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ヴェルディ 「仮面舞踏会」 (2000年5月23日〜2000年6月16日の日記より)
男はそれが許せない?
以前に耳にして面白いなと思ったアメリカのジョークがあります。あの国にはよくあることで人種ネタです。家に帰ってきたら女房がよその男と一緒にベッドの中にいた、さぁどうする?というもので、答えは、アフリカ系の亭主は相手の男を撃ち殺す、ラテン系の亭主は自分の女房を撃ち殺す、そしてユダヤ系の亭主は自分のアタマを撃ち抜く…というものです。アフリカ系亭主の反応は一番分かりやすいですね、俺の女房に何すんじゃい!というやつ。ユダヤ系亭主の反応は、人生に絶望してなのか、それともこんな事になったのは自分が悪いからだという自責の念なのか、私にはよく分かりません。だいたいこんな自虐的な話が出てくるところをみると、このジョークの作者はユダヤ人ではないかと思います。問題はラテン系亭主の場合ですね。この反応は自分の体面を傷つけた女房がともかく許せない、というものです。じゃ相手の男は?というと、どうも話が別らしいです。男というものは女を征服するものである、だからお前は一人前の男だ、落とし前はキッチリ自分でつけてもらう…という展開が予定されています。自分の女房の方は問答無用で撃ち殺しておいて、間男とはその後ゆっくり決闘、というパターン(「カヴァレリア・ルスティカーナ」でも不倫の清算方法は決闘でした)。相手の男を撃ち殺しておいて、その後自分の女房と決闘するという選択肢はどうしてないんだろ?この方が筋が通っていると思うのですが…。強くなければ、女を支配できなければ男じゃない、というマッチョの伝統のあるラテン気質ですから、間男も寝取られ亭主も命懸けという展開です。男はあくまでも誇り高く、よって侮辱に対しては命をもって償わせなければならない…ラテン民族の男性って結構大変そうですね。
さて、ヴェルディの「仮面舞踏会」ですが、これを聴くと、私はいつもこのジョークを思い出してしまいます。自分の上司と女房が愛し合っていると知った男はどうするのか?手っ取り早い話、このオペラのテーマはこれです。この男、何と上司も女房も両方亡き者にしようとします。それもその場でカッとなって手が出てしまったなんて可愛いもんじゃない。女房には冷酷に死を命じ、そして上司を暗殺するのです。これは怖いですね。いくらラテン系亭主でもやりすぎという感じがします。ずいぶんと怒ったもんです。何が彼をそうさせたのか?
この「仮面舞踏会」ですが、2通りの設定があります。本来のヴェルディの作品はスウェーデン国王グスタフ3世の暗殺を描いたものなのですが、生々しい事件をそのまま扱った作品は当局によって上演禁止(ヴェルディはこれが得意みたいですね)となり、舞台を新大陸ボストンに移したものが長年上演されてきました。最近になってスウェーデン版が復活したというわけです。ボストン版だと国王は総督(今で言うと知事でしょうか)になってしまい、これだと本国から派遣された高級役人ですから、絶対的権力者である国王を暗殺するのとは大違い、緊張感が感じられません。それに暗殺の舞台は華やかな仮面舞踏会ですから、だだっ広い新大陸の出来立ての港町ボストンよりも、古都ストックホルムの方が豪華で重厚な感じがします。
