プッチーニ 「トスカ」&ジョルダーノ 「アンドレア・シェニエ」 (2000年3月21日〜2000年4月9日の日記より)
愛と悲しみの一卵性双生児〜「トスカ」と「アンドレア・シェニエ」
オペラの世界で双子というと、「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」が挙げられます。この二つは、片やシチリアの野生の若者、片や初老の道化師と主人公が違っていますし、ストーリーも違います。似ているのはその雰囲気(というか、カサカサに乾いて埃っぽい、物語を取り巻く熱を帯びた「空気」がそっくりなのです)だけなのですが、その当時の庶民の生活描写が非常にリアルであり、どちらも最後はナイフが煌めいて殺人で幕の下りる一幕物なので、セット上演の機会が多いことから「双子」とされたのでしょう。でも、オペラには正真正銘の美しい双子がいます。プッチーニの「トスカ」とジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」です。
この二つは物語が非常によく似ています。台本作家が同じなのです。1800年のローマを舞台にした「トスカ」では歌姫トスカと画家カヴァラドッシのアツアツのご両人、トスカに横恋慕する警視総監スカルピアが悪役として登場し、恋人達の死で幕を閉じます。フランス革命(1789年)を舞台とした「アンドレア・シェニエ」の構成も全く同じ、貴族の令嬢マッダレーナと詩人シェニエ、マッダレーナに横恋慕するのは元従僕で革命政府のお偉方ジェラール、最後は断頭台の露と消える恋人達、という展開です。心から愛し合っている恋人達が激しい政治の嵐に巻き込まれ、男が時の権力によって死を宣告されます、それを何としても救おうとするヒロインに対して、彼女に横恋慕する権力者が無理難題を押し付けて彼女を我が物にしようとします。しかしその欲望は叶わず、最後には恋人達は一緒に死を迎えます。ここまで構成が同じなのに、この二つは「双子」とは呼ばれません。セット上演するには両方とも長すぎますし(やっても良いと思いますが、徹夜になります)、何よりも雰囲気がはっきりと違うんですね。
この違いは登場人物の性格によるものです。
トスカ 人気プリマドンナだが元々は孤児。嫉妬深く誇り高いが、反面寂しがり屋。 カヴァラドッシ 貴族の画家、正義漢だが優柔不断、友情のために我が身を犠牲にするヒロイックな面も持っている。 スカルピア はっきり言って変態。トスカをネチネチ苛めてはそれを眺めて欲望を募らせるというサディスト。
マッダレーナ 世間知らずのご令嬢、シェニエへの愛に目覚め、革命に翻弄されて急速に成長していく。 シェニエ 一見内気だが情熱を秘めた詩人、あくまでも自分の信念を貫く理想家。 ジェラール お嬢様を愛してしまった従僕、権力の座についても屈折した思いは変わらず、恋敵のシェニエを尊敬もしているというややこしい男。
カヴァラドッシとシェニエはどちらも芸術家、そして理想を求める青春の薫り漂う青年です。しかし性格的には、受動的なカヴァラドッシと能動的なシェニエに分かれます。因みに詩人シェニエは実在の人物です。革命後の1792年にロンドンから帰国しましたが、ジャコバン派の圧政に反対したために断頭台に送られました。スカルピアとジェラールはどちらもその権力を笠に着て何とか思いを遂げようとする憎まれ役ですが、変態スカルピアに対してジェラールは自分のやっていることを卑怯であると認識していますし、最後には自分の欲望よりもマッダレーナのためのシェニエ救済を選びます。そして一番違いを際立たせるのはトスカとマッダレーナです。トスカは「歌姫」ですが、マッダレーナは「歌」のつかない本物の「姫」。苦労して育ち、自分の努力と才能で這い上がってきたトスカは激しやすく傲慢な面もありますが、根は幼女のような純粋さを持った甘えん坊です。それに対して銀のスプーンを口に生まれたマッダレーナは、そのスプーンを奪いとられた時、初めて本当に男を愛する女に成長します。同じ設定で同じストーリーを追いながらも、この人物たちの性格の違いによって、この双子は全く違う魅力を持った作品になっています。
