愛するなんて、人殺し!人でなし!出て行って!さっさと出て行って!
殺したんじゃない!泣き伏すリーザと「モスクワのヴィーナス」の冷たい骸を残して夜の闇に走り去るゲルマン。
エレツキーが格調高く歌い上げる「私は貴女を愛しています」、選び抜かれた真摯な言葉と甘く優雅な旋律、お育ちの良さが匂うようなアリアなのですが、悲しいことに二重唱にはなりません。リーザの心は既に彼から離れてしまったのです。
「私の愛しいお友達」、18世紀ロシアの宮廷劇の様式を踏まえた古風な劇中劇、素朴な甘さ、添加物抜きの漉し餡のように滑らかな旋律が心地良い。財産なんか欲しくない、宝石なんか欲しくない、私は野原の真ん中で愛する人とあばら屋で暮らしたい・・・、愛とはこれほど単純でこれほど力強いもの、しかし、悪友たちのサブリミナルというか洗脳というか、ゲルマンの頭の中は莫大な富をもたらすはずのカードの秘密で一杯です。あぁ、ゲルマン、君はこの場の誰よりもこの劇をしっかりと見なければならなかったのに。
この劇中劇はドラマの進行を一時ストップさせてしまいます。扱いを間違えると、破滅に向かって突き進む登場人物たちの醸し出す緊張の糸をぷっつんと切ってしまうことになりかねません。しかし、チャイコフスキーは極め付きに美しい叙情的な旋律によって、当人たちにとっては「運命の一夜」であっても、無関係な人間にとっては相変わらずの愚かしくも楽しい、今日の終わりで明日の始まりの「タダの夜」でしかないというアイロニー溢れるコントラストを織り込んでいます。ゲルマンにたちの悪い悪戯を仕掛けて楽しむチェカリンスキーとスーリン、彼らにはこれから先の悲劇は当然見えず、ただ気晴らしをしているに過ぎません。ある人間にとっての戯れがある人間にとっては奈落の底への片道切符、単眼で描かれた短編小説に複数の視線を持ち込むことで、聴く人間、見る人間は、ここから先、恐怖と絶望に向かって真っ逆さまに落ちていく展開から一瞬解放されます。これがくせ者です。ジェットコースターだってあのガチャンガチャンって登っていくところが一番怖いです。
音楽の完成度とは裏腹に、この幕、プーシキンの原作をいじくったツケが回ってきております。ゲルマンはリーザが欲しかったはず、そのリーザはエレツキーの愛の言葉に無言を通し、ゲルマンに秘密の鍵を与え逢瀬を約束した、ゲルマンの望みは既に実現しております。後は駆け落ちするなり、エレツキーと決闘するなり好きにすりゃいい。ところがゲルマンはリーザの愛の鍵で、富への扉をこじ開けようとしてしまいます。鍵が合うはずありません。
殺したんじゃない、カードの秘密が欲しかっただけってね、カードの秘密=伯爵夫人の死なのです。原作のゲルマンは、何でこんなことに・・・と巨万の富への踏み台に過ぎなかったリーザの元を静かに立ち去る過失致死犯ですが、オペラのゲルマンは、「そうなるかも知れないと知った上で、そうなってもよしとして」、明らかに未必の故意の殺人犯でありながら、殺したんじゃない!と叫んで飛び出すトンデモな男になってしまいました。
ゲルマンはいったいいつ殺人者に変貌した?これが非常に分かりづらいのがこの作品の最大の難点です。
ゲルマンはなぜリーザに惚れた?彼女が金持ちだったからなのではないか?ゲルマンは本当に金ではなく愛が欲しかったのか?それとも金も愛も欲しかったのか?いえ、まさか・・・愛ではなく金が欲しかったのか?第一幕での情熱溢れる愛の言葉が無惨に裏切られ、エレツキーの「私は貴女(リーザ)を愛しています」の直後のゲルマンの「早くあの人に会いたい」の目的語の「あの人」は伯爵夫人なんじゃなかろうか?とギクシャクしてしまうのです。
