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ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 (2010年9月17日〜2010年11月19日の日記より)
It's Only a Paper Moon
「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。」
「ヤナーチェックは一九二六年にその小振りなシンフォニーを作曲した。冒頭のテーマはそもそも、あるスポーツ大会のためのファンファーレとして作られたものだ。青豆は一九二六年のチェコ・スロバキアを想像した。第一次大戦が終結し、長く続いたハプスブルク家の支配からようやく解放され、人々はカフェでピルゼン・ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた。フランツ・カフカは二年前に不遇のうちに世を去っていた。ほどなくヒットラーがいずこからともなく出現し、そのこじんまりした美しい国をあっと言う間にむさぼり喰ってしまうのだが・・・」
「・・・その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組成がじわじわと物理的に絞り上げられているような感じがあるだけだ。」(村上春樹 「1Q84」より)
この後、一向に解消しない渋滞を嫌った青豆は、首都高速三号線の上でタクシーを乗り捨て、緊急避難用スペースの非常階段を使って国道246号線へ下ります。そして、三軒茶屋の駅へ向かう途中ですれ違った警官の制服が、自分が見慣れたものとは少し違っていることに気付きます。青豆は、非常階段を下りる途中のどこかで、別の世界へ移動していたのです。この世界ととても良く似たその世界の空には、二つの月が浮かんでいます。
村上春樹の「1Q84」は、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」から始まります。なぜヤナーチェクなのか?確かにここから先の物語にモーツァルトやベートーヴェンはまるっきり似合わない、チャイコフスキーでは陳腐でヘンデルでは踏み切りが足りない。でもシベリウスはありだと思いますし、ベルリオーズも案外いけそうな気がします。そして、ヤナーチェク・・・。
この「1Q84」の二人の主人公、青豆と天吾、カルト宗教の信者である両親によって世間から隔離されて育った孤独な少女青豆は、成長して孤独な殺し屋となり、NHKの集金人である父親によってドアからドアへと引きずり回されて育った孤独な少年天吾は、成長して孤独な予備校教師となります。二人は、10歳の時に握り締めたお互いの手の感触を、ただ一つの温もりの記憶として心の奥に抱きながら、今一度お互いの心を繋ごうと懸命に求め合うのです。月が二つ輝く1Q84年の世界で。
「シンフォニエッタ」冒頭の「ファンファーレ」は高揚感に溢れて力強く、しかし、奇妙な「ずれ」を感じさせます。この世界には、鋼のような力強さがあって、巨木のような高揚感があって、岩のような力強さもあって、大風のような高揚感もあって、しかし、「シンフォニエッタ」の持つ力強さと高揚感はどこか違っているのです。聴き入るうちに、そんな本来そこにあるべきものからどんどん離れていってしまい、ふと気が付けば全然違うところに着地してしまっている、そこにはファンファーレが去った後の静けさだけがある、その静けさだけがファンファーレが「鳴った」ことを記憶している、そんな、今ここで鳴り響いている音でありながら「その後」を感じさせる音、それがヤナーチェクの音が持つ「ずれ」だと私は感じます。
ヤナーチェクはその生涯で九曲のオペラを残しました。この「女狐」はその第七作、私は「イェヌーファ」よりも「死の家より」よりもこの作品が好きです。「イェヌーファ」は、散文の台詞を斬新な動機で組み合わせて自然な言語感覚をそのままオペラの舞台に載せた、意欲的で、独特で、そして強い存在感を持つ作品です。「死の家より」は作曲家の最後のオペラ、原作はドストエフスキーの「死の家の記録」、暴力と閉塞感が層を成し、行き場のない熱が渦を巻く、こちらも従来のオペラの形をぶっ壊してくれる思い切りの良い作品です。でも、私はこの「女狐」が好きです。この作品にはどこかプニプニした肉球の味わいがある、一度触ると癖になる皮膚的な、生理的な感覚、触らずにはいられない、そんなプニプニの肉球・・・。
オペラという芸術は人間が築き上げてきた人工物の頂点に乗っかった、精緻、複雑、そして少々猥雑な、巨大なPaper Moon、ザ・人工物であると思います。その人工物が自然を描く、例えば、囚われの身である「アイーダ」が許されない恋を嘆くナイル川の畔の太陽と風、「彷徨えるオランダ人」の船の深紅の帆を引き裂こうと荒れ狂う波と稲妻、春まで一緒にいよう、身体を寄せ合うその日暮らしの「ラ・ボエーム」な恋人たちの肩に静かに積もる雪、それらが聴く者の脳で当たり前のように自然として認識される、私たちは音によって自然を「観る」ことができる、それは、巨匠たちのペン先から紡ぎ出される旋律が見事な音の「描き割り」であるからです。