私は時々、この台本が入れ替わっていたらどうなっただろうと想像します。「プッチーニの『アンドレア・シェニエ』」と「ジョルダーノの『トスカ』」を想像するのです。どうも、どちらも傑作にはならなかったような気がしますね。それぞれの得意とする音の色彩と登場人物たちの性格がぴったりと合っているからこそ、この二つのオペラは成功したのだと思えるのです。むせ返るほど官能的、音のポルノグラフィティーと言いたいくらいエロティック、18歳未満は聴いちゃダメ、もっとも聴いても分かるまいが・・・という「トスカ」に対して、情熱的であってもどこか清らか、プラトニック・ラブだって(プラトニックだからこそ?)死をも乗り越える・・・という「アンドレア・シェニエ」。官能と情熱は決して同じ意味ではないのだと改めて感じさせられます。台本を書いたルイージ・イッリカは、悪く言えば「一つのアイデアで二回稼いだ」ということになります(うまいことやったもんだ)が、同じ構成を用いて登場人物の性格を変えただけの台本が、それぞれにぴったりの作曲家の手元に渡ったというのは、オペラ・ファンにとっては幸運なことでした。
この「双子」の傑作を聴き比べてみましょう。
恋も政治も熱かった季節
この二つのオペラのポイントは、愛し合う二人を翻弄する激しい政治です。今の私たちがほとんど政治とは関わり合いを持たなくても生きていける(これって幸せなんでしょうか?)のと違って、この時代の恋人達は政治と無関係に自分たちだけの世界で愛を囁くことなどできませんでした。
「トスカ」の舞台は1800年6月のローマです。今では普通にイタリアと言っていますが、このイタリアという国ができたのは19世紀半ばのこと、それまであの長靴の形をした半島には、ミラノ公国があってもヴェネツィア共和国があっても、そしてローマ法王領があっても、イタリアなんてありませんでした。1797年、フランスのナポレオンは小国に分裂していたイタリアに侵攻、イタリアをいくつかの共和国に再編成しました。ローマ法王ピウス6世はフランスに連行され、ローマ共和国が生まれました。このインスタント共和国、イタリアの政治改革よりもバチカンの美術品をフランスに持ち帰ることに忙しく、市民の人気はなかったようで、1799年ナポレオン軍は(持てるだけの美術品を持って)撤退、ローマにはナポリ軍が駐留します。新法王ピウス7世は1800年7月に念願の法王領を取り返しますが、このナポレオン軍撤退から新法王選出までの10ヶ月間、ローマを支配していたのはナポリ王妃マリア・カロリーナ、彼女はマリー・アントワネットの姉、当然フランス憎しで凝り固まっていましたから、ローマの共和国派に対する弾圧は熾烈なものでした。この弾圧を指揮したのが警視総監スカルピアというわけです。6月14日、ナポレオンは北イタリアのマレンゴでオーストリア軍(マリー・アントワネットそしてマリア・カロリーナの実家です)と対戦、この軍事の天才はオーストリア軍を文字通りコテンパンにのしましたが、この時代の通信網といえば、電話もファクシミリもないわけで、馬に乗った人間です。この伝言ゲーム、どこかで間違ってしまったようで、17日にローマに届いた知らせは「ナポレオン大敗」でした。真相が伝わったのはそれから12時間後のことです。この辺りの動きが「トスカ」のドラマときっちり一致していますね。
