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ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 (2000年7月18日〜2000年8月4日の日記より)
昔々の・・・悲しく美しく「完全な」恋のお話
「アーサー王と円卓の騎士」は、「暗黒の中世」と呼ばれる時代に生まれた伝説・神話の集大成です。暗黒の中世といってもそれは今日の私たちがそう言っているだけであって、暗かろうが明るかろうが、どんな時代であってもそこには人間の生活があり、人間の生活がある以上、愛が存在します。この「円卓の騎士」にもたくさんのロマンスが登場します。その中の一つが「トリスタンとイゾルデ」の悲恋の物語。
コーンウォールの外れリオネス国の王子として生まれたトリスタンは、出生時に母を亡くし、父も既にないという天涯孤独の身、国を捨てフランスで成長します。しかしフランスの王女様に片思いされて、つれなくした仕返しに追放の身に。今度は母方の伯父マルケ王の元に身を寄せます。馬上槍試合で見事アイルランドのモロルトを倒します(彼の剣の切っ先がモロルトの頭蓋骨の中に残ります)が自身も傷を負ってしまい、治療を求めてイングランドを目指します。ところが途中で船が難破、流れ着いたところはアイルランド、彼は素性を隠してモロルトの婚約者であったイゾルデに介抱され、トリスタンとイゾルデの間に恋が芽生えます。しかし彼の剣の切っ先が欠けていたことから身元発覚。幸い勇敢な騎士ぶりが評価され、命は救われます。帰国したトリスタンからイゾルデの美しさを聞いたマルケ王は「嫁に迎える!」と宣言、トリスタンに誓いを立てさせます。この誓いに従ってマルケ王の妃となったイゾルデですが、マルケ王と一緒に飲むはずだった媚薬を間違えてトリスタンと一緒に飲んでしまいます。もう離れられなくなった二人は城から逃亡。マルケ王の追っ手によって傷ついたトリスタンはイゾルデを奪われてしまいます。ブリタニーに逃れたトリスタンは、同じイゾルデという名を持つ女性(「白い手のイゾルデ」)の介護を受け、ブリタニー国王のたっての願いで彼女を妻にします。しかし、胸の中で燃えているのはマルケ王妃であるイゾルデ(「麗しのイゾルデ」)への愛。再び戦場、勇敢に闘ったトリスタンは瀕死の重傷を負い、死ぬ前に麗しのイゾルデに一目会いたいと使いを出します。「彼女が会いに来てくれるなら白い帆を、私を拒んだなら黒い帆を上げて帰還せよ」、麗しのイゾルデは当然夢中でトリスタンの元に駆けつけますが、嫉妬に狂った白い手のイゾルデは船は黒い帆を上げているとトリスタンに伝えてしまいます。希望を失ったトリスタンは息絶え、それを知った麗しのイゾルデも後を追います。マルケ王は二人の亡骸を別々の墓に葬りましたが、トリスタンの墓から生えたツタがイゾルデの墓を抱きしめるのです。人々は三度ツタを切りましたが、翌日にはまた生えてくる。マルケ王はツタを切ることを禁じました。二つの墓を覆い尽くすツタは固く絡み合い、決して離れることはありませんでした・・・。
さて、この哀しい恋物語をオペラ(じゃなくて「楽劇」か)に仕立てたのがドイツオペラの巨星ワーグナー。「円卓の騎士」では二人登場するイゾルデですが、ワーグナーでは一人しか登場しません。また「円卓の騎士」ではイゾルデは癒しの術を使う魔法使いといういかにも中世的なキャラクターであり、トリスタンも冒険やら戦争やら結構あちこちで忙しく、また行く先々で女に惚れられるという羨ましい美剣士ぶりですが、ワーグナーはよけいなものを全て取っ払い、二人だけの「愛と死」の物語に昇華させています。
