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LeafR・シュトラウス 「サロメ」 (2001年8月13日〜2001年8月29日の日記より)


月に憑かれて

 夜空にぽっかりと浮かぶ月、地球と太陽との距離は、月との距離の400倍、そして太陽の半径は月の半径の400倍、よって、太陽と月は、地球からは見た目だいたい同じ大きさになります。この二つの星は、地球に命をもたらした海を引っ張り合いしています。潮の満ち引き、月の真下とその反対側で地球の自転周期の半分、つまり一日に2回起こる満潮は、地球と月と太陽が一直線に並ぶ新月や満月の時には、力が重なり合って大潮となります。そして太陽と月は、それぞれ昼と夜を、光と闇を、交代で支配してきました、ずっとずっと太古の昔から。
 昼間は太陽の恵みを喜び、汗を流して働いた人間は、闇が訪れ、辺りに神秘が立ちこめる夜、真っ暗な夜空に浮かぶ月を眺めては、いろんな思いを抱いてきました。ある時は憧れ、ある時は夢、そしてある時は恐れ。月には豊穣と死のイメージがつきまといます。私が一番興味深く思うのは、ブラジルの神話です。昔、昔、大昔、敵に切り落とされた男の首が天に昇った、彼の首は地上に向かってこう叫んだ、「私の首は月に、私の目は星に、私の血は虹になる」。月になった首、これは、まさに「サロメ」のイメージです。

 月は女性、銀、そして冷たさのシンボルでもあります。満ちたり欠けたりする月は、女性の体の周期と同調しています。その冷たい色の表面は、ウサギだったり女性の横顔だったり、様々なイメージをかき立てます。それに月は太陽と違っていくらでも見つめることができます。月を見つめる、これは古来タブーとされてきました。「竹取物語」にも「月をご覧になってはなりません」というセリフが出てきます。なぜなら人は月を見つめると狂うからです。ラテン語の月(Luna)は英語の狂気(lunacy)の語源でもあります。月の霊気が取り憑くと人は狂うと言われてきました。この狂気(lunacy)はいわゆる慢性の精神異常(madness)とは区別されており、「月狂病」という呼び名があったくらいですから、月から何らかの影響を受けることで、特定の日におかしくなってしまう人たちが相当数いたのだと思われます。イギリスでは、1842年に「月狂条例(Lunacy Act)」という法律が施行されました。これは満月の夜に「月狂病」の人たちが狂気の発作を起こさないようにと予防するための法律(って言っても、何をするかというと、患者たちを一カ所に集めて正気を失わないように一晩中鞭で叩いたというのですから、すごい法律もあったもんです)でした。

 現代では月に狂うなんて話は聞かなくなりました。人間が月の力に対して鈍感になったのかも知れません。昔の人々は私たちには見えない何かを、聞こえない何かを月から受けていたのかも知れません。それとも、人間は月の力を恐れるあまりに、そこいら中を明るくすることに必死になってきたのでしょうか。街灯に自動販売機、そして24時間ピカピカ光っているコンビニ、夜でも煌々と明かりの灯った町では、月もその力を失ってしまったのでしょうか。いいえ、月は人間に対して全く無力になったわけではありません。
 ある国の警察の統計では、月の状態と犯罪発生率の間に明らかに関係があるそうです。統計では、上弦・下弦の月の日にはうっかり事件(ボヤとか不注意による交通事故)が多い(殺人事件は少ない)、そして、新月・満月の夜に殺人事件が集中するとなっています。おそらく月の引力のせいではなかろうかと推測されているようです。新月と満月のとき月の引力は強まります。そして、上弦あるいは下弦のとき、引力は弱くなります。引力が強くなると人は精神的に緊張してしまい、普段ならやらないようなことをやってしまう。これが殺人事件を引き起こす。それに対して、引力が弱まる上弦・下弦のときは緊張感がゆるみ、うっかり事故が増える、というわけです。
 またある外科医の観察によると、満月と新月の夜の手術はなぜか通常より出血量が多いのだとか。ちなみにこの先生、満月と新月の夜は、デートはするけど手術はしないとか。
 人間の体の基本構造は地球とほぼ同じです。地球は80%が水に覆われ、残りの20%が陸地です。人間もだいたい同じ、体の約80%は水です。月や太陽の引力が海に潮汐を生み出すように、人間の体内の水だってその影響を受ける、これは「Biological Tides Theory」と呼ばれている学説です。