何よりもボストンに舞台を移すことで、暗殺の動機が非常に曖昧になってしまいました。グスタフ3世は、芸術愛好家であり、スウェーデン・アカデミーを創設、オペラ座も建てたし、国民には非常に人気がありました。反面、絶対君主としての高圧的態度で貴族階級に接したため、危機感を持った貴族達(つまり議会)との対立が激化、1792年、仮面舞踏会に出席したところを狙撃され、命を落としました。フランス革命を経たヨーロッパで絶対王政を貫こうとしたグスタフ3世、これはもう命懸けのアナクロニズムです。いくら英明な君主でも、進歩的な思想を持っていても、王権神授説が過去のものになった以上、高圧的な王様というのはそれだけで十分テロの対象になってしまいます。なぜならそこには常に不安が存在するからです。絶対権力者にある日突然考えを変えられた日には、周りはやっていられません(かのカリギュラ帝だって即位した当時は名君だったのですから)。一人の人間に権力が集中するという体制は、決定は素早いですから非常時向きかも知れませんが、不安定であることは間違いありません。多数派の意見を反映できないという点で、成長と安定を願う時代には向いていません。不安材料は極力排除したいというのは人情として当然です。一人の天才の閃きか、百人の凡人の努力か、政治の流れはいつもこの二つの間を行ったり来たりしてきました。グスタフ3世は優れた人物ではあっても時代の流れからずれていたんですね。
これがボストン版となると、なんで総督が暗殺されるのか全く分かりません。第一幕で反逆者たちは「お前によって倒れた人々を思う・・・その憎しみ」と歌いますが、本国から派遣されてきた高級官僚の総督が一体どんな大弾圧をやったというのか、そもそもそんなことができたのか、それが不明ですから、この暗殺者達の動機自体が曖昧になってしまいます。物語に政治的な意味合いを持たせようとするならば、ヴェルディの思惑通りのスウェーデン版をお薦めします。但し、いつの時代も変わらない男と女のお話として聴くならば、国王でも総督でも同じこと、そして、音楽の持つ生き生きとした力強さは、ヴェルディの作品中でも特筆すべき魅力を持っていると思います。
さて、彼らを以下では何て呼びましょうか?私は王様が暗殺されるというスケールの大きなスウェーデン版の方が好きなので、これに従って呼ぶことにしましょう。スウェーデン国王グスタフ(イタリア読みだとグスターヴォ)を主人公とします。彼の秘書であり親友のレナート、その妻アメリア、占い師ウルリカ、彼らはこのままでも背景が同じですから、通りのよいボストン版の呼び方でいきます。どうしてもイヤ!という方は、ご面倒ですが、頭の中でテキトーに置き換えて下さいね。
オトナだって純愛する
短い、でもとても印象的な前奏曲で幕が開きます。ここで3つのテーマが表れます。最初は国王グスターヴォを慕う民衆の愛、次にスタッカートで暗殺者のテーマ、最後に美しい旋律のグスターヴォの愛、この3つが絡まりあって展開します。
第一幕は宮殿の広間。皆が国王を讃えていますが、その中に反逆者達(ホーンとリビング)の敵意が混じっています。お小姓のオスカル登場(ソプラノのズボン役、陽気で悪戯っぽい楽しい役です)、グスターヴォに舞踏会の招待客リストを見せます。アメリア、彼女にまた会える・・・王様は恋をしているのです。そこにアメリアの夫であり国王秘書のレナートが登場、お悩みのご様子、お察し致します(ドキッ)、国王のお命を狙う者がおります(何だよ、ホッ)。レナートが熱っぽくグスターヴォを賛辞します(これが後々仇になる)。判事が登場、怪しげな占い師ウルリカの告訴を求めますが、オスカルはウルリカの大ファン、両方の言い分を聞いたグスターヴォは漁師に変装してウルリカに会いに行くと言い出します(「暴れん坊将軍」入ってないか?)。
ウルリカの住まい。地獄の王と交信するウルリカのところへは大勢の人が押しかけています。兵士が占ってもらいます。茶目っ気を出したグスターヴォは彼の願い(昇進とお金)をかなえてやります。そこへアメリアが登場、人払いを頼みますが、彼女に恋しているグスターヴォはこっそりと聞いています。この苦しい秘密の恋を忘れさせて下さい・・・アメリアが私を愛している!何々、恋を忘れるためには真夜中の処刑場で草を摘めって?よ〜し、ついてっちゃうもんね。恋する男には無鉄砲がよく似合うものです。グスターヴォの番です。王様は漁師の振りをして占いを求めます(軽快なテノールのソロ)。