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ヴォルフ・フェラーリ 「スライ」 (2001年7月19日〜2001年8月5日の日記より)
第一幕 目覚めて夢を見る人
子供の頃、こんなことを考えていた時期があります。いま私のいるこの世界は本当にここにあるんだろうか?テレビでやっているニュースはあれ本当に起こっているのだろうか、本当は大きな事件も野球もオリンピックも全部、どこにも存在しないんじゃないか、私があるって思っているだけなんじゃないか。これはすごく詳しくてすごく長い夢、どこかで別の私が見ている夢で、その私が目を覚ませばこの世界は全部消えてしまうんじゃないか・・・。相当にバカな子供だったと今になって思います。
「目覚めて夢を見る人の伝説」とサブ・タイトルのふられたヴォルフ・フェラーリのオペラ、フェラーリと言えば「マドンナの宝石」というとても美しい作品があります。そして、この「スライ」、これぞオペラという豪華さはありませんが、ロマンチックで繊細な旋律は哀しいほど美しく、宝石の輝きはなくても、磨き込まれたマホガニーの光沢を思わせる、聴けば聴くほど引き込まれる魅力を持った作品です。
オペラとしての形式は既になく、アリアらしきものもありません。長い第一幕は完成度の高いヴェリズモ・オペラ、第二幕は「甘い地獄」とも言うべき美しく悪意に満ちた世界、そして第三幕は殆どスライの一人芝居という構成、心地よいオーケストラ、滑らかな弦に巧みに打楽器がアクセントを与え、歌手には高度な「セリフ回し」的歌唱が求められます。
第一幕、時は1603年秋、所はロンドンの下町、馬車引きや兵隊たちが飲んだくれて大騒ぎ、それよりちっとはマシな男達がカードを楽しみ、ボロをまとった若い女が表の寒さを恐れて暖炉にへばりついている、そんなしけた居酒屋の「ファルコン亭」。
お前ら、うるさいよ!と店の女将はご機嫌斜め、そこに追い打ち、女将さん、スライのダチどもが地下の酒蔵から年代物のワインを持ち出した!すっかりデキ上がった売れない役者のジョン・プレイクがワインの瓶を抱えて登場。誰が勘定払うのさ!酔っ払いたちは勝手に酒を讃える唄をがなってご機嫌です。
このヤクザもん!悪党!恥知らず!出て行け!と喚く女将、うっさい婆め!とジョン、こんな店二度と来ないぞと出ていく客達、とうとうジョンたちはバリケードを作って立て籠もり作戦、店は大混乱です。
「止めて!」、ドアに現れたのは掃き溜めに鶴、およそ場違いな美女ドリー、高価なドレス、煌めく宝石・・・、誰だ?お忍びの女王様?妖精?「私はお楽しみを探しているただの女よ」、そりゃ良い所に来なすったとジョンたちはバリケードを解除してドリーを迎え入れます。
暖炉の前の若い女に近づいたドリー、指輪を抜き取って「これ、差し上げるわ」「ありがとう!」、彼に見せなくちゃと店を出ていく女、恋人がいるのね、羨ましいわ。恋人のキスに比べれば金も宝石も真珠も・・・。
ファンファーレが響いて登場したのは家来を引き連れたウェストモーランド伯爵、「ドリー、困った女だ。お前がいなくなる、家来が探し回る、そして居酒屋で見つける、何度同じ事を?私の忍耐を試しているのか?」「退屈だからよ、自由と笑い声が必要なの、だからここに来たのよ」、こんな汚い連中・・・辺りを見回す伯爵、「畜生、スライがいれば楽しめるのに」とジョン。
「ジョン!ジョン・プレイク!」、ぐでんぐでんに酔った詩人スライが登場します。「おごるぜ、ジョン。結婚式で歌って金貰ったんだ」「それよりスライ、こいつはどうだ?」ジョンが差し出す年代物のワイン、すげぇ!じゃ早速・・・、いきなりスライが凍りつきます。聞こえるだろ?「飲んだくれのスライはどこだ?逮捕状が出ているぞ」、サツだ!「怖いよ、牢屋はイヤだ!助けてくれ!」、スライはコート掛けの陰に潜り込みます。「お願いよ、彼を助けて」、ドリーの願いで伯爵が警官を片手で追い払います。取り敢えず危機脱出。