この状況で、チャイコフスキーが創作した華麗な舞踏会が活きてきます。ゲルマンはドイツ系移民、薄給の工兵です。周囲の友人たちは親代々の資産を食い潰しているご身分、彼の一月分の給料を一回のゲームで失っても平気な連中です。そして、リーザもそういった階級の一員です。
華やかな仮面舞踏会に着古した制服で登場したゲルマン、周囲の目映い華やかさが、途方もない浪費の香りが、ゲルマンの脳髄を侵していきます。情け容赦のない土砂降りの雨に打たれて、深夜のバルコニーの闇に浸って、彼は孤独と疎外感を己の置かれた逃れようのない現実として受け止めることができました。今宵、煌めくシャンデリアに照らされたサテンとベルベットと宝石で一杯の大広間で、ゲルマンは手の届かない世界が間違いなく存在し、リーザはそこに属しており、自分はそこから閉め出されていることを「知って」しまったのです。
皺だらけの首に幾重にも巻かれた宝石、シミだらけの鶏の足のような両手の重たそうな指輪、あの富をもたらしたカードの秘密、棺桶に両足突っ込んで首だけ出している老婆がその秘密を一人で抱え込んでいる、それさえ手に入れば僕はこの世界の住人になれる、ゲルマンを駆り立てたものは異邦人の孤独であったように思うのです。
突然の闖入者に言葉も出ない伯爵夫人、当たり前の状況なのですが、必死の長広舌で取りすがるゲルマンには、それがパニくった無力な老人の思考停止ではなく、傲慢なモスクワのヴィーナスの拒絶に見えた、せめて一言、泥棒!でもいい、出てけ!でもいい、どんな言葉であれ、伯爵夫人のゲルマンに向けての一言があれば、結末は違っていたような気がするのです。
幕切れのオーケストラ、息も絶え絶えという有様で愛の主題が表れますが、ここに至っては愛は既に無力です。
第三幕 スペードの女王は悪しき心
殺風景な兵舎の一室、雲間から差し込む月の光がゲルマンの横顔を照らします。その手にはリーザからの手紙が。殺すつもりはなかったのでしょ?私を安心させて下さい。今夜、運河でお待ちしています。もしあなたが真夜中までに来て下さらないのなら、私は・・・ある選択をしなければなりません・・・。リーザ、僕が汚泥に引きずり込んだ哀れな女!
遠くから微かに聞こえる祈りの声、ゲルマンが呟きます。いつも同じ夢、葬式の夢、そう、今夜と同じ祈りの声、死者は僕を見つめて片目をつぶった、まるで嘲るかのように。 突風が窓を叩き、隙間風がロウソクを吹き消します。聞こえる・・・、足音だ、ほら、扉が開く!その扉から現れたのは真っ白な死装束をまとった「モスクワのヴィーナス」。
やって来たよ、お前の願いを叶えてやれと言われて。リーザを救って結婚しておやり。その代わりカードの秘密を教えよう、3、7、エース・・・。
深夜の運河に一人立ちつくすリーザ。もうすぐ真夜中、来ないの?来てくれないの?私はもうくたくたよ、終わりのない苦しみ・・・、喜びはどこへ行ってしまったの?今の私には憂鬱しかない・・・。もうすぐ12時、彼は私を騙したの?お祖母様を殺したの?お願いだから来て!
暗闇からゲルマンが現れます。来てくれたのね、私はもう一度あなたのもの!そう、やって来たよ、愛しい女!悪夢は終わりね、そうとも、喜びが戻ってくるんだ、熱い抱擁に涙するリーザですが、ゲルマンは、急ごう、時間がないんだ。急ぐってどこへ?どこへだって?決まっているだろ、賭場さ!何を言い出すの?あの頑固婆がとうとう教えてくれたのさ、3枚のカードの秘密を、黄金の山が僕を待っている!
それが真実なの?私は魂を人殺しに委ねたの?これが真実さ、カードの秘密は僕のもの、そうさ、僕が第三の男さ。私があなたを救います、だから一緒に来て!
