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サン=サーンス 「サムソンとデリラ」 (2001年2月3日〜2001年2月17日の日記より)
ぶち切れターミネーターの恋
時は紀元前11世紀頃、所はパレスチナのガザ周辺、当時ヘブライ人は『また主の前に悪を行ったので』(要するに神様に怒られちゃって)ペリシテ人の支配下にありました。そんな時代のヘブライ人の英雄(ペリシテ人から見れば凶悪犯)の恋、それがサムソンとデリラの物語。
ヘブライ人のダン族のうちに子供に恵まれない夫婦がおりました。ある日神のお使いがバタバタと現れて言うには「あなたは男の子を産む。その子はナジル人(これは『イスラエルにおいて民が髪を伸ばし進んで身を捧げる時、主を誉め称えよ』と聖書に書かれている戦士のこと)なので、その子の頭に剃刀を当ててはならない」、一方的なお告げの結果、サムソンが生まれます。
サムソンは神から授かった怪力の持ち主として立派に(でもないか・・・)成長し、異教徒ペリシテ人の娘に恋をします。反対する(『私たちの民のうちに女がないとでも言うのか』)とうちゃん、かあちゃんに「あの娘を嫁にする」と宣言、いそいそと嫁取りに向かう途中でライオンと遭遇、何と素手でライオンを引き裂いてしまいます。婚礼の場で彼はペリシテ人にクイズを出し、晴れ着30枚を賭けます。困ったペリシテ人は花嫁に何とかしろと迫り、彼女に泣きつかれたサムソンは答えを教えてしまいます。当然賭けはペリシテ人の勝ち!これにキレたサムソンはペリシテ人30人を殴り殺します(メチャクチャ)。そしたら花嫁のとうちゃんは彼女を他の男に嫁がせてしまいます(当たり前だ)。これでまたキレたサムソンは、今度は狐300匹に松明をくくりつけ、ペリシテ人の畑を焼き払います(動物虐待、その上放火)。
サムソンのブチギレのおかげで今や民族紛争の危機、これには参ったヘブライ人はサムソンを縛って「ここいらで手打ちといこう」とペリシテ人に引き渡します。ところがサムソンは「えいっ」と簡単に縄を切り、その辺に転がっていたロバの顎の骨をブン回してペリシテ人1000人を殴り殺します。ロバの顎の骨で1000人ですよ、金属バット持たせたらペリシテ人は絶滅していたでしょう、斧かまさかり持たせたらヘブライ人以外の人類は地上から消えていたでしょう。
こうしてどちらの民族からも厄介者となったサムソンですが、女遊びの方はお盛ん、娼婦のところでは奇襲をかけてきたペリシテ人の目の前で門を丸ごと抱え上げたりとその怪力は相変わらず。
サムソンは、今度はソレクの谷に住む美女デリラに惚れます。何度奇襲をかけても失敗、その度に死傷者多数、被害甚大のペリシテ人は作戦を変更、あの怪力を何とかすりゃいいんだとやっと気づいて、デリラを買収します。
「ねぇ、どうしたらアンタ弱くなるの?」「乾いたことのない7本の弓弦で縛ればいいのさ」・・・失敗。
(もういっちょ!)「ねぇ、どうしたらアンタ弱くなるの?」「人々が用いたことのない新しい縄で縛ればいいのさ」・・・失敗。
(まだまだ!)「ねぇ、どうしたらアンタ弱くなるの?」「7房の髪の毛を織り込んだ布を釘で留めればいいのさ」・・・失敗。
「ねぇ、どうしたらアンタ弱くなるの?」(しつこい!)「髪の毛を切られると弱くなるのさ」・・・ビンゴ!