「歌えよ、スライ」「踊るクマ公を歌えよ!」、グラスを干しつつスライが歌って踊るのは見せ物小屋のクマさんの物語。
広場で踊る寂しいクマ公 いつも彼女を想ってる
踊りながら夢見てる 愛しい彼女を夢見てる
ある日見かけたネコちゃんは 夢の彼女にそっくりの毛並み
その夜クマ公、ネコちゃんに歌う 鐘と太鼓でセレナーデ
君の毛並みは素晴らしい 君の微笑みはこの世の慰め
ここへおいでよ 可愛いネコちゃん 俺と一緒に遠くへ行こう
ところがネコは知らんぷり ネコにはクマ語が分からない
辛抱堪らずクマ公は ネコをむしゃむしゃ喰っちまった
いいぞ、スライ!もういっちょ歌えよ!「やなこった、今度は俺のために歌うのさ。愛しい孤独のために」、「面白い酔っ払いだな」と伯爵、「酔っ払い?バカにすんな」
酔っ払い・・・酔ってなんかいないさ・・・、スライ、お前は誰だ?酒場の歌手、道化師、旅の物売り、三流詩人・・・、目を上げろよ、美人が見えるぜ・・・希望?・・・畜生、これは俺のせいか?俺が悪いのか?誰かキスしてくれよ・・・妻と子供の声・・・、俺は家族が欲しい、「おはよう」とか「おやすみ」とか言ってくれる家族が。おっと、お前がいたっけ、グラスを掲げるスライ。飲めば俺は王様さ、輝ける剣、正義の剣・・・いや、俺は竪琴の弦さ、誰かが触れたから震えてるんだ・・・、そこにいるのは君か?俺だけの女、この腕に抱かせてくれよ。俺はボロを着た酔っ払いじゃない、俺は誇り高くて、俺は強くて・・・、恋する獅子さ・・・、泥酔したスライは完全に潰れて眠り込んでしまいます。
「ここで眠っちゃ困るよ!」と女将、彼を気遣うドリーの姿、伯爵の心にある悪戯が浮かびます。「このアル中の夢想家には楽しませて貰ったよ、是非ともアンコールと願おう。彼を我が城へ運ぼう」「お城へ?」「私のガウンを着せ、私の指輪をはめ、私のベッドへ寝かせよう。我々は彼の家臣、みすぼらしい詩人がお殿様というわけだ」。それはまた何とも斬新なお考えで!伯爵の言葉には誰も逆らえません。最高の冗談!さすがは伯爵!取り巻き達がはやし立てる中、眠りこけているスライを城に運ぶよう召使いに命じる伯爵。ただ一人ジョンだけはイヤな予感がします。「スライはどうなっちまうんで?」、伯爵が冷たく答えます「知らないね。私は一晩楽しむだけだ。さて夢想家の詩人君、楽しい夢を見せて上げよう。目覚めれば君は伯爵だ。おいで、ドリー」、伯爵はドリーの手を取って家臣に囲まれて出ていきます。可哀想なスライ・・・ジョンが呟きます。
スライは夢を見ることになります。ウェストモーランド伯爵の作り上げた豪華で贅沢で、悪意に満ちたグロテスクで残酷な夢を・・・。
スライは詩人、と言っても机に向かうわけではなく、酒場やお祝い事の席で即興の唄を歌い小銭を投げて貰う最低ランクの吟遊詩人、というところでしょうか。おまけに、おそらくどこかで飲み逃げでもしたらしく、逮捕状まで出ています。そんなスライですが、ジョンは彼を友達として尊敬し(ワインを差し出し、唄をせがみ、怒鳴る女将に「寝かせてやれよ!天才に少しは敬意を払え!」と言い返す)、彼を思いやっています。
ドリーは伯爵の愛人のようです。お城の生活が退屈で家出を繰り返している様子、向かう先が場末の酒場というところからすると、元々は下層階級の女でしょう。良家のお嬢様は家出したって酒場には行かない。ドリーは酒場の喧噪に自由な空気を感じます。着飾ってはいても中身は下町の女のまま、そして宝石よりも恋人のキスを求める孤独な女なのです。
そして伯爵、出ていった愛人を自ら探しに来るところを見ると相当執着しているようです。愛しているのか?それとも「自分の持ち物」にはこだわるタチなのか?彼が悪戯を思いついたのはドリーのせいのようです。酔い潰れたスライを気遣う彼女に何かを感じたようです。乞食同然の貧しい詩人を一夜の伯爵に仕立ててからかう・・・、これは自分のお楽しみであり、スライを気遣ったドリーに対するお仕置きでもある。
