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オペラグラス
2010年11月22日 初台心中・月夜の道行き〜新国立劇場公演 「アンドレア・シェニエ」
秋も深まり、歩道の上でカサコソ囁く枯れ葉の量も日毎に増えるこの季節、思いの外暖かく長閑な日曜日の午後なのですが、私はこれから革命の嵐の中に身を置くわけでして、はい、結構緊張しているのです。「トスカ」だと全然そんなことないのですが、なぜか「シェニエ」を聴く時、私は緊張してしまうのです。
第一幕、斜めに切られた幕が左右に開くと、コワニー伯爵邸では夜会の準備が進んでいます。舞台は全て斜めの直線で構成されています。ジレットの替え刃を組み合わせたみたい、ギロチンの刃がモティーフなのでしょう、結構威圧感があります。それがぐるぐる回ります、というか、回りすぎます。作った方としては精一杯回したいでしょうが、必要以上と感じました。
老いた父の境遇を嘆く従僕のジェラール(アルベルト・ガザーレ)、コルセット締めるの面倒なのと言いつつはしゃいでいるマッダレーナ(ノルマ・ファンティーニ)、コワニー伯爵夫人、そして招待客たち、全員白の衣装で白の鬘、これが全員してぐるぐる回るのですから、分かり難いったらありません。マッダレーナとシェニエ(ミハイル・アガフォノフ)だけ鬘なしなので、このご両人だけは見失わないで済みましたが。
マッダレーナの軽薄さを諫め、愛の意味を説くシェニエの「ある日青空を眺めて」、アガフォノフ、立派な声です、声量も申し分なし、真正面からのぶちかましです。愛を讃える詩人というより革命の季節を告げる予言者、少々大雑把ではありましたが、聞き応え十分。負けじと声を張り上げるファンティーニ、そのせいか、妙に逞しいお嬢様、しかし、出だしから一切の手抜きなし、その力一杯の誠実な歌唱にはこちらもありがとうと返しましょう。
問題はオケ(指揮はフレデリック・シャスラン)です。まさか初めてオペラやったわけでもあるまいに、一本調子にガンガン鳴らして舞台の上の声を殺している、ぶちかましの詩人と逞しいお嬢様だって時々オケに押されている、まして、根クラの従僕の声を聴くのに私は大変苦労しました。ここに抗議いたします。
第二幕、パリの街は恐怖によって支配され、人々は誰も彼もが自分が裏切り者と言われる前に隣人を裏切り者として告発しようと躍起になっています。革命政府の大物になったジェラールはマッダレーナの行方を追い、シェニエは密偵(高橋淳)に見張られています。そんな彼に謎の人物からの手紙を届けるのは、娼婦になったマッダレーナの小間使いベルシ(山下牧子)、その手紙がシェニエを支えています。シェニエは国外へ逃れろという友人ルーシェ(成田博之)の言葉を振り切り、謎の人物との密会の場へ。そこに現れたのはマッダレーナ、二重唱はそもそも声量タップリのご両人がお互いに負けてなるものかと力一杯の熱唱。舞踏会でたった一回会っただけでお互いに運命の人と心に決めていた二人、命の危険を顧みず求め合っていた二人、十分に説得力を持った歌唱でした。そして、お嬢さんの言葉とは裏腹に、何故かとても楽しそうに娼婦稼業に精を出しているベルシが可愛い。対して、ド派手な縞模様の衣装の密偵くん、目立ち過ぎです、そんなに目立っては密偵失格です。
そのド派手密偵の手引きでジェラール登場、「お嬢様を守れ」とシェニエを逃がし、マッダレーナを見送るジェラール、彼はこの後シェニエを告発しマッダレーナを罠に掛けるわけで、なんとも分かり難い元従僕のこの行動、彼の心情を解く鍵は次の幕にあります。
第三幕、ヨーロッパ中から総スカンを食らっているフランス革命政府のために寄付を集めるジェラール、一人の老女は最後に残った孫を兵士にと差し出します。少年の手を引いて立ち去るジェラール、そこにシェニエ逮捕の報が届きます。奴を告発すればマッダレーナが命乞いに現れる、そして、俺は・・・、思わずペンを取り落とすジェラール。「祖国の敵」、俺は未だに従僕じゃないか、己の欲望の命じるままに無実の人間に死を与えようとしている惨めな従僕じゃないか、ガザーレの歌唱は旋律よりも一つ一つの言葉を丁寧に「置きに来る」非常に演劇性の高いものでした。お仕着せから自由になりたかった、父を自由にしてやりたかった、そのために戦った、敵を殺した、大勢殺した、そして、俺は今、一人の女が欲しくて一人の男を殺そうとしている・・・。前の幕で目の前のマッダレーナとシェニエを逃がしたジェラールが、ここに至って嘘の告発状をでっち上げる、あの時の彼には正しくあろうという意志があった、しかし、世の中を正しくあらしめようとした革命が、老婆から孫を奪うものに成り果てた今、ジェラールは自分が正しくあることの意味が分からなくなってしまったのです。ガザーレの歌唱は敢えて声を犠牲にして言葉を活かすことでジェラールの絶望を掘り下げる、見事なものでした。
そのジェラールの苦悩に答えるのは、マッダレーナの「亡くなった母に」。ファンティーニの歌唱は知的ではありませんが、声質をそのまま活かした伸びやかで素直な歌唱です。
私は彼女の声を聴くといつも辻邦生の「西行花伝」の女院、待賢門院を思います。「ふっくらした瞼の下から、艶やかな黒目を大きく見開いて物問いたげにご覧になり、高い声と低い声の二つに割れたような嗄れた快い声でお話になるだけで」、「あの二つに割れる、なまめいた、快い声で笑われるのが、最もふさわしいお方であった」、「女が我が儘なものだとすれば、女院はまぎれもなく女であった。女が信仰深いものであるとすれば、女院は間違いなく女であった。女が愛するものだとすれば、女院はまさしく女であった。」、ファンティーニのふくよかでちらりと苦みの走った声を聴くと、女院の声はきっとこのような声であろうと想像するのです。
愛ゆえの苦悩があるのなら、愛はそこへ行って身を横たえる、ファンティーニのスケールの大きな歌唱がジェラールの苦悩を引き受ける、一度は膝を屈したジェラールは再び立ち上がります、正しき者であるために。ドラマの核をしっかりと捉え、手応え十分の幕でした。
第四幕、監獄でルーシェに遺書となる詩を朗読するシェニエ、「五月の晴れた日のように」、アガフォノフの歌唱は相変わらず大変立派な歌唱なのですが、第一幕と同じです。この間に革命があって、運命の再会があって、そして今、彼は死のうとしている、それが全然感じられないくらい同じなのです。確かにシェニエは(マッダレーナやジェラールと違って)作品中で人物像が変化しませんが、ここまで同じだと、マッダレーナ、来ても来なくても関係なくね?という印象になってしまい、この後の展開を支えるにはちょっと物足りない。
幕切れ、革命の三色旗で目隠しをした人々が続々登場、老いた父を伴ったジェラールの姿も、そして、断頭台へ向かう二人の前で人々が倒れ伏していく、第一幕で全員同じ白い衣装で分かり難いとブーたれましたが、なるほど、誰も彼もが革命の前にあっては皮肉なことにその死において平等であった、余りにも多い無名の死を表すためであったのかと納得。光が指し示す先には4人の子供たち、未来は彼らに託されたのです。
「トスカ」と実質的に双子であるこの「アンドレア・シェニエ」、「トスカ」ほど上演回数に恵まれないのは、「トスカ」がギリギリの緊張感と極限のエロスに彩られた、非常に単純な一夜の出来事を描いた密室劇であるのに対し、「シェニエ」はまず革命という巨大な前提があって、その中で三人の若者がそれぞれに変化していくという大きな流れを持った作品であるのに、ジョルダーノの旋律がその大きさを捉えるのではなく(スケールの大きな合唱もないし)、その細部に美を見出してしまっている(ふっと途切れる間際の旋律の美しさは絶品です)点にあると思います。つまり、歌手にとっては役柄を掘り下げる道具を自前で調達しなければならない作品なのです。
今回の公演、アガフォノフとファンティーニは所々で掘り下げが足りないなと感じましたが、敢えて暗い歌唱に徹して二人の死への道行きを見守ったガザーレの健闘に拍手を贈りたいと思います。
