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Leafヴェルディ 「スティッフェリオ」 (2003年9月28日〜2003年11月1日の日記より)


おとぎ話の王子様が殺された後に

 「不倫は文化だ」と仰った某芸能人がおりました。文化かどうかは私には分かりませんが、不倫が人間が生み出した人間だけの愛の形であることは確かです。そもそも、紛れもなく愛である一つの恋愛の形を「倫に非ず」と否定するには、「倫」がなければなりません。愛にとっての倫理とは何なんでしょう?

 そもそも愛とは何か?愛と聞くとどうしたって男女の愛を思い浮かべますが、愛とは人間の全ての行為の原因であり動機です。一生懸命働くビジネスマンはお金を愛しているのであり、まったりとした口当たりが何ともなどと宣うグルメ諸氏は食べ物を愛しているのであり、山ほどの肩書きを名刺に書き連ねたおっさんは地位と名誉を愛しているのであり、ハードトレーニングに黙々と打ち込むアスリートは賞賛を愛しているのです。
 これらの愛はいくら過剰であっても誰も非難しません。ビジネスマンが詐欺を働かない限り、グルメ氏が食い逃げをしない限り、おっさんが誇大妄想でない限り、アスリートがドーピングをしない限り、熱心なことで済まされます。また「友情」という種類の愛も多ければ多いほど好ましいこととされています。「友達100人できるかな?」などという無責任なけしかけが堂々と歌われているほどです。
 しかし、男女の愛だけは過剰は罪とされております。友達100人はオッケーですが恋人100人は許されないのです。なぜ?たくさん愛するんだからエライじゃん、いーじゃん。友情においては排他的であることは非難されるのに、どうして男女の愛は排他的でないと非難されるのか?

 古代ギリシャの哲学者アリストパネスはこう考えました。原始、人間は球体に4本ずつの手足と2つの頭を持っていた。ところがゼウスの怒りに触れ真っ二つに引き裂かれ、その完全性と統一性を失ってしまった。それ以来人間は己の半分を求めて彷徨うこととなったと。愛(エロス)とは欠如なのです。
 愛は欠けているものへの欲望と定義すれば、幸福な愛などあり得ません。満たされた人間には愛は必要ないのです。そして幸福でないということこそが愛なのです。人は自分に欠けているもの(それが腕力であれ、知力であれ、はたまた性器であれ)を探して異性を求めます。出会い、見つめ合い、絡み合い、再び一つになることを望みます。合一さえ得られれば愛(欠如)は失われます。

 「ねぇ、まだ私を(僕を)愛している?」、この言葉が出た時、新たな愛、すなわち新たな欠如が既に頭をもたげています。目の前にいる、排他的に自分のものである既に欠如を感じない相手ではなく、未知の異性への欠如です。恋に落ちることは誰にでもできますが、愛し続けることはそう簡単ではありません。夢に憧れることは簡単ですが、日常に焦がれることは難しいものです。生きている限り、未来がある限り、満たされる喜びは一瞬でしかありません。「トリスタンとイゾルデ」に「ロミオとジュリエット」にその後がないのも納得です。
 炎のような愛が消え失せた後、そのまだ暖かい灰の中からゆっくりと控えめに登場するのが友愛(フィリア)です。存在してくれてうれしい、私と出会ってくれてありがとう、一緒に過ごせて幸せだった・・・、欠如しているものだけを求めたエロスを、現にあるものを喜ぶフィリアに変えることができた男女を、人は「幸せな二人」と呼ぶのでしょう。
 過剰な恋愛が非難されるのは、そこには出会えたことへの喜びもなければ、今日まで培ってきた信頼への尊敬もない、思い出への感謝もない、剥き出しの欠如、すなわちエロスだけがあり、欲望し、奪い、所有しようとするエロスの本能の向こうに暴力が透けて見えるからかも知れません。

 さて、愛(エロス)も友愛(フィリア)も義務ではありません。人は命じられたからといって誰かを愛したりはできないのです。義務ではないのだから嫌いなヤツを愛する必要はありません。では、嫌いなヤツはぶん殴っても良いのか?殺しても良いのか?今は好きだけどいつか嫌いになったら?喧嘩した友人は、別れた夫婦はどうする?
 自分に欠けている存在を愛すること(愛)は簡単です、それが愛の本質だから。自分を思ってくれる人を愛すること(友愛)も簡単です、彼らも愛してくれるから。では、地球の裏側に住んでいておそらく一生に一度も会わないアカの他人を愛するには、いっそ敵を愛するにはどうすればいいでしょうか?そんなことが可能なのでしょうか?これを可能だと、いえ、そうしなければならない、それは義務であると言ってのけたのがイエスです。情熱も友情も関係ない、利己心を超えた愛、これをイエスの弟子たちは慈愛(アガペー)と呼びました(古代の聖書はギリシャ語で書かれていたのです)。
 神は完全無欠です。とすると、神の愛は欠如であるエロスでもその後の親しみと感謝から生まれるフィリアでもないことになります。神は愛しますがその愛の対象には何も求めません。全くもって無償の愛、みかえりのない、全ての生き物に等しく注がれ、誰も逃れることのできない愛。イエスが短い生涯を通して語ったのは、エロスでもフィリアでもなく、このアガペーだったのです。

 新約聖書の4つの福音書に記されたイエスの最後の数日間、そこにはアガペーのために死ぬことを選んだ一人の男の壮絶な苦悩と孤独が描かれております。故郷のガラリア近辺で布教していたイエスは、突然、エルサレムに乗り込みます。「地上の王国」をもたらす救世主を待ち望んでいた人々の前に馬ではなく何とロバに乗って登場します。普通、英雄っていうと立派な白馬とかに乗ってますよね、それがロバ・・・。神殿で商売をしている連中の屋台を片っ端からひっくり返し、神の家を強盗の巣にするのは許さん!と啖呵を切ります。それまでのイエス像とはおよそかけ離れた激しさです。当然に時の支配者の怒りを買ったイエスは、十字架の上で死にます。それは惨めで辛い死でした。そして、それこそがイエスが求めていた死でした。イエスの説いたアガペーとは、エロスの持つ情熱もなく、フィリアの持つ喜びもなく、理由もなく、根拠さえない、無力で脆く、茨の王冠を頂いた愛なのです。