彼にとってスライなどはただの虫けら、手でパチンと叩いて終わりです。しかし、この奇妙な虫けらにドリーが心を惹かれている、パチンでは済まない。宝石を飾ったその冷たい手で小さな汚い虫けらをゆっくりと押し潰し、ドリーに見せるつもりなのです。ほら、お前はこれが欲しいのか?と・・・。優雅で冷酷な悪魔、彼はこの後その本性を表します。
第二幕 天国によく似た地獄
第二幕第一場、伯爵の豪華な寝室。大きなベッドでスライが眠っています。傍らには3人の侍女と小姓。当の伯爵は道化師の衣装で登場、御主人様の扮装に侍女はクスクス笑い。伯爵は香水を振りまきます。甘い香りにもぞもぞ身動きするスライ。
スライが目を開けます。周囲を見渡し、目をゴシゴシ擦って、ふとその手を見れば大きな指輪が。ん?着ているものを見れば艶やかな絹に宝石の縁飾り、そろそろと起きあがると、すかさず侍女が走り寄ります。道化師が深々とお辞儀、「殿がお目覚めに」「またもやお苦しみの一日が」「お労しい」、「そっか、俺は起きたけどまだ夢を見てるんだ、もう一回寝よっと」、再びベッドに潜り込むスライ。待てよ、やっぱり変だぞ、「そうだ、冷たい水に顔を突っ込めば・・・」、すかさず伯爵が「殿にお水を!」、召使いが捧げ持った盆の上には銀の水差し、銀の洗面器、銀の鏡。
「分かったぞ。俺は夕べ酔って間違ってここに来ちまったんだ。で、ここの門番は俺よりももっと酔っていて俺を入れちまったんだ」「俺を見ろよ、人違いだ。俺はクリストファー・スライ、酒場の二流歌手さ」、「おぉ、またしても御乱心!」
「この服返すよ、このボタン1個で借金が全部返せそうだけど」、伯爵が「お金がお入り用で?」、スライは笑い出します。「俺と金とはいつも平行線、絶対に出会えないんだ」、「殿にお金を!」、召使いが金貨がぎっしり詰まった箱を持ってきます。「すげぇ!」スライは金貨を掴んでウットリ、そしてふと気づきます。チャラチャラと音がする、これ本物か?「俺の指を噛んでくれよ、もっと強く!イテッ!」
3人の異国人が登場します。ムーア人、中国人そしてインド人。スライが珍しくてジロジロと眺め回すと、3人がいきなり「わっ!」。
「殿は落ち着いておられる!」「治られたのか?」、「待てよ、俺お前に会ったことがあるぞ」と道化師に詰め寄るスライ、伯爵は「いつもお側にお仕えする私に何ということを、呪わしい狂気め」「俺が狂ってるって?狂ってるのはそっちだろ!」、怒ったスライはそこいら中のものを放り投げます。「ジョン・プレイク!ジョンはどこだ!ヤツならきっと・・・」、前に出たのは小姓、お前がジョン?私がジョンでございます。スライは頭を抱え込みます。
「私がご説明を」と伯爵、「10年前、殿は宴の席で突然に倒れられ、3日の昏睡の後錯乱状態に、狂乱して居酒屋などを彷徨われ・・・やっと正気に戻られたのですね?我らが殿、港には船、莫大な富、数千人の召使い、銀の山・・・」「奥方様は毎日祈りを捧げられ」、妻?・・・俺に妻がいるのか?「美しく気高い奥方様は殿のためにひたすら祈りの日々を」
部屋の外からドリーの声が聞こえます、「神よ、私の夫をお返し下さい、どうかお慈悲を」、スライが声の方へ行こうとします、「彼女に会いたい」。「まずはお医者様のご診察を」と医者登場、「殿は治られた」と宣言。伯爵が叫びます、「ラッパを鳴らせ!教会の鐘を鳴らせ!」、スライは全然聞いていません、「彼女は・・・」
「殿に王冠を!」と伯爵。お祝いをせねば、今夜は舞踏会を開きましょう!物陰に隠れては声を殺して笑い、スライの後ろでクマさんダンスを真似る貴族達、スライは騙されていることに気づきません。