幕間ではスクリーンの上を無限に増殖していくギロチンの絵、ドラムの三連打、少々やり過ぎのような気もしましたが、分かり易いし、装置の立てる音を消し込む効果もありました。主演3人、力で押すアガフォノフ、声の魅力で聴かせるファンティーニ、トコトン知的に役にアプローチしたガザーレ、それぞれ個性的で楽しめる舞台でした。
名残惜しさを噛み締めて劇場を後にすると、空には丸い月、「弓張りの 月に外れて 見し影の やさしかりしは いつか忘れん」(西行)。
2010年7月27日 真夏の夜のメメント・モリ〜トリノ王立歌劇場公演 「椿姫」
連日の猛暑で少々ばて気味です。そして、月曜日夜の公演となると、仕事を持つ人間にとってはこれが結構きつい。週明けの仕事場で、あたしに何か面倒なこと持ち込んだらただじゃ済まんけんねぇというオーラを朝から振りまき、5時過ぎたら電話もメールも一切無視、ここで下手うったらエライことになる、地雷原を歩く思いです。無事脱出、喉を潤す間も惜しんで上野の森を目指します。席に着いた時には、これからオペラだぁという祝祭感よりも、やっと着いた・・・という脱力感が勝っておりました。
しかし、弦の弱音がひっそりと会場に漂った途端に、そんなもん、吹っ飛んでしまったのであります。
弦が泣いています、声を立てずに静かに涙を流しています。そして管と打が優しく弦にまつろいます。嫋々としながらもキリリと澄んだ清潔感、テンポゆっくり、間合いたっぷり、しかし緩みを感じさせない佇まい、音の消え際にしっとりと水気を含んだかのような重さが感じられ、オケは一音一音を慈しみながら「歌い」ます。旋律が身体に染み込んできます。
第一幕、幕が上がると、そこは巨大なブロックがゴロゴロ転がる廃墟、棺を先頭に無言の一団がその中を通り過ぎ、廃墟がそのままヴィオレッタの夜会の場へ。ヴィオレッタもその客人たちも死者と被さり、死をはっきりと前面に押し出した演出です。「メメント・モリ(死を思え)」、廃墟に集い、死の気配が立ち込める中で乱痴気騒ぎを繰り広げる人々。貧困というどぶ川から巣立った娼婦たち、怠惰と淫靡に漬け込まれた貴族たち、無機質な舞台装置から伝わる無常感に敢えて挑むかのように危なっかしく飛び回る彼らは、まるで腐肉に湧いた金蠅のよう、演出の突き放す視線が斬新です。ただ、彼らの刹那を強調するのは分かるのですが、女たちの「きゃー!」という嬌声がうるさい、瓶の酒をラッパ飲みするヴィオレッタも見苦しい、場末のキャバクラじゃないんだから。
ヴィオレッタ(ナタリー・デセイ)、圧倒的な存在感、難しい姿勢から次々と繰り出される多彩な声、コケティッシュに転がるコロラチューラ、愛を売り物にしながら愛を知らない女の「処女性」が香るたおやかな高音、ドーンと座った娼婦の性根を感じさせる抑制の利いた低音、そして華やかな容姿、細やかな表現力はハリウッド女優が歌っているかのよう。
アルフレード(マシュー・ポレンザーニ)、明るい声質と伸びしろを感じさせる声量で、後先考えずの恋に夢中な生き生きとした田舎モノ、こちらも難しい姿勢が多いのですが、歌唱には乱れもなく、たっぷりの地力を見せつけてくれます。
モノトーンの装置の上に色鮮やかな衣装の女たちを配して、それをブラックフォーマルの男たちが引き締める、色彩的にも非常にまとまりがあって活きの良い演出です。ただ、歌手の立ち位置を目まぐるしく変える必要があるのか?足音が少々気になりました。
第二幕、一幕の廃墟の手前を緑の芝で覆っただけの田園風景、男物のズボンとシャツを羽織ったヴィオレッタが実に色っぽい。男物のシャツってあれ、ホントは女が着るためにあるんじゃなかろうか?裸足で駆け回る無防備なヴィオレッタの前に登場するのは、黒いフロックコートと黒いシルクハット(あの有名なヴェルディの肖像画に似ています)、完全武装のジェルモン(ローラン・ナウリ)です。ナウリ、舞台狭しと動き回るデセイとは対照的、直立の姿勢を崩さず、その長身痩躯から醸し出される威圧感、声質も声量も申し分なし。息子をたらし込んだ娼婦を上から見下ろしながら、丁寧な物言いが却って侮蔑と嫌悪を強調します。そして、息子とヴィオレッタの真の関係を悟った時の痛み、それでもヴィオレッタを排除することで子供たちを守ろうとする父の醜さ、己の醜さが分かっているからこその惨めさ、それを敢えて飲み込む父の強さ、立ち位置と姿勢を変えないまま、目まぐるしく変わるジェルモンの心を描き出す声の見事な「台詞回し」、こちらもまた性格俳優として一流の表現です。
娼婦と聖女、破壊者と庇護者、ヴィオレッタとジェルモンの二面性が複雑な陰影を浮き上がらせ、一面しか持たないアルフレードがそれにアクセントを加えて、舞台の上のドラマはぐんぐん上昇して行きます。
二人だけの小宇宙にジェルモンが持ち込んだ外の世界の掟、打ちのめされたヴィオレッタはジェルモンの足下に胎児のように丸まって動かなくなります。そう、金蠅が叩き落とされたかのように。そして、ジェルモンの目の前で、貧困から巣立って腐肉を貪っていた金蠅は、真っ白い蝶となってゆっくりと再生する、己の命を代償にして。舞い上がる蝶をただ一人ジェルモンが見上げる、残された時間はあまりにも少ない、デセイとナウリの演技力が非常に印象的な幕でした。
フローラの館での夜会、ジプシー女と闘牛士たちの余興を客たち自らさらりとこなして、唐突感がなく流れを止めない演出、合唱は優雅であり且つ適度に猥雑で良い出来です。フローラ(ガブリエッラ・スポルジ)の熟れすぎた桃のようなねっとり湿った声に猥褻感があって、これはちょっとしたツボでした。賭博の場面ではアルフレードの強くストレートな声がその純情さと愚かさを強調し、ヴィオレッタの不安を掻き立てます。幕切れ、床に倒れたヴィオレッタ、右往左往するアルフレード、そして息子を見下ろすジェルモン、見事な三すくみの構図。きりきりとした緊迫感を溜め込んでおいて一気に上昇するオケ、特に打楽器の「演技派」ぶりが印象的でした。
第三幕、フローラの夜会の場面から、そのままブロックを白布で覆ってヴィオレッタの病室へ。前奏曲から微かに鳴っていた「死」がここで表に登場します。弦の微かなため息がデセイにまつわりつき、長いモノローグ、デセイの演技には思わず息をするのを忘れてしまいます。アルフレード、この幕は特別難しい姿勢が多くて、ヴィオレッタをお姫様抱っこしたまま歌ったりと大変なのですが、健闘しております。声にメリハリが効いていて、希望と絶望、後悔と怒りの間を揺れ動くアルフレードの人物造型に説得力があります。涙があるだけ泣くジェルモン、この幕も動き回る若い二人に対して直立不動なのですが、肩の線と首の動き、情感たっぷりの低音、息子の恋を破壊した父の後悔、そして、時折かいま見せる卑屈さに滲む息子を取り戻した父の安堵、役柄を完全に取り込んでの歌唱と演技、本当に達者な人だと感心します。
そしてアンニーナ(バルバラ・バルニェージ)の深い所から響いてくるような、毛足の長いビロードのような、そんな手触りの声が醸し出す豊かな母性、辛いとき、悲しいとき、この声で慰めて貰えたらどんなにいいだろう。
演出(ローラン・ペリ)、作品の芯を捉えた的確な演出、細かいところまで行き届いた丁寧な仕事ぶり。ただ、急斜面で段差だらけの装置の上で目まぐるしく変わる立ち位置、そして難しい姿勢の連続、歌手にとってはイジメに近いレベルの演出と思います。ここまでする必要ってあったのか、観ていてハラハラしてしまい、少々疑問です。
指揮はジャナンドレア・ノセダ、絶妙の緩急と間合い、ゆったり加減であっても微塵も緩まない、緊張感を最後まで維持したその力業に感嘆致しました。ヒロインのデセイがいかにもオペラという感じで歌う人ではなく、一種エキセントリックな歌唱ですので、表情豊かに「歌う」オケの正統派の泣き節が心地良い。男ヴェルディがただ一度だけ何の衒いもなく思いっきり泣いたこの作品、今宵の舞台は、そんな作曲家と作品への心からの敬意を感じさせるものでした。
