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マスネ 「ウェルテル」 (2002年2月16日〜2002年3月8日の日記より)
詩人は生きる
「精神的インフルエンザの病原体」・・・、1774年9月に発表されたドイツを代表する大詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「若きウェルテルの悩み」は、こう呼ばれてきました。主人公ウェルテルと同じ青い燕尾服に黄色のチョッキを着た若者のピストル自殺が相次いだのです。今日でも有名なロック・ミュージシャンやアイドルタレントの自殺の後にはいくつかの若者の自殺が報じられます。この現象は「ウェルテル症候群」と呼ばれています。しかし、同一視することには私は疑問があります。ミュージシャンやアイドルは実在した人間であり、彼らのファンの自殺は、「彼(彼女)のいない世界を生きることのはイヤ」という愛した者が存在しなくなった現実からの逃避と、「どうせ死ぬなら一緒に死にたい」という一方的な殉教願望による一種倒錯した独占欲が感じられます。しかし、ゲーテの描いたウェルテルは虚構の人物です。彼はこの作品中にしか存在せず、誰一人彼の姿を見た人も、彼の声を聞いた人もおりません。10人の読者がいれば、10人のそれぞれ違う容姿、声、生い立ちのウェルテルが存在したはずです。その彼の自殺に影響されて自殺する、それは自分のアタマの中にしか存在しない者の死ゆえの自殺、結局、自己ゆえの自殺なのです。
主人公が自殺してしまう文学作品は古今東西たくさんあります。その中でこの「ウェルテル」だけが「精神的インフルエンザの病原体」となり得たのはなぜか?
婚約者アルベルトとの結婚を控えたロッテに恋するウェルテル、最初からかなわぬ恋と分かっていながら、どうしてもその想いを否定することができません。立派な婚約者アルベルトがおり、彼を愛しており、幸せな結婚をし、しかし、なぜかウェルテルを必要とするロッテ。穏やかな好青年、ロッテとの新婚生活につきまとうウェルテルにもなぜか優しいアルベルト。三角関係の若者たちは3人ともに、洗練されており、教育があり、良識ある人たちです。ピストルの硝煙の匂いは全然似つかわしくありません。
答えは「オシアンの歌」にあります。ウェルテルが訳してロッテに贈ったオシアンの歌、3世紀のアイルランドの盲目の老詩人オシアンが書いたとされる神秘的な数々の詩。アイルランド南部マンスターに、フィン・マクールという英雄が創設したフィアナ騎士団がありました。そのリーダーであるフィンガル王家の最後の王子がオシアン。彼は美しい金髪のニアヴと共に魔界を旅し、数百年後全く変わらない姿で帰郷しました。しかし、掟を破ったとき時の魔法が解け、盲目の老人となったとされています。そのオシアンが一族の戦士たちの思い出を歌ったものが「オシアンの歌」。
18 世紀後半にスコットランドの詩人マクファーソンがその英訳を紹介したことによりヨーロッパ中で大ブレイクしました。アイルランドの厳しく寂しい自然を背景に、誇り高き戦士たちの戦い、そんな彼らを愛する娘たちの愛と死の物語。これ、実はマクファーソンの創作、彼は被征服民族のゲール語の口承伝説を、征服した民族の言語である英語で復活させたのです。
お互いの想いを胸に、ウェルテルがロッテに「オシアンの歌」のいくつかを朗読します。
「春風よ。われを呼び起こししは何ゆえぞ。媚びて語るや、『われは天の雫もてうるおす者』と。
されど、わが凋落の時は近く、わが葉を振い落とすあらしは迫れり。さすらい人は明日きたるべし。
わが美しかりし姿を見しさすらい人はきたるべし、きたりてわれを野面に求めさすらうべし。
されどわれを見いださざるべし」
死を前にした老いた吟遊詩人は、一人古戦場にたたずみ、英雄の雄叫び、剣の切り結ぶ音、消えてしまった聞こえない音に耳を傾けます。彼は枯れ木のような自分の命がもうすぐ嵐によって終わることを知っています。彼を求めるさすらい人は明日やってきます。時は既に遅く、そこには冷たい風が吹くばかり、さすらい人の求める美しい男の姿はどこにもありません。これは死んでいく男が、彼の後を慕って彼の墓の前にたたずむであろう若い男に残す詩なのです。
ウェルテルはいつこの詩を訳したのでしょうか。少なくとも自殺を考える前に訳していたはずです。マスネの「ウェルテル」では、この最後の下りしか紹介されませんが、この詩は是非ともゲーテの原作で全体を読んで下さい。そうでないと、ウェルテルを理解することが難しいからです。
オシアンの一族はもう誰も残っていません(「汝をいたむ母、汝になく、愛の涙に暮るる乙女もなし」)、みんな死んでいきました。戦いによって、裏切りによって、呪いによって、そして愛によって。これは死者の声なのです。