手相を見たウルリカは「偉大な男」、そして「不幸な男」・・・何が?「もうすぐ死ぬ、今日最初に握手した人間に殺される」。あんまりな結果にグスターヴォは誰彼なく握手を求めますが、誰も彼の手を握りません。そこへ何も知らないレナートが登場、握手してしまいます。これで安心、彼は私の秘書で親友だ、占いがインチキだと証明された・・・ってことは彼は王様?裏切りを予言するウルリカ、国王を賛美する群衆、なぜか不安を感じるレナート、そして舌打ちするホーンとリビング、フィナーレはヴェルディらしく力強い立体的な表現です。
第二幕、張りつめた管と弦のせめぎ合う前奏曲で幕が開きますが、途中にフルートと弦でアメリアの祈りの旋律が挟まります。私はこの前奏曲、大好きです。アメリアのアリア「恐ろしい場所」、あの方を忘れなければ、それが私の義務。でも愛が失われたら私に何が残るの?(ってことは、レナートのことは愛していないわけ?)。グスターヴォいきなり登場。この心はあなたのもの、愛していると言ってください。アメリアは必死で拒絶します、私は人妻・・・、熱い陶酔の二重唱、数ある恋の中でも許されない恋というのは最も甘美なものです。これに比べたら祝福された恋なんて気の抜けたコークみたいなもの、恋心を否定すれば否定するほど熱くなる思い・・・親友を、夫を裏切る哀しい恋、この二重唱は甘く美しく、しかし毒を持っています。そしてグスターヴォもアメリアもそのことをよく知っています。だからこそ一層燃え上がる、どうなってもいいと願いつつ、それは許されないと分かっている、何もかも捨てて恋に走るには二人とも大人であり過ぎる、でも目の前にいるのは誰よりも愛しい人・・・引き裂かれる思いが切ない。しかし、初デートの愛の告白の場所が処刑場、これから先の悲劇を暗示しています。レナート登場、暗殺者が迫っております、どうかお逃げ下さい。マントで顔を隠したアメリアをレナートに託し、グスターヴォは退散。そこへホーンとリビングが登場し、ちっ、逃げられたか、アタマに来たからその女からかってやる、止めようとするレナートとあわや刃傷沙汰、堪えられなくなったアメリアは自ら正体を明かします。奥方を寝取られてまだ忠誠面か?この屈辱はレナートを悪魔に変えます。明朝、家に来てくれないか、考えがある・・・
第三幕、レナートはアメリアに死を命じます。せめて子供に会いたいという願いにも冷酷さを貫きます。彼は敬愛する国王であり親友であるグスターヴォと愛する妻アメリア、両方から同時に裏切られました。忠誠と友情と愛を一度に傷つけられた生真面目な男の行き着く先は一つしかありません、それは地獄です。「お前こそ魂を汚すもの」と最大級の罵りを歌うレナートですが、途中でハープとフルートの美しい旋律が絡みます。それは思い出なのか、まだ消え残っている愛なのか、それとも彼が見えないふりをしている許しなのか・・・。ホーンとリビングがやって来ると彼ら3人は暗殺の実行者を決めるくじをアメリアに引かせます。あの愛しい方が私の引くくじで殺される・・・当たったのはレナート、彼はもう後には退けません。仮面舞踏会の招待状を持って現れたオスカル、あの方が死んでしまうと不安におののくアメリア、グスターヴォの血によって屈辱をはらすというレナート、死の舞踏会を確信するホーンとリビング・・・。
グスターヴォの心は暗殺の警告よりもアメリアで一杯。レナートと妻を祖国に帰そう、この恋を終わらせよう(何しろ、この恋、それしか選択肢がないのです)、でも舞踏会でもう一度だけ会いたい、乱れる心はまるで少年です。レナートはオスカルにグスターヴォの服装を問い質します。教えて上げないと焦らした挙げ句に黒いマントでバラ色のリボンと一言。グスターヴォとアメリアの別れの場面、愛しています、だから逃げて・・・愛しています、だから何も恐れない・・・背後から忍び寄ったレナートの剣が閃きます。倒れるグスターヴォ、彼はレナートを許し、アメリアの潔白を誓い、息絶えます。