「アーサー王と円卓の騎士」とはいっても、アーサーは影が薄い存在、真の主役は湖の騎士ランスロット(彼もトリスタンと同じモテモテ男で悲恋の主役です)と言っていいでしょう。このケルト伝説のゴッタ煮と言っていい物語群には今も形を変えて語られているものがたくさんあります。「聖杯の騎士」の物語もそうです(ローエングリンじゃなくてガラハットという兄ちゃんですが)。また伝説の剣「エクスカリバー」を巡る物語、妖精、魔法使いの闊歩する世界観は今でも「ドラクエ」にヒントを与えて(んじゃないかと私は思う・・・)います。このどこかもの悲しいケルトの伝説が私たちの心を捉えるのはなぜでしょう。そこにはある種の「純粋さ」があるからだと思います。中世の騎士とは要するに領地を親から分けてもらえなかった貴族の二男、三男坊です。この連中はどこかの王様に雇ってもらわないとご飯が食べられませんので、せっせと馬術、剣術を磨き、馬上槍試合を転々としては自分の力をアピールして回りました。実際には読み書きのできない者も多く、平和な時(つまり失業中)は山賊をやっていた連中もいたようです。この土地を中心としたヒエラルキーからの落ちこぼれ連中は、(劣等感克服のためか?)独特の美学を作りました。それが神への信仰と国王への忠誠、そして貴婦人への礼節をモットーとする「騎士道」です。彼らは生産に参加しませんから、その美学には実際性がありません。要するに腹の足しになるようなものではないということです。信仰、忠誠そして愛という抽象的なものに捧げられた命・・・、何もかもが効率で評価され、役に立つか立たないかという価値観に縛られた現代、この「美しいけれど何の役にも立たない」生き方には、私の心を捉える純粋さがあります。
悲しみの子の運命
第一幕、独特の前奏曲で幕が開きます。何とも落ち着きのない収まりの悪い不協和音が不安を誘い、物憂げでありながら心の底の方へ染み込んでいくような哀しい美しさは、これからの物語がどこへ行き着くのかを既に暗示しています。
船の上、テノールの船乗りが歌う哀調を帯びた民謡は、静かな海を風を求めて走る帆船の気怠い雰囲気を映しています。イゾルデは侍女ブランゲーネに隠し通してきた秘密を打ち明けます。あの男、英雄とやらのトリスタン、傷ついた彼を私は癒した。そして知ってしまった、彼は私の許嫁モロルトを殺した男だと。仇を討つことを諦め生きて帰してやったというのに、恥知らずにも私を伯父マルケ王の妻として迎えにやって来た。どうしてあの時殺してしまわなかったのか・・・。ブランゲーネは必死にイゾルデを宥めます。トリスタンが姫様をマルケ王の妻に迎えるのは、高貴な地位を差し上げようという真心なのですよ。しかし、イゾルデは聞く耳を持ちません。あの酒を用意しなさい・・・あの酒とは死の薬です。イゾルデは、許嫁を殺し自分を侮辱したトリスタンと、その仇を討つこともせず、おめおめここまで連れてこられた自分に死を望んでいるのです。上陸を控えて嫌々イゾルデの元に現れたトリスタンに皮肉っぽく絡むイゾルデは、お互いに償いをしなければならない身だと迫ります。ならば、なぜあの時、傷つき身動きのままならなかった私に振り上げた剣を落とした?さぁ、今度は仕損じないように、トリスタンは剣をイゾルデに差し出します。あなたは罪を、私は恥辱を償わなければならない・・・イゾルデは死の薬を満たした杯をトリスタンに差し出します。「永遠の悲しみの唯一の慰め」、トリスタンは酒を飲み、杯を奪い返したイゾルデが残りを飲みます。そして・・・前奏曲の「愛の眼差し」の旋律が二人を周囲から切り離してしまいます。二人共が求めていた死は訪れず、代わりに登場したのは五官を焼き尽くす愛。ブランゲーネが死の薬を、マルケ王とのために用意してあった愛の薬と入れ替えてしまったのです。上陸騒ぎもマルケ王を讃える声も聞こえなくなった二人は、ただただ見つめ合うのみ。
トリスタンとは「悲しみの子」という意味です。なんでこんな名前が付けられたかというと、彼が生まれると同時に母はこの世を去り、父もこの世になかったからです。彼は生まれた時から死に取り憑かれています。アイルランドの勇者モロルト、コーンウォールの騎士が誰も立ち向かおうとしなかったモロルトにたった一人で立ち向かったトリスタン、火を吐く恐ろしい龍を討ち取ったトリスタン、彼の数々の武勇伝も死への憧れの裏返しに思えます。悲しみの子は生まれた時から死に場所を求めていたのです。
