| 新女大学 |
| 1959年1〜12月「婦人公論」 |
「女性として、どう男性に対するか」という問題が論じられている、ユーモアたっぷりの随筆。
| 感想 |
| とにかく面白い。お気に入りの一冊である。うんと若いときに読んだら、反発を感じていたところもあったかもしれない。有吉さんの母性のとらえ方が良くわかる。 最初のほうの、男性を尊敬せよとか、おだてておけ、みたいな内容は、男性をおちょくっているというか、不真面目な感じがしないでもなかったが、最後の講を読むと、著者のあたたかい思いやりが伝わって来るようである。 未婚で、まだ若かった有吉さんのこの卓見には頭が下がる。ユーモアも抜群である。 |
| あらすじ |
| 第1講 男性を尊敬すべし 「およそ女性に生まれたものは、なんとしても男性を尊敬すべき」である。 現代において女性の地位が向上し、男女平等と言われるようになったのは、男性の経済力が弱まってきたことに最大の原因がある。「世の中がどう変わろうとも、女は男の庇護を受けて太平楽を言っていたいと切望」している著者としては、男に経済力がなくなったからといって、では女性も働こうという考えには歯止めをかけたい。男性をうんとおだてて、いつまでも守ってもらおう。 それには、精一杯お世辞を言って、表面的にはいつも尊敬しよう。すると男性は一層がんばってくれるはずだ。 それに生存競争の激しくなった現代、男性は疲れているので、労わってあげるべきであるが、そう言っては自尊心を傷つけるので、やはり「尊敬」するようにしよう。 第2講 愚かなるを以って本分とすべし 女性は男性より馬鹿である。その証拠に、憲法に戦争放棄を謳いながら、自衛隊を設ける理由など、女性には見当もつかない。それがわかる男性は、実に聡明である。 男性は女性を馬鹿にすることで、自分達の自尊心を豊かに育て上げ、また女性を守ろうとする意欲を沸き立たせているようである。 逆に男性を馬鹿呼ばわりし、こき下ろしていたのでは、男から相手にもされず、自ら不幸を招くようなものだ。 「私は駄目なんだから、だからあなた頑張って下さいと言われて尻込みする男」はいない。「男性たちをして女性の幸福を守らしめるため」には、女性は愚かであることを標榜しよう。 第3講 批判なすべからず 女は批判してはならない。尊敬すべき男性の言葉には、女性たるもの盲従すべきである。イニシャティブは男性にとらせ、女性は従うべきである。 もしそれで失敗したとしても、「ほらごらんなさい」などと、批判してはならない。黙っていれば、失敗に気付いた男性は自らを反省し、彼の失敗を批判しない女性に心から感謝するものである。 女性は喋りだすと、執拗さと非論理性によって、男性を根負けさせるか、圧倒させることができのは周知の事実であり、何も勝つに決まっている戦争をすることはない。 批評は男性的なものらしいから、男性には正当な自己批判ができるはずであり、それに期待しよう。もちろん、女性の自己批判などできるはずがないことは言うまでもない。 第4講 勤倹貯蓄を旨とすべし 著者は、自他共に認める浪費家である。しかし昔の『女大学』にも勤倹貯蓄は「人ノ妻ト成リテハ」と但し書きがあるから良しとしよう。 奥様連は常に御主人の収入が「足りない」とこぼすが、それは家計が赤字になってしまうことでも、貯金ができないことでもなく、自分の欲しいものが十分には買えないという意味である。 女性の欲望は果てしなく、満足することはないから、常に「足りない」のだが、夫たちはそれを知らない。自分の稼ぎが十分でないことを申し訳なく思っているから、ここぞという時に、妻がへそくりから出資してあげるとその感激はたいへんなものである。 例えば、山内一豊の妻を思い出して欲しい。ゆえに「『人ノ妻』は勤倹貯蓄を旨として、事あるときは山内夫人に倣って夫に投資する心がけがなければいけない」のである。 第5講 迷信味わうべし 「女はもともと信仰に向いているのだから、その特性を抑制せず迷信でもなんでも信じる方がいい」ということ。迷信だとわかりきっていることに目くじら立てるのは無意味である。男が迷信を信じるのは可笑しいが、女がそうするのは可笑しくないし、迷信も味わえないような貧相な女には、他人の心がわからない。合理化も良いが、情操の豊かな社会をつくりたいものである。 第6講 酒は飲むべからず 著者は親からの遺伝か、生まれついての酒好きである。そんな訳で数年来、酒場に出入りしてきたが、そこで男性たちの話を聞きかじり、男の嫉妬心が女に向けられた時、どんなひどい中傷をされるかを知り、禁酒することにしてしまった。