親友の妻を愛してしまい、その親友に殺されるグスターヴォ、心に秘めた恋人を夫に殺されるアメリア、そして嫉妬から悪魔に身を売ったレナート。愛、友情、忠誠というそれぞれに美しく貴重な感情が絡み合い、なぜか結果は悲劇で終わります。その悲劇を紡ぎだしたもの、その鍵を握っているのはウルリカとオスカルだと私は思います。プラトニックな恋に悩んだ純情な王様(だって権力を振りかざして恋をモノにしたってよかったはずです)グスターヴォ、許されない恋を忘れようという大人の女の分別を持っていたアメリア、そして誠実で生真面目なレナート、3人とも善なのです。たまたまタイミングが悪かった、それだけで全てが悲劇に変わります。タイミングを狂わせた(というかシンクロさせた)のは、運命を予言するウルリカとそのパシリとも言うべき無邪気なオスカルです。
善人だけでも悲劇は起こる
オペラに登場するたくさんの破天荒な悲劇・・・ンなの、あり?というストーリーが多いのは事実ですが、描写が大げさで事態が誇張されてはいても、それぞれにはしっかりとした理由があります。これがなければオペラはただの「太ったおっさんとおばさん(そうでない人もいるけど)が大声張り上げている変なお芝居」になってしまいます。美しい旋律に、真摯な歌唱に、聴く人間が感情を揺さぶられ、思わず涙腺が緩んでしまうには、たとえハチャメチャであっても納得できる悲劇でなければなりません。ヴェルディの作品からスケールの大きなコスチューム・プレイの悲劇を例にとってみれば、登場人物の性格から悲劇が起こるもの(「ドン・カルロ」ではカルロの幼さ、「マクベス」では夫婦の野心、「リゴレット」では道化師の屈折、「オテッロ」ではイヤーゴの悪意)と過去の出来事や秘密から悲劇が生まれるもの(「トロヴァトーレ」ではアズチェーナの秘密、「ナブッコ」では民族の対立、「アイーダ」と「運命の力」ではアイーダとアルヴァーロの出生)とに分けられると思います。つまり、悲劇は遅かれ早かれ、どんな形にせよ、どのみち起こると決まっていて避けられないというところがミソ、「必然性の悲劇」はドラマティック、何しろ運命が動機付けをしてくれます。
ところがこの「仮面舞踏会」は同じコスチューム・プレイであっても、その悲劇には必然性がありません。悪人も出てこないし陰謀もない(ホーンとリビングは悪人としては中途半端、彼らの暗殺計画もあまりにも粗雑で行き当たりばったり、陰謀の名に値しません)、呪いもかけられないし魔法も出てこない、グスターヴォとアメリアの恋は不倫というにはあまりにささやか、第一にプラトニックですし、お互いに分別のある大人として恋を心に秘め、忘れようと努力していますから、このまま放っておいても何事も起こらず終わっていたはずなのです。だってグスターヴォはアメリアへの恋がレナートにばれたことを知らないにもかかわらず、彼らを祖国に帰すことを決意するのですから。アメリアも、レナートの妻として、占い師にすがってまでグスターヴォを忘れようと一生懸命なのですから。レナートも、もしもあの処刑場にリビングとホーンがいなければ、あそこまで追い詰められなかったと思います。彼には病的に嫉妬深いとか、グスターヴォを実は憎んでいるという性格は与えられていません。彼の怒りは恥をかかされた夫としてのものです。恥というのは自分一人では成立しません。だからこそ彼は一人で暗殺を実行しようとはしなかった、彼の復讐には彼らの手前という一面があり、決してリゴレットのように彼本来に備わった内在的なものではなかったからです。