そしてイゾルデ、美しく誇り高い姫様は仇とも知らずにトリスタンを癒してしまいました。イゾルデは一度はトリスタンを死の誘いからすくい上げたのです。しかし、トリスタンの抱えている死の淵はとてつもなく深く、そして暗黒に満ちていました、一度その淵を覗き込んだ者はもう引き返せないほどに。「病の床から彼が見たものは、剣ではなく、それを握る手でもなく、私の目だった。あの哀しい瞳、私は彼を無事に帰した、あの瞳が私を苦しめぬように。」・・・この時点で、トリスタンの瞳の中にほの暗く光る死の淵を覗き込んだ時点で、イゾルデはトリスタンに向かって、そして、死に向かって歩き始めます。
お互いに死を求めて飲み干したはずの杯を満たしていたものは愛、それもただの愛ではありません。「五官を震わせる狂おしい愛、この世を逃れ、あなたは私のものとなる」愛なのです。「我なくば御身なし、御身なくば我なし」(マリ・ド・フランス)、完全な愛とは即ち死です。なぜなら生の上に存在する限り愛は不安定なものだからです。人は変化し愛も変化します。いくら抱きしめたところで肉体は時の流れから逃れられず、いくら真摯に語り合ってもその心が次の瞬間に行き着く先は誰にも分かりません。同じ枕に頭を並べて手を取り合って眠ったところで、同じ夢を見ることはできません。生がある限り、完全な愛は存在し得ないのです。今、トリスタンとイゾルデは「完全な愛」に囚われてしまいました。完全に一つになること、お互いの心と体を融合させること、そこにはトリスタンもイゾルデも存在しません、あるのは愛だけ、そしてその愛がもたらすものは死・・・。あなたがあなたでなくなり、私が私でなくなった時、それぞれの歴史を刻み込んだ精神に、我と他を隔てる肉体に、いったい何の意味があるでしょう。つまり彼らはこの愛ゆえに死ななければなりません。「御身ゆえ我死ぬべし、御身ゆえ我生くべし」(ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク)、個としての自分の存在を失った時、愛する人との完全な合一を手に入れた時、人は死なねばなりません。命があっては、愛が、完全な愛が生きられないからです。この愛は最初から燃え上がる歓喜の中に死を宿していたのです。
昼から夜へ、光から闇へ
第二幕、舞台は深夜、マルケ王の城の庭です。イゾルデは愛するトリスタンが忍んでくるのを今か今かと待っています。ブランゲーネは恋に浮かされて現実を見ない姫様を諫めています。「人目を憚らぬ熱い視線、誰も気づかぬとお思いですか?」、王妃とその臣下、義理の叔母と甥、女の許嫁を殺した男とその許嫁が与えた傷を癒した女、そして、死を共に飲み干した男と女・・・。トリスタンへの合図は松明を消すこと。そう、二人は闇を待ち望んでいるのです。待ちきれないイゾルデは制止も聞かず松明を消してしまいます。辺りは漆黒の闇、トリスタンが現れます。「あなたなの?私なの?」、二人は完全な一体感に酔いしれます。「暗いところにあなた、明るいところに私」、「陰険な昼は私の敵、昼を消すことができたなら」、昼を呪い、夜を賛美する二重唱が続きます。「偽りを終わらせるところ、それは夜、その夜の中にあなたを誘いたかった」、マルケ王との愛のない(というか、もはや彼女はイゾルデであると同時にトリスタンであり、マルケ王妃としては存在していないのです)昼、そして愛するトリスタンとその存在を一つにする陶酔の夜。イゾルデにはもはや光に対する未練はありません。そしてトリスタン、悲しみの子は夜の子でもあります。「死の夜を愛で見定めその深い秘密を知る者には、昼の虚言や栄光や名誉・・・塵のように砕け散るだけ」、彼は勇敢な騎士としての名誉もマルケ王に捧げた忠誠も、全てを闇の中に捨ててしまったようです。そして一つに溶け合った心が求めるものは死・・・。「こうして私たちは死ねばよい、離れずに」「永遠に一つとなり」「目覚めず」「不安もなく」、完全な愛という死の向こう側にしか存在しないものに絡め取られた二人には、生が、光が、厭わしいものでしかないのです。トリスタンは「私はイゾルデ」と、イゾルデは「トリスタンは私」と歌います。二人は一人に融合してしまい、もう個として存在しないのです。
