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ワーグナー 「タンホイザー」 (2002年7月2日〜2002年7月29日の日記より)
13世紀のバックパッカー
2週間のロンドン滞在で多くのバックパッカーを目にしました。ロンドンですから、イギリス人バックパッカーを見ることは当然ありませんでしたが、それぞれにお国柄が感じられて眺めているとなかなか興味深い人たちです。
一番目立つのはアメリカ人、たいてい2、3人のグループで、装備が最新型、小さな星条旗を縫いつけたバックパック、必ずカメラを持っています。彼らは実に陽気、大声で楽しげに喋り、パチリパチリと写真を撮り、この旅を思い切り楽しもうという雰囲気が伝わってきます。日本人の若者たちも結構いましたね。彼らはどこか頼りなげで姿勢が悪いのですぐに分かります。
これに対してドイツやオランダのバックパッカーたち、彼らはたいてい一人、使い込んだ装備はタフで実用的、至って大人しい人たちなのでアメリカ人ほど目立ちませんが、人数的にはドイツ人が一番多かったと思います。
公園の芝生の上での彼ら、アメリカ人はたいていテイクアクトのサンドイッチにコークで昼食、ワイワイガヤガヤとふざけ合って元気いっぱい。それに対して一人でひっそりとリンゴとチョコレートバーをミネラルウォーターと一緒に黙々と食べ、体力温存のためなのか、座ったらじっと動かないというのがドイツ人です。少しでも安いホテルを探して何時間でも町を歩く、時には野宿もする。一番安い交通手段を使い、列車の通路で夜明かしするのも厭わない。ブランド品の店になど間違っても近寄らず、必要最低限の食事を食べながら折り目にそって今にも裂けそうな地図をじっと睨んでいる・・・、その姿はまるで苦行僧のよう。
そう、彼らはまさに苦行しているのです。
ヨーロッパには巡礼の伝統があります。勿論、日本にも巡礼はありますが、これとは少し趣が違うんですね。日本の、例えば四国の霊場巡り、お遍路さんの手にする杖は五輪塔をかたどったもの、これは墓標を表します。白の死に装束は仮に死んで新たに生まれ変わろうという意味を持ち、「同行二人」の文字は、弘法大師といつも一緒に歩きますという意味です。日本の巡礼は仏と一緒に歩くことで仮のこの世を見つめ直そうという自分探しの旅なんですね。江戸時代に大流行したお伊勢参りとなると、これはもう信仰にかこつけた観光旅行です。
ヨーロッパの巡礼は違います。何しろ彼らは生まれた時から原罪を背負っている(というか、背負わされている)。死ぬまでにそれを何とかしないことには地獄行きです。自分探しなんてのんきなもんじゃない、神から許しを得るための必死の懇願の旅なのです。彼らが目指すのはただ一カ所、聖地エルサレム。ところがここで大問題、このエルサレム、異教徒のイスラム人の国にあるのです。何とか聖地を取り返したいと繰り返された十字軍ですが、聖地奪回はならず、これではみんな地獄行き、どーするよ?
至って現実的なローマ教会が素晴らしい(?)解決法を編み出します。他に聖地を作ればいい!かくして、聖ペテロ以下多くの聖人の墓がある(ってことはつまりローマ帝国にみんな殺されちゃったってことですが)ローマ、そして、聖大ヤコブの墓が発見されたというイベリア半島のサンチアゴ・デ・コンポステラが新たに聖地とされます。
多くの巡礼が聖地を目指して旅に出ます。今と違って交通手段は自分の足だけです。ホテルもなければ予約システムもありません。巡礼たちはしばしば盗賊の格好の餌食になります。危険がいっぱい、生きて故郷に帰れるかどうかも危ういという長くて辛い旅でした。
死んだ後のことまで何も心配せんでも・・・と今日の人間は思うかも知れません。しかし、中世のヨーロッパ人にとって死は日常の一部でした。平均寿命はだいたい今の半分くらい、40歳は立派な老人、生まれた子の半数は幼年のうちに死んでしまいます。無事に育ったとしても、突然降りかかる飢饉に疫病、天地異変、そして、彼らにはその原因が分かりません。昨日まで元気だった人間が今日は冷たい骸、なぜ?