舞台の上とオケピの息のあった仕事ぶり、今夜は、丹誠込めて作られた大切なものを贈られたのだ、そんな思いを連れての帰り道、暑さにウンザリしていたはずなのに、身も心も冷たい水で洗われて、ぱりっと乾かされて、ピシッとアイロンを掛けて貰ったよう、夜風まで心なしか清潔に感じられました。
2010年6月15日 これぞ無敵艦隊〜新国立劇場公演 「カルメン」
梅雨入り目前の東京初台、このところ「移動物体」と化した感があり、右往左往するだけの私なのですが、その間隙を突いて「カルメン」のチケットをゲット、しがない労働者ではありますが、やるときゃやるんですっ(鼻息!)。
第一幕、序曲、早えぇ!何かオケピ裏で火事でも起きてるんじゃないかと思いました。打楽器が暴走し、管は辛うじて追走しておりますが、弦は全然聞こえない、ホントに弦いるのか?思わず確認してしまったほどです(当然ですがちゃんといました)。聞いているこっちが息切れしそう、これでラストまで行かれた日にゃ、私は酸欠で倒れる・・・。本日の指揮者マウリツィオ・バルバチーニ氏、この名前は覚えておこう(体調不良の時は避けたいタイプです)。
序曲の暴走のせいか、舞台の上の雑多で猥雑な群衆劇が妙に焦げ臭く感じられます。スペインの強い日差しに炙られた土の臭い、木陰に逃げたところでしつこく追ってくる熱気、汗で背中にへばりつくシャツ、そんなものが退屈を持て余す兵士たちの溜息と一緒に立ち昇ってきます。こんなに暑いのになんでこの上恋なんてするんだ?「カルメン」を見ると時々そんなことを思うのですが、今回の舞台はまた格別にそう感じられました。暑いのに恋する、暑いから恋する、若くて体力ないとできませんよね。私なんかは秋深く、人肌恋しくなる季節にひっそりと恋をしたいものだと思いますが。
ホセ(トルステン・ケール)、立派な体格、立派な声、ダーッと一本調子ですが、輝かしく力強く響く声、こんなに立派なホセは初めてです。ホセが立派でいーのか?と一瞬思ってしまったのですが、変に陰影をつけようとせず正面から声を聞かせる歌唱が心地良い。そして、こんな立派なホセだからでしょう、小鳥のように可憐なミカエラ(浜田理恵)と絡む「聞かせてくれ、お袋の話を」がどうしようもなく悲しく聞こえました。浜田嬢の声は少々暗く悲劇向き、この幼馴染みの恋人たちが故郷を思って歌う二重唱でも、無理に明るく拵えることをしないミカエラです。そして、マッチョの価値観以外に生き方を知らず、知ろうともしないであろう頑ななホセ。向き合って、手を取り合って、額を寄せ合って、そして、世界の端と端に独りぼっちで立っている二人。この二人は決して結ばれないんだ、お袋がどうしたとか、キスがどうしたとか、そんなことどうでもいいんだ、最初から結ばれないって決められていた二人だったんだ。この二重唱で涙腺が緩んだのは初めてかも知れません。
さて、カルメンです。キルスティン・シャベス、立派な目鼻立ち、立派な肩幅、立派なオッパイ、立派な太もも、立派な土踏まず(殆ど裸足なもんで)、ホセとタイマン張るに相応しくこちらも立派なのであります。第一幕は登場するなり上はいつポロリするのかとハラハラするような胸の開き具合、下は左足の太ももが惜しげもなく出ずっぱりの皆勤賞、これでもかと大股開き連発、見事なほどの野良猫ぶりです。しかし、声は美しくて素直、歌唱は端正、何か演技と声の間にあってはならない段差があるようなカルメン像なのですが、これが不思議と気にならない。「恋は野の鳥」、エロい衣装に野卑な仕草、しかし、声は滑らかで歌唱はノーブル、目を閉じて聴けば、どこぞのお姫様が何かの間違いで市井に下りてきてしまったという雰囲気があって、これによって、ロマの女工であるカルメンに「神性」が宿ります。悪女にして聖女、見事な人物造形だと思います。
第二幕、リーリャス・バスティアの酒場、胡散臭げな暗い照明、薄汚い人々、そして、白い衣装のカルメン、暗い舞台上で目立つようにとの配慮でしょうが、まさかの白によって、テーブルからテーブルへ、これまた足剥き出しで飛び回るカルメンが少しだけ天女に見える。しかし、この場面のバレエ、まとまりすぎてつまらないです。作品の雰囲気にそぐわず、足を引っ張っています。安酒場のロマの踊り子がピタリと足を伸ばして6時のポーズを決めてどーする。野生馬の如きロマの男がきれいに揃ってステップを踏んでどーする、ここはぐっちゃぐっちゃで良いんです。カルメン、フラスキータ、メルセデス、そして酔客とそれに紛れた密輸団がせっかく猥雑な不協和音を作っているのに、そこに士官学校の一団みたいな堅さで諧調が割り込む、異物感あり。
エスカミーリョ(ジョン・ヴェーグナー)登場、「闘牛士の歌」、ブレスがメチャクチャ、「はっ」とか「ふっ」とか息継ぎが歌詞の一部みたいに聞き取れる、そりゃ「カルメン」はヴェリズモですが、ここまで型を崩したら既にオペラじゃないんじゃないの?という崩しっぷり。しかし、硬質でクリアな声がそのグダグダを崩壊寸前で押さえ込み、その押さえ込み加減の際どさと正確さがクセになるようなお手並み、そのせいか聞いているうちに何故か清潔感が漂ってくるのです。ここまでややっこしい闘牛士は初めて聞きます。今回の「カルメン」は「初めて」が多くてもうワクワクです。
第三幕、序曲ではマッド・マエストロと暴走オケ、恐怖のコラボ!だったのですが、さすがにここの間奏曲はしっとりと涼しげにまとまりました。合唱もクリスプで気持ちよい仕上がりです。「カルタの歌」、シャベスの低音の美しさ、死の運命を知ってなお、新しい恋に向かって進むカルメンの男前が引き立ちます。ミカエラのアリア、一言一言、一音一音、丁寧に紡ぎ出されるミカエラの哀しい祈り、声質に巧まざる苦みがあって、浜田嬢は悲劇歌手としてこれから大いに期待して良いと思います。
脱走兵と闘牛士、男二人の大立ち回り、えー、ケールのホセ、はっきり言って山賊が似合っています、というか似合い過ぎです。ストレートに伸びる高音と金管楽器のように力強い中音、カルメンは「あんた、この商売向いてないよ」と仰いますが、いやいや、こっちが天職でしょう。ケールの声を聞いていると、この密輸団を乗っ取ってお頭になり、その後吸収合併を繰り返し一大アウトロー組織を作り上げ・・・、そんなホセなのです。そんな立派なホセなのですが、エスカミーリョはナイフではなくマントで応戦、気障というか嫌みというか、ホセ、完全に牛扱い、カルメン云々より絶対にこっちで傷つくよなぁ。
第四幕、華やかな闘牛場、雑踏の雰囲気は良く出ていますが、「たった2クァルト」が少々まとまりすぎ、オケ、あの暴走はどーした?互いに愛していると歌うカルメンとエスカミーリョ、シャベスが甘口、ヴェーグナーが辛口、しかし、双方とも凛とした歌唱、真摯な愛が伝わってきます。生と死の狭間で生きる闘牛士とアウトローの世界に生きるロマの女の恋、それは真摯であっても刹那でしかない、しかし、二人はそれを知っている、知っているからこそ、今この瞬間に口にする愛しているという言葉がお互いに伝わるだけで奇跡なのです。もうね、ホセ、出てこなくていいから、二人のことは放っておきなさい、と言いたくなりました。しかし、ホセは出てくるわけです(当たり前だ)。
「あんたね、俺だ」、ホセ、何かここまで堂々としていると、ストーカーというより悪しき世を正しに来た正義のヒーローという感じ、お前を救いたいという振られ男の自己正当化が、なぜか真っ当なお説教というか有り難いご託宣というか、そんな響き。そして、山賊でも何でもやるから(泣)のシーンが嘘臭いことこの上なし。そして、カルメン、こちらは赤いドレスが良く似合い、立派な胸を張って、立派な肩をそびやかして、闘牛場へ向かう歩みは女帝の貫禄。今回、どうにも立派なホセに感情移入し辛く、そして、カルメンには元々感情移入出来ない人間なもんで、置いてけぼりを喰らった状態の私ではありました。しかし、ナイフを握った男の横をちらりと視線を投げることすらせず、真っ直ぐ歩いていくカルメンのヒリヒリするような皮膚感覚が感じられて、感情移入ではなく感覚移入(というのがあるならば)にどっぷりと浸かった感がありました。