 カトリックの聖職者に結婚が許されないそもそもの理由がこのアガペーです。信仰を全うするため、全ての人を、敵をさえ愛する彼らの愛は特定の誰かに集中させることは許されない、広く普遍的に注がれる愛でなければならないのです(「カトリック」とは普遍的という意味です)。
 裏側をぶっちゃけてしまいますと、聖職者の独身主義はローマ教会の経済政策でもありました。結婚すると子供が生まれます。当然、司祭の地位が世襲制になってしまいます。親から子へ引き継がれる地位というのはやがて中央から遠ざかります。司祭が死んだら次の司祭を新たに任命するやり方の方が中央の支配力が効果的に及ぶのです。また、子供を持つと教会の財産が分割されてしまいます。妻に2分の1、残りは子供が等分なんてことやっていたら、せっかくの財産が細切れになってしまいます。

 ローマ教会に果たし状を叩きつけたルターは、神と人は聖書を拠り所に直接対話すべきだと主張しました。聖職売買に精を出し、酒池肉林に溺れている腐りきったローマ教会なんぞに仲立ちしてほしくないということだったのでしょう。そりゃ何世紀も権力の中枢であり続けたローマ教会は、遠くルターのドイツまでプンプン臭うくらい腐っておりました。しかし、ルターが登場した原因はこれだけではありません。聖書を拠り所にせよというには、少なくとも字が読める人間である必要があります。神と直接対話せよというには、自分のアタマで考えるための自我が必要です。時代がやっとこさそこまで成熟した上での必然的結果です。
 しかし、腐っても何とかと言いますように、ローマ教会にはそれなりの良さもありました。信仰問題は全部教会任せで済んだということです。怠け者には、あるいは忙しい人にはありがたい制度です。難しいこと考えないで(考えるのは坊主の専門)テキトーにロザリオを繰って何とかの祈りを何回か唱えていれば良かったのですから。
 一人一人が神と向き合うプロテスタントでは、各人に強い意志と真面目な思索が要求されます。自分の神と隣の神の見解が相違した場合、カトリックなら法王様が全部仕切ってくれますが、プロテスタントには行司役がいないわけで、信仰が違えばそこに争いが生まれるかも知れません(事実、山ほどの争いが生まれました)。

 プロテスタントでは一人一人が自分自身の司祭です。牧師はそのサポート役でしかありません。命じるのではなく共鳴し支えることが牧師の仕事となりました。一度も二日酔いになったことのない人に二日酔いの辛さを訴えても分かって貰えないように、普通の人間の生活を知らない牧師には、サポート役は務まりません。かくして、プロテスタントの牧師は結婚をし、家庭を持ち、一般ピープルとして暮らす、いえ、より良い家庭を築くことで信者の模範たるべき役目を負うこととなりました。生身の人間として生きつつも神の道を指し示す道しるべでなければなりません。彼は神に仕える者として善を信じつつも、善悪ごた混ぜの現実に立ち向かわなければならないのです。

 出会って、愛して、そして愛が徐々に熱を失って、それが人間の現実です。難しいことを考えるまでもなく、下世話でも言われております。クロード・ヌガロのシャンソンにそれが端的に表現されております、「卑しい夫がおとぎ話の王子様を殺す時」・・・。夢がただの現実となり果てたとき、エロスがエロスゆえの渇きに苦しみ、フィリアがフィリアゆえの不寛容に陥ったとき、アガペーはどこから表れる?そもそも表れるのか?そしてそれは救いとなるのか?

 さて、ここに一人の牧師がおります。弾圧にも屈せず信仰を守り抜いた熱血牧師です。彼には美しい妻がおります、彼を賞賛する舅もおります、教区の人々の信望も厚く、立派な神の国の牧者です。長い布教の旅を終え、愛する人々の元へと家路を急ぐ彼、その行く手に待っているもの、それは孤独なエロスが道に迷い、友を賛美するフィリアがエロスに剣を振り上げる修羅場です。そこで、牧師スティッフェリオのアガペーが真価を問われようとしています。神の国の牧者は己の中のエロスを克服し、十字架の上で死んだ一人の男の意志を再発見できるのか?

参考文献: シモーヌ・ヴェイユ 「神を待ち望む」
        アリストテレス 「ニコマコス倫理学」
       トマス・アクィナス 「神学大全」


第一幕 孤独が愛に穴を穿つ

 型どおりでいささか面白みに欠けるものの、スッキリと美しい序曲で幕が上がります。時は19世紀初頭、場所はザルツブルク近郊のスタンカー伯爵の館。人々はスタンカー伯爵の娘リナの婿であり、彼らの信奉するアハシュエロス派の牧師であるスティッフェリオの帰りを待っています。かつてロドルフォ・ミューラーと名乗り伯爵の庇護を受けたお尋ね者は、今や疲れを知らない神の僕です。
 スティッフェリオの同僚であるジョルジ牧師、彼はスティッフェリオの妻リナへの愛がその炎のような信仰を鈍らせることになるのではと危惧しています。人々の歓迎の中登場したスティッフェリオは、帰るなり船頭から紙入れを託されたと告げます。8日前の明け方のこと、伯爵家の窓辺にはっきりと映った男と女の影、その男が紙入れを落とし、それを拾った船頭がどうしたらよいものやら迷った末にスティッフェリオにご注進に及んだ次第。その言葉に、リナ、そしてロイトホルトの若き領主ラファエレは真っ青。リナは夫の留守中に大胆にも父の館で、夫との寝室で、ラファエレと秘密の関係を持ってしまったのです。
 どうなるの、彼は密会の証拠の紙入れをどうするの?皆が注目する中、スティッフェリオは紙入れを暖炉に放り入れます、灰と共に罪も散らせよう、神は兄弟に寛大であれと教えられた。思わず胸をなで下ろすリナですが、父スタンカーは娘とラファエレの不義を知っています。ロイトホルト殿、君は娘を汚して私の名誉を奪う気か?私の名誉は高くつくぞ!
 信徒たちが登場、口々にスティッフェリオの熱き信仰心を讃えます。正義と友愛を地上に広める君、君の名は人々の間に響き渡る・・・。夫への熱い賛辞がリナの心を締め付けます、こんなにも人々に尊敬される夫を、私は裏切った・・・。そして、その賛辞はラファエレの心を掻き立てます、後悔して何になる、束の間の快楽を!同じ言葉が父の怒りに火を付けます、娘よ、悔い改めるなら父に打ち明けるのだ。