そう、死は最初からウェルテルの中にあったのです。ロッテへのかなわぬ想いはそれに形を与えたに過ぎないのです。そして、無意識のうちに死を包含する人間にとって、今度はウェルテル自身が「オシアンの歌」として作用します。「されどわが聞く声はなお甘美なり。そはアルピンが声、死せる人をいたむなり」・・・、丘を照らす陽射しより、渓流の囁きより甘い死の声。
ウェルテルが死んでも詩人ゲーテは生きます。生きていないと小説が書けないのですから当然ですが。このウェルテルはゲーテ自身と彼の友人イェルザレムの合成物です。文学志向を理解しない堅物の父親によって無理矢理法律の勉強をされられたゲーテは、1772年、法律実務の実習のためにヴェッツラルという小さな町に滞在します。肝心の法律家修行の方はどうもいい加減だったようですが、彼はそこでシャルロッテ・ブフという女性と出会います。シャルロッテには既にケストネルという婚約者がおり、ゲーテは失意を抱えたままこの町を去ります。その年の暮れに彼の友人であったイェルザレムが自殺、知らせを受けたゲーテはヴェッツラルを再度訪れ、その詳細を聞きました。翌年にはシャルロッテが予定通り結婚、厳格な家庭の中で彼の良き理解者であった妹も結婚、誰からも取り残されたかのようなゲーテはどん底状態の中、自分の実らなかった恋と友人の自殺を「ウェルテル」に昇華させることで生き残ります。彼はその83年の生涯を通してたくさんの恋をし、たくさんの恋を失いました。その都度、強靱な精神力と豊かな創造力でその危機を生き残りました。生き残ったから詩人となったのか、詩人であったから生き残ったのか・・・。
原作の引用部分は全て、ゲーテ作・高橋義孝訳「若きウェルテルの悩み」(新潮文庫)によります。
第一幕 水面に石を投げる者
ゲーテの原作をオペラにしようと思い立ったマスネ、それを実行した台本作家のブロ、ミリエ、そしてアールマン、揃いも揃って「蛮勇」を発揮したものだと思います。原作は一人称の書簡文学なのです。ロッテとアルベルト(アルベール)の言葉も、大法官殿(ロッテの父)やその幼い子供たちの様子も、全てウェルテルというフィルターを通して語られる形式をとっています。読む人間には「ウェルテルの目に映った彼ら」しか見えないのです。当然、ウェルテルのその時々の心の状態が反映されています。有頂天の時は何を見てもうれしいだろうし、落ち込んでいる時は何を見ても鬱陶しい、一人称文学の魅力は主人公との一体感にあります。ところが、これをオペラにしたのでは、テノール一人の舞台になってしまいます。オペラでは、ロッテもアルベルトも自分の声と言葉で語らなくてはなりません。このハードルは想像以上に高いと思います。
これからの悲劇をはっきりと告げる悲壮な前奏曲で幕が開きます。途中に美しい自然に陶酔するウェルテルの動機が登場します。空と風と花と木陰を愛する青年の運命は最初から悲劇に包まれています。
1780年代のフランクフルト郊外、緑の萌える7月、大法官が小さな子供たちにクリスマスの歌を教えています。大声で「ノエル(クリスマス)!」と喚いている子供達に手を焼いた大法官(「もういい!もういい!」)、ロッテ姉さんが聞いているのに、そんなことでいいのか?子供達は途端に良い子に。長女のロッテはこの一家では母親代わりなのです。大法官の友人ヨハンとシュミットが登場、7月に聖歌の練習かい?気が早すぎやしないかとからかいます。次女のソフィーが現れて今夜の舞踏会の話題に。今宵、ロッテをエスコートするのは誰?皆はウェルテルの噂をしますが、「いささか憂鬱」で「陽気じゃない」ウェルテルは、彼らにはあまり人気がない様子、音楽までスローダウン。ヨハンとシュミットが酒の神バッカスを讃えつつ退場。
ウェルテルが登場します。「おお、恵み深き自然よ」と美しい夏の太陽を讃えます。子供達の歌声、その屈託のなさと無邪気さを羨むウェルテル、彼の心の中には太陽の下では披露できない陰りが存在するのです。ロッテが登場し、子供達にパンを切り分けて与えます。その光景に見とれるウェルテル、彼の姿に気付いた大法官は彼を娘に紹介します。他の客も登場し、皆は舞踏会への期待で浮き立ちます。ロッテは、一番幼い子供に「この方は従兄弟よ」と親しみを込めてウェルテルを紹介し、後をソフィーに任せて子供達にお出かけのキス、その姿に恍惚とするウェルテル。
皆が出かけた後、大法官殿もソフィーが気を利かせてくれたおかげで酒場へ出かけます。ロッテの婚約者アルベールが突然の帰郷、ロッテは?いきなり帰ってビックリさせようと思ったのに。二人の結婚式を楽しみにしているというソフィーの言葉に、アルベールの胸はロッテへの愛でいっぱい。「あの人は僕を愛している!」、僕の希望、僕の愛!