主演4人、それぞれが個性的、シャベスは強くしなやか、ケールはどこまでも真っ直ぐ、浜田嬢はたおやかに憂えて、ヴェーグナーは優雅に屈折している、組み合わせ的に難しいと思われるキャスティングでしたが、ばらけた感よりも意外性が勝っていて見応え十分の舞台であったと思います。
噛み合わない箇所、解釈に疑問がある箇所も少々ありましたが、さて、幕が下りてみると「カルメン」なんですよね。男と女、惚れたと惚れられた、そして、生と死、この世界は残酷で、この世界は滑稽で、世界はそんなものを一緒くたに乗せて今日も回っている、セビリアの荒々しい大地を吹き渡る熱い風をそのままペンに代えたかのような描写力、ビゼーの才能を改めて感じるのです。ビゼーも原作者のメリメも外国人ではありますが、「カルメン」の持つこの逞しく不貞不貞しい生死感は、間違いなくスペインの風土が育んだものでしょう。
今、巷はワールドカップの話題で盛り上がっております。スペインチームを日本のマスコミは「無敵艦隊」と称しているようですが、史実にある無敵艦隊、フェリペ2世が国中の山をハゲ山にして作り上げた無敵艦隊が無敵だったのは、出航してから戦いが始まる間だけでした。この名称はイングランドが皮肉で付けたもの、よって、かの国では「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」というのが正しい呼び方です。
しかし、「カルメン」、この作品も立派な「無敵艦隊」だと思うのです。毎日世界中のどこかで必ず上演されている、音楽を聴ける環境にある人は一人残らず聞いたことがある、スペインの風土と精神を休むことなく世界中に送り届けている、これほど成功したオペラはないのですから。
2010年4月25日 この世界とかの世界の真ん中で〜新国立劇場 「愛の妙薬」
オペラの世界には、侯爵様、国王様どころか神様まで堂々と登場する作品がいくつもあります。そんな中で、登場するのは、地主のところの娘さん、とろい農夫、キザな軍人、インチキ薬売り、その他農民といった至って庶民的な人々ばかり、という慎ましくも愛らしい作品、それがこの「愛の妙薬」です。しかし、物語の方はとなると、まぁ、オペラなんてそんなもんだっちゃーそーなんですが、かなりのもんであります。
一人の娘を巡って、バスク地方の血の気の多い若者と腰にサーベルをぶら下げた軍人が睨み合い、何とかサスペンス劇場ならお約束の殺人事件に発展するであろう突然の遺産相続が発生し、貧しい共同体に現れた熟練詐欺師による催眠商法で被害者多数、そして、地主の娘と雇われ農夫という逆玉の格差婚、このうちのどれか一つでも身近で起こったら大事件です。それがぜーんぶ一度に起こってしまうわけで、暴力沙汰の一つや二つは当たり前、警察の出番はありそうですし、弁護士は雇わなきゃならないし、親族会議は大荒れになるだろうし、考えただけでアタマ疲れてきた・・・。それなのにアタマ疲れるどころかアタマを優しくほぐしてくれる、そんな優しさが「愛の妙薬」の一番の魅力です。
しかし、今回の舞台、暖かみを残しつつも無機質の都会的なエッセンスを効かせた独特の舞台に仕上がっております。
第一幕、カラフルなアルファベットを並べた幕の下には、巨大な本が一冊ドーンと寝そべっております。農民たちがアディーナに本を読んでとせがむ舞台は、これまた巨大な「Elisir(薬)」の文字、そして、両脇には巨大な本がそそり立ちます。文字、そして紙、ここから先の物語は本の中の出来事、彼も彼女も全部虚構の世界の住人、舞台と客席の間にクッキリと引かれた境界線、しかし、突き放された印象にならないのは、優れた色彩センスの故でしょう。溢れるほどの色彩をぶちまけた装置と衣装、しかも床がピカピカツヤツヤの鏡面状態ですので、パッと見で二倍、しかし、色の彩度と明度の組み合わせが繊細ですのでちっともウルサクない。女声陣の衣装はヒマワリと日の光の黄色の濃淡、男声陣の衣装は野菜と草原の緑の濃淡、物語の舞台であるのどかな農村風景は色彩の中に表現され、装置の質感の持つ冷たさが上手く中和されています。
「何て可愛い人」、地主の娘アディーナを見つめて溜息をつくネモリーノ(ジョセフ・カレヤ)、明るく良く伸びる声、強靱さと繊細さのバランスもよろしく、少々低音部に色気が足りないかとも思いましたが、素晴らしいテノールです。
「トリスタンとイゾルデ」の物語を読むアディーナ(タチアナ・リスニック)、リスニック、美しい声ですが、少々重たい、イゾルデの宿命の恋の物語を笑うその声に微かに悲劇が漂ってしまっており、一人別の物語を歌っているような印象。
「昔美しいパリスが」とド派手な軍服で登場するなり、アディーナに求婚するベルコーレ(与那城敬)、どちらも声量のあるツンデレお嬢さんとおバカ男に挟まれて大変だと思うのですが、清潔感のある美しい声、この気障なナルシストを端正に上品に表現しています。
「村の衆お聞きなされ」とプロペラ飛行機で登場するインチキ薬売りのドゥルカマーラ(ブルーノ・デ・シモーネ)、ぶわっと溜めてきゅっと絞って、パッと放す、来るぞ、来るぞというこちらのツボに間違いなく落とす、喜劇の歌い方のお手本のような歌唱です。
人物たちの色彩がこれまたぶっ飛んでおります。ネモリーノの髪は鮮やかな朱赤、アディーナの髪は真っ白なアッシュ・ブロンド、ベルコーレの髪がツヤツヤ紫で、ドゥルカマーラ先生の髪はくっきりとした緑、日本が誇るアニメのキャラクターの髪色を生舞台で見るとは思わなかった。衣装合わせの時の歌手たちの反応を見てみたかった・・・。
色の洪水に目が慣れてみれば、演出は至って正攻法だと気付きます。要所要所でのストップ・モーションが「絵本」を表現しつつ、主要人物たちの動線とポーズは自然で滑らか、優れた絵本は決して子供だましをしない、真正面から物語を見据える視線が心地良い。
明日になれば妙薬が効いて・・・、ところがアディーナとベルコーレの婚礼は今宵、大あわてのネモリーノ、でも明日まで待って貰う理由が言えない、婚礼の祝いと振舞酒の期待に大はしゃぎの村の衆の中、ただ一人悲劇を歌うネモリーノにドニゼッティは精一杯の旋律を与えました。喜劇を引き立てるのは「おふざけ」ではなく「マジ」なのです。カレヤはその美声を手加減無しに響かせます。今までに聞いたことのない力強く、そして我の立ったネモリーノが新鮮です。しかし、反面、「明日になったら君は叶わぬ恋に苦しむことになるんだ」という優しさよりも、「それじゃ俺の計画がおじゃんなの」というネモリーノにあってはならない計算が感じられるようで、おバカ男の必死の「誠」は少々霞んだか。
第二幕、結婚披露の宴から始まって、軍隊に入るやら遺産がどうこうなるやら、物語は一気に加速します。恋敵を入隊させて悦に入るベルコーレと鉄砲玉に当たると死ぬよなぁと嘆くネモリーノの二重唱が何かすっごく楽しい。何が楽しいのかと聞かれると困るのですが、男声二人の声のシンクロ具合とずれ加減が物語のテンポとピッタリ合っているんですね。ほら、電車に乗っていて窓の外の景色と線路から伝わってくる振動がシンクロすると妙に心が弾むというか、あの感じです。
そして、この作品の大トロ、ネモリーノが歌う「人知れぬ涙」、喜劇には似つかわしくないハープの繰り出す和音、あの涙を見たから僕は死んだっていいんだ、物語の真実がここにある。カレヤの声は良く伸びて非常に聞き応えがあるのですが、おバカ男の心の底を照らし出すまでには至らず、少々掘り下げが浅いというか、陰影が足りないというか。
舞台の上からハラハラと落ちてくる紙、そして紙。本に描かれた物語は解体され、ここから先、真実の物語が始まると告げる演出は、ツンと涙腺が緩んでしまうほどに効いています。
