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ヴェルディ 「リゴレット」 (2000年2月29日〜2000年3月11日の日記より)
眠っていた化け物が目を覚ます時
華やかなマントヴァ公爵の宮廷で、その男は一人異彩を放っていました。すらりと伸びた体をきらびやかな衣装に包んで、足取りも軽やかにモレッカやバラードを踊る貴族たちに混じった彼の姿は、さながら白鳥の湖に降り立った一羽の鵞鳥です。醜く歪んだ体と抜け目なく辺りを見渡すギラギラしたその目、彼は公爵お抱えの道化師リゴレット、せむしであることも彼にとっては大切な商売道具です。女には目がない上に滅法手の早いプレイボーイの公爵(「あれかこれか」)の前に、彼に娘を弄ばれたモンテローネ伯爵が現れます。ここは道化の腕の見せ所、リゴレットは伯爵を衆人環視の中でからかいます。しかし、今回ばかりは少しやりすぎてしまったようです。彼に向かって呪いの言葉を投げつける伯爵。いくら道化師でも呪いの言葉は笑い飛ばせません。今とは違います。魔女だってまだ宅急便屋にトラバーユする前で現役バリバリ、元気に箒で空を飛び回っていた時代です。伯爵の呪いの言葉がリゴレットの歪んだ背中にのしかかります・・・。
この「リゴレット」でヴェルディは初めて彼独自の世界を切り開いたと思います。せむしの道化師、好色なバカ殿、純情な箱入り娘、呪詛の言葉を投げつける伯爵、変に律儀な冷酷非情の殺し屋、色っぽい娼婦まがいのその妹・・・登場人物の姿は、誰をとってもどこかしらグロテスクですらあります。愛の言葉は全てボタンが掛け違っているかのように、虚しく上滑りしていきます。そして、一貫して物語の伴奏をつとめるのは、呪いと復讐です。愛とはこの世で最も美しいものであり、同時に最も醜いものでもあります。ヴェルディは決してそのことから目を離しません。真実を描きたい、たとえそれがどれほど汚らわしく、おぞましいものであっても、人間の心の奥底に潜んでいる化け物から目を逸らしていては、決して真実は分からない、そんな彼の冷徹な視線が、まるで外科医の手に握られたメスのように煌めいているのが感じられるオペラです。
舞台は北イタリアのマントヴァ、小国が乱立し、外国の介入が絶えなかったイタリアを巧みに泳ぎ回った中堅の君主国家です。この時代の宮廷に道化は付き物。言ってみれば人間でありながら権力者の玩具であった彼らですが、その世界はシビアなものでした。ただ滑稽なだけでは勤まりません。気の利いた毒舌を吐いてみせるには、鋭い人間観察と優れた頭脳が必要です。彼らは恵まれた人間にとっても生きることが困難な時代を、自分の才覚だけを頼りに生き抜いた人間でした。そんな道化のリゴレットには、秘密があります。男手一つで娘を育てているのです。ジルダ、優しく素直で美しい彼の宝物。彼はジルダを誰の目にも触れさせず、自分の仕事すら内緒にして大切に育てています。
呪いの言葉を背負いながら夜道を行くリゴレットに殺し屋スパラフチーレが声を掛けます。ダイレクト・マーケティングをやる殺し屋というのも珍しいと思いますが、リゴレットは彼の名前を心に留めます。以前からジルダに目を付けていた公爵は貧乏学生に化けてジルダを誘惑します(「心の太陽」)。箱入り娘のジルダは、恋に免疫がなく、男を疑うことを知りません(「慕わしき人の名は」)。そして日頃からリゴレットの言動に腹を立てていたチェプラーノ伯爵たちは、ジルダをリゴレットの秘密の愛人と勘違いし、さらってしまいます。
第二幕、お目当てのジルダがさらわれたとあって悲しむ公爵の前にチェプラーノ伯爵たちがジルダを連れてきます。思いがけない再会に舞い上がる公爵、さっ、今度こそ思いを遂げようぞ。一方半狂乱で娘を捜すリゴレット、宮廷で公爵と一緒にいるジルダを発見した彼、彼は公爵がどんな男か、多分公爵本人よりもよく知っています。死に物狂いで娘を取り返そうとするリゴレット(「悪魔め、鬼め」)、そこにはもうあの辛辣で滑稽な道化師はいません。そこにいるのは、一人の必死の父親です。事情を説明するジルダですが(「いつも日曜日に教会で」)、リゴレットの心にはもはやたった一つのことしかありません。彼は主君に対して復讐を誓います。俺は貴様にとってただの玩具だろうさ、だがジルダは違うぞ!