1789年のフランス革命は、ご存じの通りバスティーユ襲撃から始まります。この陰惨な牢獄は王政の悪の象徴…と思われていたようですが、実は、というと、この夏7月14日、この牢獄にはほんの数人の囚人しかいませんでした。それも政治犯はゼロ、全員刑事犯。バスティーユはこの数年ずっと空っぽ状態、維持費がかかりすぎるので廃止しようという声まで出ていたのです。この数人の囚人の中にあのマルキ・ド・サドがいたというのは、これはもう運命の悪戯としか言いようがありませんね。何やら表が騒がしいと思った彼が窓から見てみると、汚い格好の連中が何だかよく分かりませんが、囚人釈放を求めています。彼がここに入れられていたのは政治とは全く関係がなく、単なる破廉恥罪(何しろサドですから)だったのですが、彼には政治的信念はなくても文才があります。情熱的な言葉を次々と繰り出しては表の群衆をあおり立てました。この見事なアジテーションが功を奏したその結果は、ご存じの通りです。だいたい革命というのは、始めるよりも止める方がずっと難しいものです。フランス革命も動き出したら止まらなくなりました。王政を倒した後延々と続く内乱、過激派のジャコバンと穏健派のジロンドが主導権を争い、ジャコバンのリーダー、ロベスピエールの恐怖政治がフランスを覆いました。猜疑心の強かったロベスピエールは少しでも疑わしい人間は片っ端から断頭台に送りました。20世紀のポルポトと同様、止まれない革命家というのはたいてい粛正に熱中するものです。この中の一人が詩人アンドレア・シェニエ。シェニエの詩を何点か読んだことがありますが、華麗というよりも素朴な作風、特に美しい自然を詠むことが得意だったようで、穏やかで優しい青年詩人が想像されます。こんな時代に生まれなければ、郊外のこじんまりした別荘で燃え上がる若葉や切ない枯れ葉を詩に綴り、愛する人と幸せな一生を送っていただろうと思われます。
激しい政治の季節のまっただ中で、それに負けずに愛だって熱く燃えました。政治の大きな変動期には「どちらでもない」という選択肢は許されません。「ボクって芸術家だから政治なんてダサいもの嫌いなんだよねぇ〜」ということはできないのです。カヴァラドッシもシェニエも、美しいものを愛する芸術家として、当然に弾圧や圧政には反発しました。その反発は本当に命懸けだったのです。そんな二人を愛した女、トスカとマッダレーナも愛することに命を懸けました。本当に「熱い季節」だったんですね。
「トスカ」も「アンドレア・シェニエ」も、この熱を見事に伝えてくれる素晴らしいオペラだと思います。この熱っぽさを煽るためには、当然大変優れたワル役が必要です。自由を求める信念も、そして愛も、立ちはだかる障壁が高ければ高いほど熱くなるものですから。スカルピアとジェラール、この二人が大切な影の主役です。方や頭の中は変態性欲でいっぱい(スカルピアって全然「政治」を感じさせないんですよね〜)、そのためには権力(ナポリ王妃からの借り物ですが)だってカヴァラドッシの悲鳴だって、何だって使うという警視総監、方や革命政府のお偉方に収まりながらも、なんか俺って汚いことしてるよなぁ、だいたい革命だってなんか変なことになってきたし、今の俺はただの首切り役だしなぁ。シェニエは良いヤツだって分かっていて、お嬢さんだって彼のこと愛してるって分かっていて、それでもシェニエを殺そうとするのは、これって最低かも…と悩むジェラール。この二人のワル役の違いがそれぞれのオペラに全く違った色彩を与えていると思います。さて、聴きましょうか。
なぜ?どうして?不条理のオペラ
「トスカ」を貫くテーマは「不条理」です。カヴァラドッシ、トスカ、そしてスカルピア、彼らは全員自分でもどうにもならない不条理な力に支配されているのです。