第二場、城の大広間は貴族や貴婦人で満員、彼らは殿様の回復を大声で祝い、「殿様に乾杯!」。スライが怖々登場し、人々に促されるまま玉座へ。「彼女はどこ?」伯爵に尋ねるスライ。「あちらに」・・・美しく着飾ったドリーが登場します。彼女をただひたすら見つめるスライ、長い沈黙。
「あなた、私の声がお分かり?あなたの妻がお分かり?」、スライはゆっくりとドリーに歩み寄ります。「あっちへ行け、みんなあっちへ行けって!」、伯爵が全員を外に出します。スライはドリーから目を離すことができません。そのドリーの顔は自分の残酷な行為に引きつっています。「何が起こったんだ?この黄金の迷路から出るには魂を差し出せと?君は誰?」、青ざめたドリーがそれでも芝居を続けます。「私をお忘れ?」「いや、忘れるもんか、俺は君を何度も何度も見た、自分を慰めるためにこしらえた夢の中で。美しくて純粋で、良い香りがして、そう、君だ!あれは君だ!覚えているよ、俺だけの女、いつも夢の中で・・・」、ドリーはもう芝居を続けることができません。「俺がまた眠ったら君はいなくなってしまうのか?」「スライ、怖がらないで、大丈夫よ、私を信じて、だから泣かないで、何もかもうまく行くわ。愛しているから、愛しているから・・・」「俺は人生を見つけた!愛で心が壊れそうだ」「私もよ、惨めで独りぼっち、あなたと同じだったの」「君の心臓の鼓動が聞こえる、君は現実だ!美しくて、そして俺のもの、愛してる」「愛しているわ」
スライがドリーに優しくキスをします。突然、あの警官の声が聞こえます、「飲んだくれのスライはどこだ?逮捕状が出ているぞ!」、声の主は伯爵です。「イヤだ!牢屋はイヤだ!」、いきなりカーテンが開いてお腹を抱えて大笑いしている貴族や伯爵の取り巻き連中が現れます。「ブラーヴォ!大した詩人だ!」とスライにコインを投げつけます。「君だけは嘘じゃない!」と力一杯ドリーを抱きしめるスライ、「飲んだくれめ、熱くなりおって」と伯爵の命令で召使いが彼を取り押さえますが、必死のスライはドリーに激しくキスをします。
「地下の酒蔵に放り込んでおけ!飲めばまともになるだろう」と伯爵、「そうとも、殿様、地下でたんまり召し上がって元の乞食詩人に戻れ!」と人々が囃し立て、『踊るクマ公』を歌う中、スライは引きずられて行きます。「畜生め!サディスト!人でなし!」、その光景に床に崩れ落ちるドリー。
ウェストモーランド伯爵の悪意の凄まじさ、「一晩のお楽しみ」「悪戯」、とんでもありません。彼のやったことは精神の虐殺です。彼は居酒屋でスライが語った彼の悲しみを全てこの残酷な芝居に織り込んでいます。
「結婚式で歌って金貰ったんだ」と1枚のコインを大事に持って現れたスライ、だから伯爵は金貨の山を見せました。「俺だけの女」と酔い潰れてつぶやいたスライ、だから伯爵はドリーに妻の役を強制しました。「牢屋はイヤだ!」とパニックになったスライ、彼は自由な路上の人であり閉じこめられることが怖いのです。だから伯爵はスライを地下の酒蔵に閉じこめます。これら全てをやってのけるほどの憎悪がどこから生まれたのか?
港には船、莫大な富、数千人の召使い、銀の山・・・、伯爵は全てを持っています。何もかもが思いのままです。ただ一つだけ彼が持っていないもの、それが夢なのです。全てを持ってしまったら、何でも思う通りになったら、何を夢見ればいいのでしょう?彼の眠りは真っ暗闇なのです。そして何も持っていないスライがただ一つ大切に抱きしめているもの、それが夢なのです。伯爵にはそれが許せない。彼はスライの夢を凶器に選び、その夢によってスライの精神を破壊します。
スライがすがったちっぽけな夢のいくつか、持っていないものは夢に見るしかない、夢に見たところで手に入るとは限らないし、いっそこんな夢なんて見るんじゃなかったと思う時さえあるけれど、夢さえないとなるとどうやって明日を生きる?