辺りに夕闇が立ちこめ、ウェルテルとロッテが揃って帰宅します。舞踏会の余韻にほろ酔いのような二人、ウェルテルの「いつも開かれているこの目」にはロッテしか見えません。そんな彼を諭すかのように亡くなった母の思い出を語るロッテ、この世で一番大切なものを失うのを見るほど酷いことはないわ・・・、今のウェルテルにとってロッテの言葉はどうだっていい、その可愛らしく動く唇だけが意味がある。シャルロット、愛しています!私たちってどうかしているわ・・・、また、会えますか?
大法官の声が割って入ります。ロッテ!アルベールが戻ったよ!アルベール?そう、アルベール・・・、私の婚約者、あなたのせいで忘れていた約束を、私、思い出しました。約束を守りなさい・・・、僕は、僕は死ぬでしょう。
ロッテは立ち去り、後に残されたウェルテルは呆然と呟きます、他の男!
原作では、この夜の舞踏会でウェルテルは初対面のロッテに一目惚れしてしまいます、行きの馬車の中で婚約者がいると聞いていたにもかかわらず。「ひと言ひと言に新たな魅力、精神の新しい輝きがその表情から発するのだ。」「いきいきとした唇、健康そうな若々しい頬に、ぼくの心全体がつかまえられてしまった。」、そして、ダンス、メヌエット、「踊ること以外はなんにも考えない、なんにも感じない」、ドイツ・ワルツ、「あんなに軽々と踊れたことはまずない。ぼくはもう人間じゃなかった」「ぼくが愛し求めているひとにはぼく以外の誰ともワルツは踊らせない」・・・身体を寄せ合い、体温を感じ合うダンスに酔いしれるウェルテルの熱がそのまま伝わってきます。
「アルベルトって、どなたなんです、ぶしつけだけど」「私のいいなずけみたいな、まじめな方ですの」・・・とうに知っていたにも関わらず「ぼくは頭がこんがらがって、なんだかわからなくなり」・・・、「そのときから太陽も月も星もぼくにはどうでもよくなってしまったんだ」。
オペラでは、この辺りが微妙にぼかされています。二人は初対面のような、既に知り合いのような・・・、ウェルテルの一目惚れをぼかすことは一面で成功していると言えます。どこか危うい繊細な雰囲気を醸し出す効果があるのです。そして一面で失敗しています。二人の恋が何やらアルベールのいない間にズルズルと続いていたかのようで、ロッテはウェルテルに婚約者のことを黙っていたのか?ウェルテルは二股かけられていたのか?という印象が生じてしまい、少々隠微な秘密の不倫めいた香りがして、原作にあるような精神の火花が飛びません。
反面、原作にはない大法官殿の指揮する「少年少女合唱団」のクリスマス聖歌の練習風景を取り入れたことで、ウェルテルの「異端児」ぶりが強調されています。7月だというのにクリスマスの支度・・・誰が見たって早過ぎます。それをからかうヨハンとシュミットに対する大法官の答え、「小さな子供達に歌を教えるのは楽な仕事じゃない」、この一家の堅実ぶりが露わになっています。何事も準備万端怠らず、しっかりと確実にコトを進めるという「堅気の一家」の雰囲気がしっかりと感じられます。その聖歌に続いてウェルテルの歌う「おお、恵み深き自然よ」、彼は自然を、ありのままの自然を賛美する男なのです。風、光、水、ウェルテルが賛美するものはどれもこれも気まぐれで移ろいやすいものばかり。万物の創造者であり、この世の秩序の支配者である神を賛美する聖歌に対して、あれもこれも美しい、そのままで恵みに満ちていると歌うウェルテル、彼は最初から大法官たちの世界では、彼らの堅実で平穏な生活を乱す招かれざる異端児なのです。
異端児ウェルテルの出現によって婚約者の存在を忘れてしまったかのようなロッテ、子供達の歌う聖歌に陶酔することで、自分が彼らの世界に所属しているという幸せな錯覚に浸っていたかのようなウェルテル、彼らはこの夜、ダンスというつかの間の(音楽が終われば終わってしまう)性の前哨戦に酔いしれて、お互いに属している世界が違うことを忘れてしまいました。そんな彼らに現実を知らせるアルベールの帰郷、約束を思い出すロッテ、そんなロッテに約束を守るよう、そして自分は死ぬと告げるウェルテル、彼は、ロッテを彼女の属する世界に置いたまま異端児である自分が消えることが、この恋の唯一の解決方法であることを最初から知っています。
衝撃的な一目惚れを曖昧にすることで、オペラは原作の持っていた熱を失いました。その熱の代わりに早々と死の青ざめた横顔を垣間見せることで、マスネの「ウェルテル」は、密やかな官能美と隠花植物の儚さを獲得していると思います。第一幕では繊細さを味わいたい、前奏曲、ウェルテル登場の場面、アルベール帰郷の場面、そしてウェルテルとロッテの帰宅の場面、弦楽器の持つ艶やかさと憂いが余すところなく発揮されます。