しかし、この肉球プニプニの「女狐」の「描き割り」は少々違います。例えば、森の木々の葉が擦れ合う音、川を流れる水が岸辺の小石を洗う音、冷たい雨が岩を伝い地に吸い込まれる音、生まれたての風が柔らかい草を撫でる音・・・、音楽はそれらを表現する方法を何種類も持っています。優れた作曲家はそれらを自在に使いこなす術を知っています。そして、私たちはそんな旋律を沢山記憶しています。しかし、この「女狐」、森の木漏れ日を表現するぽこぽこいう木管のリズムは聞こえないけれど木漏れ日が見える、川のせせらぎを表現するピアノの弱音は聞こえないけれど光る川面が見える、大地を潤す雨粒を表現する弦のピチカートは聞こえないけれど雨粒が見える、木々の間をすり抜ける風を表現する金管のトリルは聞こえないけれど風の通り道が見える、ヤナーチェクは、描写と連想を拒否した旋律でもって色鮮やかな風景を見せてくれるのです。ヤナーチェクの場合、それを可能にしているのは、「描き割り」としての旋律ではなく、自然を構成する一要素としての音そのものの質感であるように思います。
彼の紡ぎ出す音楽はまるで、「音楽には関心がないんだ」と言いながら「一日中歌っている」風のようです。
ヤナーチェクの旋律を物語の冒頭に使った村上春樹氏の意図は、到底私の知り得るところではありません。でも、その感覚は何だか分かるような気がします。
青豆は、教祖の教えだけが価値があり、我々だけが善、我々以外は全て悪であると信じるカルト教団から、自分の家族を捨てるという代償を払って離脱しました。
天吾は、「えねーちけー」の受信料支払いは国民の神聖なる義務であると頑なに主張し、受信契約を締結しない人々を声高に罵倒する父を、10歳の時に拒絶しました。
二人は、絶対的な善と絶対的な悪に二分された、自分たちを育んだとことん強固でどうしようもなく歪んだ世界から逃れて、相対化された善と悪の間で自分の向かうべき方向を自分で判断することを、自らの意志で選択したのです。青豆と天吾は、10歳の時に握り締めたお互いの手の温もりの記憶だけを頼りに、決してたじろぐことなくその孤独な選択作業に真正面から立ち向かいます。それは辛く厳しい作業ですが、身体の芯にしっかりと刻まれた確かな温もりの記憶が二人を導きます。孤独な殺し屋と孤独な予備校教師の冷え切ってしまって当然な心を絶え間なく温め続ける何かがある世界、そんな世界の物語にはヤナーチェクの音楽が相応しいように思います。
さて、この「利口な女狐の物語」、美しい森の中、狐にカエル、梟にカケス、鶏に穴熊、そして人間、みんな同じ言葉で歌い、同じ言葉で理解し合います。しかし、この作品は決して子供のための「みんな仲良し」的なお伽話ではありません。これは「みんな」が幻想であると知った上でなお、「みんな」と言い続けることを選択した孤独な大人のための作品です。「みんな」なんて絵空事、しかし、絵空事を絵空事と知った上で、それでも、いえ、だからこそ「みんな」を信じ続ける一つ一つの孤独な魂、その切り離された痛みに耐えることを受け入れた大人のための作品なのです。
月はただの張りぼて細工 ボール紙の海の上で輝いている
でも もしもあなたが私を信じたら それは本物になるの
「It's Only a Paper Moon」 (Harold Arlen,Billy Rose & E.Y.Harburg)
夏
黒い木々の隙間から真夏の太陽が差し込む森の中、猟場番が肩に鉄砲を担いで登場、嵐が来るぞ、ちょっとだけ休むか、かあちゃんには密猟者を待ち伏せしてたって言やいいさ、あぁ、疲れた、その昔のかあちゃんとの初夜みたいに疲れた、ちょっと眠るか・・・。
コオロギとキリギリスが手回しオルガンを持って登場、さぁ、弾いて下さいな、そのオルガンを!では古式ゆかしき虫の音をご披露致しましょう。少々酔っぱらった蚊が登場、それを追ってカエルも登場、おっと、俺を喰おうっての?
蚊が逃げ去った後に小さな女狐ビストロウシカが現れてカエルを物珍しげに見つめます。ママ、これ、なぁに?食べられるの?驚いたカエル、大きく飛び跳ねて猟場番の鼻の上にピチャッと着地。冷たい!おっと、ここにいたのか、子狐め!猟場番は腕を伸ばすとビストロウシカを掴み上げます。ママ、ママ!お前を飼ってやろう、ママ、ママ!きっと子どもが喜ぶさ、ママ、ママ!
湖の畔、猟場番の小屋、ビストロウシカが哀しげに泣いています。泣くんじゃないよ、猟場番の飼い犬ラパークがビストロウシカに語りかけます。どうしたっていうのさ、俺の寂しい暮らしを知ってるかい?恋の季節の苦しみばかり、だから俺は人生を芸術に捧げたのさ、恋の季節は2月、3月?俺は一人で歌を作るんだ、だけど年寄りたちがうるさいって怒ってさ、でも、恋が何だか分からないけどやっぱり俺は歌うのさ!