「仮面舞踏会」の悲劇は「タイミングの悲劇」です。これは運命によって決められた「必然性の悲劇」の壮大さはありませんが、その分身近な悲劇です。ドロドロした怨念や復讐、込み入った因縁といった、クロゼットの中のたくさんの骸骨とは無縁に生きている人間にだって、いつでも起こり得る悲劇なのです。あの時あの電車に乗らなければ、あの時あの道とは違った道を歩いていれば、あの時雨が降っていなければ、こんなことにはならなかった・・・、タイミングの悲劇とは私たち普通の人間の悲劇、言ってみれば「たら、れば」の悲劇です。カルロには「もしも性格が強ければ」という選択肢はありません(性格は変えられない)し、アイーダには「もしも王女でなければ」という選択肢はありません(生まれは変えられない)。ところが「仮面舞踏会」は「たら、れば」ばっかりなのです。もしもあそこに行かなかったら、もしもあの時こうしていれば・・・、避けられたかも知れない小さな偶然が積み重なった時、善人ばかりにもかかわらず悲劇はきちんと起こります。一つ一つは無害な化学物質を、ある法則で配合すればきちんと発火するように。
さて、ウルリカ(Ulrica)、この名前はキリスト教の聖人である聖ウルリク(Ulric)の女性形です。この聖人、16世紀の司祭でしたが、ある日突如隠者となり、数々の奇跡を起こし、予言も行ったので高貴な身分の人々が彼を訪ねたと言われています。しかし、ウルリカが起こすのは奇跡ではなく悲劇です。これには魔法も呪いも必要ありません。ただ、それぞれをあそこに行かなかったら、あそこにいなければ、という場所に並べてやるだけ・・・。
ウルリカは何をやったのか?
ウルリカは占い師であって魔女ではありません。彼女がもし魔女であったなら、グスターヴォとアメリアに叶わぬ恋の魔法をかけ、そこにレナートを登場させ、全員を破滅に導くという展開も可能だったでしょうが、このオペラの舞台は18世紀後半、もはや魔女や魔法なんてお伽話です。彼ら3人は皆自分の意志で恋をし、自分の意志でテロに走りました。ここを抑えておかないと物語の悲劇性が損なわれてしまいます。このオペラは非常に現代的な悲劇なのです。
ウルリカは第一幕の第二場でしか登場しません。ですから、ウルリカはこの場面だけで全ての役割を終えなければなりません。ウルリカがこの物語で果たす役割は何か?これがポイントです。最初に、ウルリカはグスターヴォの存在を知っていたのかということです。私は知っていたと思いたい、その方が話がうんと面白くなるからです。彼女は未来を知ることができるわけで、当然国王がお忍びで現れることを知っていた、こう考えると、次の兵士の占いが非常に意味シンなものになります。兵士に昇進を告げたウルリカの言葉を実現させるのは、それを聞いていたグスターヴォということになるわけで、彼女は原因と結果を同時に仕込んだことになります。グスターヴォは自分の悪戯心からウルリカの占いを実現させて楽しんでいるようですが、ウルリカが彼のことを知っていたとすれば、遊ばれているのはグスターヴォの方ということになります。
次にアメリア、アメリアは秘密の恋の相手を「絶対の神が全ての人間の上に置かれたあの方」と言います。これはもう国王以外にありません。その国王がこれを立ち聞き(お行儀悪いな)しています。ウルリカはアメリアに「真夜中の処刑場へ行け」と告げますが、これは同時にグスターヴォにも告げられたことになります。処刑場での密会を仕組んだ(これは予言ではなく示唆であることに注意!)のはウルリカということになります。
そして、グスターヴォの手相を見たウルリカは、暗殺を告げ、動揺したホーンとリビングの前に進み出て「一体その心の中に何がある?」と問いかけています。彼女はこの時点で誰が反逆者か知ったわけです。ならばその後の「最初に握手をした者」という言葉は彼らにとっては挑発を意味します。ホーンもリビングもそれに乗るだけの度胸はありません。彼らは偶然握手してしまったレナートに救われます。ここで暗殺者の心理を考えてみて下さい。衆人環視の中でズバリと秘密を言い当てられ、一瞬青ざめる、その後国王に忠義を尽くす男から偶然にも救われる、ホッとした自分に腹が立つ・・・この怒りは当然に標的に向けられます。そうでないと暗殺の意思自体がぼやけてしまいそうなのです。彼らは暗殺を急ぎます、そう、今夜にでも・・・。