第三幕、リゴレットはスパラフチーレに公爵殺しを依頼します。殺し屋は仇っぽい妹マッダレーナを使って公爵を居酒屋に誘い込みます。脳天気に「女心の歌」をがなっている公爵は、やがて眠ってしまいます。一方リゴレットは高飛びの準備、ジルダに先に旅立つように指示しますが、公爵を愛しているジルダはこっそり居酒屋を訪れます。海千山千のマッダレーナまで公爵が気に入ってしまい、兄スパラフチーレに契約破棄を迫りますが、良心的な殺し屋(?)の彼は、死体を渡さないわけにもいくまいと、誰でもいい12時までに店に来た奴を殺して死体をリゴレットに渡そうと決めます。公爵を救うためにジルダは身代わりになります。金と引換に死体の入った袋を受け取ったリゴレット、長年の屈折した思いをぶちまけ死体に蹴りでもいれてやろうとしたところに、当の公爵の元気な歌声、袋を開けると彼の大切なジルダが虫の息です。ジルダは公爵を愛しているのだと言い残して息絶えます。これが呪いなのか?リゴレットの身体がゆっくりと崩れ落ちます。
リゴレットに掛けられた呪い、それは何だったのでしょう?彼が少しばかり伯爵をからかいすぎたから?彼にとってはそれが商売です。道化の地位なんて公爵のご機嫌次第です。毎日毎日、今日でお払い箱か?と明日の我が身を案じつつ宮廷に参上し、公爵様の顔色を見ては滑稽な言動で彼を笑わせる・・・それが道化師の仕事です。貴族である伯爵には、ぎりぎりのところで必死で生きている彼の立場は到底理解できないでしょう。面子を潰されたと怒ることのできる伯爵は幸せです。道化のリゴレットにはそんな贅沢なものは最初からありません。彼にだって大切な娘がいるのです。娘を陵辱されたと怒る伯爵に、普通ならば同情こそしても、それを笑えるはずがありません。彼はこの時、父親としての彼、本当の彼よりも、営業中の道化師であったのです。公爵を本音で罵り逮捕される「自由」のある伯爵に対して、決して本音を語ることの許されないリゴレットが投げつけた道化師の言葉、それが呪いとなって彼に跳ね返ってきます。リゴレットは間違っていたのでしょうか?