ホイジンガは「中世の秋」で中世の人々の死へのイメージについてこう語っています。『第一のメロディーをかなでるのは、かつてその栄光一世を風靡した人びとはいまいずこにやある、というテーマ。第二のメロディーをかなでるのは、ひとたび、この世の美とうたわれたものすべてが、腐り崩れていくさまをみて恐れおののくというテーマ。第三に、死の舞踏のテーマ。この世のなりわいを問わず、老若の別なく、死はすべての人をひきずりまわす、という。』、死は至って身近な存在でした。
常に死を見、死を感じ、死を恐れている人たち、それに拍車をかけたのが13世紀の煉獄の発明です。天国と地獄しかなかった死後の世界、これならいっそ開き直りもできるでしょうが、そこに煉獄という執行猶予の場が加わります。この世の大多数の人間が聖人でもないけれど大悪党でもありません。そんな彼らに希望が与えられます。煉獄での試練を手短に済ませて天国に昇るためのパスポートとして、巡礼は一層盛んになります。
煉獄とほぼ同じ頃に発明されたものがもう一つあります、それは「恋愛」。好いた惚れたは大昔からあります。しかし、それに市民権が与えられたのが中世末期なのです。プラトンの愛は少年への愛であって女性への愛ではありませんでした。その後のキリスト教世界では、女性は誘惑者イヴの末裔であり、男を惑わせ神の道から遠ざける警戒の対象でした。遺伝子の命じる子孫繁栄のための欲望はあっても、恋愛はなかった、好いた惚れたは神に対する罪だったのです。
その男女の好いた惚れたに市民権を与えたのは12世紀に生まれた吟遊詩人です。ここに至って女性は蛇にたぶらかされて男を誘惑する危険な存在から、憧れの対象となります。吟遊詩人たちの歌う愛の歌の対象、それは高貴な人妻であり、当然に奉仕の対象です。そして惚れちゃったんだからもう何が何でもモノにしたいという盲目的な愛ではなく、理性にコントロールされた愛であり、相手は人妻ですから秘密の愛であり、その想いは決して充足されることはない、充足された途端にただの性欲になってしまうからです。なんともまあ、面倒くさい、いったいどこが楽しいの?苦しいことばかりじゃんという愛なのですが、苦しいからこそ価値がある、これは試練を乗り越えるという精神的な巡礼なのです。性欲を否定する純粋に精神的な愛がここに至って初めて登場します。そして欲望しかなかった時代には単純だった男女の愛に、正しい愛と間違った愛というランク付けが導入されるようになったのです。
今、ローマを目指す巡礼の群の中に一人の若き騎士がおります。彼は大きな罪を背負っており、法王にその許しを請うために苦しい旅を続けています。彼の罪、それは彼に「正しい愛」を捧げる清らかな乙女があるにもかかわらず、愛の女神の膝の上で官能に耽ったこと、神の栄光とその心に適う「正しい愛」を讃えるために与えられた輝かしい声で快楽を賞賛したこと・・・。彼の名はタンホイザー。
第一幕 何を求める?何に渇く?
矛盾に満ちた序曲が堪らなく美しい。精神の愛が与えてくれる心の安らぎ、肉体の愛が与えてくれるとろけるような快感・・・、どっちか選べと言われたら困りますよね。そう、我らがタンホイザーも困っているんです。
愛の女神ヴェーヌスの洞窟、ギリシャ神話の酒の神バッカスを讃えるバッカナールの醸し出すエキゾチックな空間、海の妖精セイレン(その声を聞いた者は、二度と生きて陸地を踏むことはない)の甘い歌声、若き吟遊詩人にして騎士のタンホイザーはヴェーヌスの膝枕でウトウトなのですが、目覚めるなり・・・。
もうたくさんだ!僕はいつからここにいる?ここには日も月も緑もない。愛の女神様の与える快楽もいつか色褪せる、タンホイザーは突然シャバに戻りたくなった様子です。せっかく虜にしたこの色男を逃がしてたまるもんですか、さらに妖艶に迫るヴェーヌス、私のために歌って、愛の歌を・・・。竪琴を手にヴェーヌスを讃える歌を歌うタンホイザーですが、一度ついた里心は執拗に彼を責めます。快楽だけでは僕は満たされない・・・僕は苦痛に憧れる!
なんてコト言うの!私は愛の女神よ、私の愛をコケにしてただで済むと思ってるの?この裏切り者!僕は行かなきゃ、行かせるもんですか、ま、よくある痴話喧嘩の光景です。こってりとした濃密な誘惑に再び屈したかに見えたタンホイザーですが、彼はヴェーヌスを讃える歌に集中することが出来ません。やっぱり行きたい、行かせてくれ!アンタね、愛の女神から逃げ出そうなんて大した度胸よね、ここを離れた途端にアンタは私が恋しくなる、人間の女の愛なんて、私の与える快楽に比べたら・・・。アンタはお願いだからもう一度僕を入れてくれって泣いて頼むことになる、私はそんな男は要らないの、私が欲しいのは真の勇者だけよ!
いや、僕はもう決して戻ってこない、僕の心には死が、墓がある、僕は、そう、死が欲しいんだ、死が与える休息が欲しいんだ、ここには快楽があっても休息がない、僕はそれこそが欲しいんだ・・・。休息?死?そんなものはアンタには与えられないわ、救済が欲しければ私のところに戻ってきなさい!