問題なのはウルリカの意思ではありません。彼女に悪意があろうがなかろうが、彼女の言葉が問題なのです。ウルリカを巡っては、いくつかのパラドックスが存在します(「最初に握手した者」と言いますが、予言者ならば誰が最初に握手するかも分かったはずです。またグスターヴォは「自分が追放されることが予見できなかった」とウルリカを笑いますが、その彼自身が追放を撤回してしまっているわけで、これではウルリカが正しいことになります。)。それが絡み合ってこれから先の悲劇を全てセットしてしまっているのです。ここで肝心なのは、アメリアが処刑場に行くことを決意したのも、グスターヴォがそれについていったのも、リビングとホーンが暗殺を急いだのも、結局は彼らの意思である、ということです。ウルリカの言葉は彼らの意思決定に方向を与えただけ、それぞれの結論は最初からそれぞれの胸の内にあり、ウルリカの中途半端な言葉がそれを具体化させたということです。
そして、オスカル、彼がウルリカを熱心に弁護しなければ、そもそもグスターヴォは場末の占い師のところになんか行かなかったでしょう。そして無邪気な顔をして、レナートにグスターヴォの扮装を教えたオスカル、彼は無意識のうちに決定的な役割を果たしています。
それにしても彼女の予言を聞かなかったレナートが最初に握手するハメになるのも当然ですね、彼女の言葉はその場にいて予言を聞いた全員を自動的に排除してしまうものだからです(いくら何でも、それじゃ私が握手しましょうとは言えないでしょ?)。彼だけはこの場面で何の予言も示唆も受けていません。なぜなら、彼だけが何の秘密も持っていないからです。だいたい占いというものは自分で、「そういえばそうかも知れない」とか「これってあのことか?」とか心当たりがない限り、意味をなさないものだからです。心に秘め事のないレナートはただただ偶然に弄ばれたと言えます。そう、この悲劇で一番の犠牲者はレナートなのです。
テロリストが墜ちた闇
レナートをグスターヴォ暗殺に走らせたもの、それは裏切られた(と思い込んだ)痛みです。敬愛する国王を暗殺から救うために真夜中の処刑場へと向かった忠義者の彼が見たものは、人目を忍ぶ国王と妻でした。しかし、考えれば真夜中の処刑場なんて密会の場としてはあまりに不自然(スウェーデン版だとめちゃくちゃ寒いと思う)です。国王でしたらいくらでも快適な秘密の愛の巣を持つことはできるわけで、この状況から妻とグスターヴォの情事を連想することはかなり困難だと私は思いますが、レナートにはそうではなかったようです。彼は疑いという至って不確実な動機から暗殺を決意します。レナートをテロリストに変えたものはホーンとリビングの嘲りです。レナートはその場で即座に暗殺を決意します(「明日、家に来てくれ」と彼らを誘ったのはレナートの方です)。この決断の早さにレナートの度量のなさが表れています。彼は自分の疑いを確かめることすらせずにテロに走ります。なぜなら、ホーンとリビングに名誉を失ってそのまま黙っている男ではないとアピールする必要があったからです。もしもレナートが懐の深い男であったなら、自分に自信を持った強い男であったなら、妻への愛(たとえお前が何をしても俺はお前を愛している)とグスターヴォへの忠誠(たとえ自分が辱められたとしてもあなたは優れた指導者だ)をそうそう簡単には捨てなかったはずなのです。実に、偶然は最適(最悪)の男を選んだものです。