私も恋を知らないの、ビストロウシカが答えます。椋鳥たちが教えてくれた、私の巣穴の上に巣をかけていて、口喧嘩に泣き声、淫らな言葉をぶつけ合って、恥知らずな悪戯をしてたわ、樫の木の天辺で。でも、ある土曜日に渡り鳥と鷹が一緒にやって来て彼らを攫って行ってしまったの。残った椋鳥だってそれよりマシってわけじゃなかった、カッコウと浮気したり、他の巣に潜り込んだり、もう一羽はカササギにハシバミの実を別居手当で払ってた、娘の椋鳥ときたら醜くて、若い鳥といちゃついて。
ラパークがビストロウシカの尻尾を捕まえます。何するの、恥知らずな犬ね!
猟場番の息子ペピークと友達のフランチーク登場、ビストロウシカを抱き上げます。女狐だよ、噛みつく?ちょっと、このガキ、どこ触るのよ、私があのバカ犬と同じだと思ってるの?あっ、棒で突いた、よくもやってくれたわね!ビストロウシカがペピークの足に噛みつきます。ペピークの悲鳴で猟場番の妻が小屋から出てきます。あんた、この狐、追い出してよ、臭いし、世話が焼けるし、猟場番はビストロウシカを縛り上げて中庭に置いていってしまいます。
俺みたいに大人しくしてりゃよかったのにとラパーク、気取った雄鳥、続いて雌鳥たちが登場、猟場番の妻が蒔いた餌を突きます。ほら、ご覧よ、人間はちゃんと分かってる、お前さんは俺たちを追いかけていたけれど、今じゃ行くところもない有り様、それというのもお前さんは卵を産まないからさ、俺が手伝ってやるから卵を産みなよ。そう、私たちは働くのよ、卵を産むの!
雌鶏のお姉さん、そんな古くさい決まり事なんて捨てちゃって、みんなが平等に幸せになれる世界を作らなきゃ、ビストロウシカが言えば、雄鶏なしで?と雌鶏が答えます。だって雄鶏ってなぜ必要なの?一番美味しい餌を自分で勝手に食べちゃうじゃない、おしゃべりな狐め、人間を追っ払って俺たちを喰う気だな!雄鶏が叫びます。
あんたたちみたいな分からず屋になるくらいなら、生き埋めの方がましよ、ビストロウシカは穴を掘ってその中で不貞寝、様子を見ようと近寄ってくる鶏たち、ピストロウシカは雄鳥をひっ捕まえ、雌鳥たちを一羽、また一羽、噛み殺していきます。
鶏たちの大騒ぎに猟場番の妻が出てきます。何、これって何?気絶しそうなその姿にビストロウシカは上機嫌、は、は、は、は!あぁ、畜生、この狐ったら!これも私が亭主の言うことをきいたばっかりに、こうなったらお前の毛皮でマフを作ってやるよ!あぁ、畜生、あんた、あれを撃ち殺して!猟場番が出てきて棒でビストロウシカを叩きます。いくら叩かれたって、私はあんたなんか怖くないよ!お前の頭をぶち割るぞ!私の?あんたのじゃないの?
ビストロウシカは縄をかみ切って森へ走り去ります。
真夏の森、高く昇った太陽が森の木陰の暗さを強調し、木漏れ日が躍っています。見事な風景描写、ヤナーチェクはオーケストラを自在に操ります。異なる速度で走る旋律をいくつも重ね合わせ、しかし、これらが全く自然に流れるので、聴いているこちらは、一見プリミティブな旋律を走らせるために、オーケストラが最高難度の技を繰り出していることに気付きません。共鳴する音たちが実に嬉しそうに躍動します。
この幕、冒頭から性に触れる表現が登場します。女房との初夜みたいに疲れたとぼやく猟場番、彼は手にした猟銃を「俺の古い女友達」と呼んで慈しみます。猟銃が男性の性的衝動のメタファーであるとすれば、彼はクタクタになるまで愛し合った初夜から年月を経て、女房に少しばかり飽きてしまって、自由気儘に他の女を愛したいという欲求を抱え込んでいるように思えます。
森の小動物たちの踊りに続いて登場する小さな女狐ビストロウシカ(「鋭い」という意味の形容詞と「耳」という名詞の短縮語を合成したもの)、カエルは食べられるのかと母親に問う声の愛らしさ、その愛らしさ故に猟場番に捕まってしまうわけで、ここでは人間の方がよっぽど獣じみています。ビストロウシカの「ママ!ママ!ママ!」と猟場番の「Cha,
cha,cha」(これがチェコ語の笑い声らしいです)の掛け合いが素朴でありながらどこか官能的。