僕の救済は聖母マリアにこそ!快楽の女神ヴェーヌスにとって処女のまま救世主の母となったマリアは天敵、消え去るヴェーヌス。
タンホイザーは、明るい太陽の下、谷間に一人でいる自分に気付きます。牧童の歌う素朴な歌、彼はシャバに戻ってきたのです。遠くから巡礼たちの声が聞こえます、聖母よ、罪の重みに耐えられぬ我らに休息を・・・。罪の重み・・・、タンホイザーは跪いて祈ります。僕は異教の神の元で快楽に耽った、罪の重み・・・。
ヴァルトブルクの領主と騎士たちが登場します。あそこで一人祈っている男は誰だ?まさか、彼だ、タンホイザーだ!かつて高慢にも俺たちを見捨てたあのタンホイザーだ!こんなに長く、いったいどこにいた?遠いところ・・・あまりに遠くて・・・、僕は結局休息を得られなかった、だから僕を行かせてくれ。
何言ってんだ、せっかく帰ってきたのに。なぜかその場を立ち去ろうと急ぐタンホイザーと彼を引き留める騎士たちの論争に終止符を打ったのは、ウォルフラムの一言、「エリーザベト!」。
美しいエリーザベトを巡ってつばぜり合いを繰り広げたタンホイザーとウォルフラム、しかし、エリーザベトの心を虜にしたのはタンホイザーの歌声でした。タンホイザーよ、我を打ちのめし者よ、君は彼女を忘れたのか?帰ってくるんだ、大胆な歌手よ。俺たちは仲間だ、俺たちの声は一つになって響きわたったじゃないか。
そう、帰ろう・・・帰ろう!エリーザベトの元へ!美しい世界へ!
ま、有り体に言ってしまいますと、フーゾクで遊び呆けていたにーちゃんがケバいおねーちゃんに飽きちゃって、そういえば、大して美人でもないし、ナイスバディでもないけど、あの娘も結構いーとこあったんだよねーと我に返り、おねーさん、お勘定!って言ったところがこれがぼったくり、散々揉めてすったもんだの挙げ句に路上に放り出された新宿は歌舞伎町の午前5時・・・と、そんな雰囲気ですね。
このオペラの正式のタイトルは「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」、中世ドイツの二つの伝説を融和させた物語です。一つは13世紀に実在したとされるミンネジンガー、タンホイザーの物語。彼は恋の快楽を全て知ろうとヴェーヌスの洞窟に籠もります。異教徒の女神と同棲しちゃうなんて大変な大罪。後悔した彼はローマ法王に懺悔しますが、厳格な法王は枯れ木の杖に葉が生えない限りお前は救われぬ!と彼を断罪。失望した彼は再び洞窟に戻ってしまうのですが、何と3日後に頑固な法王様の杖に葉が生えた!慌ててタンホイザーを探す法王ですが、彼は二度と再び人々の前には現れなかったというもの。
もう一つはこれも13世紀、チューリンゲン方伯ヘルマン候の宮殿で行われた歌合戦、というか負けた方は死ななくてはならなかったといいますから、歌の決闘ですが、この場でハインリッヒという歌手が窮地に立ち、方伯夫人ゾフィーに命乞いをして助かったというもの。
ワーグナーはこの二つの伝説から、官能と精神の間で揺れ動く男、そして彼を救済する女というエッセンスを取り出して一つにまとめ上げました。
この作品、「ドレスデン版」と「パリ版」、二つの版があります。当時のパリでは第二幕にバレエを入れるのが慣習でした。これはお目当ての踊り子のおみ足を眺めたいというスケベ貴族たち(「ジョッキー・クラブ」)の要望で、ワーグナーは断固拒否・・・したかったのでしょうが、できず、第一幕冒頭にバッカナールのシーンを挿入しました。ところがおみ足鑑賞に合わせて第二幕にやって来た貴族連中が、何だよー、バレエ終わってんじゃん、むかつく!と大騒ぎし、上演は早々に打ち切り。パリ版は現在ではバッカナールを序曲で演奏する形式になっておりますが、このバッカナール、実に生き生きとした旋律で、私はパリ版の序曲の方が好き。
さて、目覚めた途端に「もうたくさんだ!」のタンホイザー、遊びすぎて飽きちゃった・・・じゃない。異教の神の元で快楽に耽る、これはまともなキリスト教徒の男なら腰を抜かすような背徳です。彼はそれを選んだ、魂を賭けた選択だったはずです。しかし、彼は満たされない。彼の歌うヴェーヌス賛歌「あなたのために賛歌よ響け!」は3回繰り返されます。我が歌はいつもあなたのために響く、あなたを讃えて大声で歌おう・・・、繰り返されるたびに音程の上がる旋律は、歌詞とは裏腹に彼の焼け付くような焦燥を伝えます。彼は神の与える精神の愛によっても、愛の女神の愛撫によっても満たされない、なぜなら彼は「死や墓を私はこの心に持っている」からです。彼の渇き、それは自分の存在に対する疑問なのです。死が待っていると生まれた時から分かっているのに、なぜ僕はここにいる?なぜ僕は彷徨う?なぜ僕は愛し、なぜ僕は苦しむ?