彼とアメリアの間には愛に関する言葉は登場しません。アメリアは子供に会いたいとは言いますが(「最後の願い」)、レナートをまだ愛しているとは言いません。レナートの「お前こそ魂を汚す者」は前半で激しい怒りが歌われ、甘い間奏の後アメリアとの思い出に浸るという二つ折りの構造を持つアリアですが、彼は愛を懐かしんでも、愛を取り戻そうとはしません。彼は裏切られた夫という偶然のあてがった役割に忠実です。暗殺実行者を決めるくじを妻に引かせるレナート、間接的にアメリアを暗殺に参加させようとするわけですから、カッとなって妻を殴ったなんて話が可愛らしく思えるくらいの残忍さです。彼にとって名誉とは、愛よりも友情よりも、そして思想よりも(レナートは国王を支持していたわけで、その国王を殺すということは彼自身の政治信念を否定することになります)大切なのです。この狭量なテロリストには、恐ろしい結末が用意されています。
グスターヴォの名アリア「永遠に君を失えば」で幕を開ける仮面舞踏会、このアリアでグスターヴォはアメリアを忘れることを自分に強います。彼は最もつらい選択の痛みに堂々と耐えようとしています。裏切られた痛みから復讐に走るレナートに比べて、人間として格段の大きさを感じさせます。暗殺の舞台は王宮の大広間です。大勢の人間がひしめいています。凶器はナイフ、遠くから狙撃するわけではないので、この状況でテロリストが逃げおおせることは不可能です。つまりレナートのテロは「自爆型テロ」です。彼にはもう自分の痛みしか感じられず、死さえも甘美な慰めに思えるのでしょう。そんなテロリストにとって考え得る限りの最悪の事態とは何か?殺し損ねる、あるいは仮面のせいで人違いをしてしまう、それとも護衛の兵に発見されて未遂のうちに逮捕されてしまう・・・、レナートを待っていたものは、もっともっと恐ろしい結末です。彼は妻とグスターヴォの間に何もなかったことを知ります、彼は国王が自分を栄転させるつもりだったことを知ります、そして何よりも、彼はグスターヴォから許されてしまうのです。もう彼は妻を取り戻すことはできません(この後二人が関係を修復できるとは思えません)、彼は親友を失いました、彼は自分の政治信念を捨てました、そして殺すほどに憎み、願った通りに殺した相手から許されました。レナートはこの時点で「無」になってしまいます。もう彼には何も残されていません、「死」すら与えられません、後には償いきれない後悔と無限の虚無・・・。これより恐ろしい結末を私は想像することができません。
グスターヴォはテノールの役の中でも最高にかっこいい部類でしょう。堂々とした雰囲気と恋に悩む繊細さ、そして自分の死すら受容する寛大さ、各幕の最後での厚みのある合唱の中でも一際力のこもった国王らしい響きが欲しいところです。この雰囲気を出せるテノールとなるとプラシド・ドミンゴが一押しでしょうか。1980年のアバド盤が素晴らしい出来映えです。パヴァロッティも、ドミンゴほどの緊張感は感じられませんが国王の貫禄十分。
オスカルは女っ気なしの第一幕第一場で大活躍します。1991年のレヴァイン盤(LD)のハロリン・ブラックウェルがきびきびした動きで何ともチャーミング。
アメリア、従来のヴェルディ作品とは違ってコロラチューラの聴かせどころがありません(代わりにオスカルがコロコロ歌います)が、意思の強さを感じさせる複雑で強い表現力が要求されます。これはもうマリア・カラスで決まりでしょう。1956年のヴォットー盤、強靱な声と歌唱スケールの大きさ、そして細やかな表現、最高のアメリアだと思います。
ウルリカ、この役は難しい役だと思います。あまりおどろおどろしく歌ってしまうと「呪い」という雰囲気が出てしまい悲劇性が損なわれ、かといって力不足だと悲劇の起爆剤になりません。ムーティー盤のコッソットがその美しい声にぎらりと凄みをまとった感があって好きです。
さて、レナート、どうにもこうにもやりきれないこの男を歌って聴く者の共感を呼ぶことは至難の業だと思います。これだ!というレナートに未だに巡り会えませんが、ショルティ盤のブルゾンの冷淡な表現には怖さがありますね。
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