幕切れ、「Elisir」の文字が鏡文字に反転し、インチキ薬の安ワインが本当の愛の妙薬に変わり、しかし、本の中のトリスタンとイゾルデの悲劇を、ネモリーノとアディーナは声高らかに拒絶する。文字に書かれた物語は消し飛んで、一歩先すら定かではない現実の世界を二人は生きていく。飛行機からの縄ばしごに乗って旅立っていくドゥラカマーラと、こちらは給料はたいて「妙薬」を買い込んで進軍していくベルコーレ、彼らを見送るネモリーノとアディーナ、彼らは残る、この村に、この世界に、なぜならそこが彼らが自らの物語を書き綴るべき場所だから。
オケ(指揮はパオロ・オルミ)はつんのめり感がなくて終始安定しており、丁寧な仕事ぶり、もう少し飛ばしてもよかったかとも思いますが、品の良い音、合唱はぴしりとタガがはまった佇まいがお見事でした。
喜劇として楽しめるのはこの作品の場合当たり前の最低線ですが、今回の公演、それに加えて隠し味の無常と刹那の苦みが強く感じられました。ちょっと大人のバカ話。
桜の枝に雪が降るというおかしな春です。しかし、楽日の空は久し振りに良く晴れて名残の日差しが心地良い、そう、「愛妙」を見た帰り道は晴れてなくっちゃ。
2009年12月9日 冬の夜長には濃厚な「トスカ」を〜レニングラード国立歌劇場公演 「トスカ」
歌姫トスカが聖天使城の城壁からその身を宙に躍らせたのは、1800年6月半ばのこと(マレンゴの戦いが6月14日ですから)でした。初夏のローマ、テヴェレ川から立ちこめる朝靄の中、暖かな日の光が石畳の上で動かなくなった歌姫を明るく照らし出していたはずです。しかし、私の頭の中ではトスカが死んだのはどーしても12月、年の暮れになってしまうのです。テ・デウムのせいなのかな?何しろ、クリスマスの時期以外はキリスト教のことなど余り気にしない生活を送っております。というわけで、毎年この時期になると「トスカ」が聞きたくなります。今回の引っ越し公演、お値段もまぁまぁ、会場はこぢんまりしたオーチャードホール、3幕もののトスカは仕事の後に鑑賞するには上演時間もちょうど良い、万事、「お手頃」感のある公演です。
第一幕、のっけから良く鳴るオケ(指揮はペテル・フェラネツ)です。ここから先の火曜サスペンス劇場も裸足で逃げ出すドロドロ官能愛憎劇の芯を的確に捉えており、低音部にどーんと重心があって抜群の安定感、テンポがやや遅めでもったりしていますが、良い仕事しております。必死の逃亡者アンジェロッティ(アントン・プザノフ)、落ち着いた美声で、まぁあんまり切羽詰まっているようには見えないのですが(それに逃亡計画が女装して逃げるという絶対NGなものですし)、もったりしたオケからスムーズに物語を引き継いでおります。
画家先生の不信心を毒づく堂守(アレクサンドル・マトヴェーエフ)、足を引きずりながらも無駄に良く動き回るコミカルな演技、対して大作制作中のカヴァラドッシ(バドリ・マイスラーゼ)、オーバー・ウェイトで動きが少なく、かつ遅い。この作品でオーバー・ウェイトの騎士殿はたくさん見てきましたから慣れてはおりますが、今回、堂守が「元気」なんでちょっと辛いかな。肝心の声ですが、力任せに持ち上げる高音部は実に艶やか、しかし、中〜低音部になると少々スカスカしており、フォルテでは良く伸びるのですがピアノで籠もりがちという、誠に失礼な言い方ですが、素人歌手に良くある歌い方なんですね。「妙なる調和」は正直言って「この先どーなるの?」と少々不安な立ち上がりでした。しかし、トスカ姐さん(テチヤナ・アニシモヴァ)が登場して二重唱となるとピタリと収まる歌唱、一安心です。
そのトスカ、こちらはもう声量もたっぷり、高音部を可憐に響かせたかと思えば、低音部でドスを効かせるという、実に達者、さすがにローマ一の歌姫です、こういうトスカ好きです。トスカがカヴァラドッシをリードするという、この作品には良くある展開、アニシモヴァはたっぷりの存在感を見せつけてくれます。
必死の逃亡者があまり必死でない様子で立ち去って、警視総監スカルピア(ニコライ・コピロフ)登場、姿の良い人です。色白でふっくらと美しいトスカと並ぶと良く映えます。声は少々軽めで凄みはありませんが、視覚的には申し分ありません。ただ、「行け、トスカよ」では舞台の一番前まで出たにも関わらず、オケに声を消されてしまいました。まぁ、この場面、オケを圧倒して舌なめずりする変態オヤジを見るというのは奇跡に近いものではありますが、もう少し頑張って欲しかった。聖歌を歌う合唱隊、少人数ながら響きに厚みがあり一つ一つの声の粒が際立つ合唱、いつものことながら旧ソ連のお国の歌劇場は合唱がお見事ですね。
第二幕、ファルネーゼ宮殿のスカルピアの執務室、しかし、「まぁ掛けたまえ」という警視総監に「このままで結構」と突っ張ったカヴァラドッシが、その後すぐ座っちゃうのはどうかと。どうもウェイトのせいか少々膝が悪いようにお見受け致しました。その場の空気を一切読まずに「勝利だ!」と叫ぶカヴァラドッシ、今回のテノールはこの手の声は実に気持ちよく響きます。
トスカが登場し、こってりねっとりのSM官能シーン、スカルピアが少々淡泊、ここはトスカが一人で舞台を持ち上げます。色白なので深紅の衣装が良く映える歌姫、たっぷりとした声を活かしつつ、幼い少女のような可愛らしさ、追い詰められて泣き伏す女、そして、その手にナイフを握る雌虎まで、自在に歌い分けます。「歌に生き、恋に生き」、タメが少なめで嫋々たる泣き節にならず、しっとりとたおやか、なるほど、警視総監も狂うわけです。ただ、買収を持ちかける場面の「おいくら?」はもっと高飛車の方が良かったな。この時点で既にオドオドしてしまっている印象なので、その後の展開との落差が引き立ちません。
延々と繰り広げられるいたぶる男といたぶられる女の密室劇、それが一瞬で逆転するスリル、トスカ、果物鉢にナイフを見つけて握り締めるまでのドキドキ感は申し分ないのですが、肝心の殺しの場があっさり味、プチって刺したらパタって死んだって感じで終わってしまって何か勿体ない。しかし、倒れたスカルピアを見下ろすトスカの高揚と虚脱がない交ぜになった表現の巧みさはお見事でした。
第三幕、牧童くんの夜明けの歌に続いて、カヴァラドッシの「星は光りぬ」、音が一つ一つすとんと落ちるように聞こえて少々ぎこちないのですが、それが却って理不尽極まりない死を前にした若者の不条理を引き立たせます。決して巧いとは思いませんでしたが、心の奥にちゃんと届く暖かく真摯な歌唱でした。トスカ登場、この愛らしい手が人を殺したのか・・・という場面、二重唱となるとどうしてもトスカの重量が勝ってしまいますので、カヴァラドッシの労りと賞賛の言葉に余りリアリティが感じられません。それよりもトスカ姐さんの死んだふりの演技指導の方が熱くて説得力があります。二人で叫ぶ自由だ!のアカペラ、全然シンクロしておらず、あらあらって出来だったのですが、その荒っぽさというかいい加減さも、後先考えない無鉄砲な恋人たちには相応しいか。
このオペラの締めの台詞は「スカルピア、神の御前で!」、理想としてはこの幕にスカルピアの存在の余韻というか、影というか、そんなものが欲しいのですが、今回はトスカ姐さんの存在感が勝っており、死ぬほど愛して死ぬほど苦しんだ女の「落とし前」の潔さが目立っておりました。それはそれで爽快な幕切れでした。
そして、オケ、処刑へのカウントダウンのリフレイン、ハラハラドキドキ感たっぷり、特に打楽器のタメの具合が絶品、品がないと言えば言えるでしょうが、すっごく楽しい演奏でした。
舞台は第二幕に赤をたっぷりと使い、赤いドレスのトスカがちょっと保護色になってしまっている部分もありましたが、濃厚な官能を感じさせ、第三幕の冷たい灰色との対比が鮮やかでした。しかし、いつも思うのですが、何で屋上なんかで処刑するんでしょうね?いちいち死体下ろすの大変でしょうに。まぁ、中庭とかだとトスカ姐さん、飛び降りられないわけですが。
それから、字幕、誤字脱字多すぎます。誰もチェックしなかったのでしょうか?