場面転換の間奏曲(素晴らしい!)の後、所は猟場番の小屋、ビストロウシカを飼い犬のラパークが口説きます。その口説き文句が余りに痛々しい。飼い犬の身であれば、恋の季節の渾身の「セレナーデ」も人間にしてみればただの騒音、誰の心にも届かぬまま虚しく消えていく、それでも歌う、どうしても歌ってしまう。しかし、ビストロウシカにはそんな飼い犬故のラパークの嘆きが伝わりません。彼女が返すのは巣穴の上の木に住んでいる椋鳥一家の自由勝手なご乱行。淫らな夫婦喧嘩、カッコウとの不倫、カササギとの訳ありの過去、果ては椋鳥娘の男遊び、そんな有り様を冷静に見て、記憶し、しかし、何のことやら理解できないビストロウシカ、彼女は未だ性の衝動を知らないのです。ラパークのお触りはぴしゃりと拒絶されてしまいます。
他者が身体に触ることに我慢できないビストロウシカ、当然、人間のガキが棒きれで突っつくなんてこと到底許せません。彼女はラパークとは違う、未だに誇り高き野生を失ってはいないのです。そんな彼女に対して、野生どころか人間がばらまく餌をついばんで生きることに何の疑問もない鶏たち、餌と卵を取引すれば安楽に生きられる、卵を産めよ、俺が手伝ってやるから、雄鶏の申し出は下心丸見えです。悲しいことに、野生を失ってしまっても性の衝動は消えない、猟場番の小屋の狭い庭の中に閉じ込められたまま、同じ顔ぶれの雌鶏たちを追いかけ回すしかなかった雄鶏、彼はビストロウシカの伸びやかな美しさに惹かれるのですが、彼女の野生が見えません。自分は鶏で彼女は狐、それにも関わらず彼女を征服できると独りよがり、勘違い男ってヤツですが、野生は勘違いを許すほど甘くはないのです。ねぇ、どうして雄鶏が必要なわけ?どうして雄鶏は威張っているわけ?ビストロウシカの疑問、しかし、雄鶏と同じく猟場番の小屋の庭以外の世界を知らない雌鶏たちは、彼女の疑問が理解できません。誰も私を理解してくれない、犬のラパークも鶏たちも「飼われる」ことに馴れきってしまって、縄を噛み切ることを、自分で餌を採ることを、自分を守るために闘うことを忘れている、ビストロウシカは自分の孤独を知り、そして、孤独であることを嬉々として受け入れるのです。
私は飼い慣らされはしない、容赦なく鶏を噛み殺していく女狐、目の前で大事な財産が消えていく、大慌ての猟場番の妻の驚き様はそれこそ動物じみて滑稽です。
あんたなんか怖くない!森へ走り去るビストロウシカ、オーケストラも一緒に軽やかに疾走する幕切れ、夏の匂いがします。
秋
森の中、アナグマの巣穴の前、ビストロウシカがいきなり声を上げます。誰だい、うるさいな、パイプを加えたアナグマ登場。私よ、親切なおじさん!こらっ、人の巣穴を覗くな!へへへ、もっと何か言ってみたら?ビストロウシカが挑発、森の動物たちが野次馬で集まってきます。三人だって住めるような家を持っていてちょっと覗いた人を閉め出すなんて。紳士、紳士!野次馬が囃します。まるで牛みたいに寝ころんでさ、人んちの前でふざけるな!アナグマがビストロウシカを蹴飛ばします。弁護士雇ってお前を訴えてやる!私を蹴飛ばしたわね?恥知らずのやくざ者、森はこんなに大きいのに、おじさんはこう言うわけ、窓の下を通るなって、こっちから訴えてやるわ!ほら、これでもどうぞ!ビストロウシカは尻尾を持ち上げてアナグマの巣穴の前でおしっこ、そして素早く隠れます。あったま来た!アナグマが巣穴を飛び出して、ビストロウシカは空になった巣穴に飛び込みます。
村の宿屋パーセク亭、何故かアナグマにそっくりな牧師がパイプを吹かし、何故か蚊にそっくりな校長先生と猟場番がカード勝負の真っ最中。よぉ、牧師さん、猟場番が話しかけます、今に結婚式がありますぜ、どこかの女が校長先生をモノにしそうだ。何やらラテン語を呟く牧師、番人さん、黙ってと校長先生。私は聞きましたよ、あなたは女狐を家に連れ込んだって、牧師に問いに猟場番が答えます、もうほっといて下さいよ、あいつには酷い目にあった、まったく人間と同じだ、最初は色っぽくて挙げ句の果てにこちらが馬鹿を見る、校長先生も気をつけないと、牧師さん、ラテン語じゃ何言ってるのか分かりませんよ。「自分の肉体を女に与えるべからず」という意味です。それってこの痩せこけた身体のこと?猟場番が校長先生のモーニングを持ち上げます。何て失礼なことを!もう雄鶏が鳴いている、私は帰ります、校長先生が宿屋を出て行きます。宿屋の主のパーセクが牧師に耳打ち、あんたの出た後の家を借りたいって人が来てますぜ、牧師も宿屋を出て行きます。
帰る?帰っちゃうんだ、裏切り者め、酔っ払った猟場番、神様は額に汗して日々のパンを食せと仰るが、飲めって言ってないんだよな、お陰で飲むにはもったい付けることもないってもんだ、パーセクの親爺、もう一杯!いいけど、女狐の話を聞かせろよ、話すことなんてないよ、あんな女狐、ほっとけ!