 二人きりになれたね、リナ、妻を見つめるスティッフェリオ。あなたをスティッフェリオと呼びたくない、ロドルフォ・ミューラーとお呼びしていたあの頃、あなたのその名は何て甘かったことか・・・。今のあなたは勝利と歓喜を手にして輝いているわ。君と一緒にいない僕には喜びはない、リナ、僕の見てきた世界は不正で満ちている海のようだった、でも、世界は穢れてしまっても、君の誠実だけが僕を慰めてくれる。何を言うの、何が言いたいの・・・?
 リナ、君は苦しんでいるね、その胸を痛めている秘密を僕に話してごらん。リナの手を取ったスティッフェリオはその手に結婚指輪がないことに気付きます。指輪は?僕の母の形見の指輪は?どこにある?誰にやった?
 怒らないで、言えない、言えないの、思わず泣き崩れるリナ。君が罪を?僕を裏切ったと?もしそうならこんな世界など砕け散るがいい!
 怒り狂うスティッフェリオですが、スタンカーが登場、婿殿、何をしている、みんな待ちくたびれてしまったぞ。

 一人になったリナは必死で神に祈ります。この惨めな私はどうすればいいの、神よ、お許し下さい、彼に手紙を書こう、全てを打ち明けて・・・書けない、私には書けないわ!
 何をしている?スタンカーがリナの書きかけの手紙を奪います。「ロドルフォ、私はあなたには相応しくありません」、恥知らずめ!夫を裏切った上にその命まで奪う気か!真実を知ればスティッフェリオは死んでしまう。偽りの誓いを立てろ、せめてそれくらいの自制心はあるはずだ。できません!できませんじゃない、やるんだ!夫の命と父の名誉のために!できないのよ・・・、泣くな、このことは私以外誰も知らない、罪を犯したならその罪を墓場まで持って行け、せめて私と彼に名誉くらいは残しておけ、この恥知らずの娘め!
 リナを引きずって退場したスタンカーと入れ違いにラファエレ登場。彼女にもう一度会いたい、この手紙をここにしまっておけば・・・、表紙に鍵の付いた大型本に手紙を隠すラファエレですが、間の悪いことにリナの従兄弟フェデリコが現れます。クロプシュトックの「メサイア」を探しているんだけど、っと、ここにあった。本を抱えて退場するフェデリコ。

 スティッフェリオの帰郷を祝うパーティーもたけなわです。誠実な愛が永遠に微笑みますように、愛は万人に等しく注がれ、我らはそれに快く応える・・・。パーティのざわめきの中、ジョルジがスティッフェリオに告げます。ある男が手紙を本に隠した、罪深いことだ。本?リナの本だ、「メサイア」、となるとフェデリコが!
 当のフェデリコが本を抱えて無邪気に登場。スティッフェリオ、今晩の集まりでは何のお話を?お馴染みの話さ、幸せな家庭を破壊する卑劣な裏切りについてだ! イエスを売ったユダだけじゃない、全ての裏切り者を僕は許さない。自分が欺いた男に偽りの友情を差し伸べる男がいれば、僕は声高く呪ってみせる!その本をよこせ!鍵が、鍵がかかっている、リナ、鍵を開けなさい!
 私が?開けるんだ!裏切り者がここにいる、秘密は暴かれる!開けられないのか?ならば僕が開ける!留め金を開いた本からこぼれ落ちた手紙をスタンカーが拾います。読むな、君は読んではならない!一同の面前で手紙を引き裂くスタンカー、何てことを、僕はもう怒りを抑えられない!父には罪はありません、どうか許してあげて、夫にすがるリナの隣では、墓場で待ってるぞ、武器をとれ!とラファエレに決闘を告げるスタンカー、ご老体、僕がそれを恐れるとでも?とうそぶくラファエレが睨み合います。

 せっかくのパーティーは怒声と嘆きの声の中、おじゃんです。

 冒頭のジョルジの独白の重苦しさ、「行け、スティッフェリオ、君の道を!君の言葉が神の敵を打ち倒す雷であるように」、まだ登場しないスティッフェリオってガチガチの聖書一辺倒の原理主義者?重箱の隅を突いてはありとあらゆるところに罪を発見する独善的な神様マニア?と少々不安になります。
 この館の女性のうちの誰かの不倫の証拠を手に登場するスティッフェリオですが、彼はそれを平然と火にくべてしまいます。知らない方が幸せなこともある、寛大であれと神は教えられた、なかなかにさばけたところを見せる彼ですが、その心の内には既にリナに対する疑惑が芽生えております。

 二人きりになっても夫を真っ直ぐ見つめることができないリナ、あなたをスティッフェリオとは呼びたくない、ミューラーとお呼びしたいのです・・・。二人が出会った時、迫害から逃れるために彼が名乗っていた偽名、その頃のスティッフェリオはおそらく、信仰の勝利と自分の命を天秤にかけて弄ぶ運命に追い立てられ、孤独で、未熟な男であったはずです。リナはそんな彼を愛しました、青白い額に不安を宿し、恐怖に眠りを奪われ、それでもなお自分を叱咤して辛い人生を敢えて選択する、勇気と誇りと苦悩に満ちた何者でもなかった一人の若者を。その男は今や信仰に勝利し、彼の苦悩と言えば、「世界は悪徳に屈従している」というまるで世界の審判員になったかのような苦悩です。
 世界なんてどうだっていいの、私たちを見つめてほしいの、私とあなた、私たちはどうしてこうなってしまったの?ヴェルディはリナの旋律に追い詰められた獣のような体臭と一緒に凛とした清潔さを巧みに織り込んでいます。夫を裏切った女にヴェルディは、「正義」はなくとも「真実」があると主張するのです。確かにラファエレはリナを寝取った、しかし、そのリナは、神様と信者たちに夫を寝取られた女ではないのか。