マルケ王が登場します。王の寵愛を一身に受けるトリスタンに嫉妬したメロートが告げ口をしたのです。妻と甥、何よりも忠義一筋だったトリスタンの夜の姿を突きつけられたマルケ王の嘆き。トリスタンの名誉と純潔はどこへ行った?マルケ王は全ての領土をトリスタンに譲ろうと跡継ぎを持たなかったのです。それに嫉妬したメロートらがしつこく結婚を勧めるため、マルケ王は、ある日燕がくわえてきた金色の髪の毛の持ち主を妻とすると宣言しました。絶対に見つからないと信じていたその髪の持ち主を見つけてしまったのが、他ならぬトリスタンなのです。そのトリスタンが妻と愛し合っている、なぜこんな仕打ちを?苦い言葉に胸を灼かれつつ嘆くマルケ王、その前に静かに佇むトリスタンは哀しい目で王を見上げます。彼には分かっています。もはや何をもってしてもイゾルデと離れることはできないと、もう決して武勇と忠誠を歌われた騎士の鏡トリスタンに戻ることはできないと、なぜなら彼は夜に、彼が生まれた悲しみの闇に、死の世界に引き寄せられているからです。「イゾルデ、ついてくるか?私の行く日の射さぬ夜の国に、母が死につつ私を世に送った愛の国に」「トリスタンの住むところ、私も真心と愛をもってついていきます」・・・メロートが剣を抜きます。トリスタンが受けて立ちます。メロートの剣が突き出された瞬間、トリスタンは剣を捨て、メロートの剣の上に倒れ込みます。崩れ落ちるトリスタン・・・。
この第二幕で象徴的に使われているのは、火と水、光と闇です。トリスタンとイゾルデの密会の合図は松明を「消す」こと。普通は合図というと明かりを「つける」ものだと思うのですが、二人には闇が好ましい、例え小さな松明の明かりであっても、それは、離れ離れの呪わしい昼につながるものだからでしょう。冒頭でイゾルデは「夜に囁くのは泉ばかり」と歌い、命の象徴である炎を消してしまいます。炎を消し去る水は死の象徴です。日本語にも「泉下」という言葉がありますが、私が思うのは「カロンの渡し」です。この世とあの世を隔てる水の流れを支配する渡し守りカロン、彼の父はエレボス(闇)、母はニュクス(夜)です。対する光、太陽を象徴するのはアポロン、アポロンは同時に「癒し」の象徴でもあります。傷ついたトリスタンをかつてその手で癒したイゾルデは、間違いなく光の、太陽のそばにいた女でした。そのイゾルデが今、悲しみの子、夜の子であるトリスタンと一つに溶け合うことによって、水に、闇に、夜に、全身を浸しているのです。
この第二幕、難しいことを考える必要はないと思います。ただ黙って聴けばよし。ここでの音楽は完全に「コトに及んで」おります。二人が何を語ろうが、舞台の上で何をやろうが(やるまいが)関係なし、音楽だけで分かります。性愛というものをここまで見事に表現した旋律というのは、他にはちょっと思いつきませんね。
悲しみの子から歓喜の子へ
第三幕、低音域から始まる重たい前奏曲で幕が開きます。瀕死のトリスタンは彼に忠実なクルヴェナールに伴われ故郷に逃れてきました。羊飼いの吹く笛の寂しげな旋律、トリスタンが力無く横たわっています。彼には自分がどこにいるのかも分かりません。クルヴェナールは「安全な地、ご先祖のお城です」と力づけますが、トリスタンの心は既に夜の世界へ、彼の帰るべき世界へ移っています。「太陽はなく、国も人もなく、私が昔いたところ、私がこれから行くところ」・・・トリスタンがこれから行くところとは、どこでしょう?昔いたところ、暗闇、夜の世界、それは母の胎内でしょう。父を知らず、誕生と同時に母を失い、「悲しみの子」と名付けられたトリスタン、彼のこの世にあるが故の不安と苦悩を癒すには、彼は生まれる前に戻る以外にないのです。「どこにも安息はなく、夜の手から昼へ投げ出され・・・この苦しみをもたらしたのは私自身」、悲しみの子には最初からこの世に居場所なんてなかったのです。しかし、トリスタンは一人ではそこへ行けません。彼は既にイゾルデと完全な融合を果たしてしまったのです。人は半分だけ死ぬなんてことできません。トリスタンとイゾルデは一緒に生き、一緒に死ななければならないのです。そのイゾルデはまだ来ない・・・。「愛しのイゾルデ、いつになったらその明かりを消して幸福を伝えるのか?」、トリスタンは生と死の間で、昼と夜の間で、そのどちらにも行けないのです。