タイトル・ロールのアニシモヴァの安定感抜群の歌唱と女らしい立ち姿、少々頼りない色男の恋人くんと少々控えめな変態エロオヤジ、三人のバランスもよく、楽しい舞台でした。幕が下りて、余韻に浸りながらの夕食、私は魚が好きなのですが、この夜はなぜか「肉!」という気分になりました。「トスカ」には濃厚な牛肉料理と渋い赤ワインが良く似合います。
2009年9月18日 美しい夢を見ましたが、すぐに消えてしまいました〜スカラ座公演 「ドン・カルロ」
6年ぶりのスカラ座日本公演も今日でお終い、千秋楽17日の舞台はヴェルディの「ドン・カルロ」、スケールの大きさでは「アイーダ」に負けますが、物語の深さでは圧勝(だと私は思う)のこの作品、半端じゃない掘り下げが要求されるだけに決定打が出にくい作品でもあります。私も少々緊張してしまいます。
第一幕、序曲、何かボソボソしているんです。水気が足りない感じ、速度と質感のバランスが少々治まりが悪いというか、午後3時開演という変則的な舞台なんて滅多にあることではないでしょうし、オケの面々、ランチのワインが抜けていないんじゃなかろうか?しかし、その後登場した修道士(カボール・ブレッツ)の声は、これはもう見事なご馳走なのであります。
カルロ(ラモン・ヴァルガス)とロドリーゴ(ダリボール・イェニス)の「自由を!」、たっぷりと聴かせてほしいところですが、少々急ぎ加減でタメが足りない(オケが暖まっていないせいかも)、しかし、却って若さというか青臭さが強調される素朴な二重唱となりました。
エボリ公女(アンナ・スミルノヴァ)の「ヴェールの歌」、声はたっぷりですがコロラチューラは少々重たい。しかし、力強い中低音が、この作品中ただ一人、主義も主張もモラルも神も知ったことかい!と己の欲望にストレートに殉ずるエボリの強さが良く出ています。
エリザベッタ(ミカエラ・カロージ)、この幕で一番聴かせてくれたと思います。派手さはありませんが強さと優しさのバランスがとれた美声は、まるでエリザベッタのために誂えたかのよう。立ち姿が美しくも凛々しい人ですので、見ているだけでベラスケス的快感があります。
そして、フィリッポ(ルネ・パーペ)、エリザベッタの女官を追放する場面では冷酷さが不足する感がありましたが、ロドリーゴを側近に登用する際の含みを持たせた歌唱の巧さは格別、非常に知的な歌手という印象です。
今回の舞台(演出と装置はシュテファン・ブラウンシュヴァイク)、何かスカスカしていて前衛というか寂しいというか。しかし、そのスカスカ部分の薄いスクリーンの向こう側で物語の背景を見せる試み(幼いカルロとロドリーゴが可愛らしい)は分かりやすくて良いですね。宮殿の回廊を表現する白黒の背景、白と黒はスペインの色、しかし、日本人には葬式の段幕に見えてしまい、ちょっと辛いか。
第二幕、夜の庭園にて勘違いの密会、数本の丸太を立てて森を表現する舞台、スカスカ度は着実にアップしております。しかし、マグリットの「白紙委任状」を思わせるその森は、マグリットの言葉を借りれば、「目に見える事物が見えないこともある」。カルロは目の前のエボリを見ずに目の前にいないエリザベッタを見ている、エボリはカルロの恋を見ずに恋の勝者であるべき自分を見ている、そんな錯覚の森に現れたロドリーゴは、森を切り裂く以外に外へ出る方法がない、巧みな演出です。
今風に言えば肉食系のエボリの相手が草食系どころかアメンボみたいな儚いカルロなわけで、「似非息子!」はもう重火器が藁人形をなぎ倒すが如き印象、完全にSMの場面です。
火刑の場面、群衆はなぜか現代人の衣装、歴史の目線を意識したのでしょうか。幼い日のカルロとロドリーゴが、いたいけなくも切なくて効果的で、血生臭い場面との間に距離を与えてくれます。
人は生まれて、人は生きる、生きるとは年を重ねて死に近づくこと、ようやくボサボサ感の抜けたオケ(ワインが抜けたかな?)が今度は鳴り過ぎなのですが、その力強さは全ての人間を最後に飲み込む死の圧倒的な闇を押し出して、ちょっと鳥肌。オケが鳴り過ぎなので舞台の上はちょっと辛いかと思えば、これが全然。人間の声というのは本当に特別な楽器なのですね。
第三幕、宮殿の王の部屋、しかし、そこにあるのは椅子と燭台が一つずつ、それだけ、スカスカ度、ここに極まれり。この作品の大トロ、フィリッポの「一人寂しく眠ろう」、とても有名なアリアです、とても美しいアリアです。しかし、今回、ピンポイントでツボに来てしまったのはなぜなのでしょう? 人は生まれて、老いて、死んで、灰になる。死は恐ろしいけれど、全ての人の人生の終わりは死以外にない、じゃあ、生まれてこないことが一番幸せなのか?死を背負って生まれた人は、愛によって死の恐怖を超えていくことが可能なのです。しかし、このアリア、フィリッポは妻は私を愛していないと嘆くだけで、私は妻を愛しているとは歌わないのです。愛されないことは悲しい、でも愛せないことはもっと致命的に悲しい。何だかんだで年を重ねてきた私は、初めてフィリッポの抱えている無限の闇、愛されたいくせに愛せないという男が立っている闇の救われない深さを感じたのです。パーペの歌唱は少々固くて、でも、そのコツンと当たる固さも悲しいのです。まるで、骨壺の中の骨が立てる渇いた音のように。
この作品の恐怖の「通奏低音」とも言うべき宗教裁判長(アナトーリ・コチェルガ)登場、恐っ、マジで恐い、もうね、ひれ伏してお詫び致します、何が悪いのか分かんないんだけど取り敢えずお詫び致します。
嫉妬からエリザベッタを陥れてしまったエボリの歌う「呪われし美貌」、今回のエボリは貫禄たっぷり、後悔に苛まれるというより計算違いをした自分が許せないという誇り高き「懺悔」が男前で心地良い。台本とは裏腹に、ライバルを嵌めて何が悪い?地獄?行ってやるわよという開き直りが感じられて、私、こういうエボリ、好きなんです。
牢獄のカルロを訪ねるロドリーゴ、「私は死にます」、舞台の上にはカルロとロドリーゴ二人だけ、しかし、どんどんカルロが希薄になっていくのです。ロドリーゴが生きて下さいと歌う端からどんどん希薄になっていくのです。カルロに未来などない、ハプスブルクのスペインにも未来などない、ロドリーゴはそれを知らずに死んでいく、自分の死に意味があると信じて死んでいく、幸せな男です。神はこの誠実で愚かな男にちゃんと報いたのでしょう。しかし、フィリッポもエリザベッタもまだ死ねないのです。彼らはそれぞれ違う意味で愛しているカルロを失わなければならないのです。この場面でカルロの存在感が異様に薄いことによって、この作品が隠し持っている「無常」が浮き上がります。
今回、ヴァルガスは持ち前の華やかにして軽やかな声という必殺技を封印しての舞台、希薄な存在感によってタイトルロールを造形するという離れ業に挑戦。改めてこの作品のハードルの高さを実感しました。
第四幕、再び修道院、エリザベッタの大アリア「世の虚しさを知る神」、この作品の厄介なところは、このラストのアリアを聴かないことには作品全体が見えて来ないということです。「死せる者」として生きる決意を静かに歌うエリザベッタ、控え目な表現ですが、心の深いところに確かに届く歌唱でした。そして、ラスト、第一幕で美声を聴かせてくれた謎の修道士が死せる王として登場、教会の威光を、王の威厳を、恋人たちの溜息を、革命の息吹を、そして、生きる人の希望と死ぬ人の懺悔を、全て飲み込んでしまうのです。
演出にはイタリア的甘さなし、装置は素っ気なく、白と黒で塗り分けられた舞台が、敬虔な信仰の下に隠されたあからさまな欲望、この時代のカトリック教会の本音と建て前の有り様を浮き立たせます。