 「結婚指輪を誰にやった!」、逆上するスティッフェリオ、リナは怯えつつも絶対に喜びを感じているはずです。生身の夫が、神の代理人でもなく、信仰の戦士でもなく、私への愛ゆえに嫉妬に狂う夫がいる、私にはまだ彼を狂わせることができるのよ。
 この話、ここから先ずっと二人きりだったら丸く収まったと思います。怒り狂う夫とひたすら許しを乞う妻、怒声が飛び交い、平手打ちの一つや二つ、しかし、愛し合う男と女では最後に勝つのは女と決まっております。だって、私、寂しかったのよ、あなたはもう私だけのあなたじゃない、私はあなたを神様と分け合っている、そんなの我慢できない!とか何とか、で、結局最後には熱い抱擁を交わす二人・・・。
 ところがスタンカーが登場し、みんなが待っているとスティッフェリオを連れ出してしまいます。みんなが待っている・・・みんなに待たれている男、みんなに愛され求められる男、それがリナの夫なのです。
 女というのは誰もが有能で信望の厚い男を持ちたいと願います。ところが有能な男には愛する女と分かち合う時間が足りなくて、信望の厚い男には名誉と賞賛という恋以上に男を酔わせる甘い誘惑があります。かつてのミューラーにはリナの愛だけが慰めでしたが、今のスティッフェリオには、そもそも慰めなど必要ない、成功した男というのは女を必要としないという意味では仕事と「不倫」関係にあるのです。

 一人取り残されたリナは手紙を書きます。罪を告白しようとする娘を厳しく責める父、ラファエレへの束の間の愛とスティッフェリオへの永遠の嘘、どちらがスティッフェリオに対してより酷いのか?愛は嘘ほどには愛を傷つけないと思います。だって、それは愛ですから。
 スタンカーが娘を責めるのは、リナが夫を裏切ったからではなく、父を裏切ったから。しかし、父は愛の当事者ではありません。裏切られた父は「裁きの神」を演じようとしています。娘に投げつける言葉の一つ一つが、ラファエレに内心笑われているであろう(と本人は思いこんでいます。ラファエレはどうだか分かりませんが)スタンカーにとっては自尊心を守ってくれる「正義の刃」なのです。
 「二種類の人間しかいない。おのれを罪あるものとみなす正しい者と、おのれを正しいと思いこんでいる罪深い者とである」、このパスカルの言葉だけで十分でしょう。

 しらっとした顔して何でも見ているジョルジの余計な一言、リナの不倫相手はフェデリコか!フェデリコはリナの従兄弟ですよ、スティッフェリオはこの時点で「オテロ」状態、従兄弟だろうが何だろうが、男ってだけで疑わしいのです。
 最初から自分で開ければいいものを、リナに本を開けろと命じるスティッフェリオ、前の場面で灰と共に罪を消し去った寛大さが既に彼にはありません。

 さて、罪深き手紙を隠すはめになってしまったクロプシュトックの「メサイア(救世主)」ですが、18世紀ドイツを代表する詩人の大作だそうです。豪華な装丁の鍵のついた本ですからスティッフェリオの大切な愛読書だと思うのですが、残念ながら、私は読んだことがありません。クロプシュトックといえば、マーラーの交響曲第2番「復活」の第5章のコラールの歌詞が彼の作品です。
 「復活する、そう、お前は復活するのだ。我が塵なる骸よ、短い憩いの後に」「信ぜよ、我が心よ、お前は何一つ失われはしないのだ」「復活する、そう、お前は復活するのだ。我が心よ、一瞬のうちに」、敬虔な祈りというよりも何やら超絶的存在への熱き思いの吐露、といった印象の作品です。興味がおありでしたら、是非どうぞ。


第二幕 傷ついた愛を憎悪が打つ

 深夜、月明かりが墓場を照らします。打ちひしがれたリナ登場。どうしてこんなことになってしまったの・・・、ラファエレは来るわ、この恐ろしい場所に。これは、お母様のお墓、お母様は清らかでいらした、なのに私は・・・。神よ、私と一緒に泣いて下さい、そして私をお許し下さい。
 リナ!ラファエレ、声を抑えて、父が近くにいる、そして夫は全てを知っているわ。君の旦那はフェデリコを疑っている、君の父上が証拠を握り潰してくれたおかげで。あなたには後悔はないの?恋する男に後悔はないさ。私はあなたを愛してはいないわ・・・。残酷な女、でも僕は君を愛する、いつだって。指輪を返して、そしてここから消えて。僕はとどまって君を守る!あなたは私を破滅させたいの?私の人生を涙の淵に葬りたいの?夫は全てを知ることになるのよ。
 スティッフェリオは何も知らない!剣を二振り引っさげてスタンカー登場。リナ、立ち去れ!ラファエレ、剣をとれ!決闘を?そうとも、どちらかが死ぬんだ。脅しても無駄ですよ、僕は老人とは剣を交えない。貴様には名誉はないのか?ならば教えてやろう、当代のロイトホルト伯爵はどこの馬の骨とも知れぬ捨て子だと。何だって!畜生、剣をよこせ!殺してやる!お前こそ!