デリラの膝の上でデレっと寝ていたサムソンは髪の毛を切られ、ペリシテ人に捕らわれてしまいます。
両目を潰され、鎖に繋がれて石臼を轢かされるサムソン、やっとこれで一安心のペリシテ人は宴会の余興に彼をさらし者にして楽しもうとします。ところが監禁されている間に彼の髪は伸びていたのです(こんな凶暴な男なのにヘアカットを忘れるなんてペリシテ人もどうかしている)。「神よ、今一度だけ私に力を与え、復讐をさせて下さい」、渾身の力で神殿の柱を押すサムソン、巨大な石の神殿は、3000人のペリシテ人、デリラ、そしてサムソン本人を飲み込んで音を立てて崩れ落ちました・・・。
都合、彼が殺したのは4030人のペリシテ人と一頭のライオン、それに加えて、狐300匹の虐待、放火、器物破損、建造物破壊・・・。
このサムソンとデリラの物語は、旧約聖書の士師記に登場します。士師というのは、ヘブライの民が苦難に陥った時に救いに現れるヒーローのことで、士師記には合計12人のヒーローが描かれ、サムソンはその一人・・・なのですが、何とかペリシテ人と共存しようと苦労している同胞を尻目に、異教徒の女に惚れては大暴れし、ブチギレて大量殺戮を行うこの極道のいったいどこがヒーローなのか?
一応神から怪力を与えられたヒーローですので、サムソンが大暴れする時には『主の霊が激しく臨む』ことになっています。つまり、暴れているのは神の意志ということでしょうか?
聖書では彼は来るべき対ペリシテ人闘争の先駆者とされています(それにしても動機が全部女絡みなんですけど)。つまり、「ヘブライの民よ、異教の魅力に一時は惹かれたとしても、悔い改めれば最後には神は救って下さるによって、それをよーく心得よ」ってことなんでしょうか?(かなり無理があるな)
このお話、旧約聖書の中でも最も人気のあるものの一つです。ハリウッド製の大作映画にもなっています(セシル・B・デミル監督「サムソンとデリラ」1949年)。愛されたくて、女の心を繋ぎ止めたくて、大切な秘密を打ち明けてしまう凶暴かつ純情な怪力男と、甘く絡みつき彼を骨抜きにする凄腕の妖艶な女スパイ、というお色気満点の悲恋の物語、こりゃウケますって。
「カリスマ・ヒーロー」対「復讐の蜘蛛女」
旧約聖書の物語をそのまま持ってきたのでは、到底オペラにはなりません。女に惚れてはその都度ご丁寧に裏切られ、性懲りもなく何度も暴れる怪力男サムソンでは、メジャーになる前のシュワルツェネッガーの映画に「寅さん」で味付けしてみました、っていう感じになります。これでは洗練されたマルチの才人、サン=サーンスだってどうしようもない。
オペラは聖書の物語の前半部分(ロバの顎の骨で大暴れのシーンまで)をカットしており、サムソンは登場した時から民族救済のカリスマということになっています。
第一幕、ガザの町、ペリシテ人の神ダゴンを祀る神殿、管楽器の響きがすっと消えるとズルズルと重苦しい雰囲気でヘブライ人の嘆き「イスラエルの神よ、聞き届け給え」、バスからソプラノまで声が次々と重なり合う非常に凝った旋律です。
サムソンが登場し「もう泣くな、兄弟たち」と民衆を慰めます。サムソンの力強い声は「我らの栄光を神に委ねよう、戦いの準備をし、勝利を信じよう」と、徐々にアジテーションの様相を呈し、それに鼓舞された民衆は「彼と共に解放を勝ち取ろう!」と彼をリーダーとして認め、合唱は戦闘的に激しさを増します。
神殿の前でデモなんかやられてはたまらないペリシテ人太守アビメレクが登場、ヘブライの神を侮辱します(「お前たちの神はダゴン神の前から逃げ出した」)。そんなアビメレクをサムソンが殺します(えー、正当防衛です、一応)。この時点でデモは反乱に発展、ペリシテ兵はサムソンを恐れて誰も彼らを追うことができません。
ダゴンの祭司長が登場、「この臆病者!」と叱りつけるところに伝令登場、サムソンに率いられた暴徒がすぐそこに!祭司長は「イスラエル人よ永遠に呪われよ」と歌いますが、当面は命が大切と言うわけでペリシテ人は撤退。