エリーザベトの「正しい愛」に満たされずヴェーヌスの洞窟へ入り、ヴェーヌスの「間違った愛」に満たされず聖母マリアの救いを求める・・・、彼の求めるもの、それはそもそも愛ではない。しかし、それが何であるのかが分からない。タンホイザーはキリスト教の価値観から逃れることを望みながら、次の価値観を得ることができません。彼は自我に目覚めてしまったのです。しかし、それを認識し、捉えることができない。
ヴェーヌスは自分の愛の力に疑問を持たず、妖精たちを従えて愛欲の洞窟に君臨しています。タンホイザーを迎えたウォルフラムたちは彼に「とどまれ、帰れ」と呼びかけます。彼らは神の言葉に疑問を持たず、帰るところを持っています。そのどちらにも安住することのできない「永遠の巡礼」タンホイザー。自我を持ってしまった人間には、安住の地など与えられはしない。「とるべき道はひたすら前進することだけ」、性急に進もうとする彼、彼は動き続ける以外にない、存在することへの疑問の答えが見つかるまで、しかし、その答えは見つかるとは限らない。
「さまよえるオランダ人」の船長は神の意志によって彷徨しました。しかし、彼、タンホイザーは自分の意志によって彷徨するのです。
「聖母マリア!」と「エリーザベト!」、彼は二人の女性の名を同じ和音で叫びます。彼は聖母マリアとエリーザベトに同じ価値を見ています。「彼女の元へ!」帰ろうと歌うタンホイザー、これはキリストの教えへの回帰であり、同時に一人の生身の女の元へ帰ることでもあります。エリーザベトは「聖母」ではないにもかかわらず、この時点で聖母であることを求められます。それがどんな結果を導き出すのか、既に明白です。タンホイザーの芽生えたばかりの未熟な自我が、異教の女神と聖母マリアの間で揺らめいています。その自我は「永遠の巡礼」をどこへ誘う?
第二幕 持っているものは欲しくない、欲しいものは持っていない
タンホイザーの帰還を喜ぶかのように躍動する旋律。エリーザベトが歌合戦の開かれる大広間で歌います。この広間からあの方が消えて・・・私から平和が消えた。でも彼は帰ってきたの!尊い殿堂よ、私の祝福を受けて!
ウォルフラムに伴われてタンホイザー登場。エリーザベトの足元にひれ伏し不在の許しを求めます。立って、あなたはどこにいらしたの?遠い国・・・、どうして帰ってきたの?それは奇跡です・・・。他の騎士たちは優美に歌うわ、でもあなたの声は私の身体を震わせるの。激しい歓喜と情感と欲求!何て呼べばいいのか分からない感情・・・、そのあなたは突然消えてしまった、ひどい人!今を讃えましょう!この新しい命を、喜びは私のもの!再会に酔っているご両人の隣では失恋の傷口に塩をなすり込まれたかのようなウォルフラム、全ての望みが去っていく・・・。
エリーザベトのタンホイザーへの恋を知っている領主、そして騎士たち、貴族たちが登場し、歌合戦の幕開けです。お馴染みの行進曲に乗せて舞台は一気に華やぎます。本日のお題は「愛の本質」。一番手はウォルフラム、天上の星は輝き、魂は敬虔に祈る。見よ、奇跡の泉が。これに触れて泉を汚してはならない、愛の本質はまさに清らかな泉・・・。
あ、そういうこと、泉ね、とタンホイザーが二番手で歌います。愛とは触れること、君の身体と同じく柔らかい身体に。歓喜の泉、私の欲望が消えないようにその泉は涸れることはない。私はその泉から永遠の力を得る・・・。
三番手のビテロルフはウォルフラムに賛成し、清らかな愛を歌います。全く、何も分かってないんだから、とタンホイザーは激しく竪琴をかき鳴らします。快楽を抜きにして愛を語る?君たちの愛はなんともお粗末なものなんだね、そんなものにいったい何の意味がある?お行儀のよろしい偽善の言葉が彼には我慢ならないのです。
まったく何ちゅう歌を歌うんだ!周囲が一斉にタンホイザーを非難しますが、何かに酔っているかのような彼はさらに力強く続けます。愛の女神よ、君のために僕の声は響く!甘い魅惑の館、君を抱いた者だけが愛を知る、彼女の愛を知りたければヴェーヌスの洞窟へ行け!