「美しい夢を見ましたが、すぐに消えてしまいました」、第四幕でカルロが歌う言葉です。そう、ロドリーゴがスペインの未来を託し、フィリッポが王権のための人身御供に供し、エリザベッタが心と引き替えにその生命を贖い、エボリが全てを賭けてまで求めたカルロは、結局、一夜の夢だったのでしょう。彼は皆の視線の先で、脳内恋愛・脳内革命と現実の世界の間の深い闇に落ちていってしまうのです。カルロの存在が薄ければ薄いほど、この作品は本来の意味を際立たせて暗く輝く、今回のキャスティング、そして歌唱と演技は、それらをちゃんと理解した上で更に上を目指そうとする意欲的なものだったと思います。その試みを私は大いに評価し賞賛したいと思います。
スカラ座は、今もオペラの世界のカッティング・エッジを疾走しているのです。
2009年9月5日 とても単純なある恋の物語〜スカラ座公演 「アイーダ」
6年ぶりのスカラ座です。このご時世に強気の価格設定で日本上陸、果たして席は埋まるのか?と少々心配だったのですが、家計簿やら預金残高やらは見ない、あるいは見ない振りができるというオペラバカは未だ健在なのです。無事に満席でした。
私にとってオペラを見に行くことは「祝祭」です。日常を離れて、非日常の空間へ、非日常的な金額が印刷してある紙切れを握りしめて入っていく、夢の空間で過ごす夢の時間、その中でも「アイーダ」の持つ祝祭感はダントツです。たとえ、その会場が甚だ祝祭感に乏しいNHKホールであったとしても・・・。
序曲、弦の弱音がそろりと立ち上がった途端になぜかジワッと涙腺が緩んでしまいました。「アイーダ」、色々な歌手で、指揮者で、オケで、演出で、これまで何回も見ていますが、こんなこと初めてです。「アイーダ」って実はすごく単純な物語なのではないか、アイーダはラダメスが好き、一緒に死んでも構わないくらい好き、ただただそういう物語なのではないか、他の諸々のことは結局はどうでも良いんじゃないか、突然そう思えてしまったのです。バレンボイムの棒が徐々にオケを持ち上げていく、その力強い音に耳を丸ごと委ねてしまうと、好きなの、本当に好きなの、この世の誰よりも好きなの、そんなありふれた言葉が不意にとてつもなく美しい言葉に感じられ、人を好きになるってすごいことなんだ、それは紛れもない奇蹟なんだって訳もなく胸が痛くなってしまって、のっけから波乱含みの私なのであります。
第一幕と第二幕は舞台転換だけで通し上演、ゼッフィレッリ流の贅を尽くした舞台、一人一人に丁寧に演出が施されており、端から端まで緩みがありません。
ラダメス(ヨハン・ボータ)、いきなりの「清らかなアイーダ」を手堅く纏める実力、しかし、まぁ全体としては良くあるラダメスという印象、歌唱に余裕が感じられて安心して聴いていられる歌手です。
アイーダ(ヴィオレッタ・ウルマーナ)、理想的なアイーダです。滑らかで強い美声、合唱が被っても頭一つ抜き出る歌唱、高音部の清潔さに加えて低音部に艶めかしさが感じられ、「好きなの、大好きなの」という今回の公演の(私が勝手に決めた)アイーダ像をくっきりと彫り上げています。
アムネリス(エカテリーナ・グバノヴァ)、声に暖かみがあるので凄みが出にくい歌手です。例えばバルツァと較べれば少々迫力には欠けます。しかし、表現力が実に豊か、声質ではなく表現で厳しさが出せる歌手です。
そして、「敵が来たぞぉ!」の使者くん(アントネッロ・チェロン)の美声は素晴らしい。
合唱の厚みは言うまでもなく、打楽器のキレの良さと合わせて、凱旋の場では劇場そのものが上昇していくような感覚、あぁ、スカラだぁと溜息。バレエのシーン、時差ボケなのか、所々で振り付けがガタついておりましたが、一人一人のダンサーの実力は雲の上レベル、筋肉だって立派に「歌う」のです。
ただ一点、そりゃ大変なお金をかけているわけですから、ありったけを見せたいというのはよく分かります。しかし、舞台を回すことに気持ちが行ってしまっており、ところどころ異議あり、特にアイーダの「ピエタ、ピエタ」に大道具の軋みが伴奏を付けてしまったところ、怒!です。
バレンボイムは、豪華絢爛と思われている作品をプリミティブな線描きに引き直し、厚みを加え、奥行きを加え、しかし色彩を極力抑えております。今回、マエストロはカンバスではなく製図板に向かっているようです、画家ではなく建築家として。
第三幕、第一、二幕とうって変わって舞台は暗く、人物は少ない。しかし、音楽的には一番たっぷりの幕となりました。アイーダの父であるアモナスロ王(ホアン・ポンス)、甘く豊かな声が艶やかに伸び、まさに必殺の誘惑者、娘にスパイ行為を強いる父の残忍さも、何を犠牲にしても国を守らねばならぬ王の決意も十分です。
アイーダとラダメスのご両人、絡め取る女と我を忘れる男、今回の二人は声質が似ており、声量も互角ですので、いよっ、ご両人!と声を掛けたくなるバランスの良さ。嘘と誘惑、裏切りと陰謀の言葉が飛び交う中で恋が間違いなく成就している、オペラにしかできない表現を堪能します。
祖国を裏切ってしまったラダメスの真っ平らの開き直り、この強引なストーリーを納得させてしまう声の力、アイーダとその父を逃がして、ここから先、彼は一切の弁明を拒んで死んでいくわけですが、男気というか突っ張りというか、男の値打ちはやっぱやせ我慢だ!
「彼の心を私に下さい、そう祈りましょう」、霊廟に籠もるアムネリスがすんごく可愛い!万が一、ラダメスがこの彼女を物陰から見ていたとしたら、きっと・・・、ふとそう思ってしまいました。
第四幕、アムネリスの一人舞台、グバノヴァは声質が柔らかくて優しい、アムネリスのキャラクターとは違っているのですが、これがここで生きてきます。ラダメスに私を選べと迫るきつさと独りで祈る姿の脆さ、これが逆だったら・・・、でもそうなれないところにアムネリスの孤独と悲劇があります。グバノヴァの歌唱は、優しい声と鋭い表現を巧みに使い分け、ファラオの娘でありながら愛する男に選ばれない女の無力感を際立たせます。ただ、これは仕方がないのでしょうが、神官たちを呪う言葉に恐ろしさは希薄です。
死を待つ二人の二重唱、ここにきてさらりと控え目、真っ暗闇の中、互いに互いの身体を手探りで求め、抱き合って死んでいく、状況と真っ向対立する清潔な旋律は、二人の恋が既にこの世のものではないと主張するのですが、歌唱まで簡素なのがちょっと勿体ないような、贅沢な悩みではありますが。
ヴェルディ、円熟期の代表作である「アイーダ」、エキゾチックな舞台、豪華な衣装、陰影の深い人物像、しかし、物語の核にあるのは「好きなの、大好きなの」、ただこれだけ、これで十分なのです。58歳の作曲家は、「好きなの、大好きなの」が世界の成り立ちのある重要な部分を構成していること、そして、人はそれに慣れてしまって時にそれを忘れてしまうのだということを知っていたように思います。
今回のスカラ座の公演は、「好きなの、大好きなの」の真下を真っ直ぐに掘り下げるものでした。直前のキャスティングの変更などの不安要素もありましたが、いざ、幕が上がって見れば、その意図したところを少しも外さずに表現できていたと思います。カーテンコール、舞台の上にはオケ全員がずらりと勢揃い、その誇らしげな様子からもそれはしっかりと伝わって来たのです。
2009年6月21日 いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ〜新国立劇場公演 「チェネレントラ」
全ての物語には終わりがあります。終わりがあるから美しいとも言えますし、第一、終わらない物語なんて、書く方も読む方もたまったもんじゃありません。しかし、現実の世界の出来事には終わりがありません。鬼ヶ島から帰った桃太郎、ひょっとしたら持ち帰った財宝が原因で、おじいさんは芝刈りをさぼり、おばあさんは洗濯物をクリーニングに出すようになって、二人してずーっと家にいるもんだから諍いが絶えず、超熟年離婚に至ってしまったかも知れません。当の桃太郎だって、幼くして人生のピークに到達してしまったわけで、長い残りの人生、どうします?「鬼と闘った私の真実」とかいう手記でも書いて、全国を講演して回りますか?