第二幕 それぞれの思惑
第一幕での眩しい夏の光は少々薄れ、9月、場所は牧師館の中庭、牧師夫妻の金婚式を祝うために人々が集まっています。ヨハンとシュミットのオヤジコンビは相変わらずバッカスを讃え(こいつら、酒が飲めるなら何でもいいんですね)、肝心の金婚式の方は、「私はそんなに長く辛抱できんな」とシニカルにしてユーモラス。
ロッテとアルベールもお祝いに現れます。「結婚してから3ヶ月がたった」、君は幸福な妻かい?どうして悔いることがあるの?なんてうれしい言葉!とアツアツ。そんな二人を遠くから見つめているのはウェルテル、「他の男が彼女の夫なのだ」、僕の人生の伴侶にあの天使を与えて下さるのなら、一生熱い祈りを捧げるだろうに、と神の与えた運命を呪うウェルテル、彼の歌声は次第に熱を帯び、僕だけが彼女を愛することができるんだ!なのに、なぜ?僕の命は声を上げて泣く・・・、頭を抱え込んでベンチに腰を下ろします。
ヨハンとシュミットのバッカス・ファンクラブは、彼女に逃げられたブリュールマンをなだめ、お祈りはともかくダンスはさぼっちゃだめだぜ、と踊りに出かけます。ベンチにぽつねんと座っているウェルテルの肩にそっと手を置くアルベール、「友よ、幸福に溢れている僕の心に」良心の痛みが走るんだ。シャルロットは僕の妻、君の夢は消えてしまった、君が失ったものがどれほど貴重であるかと思えば。それに答えるウェルテルは、僕の心を読むことができるなら、君はそこに友情を見てくれるね、それこそ幸福の分け前だ、表面は礼儀正しいウェルテルですが、勝者と敗者の間に真の友情は成立するものでしょうか?
音楽が明るく転じ、ソフィーが駆けてきます。「お兄様、ご覧になって」、このお花!ウェルテル、踊りましょうよ、最初のメヌエットはあなたとって決めているの、空が青くて、小鳥が歌っている、私たちみんな幸せなのよ。幸福?僕が再び幸福になることがあるのか?、ソフィーのウェルテルへの淡い恋を知っているアルベールは、それとなくウェルテルに水を向けますが、当のウェルテルは無関心。
教会からロッテが出てきます。思わず駆け寄るウェルテル、「僕は真実を語っただろうか?」、あの日、初めて見つめ合った時の言葉にならない感動、愛しています、シャルロット!私はアルベールの妻、彼は私を愛しています、貴女を愛さない男なんていない!私たち、お別れする運命なの、行って、行って下さい!何という言葉!不在が苦悩を和らげてくれます、僕には貴女を忘れられない!忘れる必要なんてありません、強く、正しくあってほしいのです。ロッテはクリスマスの再会を約束し、ウェルテルを遠ざけます。
そう、「あの人が僕に命じたことを」しよう・・・、僕は行こう、永遠の平和、死が横たわっている・・・、神よ、あなたは僕を苦しめることはなさらないはず、僕をお召し下さい・・・。
なかなか現れないウェルテルが待ちきれず、ソフィーが登場します。早く!行列が来るわ!ウェルテルは冷たく突き放します、僕は行きます、いつ?今すぐに、じきに帰ってくるわよね?永遠に戻らない、足早に立ち去るウェルテルを唖然と見送るソフィー、たった今まで幸せだったのに・・・。
涙にくれる妹に驚くロッテ、どうしたの?ウェルテルが行ってしまったの!永遠に・・・。
金婚式、長年の愛情に感謝する祝いの席で、それぞれの思惑が交錯します。その思惑は決して美しいとは言えません。原作では11歳の少女であるソフィーをなぜかウェルテルと釣り合う年齢に設定してしまったおかげで、物語は一挙に生臭くなります。
アルベールは自分の留守中にロッテに付き添っていたウェルテルがロッテを愛していたこと、彼女が自分の妻となった今でも愛していることを知っています。優しい友情の言葉の影に勝者の奢りと疑惑が息づいています。アルベールが自分のロッテへの愛を知っており、それを友情で偽装しようとしていることを知っているウェルテル、知っていてなお、友情の美しさを讃える彼、男二人はお互いに自分を偽っていることを知った上で、相手がそれには騙されはしないと知った上で、空虚な友情ごっこを繰り広げます。
ロッテ、彼女はアルベールもウェルテルも愛している、女にとって自分を愛する男を愛することは簡単です。相手が何人いようと問題ではありません。愛されることの快感の前には、人妻という立場の制約は無力なのです。ロッテはウェルテルを突き放すかのように、この地を去ることを勧めます。ところがその直後には「クリスマスには帰っていらして」・・・、これじゃウェルテルはどこにも行けません、糸のついた風船と同じ、私の手の届くところで適当に漂っていなさいってことです。