この男、異教の女神の元で快楽に耽っていたんだ!大広間は目の前の異端児の途方もない告白に大混乱です。悪徳が口を開いた!コイツを地獄へ放り出せ!剣を手にタンホイザーに迫る騎士たち。「止めて!」、捨て身の命乞いの声は一番傷ついたはずのエリーザベトです。彼を裁くとでも?彼は不幸な男、不幸であることが罪なの?彼に贖罪のチャンスを!
その姿にさすがに反省したタンホイザー、救いの天使がここに、天よ、僕を哀れんで下さい・・・。領主は彼にローマへの巡礼を命じます。法王の許しを得よ、さもないと今度こそマジで殺すぞ!
神よ、彼に光を、手遅れにならないうちに光を・・・、エリーザベトの祈りにタンホイザーが答えます、君は僕を許すのか?僕のために祈るのか?しかし、僕の罪は消えるのか?僕はどうすれば良いんだ?僕は君の犠牲にどうやって応えれば良いんだ?
ローマへ!ローマへ・・・。
聖母マリアよ!と退けたヴェーヌスを一転して讃えるタンホイザー、この男、分裂症か?禁断の地での快楽を誇らしげに歌うタンホイザー、この男、変な薬物でもやっているのか?
快楽を手にしてはそれを放り出し、清らかな乙女を得ながらそれも放り出す。彼は常にここではないどこか、自分の持っていない何かを憑かれたように追い求めます。彼は「瞬間」しか捉えることができないのです。快楽の瞬間、苦痛の瞬間、そして安堵の瞬間・・・、満たされたと感じた途端に彼はその充足は幻であることを知り、さらに渇いてしまいます。
「正」があり、それに対して「反」が存在し、その相反する二つが融合した時に「合」が現れる、ヘーゲルの弁証法で言うところの「合」こそ、タンホイザーが求めるもの。彼は未だに正と反の間を揺れ動き、合に至ることができない、合を見出すまで彼は彷徨い続ける以外にないのです。
彼が合を求めるのは正と反を知っているからです。反を知らない正は、自分は合だと信じますが、反を知ってしまった以上、正はそのままでは決して合にはなり得ない。そこから合に至るための彷徨が始まるのです。
キリストの騎士たちの集うヴァルトブルク城と異教の女神ヴェーヌスの棲むヴェーヌスベルクは、奇妙なことにご近所同士です。騎士たちもヴェーヌスもお互いの存在を知りながら、静かな睨み合いを続けています。彼らは自分が合であると信じていますから、反の存在を否定します。この両方の間でフラフラしているタンホイザーだけが、キリストの騎士も愛欲の女神も所詮は合ではないと知っています。対立する二つの価値観は、融合し、さらに高い次元に昇る可能性を秘めています。なぜ、それが分からない?もっと高いところがあるのに、なぜここで安住する?
焼けるような渇きにのたうち回っては自分を傷つけるタンホイザーをただ一人命を懸けて守る者、エリーザベト。彼女は無意識のうちにタンホイザーと同じ渇きを感じています。「不幸であることが罪なの?」・・・不幸であるというだけで十分罰せられているでしょう?私は不幸を知っているの・・・。
「私は夢の中にいて、子供よりもバカになっているの・・・、自分でも自分が認められないほどに」、エリーザベトは自分の中の対立する正と反を感じているのです。
「彼らの歌や賛美は優美な芸術・・・、でも、あなたの歌は私の胸に不思議な命を呼び起こした」、彼女は、他の騎士達の徳を賛美する声を愛でつつも、自分の無意識に訴えかけるタンホイザーの声に魅入られたのです。
「ある時は激しい歓喜におののく。未知の情感、未知の欲求、名前のない歓喜の前に」、エリーザベトは自分の中の官能を感じています。だからこそタンホイザーを許すことができるのです。私はあなたの渇きを知っているの、あなたはあってはならないものを自分の中に持っている、そうでしょ?あなたは未知に飢えている、何と呼んでいいのか分からない未知の感覚、それが与える未知の喜びに。未知には未来を与えるべき、それが「祈る」ということでしょう?だから私は祈るの、その未来のために・・・。
ヴェーヌスの官能に対して聖母マリアの純潔を叫んで放り出され、今またキリストの騎士達の徳に対して官能を歌って放り出されるタンホイザー。「如何にして僕は恩恵を見出せる?・・・天の恵みは消え失せた、しかし僕は後悔の念をもって巡礼しよう」、官能を否定する徳があり、徳を否定する官能がある、では、官能を昇華させる徳はどこにある?彼はその答えをキリスト教道徳の最高峰である法王に求めようとローマを目指します。徳が徳を愛でるのは当然、徳が罪を受け入れた時、そこから新しい次元が生まれる、ヴァルトブルクとヴェーヌスベルクが融合すれば、そこには新しい風が吹く、「山からホルダの女神が下りてきて」五月の太陽が輝くように・・・。正と反から合が生まれる瞬間を夢見て、熱に冒されたかのように城を走り去るタンホイザー。
「ローマへ!」、彼の渇きは癒されるのか?