夢のない伯爵の生きる闇の世界、それはスライの生きる現実の路上よりも遙かに恐ろしい地獄なのかも知れません。
そしてドリー、伯爵によって城に、闇に閉じこめられた存在であるドリーは、それでも未だに夢を見ています。宝石よりも恋人のキスが欲しいと、自由に大声を上げて笑いたいと。伯爵はスライの妻という最も残酷な役目をドリーに強いて、スライがその夢で破滅していく姿を見せつけます。お前は私の女、私の女は夢を見てはならない、夢を見ることは許さない、なぜなら私に夢がないのだから・・・。伯爵は、ドリーを自分の闇へ完全に引きずり込もうとします。これが彼の「愛」なのでしょうか?それとも一度手にしたものは完全に支配するという彼の執着なのでしょうか?
伯爵の眠りにも似た冷たい地下の酒蔵の真っ暗闇の中で、これからあることが起ころうとしています。
第三幕 一緒にここから逃げよう・・・二人で遠くへ
伯爵のお城の地下、真っ暗な酒蔵です。召使いたちに手荒く扱われたスライが床にへたりこんでいます。ドアの向こうから声が聞こえます。「ほらっ、お前の服だ」と丸めたボロが投げ込まれ、「これは伯爵様からのご祝儀だ」と小さな財布が投げ込まれます。「お前ウケたらしいぜ」「よう、金を拾えよ」「要らないのか?」「ふんっ、バカめ」「飲みたきゃ好きなだけ飲みな」「俺達もう寝るからな」、召使いたちが去ってスライは一人、長い長いモノローグ。
彼女は・・・そう、彼女はただ俺を哀れんだだけだったんだ・・・、おい、ここを開けろよ、開けろってば!ドアを叩きながら叫び出すスライ。誰が仕組んだんだ?教えろよ!殺してやる!殺してやる!殺してやる・・・誰も答えません。違う、哀れみなんかじゃない。だってあのキスは・・・、彼女は、そう、彼女は俺を愛している!俺の人生は素晴らしい!彼女を連れて一緒にここから逃げるんだ、そう、二人でここから・・・一緒に遠くへ。
ふと足下に丸まったボロを見つけるスライ、これは何だ?お前の衣装か?出し物は『貴婦人と乞食』か?お前、本当に狂ったのか?・・・、今頃彼女はヤツの腕に抱かれてるんだ、「俺だけの女」が他の男の腕に、見えるだろ?畜生、なんてきれいなんだ・・・。哀れなスライ、酒場に戻るのか?「よう、もう一杯くれ」「飲めよ!」「スライ、踊るクマ公をやれよ!」、イヤだ、もうやるもんか。俺は道化じゃない。俺はいつも一人の時はメソメソ泣いていて、ほら、今だって・・・だからもう俺を見て笑うなよ・・・、どうせなら泣いてくれ。
涙を拭ってスライは上を見上げます。彼が見ているのは低い天井ではなくてその向こう、ずっと向こうの空の上です。今までアンタのこと考えたことなかったけど、来いよ、ここへ来いよ。俺は怖くない。スライはガタガタ震え出します。見えるよ、真っ暗だけど青い光が見える・・・何だか落ち着くよ。そう、俺も同じこと考えてんだ。どうすればいい?
彼は立ち上がって辺りを探り、酒の瓶を見つけて抱きしめます。やっぱりここはお前の出番だ、相棒。俺のたった一人の友達、最後にもう一度俺に付き合ってくれよ・・・。スライは瓶を叩き割り、その破片を握ると、左の手首を切り、そして右の手首をギザギザの瓶の縁に押し当ててこちらも切り裂きます。床から自分のボロ服を拾い上げるとそれを被って静かに腰を下ろします。彼女の唇、あれも夢だったのか?俺はもう何も怖くない、牢屋も伯爵も、もう何も。
ドアが開き、ドリーが現れます。「スライ?私を許してくれる?」誰かいるのか?どこに隠れてたんだ?「スライ、お城の連中がやっと眠ってくれたの。待って待ってやっと来られたの。みんな意地悪く笑ったけど、私はお芝居じゃなかったの、本気だったのよ」、きれいだ、真っ白で・・・俺を連れてってくれるのか?スライの身体がグラグラ揺れだします。「どうしてフラフラしているの?またなの?また飲んでいるの?あの居酒屋のときみたいに酔っ払っているの?私がきっと来るって信じてくれなかったの?スライ、一緒に逃げましょう、ここから逃げて遠くへ、遠くへ、一緒に」