この大人3人の思惑に翻弄されるのは幼いソフィーです。彼女は愛するウェルテルが姉を愛していること、姉も彼を愛していることに全く気付きません。ソフィーは駆け引きをするには、それを見破るには幼すぎるのです。その幼さゆえにウェルテルが側にいる幸せに思い切り酔い、手ひどい二日酔いを味わうはめになります。
「ウェルテル、幸福について語ろうじゃないか、唇には笑み、手には花を持って」、アルベールはソフィーのウェルテルへの淡い恋を、結果的に二つの面で利用しています。これに乗って僕の妻を忘れてくれれば幸い、これに乗らなければ、こいつ、ロッテを未だに想っている・・・。二人の男から愛されるロッテは、ウェルテルを愛する妹の気持ちに気付きませんでした。彼は永遠に行ってしまったの!と泣くソフィー、それに被るロッテのつぶやき、「永遠に・・・」、これで私は彼の愛から逃げられる、これで私は彼の愛を失ってしまった、永遠に私から離れる?そんなことができるの?もう永遠に会えないの?「永遠に・・・」、この響きには自分の想いのあれこれはあっても、ソフィーに対する優しさはありません。愛は女をエゴイストに変えます、たとえ相手が妹であろうとも。
原作では人妻ロッテへの愛を捨てられないウェルテルの想いは、至って単純です。ソフィーが登場しないからです。彼の想いは決して拡散せず、真っ直ぐにロッテに向かいます。だからこそ、何も知らない鈍感なアルベルトは幸せなままでいられ、彼が幸せだからこそ、ウェルテルも純粋でいられます。「むろん、アルベルトは心底からロッテを愛しているさ。だからそれほどの愛ならどんな報いを受けたっていいんだ。」「我慢ならんやつに邪魔をされた・・・」、この純粋な憎悪と妬みの美しさ。
それに引き替え、マスネのウェルテルの醜悪な駆け引き・・・、マスネはゲーテのウェルテルを「大人の恋の物語」に書き換えてしまったのです。恋は美しい・・・とは必ずしも言えないのです、一度駆け引きを覚えてしまった大人の場合には。だからこそ、この幕ではソフィーの歌う「お兄様、ご覧になって!」が儚くて美しい、睨み合う狼3頭の間ですくんでいる野ウサギのように。そして、それによって、ウェルテルの「あの人が僕に命じたことを」が最高の難所となります。ウェルテルは去ります、ロッテを忘れるために。それは何も知らないソフィーを守ることでもあるのです。愛の本質はエゴイズムです、しかし、愛は愛であるがゆえにそのエゴを超えることもあります。甘い旋律と高まる感情、リリック・テノールの真価が問われる場面です。
第三幕 愛とはここまで無慈悲なもの
クリスマス・イブ、聖なる一夜、子供達の夢の夜、犠牲と救済に祈りを捧げる夜、そんな特別な夜に冷たい死が横顔を覗かせます。暗く重たい前奏曲、死がドアを荒々しく叩きます。
アルベール家の居間、ロッテがウェルテルからの手紙を読んでいます。この手紙、何度も読んだわ、喜んで、そして悲しんで、私はこれを破らなくてはならない、でも破ることができない・・・、アルベールの妻としての理性とウェルテルを恋する心が、ロッテの中でせめぎ合います。「12月の重い灰色の空が僕を覆い、孤独、いつも孤独です」「あなたは僕に仰った、クリスマスに!と。僕は叫びました、永遠に!どちらが正しいのかやがて分かります」・・・。
クリスマスのおもちゃを手にソフィーが登場します。慌てて手紙を隠すロッテ、お姉様、手が冷たいし目が赤いわ。お姉様に必要なのは昔のような笑いよ、笑いは翼を持っているの、小鳥なのよ、昔・・・ウェルテルがいつも側にいてくれたあの昔・・・?ウェルテルがいなくなってからみんな憂鬱そう、どうしてあの方はお便りをくれないの?突然に去って行ったウェルテル、ソフィーはそれが姉へのかなわない愛ゆえとは知りません。彼が帰ってくれば、全ては元通りだと信じているのです。ソフィーの一言一言がロッテの心に突き刺さります、この子までなぜあの人の話を。ロッテの涙にすっかり動揺してしまったソフィー、私が悪かったわ、あんなこと喋るんじゃなかった。懸命に姉を慰めるソフィーですが、今のロッテには無意味。泣かせてちょうだい、それが一番いいの、いっそ心が砕けるまで泣きたいの。クリスマスなのよ、お父様と子供達に会いに来て、ここに一人でいないで、ソフィーはロッテを誘います。ええ、行くわ、きっと行きます。
神よ、私の弱さをお許し下さい、あらゆるものが私を傷つけます、私をお助け下さい・・・。
青ざめたウェルテルが登場します。離れていてもロッテが忘れられない、想いは募るばかり。すっかりやつれたウェルテル、「そう、僕です」、クリスマスだから、帰ってきました、帰ってきてしまいました。貴女なしでは生きられない、もう、どうなっても構わない!僕はここにいる!