中でも「その後」が心配なのが「シンデレラ」です。台所の竈の前にうずくまっていた「灰かぶり」が王子様と結婚したわけです、お城に住むことになったわけです。灰かぶりはお后教育など受けておりません。豆を選り分けるのは上手いでしょうが、グラヴサンは弾けるのか?床磨きは得意でしょうが、テーブルマナーは?最初のうちは可愛らしいからと大目に見ては貰えても、やがて、舅の王様、姑の王妃様、古手の女官たちは、何をやってもトンチンカンな王太子妃にため息をつき始めるはずです。足フェチ王子だってそうです、いつまでラブラブでいてくれるやら、もっと足の小さな娘が城下に現れたらどうなるの?灰かぶりはあの意地悪な継母一家の台所が懐かしくて涙するかも知れません。そう、たまたま幸せになってしまった人間が、その後、その幸せを守るのは「幸運」だけでは足りないのです。
しかし、6月20日、蒸し暑い土曜日の昼下がり、気怠い梅雨空の下で、私は、そんな物語の法則など軽く飛び越えてしまう「ハイブリッド・シンデレラ」に遭遇したのです。
序曲、少々もったりとスタートしたオケ(指揮はデイヴィッド・サイラス)ですが、暖まってからの歯切れの良さが心地良い、何よりも音がうっすらと埃を被っているのが素晴らしい。ロッシーニの生き生きとした序曲に少々の「埃っぽさ」が乗ることで、艶光りが抑えられて旋律本来の色彩を引き立てます。もっと新しい時代の作品であれば、音の埃っぽさは汚れに感じられます。ヴェルディやワーグナーの作品であれば、あれはもう「建造物」ですので、見上げるほどの大きさの前には埃などあってもなくても関係ない、モーツァルトとなると、その滑らかな表面は埃など寄せ付けない。しかし、ロッシーニの序曲にうっすらと積もった埃は、豊かな歳月の贈り物を感じさせてくれます。軽やかな旋律はクッキリと歯切れ良く、しかし、その旋律を紡いでいく音がやんわりとくたびれて埃っぽい、それは地の目が少々緩んだ極上のベルベットの手触りに似ています。
第一幕、継父であるドン・マニフィコ(ブルーノ・デ・シモーネ)の家で目下婚活に必死の姉妹(幸田浩子、清水華澄)にこき使われているアンジェリーナ(ヴェッセリーナ・カサロヴァ)、今日も今日とて竈の前でじとーっと暗く「昔一人の王様が」と歌っております。きれいに左右対称の舞台セット、敢えて奥行きを消し荒いタッチの壁面を書き割り風に平らに使うことで、絵本のような効果が出ています。そこに登場するのは、物乞いに変装した王子の家庭教師アリドーロ(ギュンター・グロイスベック)、従者に変装したドン・ラミーロ王子(アントニーノ・シラグーザ)、王子に変装した従者のダンディーニ(ロベルト・デ・カンディア)、声の質感に少々ばらつきはありますが、非常にレベルが高いです。姉妹のハイテンションの歌唱(良く声が出ていました)と体育会系の軽やかさ、驢馬男爵マニフィコの絶妙な外し加減とコミカルな演技、ダンディーニは狂言回しよろしく平行移動の客席目線(これが実に上手い)、回りはバカばっかの中、一人端正な歌唱を崩さないアリドーロ(凝ったメイクでマッド・サイエンティスト風)、そして、きれいに粒の揃った男声合唱、よくここまで揃えたものです。
ドン・ラミーロのシラグーザ、楽日ということもあるのでしょうが、のっけから全開、伸びやかな高音をこれ見よがしに披露してくれます。やんごとなき王子様は声の出し惜しみなどなさらないのです。
アンジェリーナのカサロヴァ、強くて暗い声、竈の前の「恨み節」は良く似合いますが、はて、これがシンデレラかというとちょっと・・・。しかし、今回のオケはこの強靱なヒロインに実に細やかに纏ろうのです。忠実なるオケを従えて、カサロヴァ、物語は始まったばかりなのですが、既に女帝の貫禄。
舞踏会に行きたいの、行くが良い、アンジェリーナとアリドーロの二重唱、下から当たる照明がアリドーロの陰を長く上に引き延ばし、ロッシーニのシンデレラには魔法使いは登場しないのですが、ここでちょっと魔法のスパイスが香ります。
舞台は宮殿に移り、こちらもきっちりと左右対称の装置、何かこういうセットって見ていて安心するというか、控えめな色彩も優しい感じです。ここでは婚活姉妹、カンフーもどきの大活躍を見せてくれます。そして、突然現れたヴェールを被った謎の美女、アンジェリーナの衣装はあっと驚く黒、そしてたっぷりの凝ったビーズ。舞台の控えめな色彩の上にドーンと黒を乗せ、左右対称を意識してか立ち位置を前後左右に直線移動させる演出、絵画的にバランスが良くて、黒の使い方としてはお手本としたい巧みな演出です。
第二幕、アンジェリーナが従者を愛していると立ち聞きした偽従者のラミーロ王子、舞い上がって「誓って彼女を捜し出す」、シラグーザ、軽々とハイCを繰り出して客席を湧かせます。拍手に乗ってもう一回の大サービス、明るく伸びる声もお見事なのですが、あの高音をこれでもかと伸ばしに伸ばして全く危なげがないという抜群の安定感、おバカ王子がなぜか凛々しく見えてきます。そして、お役ご免のダンディーニの「しょぼーん」、今回のデ・カンディアは客いじりが上手いので、二重の意味(はい、テノールに全部持って行かれました、残り物のバリトンです、すんません)ですっごくおかしい。
嵐で馬車がひっくり返ったおかげで再会したアンジェリーナと王子、「絡み合った結び目」の六重唱、6人の声、特に歯切れの良い子音の発声がきれいに揃って、ロッシーニならではのミルフィーユ感が良く出ています。
「苦しみと涙のために生まれ」、明るい声でノリノリのシラグーザに対して暗めの声でしっとりと歌い上げるカサロヴァ、ふわりと浮き上がった物語をすっと引き戻す力業、広い音域を駆けめぐりながらも、高音部が尖らず、低音部で裾が乱れない躾の良さ。
ラスト、一同揃ってカメラに向かってハイ、チーズ!良い写真が撮れました。
オケもキャストも最後までスピードを緩めずに走り切りました。ロッシーニの作品は全力で走ってもはぁはぁと息が乱れちゃいけないと思います(ドニゼッティなんかは、はぁはぁした方が色っぽくて楽しいですが)が、それには余力を持てるだけの強靱な技術が必要、今回はそれがしっかりと感じられて、最後まで安定した舞台でした。
カサロヴァとシラグーザという組み合わせ、その声も雰囲気もカチリと噛み合うとは思えなくて、少々(いえ、かなり)疑問があったのですが、終わってみれば、やんちゃ亭主としっかり女房、この二人なら絶対に大丈夫って思える名コンビぶりでした。
こうして二人は、いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ。
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