森の小道、月明かり、垣根の向こうは向日葵の畑。校長先生がふらふらと登場、重心が動いている、地球が回っている、宿屋で夜明かしした方が良かったかな、世界中が眠っているのにこの闇の中、道を探すなんて、ステッキがあって良かった、二本の足と一本のステッキ、安定性抜群、ステッキなしだとこうなっちゃって・・・、そのまま倒れ込む校長先生をビストロウシカが向日葵の陰から見ています。ビストロウシカの動きに連れて向日葵が揺れます。
テリンカ、貴女にここで会えるなんて!貴女は私を愛しているのですか?向日葵が頭を振ります。私はずっとずっと貴女を愛しています、どうかこの愚かな男をお許し下さい、恋に燃えているのです、貴女について行きます、貴女を抱き締めます!向日葵がたわみます。あぁ、彼女が私を誘っている!校長先生は垣根めがけてダイブ、ビストロウシカが飛び出して椎の木の根元に隠れます。
今度は牧師が小道をやって来ます、人はいつも善でなければブツブツ、あぁ、この垣根の下に何度腰掛けたことだろう、私は学生で、彼女はお下げ髪、清らかな目で私を見つめて・・・、ビストロウシカの目が椎の木の下で青く光ります。もう全ては終わってしまった、裏切り、よりによって肉屋の小僧なんかと!みんな私を疑った、駆け出し牧師のこのアロイスのことを、あの清らかな顔、もう過ぎてしまった、私はここにこうして、まるで壁際に置き忘れられたモップみたいだ。
こらっ、見つけたぞ、捕まえてやる!猟場番の声、ビストロウシカが素早く小道を横切って森に消えます。神様!と校長先生、神様!と牧師、ここにいてはいけない、あいつには分からないんだ、人間がどれほど傷つきやすいかなんて、二人は急いでその場を立ち去ります。銃を手にした猟場番登場、あれはウチの女狐だ!
アナグマから奪った巣穴の前、ビストロウシカが横たわり、木々がざわめきます。あぁ、何て美しい人なのかしら!若い雄の狐が登場します、驚かせてしまったかな、お嬢さん、いいえ、全然!ここは鳥が多いのかな?その通り、私、ここを良く知っているの、この近くに住んでいるから。よろしかったらお送りしましょうか?えぇ、よろしかったら・・・、お母様が怒らないかな?私、ずっと一人なの、自立しているんだね?自分の家を持っているの、アナグマのおじさんが遺産にくれたの。家を持っているんだ、猟場番の小屋だって私の家みたいなもの、私、そこで大きくなったの、人間に育てられたの・・・。盗みをして捕まったの、私は人間にあかんべぇだってしてやれる、そしたら猟場番は私を撲ったわ。ある日、猟場番が奥さんに言ったの、「あれを殺してお前に伯爵夫人みたいなコートを作ってやる」って、だから私言ってやったの、「私は自分で自分の身を守る」って。けちんぼ!って言ってやったの、何でも持っているくせに少しの肉くらいで騒いで、どうしてそんなにケチなのって、私、ちょっと失敬しただけよ。殴りたいのねって、そしたら彼、私を殴ったの!暴君!私は逃げたの、森は夜よりも深かった・・・、私は自由になったの。
僕はズラトフシュビーテク、金色の背の狐、深い谷から来ました。私はビストロウシカ、湖の畔の猟場番の番小屋から来ました。森の開墾地には行く?真夜中に一人で、現代的な女性だ、タバコ吸うんでしょ?いいえ、ウサギは好きかな?大好物よ、お嬢さん、ちょっと待ってて!ビストロウシカの手にキスをすると雄狐は走り去ります。
私ってきれい?魅力的?ビストロウシカは毛並みを整えます。そこへ戻ってきた雄狐、何て可愛い、結婚しないでおくものか!さぁ、貴女に朝食を持ってきました、ウサギね、私のために?寒くない?暑いくらいよ、恋したことは?いいえ、あなたは沢山?いいえ、尊敬できる女性にあったことないから、もしもそんな女性に会ったら・・・、会ったら?こう尋ねる、僕を好きかって!雄狐がビストロウシカを抱き締めます。
離して!いけない人ね、あっちへ行って!僕を拒むなら、僕を破滅させて、僕を殺して、僕は生きていたくない!本当に?本当に!僕は君に恋してる!私に?ビストロウシカ、君こそ僕が求めていた女性!どうして私を?僕は嘘は言わないよ、君の身体じゃなくて君の心に恋してる、僕は君のことを小説やオペラに書くよ、こっちへ来て、そばに座って、君は僕が欲しいかい?欲しい!ビストロウシカと雄狐は一緒に巣穴に潜り込みます。
ビストロウシカがあんな淫らな真似を!フクロウが叫びます、誰と?カケスが尋ねます、リスが笑ってハリネズミがあかんべぇ、そこにビストロウシカが巣穴から泣きながら出てきます。どうしたの?あなたには分からないわ、いいから僕に話して、あなた、今、私と何をしたいと思っているの?つまり、その、真っ直ぐ牧師のところへ行った方がいいってことだよね。
古いナナカマドの木、穴からキツツキ登場、さて、一体何をお望みですか?私たちは、今夜、結婚したいのです!全くせっかちなんだから・・・、さて、今宵、雄狐ズラトフシュビーテクは、女狐ビストロウシカを妻として娶ります、二人が結婚したことをここに認めます、これでよろしいか?