ヘブライの長老たちが神を讃えて荘重な喜びの歌を歌います。この抹香臭い雰囲気にいきなり被るのは妖艶なデリラと彼女に従う美しい娘たち。「ねぇ、無粋な喧嘩なんか止めて恋をしない?」、サムソンの前に進み出たデリラは自分の魅力を思いっきりアピールし、ソレクの谷間の我が家へ誘います(「春が来れば」)。メロメロのサムソンは、それでも必死に抵抗します。ヘブライの長老も「その魅力に負ければ罰が下るぞ」と警告します。しかし元々が女好きのサムソン(「神よ、私の弱さをご存知でしょう」って自分で認めている)は、頭では分かっていても、心はデリラの誘惑に負けてしまいます。
第二幕、不気味な旋律がこれから先の悲劇を暗示します。着飾ったデリラは「恋よ!か弱い私に力を貸して」、愛の力であの怪力男に復讐するのよ、と広い音域を華麗に上下するアリアで、その美しい姿の下に隠れている復讐の鬼を垣間見せます。
ダゴンの祭司長登場、兵隊たちが腰砕けで役に立たない今、秘密兵器であるデリラに全てを託します。お金なんて要らない、復讐だけが望みなの。念を押す祭司長にデリラは「あんただって一度は私の誘惑に屈したじゃないの」(この二人デキてたのね)と自信たっぷり。二重唱「険しい山をよじ登り」はグングンと盛り上がり、「サムソンに死を!」で締めくくられます。
サムソン登場、来るべきではないといくら歌ったところで、現に来てしまっている訳で、彼の敗北はこの時点で決定されています。サムソンは必死で恋を否定しようとしますがデリラの声が絡みつきます。「あなたの声に心も開く」、細やかなリズムを刻む旋律はエロティックでありながらなぜか清潔な響きを持っています。酔わせて、もっと酔わせて…、デリラはサムソンの声に酔いしれて見せます。普通なら逞しい肉体を誉めるんじゃなかろうか?オペラだからキャスティングによっては体の方は色々と不都合があっても、声を誉める分には問題なかろう?ここに誘惑者デリラの凄腕が表れています。筋肉や怪力を誉められることには慣れているサムソンも、その声が女を酔わせるなんて言われたのは初めてでしょう。デリラは巧みにサムソンの無防備な箇所を責め立てます。これには堪らなくなったサムソン、いつしかデリラの声に自分の声を絡ませて、最後にはつんざくような高音でデリラの愛に応えてしまいます。じゃ、その怪力の秘密を教えて…。雷鳴が神の怒りを告げ、サムソンは躊躇します。涙ぐんで家に駆け込むデリラ、サムソンは引き寄せられるように後を追います。そして、「裏切ったな!」
第三幕、両目を潰され石臼を回すサムソン、民族解放のリーダーでありながら神を裏切った自分を呪う彼にヘブライの民の裏切りを詰る声が追い打ちをかけます。自分を責めるサムソンの声に自分たちの他力本願は棚に上げて彼を責める合唱が重なります。ヒーローっていうのはなかなか大変です。
ダゴンの祭司長、そして艶やかにデリラが登場、バッカナール(酒の神バッカスを讃える祭り)が繰り広げられます。小さな子供に手を引かれて大きなサムソンが引っぱり出されます。復讐を成し遂げたデリラ、あの「あなたの声に心も開く」の旋律が誘惑に負けたサムソンを今更ながら苛みます。ダゴン神への礼拝を強いる祭司長、「神よ、力をお返し下さい!」、サムソンの最後の絶叫に神は応えます。大神殿は全てを飲み込んで轟音と共に崩れ落ちます。異教徒の誘惑に負けたナジル人サムソン、彼の命と引き替えに神は彼の後悔と謝罪を受け入れます。
ヒーローとして祭り上げられながら民衆の期待を裏切ったサムソン、彼はその裏切りの報いとして視力と怪力を失い、自ら頼みにしていた力を失った時初めて真摯に神に祈ります。神はその最後の祈りを聞き届けます、但し命を代償として。復讐に生きたデリラ(彼女は例の「ロバの顎骨大量殺人事件」の被害者の娘か恋人なのでしょうか?)は、それを成し遂げ幸福の絶頂でその美しい体を石の下に失います。