第三幕 永遠の巡礼がたどり着くところ
憂いを含んだ導入部分、舞台は秋の夕暮れ、全てが琥珀色の淡い光りに包まれて静かな哀しみが辺りを満たしています。
「彼女がここで祈りを捧げている」と秘めた恋心を歌うウォルフラム。エリーザベトが聖母マリアに祈っているのは恋敵タンホイザーの救済です。ウォルフラムの恋は決して満たされない恋、「聖者たちよ、彼女の願いを叶えよ」、恋ゆえに恋を秘める男の静かな情熱が伝わってきます。
遠くから次第に近づくのは巡礼たちの祈りの合唱、彼らが帰ってきた!恩寵を得られた喜びを神に感謝する巡礼たちの中にタンホイザーの姿はありません。彼は帰ってこない・・・、聖母よ、我が命を召して下さい。全ての過ちをあがなうことができないのなら、せめて私にお慈悲を・・・、待ち焦がれた彼はいない、エリーザベトは全てを悟ります。
ご一緒してはいけませんか?控えめに話しかけるウォルフラムを静かに遠ざけて、エリーザベトは一人歩き去ります。
「死の予感のごとく黄昏が大地を覆い」、魂は夜を恐れる。心優しき我が夕べの星よ、夜の闇を照らしてくれ、彼女を照らしてくれ、彼女が地上より消え去るまで・・・、心の底深くに秘めた想いを星に託すウォルフラム。
日が落ちて闇が辺りを覆った時、ぼろぼろの衣装、やつれ果て杖にすがって、まるで老人のようなタンホイザーが現れます。帰ってきたのか!何があった?君か・・・、君が探しているのはこの僕じゃない。教えてくれよ、ヴェーヌスベルクはどっちの方角だ?あの洞窟へ行くって?正気か?ローマで何があった?
「聞いてくれ、ウォルフラム!」、タンホイザーの口から熱い言葉が溢れます。ローマへ行ったさ、熱烈な信仰を持って、苦しい旅を心から望んで、そう、苦痛を喜びとさえ感じた。神の代理人が僕の前に現れて、僕は訴えた、心から懺悔した・・・。返ってきた答えは、永遠に呪われよ!この杖に新緑が燃えることがないように、お前に救済はない!息詰まるような切迫感を持って語られる「ローマ語り」、ゴツゴツした旋律、オーケストラは伴奏するのではなく独自に主張します。恩寵、悔恨、そして呪い・・・、絶望がタンホイザーから理性を奪います。
行かせてくれ、ヴェーヌスのところへ、あの魔法の優しさ、あの官能の喜びが僕に微笑んでいる、もう僕を捜すのは止めてくれ・・・。
ほら、言わんこっちゃないとヴェーヌス登場。「戻ってきたのね、不実な男」、許して上げる、永遠の喜びを味あわせて上げるわ、もう決して私から逃げないように。消え失せろ!魔女め!と必死で止めるウォルフラムの手を振り解いてヴェーヌスを求めるタンホイザー。その男は私のものよ!僕のことは捨ててくれ!捨てられるもんか!激しい三重唱が頂点に達した時、ウォルフラムが叫びます、エリーザベト!