錯乱するトリスタンと必死で宥めるクルヴェナールの元に羊飼いの笛の音が響きます。船が見える!歓びの旗をマストになびかせて!イゾルデが来た!「この太陽、この昼!歓びの輝かしき昼!」、彼は(夜は)今、生命を(昼を)飲み干す瞬間を待っているのです。夜が昼を飲み干し、闇が光をむさぼり、死が生を凌駕する瞬間・・・トリスタンは傷口を覆った包帯を引きちぎります。「我が血よ、楽しく流れ出よ」、傷口から命がこぼれ落ちていきます。生からの解放、悲しみからの解放、この時をどれほど待ちこがれていたことか・・・。
トリスタンはイゾルデに触れ、そのまま息絶えます、何も言わずに。イゾルデが嘆きます。「怪我では死なないで、私たちが一つになるときに、命の光が消えればよい。どうしてこんな酷いことを?一度だけ、今一度だけ!」、トリスタンの遺体にすがったままイゾルデは意識を失ってしまいます。ブランゲーネから愛の薬の秘密を聞いたマルケ王が二人を許し、そして結びつけるために登場します。クルヴェナールは奸臣メロートを殺し、自分も深手を負ってトリスタンの後を追います。最愛の甥を失った年老いたマルケ王の嘆き、「私は死を刈り入れ、迷いに苦しみが重なる」、彼はトリスタンを愛していました。そしてイゾルデも愛していました。孤独な権力者が愛する者同士が愛し合う・・・なぜここから死が生まれるのか?人間の愛の哀しさともどかしさが、そのままマルケ王の嘆きです。マルケ王の愛はこの世の愛です。当然に不完全な愛です。それはいつでも憎しみに、嫉妬に姿を変え、あやふやで先が知れず、それだからこそ明日を生きられる、明日を生きてもっと育むことが歓びとなる愛です。トリスタンとイゾルデの愛は、「完全な愛」なのです。そこには全てがあり、同時に何もありません。完全に満たされた時、人はもう明日を望みません。一人と一人が完全な合一を果たした時、そこに存在するのは二人ではなくて一人です。では、その一人とは誰なのか?誰でもありません。完全なもの、唯一存在するものには定義は必要ないのです。
その愛が空に上っていきます。「明るく輝き、星の光に包まれ空高く上っていくのが見えないのですか?全ての中に溺れ、沈み、意識もなく、至上の快楽」、イゾルデはトリスタンと共にこの世から離れます。
死せる両親によってこの世に送り出された悲しみの子は、彷徨い、傷つき、殺し、苦しみ、そしてイゾルデとの愛によって完全に満たされ、存在することの苦悩から解き放たれ、生まれる前の世界へ、悲しみのない世界へと、かつてはトリスタンとイゾルデと呼ばれ、今は一つになって名前すら持たない魂となって帰って行きました。
愛の薬なんて存在しない
この作品を読み解く鍵、それは「トリスタン和音」、そして「死の薬」です(「愛の薬」ではありません)。
冒頭に登場するトリスタン和音、チェロと木管の組合せが半音で上昇と下降を繰り返します。次第に他の楽器が加わり、複雑になってはいきますが、心地よい調和には至りません。夢の中で怪物に追いかけられたことがありますか?あの感じ、走らなくてはと分かっているのに足が前に出ない、なぜ出ないのかも分からないもどかしさ、この感覚は弱く消え入るように前奏曲が終わるまで続きます。これが何を表しているのか、それは「この世に在ることの悲しみ」でしょう。
【イゾルデの場合】
イゾルデは「あの哀しい瞳」を見たときからトリスタンを愛していました。そうでなければ決して傷を癒したりはしなかったはずです。伝説では龍を倒した勇者と結ばれることになっていたイゾルデですが、龍なんてどうでもいい、何よりも、トリスタンは許嫁の仇でありながら彼女が命を救った男なのです。彼女は当然に自分とトリスタンは結ばれると信じていました。ところがトリスタンは彼女よりもマルケ王との誓いを選びました。屈辱と絶望が彼女を苛みます。イゾルデが死を求めるのは、マルケ王が嫌だからでも「名門も衰えて」でもありません。もしそうなら、一人でさっさと毒薬を呷る、あるいはもっと簡単に船から身を投げるだけで事足りるはずです。イゾルデはトリスタンと一緒に死にたいのです。なぜならそうする以外に彼とは結ばれないから。イゾルデは王冠よりもトリスタンの哀しい瞳が欲しかったのです。これは当時の姫様としては画期的なこと、そして許されないことです。夫の甥を愛する、このタブーに足を踏み入れたイゾルデには、この世に居場所はありません。