カリスマ的リーダーと彼をひたすらつけ狙う美しいスナイパー、誘う女と抗う男、そして力も美しさも一瞬のうちに瓦礫の山と化す虚しさ、元々はオラトリオとして生まれた作品ですから、うねるように重なり合う声には聖書物語に相応しい重々しい雰囲気があります。しかし、サン=サーンスはこの厳しく激しい物語に最高のエロスを見出していたと思います。彼は巧みにもう一つの別の物語を忍び込ませています。
もう1つの物語
【サムソン】
彼はどうしようもなく孤独でした。神に選ばれたヘブライ人救済の士師、そのために与えられた怪力が彼を孤独に追いやったのです。
サムソンは自分から望んで英雄になったわけではありません。怪力が欲しかったわけでもありません。彼には選択の自由はなかった、生まれた時から何もかも決められていたのです。
彼に与えられた役目は民族の救済ですが、神は怪力は与えても、その使い方を教えてはくれませんでした。彼には民族対立も宗教対立も理解できなかった。彼の初恋の人は異教徒ペリシテ人の娘でした。「彼女を私に娶って下さい。私の心に適いますから」(士師記14章)、美しい言葉です。そう、サムソンはただただ彼女が好きだったのです、彼女が何人だって構わなかったのです。その結果として『主の霊が激しく臨み』、彼は大暴れを演じてしまいます。
サムソンの神、ヘブライの神は契約の神です。律法に『聴き従い』それを『慎みて行う』者だけが『義とされ』、それを破る者を『地の面より滅ぼし去る』神なのです(申命記)。サムソンの神は『我は妬み深き神なれば』(出エジプト記)と自ら言っている通り、絶対服従を要求する神なのです。
絶対服従を強いる神から選ばれた男でありながら、彼は再び異教徒の女デリラを愛します。一度異教徒を愛してしまった男はもうヘブライの娘からは相手にしてもらえなかったのではないかとも思います。孤独な彼は愛が欲しかった、なぜなら彼は英雄として生まれながら英雄であることが理解できず、自分の力をどう使ったらよいのかも分からず、ペリシテ人からは恐ろしい敵として、ヘブライ人からは異教徒の女を愛する士師という背信の存在として、どちらからも疎外された孤独なアウトローだったからです。
ペリシテ人が恐れ、ヘブライ人が身勝手な救済を託すその怪力、サムソンにとって神からの贈り物である怪力は孤独しか与えてくれませんでした。伸び放題の髪をいっそ自分で切ってしまいたかったに違いありません。
【デリラ】
彼女はどうしようもなく孤独でした。あらゆる男を虜にするその美貌が彼女を孤独に追いやったのです。
どんな男でも思いのままになるデリラですが、彼女が欲しいのは思いのままになる男ではありません。デリラはサムソンへの復讐を執拗に歌いますが、それが何なのか一切語りません。語れるはずがない、彼女の復讐の対象はサムソンではなくて自分を取り巻く何もかもだからです。
デリラはダゴン神を崇拝していません。もしそうなら祭司長を誘惑するなど畏れ多くてできるはずもないからです。デリラは愛だけを求めており、愛だけを信じています。そしてその愛にあれこれと制約をつけるものは神であれ律法であれ許せない、彼女はアウトローなのです。デリラはその美貌で神に挑みます。どんな神であれ、その神に服従を誓う男(祭司長とサムソン)を神から引き剥がすこと、それが彼女の勝利です。そしてサムソンと出会った時、デリラは彼の額に自分と同じ烙印を見ます。その怪力ゆえに孤独なサムソンと、その美しさゆえに孤独な自分…。
デリラは愛を歌います、「あなたの声に私の心も開かれていく…、もう一度聞かせて、昔の誓い、私の好きだったあの誓いを、私の愛に応えて、酔わせて、もっと酔わせて…」、あなたも私もアウトローなのよ、なぜそれを否定するの?なぜあなたを縛る全てから自由になろうとはしないの?