既に自分を取り繕う力を失っているウェルテルがロッテに迫ります。懸命に自制するロッテ、みんなであなたを待っていました、何もかも昔のまま・・・。そう、昔のままだ、ハープシコードがあって、本があって、ピストルがあって・・・。甘い誘惑者に魅入られたかのようにピストルを見つめるウェルテル、ロッテがノートを差し出します。あなたの訳した「オシアンの歌」が、ほら、ここに。
「春風よ、なぜ私を目覚ますのか」、美しいレチタティーヴォから感情は一気に高まります。彼の中の愛と死を目覚めさせたもの、それはロッテ、そのロッテに向かってウェルテルがありったけの想いを打ち明けます。2回繰り返されるフレーズの情熱、それは今では愛への情熱ではなく、死への情熱です。ウェルテルの中の死に神は既に目覚めています。ラストの変ロ音、行き場のない情熱が一気に上昇します。
ウェルテルがロッテを抱きしめます。自分を偽って何になる?僕たちの不滅の愛に打ち勝ったと?不滅の愛が滅びるわけがない、僕たちはお互いに嘘をついていただけ、愛しています!「止めて!」、ロッテは必死に抵抗します。あなたはどうかしているわ、私は乱れた心にはついていきません、さよなら、永遠に!走り去るロッテを追おうとするウェルテル、しかし、ロッテは戻ってはくれません。そう、終わりだ・・・、自然よ、嘆け、お前の息子は死のうとしている、墓場が呼んでいる・・・悄然と立ち去るウェルテル。
アルベールが登場します。ウェルテルが戻った・・・、ドアが開いている、妻はどこだ?夫の姿に悲鳴を上げるロッテ、アルベールは全てを悟ります。そこにウェルテルからの手紙が届きます、「僕は旅に出ます。護身用にピストルを貸してくれませんか」、使いの者にピストルを渡しなさい!冷たいアルベールの言葉がロッテを打ち据えます。震える手でピストルを渡すロッテ、アルベールは手紙を握りつぶして去ります。残されたロッテは、コートを掴むとウェルテルの後を追います。
去るも地獄、残るも地獄のウェルテル、彼にはもうあの世以外に安息の場がありません。ロッテの元から去った彼は、彼女がいなくても、いえ、彼女がいないからこそ、恋に苦しみます。「やりきれないんだ。君、もうだめだ、ぼくは。」「ロッテの幻がつきまとって離れない。夢にもうつつにもそれが心を占領している。」、ゲーテのウェルテルは親友に矢継ぎ早に切ない手紙を書き殴り、ここで原作は一人称から三人称に突然に形を変えます。舞い戻ったウェルテルは一度ロッテを訪ね、招かれざる客として醜態を晒します。明けて12月21日、彼はロッテに手紙を書きます、「決心しました。ロッテ、ぼくは死にます。ぼくはこれを感傷的な誇張なしに、落ち着いて、あなたに最後に会う日の朝、書いているのです。」。その夜6時30分、ロッテを訪ねたウェルテルは、この世の最後と決心してロッテに「オシアンの詩」を朗読します、「本当に初めて、初めて『ぼくは愛されているんだ』という歓喜の感情が・・・、心の中には、新しいあたたかい歓喜があります。ゆるしてくださいね、本当に。」
ロッテの前に現れたウェルテルは、既に死を決心していたのです。マスネではこの部分がカットされています。全ては「オシアンの歌」を歌うテノールの表現力に委ねられています。古代ケルトの詩人の言葉にどこまでウェルテルの感情を織り込めるか、テノール一世一代の勝負です。
この幕では愛の酷さを感じます。ウェルテルはなぜアルベールのピストルを求めた?自殺の方法なら他にいくらだってあるのに。彼は自分の死をロッテに、そしてアルベールに告げたかったのです。ウェルテルは彼ら二人の存在ゆえに自分の中に内在する死を自覚し、それを受け入れます。ロッテに死者の言葉を朗読します。そして、アルベールのピストルで命を絶ちます。甘い自己愛とその裏にある残酷なエゴ。これから死にます、君たちのせいですって言われる方は堪りませんよね。
そしてアルベール、ウェルテルがピストルを何に使うのか、彼には分かったはずです。旅行の護身用って、彼はこの町に帰ってきたばかりです。自分の姿を見て悲鳴を上げた妻、その妻の泣きはらした目、アルベールは全てを知った上でピストルを渡します。それも自分の手では触れず、ロッテに使いの者に渡すように命じます。この不始末はお前とウェルテルがしでかしたこと、ウェルテルは死ぬ、お前もその恋に終止符を打て・・・、アルベールを歌うバリトンは、ここでの短い旋律に全てを込めなければなりません。最初から秩序を破壊する者として登場したウェルテル、アルベールはそんな彼に対して秩序を守る者として、冷酷に、強烈に、よそ者を排除して見せる、しかし、彼のこの残酷さの動機は、世間ではなくて妻への愛・・・、愛は時にこれほど厳しく、偏狭です。