常識的に、女流作家はルーズだとされているので、著者の場合は仕事に差し支えるようなことはなかったが、他の職業や家庭に入るつもりの女性ならどういうことになるか想像に難くないので、禁酒をすすめるのである。 第7講 選ぶべからず、選ばしむべし 結婚に際し、女性が相手を「選ぶ」などと言うのは、生意気な奴だと思われるのが関の山である。選んだけれど、辞退されたりしたら悲惨なことになってしまう。それに、選んだ者には相手を幸せにする責任と、相手を愛する義務が発生する。 一方、選ばれた者には愛される権利が生まれるのである。ゆえに、「女性はすべからく、男性をして我々を選ばしめるべきで、そのとき私たちの幸福には将来の保証が与えられる」。 ここで、見合いということを考えてみると、男性から意向を切出す遺風が残っているのは何よりである。男性をして選ばせておいた後に、最も良いのを選びとるという女性の特権。これこそ「選ぶべからず、選ばしむべし」の極意である。 第8講 女の敵は女と知るべし ある読者からの投書によると「男性が女性の悪口を言うとき、別の女性が言った言葉を有力な資料にする」とのこと。小説や映画などで「女の敵」と表現されるのは、女性を傷つける多情な男であったものだ。今日では男も女も同等に扱われるようになり、多情な女もいることが判明しているが「男の敵」とは呼ばれないこともあって、「女の敵」=男という発想は廃れている。男性と女性は相惹きあうのが自然であるから、男性は味方なのである。 「女は男を愛したいと常に願っていますから、自分の相手を他の女性に取られては困るので、常々警戒していなければならない」。そんな訳で、女同士には友情がないということにもなってしまう。 面白いことに、女の友だちなんていらないと明言している女性に限って、実は心を許した女友だちを持っていたりする。そして彼女たちは集まると、「女って嫌アねェ」とこぼしあうのであり、「女であること」を共同の敵とすることによって、固い友情を育んでいるのである。 「女が女の友だちを欲しいと思ったら、徹底して同性を嫌うこと」であるが、そんな場合でも「女の敵は女」であることを忘れないでほしい。 第9講 寄らしむべし、知らしむべからず 「寄らしむべし」とは「女と生まれたからには手練手管で男たちを身辺に惹き寄せるべきだ」ということであるが、「知らしむべからず」には深長な意味がある。ひとつは「処女性」の問題と、もうひとつは「精神的な意味で男にとって不可知の女性、神秘性」である。 まず、最初の問題については、自分の責任は自分でとれる強い女性は別にして、普通の弱い女性は、世の風潮に惑わされず、結婚するまでは「処女」であることを守るべきと主張する。 次の「神秘性」であるが、寄ってきた男性を常にそのままの状態にしておくには、彼にとって神秘的な解き明かしがたい部分を残しておくことが必要で、これは妻の場合にも言える。それがなくなると、別のところへ神秘性を求めるようになり、これが浮気である。 では、常に夫にとって謎であるにはどうすれば良いかと言えば簡単なことで、「中庸を失っていればいい」。 例えば、「理性的な面では、あくまで現実的に賢く」、「感情的になるときは滅茶滅茶に感情に走り、筋道たたないことを金切声をあげて喋りまくる」のである。相手が「あんな賢い女が、どうしてこんな無茶を言い出すのか」と首を傾げればしめたものである。 第10講 沈黙を金と心得べし 「沈黙は金なり」という格言があるが、女性にとっては特にその価値が多大なのである。 お喋りな著者に沈黙の価値を語る資格なしと友人は笑う。お喋りというのは天性のもので、「生まれついて無口の人への羨望」といったらない。 「多少バカでも無口の方が、賢く見える」し、「何とかして黙っていたい」と友人は言うが、著者の「沈黙黄金説」はそういう意味ではない。無口な人は、口下手な人が多く、たまに喋ると無神経なことを口走ったりして、慎ましやかなと思えたその人の魅力がぶち壊しになったりするものである。 女性は元来お喋りと天下に認められているから、他人に迷惑がかかる事や、自分の信用を落とす話は避けるにしても、それ以外の気楽な話をたくさん喋って、話のトレーニングをしておこう。そして、「話上手で、話題が豊富で、その話がどれも当りさわりがなく気楽で、陰気な心をひき立てる饒舌」という印象を、夫や恋人に焼付けておくこと。 そしてある時、突然黙り込む、と相手はどうするか。 