デリラが本当にサムソンに復讐をしたければ怪力の秘密を探るなんて面倒なことをしなくても寝首をかけばそれで足りたはずです(旧約聖書にはユディトというこの道の先輩が出てきます)。なのに、デリラは執拗にサムソンの秘密を求め、3回も失敗しています。サムソンはデリラを愛しながらも彼を縛る律法に忠実です。それがデリラには許せない。彼女はサムソンを殺したいのではない、彼にその神を裏切らせたいのです。
デリラはヘブライ人の英雄なんて欲しくなかった、ただひたすら自分を愛してくれる一人の若者が欲しかったのです。だからサムソンの怪力が邪魔だったのです。これがあっては、彼はデリラだけのものにはなってくれません。サムソン、あなたが欲しいの、ただ私だけの男としてのあなたが欲しいの、英雄?士師?そんなもの私はいらない。
デリラはサムソンを欺きます。彼を貶め、苦痛と屈辱を与え、地を這い回ることを強います。
【そして二人】
サムソンはデリラに髪を切られたことによって生まれて初めて普通の若者になりました。それと同時に目を失い、もうすぐ命まで失うことになります。ただ愛が欲しかっただけなのに、このあまりに理不尽な代償…。
「神が我らをおまえの腕に委ねて戦いに導けと命じられたのに、兄弟たちをどうしてくれた?父祖の神をどうしてくれた?」視力を失い、力を失い、鎖に繋がれて殺されるのを待つだけの彼を責める人々の声の何て残酷で身勝手なことか。大勢で群れて救済を求めるだけの彼らには、サムソンの孤独など理解できるはずもありません。
「思い出して、あの酔い心地、思い出して、私の愛撫…、あの恋を信じたのね、それがあなたの鎖になったのよ」、そう、デリラの愛撫の結果、サムソンは力を失い、そして鎖に繋がれました、石臼にではなくデリラの愛にです。
サムソンは神が彼に押した「烙印」である怪力を蘇らせてくれと祈ります。デリラに彼の愛の烙印を押すために。
デリラは「祭壇の上、灰の中から蘇る」と歌います。士師サムソンの灰の中からただ彼女だけのために存在する男を蘇らせるために。
神殿は二人の上に崩れ落ちます。死のみが彼らを自由にしてくれる…、神を裏切った士師と神を憎悪した女は、共に奈落の底へ落ちていきます。そこは地獄でしょうか?それとも愛の国でしょうか?
中途半端が美しい
この作品は聖書物語ということで、最初はオラトリオとして構想されていました。途中であれこれと新しい要素が加わってオペラとなりましたが、出来上がりはオラトリオとオペラ、両方の要素を持ったとても美しいものとなりました。
第一幕のヘブライの民の合唱、まずはペリシテ人の支配を嘆く「イスラエルの神よ」、そしてサムソンに率いられて蜂起し初戦勝利を喜ぶ「喜びの歌」は、どちらも宗教色が強く、前者は速まるテンポに乗ってバス、テノール、アルト、ソプラノと声が次々と重なり合うフーガの形式を、後者はヘブライの長老のリードに合唱が続く聖歌の形式を色濃く持っています。
この抹香臭いヘブライ人に対して、享楽的で華やかなのは第三幕の「バッカナール」。酒の神バッカスを讃える祭りがバッカナールです。厳密には古代ローマ生まれの神バッカスさんはまだこの時点では生まれておりませんが、難しいことは抜きにして、ダゴン神を讃えるペリシテ人のどんちゃん騒ぎはいかにも楽しげ。
この二つの対比はそのまま一神教のユダヤ教と多神教のダゴン信仰の違いにつながります。おっかない契約の神であるエホバは楽しいことがお嫌いです。何しろエホバは唯一絶対の存在であり、その名を書くことも、姿を描くことも不敬とされ、ヘブライ人には248の義務と365の禁止が課せられています(多すぎると思う・・・)。この神様の特徴はともかく厳しくてすぐに怒るということ。自分で人間を作っておきながら「気にいらん!」で大洪水を起こし(「創世記」)、不良分子を一掃した後は一転して「生めよ、増えよ、地に満ちよ」ときます。この教えを素直に信じてどんどん増えてしまったヘブライ人は、そのおかげで居候していたエジプトから追い出され(「出エジプト記」)、砂漠をさまようはめになります。なんか問答無用のワンマンオヤジって感じです。