【トリスタンの場合】
トリスタンはこの世に拠るべきものを持ちません。彼は両親を知らず、故郷を捨て、マルケ王から愛されてはいるものの、その愛は騎士道の上に成り立つもの、彼の忠誠と勇気に対して、報酬として与えられる愛です。この若者は無償の愛を知りません。彼はイゾルデに恋をしました。しかしその恋はマルケ王の存在ゆえに許されません。彼は騎士であり、王への忠誠と誓いは絶対なのです。彼は忠実な家臣としてイゾルデを迎えに出向きます。つらい役目だったでしょう、もう一度会える、そしてずっとそばにいられる、でももう決してあの手が私に触れることはない・・・。船上でトリスタンはイゾルデを見ようとはしません。それは渇いた人間が見る泉の幻、手を伸ばしたところで届きはしないのです。無償の愛を知らないことの孤独を思って下さい。無償の愛とは安息です。何をしても、しなくても、ただ自分であるというだけで愛されることの安らぎを彼は知りません。だからこそ彼は死を求めます。彼にとって死とは、この底知れない孤独からの救済であり、顔も知らない母の胸に今一度赤ん坊となって抱かれることなのです。しかし、傷つきやつれ果て、小舟で彷徨うどこの誰とも知れない若者を、イゾルデは癒してくれました。イゾルデの手が触れた時、その手に癒される自分の肉体を感じた時、彼は初めて無償の愛を知ったのでしょう。その愛を彼は騎士道ゆえに、この世のしがらみゆえに諦めなくてはなりません。そんな彼に差し出された死の杯、それは甘美な誘いです。彼にとって死とは恐れるものではなく憧れるもの、永遠のくつろぎ、懐かしい揺りかごなのです。
伝説の物語には死の薬は登場しません。船の上が暑いので飲み物を所望した二人に、新米の小間使いが間違って愛の薬を渡してしまったという展開で、こちらの方がお伽話としては自然です。ワーグナーの二人は双方納得の上で死の薬を飲もうとし、ブランゲーネの姫様大事の細工から愛の薬を飲んでしまう。この愛の薬とは何なのでしょう?
愛の薬はマルケ王とイゾルデが万一仲良くなれなかった場合のために用意されたものですが、死の薬、何でそんな物騒なものを嫁入り道具に入れる?実は愛の薬なんてどうだっていいのです。このオペラは、「愛の薬によって二人は愛し合うようになりました」というお話ではないのです。問題は死の薬、実際には封を切られることのなかった死の薬なのです。一緒にそれを飲もうとしたこと、これが彼らの「愛の薬」なのです。彼らは共に死を願うこと、この世のしがらみから自由になりたいと願うことで一つになります。にもかかわらず命は残ってしまった・・・ここから悲劇が生まれます。死んだのに死ねなかった二人はその「死」を成就させるために「愛」に突っ走ります。
第一幕、死の杯を干したあとの二人、「トリスタンの名誉をなぜ夢見たのか?」「イゾルデの恥をなぜ夢見たのか?」「貴女を失う?」「私を捨てられる?」、騎士の名誉と王妃の貞節を捨ててお互いを選んだ時、彼らはこの世を否定したのです。
「死を刈り取る者」マルケ王の悲劇
マルケ王、彼は誰よりも愛したトリスタンを失い、妻イゾルデを失い、メロートとクルヴェナールという家臣を失います。そして永遠の虚無の中にただ一人立ち尽くします。マルケ王の悲劇、それは彼が自分の全くあずかり知らないところで悲劇の中心になってしまっていることです。
イゾルデは最初からマルケ王を拒否しています(「愛されもせずに気高き人をいつもその傍らに見るとは」)。彼女はトリスタンを愛していますから、当然です。相手が誰であろうが関係ない。これじゃマルケ王が可哀想・・・かというとそうでもない。マルケ王もイゾルデには関心がない。「仮面夫婦」ってやつですね。マルケ王はイゾルデに手を触れません。伝説では、姫様とトリスタンの恋を知り、その責任を感じたブランゲーネが姫様の代わりにマルケ王の床に侍り王はそれに気が付かないことになっています(これはいくら何でも無理があると思いますが)。ワーグナーの作品では、王は「この女性に私が敢えて近寄ることをせず離れているのは、畏敬の念のため」と歌っていますが、これは屁理屈にしか聞こえません。