 何をやっている!剣を納めろ!騒ぎを聞きつけたスティッフェリオ登場。死者が眠る神聖な場所で何ということを、あの十字架が見えないのか!ほっといてくれ、我らのどちらかが死ぬのだ。神の御名において話します、剣を捨てて兄弟を許しなさい。ラファエレ、君が先だ、剣を捨てて僕の手を握ってくれ。なんたること、裏切った男の手を握るとは!お義父様、今、何と言われた?裏切った男と・・・!
 この大騒ぎにリナが再び登場、許して、許して下さい、ロドルフォ!許せだと?この男を?リナ、あり得ないと言ってくれ、何でもいい、僕に君の証を見せてくれ!黙っているのか?それが答えか?全てがはっきりした、お前を踏みつぶしてやる!
 とうとう、彼は知ってしまった、私、死にたい・・・。全部お前のせいだ、ラファエレ!邪な罪人め、雷に打たれるがいいとスタンカー、僕の剣が僕の名誉を思い知らせるだろうとラファエレ、当のスティッフェリオは顔面蒼白で怒りに震えています。僕は知った、知った以上復讐あるのみ、その剣をよこせ!義父から剣を取り上げてラファエレに叫びます、貴様、剣をとれ!
 牧師様を相手に?いやだ、できない・・・。聞こえないのか、墓から響く死者の叫び声が、この罪人め、運命を知れ!

 教会から響く祈りの声に思わず振り上げた剣を取り落とすスティッフェリオ、ジョルジが慌てて登場、何をやっている?自分の務めを忘れたのか?
 僕は・・・、僕は怒りに囚われて絶望に焼かれて・・・、あぁ、誰も僕にかまうな、僕の心はめちゃくちゃだ・・・。僕は神の国の牧人、神よ、道をお示し下さい、彼らに語るべき言葉を下さい・・・。跪いて祈るスティッフェリオですが、神は沈黙を守ります。赦しはない、リナ、不実な女よ、呪われよ!夫の言葉に地に倒れ込むリナ。
 君は十字架を忘れたのか?十字架の上のイエスは全てを赦し給う。十字架・・・、教会の前の大きな十字架にヨロヨロとすがりつくスティッフェリオ、なんて冷たい、氷のように冷たい・・・、僕は死ぬ・・・、絶望と怒りのあまりに気を失って崩れ落ちる彼を青白い月が照らします。

 何とかして指輪を取り戻したいリナ、牧師の妻への愛を断ち切れないラファエレ、そのラファエレを殺すつもりのスタンカー、全員が何でよりによって教会(スティッフェリオが一番出現しやすいポイント)の前のリナの母(つまりスタンカーの妻)の墓の前なんかに集合するのか?この幕の展開は今は亡きリナの母の存在によって意味シンなものになっています。

 リナは亡き母に救いを求めます。リナにとっての母は清らかで貞淑な理想の妻であり、しかし、そうはなれない自分を同じ女として抱きしめてくれる存在なのです。しかし、その同じ女性の墓の前で、父であり夫であったスタンカーは娘の不倫相手の血を流そうとします。彼には妻の墓を軽蔑する男の血で汚すことに躊躇いがありません。
 「破廉恥だけでも十分なのに、お前はその上卑怯者だ」「私は男達の面前で怒りを抑え恥ずかしさに勝たねばならない」、スタンカーには全く父性愛が感じられず、それがますますリナを追い詰めてしまいます。彼にとってリナは娘である以前に、伯爵家のブランドの刻印を押された「所有物」なのです。挑発に乗らないラファエレに対してその出生の秘密を暴露するスタンカー、もしもラファエレが正真正銘のロイトホルト伯爵家の血筋であったなら、彼はここまで怒ったでしょうか?
 その反面、彼は婿殿に対しては異常に優しい、娘に対するよりもずっと優しい。娘に嘘を強いて、自分は人を殺して、それでもなお守らねばならない婿殿とは?

 ひょっとしたら、リナの母はリナではなかったのか?スタンカーは妻に裏切られた痛みを未だに忘れられず、娘を罵倒し、その不倫相手を侮辱し、婿殿大事の大義名分を押し立てることで、長い歳月を経ても決して消えることのない怨念を正当化しようとしているのではないか?

 リナに墓場まで持っていけと迫った秘密をポロッと漏らしてしまう父(どうもこのオヤジ、暴露癖があるみたい)、スタンカーは無意識のうちに「牧師」であるスティッフェリオと自分を通して表れる「裁きの神」が、妻を愛する「夫」であるスティッフェリオとリナを通して表れる「愛の神」を屈服させる場面を夢見ています。一人で勝手に「十字軍」をやっているスタンカー、ところが不思議なことに彼の罵声にも怒声にも「神」は全く登場しません。
 ヴェルディは、そして台本を書いたピアーヴェは、愛を持たない男が神の名を口にすることを許しません。確かに坊主嫌いではありましたが、ヴェルディは「レクイエム」の作曲家です。「神の王国」は、貧しい人、飢えている人、除け者にされている人のものであると信じ、「地上の王国」を待ち望む人々の前に一人の貧者としてロバに乗って登場したがために、十字架(古代ローマでは主人を殺傷した奴隷に対する処刑方法でした)の上で、そのひたすら愛を説くだけだった短い生涯を「彼らを許し給え」の言葉で終えたイエスを、ヴェルディはやっぱり愛していたと思います。

 スティッフェリオの中で裁きの神と愛の神が取っ組み合いを演じております。裁きの神は不義の男女を殺せと叫び、愛の神は許しなさい、とことん許しなさいと諭します。よろける足ですがりついた十字架、かつてその上で死んでいった大工の義理の息子でマリアの私生児であった男は、「汝の敵を愛せ」と言いました。敵を愛するくらい簡単なもんです、裏切った味方を愛することに比べれば。

 この幕ではリナが光ります。冒頭の「祝福を受けて天におられるお母様」、罪を犯すことはたやすいことですが、それを認めるには大変な勇気が要求されます。ここでのリナは清らかで力強く、悲劇のヒロインに相応しい風格。ところが、その後ラファエレに歌う「この不幸な女が」では、言葉ではラファエレを退けつつ、コロラチューラは妙に艶めかしい。愛されることの喜びは罪の意識を持ってしても消すことができないのか。牧師の妻が否定する道に外れた愛をリナの中の原始の女が婉然と手招きするかのような旋律、後に開花する大輪の花、「トラヴィアータ」のヴィオレッタ、その蕾がここで静かにほころんでいるかのようです。