教会で大作を制作中のカヴァラドッシ画伯のところへ崩壊したローマ共和国執政官アンジェロッティが現れます。共和国派のカヴァラドッシ(とはいえ、逮捕もされずローマの真ん中で絵を描いているところをみると、大したことしてなかったようですが)は、彼を別荘に匿うことに決めます。舞台の外から「マリオ!」とトスカの声、この登場の仕方がいかにもトスカらしい。上流階級の女性は大声で男を呼んだりしなかった時代です。遠慮なしに愛人の名前を呼ぶトスカの率直で気取りのない性格が窺われます。焼き餅焼きでその上正直なトスカ、カヴァラドッシは大慌てでアンジェロッティを隠します。「今夜は別荘で過ごしましょうよ」、この辺の二人の会話は色っぽいオトナの関係を感じさせます。作品の女性はアッタヴァンティ夫人がモデルと知ったトスカはカヴァラドッシを責めますが、彼はもうこの手の焼き餅に慣れっこなんでしょう。手慣れた様子で丸め込みます。「目は黒くしてね」、教会の中で喧嘩半分ジャレ合い半分のお二人さん、艶っぽい場面です。警視総監スカルピア登場、変態ではありますが優秀な警官です。辺りの状況から事実を正確に推理し、扇を小道具にトスカの嫉妬を煽ります。「マリオは別荘であの夫人と!引っ掻いてやる!」、トスカはそれと知らずに密偵を別荘まで案内する羽目になります。「トスカは鷹だ」、今夜トスカをものにする期待に舌なめずりするスカルピア・・・。
ファルネーゼ宮殿のスカルピアの元にカヴァラドッシが連行されてきます。アンジェロッティを発見できなかったものの、トスカの愛人とくればいたぶる相手としては申し分なし。強情を張ってくれる方がうれしいというもの。重苦しい尋問にトスカの歌うカンタータが被ります。さすがに鬱陶しいとスカルピアが窓を閉めます。神を讃える声を遮断したスカルピア、彼にはこれからやることを止める気はないのです。トスカ登場、友情を守るカヴァラドッシと愛を貫くトスカ、そして欲情の虜スカルピアの息詰まるドラマが展開します。「アンジェロッティはどこだ?」「知らないわ!」、そして拷問を受けるカヴァラドッシの悲鳴・・・。絡まり合う声は官能そのものです。耳にはカヴァラドッシの苦しむ声、目には身を捩って苦悩する美しいトスカ、これはもうサディストの夢ですね。トスカはとうとう白状してしまいます。それを知ったカヴァラドッシの激怒。古来、男は理想を分かち合う男のためには死ねるものです、そして女は愛する男のためには死ねるものです。永遠に交わらない平行線・・・それがはっきりと描き出されます。「ナポレオンが勝った」との知らせに、止せばいいのに躍り上がるカヴァラドッシ、アッという間に死刑決定。裁判もなし、決定から執行まで数時間というスピード審理。
対してスカルピアは、自分の権力基盤が崩れたというのにまだトスカに執着しています。頭が欲情に乗っ取られて制御不能なのでしょう。「おいくら?」トスカが高飛車に尋ねます。「ほしいのは貴女だ」、「歌に生き、恋に生き」可哀想な人は助けて信仰厚く生きてきたのに、神様、この仕打ちはなぜですか?トスカのいう通りです。何も悪いことはしていない、一生懸命歌って、一生懸命愛した、それがどうして?自分を襲った突然の悲劇を彼女は理解できません。誰だって理解できないでしょう。このアリアのトスカの嘆きの対象はスカルピアではありません、常に沈黙を守り続ける神、良い行いと信仰を求めておいて、それを捧げた人間を守ることをしない神なのです。「ペルケ(なぜ)?」、救いの手を差し伸べない神に対して放たれたこの問い、問うということ自体、それは疑いの表れです。トスカはこの時、無意識のうちに神を疑っているのです。今までずっと信じてきた神を疑った時、トスカの前に広がるのは摂理の通じない不条理の世界です。トスカの不安と絶望、絶望くらい人の心を弱くするものはありません。トスカは折れます。銃殺を演出するというスカルピアの言葉をそのまま信じてしまう幼い彼女。「パルミエーリの時のように」と指示をするスカルピア、この男、この方法で前からお金だの女だのをものにしていたのでしょうか?