では、ウェルテルを突き放し、ピストルを渡し、しかし、どうしても彼を去らせることができずに後を追うロッテは?悲劇のヒロイン、か弱き女、虐げられる妻・・・、実は一番恐ろしいエゴを発揮するのはロッテです。第四幕でそれが露わにされます。
第四幕 あんまりな結末
クリスマス・イブの夜も更けて辺りは一面の雪、月の光が青白く全てを包み込みます。ざわめくような不安、間奏曲は既に血と硝煙の匂いを伝えて、いよいよラスト・シーンです。
薄暗いウェルテルの部屋、窓は開け放たれ、遠くの家々の灯り、その灯り一つ一つの下で、それぞれが聖夜を祝っています。暖かい部屋、湯気を上げているご馳走、葡萄酒、そして子供達のはしゃぐ声、全てが遠い・・・。ウェルテルは既に致命傷を負って床に倒れています。ロッテが飛び込んできます、「ウェルテル!ウェルテル!」、返事はありません。血塗れの彼の姿に駆け寄るロッテ、神様!なんてこと!答えて!しっかりして!誰・・・?シャルロット、君?意識を取り戻したウェルテルが切れ切れに語ります。許して・・・君は正しいことをしたんだ、僕の死は君の潔白を守る・・・。うろたえたロッテは助けを呼びにドアに走ろうとします。行かないで!助けはいらない、君の手だけでいい・・・、僕には君以外は必要ないんだ。ロッテの手を握りしめたウェルテルの顔は既に死人のものです。
最後の時に僕は幸せだ、君にこの想いを語りながら死んでいくなんて。ウェルテル、私も愛している!初めてあなたを見たあの日から愛している!なのに、私は自分を守るためにあなたを傷つけてしまった!あなたにキスさせて、死があなたを連れていってしまう前に。ロッテの唇がウェルテルの唇にそっと触れます。あらゆることを一緒に忘れましょう!全てを!何もかもを!
窓の向こうから子供達の声が聞こえます、「ノエル!ノエル!」、こんな時にあの楽しそうな声が。ウェルテルは身体を起こして子供達の声に聞き入ります、あれは償いの歌、罪のない子供達が歌う許しの歌だ・・・。
「ノエル!ノエル!」、泣かないで、ロッテ、僕の生涯は今始まるんだ。「ノエル!ノエル!」、神は我らの幸福を許し給う、幸せが満ち溢れる・・・。
ウェルテル!死なないで、答えて!死も私からあなたを奪えないわ、あなたは死なない!私は何も恐れない。いや、ロッテ、僕は死ぬ、もしも教会が僕の亡骸を拒むなら、人里離れた谷間が僕の墓には相応しい・・・、司祭は目を背けて通り過ぎる、でも、一人の女性が見捨てられた男を訪ねてくる、そして涙を流す、哀れな死人は祝福を感じるんだ・・・。
ウェルテルは息を引き取ります。「イエスは生まれ給う、クリスマス!クリスマス!」、子供達の声が響きわたります。
あんまりな結末です。恋が実らないからウェルテルは死のうと思ったのに、ピストルで頭を撃ったのに、その途端に恋が実ってしまいます。これでは彼は死ぬに死ねません。原作では、ウェルテルはたった一人で死んでいきます。アルベールからのピストルを手にして「埃を払ってくれたのはあなたです。ぼくはこのピストルに何度でも接吻する。あなたの手が触れたのだ。」と呟き、手紙の相手であった親友ウィルヘルムに別れを告げ、召使いに決して出発することのない旅行の支度を命じ、「この服装のまま葬ってください。あなたがこの服に触れ、これをきよめてくださったんですから。」「弾はこめてあります。12時が打っています。ではやります。ロッテ、ロッテ、さようなら」と書き残し、たった一人で。翌朝、召使いが血塗れの彼を発見します。ウェルテルは意識を回復することなく、正午に息を引き取ります。ロッテは登場しません。知らせを受けてアルベールの前で気を失って倒れたと書かれているだけです。ロッテは最後までウェルテルにとって「向こう側」の人です。だからこそ、ウェルテルは「こちら側」の世界で一人死ぬのです。
確かにロッテが登場しないことにはオペラとしては成立しにくいかも知れません。しかし、ロッテを登場させたことでマスネの「ウェルテル」は最後にゲーテを裏切ることとなりました。叶わぬ恋を叶えてしまった、これはやってはならなかったと私は思います。
ロッテ、あなたはウェルテルの恋を叶えてはならなかった、それをやっては彼は無意味になってしまう。彼を愛しているのなら、彼を突き放すべきだった。そう、死んでちょうだい、あなたが死んでくれれば私はもう泣かずにすむの、苦しまずにすむの、私はあなたを傷つけた、自分を守るために・・・。だから最後も私のために死んでちょうだい。私はアルベールと生きていきます、あなたのいない世界で、だって、これが私の世界だから・・・、ロッテ、あなたはこう言わねばならなかった、どれほど辛くても、こう言うべきだった、これがあなたの愛でなければならなかった。あなたは最後までウェルテルを自分のものとして利己的に苛んだのですか?