そう、彼は間違っていました。彼だけでなく、公爵も、ジルダも間違っていました。このオペラの悲劇の原因、それは、それぞれの人間のそれぞれの間違いが、偶然にも重なり合ってしまったことにあるのです。
それぞれの過ち、それぞれの愛
【マントヴァ公爵の場合】
この役、要するに「女心の歌」を歌いに出てくるだけじゃないの?そんな気もするお気楽なプレイボーイの公爵ですが、この役柄は解釈によって、どんどん掘り下げることが可能です。この時代、好色であることは君主としては別に責められるものではありません。何しろ結婚は大切な政治ですから、個人の恋愛感情とは全く無関係に行われます。それに庶子であろうと何であろうと、子供の数が多ければ政略結婚にも戦争にも持ち駒が増えるわけで、これはとても有利です。ただ一つ決して許されない色事、それは国策に反する恋です。公爵の場合、大切な部下であるチェプラーノ伯爵の愛妻に色目を使ったのは間違いでした。そんなことして大事な時に寝返りでもされたらどうする?そして部下の娘に手を出すのでしたら、その父親の性格くらいきちんと把握しておくべきでした。娘を公爵の愛人にすれば自分も得する、そう考える父親はいくらでもいたはずなのに、よりによってモンテローネみたいな頑固爺の娘に手を出したとは、考えが浅すぎます。
この相手選ばずのお楽しみを単なる好色バカ殿の御乱行と見ると、ジルダに愛を告白する「心の太陽」、そのジルダをさらわれて悲嘆に暮れる「彼女がさらわれた/頬の涙が」が、何だか訳が分からなくなってしまいます。やはり公爵には真の優位性を見出すべきでしょう。彼は他の貴族や廷臣たちに対して完全無欠の優位性を持っているのです。そしてその自信が女にはとても魅力的に映ります。彼はいつでも自然体です。自分の優位性を確信している人間には自分を飾る必要などありません。伯爵の奥方に対しても、娼婦もどきのマッダレーナに対しても、彼は同じようにゆったりと自信に満ちています。彼がジルダをさらわれたことを嘆くのは、自分の優位性に対して逆らう者の存在が許せないからなのです。この傲慢さ、生まれながらの真の貴族の持つ闊達さゆえに、彼はリゴレットの心など全く省みません。道化師なんて人間だと思っていないのです。何しろ悪いことをしているなんて全然考えてもいない、自分の抱えている道化師が復讐を企むなんて、公爵にとっては、道を歩いていて踏んでしまったアリンコの家族が仇討ちにやってくるのと同じくらい現実性のない話なのです。ここまで無自覚だと、彼は殺されるわけにはいきません。彼の代わりにジルダが死んだのも、その時に彼が明るい高音を響かせて陽気に歌っているのも、納得できますね。
【ジルダの場合】
プレイボーイに惚れた純情娘の考えることは皆同じです。この人が今まで恋愛遍歴を重ねてきたのは、本当に満たされる愛情を知らないからだ、私ならそれを与えることができる・・・。娘は自分が最後の女になろうと必死で男に尽くし、そして、これまでの女と同様にやがてポイされます。公爵のような男にとって最後の女とは「死神」以外にないのですから。日曜日毎に教会で見かける青年を公爵とも知らずに恋してしまったジルダ、彼女は世間から隔離されて純粋培養されてきた女ですから、その青年から愛を告白されると、それだけで一方的に「運命の恋」と思い込んでしまいます。公爵にとっては、日記に書いておかないと忘れてしまいそうな日常の出来事なのに。