 そして、スティッフェリオ、イエスの僕である彼はリナを許さなければなりません。しかし、夫である彼は妻を許すことができません。嫉妬という切れ味抜群の刃物によって切り裂かれた心の傷口を必死に押さえつける牧師、それとは裏腹に、あまりの苦痛に全てを喰いちぎろうと暴れ回る彼の中の獣が上げる咆吼、「オテロ」と重なる場面です。ヴェルディの旋律は激しくも甘く、怒りを爆発させるスティッフェリオが、怒りに身を任せるにはあまりにもリナを愛していことを伝えてくれます。

 冷たい十字架は何も語ってはくれません。神が沈黙を守る中、愛が道に迷っています。まだ愛があるのなら、愛の行く末は愛に尋ねるべきでしょう。


第三幕 許せ、されば許される

 スタンカー伯爵邸の一室、自らの暴露癖で自らが追い詰められたスタンカーが一人、墓標のように佇みます。ラファエレが逃げた・・・、復讐も遂げられないこの老人に残されたのは屈辱の日々、もはや私は誉れ高き剣には値しない男、死のう、死だけが屈辱から私を救ってくれる。ピストルを前にした手負いの老獅子の頬を伝う一筋の涙。全てを捨てよ、スティッフェリオ、罪深い私の娘を捨てよ!リナ、お前が生まれた時、私は天使が舞い降りたと信じた、それがどうだ、私の人生は屈辱しか残さなかった・・・。
 遺書に封をしてピストルを取り上げるスタンカーですが、そこにジョルジが登場。スティッフェリオはどこに?婿殿は誰にも会わぬと引き籠もっている。ラファエレが来ると告げても?何だと?ラファエレはここに来ます。何という喜び!復讐がこんなにも早く舞い戻ってくれるとは!私は蘇る、復讐のために!

 スティッフェリオの元にラファエレが登場します。僕を責めるがいいでしょう、復讐するがいいでしょう、僕は反対はしません。妻を寝取った若者に静かに問いかける牧師、もしもリナが自由の身になったら、君はどうする?そんなことはあり得ないと知っています。リナがここに来る、だから隣の部屋で全てを聞いてほしい、そして決めてほしい、君の未来を。

 ラファエレが聞き耳を立てているとも知らずにリナが登場。僕たちが別れる前に話しておくことがある、スティッフェリオは冷たく切り出します。別れる?私たちが?お互いに反対の道を歩む以上、別れるしかないだろう。僕は神の道を歩む、君は愛する男と生きればいい。結婚した時、僕はミューラーと名乗っていた。だから君の夫の名はスティッフェリオではない、僕たちの結婚は無効だ。だからこれにサインを・・・、離婚証書を差し出す夫にリナがすがります。私が何をやったのかは分かっています、だから破滅を受け入れます、あなたの手で殺して下さい!あなたへの愛ゆえに死なせて下さい!
 君の涙は僕にはもう無意味なんだ、この屈辱は決して消えない、僕の魂がこの世にある限り・・・。ならばこうするわ!書類を引ったくってサインしたリナが叫びます。私の涙を疑うのならこれで満足でしょう?私たちはもはや他人よ、終わったわ。だから聞いて下さいませ、牧師様!あなたの前にいる罪人の懺悔を!
 出て行ってくれ!懺悔を聞いて頂くまではどこにも行きません!それはあなたの義務のはず、リナはスティッフェリオの足下に身を投げ出します。あなたは私の何を知っているというの?あなたから忘れられて生きていける女だとでも?私の愛が分からないの?いつだって愛していたのに、ずっとずっと愛するのに、神様がご存知です。
 じゃ、ラファエレは?私は騙されたのよ。騙された?ならば僕には彼を斬る権利がある。何ですって・・・彼を殺すと?

 ヤツはもういない・・・、血塗れの剣を手にスタンカーが現れます。私の恥辱を知っていた唯一の男はこの世から消えた・・・。お義父様、何てことを・・・、教会へ、神の家へ行こう、ここはあまりに穢れている、罪と死で一杯だ、呪われた場所だ・・・、呆然と立ちつくす舅と妻を残したままフラフラと教会へ歩き出すスティッフェリオ。

 神よ、我らを罰し給うな、我らにその憐れみを、人々の祈りの声に混じって聞こえるのは、殺人を犯した父と不義を働いた娘が神にすがる声。放心状態のスティッフェリオが説教壇に登ります。あまりの苦痛に何も見えていない彼の目がぼんやりと会衆席に向けられます。リナ・・・、リナがいる・・・、ここはどこだ?僕は何を語ればいい?震える手で聖書をめくるスティッフェリオ。

 「その時、イエスは集まった人々に向かい足下の罪深き女を指さしてこう仰った。では、あなた方の中で罪を犯したことのない者が最初の石を投げなさい」
 説教壇の下の階段に倒れ込むリナ。
 「ついにイエスだけになり女が残された」「イエスは女に言われた、あなたを罰する者はどこか」「誰もおりません」「私もあなたを罰さない、立ちなさい・・・」、リナ、立ちなさい、赦しがあった、神は赦された・・・。リナ、神はそう告げられた・・・、僕は聞いたんだ、リナ、僕の妻、立っておくれ・・・。

 リナがすっくと立ち上がります。神よ、偉大なる神よ!