 さて、今から2000年前、ガリラヤ太守ヘロデの屋敷の上にも、大きな銀色の月が浮かんでいます。この月がこれからのドラマを支配します。
 「見ろ、あの月を。不思議な月だな。どう見ても、墓から抜け出してきた女のよう。まるで死んだ女そっくり。どう見ても、屍をあさり歩く女のよう。」

 なお、セリフは全て岩波文庫のオスカー・ワイルド「サロメ」(福田恒存・訳)を使用させて頂きます。何でって、私、この訳が好きなんです。



月を見つめてはいけない・・・

 この作品は一幕です。一気にラストまで突っ走るドライブ感がたまりません。

【第一場】 クラリネットが上へ上へと登り、サロメの動機が表れます。月の輝く夜、警護隊長のナラボートが感に堪えたように歌います、「いかにも美しい、今宵のサロメ王女は!」、それに嫉妬したヘロデの小姓(アルトが歌いますが男です)は「王女を見てはならぬ、度が過ぎるぞ」、最初から異常な雰囲気です。不毛な宗教議論に熱中するユダヤ人の騒々しい響き、そして井戸の底から響くヨカナーンの声、「おれのあとには、おれより力ある者がやって来よう」、彼はヘロデとその妻ヘロディアスを非難したことで監禁されているのですが、ヘロデは彼を預言者として恐れ、誰も近づくことを許しません。

【第二場】 サロメが登場、「あそこはいや、とても我慢できない。なぜ王はあたしを見てばかりいるのだろう、瞼を震わせ、モグラのような目をして」、義父ヘロデ(サロメはヘロディアスの連れ子です)の好色な視線から逃れてきたサロメ、「月を見るのはすてき!どう見ても小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は」。ヨカナーンの声が響きます、「主来たりたまう!」「誰だい、今の声は?」ヨカナーンの声に魅了されたサロメは、周囲の止めるのも聞かず、ナラボートを誘惑してヨカナーンを井戸から連れ出させます。

【第三場】 ヨカナーンの動機が夜を圧倒します。「その男はどこにいる、手に涜神の罪に満ちた杯を持てる男は?その女はどこにいる、おのが眼の欲情に屈してカルディアへ使いを送りし女は?」、登場するなり義父と母を罵倒するヨカナーンに、サロメは恐れつつもどうしようもなく引き寄せられていきます。「続けておくれ、ヨカナーン。お前の声はあたしを酔わせる」「近寄るな、ソドムの娘」、サロメにとってヨカナーンは美しい男であって預言者ではありません。サロメは執拗にキスを求めます。拒絶するヨカナーン、迫るサロメ、嫉妬に狂うナラボート、三人がもつれ合い凄まじい場面です。そして、緊張の頂点で嫉妬に耐えられなくなったナラボートは、自らに剣を突き立てて自殺してしまいます。悲惨な光景にもサロメは平然として「お前の口に口づけさせておくれ、ヨカナーン」。「サロメ、お前は呪われているのだ」、ヨカナーンは再び井戸に。