うるさい!誰だ、お前は、お前なんか知らない、とっとと失せろ!死んだわ・・・、私のゲルマンは死んでしまったわ・・・、そして、私も彼と一緒に行くわ、暗い運河に身を躍らせるリーザ。
スーリンやチェカリンスキーたちがカードに興じています。エレツキー、賭場で君に会うなんてとトムスキー、愛に負けた者はカードで勝つのさ。どういう意味だ?婚約解消さ、今は復讐あるのみ。
勝負の熱気に火照った体に冷たく染み込む酒、トムスキーが歌います。可愛い乙女が小鳥になって僕の枝にとまるなら、僕は誰よりも幸せ者!チェカリンスキーたちが博打の歌でお返し、連中は倍賭け、ところがこっちは100倍狙い、どうか神様お許しを!いいぞ、もっと歌おう、もっと飲もう!っと・・・ゲルマンだ・・・。
ゲルマン、どこに隠れていた?顔色悪いぜ、友人たちを払い除けてカードテーブルに歩み寄るゲルマン、僕にも一枚。いくら?4万!正気か?まさか、こいつ・・・。
チェカリンスキーがカードを配ります、ゲルマンのカードは3、ヤツが勝った、何かがおかしい、何かが・・・。続いて、ゲルマンのカードは7、また勝った、何かが起きている・・・。酒を煽りつつゲルマンが歌います。人生はゲーム、だろ?全ては夢さ、戯れ言さ、確かなのは死だけ。もう一勝負やろう!膨れ上がった賭け金に怖じ気づいてチェカリンスキーが降りてしまいます。誰か相手になるか?私が相手になろう、エレツキー、止めておけ、この勝負は狂気の沙汰だ!
カードが配られます。エースだ!勝ち誇るゲルマン、違う、クイーンで君の負けさ!とエレツキー。クイーン?スペードのクイーン・・・、婆、現れたな!何がおかしい、何を笑う!命か?僕の命が欲しいのか?持って行け、くれてやる!突然、ナイフを胸に突き立てて倒れるゲルマン。
エレツキー、公爵、僕を許してくれ・・・、リーザ、ここにいたのか!良かった・・・、僕を許してくれる?ありがとう・・・、僕の天使・・・、僕の愛する女・・・。
小太鼓が奏でる軍隊生活の生真面目さとトランペットが奏でる消灯ラッパのもの悲しい静けさ、しかし、そこから後、舞い上がっては落下する狂気の旋律は全ての人間、ゲルマンを、リーザを、エレツキーを、そして聴く者をカオスの渦中に放り込みます。
この幕の聴き所は、元々湿地帯であったペテルスブルクをネヴァ川から守る冬の運河に一人佇むリーザが歌う「もうすぐ真夜中」です。スラブ風で始まる旋律はリーザの心に未だに希望があることをほのめかすのですが、それを呆気なく押し潰すのは「もう悲しみにも疲れ果てた」の重たい憂鬱。リーザは待っているはずなのです、自分の手紙を読み、罪を否定するために必死の思いで夜道を走ってくる男を。しかし、旋律には何の希望もありません。リーザは知っています、期待しつつ知っています、ゲルマンは、男は、愛は、彼女に何の恩恵ももたらさず、冬の運河に春が再び巡ることはなく、今宵の月が沈んだ後に太陽が昇ることはなく、全ては既に失われていると。このチャイコフスキーの旋律はリーザ一人の悲劇を飛び越えて、生きることの悲劇性を際立たせます。ゲルマンはリーザの希望通りに現れ、リーザの予感通りに彼女を裏切ります。全ては成された、リーザに残されたもの、それは希望を流し去り、後に黒々とした虚無を残す運河の水・・・。
運河で抱き合った二人はお互いに見知らぬ相手を見てしまいます。リーザは自分への愛ゆえに祖母を死に至らしめた切ない男ではなく、金欲しさに自分を陥れた冷酷な詐欺師の幻影を、ゲルマンは命すら賭けると言い放った恋い焦がれる女ではなく、自分を傲慢にも無言で退けた伯爵夫人の面影を。何が彼らをそうさせた?夜の闇?月の悪戯?
彼らは見てはならないものを見てしまった、ゲルマンにとってリーザは、夢の女であり、許し難い富の象徴であった、リーザにとってゲルマンは、真摯な恋人であり、金の亡者であった。それはまさにルーレット盤の赤と黒、サイコロ賭博の半と丁、赤に賭ければ黒は見えず見てはならず、半に賭ければ丁は見えず見てはならない、チャイコフスキーの描いた鏡文字・・・。
この幕、どうにも割り切れない謎が残ります。モスクワのヴィーナスの言葉、リーザと結婚すればあなたを許す、これが全く無視されているのです。原作のゲルマンは最初から金目当て、そんなさらさら気ありませんでしたから、この言葉をスルーしても問題ないのですが、オペラのゲルマンはなぜこの言葉を無視した?リーザと結婚する、それこそが彼の目的であったはずなのに。この時点でゲルマンは既に正気を失ってしまったのか?いや、愛という「狂気」から目覚めて富という「正気」に立ち返ったのか?
「スペードの女王は悪しき心を表す」、ゲルマンがその人生の最後に見た黒衣を纏った女王、その悪しき心は誰のものか?