エリーザベト・・・?そう、君の天使だ!君のために祈る天使だ!君は救われる!そう、僕は救われる・・・。ヴェーヌスは夜の闇に消えていきます。
遠くから合唱が響きます。エリーザベトはこの世を去りました。彼女は罪人のために泣き、救いを請うた、救済はなされる!「エリーザベトよ、我がために願え!」、タンホイザーはエリーザベトを追ってこの世を去ります。「慈悲の奇跡に栄光あれ」、眩しい新緑に覆われた杖を持って僧侶が登場します。救済は与えられた、懺悔する魂よ、天国で安らげ・・・。
法王様からも見捨てられたタンホイザー、これほど苦しい旅をしたのに、心から懺悔したのに、なぜ?善人に許しが必要か?許しが必要なのは罪人じゃないか、神の代理人に慈悲はないのか?ヤケクソになった挙げ句になぜか帰ってきてしまう。そして、どうせ地獄行きなんだ、だったらヴェーヌスんところでデレデレして残りの人生を過ごしてやると開き直り。正と反の間で揺れ動く彼の自我、ローマで合が得られなかったのなら、なぜ次を目指さない?神の「代理人」なんてケチなもん相手にするのは止めて、神との直接対決を求めてどこまでも歩くべきなのに。
これに対してエリーザベト、彼女は敢然と一人で祈ります。異教の女神の元で快楽に耽った男を愛する、堕落したキリストの騎士のために聖母マリアに祈る、かなりやばい危ない橋です。エリーザベトは孤独だったはずです。彼女は敢えてその孤独を選んだ、そして、懸命に祈る自分を通して迷走するタンホイザーを辛うじて守っていたのです。その彼は巡礼の群からも落ちこぼれてしまった、神は彼を見捨てたのです。神すら見捨てた男をエリーザベトは救います、命を代償として・・・この強靱な自己。
そして、ウォルフラム。「最愛の星よ、その柔らかな光は夜の闇を照らす」、彼が賛美するのは宵の明星、金星です。金星、またの名をヴィーナス。彼は無意識のうちに異教の女神を賛美しているのです。死ぬまでのつかの間の生ですら教会の規律に縛られるこの世、タンホイザーはその鎖を嫌って飛び出していってしまった。確かにこの鎖は重すぎる・・・。
しかし、彼は目の前のヴェーヌスは否定します。彼にとっての愛の女神は、世界が闇に包まれる時、そっと天から地上を照らす存在なのです。愛は地上を照らしているんだ、それは遠くてこの手に抱きしめることは叶わないとしても、存在するんだ。愛するエリーザベトはタンホイザーのために祈っている、美しい・・・、美しいからこそ俺は手を触れない。遠くに美しいものがあると知っているだけで満たされる・・・。
教会の道徳とヴェーヌスの官能、どちらも一度は否定したくせにまた惹かれてしまうタンホイザー。彼は自我の欲するままに彷徨するアウトサイダーでありながら、同時にそのどちらにも救済を求めています。自分の中の渇きを癒してくれるならばどっちでも良いのです。この彼のどっちつかず状態をワーグナーは「半音の違い」で表現しています。ここで半音上がればすっきりするのに、という箇所が山のように出てきます。
「エリーザベトよ、我がために願え!」、タンホイザーの最後の叫びすら半音の違いで調和には至りません。エリーザベトは彼の救済を祈りつつ死にました。タンホイザーは全ての希望をエリーザベトに託して、救済を「望んだ」状態で死にました。彼の救済が明らかになるのはこの後、つまり二人は「救済」を知らないで死んでしまったわけです。
「巡礼の合唱」の旋律が力強く救済を歌い上げる幕切れ、救済を確認したのは法王の許しを首尾良く得られた巡礼たちであり、道徳を歌うキリストの騎士たちです。そこには、死ぬまで休息を知らなかった若き騎士も、孤独な祈りに命を捧げ、彼を最後まで守り通した乙女も存在しません。ヴェーヌスは消え去り神は勝利した・・・のかも知れません。でも、二人にはそんなことどうだっていいのでしょう。彼らは異なる価値観が対立する地上から異なる価値観が融和する新しい世界へ通じる道を、たった今二人で歩き始めたのですから。
さて、ラストで見事新緑に覆われた杖ですが、このエピソードは聖書の外典にあります。神殿に仕えるマリアに祭司たちが結婚を申し渡します。マリアの花婿候補生たちはそれぞれ杖を持って神殿に参り、これらの杖は一晩神殿に置かれ、マリアの花婿の杖には花が咲くというもの。見事に花を咲かせたのは大工ヨセフの杖でした。ラファエロの「聖マリアの結婚」に描かれている場面です。そう、杖に生い茂る新緑とは、「マリアに選ばれし者」を意味するのです。
このオペラ、マリア信仰を抜きにして語ることはできません。では、聖母マリアとは何者?
マリア変容
紀元前6年頃、大工のヨセフとその妻マリアの間にイエスという男の子が産まれました。イエスとは「神は救う」という意味、特に珍しい名前ではありません。この夫婦には6人の子供がおりましたが、この少々毛色の変わった息子イエスのおかげでマリアはただの母親では済まされなくなってしまいます。
イエスは死ぬまでユダヤ教徒であったのですが、その彼を信仰するキリスト教が誕生し、ローマ帝国を覆い尽くすに至って、古代教会のお偉いさんは大きな問題に直面することになります。ユダヤ教の神は「YHWH」、はい、これ読んでみて下さい。読めませんよね。その名を人間が口にすることは許されないのです。ただ名無しだと色々と不便なんで、ユダヤ教徒が旧約聖書を音読する時は「主」あるいは「いと高き者」と言い換え、キリスト教では「エホバ」とか「ヤハウェ」と発音します。このエホバ、名前もなければ姿もない、唯一絶対、永遠不滅の存在です。と、ユダヤ教はここでお終いなのですが、新約聖書のキリスト教はそうはいかない。この宗教ではイエスは神の子なのです。姿のないエホバが子供作っちゃった。その母は平凡な大工の妻、これをどうやって説明する?