対するダゴン神は、上半身が人、下半身が魚の姿で描かれ(ペリシテ人は「海の民」と言われています)豊穣の象徴でした。余談ですが、この後のキリスト教の支配下では、ダゴンは異教の神として当然に悪魔ということにされてしまいます。地獄での担当業務はパン焼きだそうですが、愚痴を言いつつ(「何で魚がパン焼くんだよぉ、鱗が乾くじゃねぇか」)パンを焼いている姿を想像すると結構愛嬌がありますね。多神教の神様の特徴は人間臭いということです。神様の間で役割を分担していますから、完全無欠である必要も全能である必要もありません。自分の仕事だけ適当にやっていれば良いわけで、暇な時には神様同士で喧嘩もするし女神様をナンパもする。そして楽しいことが大好きです(今ではキリスト教の行事になっているカーニバルもハロウィンも、元々は多神教の風習です)。バッカナールのエキゾチックな旋律には、ユダヤ教が否定した快楽を求める人間本来の剥き出しの欲求が強く表れており、舞台では華麗なバレエが繰り広げられる場面、耳にも目にもご馳走という欲張った見せ場となります。
第二幕での二つの二重唱、一つはデリラと祭司長の「険しい山をよじ登り」、この二人は過去に何やらあった模様ですが、現在は打倒サムソンで一致していますから、パワフルなリズムと旋律はきちんとシンクロしています。もう一つはこの作品のクライマックス、デリラとサムソンの「あなたの声に心も開く」。細やかなリズムがさざ波のように官能を刻み、デリラが囁く誘惑の言葉にサムソンが耐えきれずため息のような愛の言葉を返す、この過程がジリジリと盛り上がり、最後にはサムソンが最高音で「デリラ!愛している!」と絶叫します。ここでのデリラはかなり露骨に性愛をほのめかしています。歌詞からすれば濃厚なお色気シーンです。しかし旋律には何故か清潔感が溢れています。デリラは男を堕落させる魔性の女であると同時にペリシテ人の「憂国の士」でもある、この彼女の二面性が言葉と音、両方で奏でられ非常に心地よい場面なのですが、表現がどちらかに傾いてしまうと全然違った場面になるという、この作品中最大の難所です。
宗教曲のようでもあり、オペラでもある、聖書物語でもあり、官能の物語でもある、非常に中途半端であり、その中途半端具合が絶妙なバランスを持っている、ここがこの作品の魅力だと思います。
さて、主役二人を歌う歌手によって、全然違って聞こえるこの作品。まずは力強い民族救済の英雄としてのサムソンとなれば、プラシド・ドミンゴ(1978年バレンボイム盤と1980年ルーデル盤)、そしてホセ・クーラ(1998年デイヴィス盤)でしょう。ドミンゴは高音は少し苦しいのですが中音域ではパワー全開。クーラは良く伸びる高音を響かせつつも控えめな表現で苦悩する英雄を若々しく歌っています。そして愛に裏切られる失意の男としてのサムソンはホセ・カレーラス(1989年デイヴィス盤)、いじめられ男の良く似合うカレーラスですから、第三幕の痛々しさは絶品です。
そしてデリラ、我が身を捨てて民族の恨みを晴らす強い女としてのデリラなら、クリスタ・ルードヴィッヒ(1973年パタネ盤)、妖艶な魔性の女なら、シャーリー・ヴァーレット(ルーデル盤)が聴き応えがあります。私の好みは1991年チョン盤のワルトラウト・マイヤー、上品な色気が何とも言えません。
さらに陰謀の首謀者、黒幕の祭司長も大切です。第一幕でアビメレクの死に怒り狂い、二重唱「険しい山をよじ登り」では訳ありの女と一緒に陰謀を巡らせ、バッカナールでは民族の勝利を高らかに歌う・・・、単なる悪役ではなくて、怪力サムソンに対して知恵で対抗するペリシテ人のリーダーとしての貫禄が欲しいところです。彼は単純な卑怯者ではなく、民族の安全とガザの統治のためにはあらゆる手段を尽くすという高度な政治家でもあるわけです。クーラのサムソン、オルガ・ボロディナのデリラと共演している1998年デイヴィス盤でのジャン・フィリップ・ラフォンがなかなかの演技派ぶりを見せています。
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