プーシキンの恐怖の結晶とも言うべき短編小説にオペラに不可欠な愛という要素を織り込んだチャイコフスキー、その渾身の努力の結果、この作品は矛盾と混乱が煮えたぎるボルシチ鍋の様相を呈しています。そして、このトロトロのスープの複雑な味わいにこそ、プーシキンではなくチャイコフスキーの「スペードの女王」の魅力があると思います。
あらかじめ負けていた恋人たち
冷酷に野心を追い続けるゲルマンとただ利用されるだけのリーザ、散々こづき回したことへのせめてもの罪滅ぼしなのか、リーザをゲルマンの魔手から守るスペードの女王、愛など一片もない原作に対して、敢えて愛を真正面に据えたチャイコフスキー、いくら何でも最初から最後まで金!金!じゃオペラにならん、やっぱヒロインは恋してくれないと、愛の縺れといえばお約束は死体でしょ?数十ページの短編小説を三幕のオペラに仕立て上げるためには、絡み合った人物相関図と愛と死が不可欠だったのでしょう。
この作品は原作を裏切ることで、全く別の魅力を持ちました。それは、うつむきがちな優しさと逃れようのない憂鬱、どちらもチャイコフスキー独自の魅力です。
1840年、ロシアの田舎町ヴォトキンスクで鉱山技師の父と優しい母の元、七人兄弟の次男として生まれた彼、幼い頃から並外れた音楽の才能を見せ、僅か4歳で母親に自作の曲をプレゼントしたそうです。粗末なオルゴールの音色にすら涙するほどの感受性、それは作曲家にとって得難い贈り物でしたが、同時に、音楽会から帰った夜には「この旋律が僕を寝かせてくれない!」と叫び出すほどの憂鬱をもたらしました。この繊細な神経によって、彼の生涯は、絶頂からどん底へ、どん底から絶頂へ、まさにファラオンのテーブルの様相を呈します。
才能豊かな息子をペテルブルクの寄宿学校に入れた父の配慮は、愛する母から無理矢理引き離される恐怖をもたらしました。
生来の真面目な性格から一生懸命勉強して優等生で卒業、得意の絶頂で故郷に帰った喜びは、母の死によって無惨に塗り潰されました。
メゾ・ソプラノ歌手デジーレ・アルトーとの恋、強く結婚を望んだ作曲家の思いは、その作曲家としての将来性ゆえにデジーレが身を引くという形で終わりました。
14年もの間、文通だけ、生涯ただ一度も会うことがなかったという裕福な未亡人ナジェージダ・フィラレートヴナ・フォン・メックとの奇妙な友情は、彼に安定した経済生活をもたらしますが、彼の同性愛癖をメック夫人が知った途端にご破算になりました。
その同性愛癖を何とか克服しようと焦った彼は、彼の作品を何一つ知らないくせに熱烈なラブレターを送りつけてきたアントニーナ・イワノーヴナ・ミリュコーヴァと結婚してしまいました。
憎悪しかない結婚生活、自殺未遂までしたのですがアントニーナは彼を放してはくれません。この「結婚」のおかげで、彼はアントニーナが産んだ3人の父親不明の私生児の養育費を生涯支払うハメになりました。
チャイコフスキーのオペラの魅力は、男女のどちらにも作曲家の自己投影が見られることでしょう。「エフゲニー・オネーギン」では、無気力な虚無感を漂わせる主人公オネーギンの「誰とも分かち合えない」憂鬱と、運命の出会いを待ち望むタチヤーナの「誰かと分かち合いたい」憂鬱が等価に描かれます。この「スペードの女王」でも、「彼女の名前を知らない」ゲルマンの情熱が、彼女の名前を知った途端に貧しい自分の境遇を呪う嫌悪に変化する瞬間と、運河でゲルマンを待つリーザの愛が、「悲しみに疲れ果て」絶望へと転落していく瞬間、どちらも思い入れたっぷりの旋律に彩られ、激しい雨、冷たく湿った夜気、逃れようのない憂鬱を吸い込んでじっとりと冷たく重く沈み込んでいく二つの心模様それぞれに、作曲家自身が感じ取れるのです。男を愛し、女も愛したチャイコフスキー・・・に踏み込むことは止めておきましょう。なぜならそれは彼の優しさに対する冒涜のような気がするからです。
運河から身を投げたリーザ、我が身を短剣で刺し貫いたゲルマン、死の香りが立ちこめる筋書きにこそ、チャイコフスキーの優しさが感じられると思います。