 娘の不倫相手を殺し損なって自殺を図るスタンカー、なんと身勝手で残酷な父。自分のせいで父が自殺したとなれば、リナだって生きてはいられません。そして、妻と義父が両方とも地獄行きとなれば、いかに強固とはいえスティッフェリオの信仰は崩れるでしょう。この父は娘もろとも地獄に堕ちることで全てを破壊しようとします。自分の復讐のためならば、誰の命でも裁きの神の祭壇に捧げることを厭わないスタンカー。
 彼の勝手に十字軍的「自爆テロ」は意外な人物によって回避させられます。剣を振り回す牧師様に恐れをなしてトンズラしていたラファエレが戻ってきたのです。ラファエレはなぜ帰ってきたのか?それは後に残されたリナへの愛、そして自分が踏みにじったスティッフェリオへの贖罪のため、あなたを愛してはいないと言い放った人妻と自分を邪悪な者と呼んだその夫のためです。ラファエレは凄腕の女たらしかも知れません、道徳など知ったことかの快楽主義者かも知れません。しかし、勝手に当事者面して勝手に怒っているスタンカーに対してはあれほど冷たかった彼が、自分が愛して自分が傷つけた夫婦に対しては不器用なまでに誠実なのです。ラファエレは愛を信じています、その愛が神の教えには適わないとしても。そしてスティッフェリオもそれを知っています。たとえ間違った愛でも愛がないことの地獄に比べれば。

 リナに離婚を迫るスティッフェリオ、厳しい言葉とは裏腹にその旋律のなんと哀しいことか。僕は愛のない地獄を選ぶ、君は愛のある地獄を選べ、僕は君を許せない、だから神も僕を許しては下さらないだろう、僕たちはもう同じ道を歩くことはできない、別々の道を歩いて地獄へ行くんだ。ヴェルディはスティッフェリオの嘆きにそんな苦い諦観を織り込んでいます。

 離婚証書にサインしたリナは変貌します。彼女はもう泣きません。あなたは夫ではなくて牧師、ならば牧師として聞いて頂きます!私はたった今私の愛を分かってはくれない夫と離婚しました、愛していました、いつだって愛していました。彼は分かってはくれなかった、でも神がご存知です。力強いリナの旋律はもはや怯える人妻のものではありません。
 ここでリナは見事に反転します。あなたをスティッフェリオとは呼びたくないの、ミューラーだった頃のあなたが恋しいの、第一幕で今の夫よりも過去の恋人を愛すると歌ったリナ、彼女はここで夢の男ミューラーと離婚し現実の男スティッフェリオを愛すると高らかに歌います。リナは夢よりも現実を、所有よりも受容を、情熱よりも継続を、より愛することが困難なものを断固として選択するのです。

 ですから、この場面でリナに「騙されたのです」と歌わせる台本はどうかと・・・。リナにとってラファエレは失われたミューラーの影、スティッフェリオが消し去ってしまった夢の残映だったのです。リナが騙されたのならば、失われた夢に焦がれたリナの孤独がぼやけてしまいます。リナが一時とはいえ本当にラファエレを愛したからこそ、夢と現実が確かにすれ違うことができるのです。第一、リナがラファエレごときに騙されるものですか。

 そして、リナの「夢の名残」であったラファエレは、舞台の外で殺されてしまいます。罪深き誘惑者に正しき神の雷が落ちた・・・?いえ、現実が立ち上がった以上、夢は夢として消える他なかったのでしょう、私はそう思いたいです。

 リナが投げつけた愛の剛速球の衝撃にクラクラしたまま説教壇に上がるスティッフェリオ。裏切りの痛み以上に彼を苛むもの、それは階段にひれ伏すリナの姿です。僕を愛する女がその愛ゆえにひれ伏している、僕は何を語ればいいんだ?
 リナはミューラーを捨ててスティッフェリオを選びました。愛されることではなく愛することを選びました。偽りの誓いの上に未来を築くのではなく、砂礫と化した現実の大地に再び愛の種を蒔くことを選びました。罪も愛もさらけ出すことによってスティッフェリオに彼女に投げるべき石を与えました。イエスが否定した断罪の石を己の手に握りしめて立ちつくす神の国の牧人。

 赦された、神は赦された、沈黙する神に求めて得られなかった答えをスティッフェリオはリナを通して得ます。僕の神は愛の神であり、愛は愛ゆえに脆く、だから僕の神も脆い。十字架の上で死んだ一人の男、僕はなぜ彼を愛するのか、なぜ彼のために身を粉にして働くのか。それは彼こそが愛だから。愛は非力であり、憎悪に打ちのめされ、血を流し、惨めに死んでいって、しかし、必ず蘇るからなのだ。

 しかし、リナよりももっと赦しを必要としているスタンカーは?「裁くな、それは裁かれないためである」「許せ、それは許されるためである」、誰よりも先に罪深き女に特大の石を投げつけたスタンカー、スティッフェリオが目覚めた非力な愛の神はそんな義父を赦すでしょう。ではスタンカーが信じる力強い裁きの神は・・・?その答えはスタンカー自身が一番良く知っているはずです。


神が沈黙する世界で

 「『スティッフェリオ』の筋書きを送って下さい。」、「『スティッフェリオ』は良い題材で、人の心を掴むものです。」(ヴェルディから台本作家ピアーヴェへの書簡)

 この手紙が書かれた1850年頃からヴェルディの作風は変わっていきます。直情径行型の男女が入り乱れ、神様だって負けずに鉄拳を振るう、いささか強引で破天荒な歴史劇から、等身大の人間の等身大の悲劇を同じ目線の高さから掘り下げる人間ドラマへ、彼の関心は移っていきます。
 この時期、ヴェルディは並行して「トロヴァトーレ」と「リゴレット」の構想も練っています。イタリア・オペラの巨人がいよいよ目覚めようとしていたのです。その先駆けを務めるはずだったのが、この「スティッフェリオ」です。