この彼女の思い込みが公爵の身代わりに殺されるという結末を導き出します。12時までに店に入ってきたヤツ、なのですから、何も自分でなくてもいいでしょう?だいたい彼女だけ死んでしまったら「運命の恋」はどうするんですか?ジルダは「愛に満たされない」公爵を「自分の愛で満たす」ことに完全に酔ってしまっています。後半に入るに従ってどんどん技巧的になっていく彼女の歌声からも、それが感じられます。公爵から人間とさえ思われていない道化師リゴレットの娘、そのジルダが公爵を守るために死ぬ・・・、この残酷な結末には心が重たくなってしまいますが、でも、分かって下さい。ジルダは自分の死によって、大切な父リゴレットを「主君殺し」から守ったのです。ジルダは、公爵と父、愛する二人の男を両方とも見事に守り抜いたのです。可憐な娘の一途な思いには、そんな力さえ秘められていたのです。
【リゴレットの場合】
真の優位性を信じて疑わない公爵のご機嫌をとっているうちに、彼の心にもささやかな傲慢さが生まれました。それは所詮虚構でしかありませんが、それに浸っているつかの間には卑しい楽しみがあります。生まれの良い、優雅な容姿の貴族たちを公爵の威光を借りて見下す快感…。いつしかリゴレットはその虚構に馴染んでしまったのでしょう。娘ジルダに自分の職業を明かさなかった彼、真実を避けるようになっては、これはもう道化師ではありません。道化に要求されるのは、真実と嘘の間を隔てる距離を冷静に測ることのできる現実感覚なのですから。人が道化に笑うのは、彼らが演じる嘘がいつだって必ず真実の変形だからです。嘘の鏡に誇張されて映った真実に人は笑うのです。公爵に可愛がられ、美しい娘と慎ましく秘やかな時間を持つことにのみ汲々としていた彼は、いつの間にか、その距離感を失っていたのでしょう。軽薄にもモンテローネ伯爵をあざ笑い、その後一転して彼の呪いの言葉に怯えるリゴレット、公爵の後ろから身を乗り出し、廷臣たちをからかうリゴレット、それで公爵が喜んだとしても、公爵がその後の責任をとってくれるはずもありません。自分の玩具のやったことに責任を感じる人間がいますか?真実と嘘の間を測り損ねたその時に、彼の破滅は既に決定されていたのでしょう。
大切なジルダを公爵に弄ばれる恐怖と怒り、「悪魔め、鬼め」のリゴレットの姿は正視することが困難です。華やかで洗練された宮廷の陰で繰り広げられている陰謀、暴力、退廃・・・、醜い道化師の彼は、最初から「華やかで洗練された」部分には何の関係もない人間だったことが、最愛の娘を主君に陵辱されるという形でここで明らかにされます。「卑しい宮仕えども、私の娘をいくらで売った?」、最初は彼は対等に立ち向かおうとします。対等!所詮彼は彼らにとって卑しい道化師でしかないのです。公爵とその廷臣である貴族たちは、たとえいくら諍いがあっても、時には相手を陥れたとしても、いつだって同じ貴族階級という閉鎖的な会員制クラブの選ばれたメンバーなのです。そこにはルールがあります。自分たち以外の人間、貴族に生まれなかった人間は、無価値であり、自分たちによって消費されるべき人間なのだと。そこで繰り広げられるゲームに道化師が参加できるはずもありません。参加しているとリゴレットが勘違いしていただけなのです。今まで自分が浸ってきた虚構に気づいた彼は、そこから必死の懇願に変わります。「殿様方、お許しを!お慈悲を!娘をお返し下さい!」、床に這いつくばるリゴレット、廷臣たちに言わせれば、そこが最初から決まったおまえの居場所さ、ということでしょう。虚構に裏切られた彼は、その虚構を彼にあてがった公爵に復讐を誓います。自分で手を下すのではなく、金で雇った殺し屋を使って・・・。
そう、この卑怯さこそが、この小心さこそが、本当のリゴレットなのです。そして彼はジルダを失います。自分で殺したも同然の娘に唖然とする彼の耳に、公爵の明るい声が響きます。公爵とリゴレット、それは、自分の優位性を本当に信じていた公爵と、虚構の優位性にそれと知りながらすがってきた道化師の歴然とした違いに他なりません。これが呪いか・・・、リゴレット、おまえを呪ったのはおまえ自身ではなかったか?