彼は子供が欲しくなかった。我が子のように愛しているトリスタンに王位を譲りたかった。そのために独身を通してきたのに、「お前が自ら使者となり、妃を送ろうとし」、その挙げ句が当のトリスタンと妻の密会現場に居合わせることになるわけで、王はトリスタンから二重の意味で裏切られました。「自ら私を裏切り、全ての徳を失うとは」、マルケ王は妻であるイゾルデそっちのけでトリスタンを責めます。彼にとっては妻よりもトリスタンの方が大切なのです。マルケ王とトリスタンの行き違いをもたらしたもの、それは王がトリスタンの孤独を理解し得なかったことにあると思います。「このマルケのために尽くしてくれたのに、・・・その代償を私が恥辱で払うのか」、マルケ王はトリスタンの忠誠に対して感謝で応えました。しかし、ギブ・アンド・テイクの愛では、トリスタンの孤独、彼の心の中の死の淵は埋まらないのです。「計り知れぬ深さの神秘の闇を世に曝したのは誰なのか?」と問うマルケ王にトリスタンは「それには答えられません。決して知ることはできないのです」と取りつく島もありません。私は愛の薬説を採用しませんので、これが愛の薬の秘密のことだとは思いません。これはトリスタンが自分の中にある死の淵を自覚し、実はマルケ王とは別の世界の人間だったのだと理解してしまったということです。だから彼は答えません。トリスタンとマルケ王は今や断絶しているのです。彼らは忠誠と感謝で結ばれた(「結ばれる」ということ自体、それぞれが別の存在だということです)に過ぎません。トリスタンは今や死の世界に戻るべき自分を受け入れるに足る理由(イゾルデとの完全な合一)を持っていますから、彼にはこの世の名誉なんてもうどうだっていいのです。そして、それがマルケ王には理解できないことを知っているのです。彼は語ることを拒否し、いきなりメロートの剣に倒れ込んで死のうとします。この拒絶の厳しさ・・・。
第三幕、トリスタンの遺体を見下ろし静かに嘆くマルケ王、「今日も私を裏切るのか?」、マルケ王は愛の薬の秘密を理解しましたが、トリスタンを理解していません。トリスタンにとってマルケ王はもはや意味を持たず、裏切るという自覚も全くないのです。だから、トリスタンはマルケ王が登場する前に死んでしまいます。彼はここでも拒絶しているのです。拒絶されていることを理解できないマルケ王の嘆きは死者に対して虚しく語られます。ここでの「マルケ王の動機」の厳しく深い響きを聴いて下さい。この深さこそが、次の「イゾルデの愛の死」へと物語と旋律を繋ぐことができるのだと思います。拒絶されてもなおトリスタンへの愛を語ることがどれほどの勇気を必要とすることか・・・、マルケ王の存在はそれに尽きると思います。
彼はトリスタンとイゾルデの愛が灼熱でもって全てを焼き尽くした後の廃墟に一人立ちます。愛の死を看取るのは、「死を刈り取り」、その苦痛に耐えることのできる者でなければならないのです。
私はこの作品、あまり数を聴いていません(だって、長いんだもん)。だからあれこれ言える立場にありません。現在、手元にあるのは1980年のクライバー盤、ルネ・コロ、マーガレット・プライスの二人にクルト・モルのマルケ王、そしてフィッシャー=ディスカウのクルヴェナールというものです。クライバーらしい隅から隅まで丁寧な音には圧倒されます。コロの輝かしい美声とディスカウの抑制の効いた表現が重なる第三幕第一場が好きです。ただ、プライスの声が私のイメージするイゾルデとは少し違うような・・・、どこが違うのかと言われても困るのですが。何かお薦めがおありでしたら、教えて下さいませ。
おっと、それから忘れちゃいけないのは、岩波文庫から出ています「トリスタン・イズー物語」(ベディエ編)、問題は読んでから聴くか(背景がよく分かる)、聴いてから読むか(ともかく白紙の状態でかぶりつく)ですね。私は読んでから聴いたクチですが。
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