 さて、「スティッフェリオ」、ヴェルディの意気込みとは裏腹に、あっちでもこっちでも叩かれました。1850年11月16日、トリエステのグランデ劇場での初日、満員の観客の前で幕を上げたのは、検閲官から散々ダメ出しされた後のオリジナルとは似ても似つかぬシロモノでした。「人妻が不倫なんぞとんでもない!」「つーか、そもそもカミさんのいるプロテスタントの聖職者が主人公ってのが気にくわん!」「あのねー、ここはパパ様のおられるイタリアなんよ!」「だいたいルターやらカルヴィンやらを担いでいる連中に神を語る資格なんぞないわい!」等々。結局、初演の「スティッフェリオ」はというと・・・。
 スティッフェリオは「牧師」ではなくただの「教徒」です。リナはただの教徒の夫に懺悔するわけにもいかず、私の言うことを聞いてちょうだいとただただすがるしつこい妻、ラストに至っては十字架も説教壇も登場せず、十字架がないわけですから、人々、そしてリナもひれ伏すこともできず、スティッフェリオは牧師じゃないので聖書を読ませて貰えずボソボソと意味不明の言葉を呟き・・・、一体全体、大勢でどこに集まって何やっているのかも不明というトンデモな仕上がりになってしまいました。
 さらにローマ教皇領での上演ときたら、「スティッフェリオ」じゃなくて「ウェリングローデ」というドイツの総理大臣が主人公という体たらく。

 蠅みたいにうるさい検閲官に嫌気がさしたヴェルディは、この作品をお得意の時代劇に改作してしまいます。牧師スティッフェリオは12世紀の十字軍の騎士「アロルド」に変身します。第一、第二幕はだいたい同じ、第三幕では、世を捨てて隠者となったアロルドの元に、これまた贖罪のために放浪の身となったエグベルト(スタンカー)と父に従うミーナ(リナ)が嵐に吹き寄せられて偶然に登場、頑なに妻を拒むアロルドの心を溶かすのはブリアーノ(ジョルジ)が語るイエスの物語、アロルドはミーナを許し、その腕に抱きしめる、という筋書きです。
 はぁー、ヴェルディともあろうお方がやってしまいましたね。台無しです。十字軍に従軍している騎士の奥方の不倫なんて、これはもう数多くの艶笑譚でお馴染みの手垢でテカテカのお話、悲劇に仕立てるのは無理ってもんです。騎士殿が不倫の妻を許せない自分に悩むなんて設定自体が無茶です。間男を自慢の剣で一刀両断!で良いじゃないですか。

 この作品の魅力は主人公スティッフェリオの「弱さ」です。彼は一介の牧師、権力もなければ財力もない。そして既に将来に大きな夢を託すほど若くはなく、かといって全てを流れに任せるほど年老いてもいません。彼は宗教戦争を生き抜いてカトリックに対して勝利しましたが、「正義は裏切られ、人間は不正の海を漂っている」と嘆きます。彼が勝利したのは宗派の争いであって、正邪の争いでは劣勢に立たされているのです。そんな世界に神の声を届けようとする辛い布教の旅から帰ってみれば、自分の妻が結婚の誓いを破っていた。よりによって自分の妻が!この理不尽さを前にして、彼は自分がいかに不様な男であるかを思い知らされます。神の牧者として必死に働いた見返りが「寝取られ男」、ここで(スタンカーが願ったように)神の鉄槌が振り下ろされれば、スティッフェリオの不様は拭われるのですが、必死にすがった神はひたすら沈黙・・・。
 神のために命懸けで働いた自分はかくも惨めに嫉妬にのたうっている。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」どころじゃない、右の頬を打たれたから脳天真っ二つにしてやると叫ぶ自分、愛と寛容を説きながら、愛も寛容も持てない自分が生きる世界、神はこんな世界を認めるのか?神よ、あなたはなぜ黙っておられる?

 神が沈黙する理由、それは十字架の上のイエスを見れば明らかです。神のひとり子がなぜこれほどまで惨めで辛い死に方を?神も「弱い」のです。弱いからこそ神なのです。

 「あなた方の中で罪を犯したことがない者が最初の石を投げなさい」、イエスがこの言葉を発したその場には、罪を犯したことのない者が一人だけおりました。イエスです。イエスはどうして石を投げなかった?イエスは不在であることによって存在する神を、決して支配することはしない神を知っていたからです。理不尽な死を与えられる人間がいて、虐げられる正しい者と高笑いする悪しき者がいて、そんな世界を創造したはずの神は何もしません。神が完全な存在であるとすれば、神の創造した世界が不完全なのはなぜ?
 「愛はあらゆるものを認め、愛に命令されることを受け容れる者だけに命令する。愛とは身を引くことであり、神とは身を引くことであり、つまりは放棄である。」(シモーヌ・ヴェイユ 「超自然的認識」)、神は永遠にお留守なのです。

 イエスは最も惨めな死に方をすることで神の子となったのです。私はお前を苦悩から救うことはできない、十字架の上の自分も救えなかったのだから。しかし、お前が誰からも見捨てられたとしても、私はお前を見捨てない、お前が苦しむのなら私も苦しむ、お前が何をしようが何をするまいが、私はお前を愛する。なぜなら私はかくも弱く、かくも惨めな存在だから、だからこそ私は神の子なのだ・・・。イエスの愛は無償であるからこそ、誰にでも、敵にさえ与えることができる愛となったのです。

 この作品の主人公は牧師でなければならない、神の僕が、神が不在の世界で、不在であることで存在する神を発見する物語でなければならないのです。

 ヴェルディは翌1851年の「リゴレット」でも検閲官と派手なバトルを繰り広げました。しかし、山のようなダメ出しに小手先の改訂には渋々応じはしましたが、物語の主題だけは頑として守り通しました。「スティッフェリオ」を守ることができなかった自分に対する苦い後悔があったからこそ、彼は頑張り抜いたのだと思います。

 さて、録音ですが、1979年のガルデッリ盤、初期のヴェルディ作品については名人の呼び声高いガルデッリは、物語の芯をガッチリと捉え、非常に緊張感のある音作り。タイトルロールのカレーラスは真摯で情熱的な歌唱でこの難役を見事に自分のものにしています。リナのシリヴィア・シャシュも伸びやかでドラマティックな声で熱演。
 1993年のロイヤル・オペラ(映像盤)はダウンズの手慣れた棒、カレーラス、マルフィターノの夫婦は視覚的にも説得力十分。モシンスキーの演出は舞台を独立間もないアメリカに移し、質素で冷たい印象の舞台装置はスタンカーが体現する世界の愛の不毛を強調し、それがかえって危機を乗り越えていくスティッフェリオとリナの力強さを感じさせます。


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