【第四場】 「不思議な月だな、今宵の月は・・・どうみても、狂女だな」、ヘロデは登場するなりナラボートの血に足をとられ、不吉な予感に怯えます。風にのって何かが羽ばたく音が響きます。オーケストラが破滅を予言します。ヘロデはサロメのご機嫌をとり、ヘロディアスがそれを冷笑します。井戸から再びヨカナーンの声、「見よ、時は来たのだ!」。ヘロディアスがヨカナーンを黙らせてと迫りますが、彼を恐れるヘロデは拒絶します。ここでまたユダヤ人たちの宗教議論が再開、「ついにその日は来た!」、救世主の到来を告げるヨカナーンの声はヘロデを不安に陥れます。気の滅入ったヘロデはサロメに踊るように命じますが、サロメは冷たく拒否。「踊ってくれたら、なんなりとほしいものをつかわそう」「本当に、ほしいものはなんでもと、王さま?」。ヘロディアスの怒りにもかかわらず、サロメは7枚のヴェールの踊りを披露します。
 「あぁ、見事だったな!・・・来い、サロメ、ここへ、褒美をつかわす」「私のほしいものとは、今すぐここへ、銀の大皿にのせて・・・ヨカナーンの首を!」、驚喜するヘロディアス、ヘロデはあらゆる宝物を並べて何とかサロメを翻意させようとしますが、サロメは執拗です。ついに根負けしたヘロデは「この女に望みのものをやれ!さすがは母親の子だ!」。ヘロディアスがヘロデの指から死の指輪を抜き取り、死刑執行人に渡します。
 不安な時間、「音もしない。何も聞こえぬ。どうして声をあげないのだろう、あの男は?・・・斬っておしまい、斬って、ナーマン、斬れというのに・・・」。緊張が頂点に達したとき、不意にヨカナーンの首が井戸から差し出されます。「あぁ、お前はその口に口づけさせてくれなかったね、ヨカナーン。今こそ、その口づけを。」サロメはヨカナーンの首に口づけをします。「不埒な女だ、お前の娘は、不埒な女だぞ」と怯えるヘロデに対して、「娘のしたことはよいこと」とヘロディアスは平然としています。
 「とうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン。お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?・・・いいえ、そうではなくて、たぶんそれは恋の味なのだよ」、陶酔するサロメを一条の月の光が照らし出します。「殺せ、あの女を!」ヘロデの命令で、兵士達は盾でサロメを押し潰します。

 はぁ〜、まともな人間が一人も出てきません。小姓はナラボートに恋をし、ナラボートは姫様に焦がれて挙げ句に自殺。ヘロデは義理の娘に欲情し、妻のヘロディアスはそれを冷たくせせら笑っています。ヨカナーンは神しか見ていません。サロメはヨカナーンしか見ていません。アンバランスの極みです。

 さて、月です。ナラボートは月を見ました、「まったく不思議だな。小さな王女さながら」。小姓も月を見ました、「まるで死んだ女のよう。それがまたたいそうゆっくり動いている」。サロメも月を見ました、「月は・・・そうだよ、月は生娘なのだよ」。そしてヘロデも月を見ました、「不思議な月だな、今宵の月は・・・酔うた女のように雲間を縫うて、よろめいて行く」。
 これに対して、ヨカナーンは月を見ません。彼はサロメも見ませんし、彼女が見ることも許しません、「見てはならぬ。隈どれる瞼の下から金色の眼もて、なにゆえおれを見つめるのか?」。
 そしてヘロディアスも月を見ません。風が運んできた不吉な羽ばたきも聞きません、「いいえ、月は月のよう、ただそれだけのことでございます」「いいえ、風など吹いてはおりませぬ」。
 月を見た者は、不安に駆られ、嫉妬に身を焦がし、欲情を抱き、そして狂います。月を見なかった二人は、まったく揺るぎません。ヨカナーンは神の声だけを聞き、神の姿だけを見ています。ヘロディアスは娘に欲情を抱く夫をあざ笑い、自分を罵倒するヨカナーンを憎悪し、現実からまったく目を逸らしません。

 月の力を侮ってはいけないのです。



美は乱調にあり

 洗礼者ヨハネの物語は新約聖書に登場します。ヨハネの母エリザベツは聖母マリアの従姉妹ですが、聖書によりますとエリザベツも神のお告げで懐妊したことになっております。「ルカによる福音書」によれば、ザカリアという祭司の妻であったエリザベツの元に毎度お馴染みの大天使ガブリエルが登場、ヨハネの誕生を告げたとされています。どうもこの神様ってあちこちで子供作っているみたいで、聖書には書かれておりませんが、聖母マリアも実は「神の子」とする教理があります(無原罪のお宿り)。