それとも、自殺を図ったウェルテルに愛を告白し、口づけしたあなた。あなたは教会の教えに背いたウェルテルを抱擁しました。あなたは自分の世界を捨ててウェルテルと共にあることを選んだのですか?
ロッテを登場させるには二つの方法があったと思います。一つは瀕死のウェルテルが呟く支離滅裂の思慕の言葉に、舞台の外から、あるいは舞台を分割して、彼は死んでしまう、これで良かったの、いえ、これはあってはならないこと、私は彼を愛しているから・・・、愛している?夫以外の男を?と歌うロッテを被せるという方法。もう一つは、これは心中であると示唆する、ロッテはコートを掴んでアルベールの家を飛び出した時点で全てを捨ててしまった、ロッテはウェルテルの後を追うかも知れない、死なないまでもアルベールとの結婚は破綻し、社会的には不倫の緋文字を押されて死んでしまうと明確に示唆するという方法です。このどちらかを採用すべきだったと私は思います。恋人たちが抱き合うラストシーンは美しい、しかし、「ウェルテル」の場合、これはあってはならないのです。
この結末を救うことは可能です、ウェルテルを歌うテノールの力量によっては。もしもキリスト教の土地が不幸な男の骸を拒むなら、道に沿った、あるいは人里離れた谷間が僕の墓に相応しい、司祭は目を背け通り過ぎる、だが一人の女性が見捨てられた男を訪ねて来るだろう・・・。ウェルテルは夏のさなかにクリスマスの支度をするような人間達の世界にふらりと降り立ちました。彼は自由で孤独で、束縛を嫌う人間です。他の男の妻となったロッテに熱い想いを捧げることで、神の前に祝福された婚姻関係を否定しました。キリスト教では大罪であり、教会の墓地には葬って貰えないという自殺を選びました。そんなウェルテルにとって道ばたの、谷間の寂しい墓は、彼の精神にとっての最高の勲章なのです。この感情をどこまで歌えるか、全てはそこにかかっています。
愛しているんだ、ロッテ、世界も神も秩序もどうでもいいくらい、愛しているんだ。君のために命を捨てる、生きていたら僕はやがて力尽きてこの苦しい愛から逃げてしまうから。僕は神の教えに背いて自分で死んでいく、だって、神の教えに背いて君を愛したから・・・。君は僕の墓を訪ねてくれるかい?誰も寄りつかない荒れ地にぽつんと立つ背信の十字架を・・・。
「オシアンの歌」がここで完結します。「わが涙は死者のため、わが声は墓の住人のためなり」「夜はきた!われはひとり嵐の丘にいる。風は並み立つ山の中にさけび、流れは岩をたぎり落ちる。嵐の丘の上にいて、棄てられたわれを雨からまもる小屋とてない」・・・「さすらい人は明日きたるべし。・・・きたりてわれを野面に求めさすらうべし。されどわれを見いださざるべし」・・・。
というわけで、テノール次第という作品です。お薦め録音は、1979年のプラッソン盤、アルフレード・クラウスのウェルテルは繊細で純粋、原作の雰囲気を見事に掴んでいます。1968年プレートル盤のニコライ・ゲッタ、端正で匂い立つ気品。1980年デイヴィス盤のホセ・カレーラス、微妙なニュアンスと弱々しさ。1998年パッパーノ盤のロベルト・アラーニャ、瑞々しくも痛々しい青春。
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