そして、トスカの手にはナイフが。「これがトスカのキスよ!」、権力者スカルピアは「女に殺されたのよ!」というわけです。ここ、なぜか、ざまーみろって思えないんですよね。サディストになってしまったのは幼児期のトラウマか何かで彼自身のせいではないわけで、スカルピアの不幸は、たまたま権力を持ってしまったことにあります。普通の変態のおっさんだったら、まさかこんなことにはならなかったでしょう。権力を持ってしまい、それを自分の欲望の道具として使いこなす頭脳を持ってしまったこと、これがスカルピアの不条理です。
サンタンジェロ城では死刑目前のカヴァラドッシが「星は輝き」彼女は美しかった、なのに何でこんなことに?死にたくない!「命とはこれほど愛おしいものか・・・」と泣かせてくれます。この美しいアリアはここまでにも何度かオーケストラによって奏でられています。きれいなメロディ・・・と感じていた聴く側にとっては、ここで「お待たせしました」と登場する待ちに待ったアリアです。彼にしてみれば脱獄犯を匿っただけ、たまたま警視総監が自分の愛人に欲情しちゃったというだけで死刑なのですから、これは不条理の極みです。訳の分からないうちに死んでしまう自分(逮捕から拷問そして今まで、まだ数時間しか経っていません)、この状況を冷静に捉えることはまず無理です。最後にカヴァラドッシの頭に浮かんだのは、アンジェロッティと共に追い求めた政治的理想でも、自由への憧れでも、芸術家としての野心でもなく、トスカと過ごした別荘の光景です。最後になって人間はそんな何でもない平凡な出来事を懐かしむものなのかも知れません。この短いアリアの中には、友情と愛に共に誠実であろうとした挙げ句に、全く理解のできない死を突きつけられた男の「カフカ的(朝起きたら虫になっていた)絶望」が詰まっていると思います。
通行証を手にトスカが駆けつけます。「自由よ!」でもその前に一芝居打ってね。銃声・・・そして静寂。カヴァラドッシに駆け寄ったトスカは最後の最後でスカルピアに裏切られたことを知ります。「マリオ、死んだの?」、詰め寄る兵士の前で城壁から身を投げるトスカ、「スカルピア、神の御前で」。このセリフ、謎めいていますね。彼を殺してしまったトスカ、最後の最後で彼女を騙しカヴァラドッシを奪ったスカルピア、神様の前で白黒つけようということなのか、天国のカヴァラドッシに会えないトスカは、一足先に地獄で自分を待っているスカルピアというおぞましい運命を受け入れたのか・・・。
友情に命を懸けた芸術家、愛に命を懸けた歌姫、そして欲望に命を懸けた権力者、それぞれを待っていたものは、等しく不条理な死です。この凝縮された一夜のドラマ、重たくなって当然なのですが、そこはプッチーニ、ドキドキするような緊張感を一瞬の隙もなく持続させながらも、甘い官能のソースをたっぷりとあしらって、聴く人間を引きずり込みます。腹ペコの蟻がシロップの瓶の中に落っこちて幸せに溺れていく、そんな快感を与えてくれる傑作です。
一緒なら笑って死ねる・・・情熱のオペラ
「アンドレア・シェニエ」を貫くテーマ、それは情熱です。革命の理念を信じても暴力を否定するシェニエ、愛する人と一緒に嬉々として死んでいくマッダレーナ、よりよい社会を求めながら、自己矛盾に苦しみ、最後には決然と立つジェラール、3人とも革命の季節を全力で駆け抜けます。