 さて、洗礼者ヨハネ、彼は幼いうちから両親の元を離れ荒野を彷徨っては救世主の到来を告げて回りました。当然、髭ぼーぼーでラクダの毛皮をまとい、常食はイナゴと蜜、年期の入ったホームレスの姿を想像すればいいでしょう。彼はガラリアの太守ヘロデ(といっても実質的な支配者はローマ帝国ですから、雇われ社長みたいなもんですが)とその妻ヘロディアスを罵ります。
 このヘロデの父は大王ヘロデ、ソロモンの神殿を再建したり減税を実行したりとなかなか立派な王様でしたが、性格に問題あり。異常に猜疑心が強かったのです。東方の三博士が予言した「ユダヤの王」(つまりイエス)の誕生を恐れるあまり、ベツレヘムの2歳以下の男の子を虐殺したと伝えられております。その猜疑心は家族にまで及びました。何しろ妻(10人)と子供(15人)が少々多すぎた。この中から権力の座を狙うものが出るのではと恐れた彼は、妻でも息子でも、少しでも疑わしければ殺しました。生き残った息子は3人、ヘロデ・フィリポ、アケラオ、そしてオペラに登場するヘロデ・アンティパス。ヘロディアスはヘロデ・フィリポの妻だったのですが、平凡な夫に飽きたらずヘロデ・アンティパスの元へ娘サロメと一緒に押しかけてきたわけです。このスキャンダルを大声で糾弾したのがヨハネですが、確かにヘロデ一族の関係はメチャクチャで、ヘロディアスはヘロデの姪で、元兄嫁で現妻、サロメはヘロデの姪でかつ義理の娘、ヨハネでなくても何か言いたくなります。

 この非難に激怒したのは、ヘロデではなく妻のヘロディアスの方でした。ヘロデ自身はヨハネをそれなりに尊敬しておりましたし、民衆に人気の預言者を殺すのは政策的にもまずいでしょう。ただ余りにうるさかったので井戸の中で勝手に叫ばせておけばよいと思っただけなのです。しかしヘロディアスはヨハネの口から出る悪口だけではなく、それを生むアタマの方も抹殺せずにはおられませんでした。
 「そこで王はこの少女に『ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから』と言い、さらに『ほしければ、この国の半分でもあげよう』と誓って言った。そこで少女は座をはずして、母に『何をお願いしましょうか』と尋ねると、母は『バプテスマのヨハネの首を』と答えた」(マルコによる福音書)。
 そしてヘロデはこの妻の言いなりになってしまいます。恐妻家だったんでしょうね。つまり聖書では、ヨハネ対ヘロディアスの対立にサロメとヘロデが巻き込まれたというわけです。ヨハネ対ヘロディアス、これは思想の、そして政治の戦いです。

 有名なサロメですが、実は聖書には彼女の名前は登場しません。「ヘロディアスの娘」とだけ記されています。確かにヘロディアスにはサロメという娘がおりましたが、彼女はカルモスの王子アリストプロスと結婚し、平穏な生涯を送りました。母にそそのかされてヨハネの首を求めるような少女であったのかどうかは不明です。

 さて、ワイルドの「サロメ」ではさらに話がややこしくなっております。サロメは母の言いなりになるのではなく、自分の欲望、美しいヨハネに口づけしたいという欲望だけのためにヨハネの首を求めます。そして、その結果として命を落とします。対立の図式はサロメ対ヨハネ、それは欲望と禁欲の戦いであり、肉体と精神の戦いです。神への愛と恐れしか持っていないヨハネに対して、サロメは彼の肉体の「美しさ」だけを求めます。
 ワイルドの描くヨハネは異様な美貌の持ち主です。「なんて痩せているのだろう!ほっそりとした象牙の人形みたい」「その肌の白いこと、一度も刈られたことのない野に咲き誇る百合のよう、山に降り降りた雪のよう」「お前の髪は葡萄の房、エドムの国のエドムの園に実った黒葡萄の房」「お前の唇は象牙の塔に施した緋色の縞。象牙の刃を入れた柘榴の実」、むさ苦しいはずの荒野をさすらう洗礼者ヨハネがこの世のものとも思えない美青年です。
 対するサロメも、義父さえも狂わせる美しさの持ち主なのですが、彼女の美貌は間接的にしか描かれていません。「いかにも美しい、今宵の王女サロメは!」と言うナラボート、そして「おぉ、おれの美しいサロメ、ユダヤのどの娘よりも美しいお前がほしいというのは、一体なんなのだ?」と言うヘロデの言葉によってしか伝わらないのです。