この残酷で救いのない物語を、ヴェルディは一瞬も緊張感を失うことなく編み上げました。従来のオペラの型を敢えて無視して、レチタティーヴォを省略しシェーナ(情景)を使っています。歌を聴かせるオペラからドラマとしてのオペラへ、大胆な手法を用いています。歌にドラマが従属するのではなく、ドラマに歌が奉仕しているのです。聴けば聴くほどに発見のあるオペラです。というわけで、続きます(なんか私のオペラ日記、最近どんどん長くなっているような気がします。これ、まずいっすね・・・)。
呪われた道化師、苦悩する祖国、闘う作曲家
「リゴレット」の原作はフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの「王様はお楽しみ」という戯曲です。モデルは16世紀前半のフランス国王、フランソワ1世。2メートル近い長身の持ち主、文武両道に優れ、晩年のレオナルド・ダヴィンチを招いたことで知られています。ただ、「英雄色を好む」を地でいった王様でした。女と見ると見境なしだったようです。修道院(!)に身を潜め、チャンスと見れば女の部屋に忍び込んだとか(因みに最後は梅毒でこの世を去りました)。フランソワ1世のお抱え道化師の名はトリブレ。この歴史上の人物二人をモデルにユゴーが書き上げたのが、貴族階級を痛烈に皮肉る戯曲「王様はお楽しみ」でした。この作品、1832年の初演では貴族階級と庶民が劇場でヤジを飛ばし合い、大混乱を引き起こしました。ユゴーは訴訟まで起こして続演を試みましたが、結局作品は早々にお蔵入りとなりました。
それから20年後、これをオペラにしたヴェルディもユゴー同様お上との戦いを強いられることになりました。当時オーストリア帝国の支配下にあったヴェネツィアで、彼はリゴレット上演のために孤軍奮闘しました。英雄が一人も出てこない、せむしの道化師が主人公、おまけに王様がとんでもない女たらし、こんなオペラなんて誰も見に来ないって、そんな批判を蹴飛ばしてヴェルディは闘いました。最終的にヴェネツィアはこのオペラを上演禁止と決定します。それでもヴェルディは引き下がりませんでした。まず舞台をマントヴァに変更しました。大国フランスを怒らせるわけにはいきませんからね。そしてタイトルを「呪い」から響きの良い「リゴレット」に変更、何とかフェニーチェ劇場でのオープニングにこぎ着けました。 ヴェルディは、細かい手直しには応じても作品の主題に関しては頑として譲りませんでした。彼にとって、主人公はせむしの道化師でなければならず、公爵は全く反省のない女たらしでなければならなかったのです。彼はなぜそこまでこの作品にこだわったのでしょうか。
ヴェルディは抜群の歴史感覚を持った作曲家でした。彼にとってこの「リゴレット」はたとえ公権力を向こうに回しても、今ある姿の作品でなければならなかったのです。ユゴーが貴族階級を罵倒したこの戯曲、私は、ヴェルディはもう一つ別の物語を重ねていたような気がするのです。彼はリゴレットの中にイタリアの悲劇を見出していたのではないかと思います。
小国が乱立し、しかも真ん中にバチカンという精神世界を支配する国家内国家を持ったイタリア・・・、他のヨーロッパ諸国が中央集権国家への移行を済ませ、勝手に世界を分割しては消費し、さらにイギリス、フランスは、早々と市民国家へと変貌を遂げつつあった時代に、イタリアは完全に取り残されていました。新しい市民国家の核となるのは中産階級です。この中産階級が育つのに何よりも必要なものは「自由」です。通商の自由(王様の気まぐれで勝手に課税されたり流通を止められたりしないこと)、信仰の自由(宗教弾圧を恐れずに商売ができること、異教徒との取引が禁止されないこと、異教徒だってお客様です)、職業と移動の自由(一旗揚げに都へ行くか!)が保障されて初めてみんなに競争とチャンスが生まれます。大金持ちの特権階級だけを相手に商売している間は、一握りの御用商人はいくらでも高値をつけて暴利をむさぼることができましたが、これは「市場経済」ではありません。誰にとっても合理的な理由で経済が動いて初めて市場経済が成立したと言えます。安定した経済は安定した生活を営む大勢の中産階級を生み出し、彼らは少数の貴族に対してその数で対抗する力を持ちます。安定した人間が多数派を占めてこそ初めて国家は安定します。この多数派を支える力が「自由」なのです。イタリアはその流れを横から眺めつつ、未だ分割統治と外国支配の下にありました。中世からルネサンスにかけてヨーロッパをリードし続けたヴェルディの祖国は、今ではヨーロッパの辺境になり果てていました。それがヴェルディの生きた時代です。