森の生き物たちが二人を祝して踊ります。
アナグマを追い出すビストロウシカの「地上げ屋」ぶりが楽しい。ひどいわ、ひどいわ、何て意地悪なの、と被害者ぶっておいて、相手が油断した途端にシラっと加害者に変貌する、古来、女が好む「私ってか弱いのよ」戦法を見事に使いこなす、子狐は立派な女狐に成長したのです。
この幕では3つの恋模様が描かれます。校長先生の恋、一方的に追いかけるだけ、それも物陰に隠れて追いかけるストーカー型。牧師の恋、一方的に引きまくり、過去は置いていくしかないことが分からない怨念型。校長先生は愛する人と距離的に隔たっており、牧師は愛する人と時間的に隔たっており、しかも、それが理解できない。校長先生は、愛するテリンカが何を求めているかに全く無頓着のまま、一方的に自分を捧げて自己陶酔、お気の毒ですが、こういう「愛」を女は「愛」とは受け止めないのです。牧師は、要するにフラれたってだけなのですが、肉屋の小僧に負けたという事実をそのまま受け入れることができず、自虐的な「悲恋」の主人公気取りです。
目の前にいない女に愛を乞い、過ぎ去ってしまった女を詰る、インテリ二人の無様な恋を女狐ビストロウシカがからかいます。女はいつだって男より冷静、男より残酷です。
そんなビストロウシカと美しい「金色の背の君」の恋、求め合う喜び、与え合う喜びが野放図に炸裂します。むせ返るようなエロティシズムは、しかし、決して隠微に落ちず、どこまでも伸びやかで健康的、そして、力強く簡潔、必要にして十分な言葉。ビストロウシカは自分の有り様を全面的に肯定し、受け入れ、そして慈しんでいます。彼女は生きていくために泥棒もしますし、鶏も襲います、そして、それらによって育んできた自分の生命を誇りに思っています。金色の背の君はそんなビストロウシカを理想の女性だと褒め称えます。
勢いで巣穴に飛び込んだものの、ビストロウシカは自分を大事にすることを、金色の背の君は愛する彼女を大事にすることを、ちゃんと知っています。二人はキツツキのところに結婚を届けに行く、相手を尊敬し、そして、自分に責任を持っています。
森の動物たちが歌う鐘の音を模した祝福の歌、見つめ合って、語り合って、思い遣って、そして、相手と分かち合うことを躊躇わないこと、愛ってこんなに単純、愛を難しくしているのは人間だけなのかも知れません。
この幕、ポリリズム(声部によってリズムが異なる、異なるリズムを同時に重ね合わせる手法)が独特の面白さと温かさを醸し出します。すっかり酔っ払ってしまった校長先生と牧師の旋律は、この二人が何となく村人の間で浮いていて、彼らは村人をどこか見下しており、村人は彼らをどこか胡散臭がっている、そんなインテリの悲哀が滲み出て可笑しくも哀しい。ビストロウシカと金色の背の君がお互いを熱く求め合う場面は、「欲しいかい、僕がほしいかい?」「欲しい!欲しい!」、エロスが滴るような言葉の応酬、しかし、声に寄り添う弦が異なるリズムを刻むことで、どこかカラリと乾いた印象です。
ヤナーチェクが生み出す音は、まるで風のように自由、木漏れ日のように気紛れ、しかし、風や日の光が、一見出鱈目に見えようが実は自然の掟に忠実であるように、作曲家のペンは、吹き渡る風を、大地を暖める日の光を心地良いと感じさせる「何か」に忠実です。その「何か」がこの作品を特別なものにしていると思います。それは言葉にし難い「何か」、頑張って言葉にするとすれば、そう、生命がこの地上にあることへの驚き、畏怖、そして感謝でしょうか。
再びの秋
秋、良く晴れた空の下、行商人のハラシタがご機嫌で歌います。僕の一番可愛い人が窓から覗いてた、こっちへおいでよ、僕と一緒に、買って上げるよ、緑のスカート、きっと君に良く似合う、僕と一緒に旅しよう!彼の行く手に横たわるウサギ、そして、向こうから猟場番が登場します。
よう、ハラシタ、元気かい?どうにかこうにかね、俺が聞きたいのは女なしで大丈夫かってことさ、女なしでちゃんとやってますよ、でも、打ち明けますがね、今度結婚するんです、素晴らしい女性と出会ったんです、テリンカと。テリンカ?テリンカ!お前、俺のところで密漁なんかしてないだろうな?とんでもない、籠の中の鳥は全部よそで手に入れたものですよ、ほら、そこでウサギが横たわっている、僕はね、一瞬持って行こうかと思ったんだけど、声が聞こえた、ハラシタ、それやっちゃうと面倒に巻き込まれるぞって。お前は正しい、持って行くんじゃないよ、そのウサギ死んでいるのか?死んでます。
猟場番はウサギの死体の回りに狐の足跡を見つけます。ビストロウシカ!こうしちゃいられない、罠を仕掛けてやる。
子狐たちが登場します。急いだ狐が運んでいるよ、袋一杯生姜を詰めて、小さなウサギが追いかける、袋に穴を開ける気さ!続いてビストロウシカと金色の背の君が登場、変だわ、変だ、人間がここにいたのにウサギがそのまま?変だな、変だぞ!一度手にとってまた元に戻しているわ、用心しろ、分かったぞ!あの爺さん、私たちをどうするつもり?私が穴熊だとでも?それじゃまるで馬鹿のヤンと同じだわ、馬鹿のヤンみたい!