 しかし、サロメは自分の美しさを、その美しさが男に与える衝撃を知り抜いています。ヨハネを求める彼女はナラボートを誘惑します、「お前なら、きっとしておくれだろうね?」「あたしをごらん、お前にはよくわかっているはず」。その美しさがヨハネには何の力も持ちません。「何者か知らぬ。知りたいとも思わぬ。連れて行け」、ヨハネは精神の世界に生きる男なのです。それに対してサロメは肉体の世界を容赦なくぶつけます、「あたしはお前の口に口づけするよ、ヨカナーン」「お前の口に口づけさせておくれ」。
 神しか見えないヨカナーンに対してサロメは自分の欲望をぶつけます。そして完全に否定されます。お前は私の肉体を拒むのか?そしてお前の肉体の美しさが持つ力を拒むのか?ならば私はお前の首を求めよう、お前の首を弄ぼう、首だけになっても私を拒めるか?これは神に対する反旗です。サロメは神を否定します。そしてヨカナーンの唇を手に入れます。そんなサロメをヘロデが殺します。ヘロデ、彼は神に対する恐れを捨てることができず、しかし兄嫁であったヘロディアスの肉体の力に抗することができず、そして義理の娘サロメの美しさに惹かれてしまうという、まさに現実の人間そのものです。彼の一言が、預言者ヨカナーンを、そしてサロメを殺してしまう。

 この作品に描かれているもの、それは迷い、惑わされ、弱く、小さな人間が、神の恵みの美しさを破壊する物語でもあります。聖書のサロメは殺されはしませんが、ワイルドはサロメを殺しました。美は決して「その後」を見せてはならない、その絶頂で滅びるべきである、ということなのかも知れません。



言葉と音の神経戦

 サロメとその母ヘロディアス、この奇妙な女二人がこの作品では一番気になります。預言者ヨカナーンも、気弱で優柔不断なヘロデも、それぞれ一人の男として完結しているのですが、サロメとヘロディアスは二人で一人と考える以外に理解のしようがありません。

 サロメはヨカナーンの声を聞いただけで彼に恋してしまいます(「なんて不思議な声だろう!」)。そして自分の中に芽生えた恋の欲望以外は何も見えなくなってしまいます。ヨカナーンの顔を一目見たいがためにナラボートを誘惑しますが、ここでのサロメはまだ少女です。「あたしはいつだってお前に優しくしてあげたもの」「お前の上に小さな花を投げてあげるよ、小さな緑の花を」「モスリンのヴェールの奥から、お前を見てあげるのだよ」、花を投げる、見てあげる、幼稚な言葉には少女らしい他愛のない恋愛の真似事しかありません。このときのサロメはまだ本当の恋を知らないのです。
 圧倒的な性的魅力を持ったヨカナーンが登場した途端、サロメは変身します。その言葉の執拗さには目眩を覚えるほどです。「あたしはお前の肌がほしくてたまらない」「さあ、お前の髪に触らせておくれ」「さあ、お前の口に口づけさせておくれ」、サロメは肉欲に目覚めます。ためらいがちに視線を絡ませ、花を投げる、そんな恋しか知らなかったサロメは、ヨカナーンの美しさをその肌で感じたい、その唇で感じたいという性の喜びに対する欲望を初めて知ったのです。同時にサロメは自分の美しさにも目覚めます。ナラボートに対しては少女だったサロメですが、ヘロデに対しては自分の肉体の美しさを容赦なく見せつけます。しかもその対象はヘロデではなく井戸の中のヨカナーン、ヘロデは道具に過ぎません。サロメは男を操る手練手管まで一瞬にして身につけてしまいます。そして、一旦目覚めたサロメをもう誰も止めることができません。なぜならサロメの欲望は、滅茶苦茶ではあっても純粋なのです。「純粋な欲望」の暴走は王様の軍隊をもってしても止めることはできません。

 そうまでして手に入れたヨカナーンの首、その唇は苦かった。「お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?いいえ、そうではなくて、たぶんそれは恋の味なのだよ」、恋は甘いのではなく苦いと知ったサロメ、どんなに美しい男でも手に入れた途端に色褪せる、なぜなら美しさとは一瞬のものであり、それをとどめることは誰にもできないからです。サロメは初恋のヨカナーンの唇を手に入れた途端に、その美しさが永遠に失われたことを知ります。そして同時に自分の美しさも、命も失います。サロメは死んだのか・・・。
 サロメはヘロディアスになったのです。ヘロディアスはヨカナーンの美しさなど全く気にしません。義理の娘の美しさに心を奪われる夫にも動じません。そんなものは一瞬で消え去ることを知っているのです。ヘロディアスはもっと甘美な喜びを知っているのです。それは権力であり、富であり、名誉であり、地位です。ヘロディアスは「美しい預言者」ではなく「現実の権力者」を手に入れることによって、それら全てを自分のものにしました。そしてそれを脅かされた時、権力によって美を滅ぼすことを選びます。彼女にとって男とはその程度のものでしかありません。
 青い満月の光が辺りを満たす夜、サロメは一人の男の美しさに狂って恋をしました。その唇を手に入れて処女を失い、そして少女から女に変貌したのです。「どう見ても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は。そうだよ、月は生娘なのだよ。一度もけがされたことがない」、サロメは今宵起こるであろうことを、最初から全て知っていたのです。