スライが呟きます、「キスしておくれよ、もう一度だけ・・・」、ドリーの両手がスライの顔をそっと包みます。「スライ、あなた真っ青よ、どうしてこんなに冷たいの?」、彼はゆっくりと傾いていきます・・・こんなに沢山の血が・・・、そして、スライの身体が腰掛けから床に転がり落ちます。
「何があったの?何をしたの?なぜ?なぜなの!」、ドリーが叫びます。「呪いよ!これは呪いよ!」「スライ、私のスライ・・・」
ほんのひとかけらでもいい、夢がなければ人は生きることはできない。夢を憎悪する伯爵は、スライの夢を踏みつぶし、同時にその命を踏みつぶしました。
スライとドリーが見た夢、二人でここから逃げ出そう、そして遠くへ行こう、スライがあとほんの少しだけ夢にしがみついていれば、この夢は実現したのです。しかし、二人は同じ夢を一緒に見ることができませんでした。夢を共有することができませんでした。お互いに別々の場所で同じ夢を見てしまったのです。一人で夢見ることの孤独、疲れ切ったスライはもうそれに耐えられません。夢だけは持っていない伯爵は、夢しか持っていないスライから夢を取り上げてしまいました。後には何も残りません。それは地獄です。今生きている現実が地獄だと感じれば、まだ知らない本物の地獄だって少しも怖くないでしょう。でも、人がそれでも生きるのは夢があるからなのです。スライにはもうその夢がありません。スライは、朝が来たら目が覚める眠りではなく、永遠の眠りを選びます。もう二度と目を覚まさないとしたら、夢の方が現実になります。そこでは夢を見ることはもうないでしょう。
「一緒にここから逃げよう、二人で遠くへ」、スライの旅立ちのパートナーはドリーではなく、彼のたった一人の友達である酒の瓶でした。
残されたドリー、彼女の夢もスライと一緒に消えてしまいました。ドリーは、伯爵の闇に引き込まれていくのでしょうか?それとも新しい夢を見ることができるのでしょうか?
そして、伯爵、彼は自分の招いた結果に何を見るのでしょう。これが夢見る人間の末路だと笑うのでしょうか?それとも地下の酒蔵よりもさらに暗い自分の中の闇におののくのでしょうか?
スライは自由になりました。もう彼は歌いません、逃げ回りもしません、そして一人で泣くこともありません。「俺だけの女」を夢に求め続け、「俺だけの女」を自分で否定した時、スライの夢は終わりました。どこかでもう一人のスライが長い長い眠りから覚めたのかも知れません。
踊るクマの呪い
この作品の「呪いのテーマ」は第一幕でスライが歌うクマの寓話です。この旋律が悲劇の前兆として繰り返し登場します。見せ物小屋の孤独なクマが恋人を夢に見て、あるネコに恋をする。しかし、ネコはクマを全く理解せず、最後にクマはネコを食べてしまうというお話。夢を追い求め、その夢がとうとう目の前に現れる、願った通りの形であまりにも美しく。思い切って手を伸ばし、しかし、どうしても触れることができない。これもやはり夢でしかないのか・・・、やがて疲れ果てた人は、夢そのものを捨てる、これが踊るクマの呪いです。
第二幕の幕切れでスライを笑う人たちの合唱はそのまま踊るクマの替え歌になっています。「鐘と太鼓を持って出てきた場所へ戻れ、恋は酒に沈めてしまえ!」。ネコに振られたクマは恋そのものであったネコを食べてしまいます。スライだって恋を食べてしまえたらどんなに良かったでしょう。しかし、ネコはクマ語が分からなかったのでクマを無視したわけですが、ドリーはスライを愛してしまったのです。スライの夢は実現してしまったのです。彼の両腕はドリーの心臓の鼓動を覚えているのです。一度実現してしまった恋はもう酒に沈めることはできません。
第三幕冒頭のスライはまだ夢を見ようとしています、希望を持とうとしています。ドリーを連れて二人で一緒にここから逃げようと。そして彼は知りませんが、ドリーも同じことを夢見ています。クマと違って彼の恋には間違いなく未来があったのです。それをスライはなぜ捨ててしまったのか?