原作のゲルマンは、スペードの女王の亡霊と一緒に狂気という密室に閉じ込められます。そして、無垢な犠牲者であったリーザは淡々と人生を歩み続けます。オペラのゲルマンはリーザに出迎えられ、この世を去ります。作家が断罪したゲルマンを、作曲家は命を捨てたリーザによって救いました。
チャイコフスキーはカードの勝負はいざ知らず、生きることの勝負の本質を知り抜いていたのでしょう。
ゲルマンは富への欲望に目覚めて、リーザへの愛を伯爵夫人の命と引き替えのカードの秘密に賭けました。もしゲルマンが勝って大金を手にすれば、彼はただの「金目当ての男」に変貌してしまいます。ゲルマンはその罪ゆえにではなく、その愛ゆえに勝負に勝つことは許されません。
リーザは目眩く愛の快感に目覚めて、エレツキーとの約束された平穏な未来をゲルマンの暗い瞳に賭けました。もしリーザが勝ってゲルマンの暗い瞳を手にすれば、ゲルマンは「明るい瞳の男」に変貌してしまいます。リーザはその充足ゆえにではなく、その欠乏ゆえに勝負に勝つことは許されません。
彼らはどちらもあらかじめ負けていたのです。
生きることそれ自体が最初から勝負の分かっているゲームなのかも知れません。最後に勝つのは「死」です。人は自分にないものを求めて自分の持っている大切なものを賭けます。気まぐれな運命の女神がその冷たい手でカードを配り、勝ったとすれば、勝って手に入れた「自分にないもの」は、その途端に「もう持っているもの」になってしまいます。負けたとすれば、ますます渇いてしまいます。そして最後に引くカードは誰でも同じ「死」、「死」が敗北であるならば、人は最後には負けると決まっているのです。では、賭けるのを止めますか?勝負から下りたところで、遅かれ早かれ「死」はきちんと精算にやって来ます。成功した者の山のようなチップも、失敗した者のなけなしの小銭も、ただ傍観していた者の仕舞い込まれた財布の中身も、最後には「死」という胴元の懐に音を立てて落ちていきます。
ゲルマンとリーザは負けると分かっているゲームできっちりと勝負しました。チャイコフスキーは原作を踏み潰しても、彼らの勝負魂を讃えることを選んだのです。
最近、日本ではイヤな言葉が流行っています。「勝ち組」「負け組」、富を手に入れれば「勝ち」ですか?お金で人生を計ることは、つまりはお金に負けることではないですか?死神を差し置いて勝ち負けを決める傲慢さ、負けるのではないかという無意味な不安、勝てるのではないかという虚しい期待に翻弄される、それこそが「負け」ではないですか?ゲルマンとリーザは、負けたからこそ勝ったのです、勝ってしまったら負けだったのです。
チャイコフスキーは、勝った人間にも負けた人間にも無頓着に優しい。なぜなら、チャイコフスキーは知っていたのです、幸せと不幸せがマトリョーシカ人形のように入れ子になった人生を勝ちと負けで切り分けることの愚かさ、それこそがスペードの女王、悪しき心であることを。
録音です。決定盤は1992年のキーロフ・オペラ、指揮はゲルギエフ、ゲルマンをゲガム・グリゴリヤン、リーザをマリア・グレギーナ、エレツキーをウラジーミル・チェルノフ。ゲルギエフの棒はオラが国の巨匠との相性が抜群、オペラをご当地で語るのは好きではないのですが(だって、日本やアメリカはどうしたらいいの?)、この作品に限っては脱帽するしかありません。端正に、ドラマティックにうねる音とその音が消えた後の余韻の豊かさはピカイチです。1991年のボストン、指揮は小澤征爾、リーザのフレーニが熱っぽくて聴き応え十分ですが、小澤の棒はいささか小さくまとまった感じ。
この作品は嫋々たる「チャイコ泣き節」が魅力ですが、中途半端に泣くと鬱陶しさが目立ちます。チャイコフスキーは泣き虫ですが、声を上げて泣くことはしない、無慈悲な現実と覚めることのない夢を自由に行き来する旋律、ロストロポーヴィチの録音があるらしいのですが、未だ聴いたことがありません。これを是非とも聴いてみないと。
参考文献:「憂愁の作曲家チャイコフスキー」(志鳥栄八郎)
「チャイコフスキー我が愛」(ジョージ・バランシン、ソロモン・ヴォルコフ)
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