 ワイルドの原作の特徴はきらびやかな言葉が執拗に繰り返されることです。ヨカナーンを求めるサロメの言葉、サロメに踊りを求めるヘロデの言葉、何とかヨカナーンの首以外の宝で義理の娘を納得させようとするヘロデの言葉、そして「ヨカナーンの首を!」と繰り返されるサロメの言葉、終わりの見えない言葉のもつれ合い、これをR・シュトラウスは音で表現することに成功しています。「神経対位法」と名付けられたこの手法、難しいことは分かりませんが、半音階と全音階のせめぎ合い、沈黙する待機の時間ですら、音のない音に満たされているかのような錯覚に聴く者を陥れる絶妙の間、繊細な音の重なりに油断していると、突然現れる脳髄にキリキリと押し込まれるみたいな主題や動機、不協和音の切れ味の鋭さ、演奏する側と聴く側の神経戦と言っていい緊張感を持った作品です。

 「求めるものは幸福ではない。断じて幸福ではない。快楽だ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」)
 サロメとヨカナーンは、実はこの意味において共通しています。サロメはヨカナーンの美しさに溺れ、その唇に口づけする肉体の快楽に酔いしれています。ヨカナーンは神の声に溺れ、その言葉を荒野で、そして井戸の中で叫ぶ精神の快楽に酔いしれています。この二人は最初から最後まで自分の「快楽」しか求めません。快楽の本質はエゴイズムでしかありません。二人とも究極のエゴイストなのです。この全く同じであるからこそ全く交わらない二人の対立、そして余りに強固な二人のエゴに翻弄されるヘロデが呼び込んでしまった惨劇、ヨカナーンの首とサロメの遺体、そして覚めない悪夢におののくヘロデを最後に冷たく見下ろすもの、それは天空の冷たく青白い月、そしてサロメが変貌を遂げた後の存在としてのヘロディアスです。

 サロメは非常に難しい役です。どう考えてもイカレているとしか思えない悪魔じみた欲望に対して、まるで天使のように純粋なのです。恐ろしい魔性の女であると同時に無垢な少女なのです。そしてサロメの旋律は非常にドラマティック、声としてはヘビー級の声が求められるのですが、表現としては幼さが欲しいという、全く、シュトラウスも土台ムチャな役を作り上げたものです。
 ヨカナーン、彼には預言者としての威厳、それに加えてちょっぴり狂信者めいた危うさが欲しい。加えて圧倒的な美貌の持つ妖しさも欲しい。この役もムチャです。
 というわけで、どれを聴いたものか迷う作品です。1961年のショルティ盤、ビルギット・ニルソンのサロメは正に重戦車の破壊力を持つその声を実に効果的に使っています。1970年のベーム盤、ギネス・ジョーンズのサロメは硬質な少女の美しさを表現して秀逸。フィッシャー=ディスカウのヨカナーンは威厳たっぷり、何て言うかマジで説教していて怖いです。1977〜78年の録音のカラヤン盤、ヒルデガルト・ベーレンスのサロメ、欲しくてたまらなかった大切な人形をいじくり回した挙げ句に首が取れちゃった、その首を握りしめている青白い顔の女の子って感じの怖さがあります。ヴァン・ダムのヨカナーンはディスカウに比べれば美貌の若者って感じがします。
 映像盤となると「7枚のヴェール」のヌードシーンが話題になりますが、気前よく脱いでいるのはシノーポリ盤のマルフィターノとダウンズ盤のユーイング。サロメ役は声と容姿は絶対に一致しませんから、聴くか見るか、どちらかで選びましょう。




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