圧倒的な力を背景に優越性に浸り、周囲を消費し尽くすことに何の疼痛も感じない公爵(ヨーロッパ列強)に対して、その威光のおこぼれを拾いつつ、醜く歪んだ姿で苦悩するリゴレット(イタリア)、このオペラの中に、そんな当時のイタリアの姿が見える気がします。だからこそ、ヴェルディは上演のために最後まで闘ったような気がします。「リゴレット」は、ヴェルディが祖国の置かれた状況に対して渾身の力で振り上げた握り拳だったのです。彼は力の入ったついでに従来のオペラの形式までぶっ壊してくれました。ドラマの緊張感を持続させるために余分な音は一切追放し、歌も従来の作品よりもずいぶん短くして、それぞれの心理に合わせて生き生きと重なり合うように構成されています。一度振り上げた拳を降ろすには、ヴェルディは硬派に過ぎたのでしょう。
リゴレットの初演は1851年3月11日、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場でした。醜い道化師を巡る呪いの物語は、周囲の心配をよそに観客の熱狂を呼びました。劇場を震わせるブラーヴォ!の嵐を聞いて、ヴェルディは何を思ったのでしょうか?イタリアがやっと統一国家となるのは、これから更に10年後の1861年のことです。ヴェルディは初代の国会議員に選出されています。
3月11日には、フェニーチェの初日の天井桟敷にいる気分で、リゴレットを聴いてみましょうか(あと一回だけおつき合いを願います)。
醜い道化師が美しいオペラになってどこが悪い?
「リゴレット」で一番印象に残るのは、冒頭の前奏曲だと思います。重々しいリズムと不吉な和音、呪いのテーマがこれから先の物語を暗示します。この後に華やかな宮廷でマントヴァ公爵のノリの良い端唄風の「あれかこれか」が続きますが、この軽い響きを持ってしても、前奏曲の不吉さを払拭することはできません。公爵の歌声が上滑りしている感じがします。そしてモンテローネ伯爵の「呪われよ」とリゴレットの「恐ろしい」がスケールの大きなアンサンブルを構成します。モンテローネはとても重要な脇役です。彼の「呪われよ」がこの作品全体を支配するわけですから、ここはう〜んとドスの利いたバリトンだと理想的ですね。そして殺し屋スパラフチーレがリゴレットに御用聞き、チェロの伴奏に乗ったバリトンとバスの低音の二重唱は「男、ヴェルディ」の真骨頂です。リゴレットとジルダの「娘よ、私の命」の旋律は本当に優しさに満ちています。何か胸の奥が暖かくなるようです(しかし、公爵が既に不法侵入しています)。公爵とジルダの「心の太陽」、これを聴いている限り、公爵は色情狂には思えません。誠実に聞こえます。しかし、この手の男は口説いている間だけは真剣に愛しているものですからね。ジルダの「慕わしき人の名は」、後半に華麗なコロラチューラがちりばめられた美しいアリアですが、技巧が華やかな分、恋に恋するジルダの姿が浮き彫りになるという効果を持っています。ジルダをさらいにやってきた廷臣たちは「静かに、静かに」と歌います(静かにしろって歌うんですから、オペラというのはおかしなもんです)。呪いが現実になった・・・震え上がり立ち尽くすリゴレット、叩きつけるようなオーケストラで幕がおります。
公爵の「彼女がさらわれた/頬の涙が」、この男ひょっとして今回ばかりは本当に「純愛」しちゃったのか?と思わせるのですが、この後廷臣たちがジルダを連れてくると公爵は一転して元の好色バカに変身してしまいます。そしてリゴレット登場、「悪魔め、鬼め」と廷臣たちを罵ります。キリキリと緊張した激しい音からすうっと哀しい旋律に移行して娘をお返し下さいと泣き伏すリゴレット、このアリアは何十行ものセリフよりも雄弁です。ヴェルディの表現力にただただ圧倒されます。ジルダが「いつも日曜日に教会で」と事情を語る可憐な響きに覆い被さるように、連行されるモンテローネの声が響きます。ここでもモンテローネはジルダの歌声を急速冷凍するような迫力が求められます。リゴレットは復讐を誓います。怨念の前には愛なんて無力・・・なのか?