コワニー伯爵邸の夜会の準備をしている従僕ジェラールは、惨めな父親の姿を嘆き、貴族への反発を歌います(「こいつはみんな知っている」)。努力した者が報われる社会を望む革命への情熱というよりも、この段階では単なる反発でしかありませんが、この男がただの従僕じゃなくて苦悩する魂を持っていることが冒頭からはっきりと伝えられます。ジェラールはこのオペラの核をなす男ですから、この最初のアリアはじっくりと聴きたいところですね。賑やかに夜会が始まり、伯爵夫人と令嬢マッダレーナの注目の的は若き詩人アンドレア・シェニエ。詩を求められた彼は、自動販売機じゃあるまいし、コインを入れたって詩は出てこないとマッダレーナを諭します。そして即興詩「ある日青空を眺めて」、悲惨な社会の現実を見て見ぬ振りをしている貴族を詰り、それでもなお人生の美しさを歌うシェニエの姿にマッダレーナはすっかり虜になってしまいます。そして、もう一人虜になった人間が…。反抗的な従僕ジェラールです。彼は自分の反抗と怒りを革命の理想に昇華させる動機をこのシェニエの詩から得ます。ジェラールを革命家に変身させたのは他ならぬシェニエその人なのです。これから後の出来事を考えると皮肉というか、いや、シェニエの言葉の力強さを讃えるべきか。ジェラールは昂然と頭を上げて貧民の群れと共に出ていきます。何事もなかったように続く夜会…目の前の危機に目を閉ざすようになった体制というのは先が長くないものです…。
革命から5年後、零落したマッダレーナは、侍女ベルシに匿われて懸命にシェニエを探しています。そしてシェニエも、ジャコバン派から革命への忠誠を疑われ追われる身で、マッダレーナを探しています(「不思議な力を信じている」)。ベルシはシェニエにお嬢様がやってくることを告げます。マッダレーナはシェニエのあの即興詩「あなたは愛を知らない」を口に登場、あの詩だけがずっと彼女を支えてきたのでしょう。シェニエは「死ぬまであなたを守る」と誓いますが、ジェラールが現れ、シェニエはマッダレーナを庇い剣を抜きます。傷ついたジェラールは意外にも「彼女を守れ」とシェニエを逃がします。手の届かなかったお嬢様をいつでも逮捕できる力を得ながらも、彼はお嬢様を大切にする気持ちをまだ持っているのです。これはロベスピエールに知れたらえらいことになるような反革命的感情です。でもジェラールは革命の徒である前に一人の恋する男なのです。愛している女だから傷つけたくない(でもどうしても欲しい)、シェニエは素晴らしい詩で俺に勇気をくれた(でも恋敵だ)、このややこしい心情、ジェラールは自分でもどうしていいのか分からないことでしょう。
そのジェラールの苦悩が露わになるのが第三幕、シェニエ逮捕の知らせを聞いた彼の「祖国の敵」。俺は自由になったのか?主人を代えただけのただの従僕じゃないか。殺しては怯え、嘆く、俺の信じていた未来はどこへ行った?全ての人間が愛し合う世界を求めていたのに今の俺は憎悪で一杯だ、そしてその原因は愛…。自分を客観視し、自己批判ができるというのは最高の知性の証拠です。この男がただの従僕でもただの権力の亡者でも、ましてただの恋狂いの横恋慕男でもないことが痛々しく歌われます。このアリア、私大好きです。ジェラールにそっと「大丈夫、あなたは良い人よ」って言って上げたくなります。シェニエの命乞いに現れたマッダレーナにジェラールは自分のものになれと迫ります。彼の命のためなら何でもする…「亡くなった母に」、母は殺されて私は一人、ベルシは我が身を売って私を助けてくれました。そんな絶望の中で声が響いたのです、生きよ、希望を持てと。この世は血塗れか?それを受け入れるのか?私がここにいる、私は愛…。マッダレーナの愛にジェラールは打ちのめされます。これが愛なら俺のは何だ?「私が彼を守る!」この一言はジャコバン独裁の中では命懸けです。ジェラールはここで初めて愛と勇気を兼ね備えた「本当の革命家」になったのかも知れません。裁判が始まり、シェニエは堂々と愛国心を訴えます(「私は兵士だった」)。ジェラールも必死に彼を弁護します。しかし、判決は死刑…。