古代教会はあらゆる理屈を並べ立て、大工の息子が神の子であることに整合性を持たせようと大奮闘。まず、マリア自身が神の子であったという「無原罪のお宿り」を唱えて、マリア自身に神秘性を持たせ、神様が「普通の女」を妊娠させたわけじゃないんだと力説。次にイエスの兄妹たちを全員「いとこ」にしてしまいます(都合が良いことにヘブライ語では兄弟と従兄弟は同じなのです)。イエスは神の一人子となり、大工のヨセフはただの義理パパにされてしまいます。そうすると、エホバとイエスは親子ってことになります。どっちが偉いの?さて、困った。エホバが偉いではユダヤ教と同じで、イエスはただの預言者の一人になってしまいます。イエスが偉いではエホバの立場がありません。で、出てきた理屈が「三位一体」、父なる神と聖霊とイエスは同じ存在であり、表れ方が違うだけという、摩訶不思議な理屈です。
イエスが十字架にかけられた後、マリアは落胆のあまり死んでしまいます。実の息子の惨たらしい処刑を見せられたのですから無理もない。このマリアの死も教会のお偉いさんは「昇天」にしてしまいます。マリアの霊は天国で我が子に迎え入れられます。「聖母被昇天」「聖母戴冠」、この手の絵はヨーロッパにはイヤってほどあります。
新約聖書にはマリアに関する記述はほんの少ししか出てきません。聖書第一主義のプロテスタントではマリアを信仰の対象にはしていないほどです。しかし、西欧の美術館を歩けば、マリアを描いた絵画は息子イエスのそれよりも遙かに多い。マリアはキリスト教世界において人気ナンバーワンの存在です。
ヴァルトブルクの緑の森には聖母マリアの像が立っています。すぐ近くには異端の愛の女神ヴェーヌスが棲んでいます。そしてなだらかな丘に春が訪れた時、牧童は歌います、「山からホルダの女神が下りてきて、野や谷を渡っていく」、ホルダとはゲルマンの女神であり、ヴェーヌスと同じ愛と官能の神です。キリスト教と異端が同居する、この森は実に奇妙なところです。
父なる神、それと存在を同じくする神の子イエスを絶対視するキリスト教においては、マリアの居場所などありません。聖書に彼女に関する記述が少ないのも当然です。しかし、人々は聖母を求めた。厳しい父だけでは人は生きられない、優しい母が必要だからです。厳格な戒律を掲げ、それに反する者を容赦なく断罪し地獄へ突き落とす父なる神の厳しさ、その対極には、父の怒りに触れて恐ろしさに絶望する弱い人間を一人残らず優しく抱き上げる母マリアが必要だったのです。
人の哀しみを自分の哀しみと感じるほどに優しく、感受性が豊かだったマリアの息子イエスは、その優しさゆえに非業の死を遂げ、その非業の死ゆえに救世主となりました。そのイエスが父なる神と一体となり、教会が巨大化するにつれて、この世に枕するところすら持たず、ただ愛のみを説いて回った大工の息子の後継者たちは、権力者に変貌していきます。権力は支配し、搾取し、威嚇し、弾圧します。人々は母を求めました。怒れる父から全ての人間をそっと庇ってくれる母、一神教の要素とは根本的に矛盾しているマリアの存在は、最初から異端の香りを漂わせています。だからこそ、タンホイザーはマリア像の立つ森へ帰ってきたのです。エリーザベトは父なる神ではなく聖母マリアに祈ったのです。彷徨うタンホイザーを救えるのは「母」なる存在以外にないと、彼らは知っていたのです。
「私は、勝ったと思っています。マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます」「犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。革命は、いったい、どこで行われているのでしょう」(太宰治 「斜陽」 新潮文庫より)
キリスト教の戒律と異端の女神の間で彷徨うタンホイザー、彼を救うのは、自らの中に異端を包含するマリア、そしてエリーザベトでなければならなかったのです。
お薦め盤が難しいんですよね。パリ版の華やかさ、ドレスデン版の格調の高さ、どちらを選ぶかも難しい。1970年のショルティ盤(パリ版)、ルネ・コロのタンホイザーは甘く若々しい騎士ぶりが魅力、ルートヴィヒのエリーザベトも清潔感に溢れています。
ドレスデン版だとハイティンク盤(1985年)、クラウス・ケーニヒのタンホイザーはちょっと間延びしていて辛いかな。ワルトラウト・マイヤーのエリーザベトはお見事ですが。
一番の難役はウォルフラムでしょう。歌いすぎるとタンホイザーがバカに見えるし、歌い足りないと物語の緊張が途切れる。エーベルハルト・ヴェヒター(1967年サヴァリッシュ盤)が私は好きです。
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