金色の背の君がビストロウシカに囁きます、僕たち、もうどれだけの子供を持った?これからどれだけ子供を持つ?しっ、静かに、森の連中は噂好きなのよ、朝までにみんなが知ってしまうわ。君は本当にきれいだ、5月になったら、5月まで待ちましょう、待つとも、5月まで、5月になるまで!
緑の村にやって来て・・・、誰?誰が歌っているの?子供たち、あっちへ、隠れるんだ!籠一杯に鳥を詰め込んでハラシタ登場、僕は家まで持っていく、可愛い人が病気で寝ていて・・・、狐だ、ハラシタ、銃をとれ!こりゃ、テリンカのマフにもってこいの狐だ、ハラシタが銃を構えます。
やってごらんよ、ビストロウシカがゆっくりと子狐たちと反対の方向に歩きます。ぶちのめすの?殺すの?私が狐だから?ビストロウシカを追って駆けだしたハラシタが転びます。お前の籠を始末してやりましょうか?いたたた、テリンカに何と言おう。
ぶちのめすの?殺すの?私が狐だから?ハラシタの籠の中身は全て子狐たちの胃袋へ、ぱっと羽根が舞い上がります。ぶちのめすの?殺すの?私が狐だから?ハラシタが銃をぶっ放します。金色の背の君と子狐たちが羽根の舞い上がる中を走り去り、後にはビストロウシカが横たわるだけ。
パーセクの宿屋、 猟場番がパーセクの女房と校長先生を相手に愚痴ります。狐の足跡を見つけたのさ、なのに巣穴は空っぽ、うちの婆さんにマフを作ってやりたかったのに、だけど先生、あんたはヒマワリ畑のデートの方が好きかい?もうどうでもいい、テリンカは今日結婚するんだ。そういえば彼女、新しいマフを持っていたわ、思わず涙ぐむ校長先生。
泣きなさんなよ、あんたは正しかった、あんな女と一緒になってどうするってんです?見事な平行線だ、ラテン語じゃ女は口説けない、そういえば、牧師さんは新しい村でどうしているかな?とても寂しいって手紙が来てたわ。
さて、行くか、どこへ?どこへって森を通って俺の家へ、ラパークを置いてきたんでね、あれもすっかり年とって、馬鹿やってた頃が懐かしいね、今じゃ座ったきり動かない。
森の中、猟場番が歩きます。若い二人は一緒に歩いた、女は樅の木みたいで男は松の木みたいで、二人で何度キスしたか、二人でどれほどキスを集めたか、あれは結婚式の翌日で・・・。あぁ、疲れた、少し休もう、一日が終わる時、木々の間から夕陽が差し込む時、森は何て美しいんだろう!また5月がやってくる、恋を連れてやってくる、甘い露がたくさんの花に宿って、桜草にアネモネ、女たちが帽子に飾る、お楽しみがやってくる・・・、猟場番は微睡み始めます。
・・・ビストロウシカじゃないか!お前はおっ母さんそっくりだな、捕まえてやるぞ。冷たい!カエル・・・?お前、今までどこにいたんだ?
あれはオイラじゃないよ、あんたの鼻に飛び降りたのはオイラのお祖父さんだよ!