牢獄のシェニエの最後のアリア「五月の晴れた日のように」。死の運命を静かに受け入れ、詩の女神を讃えるシェニエ、心の中に溌剌と舞っている貴女に最後の詩を捧げます…この詩の女神とは同時にマッダレーナでしょう。第一幕の「ある日青空を眺めて」で彼女によって詩を与えられたシェニエですから、ここでマッダレーナに最後の詩を捧げることで彼の詩人としての命は完結するわけですし、「五月の晴れた日」と「ある日の青空」は情景として美しく一致しています。「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌、歌詞が血生臭いと最近も話題になっていましたね)に続いてマッダレーナが現れます。看守を買収し他の女囚と入れ替わります。マッダレーナはシェニエと一緒に死ぬことを選んだのです。何とか助命をとロベスピエールに会いに行くジェラール(この男、最後まで切ないなぁ)、そしてシェニエとマッダレーナの二重唱「君のそばにいると」。嬉々として一緒に死んでいく二人、これは日本人にはお馴染みの心中の場です。しかし、近松と違って突き抜けるほど明るいのが特徴です。恨みも後悔もない、だって一緒に死ねるんだから。魂が、愛が勝ったという歓喜の二重唱です。
政治に破れても理想を捨てなかったシェニエ、どん底から愛だけを頼りにはい上がってきたマッダレーナ、二人は短くても精一杯生きたのです。これは全力を尽くして生きた人間にだけ許される「甘美な死」なのです。
似て非なる双子
同じ構成を持ちながら、この二つのオペラが違う印象を与える作品に仕上がったのはなぜでしょうか?タイトルを見れば一目瞭然、「トスカ」ではトスカの愛に、「アンドレア・シェニエ」ではシェニエの理想に、それぞれテーマがふられているからです。この双子、姿形はそっくりでも性格が全然違うのです。
トスカの愛の対象はカヴァラドッシという一人の男、共和制やらナポレオンやら、そんなものには彼女は興味がありません。そんなトスカを虐めるわけですから、当然にスカルピアにも政治はありません。彼はトスカのダーク・サイド、トスカの愛に対してスカルピアは欲望で対抗します。そうせざるを得ないのです。トスカの愛に政治で対抗しても噛み合わないからです。というわけで、スカルピアは欲望の怪物と化すわけです。これでは、カヴァラドッシも共和制シンパではあっても革命闘士にはなれません。「革命家カヴァラドッシ」がいくら熱く歌ったところで、この愛と欲望の二人組が相手では虚しく響くだけです。
シェニエの理想は新しいフランス、平等な社会です。彼には政治的動機がはっきりとありますから、敵役のジェラールも貴族支配を憎悪する激しい革命家でなければならないのです。この男二人の「政治の世界」に割って入るマッダレーナは、「詩のミューズ」に祭り上げられています。シェニエのインスピレーションの泉であり、ジェラールが自分の過ちを理解し、真の革命家へ変身するためのきっかけを与えはしますが、彼女自身は最後まで無色透明、革命の真ん中にいながら政治に染まりません。
「トスカ」はいきなりスカルピアの主題で幕を開けます。これから先のドラマが欲望のドラマであると宣言しているのです。続くカヴァラドッシの「妙なる調和」には共和制のキの字も出てきません。二人の女を比べてトスカへの愛を歌うわけで、この絵描きさん恋しているんだとは思いますが、ここでは彼が共和制支持だなんて全然分かりません。そしてお二人のイチャイチャ場面、唯一政治的動機のあるアンジェロッティは隠されたまま、政治を隠して愛を語る、カヴァラドッシのやり方は、愛するトスカを危険にさらしたくないともとれますし、彼自身あまり政治的でないともとれます。彼の「この世に君の黒い瞳ほど」を聴いていると、この男、政治家よりも愛人向きと思えますね。最初から政治は愛を高めるためのスパイスなんですね。そして彼らを奈落の底に突き落とすことになるのは、トスカの嫉妬です。嫉妬は愛の裏側に潜んでいる醜い片割れです。あくまでもトスカの愛がドラマの中心に立っています。