スライは厳しい路上の現実を一人で生きてきた男です。貧しくて、惨めで、ジョンたち飲み仲間の前で陽気な詩人を演じることで孤独を紛らわせ、酒が見せてくれるつかの間の夢にすがって毎日を生きてきたのです。
しかし、伯爵はスライの夢をすべて現実として彼の前に繰り広げました。金貨の山に触れ、柔らかい絹に触れ、そして目の前に「妻」がいる・・・、この時点で、夢が手を触れることのできる現実の姿をとった時点で、スライの夢と現実は裏返ってしまいます。ドリーに触れた時、スライは、また眠ってしまったら、この現実(実は夢)が夢(実は現実)になってしまうと恐れてしまいます。ドリーはそんなスライに「怖がらないで、愛しているから」と訴えます。私だって孤独で惨めなのと語りかけます。ドリー自身が伯爵の手によって裏返ってしまっているからです。本当は貧しくて独りぼっちの女なのに、伯爵の闇の世界では贅沢な貴婦人、ドリーはスライと一緒にこの豪華で美しい悪夢から目覚め、二人で現実を歩き出したいと願います。その瞬間、伯爵は彼の作った夢の世界を叩き壊します。スライは裏返ったままで、酒蔵に、暗闇に放り込まれてしまいます。
だから、彼には見えたのです、伯爵の腕に抱かれて喜びに震えている美しいドリーが見えたのです。そして自分とドリーでは『貴婦人と乞食』という滑稽なお芝居にしかならないと思ったのです。スライがドリーに優しくキスをした時に響いた伯爵の声、「飲んだくれのスライはどこだ?」・・・この声がスライを呪っています、本当の俺はどこだ?今、俺はどこにいる?
スライは暗闇の中で、それでも必死で「出口」を探します。そして、気づいてしまいます。ここを出たところで、もう行くところがないのだと。彼はもう酒場へは戻れません。彼は自分が道化ではなく一人で泣く孤独な男であることを知ってしまい、もう酒ではその孤独を癒せないことを知ってしまったからです。一度ドリーの唇に触れてしまった彼の唇は、もうグラスに触れても喜びを感じないのです。しかし、ドリーが自分を愛していると信じることもできません。彼がドリーにキスをした夢の世界は、もうどこにもないのです。
スライが見つけた出口、それが死でした。彼は凶器として酒瓶を選びます。昨日まで彼に「俺だけの女」の夢を見せてくれた酒です。そして両方の手首を切ります。ついさっきドリーの体を抱いた手です。もう酒場で「俺だけの女」を夢に見ることもできず、ドリーと一緒にここから逃げる、二人で遠くへ行くという希望にすがることもできず、彼はもう、夢も現実も一緒に終わらせる以外にないのです。
現実の世界で、貧しさと孤独を忘れるために虚構の愛を夢見た彼は、伯爵の作り上げた夢の世界で真実の愛を見つけてしまいました。夢の世界の真実をいったいどうやったら信じられるのか?それができるのは夢だと知らない時だけです。でも、スライは、すべてが夢なのだと知ってしまいました。懸命に信じようとしているその自分自身すら、夢の中なのです。必死に手を伸ばしたところで、その手が掴むのは闇だけです。スライにはもう帰るべき酒場もなく、行くべき約束の地もありません。暗闇に捕らえられたと悟った時、スライは完全な自由を手にするただ一つの手段、死を選びます。
「俺はもう何も怖くない、牢屋も伯爵も」、彼は現実と夢から同時に自由になります、命を代償として。
この作品、第三幕にだけ「スライの目覚め」というタイトルがついています。これは勿論、伯爵の仕組んだ残酷な夢から醒めたスライ、という意味でしょう。でも私はもう一つの意味を重ねたいと思います。長い長い夢、寂しくて悲しい夢を見て、枕を涙で濡らしながら眠っているもう一人のスライが、どこか未知の素敵な場所でゆっくりと目を覚ます、そして、すべては夢だったんだと微笑むのだと。
カリスマ・テノールの証明
この作品の台本を書いたのはG・フォルツァーノ、元々の素材はシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」の序幕に登場する酔っ払い、クリストファー・スライの物語です。シェイクスピアのスライは「ままよ、夢を見ようではないか」という陽気なオヤジですが、フォルツァーノのスライは悲劇の主人公となっています。彼はこの台本を最初プッチーニに持ち込んだと言われています。彼とプッチーニは「ジャンニ・スキッキ」や「修道女アンジェリカ」で組んでいます。しかし、なぜかプッチーニはこれを拒否、そこでヴォルフ・フェラーリの手に台本が渡ったらしいのです。