ルドルフ・ティエスノフリーデクの原作は、前幕の終わり、ビストロウシカと金色の背の君の結婚式で終わっています。こうして二人はいつまでも仲良く暮らしましたとさ、めでたし、めでたし・・・。しかし、作曲家は、台本を書くに当たってこの第三幕を書き加えました。この幕には、作曲家がこの作品で語りたかったことがみっちりと詰め込まれています。
テリンカとの結婚を控えて舞い上がっているハラシタと、古女房殿との生活がこなれ過ぎてしまって少々飽いている猟場番のやりとり、ハラシタの歌う陽気な民謡に続く、テリンカ!テリンカ?のボケとツッコミ、猟場番は校長先生の恋の終わりを知ると同時に、自分が年を取ったことを感じ取っています。
子狐たちを連れて登場するビストロウシカと金色の背の君、両親の変だぞ!にこちらも変だぞ!と答える子狐たち、親の真似を繰り返すうちに「もう分かったぞ、何なのか!」と得意げに歌うチビ狐ども、ビストロウシカの子供たちは母親譲りで実に賢い。さらに落とし穴!アナグマ!馬鹿なヤン!と両親と子供たちが繰り返す、作曲家はビストロウシカも金色の背の君も、そして子狐たちも全てソプラノを指定しております。ここは様々な個性の歌手を揃えて楽しみたい場面です。
そして、ビストロウシカと金色の背の君の甘い囁き、もっと子供作ろうよ、そうね、5月になったらね、しかし、ビストロウシカにその5月は巡ってこないのです。テリンカのマフ見つけた!銃を手にするハラシタ、やってごらんよ、ぶちのめすの?それとも殺すの?私が狐だから?ハラシタを挑発するビストロウシカ。ハラシタの鳥籠からパッと羽根が舞い上がります。彼の大事な鳥たちをビストロウシカの子供たちがきれいに平らげてしまったのです。どうするの?ぶちのめすの?殺すの?ハラシタの答えは一発の銃弾。
第一幕で空威張りの雄鶏と何も考えない雌鶏を罵倒した場面と同様、この幕でもビストロウシカは「解放」と「自由」を叫びます。しかし、自分を繋いでいる縄を食いちぎり、雌鶏たちを片っ端から噛み殺し、意気揚々と猟場番の家を飛び出していった若き女狐は、妻となり母となった今、夫と子供たちを逃がして自分は一人で死んでいくのです。
パーセクの宿屋の場面、愛しのテリンカの結婚式当日、校長先生を相変わらず辛辣にからかう猟場番ですが、肝心の校長先生が一人感傷に浸っており、彼の言葉は空回りです。森を通って家に帰ろう、少々老いを感じるようになった猟場番は、自分と同じように年を重ねた女房と犬のラパークが待っている家へ帰っていくのです。恋に破れた校長先生は自分をいじってくれる相手をポツンと見送り、村を出て行った牧師は手紙で寂しいと愚痴を書く、時は流れ、帰るところがある者とそうでない者、待っている人がいる者とそうでない者がいて、ラテン語だの何だのは老いていくことの恐れと孤独を癒すのに何の役にも立たない、何だかシミジミと切ない場面です。
森の中、猟場番は若かりし日を思い出します。女房とキスしたんだ、それこそ数え切れないくらいキスしたんだ、若い頃を思い出したところで、その身体はもう若くはありません。息を切らして腰掛けた猟場番は、一日が終わろうとする時、夕陽が木々の間から見える時、森は何て美しいんだ・・・と独りごちます。人生の終わりが見えてきた今、猟場番は自分のたどってきた生とこれから迎える死を祝福します。なぜなら5月は再びやってくるから、彼が死んでしまった後も5月は必ずやってくるから、森は老いた命を死に手渡し、新しい命を迎え入れる場所なのです。
第一幕で猟場番の鼻に華麗にジャンプしたカエルの孫が、いくつかの季節が巡った今、同じように猟場番の鼻にぴちゃっとジャンプ、ユーモラスで洒脱で、そして、キリキリと胸に痛い幕切れです。
テリンカのマフはビストロウシカの変わり果てた姿なのかも知れません。しかし、この世に生を受けて「変わり果てない」で済む命など存在しないのです。一つの命が変わり果て、そこに新たな命が生まれる、森は変わらず黒々と茂り、川は変わらず淡々と流れ、しかし、何一つとして同じものはない、生と死は仲の良い双子のように、繰り返し繰り返し、世界を破壊し、世界を創造しているのです。
作曲家がこの作品に丁寧に織り込んだポリリズムの意味がズシリと伝わってくる第三幕、絡み合い、すれ違い、向かい合い、反目するリズム、それは自然が刻む生命のリズムです。蚊が、カエルが、狐が、人間が、それぞれに一つずつ与えられた命を、それぞれの早さで心臓の鼓動を刻んで、それぞれの力量と知恵でもって、それぞれの幸せを求めて生きている、その幸せは厳しく対立することだってありますが、自然はそれを良しとするのです。全ては循環しており、全ては形を変えて再び巡り会う、このビストロウシカの森で。
人工物の極み、作り物の頂点とも言うべきオペラに循環する生命のありのままを盛り込んでみせた、ヤナーチェクは、ヴェルディやワーグナーとはまた別の意味で、恐るべき作曲家だと私は思います。
ヤナーチェクは、この「女狐」の第三幕、眠りに落ちる猟場番の長いモノローグを自分の葬儀で演奏してほしいと遺言し、その希望は叶えられました。
「暗くなってきている。人は認めざるを得ないのだ、十字路の道しるべを」 (レオシュ・ヤナーチェク)
私の手元にある一枚は、1979年、チェコフィルハーモニーの録音です。指揮はヴァーツラフ・ノイマン、ビストロウシカをマグダレーナ・ハヨーショヴァー、猟場番をリハルト・ノヴァーク、金色の背の君をガブリエラ・ベニャチコヴァー、馴染みのないキャスティングですが、隅々まで丁寧な仕事ぶり、特にビストロウシカと金色の背の君、軽めのリリコ・スピントと重ためのドラマティコ、二人のソプラノのコントラストが鮮やか、ノイマンの棒は精緻でありながら荒々しく、生と死を繰り返す森の息吹を伝えてくれます。
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