「シェニエ」では、ジェラールの社会への反発、お嬢様マッダレーナの可愛らしい軽薄さ、それをたしなめ悲惨な現実とそれを超える愛の尊さを歌うシェニエと続きます。理想という大木に愛がスイカズラのように絡みつくという構図です。
これに続くドラマの展開でこの二つのオペラの違いが一層引き立ちます。トスカの第二幕は、最初こそスカルピアの尋問の声にトスカのカンタータが微かに絡みますが、彼が窓を閉めてしまってからは、完全な密室劇、悲鳴、嘆き、恫喝、そして殺人…ドロドロとした息の詰まるような展開になります。閉ざされた濃密な空間での官能劇の様相を呈します。 「シェニエ」では舞台は野外、侍女ベルシの「怖い?なぜ?」、シェニエの「不思議な力を信じている」に群衆の歓声、御大ロベスピエールまで登場し、ドラマは広がりを持ちます。官能や愛は一対一の密室でこそ一段と匂い立つでしょうが、理想は日の光の下、大勢の人間の視線を浴びないと輝かないものだからです。
トスカの歌う「歌に生き、恋に生き」とマッダレーナの歌う「亡くなった母に」は、全く同じ条件、横恋慕男に迫られるという危機的状況の下で歌われます。なのに全然違っています。トスカは神を疑い、自分の運命を呪い、崩れ落ちますが、マッダレーナはシェニエのためなら何でもする、だって愛しているから、と昂然と立っています。この違いはこの後のドラマを引き出すためです。嫉妬というあまりに女らしい感情の結果追いつめられたトスカの前にいるのは、サディストのスカルピア、この手の人間は相手が嫌がるほどうれしいという厄介な性質を持っていますから、ここはどうしたってトスカは苦悩しなければなりません。はい、分かりました、ではスカルピアは一瞬に興醒め、もう帰れと言い出してしまうからです。マッダレーナに迫るジェラールは、恋敵シェニエを「お嬢様を守れ」と逃がした男、彼にとってマッダレーナは尊敬する男の恋人という厄介な位置におり、彼はそのことを自覚しています。ですから、ここはマッダレーナは威厳を失わず、切々と愛を歌わなければならないのです。変に卑屈になると、卑屈な自分を嫌悪していた彼が本気で怒ることになります。苦悩が欲望を煽り、誠意が感動を呼び覚ます…この対比が二つの作品の山場といっていいと思います。
最後の場面、生に対する未練を歌うカヴァラドッシと、喜んで死んでいくというシェニエ、カヴァラドッシの場合、これまでのドラマの鍵は全てトスカが握っていたわけですから死ぬに死ねないのは当然、そして人間の尊厳が保証される社会を求めていた「兵士だった」シェニエは、ここで尊厳を失うわけにはいきませんから死を受容します。この二人の姿勢がそのまま、騙されて死んでいく男と自殺する女という「トスカ」、手を取り合って嬉々として断頭台に向かう二人という「シェニエ」の幕切れに反映しています。
プリマ・ドンナ・オペラの傑作「トスカ」とプリモ・ウォーモ・オペラの傑作「アンドレア・シェニエ」、当然にこの二人を誰が歌うかで選ぶべきでしょう。「トスカ」のお薦めはデ・サバタ盤のマリア・カラスとプラデッリ盤のレナータ・テバルディが、古い録音ではありますが際立っていると思います。また、ある機会に幸運にも見ることのできたノルマ・ファンティーニのトスカは、第二幕でのトスカの変化の過程、第三幕の銃殺場面でのサスペンスの盛り上げ方がお見事でした。衣装が全然似合っていなかったのが少し残念。「シェニエ」はやはりホセ・カレーラスでしょうか。忘れちゃいけない敵役ですが、スカルピアはメータ盤のルッジェッロ・ライモンディが好きです。切ないジェラールは出来の良いのが目白押し、レヴァイン盤のシェリル・ミルンズ、サンティ盤のピエロ・カップッチッリ、シャイー盤のレオ・ヌッチ、どれも聞き応えがあります。
HOME
作品別インデックスへ