「キリキリ舞いをして、急に愛情を告白したり、自分の不始末を自分から喋り出したり、あれこれ憶測しては謝ったり、おじぎをしたり」等々、一度やってみて、沈黙の効用の大きさを実感してみてほしい。 私たちは日夜饒舌に励んで、沈黙の価値をますます高めよう。しかし、沈黙の間に発覚したことをめぐって、セキを切ったような金切声で相手を責めては元も子もなくなるので御注意を。 第11講 緩急己れを持すべし 「自分の手綱は自分の手でしっかり握って、あるときは緩やかに、あるときは急いで、事に当り、自分を保持すべき」という意味。 夫婦や男女を考えるとき、その二人の調和が大切である。例えば、力関係も一組の夫婦のなかで様々に変化するが、そこは女の方で調節して、夫が六のときは四と出る、夫が弱くて二しか力の出せないような状態(経済的、精神的、肉体的など)には、妻が頑張って八の力を出して補う。常に両方を足せば十になるような調和を生むための努力は、主として女の方がやるべきと考える。 なぜなら、男より女の方が融通の利く性格であり、「尊敬すべき男性」にそんな調節までさせるのは気の毒である。「時と場所と相手を見て、自分が弱く出てみたり、強腰になってみたり、緩急自在に己れを持することができたら、もう凡中の凡に徹した偉業」と言える。偉業であるから、言うは易く、行うは難しだが、できなくともそうする気でいれば、いつか技術を体得できるのである。 第12講 常に母たるべし これまでは、男性を女性の優位に置くことによって、女性の生活を守り、女だけはどんなことがあってもソンをしないように、傷つかないようにという技術を論じてきた。最終の本講では、技術の根本の精神について述べたい。 この技術を動かすのは「母体」である。 すなわち、女はいつでも自分が母親であることを忘れてはいけない。母親でなくとも、女でさえあれば母性を備えているものである。 母性とは、女の持つ唯一最高の徳性であり、それは事象を認識するよりは抱擁し、判定するよりは許容する。母性には敵がないし、傷つくこともない。 ところで男女にかかわらず人間の持っている徳性を考えると「愛」が最高のものであり、愛が持つ特に尊い性能は「育てる」ということである。 男の愛とか女の愛ではなく、母性の愛といった場合、漠然としているがそれは「好意」ではないだろうか。好意をもって人に対する限り、必ず相手は育つものだと確信しているし、育つ過程で何より邪魔になるのは、意地悪な行為であり、これは母性とは相反するものである。 私達は男性を憎むべきではないし、彼らを意地悪く観察する必要は寸毫もない。私達は、男性を見るときは母性で見る。甘えるときは女性で甘える。愛するには、幸福なときは女性で、不幸なときは母性で愛すべきだと思う。 母性を持たない女は、人を愛する資格はない。女と生まれて、自ら母性を育むことをしなければ、私たち自身に幸福な環境は築かれないのである。 |
| 本文より抜粋 |
*「第1講 男性を尊敬すべし」より*「男性は素晴らしい」「男性は逞しい」「男は強い」「男は偉い」こう言って、心になくてもおだてあげれば、男は頭がいいくせに人もいいので、「ハテナ、僕はすばらしかったかな」「逞しかったかな」「そうだ 僕は強いのだ」「偉いのだ」と思いこむことは万に一つの間違いもないのです。その結果、こんなことを言う女というものは、やはり養ってやらなければならないのだ、守らなければならないのだ、という責任感も必ず芽生えて育つでしょう。 *「第12講 常に母たるべし」より*「男性を尊敬する」と言って、おだてあげて彼らを私たちのいいように育てましょうよ、という言葉も、小意地の悪い言い方だったら、全く意味がなくなるどころか、男性を侮蔑したような嫌な響きを持ちます。しかし母性は決して人を軽蔑しません。女は愚かでいた方が、万事にトクですよという意味も、こずるく立ちまわろうという卑劣な精神だと誤解しないで下さい。母性は常に正々堂々と明るく朗らかなものです。 ・・・・・ 人間というのは、互いに助けあって永遠の幸福を得ようとするのが理想なのですが、現実には国際情勢から、勤め先の同輩同士に到るまで、仲々そううまくはいっていない。それならば、男性と女性、本来的に仲良くし合わなければならない二つの性同士、せめてこれぐらいはわだかまりなく愛しあい、和みたいものだと思います。 |
| 収録書籍*〜*〜* |
| 『新女大学』中央公論社 |
| 参考情報*〜*〜* |
| 「新女大学」映画鑑賞の記録 |
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