プッチーニの「スライ」を想像すると面白いですね。第二幕のスライとドリーの二重唱はこってりと甘いものに仕上がったでしょうし、第三幕のスライのモノローグももう少し力強いものになったと思いますが、ヴォルフ・フェラーリのこのオペラの持つ儚さ、脆さと独特の奇妙にずれた感覚はなくなったでしょう。
ヴォルフ・フェラーリは、第一幕の酒場の場面では生き生きとした旋律を駆使して場末の酒場の雰囲気を描いていますが、彼の特徴として、いつもどこかに陰りが感じられます。スライの酔っ払いぶりが細かく丁寧に表現され、それに被さる伯爵の旋律にはサディスティックな美しさがあります。
第二幕第一場では、侍女達のクスクス笑いが美しいアクセントを加え、伯爵の並べるウソっぱちの過去には悪魔的な響きが感じられます。だからこそ、その後に続くドリーの祈りの旋律の清潔さと一途さが一層悲しい。「私の夫をお返し下さい」という言葉はウソではない、ドリーは本当に愛を求めているのだと。
第二場の二人の二重唱はロマンチックで美しいのですが、どこか慎ましい印象で、オペラ的な華麗さはありません。その分、スライとドリーの恋の悲しい結末が予感され、切ない場面です。幕切れの合唱には厚みがなく、腹を抱えて笑う人々の軽薄さが強調されています。
第三幕、スライのモノローグはつぶやき、絶叫、そしてすすり泣きと激しく変化し、彼の混乱した精神状態を細かく写し出します。彼が上を見上げて啓示を求め、死ぬことを決意し、瓶を割って手首を切るまでの旋律が非常に美しい。舞台の上の惨劇とは似ても似つかない繊細さと甘さ、そして明るさ。これほど美しい旋律の自殺場面は他にちょっと思い当たりません。これは自殺ではなく目覚めなのだとヴォルフ・フェラーリ自身が感じているのではないかと思われます。ドリーが登場してからの場面はしっとりと優しく、メロドラマのラストに相応しい美しさ、この世を離れようとしているスライとその彼と一緒に未来を掴もうとしているドリー、テノールの弱さとソプラノの強さが絡み合い、胸が痛くなるような響きです。
この作品、間違いなく「カリスマ・テノール」のための作品です。歌唱的には派手な技巧もなく、これぞアリアというものもないのですが、第一幕の酔っ払いを陽気に、なおかつ哀しくこなし、そして何よりも第三幕の長いモノローグを一人で保たせなければならないのです。真っ暗な舞台の上でたった一人で客席とタイマン張らなければなりません。歌を聴かせる以前に、その存在感が問われる役です。これは並みのテノールでは無理でしょう。ホセ・カレーラスがこの数年で何度か歌っており、2002年にはMETでプラシド・ドミンゴが初演すると聞いています。このタイトルロールは、カリスマ・テノールの証明と言えるでしょう。
録音は私の知る限りでは現在一つしかありません。2000年のバルセロナ、リセオ劇場のライブ録音です。スライをカレーラス、伯爵をシェリル・ミルンズ、ドリーをイザベラ・カバトゥというキャストです。
カレーラスは第一幕の酔っ払いを熱演しており、彼独特の振り絞るような「泣き」で頑張っているのですが、声の調子が不安定。第三幕では疲れたのか(確かにこの役はきついと思う)、声に艶がなくなり、あちこちでかさついているのが残念です。しかし、ラストではある種の「気品」を感じさせてくれます。
ミルンズは第一幕では冷たい意地悪さがあり、こいつ絶対にすっごく悪いヤツって感じで悲劇の幕開けを告げます。第二幕の歌唱にも上品な凄みがあり、例によって実に滑らか、声が絹をまとっています。ただ、もう少し悪魔的に盛り上げて欲しかったですね。真面目にきちんと歌いましたという印象はありますが、私としてはもっと羽目を外してよかったのではと思います。
カバトゥは第一幕では印象が薄いです。第二幕の祈りのシーンはとてもきれい、二重唱から終わりまでも厚みのある声でドリーの苦しみを丁寧に歌っています。そして第三幕の幕切れはパワー全開、この人の声には力強さがあります。
但し、その他のキャストと合唱のデキが悪いです。オケもところどころでぶっきらぼう、少々躾がよろしくないって気もします。これしかないので何とも言えないのですが、決してベストの録音ではないと思います。
スター・テノールのキャリアの「上がり」に位置付けられる(んじゃないかと私は思うのですが)作品、これからの録音を楽しみにしています。
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