居酒屋で公爵の歌うあまりに有名な「女心の歌」、ブンチャッチャ、ブンチャッチャという歯切れのいいリズムと美しい旋律、初演当時のヴェネツィアであっという間にヒットチャートを駈け登ったのも納得できますね。公爵の正体を暴こうとジルダを伴ったリゴレットですが、これは逆効果ですよ。周囲が悪く言うほど、この人を救えるのは私だけ・・・と熱くなるのが純情娘なのですから。居酒屋のドアを挟んでご機嫌の公爵と魅惑的な性悪女マッダレーナ、そしてリゴレットとジルダの奏でる四重唱「美しく愛らしい娘」、オーケストラと声が見事な螺旋を描き、驚き苦悩するジルダとますます公爵憎しの念を募らせるリゴレットに対して、公爵とマッダレーナの上っ面だけの愛の戯れ、「オペラ初の3D表現」と言いたいほどの鮮やかな膨らみを持っています。もうこれを聴くだけで十分というくらい、四人がそれぞれ自分の思いを歌い、互いに妨げあい否定しあっているというのに、この精緻な美しさ、数ある四重唱のなかでも最高峰といっていいでしょう。公爵を救うために身代わりに殺されるジルダ、純情娘には(相手がたとえそれに値しない男であっても)自己犠牲が至高の愛に思えるものなのです。ジルダを連れてきたリゴレットの完全な誤算です。スパラフチーレ、マッダレーナ、ジルダ、そしてオーケストラが嵐を奏でます。自然現象としての嵐と運命の嵐が合体します。死体を受け取ったリゴレットの歌声にいきなり被さるのは「女心の歌」、この軽やかな旋律がここではまるで毒薬のように苦く響きます。公爵の声が明るいほど、リゴレットの驚愕が強調されることになります。ジルダは公爵の許しを乞いつつ息絶えます。そして呪いのテーマ、「あの呪い!」崩れ落ちるリゴレットの上に追い打ちをかけるようにオーケストラが重なります。
公爵には甘い声が欲しいですね。ルチアーノ・パヴァロッティの声がうってつけだと思うのですが、彼の場合にはどこか醒めた響きがあって、ジルダを一生懸命口説く場面でも所詮は権力者のお遊びという雰囲気があります。プラシド・ドミンゴでは誠実さが前に出過ぎて、この公爵ひょっとして多重人格なのか?という感じになってしまいます。アルフレード・クラウスの公爵は貴族的な雰囲気が良く出ていると思います。欲しいものは必ず手に入れるという高慢な公爵ではありますが、好色な面はパヴァロッティよりも控えめ。
ジルダはコロラチューラの技巧と優しい響きが要求されます。そして何よりも初々しく清潔な響きが欲しいところです。レオンティーナ・ヴァドゥーヴァが最近の私のお気に入りです。
そして、リゴレット。卑屈さの裏返しの傲慢さ、優しい父親にして卑劣な暗殺者、呪いに怯えつつ復讐に燃える不安と高ぶり、この矛盾の固まりのような男を表現するにはオペラ界のロバート・デニーロでなければなりません。ピエロ・カップッチッリは道化師にしてはいささか固いのですが、良い線いっていると思います。レナート・ブルゾンは何でこの男が道化師やってんだろ?という知的な感じがあるものの、リゴレットの暗黒面ではお見事です。シェリル・ミルンズは卑屈さがよく出ていると思いますし、何よりもやりすぎない寸止めの表現がこの人らしい。レオ・ヌッチは彼独特のずり上げる感じが何とも不気味な屈折感を醸し出します。それぞれに特徴があって、いくら聴いても飽きないんですね、これが。
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